第十二話
ジェマに割り当てられた部屋は居住棟の一番端にあり、怪物の襲撃による破壊からは免れていた。
管理人から預かった鍵を鍵穴に差し込み、扉を開ける。縦長の長方形の窓から差し込む光に照らし出された部屋には、小さな机と椅子、粗末なベッドがそれぞれ二つずつ備えられていた。
長いこと空き部屋だったと聞いていたが、家具や床に埃は積もっておらず、シーツや掛け布団からは日に干したにおいが仄かに香っていた。ジェマは持っていた荷物をベッドの上に放り出す。
「ぐえっ」
掛け布団の下からくぐもった声が聞こえ、ジェマはびくっと身をすくませた。それと同時に布団の下から姿を見せた人物を見て、ジェマは更に驚く。
「先輩の上に荷物を放り出すとはいい度胸じゃないか、新人」殺気立った目をジェマに向けて、パーシーは低い声でそう言った。
「あっ、ご、ごめんなさい! まさか人が居るとは思わなくて」
「言い訳なんて聞きたくないよ。で、どうだったの? ハロルド様との『でえと』は? さぞかし楽しかったんでしょうねえええ」
「な、なんでそのことを……」ジェマは動揺する。別にやましいことはなにも無いのだが。
「ハロルド様の使用人から聞いたんだよ。マシュマロウ市場に買出しに行ったら、君とハロルド様が仲むつまじく菓子屋に入って行ったって!」
なんだか話がこじれてしまっているようだ。騎士団長の兄に誘われた、などと正直に言ったところで、火に油を注ぐだけである。どう説明したものかと逡巡しているジェマの顔面に、パーシーが投げつけた枕が激突する。
「汚らわしいメス猫め! 出てけ!」
パーシーの剣幕に、ジェマは思わず部屋を飛び出した。どうやら体調はすっかり回復したようである。
扉を閉めて溜息を吐いた後、はたと思い至る。待てよ、ここは私の部屋じゃないか。なんで私が追い出されなきゃいけないんだ? そもそも、何故パーシーが私の部屋で寝ていたんだ?
「……あの、パーシー、ここ私の部屋なんですけど」扉を盾にして飛んで来る物を警戒しながら、ジェマは部屋の中のパーシーに声をかける。
「そんなこと知ってるよ。俺の部屋が壊れて使えないから、管理人にこの部屋を使えって言われたんだよ。掃除までさせられたんだぞ、信じられるか!」
ぶすっと口を尖らせながらパーシーは答える。
「女の子同士だからちょうどいいでしょ、じゃないよ。こんなのと同室になるくらいなら豚小屋のほうがマシだ」
「ああ、家畜小屋って案外居心地いいですよね」
「嫌味で言ってんだよ。馬鹿かアンタ」
呆れたように溜息を吐くパーシーからは攻撃する意志を感じなかったので、ジェマはそっと部屋に足を踏み入れる。
「まあ、同じ部屋で寝泊りするんですから、仲良くしましょうよ」
「フン、アンタと仲良くするなんてゴメンだね」
「改めまして、私はベリーコイド地方のウッドペッカー村から来たジェマと言います」
「聞いてないよ。自己紹介なんてしないからな」ぺこりとおじぎをするジェマに若干たじろぎつつ、パーシーはそっぽを向く。
「よろしくお願いしますね、パーシー先輩」
『先輩』。その単語を聞いた瞬間、パーシーの肩がぴくっと震えた。彼女はゆっくりと振り返り、細めた目をジェマに向ける。その頬は心なしか紅潮しているように見える。
「……んん、ちょっと聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「ふつつか者ですが、ご指導のほどよろしくお願いします。パーシー先輩」ジェマはパーシーの反応が面白くて、『先輩』の部分をやや強調して言った。
「ふ、ふふん、そこまで言うんなら、面倒見てやらんこともないよ」頬が緩むのを耐えているのか、パーシーは妙な表情を浮かべながら鼻を鳴らす。
後に七番隊のメンバーから聞いた話によると、パーシーは七番隊では一番の下っ端で、後輩の面倒を見ることに密かな憧れを抱いていたらしい。
試験のときに見せた負けず嫌いな面も、後輩に負けたくないという気持ちの表れだったのかもしれない。
部屋での騒動の後、ジェマは留置所に向かった。
ジェフリーからの頼みだということもあり、オビとの面会はすんなり許された。
オビは他の獣人たちとは隔離された、猛獣を捕らえるような厳つい檻の中で、退屈そうに天井を眺めていた。檻は真新しく、オビを捕らえるためだけに用意されたかのようだった。
においと話し声でジェマが来ることを察したのか、オビはしっぽをちぎれんばかりに振って待っていた。
「ジェマー! 待ってたよー!」
「元気そうだね、オビ。ごはんは食べた?」
「お肉いっぱいもらったよ! おいしかったよ!」
「そうかそうか」
檻の間から伸ばされる手をさすってやると、オビはゴロゴロと喉を鳴らしてしっぽを振る。オビの手をさすりながら、ジェマはさてなにを話そうかと考える。
オビは彼女の手を、興味深そうにふんふんと嗅ぐ。そして目を輝かせながら、条件反射的に垂らしたよだれもそのままに、ジェマの顔を覗き込む。
「……おやつ? おやつ食べたね?」
