三品目~雨色のスフレ(2)~
大雨の中、幽かに濁った鐘の音が不意に聞こえた。夕方5時を告げるその音に、私はやっと時の経過を感じた。続いて無機質な電子音の音楽がワンフレーズ耳に届く。
乾燥機も役目を終えたようだった。ガラス窓を打つ雨音は大分柔らかくなって、ドアを揺らすほどの陰風も少し前には収まっていた。
「雨、もう止みましたか?」
中野さんがゆっくり呟くように問いかける。でも視線はじっとテレビだけを見つめていて、こんなに近くにいるのに心は何処か寂しかった。雨音はどんどん弱まり、今となってはもう打つ音さえ聞こえない小雨に変化を終えている。衣服も乾燥し終わっている。あの服を彼が再び身にまとったら、彼は気まずそうに微笑みながらドアの向こうにきっと帰ってしまうのは簡単に想像出来た。
答えのない私に違和感を覚えたのか、彼がふと私に目線を向ける。葵さん、囁いた彼の掠れた響きに私の胸が震える。
「……まだ、止んでませんよ。」
「えっ。」
「雨、まだ止んでません。」
思わず口にしたその言葉は、頭の中で反芻する程じわじわと罪悪感が胸を侵した。嘘をついた自分が浅ましくて、私は彼から逃れるように俯いてしまう。彼からの返答はない、彼も私の嘘にはきっと気づいてるはずだ。
恥ずかしい、彼に帰って欲しくないから、彼と一緒に居たいから、だからって嘘まで吐いてしまう自分が知らない人のようで少し恐かった。
しばらく無音の時が流れた。テレビの奥でお笑い芸人がボケるが、その時ばかりは笑えなかった。しかしすぐ、私の方が耐えきれなくなって彼を俯いたまま視界の隅に入れてしまう。
でもその瞬間、彼は立ち上がり何処かへ行ってしまっていて、視界には服の裾しか捉えられなかった。
離れた温もりが心臓を冷やす。
きっと帰り支度をするんだ。彼は小雨になった事を知っている。私は、嫌われちゃったのかもしれない。目の前がゆらゆら揺れて、ここが何処なのかさえもわからないほどに頭は真っ暗になった。
でも動かない体を叱咤して私は立ち上がる。最後に彼に折角来てくれた中野さんにせめて何かしてあげたかった。
キッチンに立ち手を洗う。そして材料を確認する。幸い、明日の焼き上げの為に下準備が終わっているものを見つけることが出来た。甘いものは苦手な彼でも食べられるソルトスフレ。生地の入った真っ白な容器をそっと二つ、オーブンに入れてタイマーを回す。
これが焼き上がるまでは、彼がここに居てくれることを心の隅で密かに想って。