第十話
ハロルドが目を覚ましたときには、既に正午を回っていた。家に着いてから酷い眠気に襲われたところまでは覚えているのだが、ベッドに入るまでの記憶が無い。自覚は無かったが、余程疲れていたのだろう。
部屋を出た瞬間、ハロルドは眉をしかめる。藻が湧いた水槽のような、青臭いんだか泥臭いんだか判然としないにおいが辺りに漂っていた。間違ってもハーブティーとか薬膳とかそういった類のものではない。ハロルドは階段を降り、においの源泉である厨房を覗き込む。
「おい、なにをやってるんだ」
「ハロルド様!」
嬉しそうな声をあげて振り返ったその顔は見慣れたものだった。
「パーシー、なぜ貴様がここに……」
「すみませんハロルド。騒がしかったでしょうか」おずおずと口を開いたのはジェマだ。「兵舎に運ぶ荷物を取りに戻ると言ったら、彼がどうしてもと言うので、お連れしたのですが……」
「ハロルド様の寝込みを襲おうなんて許さんぞ!」
「襲いませんよ……」
いつの間にかパーシーと打ち解けた様子のジェマに、ハロルドは感心する。
「では、試験には合格したのだな」
「ええ、なんとか」
二人揃って厨房で料理をしている姿は実に微笑ましかった。鍋の中身が、ぐちょぐちょと嫌な音を立てて沸騰する得体の知れない液体でなければ、の話だが。
「それで、その鍋の中身はなんだ? 誰かを毒殺でもするのか?」
「これはですね!」パーシーが割って入る。「東の大陸に伝わる『カンポー』というものです! ハロルド様がお倒れになったと聞いて居ても立ってもいられず、滋養強壮に効く薬草を片っ端からぶちこんでやりました!」
言いながら、パーシーは青緑色のどろどろした液体を器によそい、ハロルドに差し出す。差し出す、というよりは、押し付ける、と言ったほうが的確である。
『カンポー』とは恐らく『漢方』のことだろう。ハロルドも東の文化に詳しいわけではないが、妙な発音をしているところからして、パーシーが盛大な勘違いをしていることは察しがつく。
「どうぞ!」
「……これは味見はしたのか?」
「してないです!」
ちらっとジェマのほうを見る。
「おい、なぜ逃げる」
「わ、私は荷物を取りに来ただけなので……」そう言うと、ジェマはそそくさと退散してしまった。
あのお人好しが他人を見捨てて逃げ出すくらいなのだから、相当やばい代物に違いない。パーシーの純真な眼差しが憎らしい。
ハロルドは回避する口実を探すため思考を巡らせ、団長に頼まれた用件を思い出す。明日以降で構わないと言われたが、この場を切り抜けるには絶好の理由となるだろう。
「貴様の厚意はありがたく受け取ろう。だが今はダメだ。僕はこれから済まさなければならない用事がある。すぐに出なければならない」
「そうなのですか! でも空腹では仕事に身が入らないでしょう。一口だけでも!」
「僕が猫舌なのは知っているだろう」
「初耳です!」
「ともかく急いでいるから、悪いがそれは片付けておいてくれ。じゃあ行って来る」
ハロルドはなおも追い縋るパーシーを振り切って自室に戻り、素早く着替えて、逃げ出すように自宅を後にした。
「で、ここに避難してきたわけか。モテる男はつらいねえ」
けらけら笑う団長に嘆息しつつ、ハロルドは切り出す。
「ウィーゼルの意識はもう戻っていると聞きました。団長、渡したい物とは?」
「ああ、ちょっと待ってね」
団長はごそごそと引き出しをまさぐり、首飾りを取り出す。銀色の円盤にはめ込まれた石はただの宝石ではなく、魔術の込められた魔石だった。
「呪い除けのお守りだ。持って行きなさい。怪物化は解けたとはいえ、まだ完全に処置が済んだわけではないからね」
