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第二話

「さて、着いたぞ。マシュマロウ通りだ」


 噴水がある広場の西側、ホークバレー市民の多くが暮らす平民街へ続く通りに出ると、ハロルドは声をひそめて言った。


「ここはかつてありふれた路地だったが、最近増えてきた菓子屋を目当てに、人が集まるようになったんだ。奴の被害がまだ出ていない新名所はいくつかあるが、ここがそのひとつだ」


 ホークバレーを騒がせている盗賊・ウィーゼルは、同じ場所で連続して犯行に及ぶことは無いという。一度でも被害が出た場所では人々の警戒心が強まることを知っているからだ。


 かといって、ほとぼりが冷めるまでおとなしくしているわけでもない。次なる獲物を求め、人々の警戒が薄く、かつ金を持った人間が集まる狩場へ向かうはずだ——というハロルドの推理のもと、図らずもホークバレーの新名所を巡ることになったジェマは、足早に進む白い制服の後を追いながら周囲をきょろきょろと見回していた。


 なだらかな上り坂が続く通りには、菓子屋の看板がいくつか並んでいる。店舗を構える店の他にも、荷車を利用した屋台も散見され、店によっては行列もできていた。


 煮詰めたジャムの甘い香り、ハーブやスパイスの刺激的な香り、溶け出したバターの芳醇な香り。あらゆる誘惑が、時折吹く初夏の風に混じって路地を通り抜けて行く。昼食が母から貰ったパンだけだったジェマは、道すがら見えるケーキや焼き菓子につい視線を奪われる。


「おい」


 ハロルドの鋭い声が聞こえて、ジェマは慌てて背すじを正す。


 ハロルドがあごで示す方向に視線をやると、シナモンロールを売る屋台の行列に並ぶ女の子が三人、和やかに談笑している様子が見えた。よその町から来た旅行者のようだ。


 そのすぐ後ろに、フード付きの外套をまとった人物が居た。そいつは注意深く周りをうかがいながら、一番手前の女の子の鞄に手を伸ばす。女の子はお喋りに夢中で気付いていない。ジェマは思わず声をあげた。


「こらあーっ!」


「あっ、馬鹿!」


 ハロルドに咎められ、しまったと思ったときには遅かった。ジェマの大声に周囲は一瞬静まり、何事かとざわつき始める。


 フードの人物は慌てて手を引っ込め、ジェマとハロルドのほうを一瞬振り返るや否や、脱兎の如く駆け出した。ジェマとハロルドはすぐに追いかける。


「ご、ごめんなさい。私……!」


「後にしろ。僕が先回りをするから、貴様は奴を見失わないようにしっかり追いかけろ。いいな」


「は、はいっ!」


 ジェマがうなずくと、ハロルドは細い脇道に入って行った。


 突如はじまった追いかけっこに、通りに居た人々は驚いて道を開ける。


 ジェマは「あっ」と声をあげた。高齢の女性が一人、道の真ん中を歩いている。足が悪いのか、取り残されてしまったようだ。逃亡者は構わず突っ込んで行く。このままぶつかって相手が怪我をしようと関係ない、と言わんばかりに。


「おばあちゃん、危ない!」


 ジェマの脳裏に、突き飛ばされ転倒する女性の姿が浮かぶ。


 しかし、その妄想が現実になることはなかった。逃亡者は女性にぶつかる寸前で膝を曲げ、跳躍したのである。そいつは女性の頭上を軽々と飛び越え、音も無く着地した。女性は驚いて尻餅をついたものの、怪我を負うことはなかった。


 間一髪の光景を見ていた人々はどよめき、次の瞬間、それは悲鳴に変わった。着地の瞬間、逃亡者のフードが外れたのである。その下に隠されていたものを見て、人々は口々に叫ぶ。


「獣人だ!」


「こいつ、首輪をしてないぞ!」


「野良獣人だッ! 子どもたちを守れ!」


 黄色い房毛のついた大きな耳、金色の目、荒い息を吐く口から覗く牙。半人半獣の姿をしたそれが獣人という種族だということは、ジェマも知識として知っていたが、実物に会ったのは初めてだった。


 知能が高く、番犬代わりやペットとして飼われることもあるが、野生のものは気性が荒く、好戦的だと聞いている。町の人々にしてみれば、知能の高い肉食動物が町なかに放たれたようなものである。辺りは一瞬にしてパニック状態になった。


「誰か騎士団を呼んで! ここに獣人がいるわ!」赤ん坊を抱いた若い女性が叫ぶ。


「獣人め! またウチの商品に悪さしに来たな!」果物屋の店主が棍棒を持って飛び出してくる。


「なに、凶暴な獣人が暴れてるって? よし俺がやっつけてやる!」勇敢な旅人が、剣を携えて駆けつける。


 人々は獣人を囲み、武器を向けて威嚇する。だが、相手は鋭利な牙と爪を持つ大型肉食獣である。武器を持った者、石を投げつける者、誰もが人垣の一部に甘んじており、先陣を切って闘いを挑む者は居ない。


 一方、獣人もまた、自分の体に先天的に備わった力を使おうとはしなかった。戦うための体を持っているとはいえ、多勢に無勢である。耳を寝かせ、肩をすくませている様子から、怯えているようにも見える。遂に、逃げることも戦うことも諦めたとみえて、獣人はその場にうずくまってしまった。


 捕まえる好機ではあったが、ジェマはためらった。数秒ほど考え、やがて意を決し、ジェマは歩き出す。


 穏やかに人垣をかき分けて、獣人のもとに向かう。「危ないぞ!」と誰かが叫ぶが、彼女を引き戻そうとする者は居ない。獣人に向かって誰かが投げた石が、ジェマの頬をかすめる。