「あー……ごめん」菓子のにおいが残っていたのだろう。念入りに洗ったつもりだったが、オビの嗅覚はごまかせなかったようだ。ジェマは素直に詫びる。「お土産は買い損ねちゃったんだ。ほら、今私一文無しだし」
期待する目を向けていたオビがぺたんと耳としっぽを垂らすのを見て、いたたまれない気持ちになる。
そう、今彼女は一文無しなのである。試験直後の休日が貰えたのは有り難いことだが、できれば早く仕事を貰って報酬を得たいという気持ちもあった。まだ墓場への不法侵入の罰金も払っていない。そちらはおそらく税金と一緒に給料から天引きされることになるのだろう。
ウィーゼルが捕らえられたときに所持品も没収されたが、やはりジェマの財布は無かった。どこかに落としたのなら、帰って来る見込みは薄い。
「ウィーゼルがジェマの財布盗んだからだね……」オビは恨めしそうに、石の床をかりかりと引っ掻く。
「えっと……そうだ。なにか足りないものはない? ごはんの量が少ないとか、居心地が悪いとか、なにかあったら私から管理の人に伝えておくけど」
ウィーゼルに八つ当たりすべくオビが床を破壊する前に、ジェマは慌てて話題を変えた。
オビはおすわりの姿勢でしゃがみこみ、考えるように虚空を見渡した後、ぽつりと呟いた。
「……おばあちゃんに会いたい」
「おばあちゃん?」
オビはうなずく。
「オビのおばあちゃん。ミストピナっていう寒いところに住んでるの。オビもそこから来たんだよ」
「ミストピナ?」ジェマは訝しげに聞き返す。そんな地名は聞いたことがない。「そこがオビの故郷なの?」
「そうだよ」
オビは遠くを見るような目をして答えた。
「オビはおばあちゃんといっしょにそこに住んでたんだよ。でも、あそこは寂しいところだった。オビは友達が欲しくて、ちょっと出かけるだけのつもりでミストピナを離れたんだ。そしたら、帰り道がわからなくなっちゃった」
「それで、迷ってるうちにこの街に辿り着いたわけだ」
オビは故郷を思い出して寂しくなったのか、耳としっぽを伏せてうつむいている。
「オビはお家に帰りたいんだね」
ジェマの問いかけに、オビはうなずく。金色の目は潤み、今にも泣き出しそうである。
「おばあちゃんに会いたいよ……」か細い声で、オビは呟いた。
オビの冷たい手をさすりながら、ジェマは彼にかけるべき言葉を考える。牢屋にはしばらくオビの嗚咽が響き、収容されている獣人たちのひそひそ声が聞こえていた。
「ねえ、オビ。泣かないで」ポロポロ涙を零すオビに、ジェマは優しく語りかける。「オビが家族に会えるように、私も手伝うよ。ここには図書館もあるし、ミストピナへの行き方も見付かるかもしれない」
「本当?」オビは赤く腫らした目を向け、鼻をすする。
「帰り道がわかるまで、私がオビの家族の代わりになる。それじゃ、ダメかな?」
「ダメじゃないよ!」オビはごしごしと目をこすり、ぱあっと笑った。「オビ、ジェマのこと好きだよ。おばあちゃんと同じくらい、大好き!」
「そうか。よかった」
オビの瞳を見返し、ジェマも笑った。
「迷子にでもなったのかと思ったよ。どこに行ってたんだ?」
消灯時間間際に部屋に戻ったジェマに、私服姿のパーシーは苛立ちも露な視線を送る。
「心配かけてすみません。ちょっと図書館で調べ物を」
「いや、べつに心配はしてないけど」
「えー、心配してくれないんですか?」ジェマはわざとらしく唇を尖らせる。
「子どもじゃあるまいし、夜道くらい一人でも平気だろ。で、調べ物って?」
オビと別れた後、ジェマは騎士団の食堂で夕食をとり、その足で図書館を訪れていた。地理や地質に関する本を一通り調べてみたが、オビの故郷だというミストピナについての記述を見付けることはできなかった。
「ミストピナって地名、パーシーは聞いたことありますか?」
「は? なにそれ。いや待てよ……」
パーシーは眉をひそめたものの、なにか思い出したのか顎に手を当てて考え込む。
「なんか、昔聞いたことがあるような……あ、そうだ。小さい頃、大人たちが祭で歌ってた歌の歌詞にそんな単語があったかも」
パーシーの話によると、それはタロンフォードに伝わる豊漁を祈る歌だという。当時のパーシーは幼く、歌詞も古い言葉が使われていたので、正確な意味はわからないとのことだった。
「タロンフォード地方と関係があるんですかね……?」
「知らないよ。どうしたの? せっかく騎士団に入ったのに、民俗学者にでもなるつもり?」
「いえ、そういうわけじゃないですよ。ちょっと気になって」
民謡に出てくるのだとしたら、実在する地名ではなく架空のものなのだろうか。あるいは、タロンフォード周辺のどこかの地域の古い呼び名なのかもしれない。今度図書館に行くときは、民俗や歴史の棚を探してみよう。とジェマは思った。
「ふーん」パーシーは特に気にすることもなく、腰に提げていた剣を机に置くと、ベッドに潜り込んだ。「まあどうでもいいけど、君も早く寝なよ。明日から勤務なんだろ」
「あ、はい。そうですね」
ジェマは寝巻きに着替えてから部屋の照明を消し、布団に入る。パーシーのベッドからは早くも寝息が聞こえていた。ジェマはしばらく窓の外の星空を眺めていたが、次第にうとうととし始め、いつの間にか眠りに落ちていた。