首飾りを受け取り、ハロルドは一礼して団長室を後にする。
ウィーゼルが捕らえられているのは留置所の地下牢だ。重犯罪者や凶暴な野良獣人が収容される場所で、それぞれの牢は独房になっている。囚人同士が争ったり、共謀して脱獄したりすることを防ぐためだ。
ちなみに、オビが預けられているのは上の階にある牢屋である。主人とはぐれた獣人や、比較的おとなしい野良獣人はそこに預けられるのだ。
看守の案内でウィーゼルの独房に向かうハロルドに、囚人たちの憎悪に満ちた罵声がかけられる。物騒な言葉の数々に案内役の看守は不安げな顔をしていたが、ハロルドにとっては単なる雑音にすぎない。
「例の獣人はこちらです」『044』と数字が振られた独房の前で、看守は足を止める。「首輪を取り付けているのでおとなしくしていますが、くれぐれもお気を付けて。あと、檻には触れないようにしてください」
「わかった」ハロルドは看守から鍵を受け取り、独房の扉を開く。
手前に備えられた蝋燭の明かりが、無機質な部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。
圧迫感のある低い天井には換気のための穴が開いているが、金網で塞がれている。ハロルドが配属されたばかりの頃、小さくなる魔法を使ってその穴から脱走を計った囚人が居た。その囚人は通気口に住み着いていたネズミに食い殺されたという。金網は、そういったことが今後起こらないよう設置されたものだった。
目の前にある鉄格子が、囚人を捕らえる檻である。その中にうずくまっている人影に、ハロルドは声をかける。
「気分はどうだ。ウィーゼル」
「最高だよ」ウィーゼルは皮肉混じりに笑う。その首には黒いチョーカーのようなものが巻かれていた。獣人を制御するための首輪である。「俺に会うために、臭くて憂鬱な地下にまで来てくれるなんてなあ。会いたかったぜ、隊長さんよ」
「貴様に呪いをかけた魔術師について教えろ」
単刀直入に問うと、ウィーゼルの耳がぴくっと動いた。だが、ウィーゼルは相変わらずのニヤニヤ顔ではぐらかす。
「さァ、なんのことかねえ」
「とぼけても貴様に得は無いぞ」
「答えたって、ここから出られるわけじゃねェんだろ?」
お見通しなんだよ、と言わんばかりに、ウィーゼルは鉄格子のギリギリまで顔を近付けた。生温い息が顔にかかる。
「俺から手掛かりを引き出したいんなら、取引しようや。アンタが俺の身の安全を保障してくれるってんなら、教えてやってもいいぜ」
「取引だと? バカバカしい……」
「おやおや? そんなこと言っていいのかなァ? 手掛かりが掴めなきゃ、また同じ災難がこの街に降りかかるかもしれないんだぜ?」
ハロルドは奥歯を噛む。
「狼族の追跡能力の高さは知っているだろう? ここから出してくれれば、俺の鼻を貸してやってもいいんだぜ」
「……そんな都合のいい話を信じると思うのか?」
「それはアンタ次第だな」
ウィーゼルはそう言って耳を伏せ、目を細める。
「口を割る気が無いのなら、貴様にもう用は無い。処分される日までせいぜいおとなしくしてるんだな」
「嫌だね。誰がてめェらになんか殺されてやるかよ」
不意に、ウィーゼルが右手を上げた。ハロルドは腰に提げたレイピアに手をかけ、身構える。ウィーゼルはにやりと笑って、鉄格子の一本を掴んだ。
目が眩むような閃光と、バチバチと火花が弾ける音が辺りを満たす。囚人の脱走を防ぐために鉄格子に仕掛けられた雷魔法が、ウィーゼルが触れたことで作動したのだ。ウィーゼルの体が引きつり、びくびくと痙攣する。
「な、なにを……なにをやってるんだ!」
