第十九話
ハロルドは懐かしい夢を見ていた。
母を亡くした年に戦争が始まり、父は戦いに赴いた。ハロルドと弟のアンディは長兄ギルバートに連れられて疎開先の別荘で過ごすことになった。別荘での生活が始まってしばらくして、兄も戦争へ向かった。弟を頼むぞ、とだけ言い残して。
ハロルドは弟を愛していたし、尊敬する兄から家族のことを託されたことが素直に嬉しかったが、不安が無かったわけではない。
兄は何事もそつなくこなす技量を持ち、知性と力を備えていたが、家を背負うにふさわしい兄に比べ、自分には兄ほどの実力は無いということを、ハロルドは物心付いた頃から勘付いていた。学問も、魔法も、剣術も、狩りも、乗馬も、なにひとつ兄には敵わない。
だが、父や兄にもしものことがあれば、次男である自分がリース家を継がなくてはならない。幸い、戦争が終わった後に父も兄も無事に帰って来たが、ハロルドの胸中は再会を喜ぶ気持ちよりも、重い責任を負わずに済んだ安心感のほうがずっと大きかった。
七番隊という末席とはいえ、ホークバレー騎士団で隊長を務めているという事実は、ハロルドにとって重圧だった。父や兄を頼りにしていたときとは違い、今の自分は組織の期待を背負い、部下を率いる立場にある。
当時わずか十七歳のハロルドが隊長に任じられた異例の決定は、貴族に配慮した幹部の思惑によるものだという噂もあった。その噂が真実であるにしろ、そうでないにしろ、ハロルドにとってはどうでもよかった。
市民に英雄視されるホークバレー騎士団の名を、自分のせいで汚す訳にはいかない。部下の信頼に応えなければならない。誰よりも正しくあらねばならない。間違いは許されない。悪は裁かなければならない。他者に甘えてはいけない。常に誇り高く、強くなければならない。
「君はどれだけ抱え込むつもりなんだ?」
不意に聞こえたその声に、ハロルドは弾かれたように振り返る。声の主の姿は見えない。
過去の光景は暗闇に覆われ、なにも見えなくなった。ただ、自分の姿だけが妙にはっきりと見える。
「そんなに背負い込んで、どうするつもりなのかな?」
暗闇の中に、人型のようにも見える影が蠢いている。影は、茫洋とした金色の光を放つ目玉でハロルドを見ていた。貴様は誰だ、と声をあげようとした瞬間、再び場面が切り替わる。
激しく渦巻く炎の中に、ハロルドは放り出された。街が燃えている。辺りには煙が立ち込め、息をするのもままならない。建物の崩れる音、人々の悲鳴、耳をつんざく獣の咆哮。
肌に感じる熱も、煙のにおいも、夢にしてはやけに現実味を帯びていた。夢だと自覚しているのに、目が覚めることも無い。幻術の類か。さっきの影の仕業だろうか。
足元に人が倒れていた。うう、うう、と途切れ途切れに呻き声を上げる、下級騎士の制服を着た赤毛の少女。ハロルドはまさかと思いながら抱き起こす。
「……パーシー……?」
親しんだ名を呼ぶと、少女の目が薄く開かれた。緋色の目が、恨めしそうにハロルドを見上げる。
「どうして……助けてくれなかったんですか……?」
それだけ擦れた声で呟くと、彼女の体は砂となり、ハロルドの両腕から滑り落ちた。
ハロルドは「ひっ……」と息を引きつらせ、尻餅をつく。掌にはパーシーの体温と衣服の感触が生々しく残っていた。思考を纏める暇も無く、背後で悲鳴があがる。ジェマの声だ。
炎に包まれた街を、ハロルドは縋り付くような思いで走った。熱風に喉が焼ける。何度もむせて咳き込みながら、彼は少女の姿を探した。
干からびてひび割れた噴水の影に、傷付いたジェマの姿があった。その背後に迫る巨大な獣。ジェマはハロルドの姿に気付くと顔を上げ、ほっとしたように表情を綻ばせた。彼女の頭上に、鉤爪が振り下ろされる。