 うずくまっている獣人のそばにしゃがみ込み、ジェマは静かに話しかける。


「君、名前は?」


 石と罵倒の雨が止んだことに気付き、獣人はためらいがちに顔を上げる。石の尖った部分が当たったのだろう。彼の額から一筋、血が垂れていた。


「……オビ」獣人は小さな声で答える。


「オビっていうんだね」


 獣人はこくりとうなずく。


 ジェマは蜂蜜のにおいが染みたハンカチを鞄から取り出して、オビの血を拭いてやる。頭部の傷からは血がたくさん出ているように見えたが、傷口は深くなく、一度拭き取っただけで綺麗になった。


 布が擦れたのが痛かったのか、オビはジェマの手を払いのけた。ジェマは構わず、再びぷつぷつと血がにじみ始めた傷口にハンカチを押し付ける。


「このくらいで痛がるんじゃないの。ゆっくり立って……そう、いい子ね」


 子どもをあやすようにしてオビを立ち上がらせる。オビは訝しげにジェマを見ていたが、暴れる様子はない。ジェマは不安げにこちらを見守る群衆に手を振ってみせた。

「もう大丈夫ですよ、みなさん。この子は私が連れて行きますから!」



「貴様、その顔はどうした」


「えっ、わ、やだ」


 合流したハロルドに指摘され、ジェマは自分の頬に触れてみる。ざらっとした感触があって、かさぶたになった血が指についた。オビに近付いたときに飛んで来た石ですりむいたのだ。


「へへ……大丈夫ですよ。ちょっとすりむいただけです。もう固まってますし」


「そうか。ところで、さっきから貴様の後ろにくっついているそいつはなんだ」


 手を繋いでいたオビがびくっと身をすくませ、ジェマの後ろに隠れる。今は外套は脱いでおり、ジェマの体に巻きつけているしっぽが、驚いた猫みたいにぶわっと膨らんでいた。


「さっき屋台の前でスリをしようとしてた人物です。未遂でしたけど」


「ウィーゼルではなかったか」オビの顔を見て、目当ての人物ではないことを確認したハロルドは淡々と呟く。


「この子の名前はオビというそうです。町の人の話だと、店の商品にいたずらしたり盗み食いしたりしてたみたいですが、賊とは関係無さそうですね」


「なぜそう思う?」ハロルドは目を細め、ジェマを睨む。


 まだ入団試験の受付もしていないのに、面接を受けているような気分だ。心臓が高鳴り、息苦しさを感じる。


「町の人はオビのことを『野良獣人』だと言っていました。もしウィーゼルがオビの仲間なら、彼も獣人ということになりますよね?」


「確かに奴は狼の獣人だが、それで?」


 ハロルドの眉間のしわが深くなる。口の中が乾く感じがして、ジェマは唾を飲み込む。


「えと……本で読んだんですけど、獣人は仲間意識の強い種族だっていうじゃないですか。ウィーゼルがオビの仲間なら、オビを助けに現れてるはず……だと、思います」


「……ふん、まあそんなところだろうな」


 ハロルドは溜息混じりにそう言って視線を外す。ジェマは詰まっていた息を吐き、甘いにおいのする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「普通の獣人相手なら、その考えでもいいだろう。だがウィーゼルは狡猾だ。こいつを助けに現れなかったのは、自分の保身を優先したためかもしれない。仲間を囮に使うなど卑劣極まりないが、奴ならやりかねん」


「違うよ、あの時ウィーゼルは別のところでお仕事してたから居なかっただけだよ」


 ジェマの後ろから、オビが口を挟む。言ってしまってからオビは慌てて口を押さえたが、ハロルドは目ざとく彼の言葉を拾う。


「やはり貴様、ウィーゼルの仲間か」


 碧眼に睨まれて、オビは「ぴゃっ」と鳴いて縮こまる。


「大丈夫、彼は怒ってるわけじゃないよ」ジェマはオビの灰色の髪をぽんぽんと撫でる。「ウィーゼルのこと、知ってるんだね?」


 オビは耳を伏せて視線をそらす。落ち着きなくしっぽを動かし、ちらちらとハロルドを気にしているようだ。


「あの……すみません。オビと二人で話をさせてもらってもいいでしょうか?」


「なに?」


「オビは、ウィーゼルのことを心配してるんだと思います。仲間を捕まえようとしている人が居たら、話しづらいんじゃないかと……」


「ほう、つまり貴様は僕が邪魔者だと言いたいわけか」ハロルドの顔に皮肉めいた笑みが浮かぶ。


「ち、違います! そういうことじゃなくて……その……」


 弁解の言葉を探すジェマを他所に、ハロルドは顎に手を当ててなにか考える素振りを見せ、やがて口を開く。


「……ふん、まあいいだろう。勝手にしろ」


 ハロルドは静かにそれだけ言い残し、踵を返した。ジェマは遠ざかっていく白い制服をポカンと見送るしかなかった。


「え、えっと、じゃあ……お話聞かせてもらえるかな? オビ」


 過ぎてしまったことを気にしてもしかたない。ジェマは気を取り直し、オビに向き直る。


「……わかったよ」オビはそう言って立ち上がると、ジェマの手を取り視線を合わせる。「オビは、ジェマを信じるよ。ジェマはオビのこと、助けてくれたから!」


 今までのオドオドとした調子とはうって変わって、はっきりとした声でオビはそう言った。背すじを伸ばして立つオビの顔は、ジェマの頭一つ分上にあった。ジェマは不覚にもどきっとして、急に恥ずかしくなり、くしゃっと笑みを浮かべた。


「……ありがとう、オビ」

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