ハロルドは咄嗟に手を伸ばし、鉄格子を掴む。電流を流す鉄棒に己の魔力を干渉させ、電気の流れを止める。
ウィーゼルの手が鉄棒から離れ、糸が切れた人形のようにその場に倒れた。ハロルドは独房の外で待機していた看守を呼び、医療班を寄越すよう命じてから、檻を開けた。ウィーゼルは動かない。
「ウィーゼル! どういうつもりだ! 目を開けろ!」
「……くっくっく……嬉しいねェ……」
かすかに声が聞こえ、次の瞬間、ハロルドは壁に叩きつけられていた。
なにが起こったのかわからないまま開いた目に、巨大な腕が映る。火災現場に居た怪物と同じ形の腕だ。だがその腕が繋がっている体は、元のウィーゼルのままだった。
高圧電流を浴びたはずのウィーゼルは、多少ふらついてはいるものの、何事もなかったかのようにニヤニヤと笑っていた。
「心配してくれてありがとうよ。隊長さん。痛み入るぜ」
完全に怪物化していたときとは違い、ウィーゼルは流暢に喋っていた。巨大化した腕でハロルドを人形のように掴み、挑発するように舌を出して見せる。
「この俺がおとなしく死んでやると思ったか? バァカめ!」
「その力……まさか使いこなしていたとはな……ぐっ……」
ウィーゼルの手に力が込められる。締め付けられ、呼吸ができずに意識が遠のいたハロルドの手からレイピアが落ちる。ウィーゼルは愉快そうに笑いながら手を緩める。手の中で弄ばれ、ハロルドは咳き込みながらウィーゼルを睨む。
「魔法が使えるのは人間や角人間だけじゃあねェんだよ。ま、自分でもまさか上手くいくとは思わなかったが」
「たいした……奴だ……」
ハロルドは素直に感心していた。一度は呪いに飲まれながらも、その力を自分のものにできたのは、恐らくはウィーゼルの貪欲さの成せる業なのだろう。怒りも憎しみも、呪いすらも全て噛み砕き、呑み込む貪欲さ。それを素直に羨ましいと思う。
「だが、甘いな」
ハロルドの顔に浮かんだ笑みを見て、ウィーゼルが訝しげに耳を立て、そしてはっとしたように目を見開いた。だが、遅い。
ハロルドは最大出力で雷撃を放った。閃光が弾け、ウィーゼルの胴体に襲い掛かる。
「あばばばばば!」
「……どうやら、全く効かないというわけでもないらしいな」ハロルドはウィーゼルの手から脱出してレイピアを拾い、起き上がろうとしたウィーゼルの喉に切っ先を突きつける。「捨て身の作戦で僕を欺こうとした度胸は褒めてやろう。最期に言い残すことはあるか?」
「ま、待て! 待ってくれ! 俺を殺したら手掛かりが無くなるんだろ? それは困るだろ?」
ウィーゼルは仰向けに転がって腹を見せるが、対するハロルドは冷徹に言い放つ。
「貴様が使えなくとも、鼻の利く獣人ならば他にも当てはある。魔術師のにおいを追えなくとも、貴様のにおいを辿れば済む話だ」
嘘だ。ウィーゼルのにおいを辿ったところで、魔術師に辿り着ける保障は無い。確実な情報を得るためには、犯人と接触したであろうウィーゼルから話を聞く必要がある。だが、まともな交渉が出来ない以上、嘘も暴力も致し方ないというのがハロルドの考えだった。
「わかった! わかったよ! 協力すりゃあいいんだろ!」
ウィーゼルは半ばやけくそに喚く。どうやら焦っているのは演技ではないらしい。試しに薄く切ってみた皮膚も、電流を受けて縮れた毛も、再生する様子はなかった。回復能力まではものにできなかったようだ。
「では話してもらおうか。ただし、おかしな動きをしたら命は無いと思え」
「アンタそれでも正義の味方かよ……」元の姿に戻って耳としっぽを垂らし、ウィーゼルはうんざりしたような溜息を吐いた。
「ふん」ハロルドは不敵な笑みを浮かべて答える。「正義のためなら、僕は悪にだってなってやるさ」