「やめろ!」
ハロルドは走りながら手を伸ばし、叫んだ。だが、その声は獣の唸り声にかき消され、ハロルドの指先が彼女に届くことは無かった。
獣の爪に弾き飛ばされたジェマの体が、目の前に落下する。ハロルドが触れようとすると、その体もパーシー同様、砂となって消えた。
「うあ、あ……あ……」
呆然と、震える手を見つめる。なにも守れなかった、なにも掴めなかったその手を握り締め、ハロルドは咆哮を上げる獣を睨みつける。
「貴様あああああああッ!!」
ハロルドは怒りに身を任せ突っ込んで行く。刀身に稲妻を纏ったレイピアで獣の胸を貫くと、獣は断末魔をあげる間も無く体を破裂させ、息絶えた。
ハロルドは獣のような咆哮を上げながら、焦げたにおいを放つ亡骸に、何度も刃を突き立てる。そうしてもどうにもならないことはわかっていた。それでもいい。頬を伝う液体は涙なのか、返り血なのか。そんなことはどうでもいい。全て壊してしまいたい。壊せば抜けられるのか、この悪夢から。
「結局、誰も居なくなってしまったね」
その無機質な声に、ハロルドは振り返る。輝きを失いかけた目に、憎悪の炎を燃やしながら。
「貴様……」
「自分の姿を見てみるといい」
言われるまま、ハロルドは足元の血溜まりに視線を落とす。赤黒い鏡面に映るのは見慣れた自分の姿ではなく、皮膚をかさぶたのような鱗で覆われた、人とも獣ともつかない異形の怪物だった。刃を振り下ろし続けていたはずの右手にレイピアは無く、血に染まった黒い鉤爪がぬらりと光っていた。
「どうやら君にも適性があるようだ」
淡々とした声色で、影がハロルドの頬に触れる。触るな、と叫ぼうとした口から発せられたのは、寒気がするような鳴き声。
「おいで。もう……ら……て……」
影がなにか言っている。その言葉も最早理解出来ない。曇っていく意識と反比例するかのように、影の姿は鮮明になっていく。ハロルドの目が捉えたのは、嘲笑を浮かべるサディアスの姿だった。
「うわああああああああッ!」
叫び声と共に、ハロルドは飛び起きた。
心臓が脈打つ音が頭に響く。寝ている間にかいた汗で、寝巻きが肌に張り付いていた。肩で息をしながら両手を見て、頬を触り、布団を捲って足を見る。戦闘や訓練で負った古傷が残る、見慣れた自分の体がそこにあるのを確認し、ハロルドは長い溜息を吐いた。
辺りは暗かったが、窓から差し込む月光が青白く室内を照らし出していた。その部屋には清潔感のあるベッドが整然と並んでいた。ホークバレー騎士団に備えられた病室である。
医務室の隣に併設されているこの部屋は、本来病人や治療待ちの重傷者が体を休める場所なのだが、深刻な怪我を負うような任務が無い昨今においては、利用されることはほとんど無い。お陰で、悪夢にうなされて叫んでしまうなどという醜態を誰かに見られずに済んだ。ハロルドは胸を撫で下ろす。
「ハロルド様ッ! どうされましたかッ!」
不意に聞こえたその声に、ハロルドは体を強張らせた。
慌しい足音と共に病室に飛び込んできたのはパーシーだった。少し遅れて駆けつけたジェマが、心配そうな顔をしてハロルドに歩み寄る。
「目が覚めたんですね、よかった……ずっと眠ったままうなされてたから、心配したんですよ」
言葉を失ったままパーシーとジェマを交互に見つめるハロルド。ジェマは訝しげに彼の顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「いや……なんでもない」ハロルドはそう言って、ジェマから目を逸らす。
「ジェマ! お前が付いていながら、ハロルド様をこんな目に遭わせるなんてどういうことだ!」
