七品目~恋のショートケーキ~
カラン────。
涼やかなベルの音が洋菓子店を包み込む。いらっしゃいませ、笑顔と共にお決まりの挨拶をして、レジから顔を離すと片手を上げて どうも、と笑う 藍色のスーツの男性と目が合った。
「いらっしゃいませ!」
嬉しくなってまたお決まりの挨拶をしてしまい、男性にくすりと笑われてしまう。かぁっと顔に熱が集まる。浮かれた自分が恥ずかしくて、顔を俯かせながらメニュー表を差し出すと、彼はすっと受け取って ありがとう、とあの心地よい、優しげなテノールの声で言ってくれた。
『ご注文が決まりましたら、お席のベルをお鳴らし下さい。』
壁際の席へと鞄を置いた彼に一礼して、私はまたレジへと意識を戻した。
じゃないと、彼のことばかり考えてしまう自分に嫌気がさしそうだったから。
* * *
これはつい二日前の事だ。
その日はいつも以上にお客様が来なくてぼんやり過ごしていたが、午後からようちゃんが様子を見に来てくれていた。光くんは最近通い始めた保育園で預かって貰っているようで、私達は時間を忘れてお喋りに花を咲かせていた。
「葵ちゃん、気になる人とかいないの?」
赤ちゃんいいね、と言った私にようちゃんがそう言ったのが始まりだった。ショートケーキのいちごを口に入れながら、ようちゃんがふと私に投げかけた質問は予想外なもので、少し取り乱してしまう。気になる人とは……、どんな人の事なのかしら。恋をした事がない私にはよくわからなくて苦笑いしていたら、ようちゃんが矢継ぎ早に私に質問を投げかけた。
「つい考えちゃうとか、会えたら嬉しいとか、そういう人よ。居ないの?」
つい考えちゃう人……?
風に乗って揺れる木々の音を聞きながら目を閉じてみると、浮かぶのはただあの人だけで、軽く動揺が走る。
会えたら嬉しいのは、常連さんみんなに共通するけど、つい頭に浮かぶのはいつもあの人だけ。
「一人だけ、浮かぶ人は居るけど、どうなのかな。」
「じゃあ、その人の事を考えると胸が苦しくならない?その人と居ると他の人とは違う思いを感じない?」
「……久々に会えたら嬉しかった、かな。あと、何か息が苦しくなるの。」
飲んでいた紅茶をソーサーに置いて、ようちゃんがじっと私の眼を見つめる。彼女の少し明るい茶色の瞳が私を射抜く。
そんな彼女の前で制服のボタンを指で弄りながら彼の事を思い出して、それからもう一度目を閉じてよく考える。
シルバーフレームの眼鏡が似合う彼、ブラックコーヒーを飲む横顔、まっすぐに伸びた後ろ姿。思い出す度に鼓動は乱れて、息苦しくなって、私は堪らずようちゃんを見た。ようちゃんの唇が弧を描く。
「それが恋だよ、葵ちゃん。」
こ、い…………。
転がすように口の中で言葉にしてみると、気恥ずかしくて思わず手で顔を覆ってしまった。ぽんぽん、とようちゃんが私の頭を撫でる。
子ども扱いしないで、と上目遣いで言うとまた頭を撫でられた。
恋というものは、何て甘く苦しいものだろう。思えば私はあの人のことを何も知らない、会社は分かるけれど好物も年齢も、名前すら私は知らないのだ。
それなのに、勝手に恋をして思いを募らせて。
視界がゆらりと揺らぐ。ようちゃん、と呼ぶと彼女は昔みたいに肘に顔を置いて、なあに、と優しく笑っていてくれた。
「私、まず名前を聞くよ。それでちょっとずつでもお話するようにします。」
ようちゃんが柔らかな声で頑張れと言ってくれた。小首を傾げるようちゃんに私はテーブル越しに抱き着く。動いた拍子にテーブルが少し大きな音を出してしまい、笑ったままの彼女が私を宥めた。その様子にまた二人してくすくす笑いながら、その日はお開きにした。
お持ち帰りのケーキを渡し、ようちゃんを外まで見送ってからはテーブルの片付けに没頭した。自覚してから、何かしていないとあの人の事ばかり考えてしまう事に気がついてしまった。ティーセットやお皿を片付け棚に置いて、私は小さく息を吐く。そして今だけは、この穏やかな昼下がりだけは彼の事を考えないようにしようと思いながら、私は一心に机を拭いた。
大きな窓から暖かな風が舞い込む。ふわりとはためくカーテンが どんな小さな事にでも大きく反応してしまう今の私の心のようで、思わずくすりと笑みが零れた。