「うーん、このやり取り何回目ですっけ?」
パーシーに胸倉を掴まれカクカク揺さ振られながら、ジェマはされるがままになっていた。
「パーシー、僕は大丈夫だ。その辺にしてやれ」
ハロルドになだめられ、パーシーは渋々ジェマを解放する。
悪夢を見た影響だろうか。頭が鈍く痛む。そのことを察したジェマに横になるように言われたが、ハロルドはあくまで気丈に振舞う。
「貴様はなんともないのか」
「え? ええ、私は元気です」ハロルドに視線を向けられたジェマは、きょとんとした顔で答える。
「ウィーゼルはどうなった?」
「今は留置所でおとなしくしているそうです。検査の結果では、力が暴走することも無いだろうって」
「そうか……」
三番隊を襲った疑いのあるウィーゼルを騎士団が処分しないことには疑問はあるが、疑わしきは罰せずということなのだろう。死者も出ていないし、おとなしく牢に入っているのなら、処分を急ぐ必要も無い。
「ウィーゼルから聞いた話、上に報告したほうがいいでしょうか」
「まだ報告していなかったのか?」
「はい。一応報告は直属の上司にすることになってるので、ハロルドが起きるまで待ってたほうがいいと思って」
ハロルドは内心ほっとする。考えたくはないが、万が一サディアスが例の魔術師と同一人物だとしたら、報告を上げるのはまずい。
三番隊が調査を担当している以上、報告した内容はサディアスの耳にも入ることになる。証拠を隠されるだけならまだしも、最悪その場で情報を共有した全員が消されることになるかもしれない。
「そのことは、後で僕から団長へ報告しておく。貴様は部屋へ戻れ」
「わかりました」ジェマはうなずく。「あ、そうだ。もうひとつ気になることがあって」
「すまない、後にしてもらえないか」ハロルドは眉間を押さえ、ジェマの言葉を遮る。
頭痛が激しくなって来た。ウィーゼルとやり合った時に魔力を使い過ぎたせいだろう。ずっと眠っていたとはいえ、悪夢のせいで充分に休息が取れなかったようだ。枯渇した魔力を回復させろと体が訴えている。酷い眠気に意識が飛ぶ前に、彼女らを退室させなければ。
「どうかされたんですか? どこか痛むのですか?」パーシーが心配そうに声をかける。
「……いや、なんでもない」答えるハロルドの声に、僅かにトゲが混じる。「悪いが、しばらく一人にしてくれ」
ジェマとパーシーは顔を見合わせ、わずかにためらいを見せた後、病室の出入り口へと足を向けた。
「あ、そうだ」立ち去り際、パーシーが振り返る。「お食事はどうされます? なにか持って来ましょうか?」
ハロルドは首を振る。食欲が無いということを気の利いた言葉で伝えたかったが、頭が回らない。
「そうだ、食欲が無いなら、なにか食べやすいものを作ってきますよ。この間のカンポーは失敗しましたけど、次は上手くやりますから……」
それが何気ない気遣いだということは、ハロルドにもわかっていた。わざとらしいくらい明るい口調も、彼女なりにハロルドを励まそうとしたつもりなのだろう。
本当は、礼のひとつでも言ってやりたかった。『気遣ってくれてありがとう。僕は大丈夫だ』と。
「余計なことはするな。気遣いは無用だ」
ハロルドの口から出た言葉は、冷酷な刃となってパーシーの胸を貫いた。呆然とするパーシーの顔を見て、ハロルドの胸中に浮かんだのは苛立ちだった。
「いつまでそこに居るつもりだ。出て行けと言ったはずだが?」
「は、はいっ! 失礼しますッ!」
パーシーは我に返ると慌てた様子で敬礼し、ジェマの手を引っ張ってその場を後にした。
扉が閉められると同時に、ハロルドはベッドに仰向けに倒れ込む。そしてそのまま深い眠りへと落ちた。