ムーンライトメモリー
「月が、綺麗ですね」
「ん?・・・嗚呼、そうだね」
これは愛の告白の言葉なのに。冴えない見た目通り冴えない答えをくれたおじさんは、ぷかぷか煙草をふかしながら夜の空を見上げていた。その横顔に不満を抱きながらもこちらをちらとも向かないおじさんの態度に腹を立て私も月に視線を戻した。
このままふたり、月にのみこまれてしまえばいいのに。
なんて馬鹿なことを少しだけ真剣に考えた。隣からは嗅ぎ慣れない煙の匂いが変わらず漂っていた。風のない夜は、このか細い煙草の煙すらも浚っていかないようだった。
最終電車の車内。私とおじさんはそこで出会った。
「その新聞、いらないなら私にくれませんか」
今まさに網棚に置いていかれようとされた新聞。その新聞の持ち主は草臥れたスーツを着た男の人で、突然話し掛けられたことに目を白黒させていた。
「あ、ああ。構わないけど、」
と少し間があってから返事が来る。良かった、と手を差し出すとその人は大人の男にしては幼い仕草で首を傾げた。
「それ、くれるんですよね?」
「・・あ、うん。どうぞ」
「ありがとうございます」
「あのさ、」
「はい。なんですか」
「君みたいな女子学生がどうしてこんな新聞を?あ、いや読んじゃいけないとかじゃなくて、ただ珍しいなと思っただけなんだけど」
怒られるとでも思ったのだろうか、先生に叱られる前の小学生の言い訳みたいな言い方でそんなことを早口に言うおじさん。そんなに怯えなくてもとって食いはしないのに。
「新聞紙って巻くとあったかいって聞いたから」
「・・・え?それ・・巻くのかい?」
「そのつもりです」
「どうして」
「公園で野宿するつもりなので」
「野宿って君、家出でもしたの?」
「まあ、そんなとこです」
「・・・家に帰るつもりは?」
「あったら新聞もらってませんよ」
「そりゃそうだ」
呆れ顔のおじさんは長い息を吐くと、じゃあ僕のウチに来るかい?と何てことない風に言った。
普段だったらきっともっと警戒しただろう。初対面の見ず知らずの人間にほいほいとついて行くなんてどうなってもおかしくないこのご時世に。どうしてかなんて今でもわからないけれど、たぶんやけっぱちの気持ちとこの人はいい人そう…─ぶっちゃけて言えば、性的な匂いのしない無機質な空気の人だと、そう思ったから。私はその言葉に甘えることにしたのだ。
最終電車の最終停車駅を降りて、猫背気味の疲れた後ろ姿について行く。おじさんはそんな私を確認するようにたまに振り向いたけど特に話し掛けてはこなかった。10分もしないうちにたどり着いたのは、街灯に照らされ辛うじて判別した赤いレンガの寂れたアパートだった。二階建てでかんかん音を立てながら上がった一番奥の突き当たりがおじさんの部屋らしい。
そのとき私は初めて六畳一間が実在のものだと知った。
「狭いねぇ」
「男の一人暮らしはこんなもんで充分なんだよ」
「トイレとかお風呂は?」
「トイレはあるけど、風呂はシャワーだけ」
「それで平気なの?」
「特に困らないかな。近くに銭湯もあるし」
「ふうん、そうなんだ」
自分の生活とは全然違う他人の生活を初めて目の当たりにして私はなんだか不思議な気持ちになった。そうか私の当たり前は、私だけの当たり前に過ぎないんだな、なんて。
ぐるぐるるきゅううん
「・・・・お腹へってるのかい」
「そうみたい。今の今まで気がつかなかったけど。おじさん何か食べるものない?」
「今日は・・ないな。牛丼でよかったら買いに行ってくるよ」
「え、おじさんが作ってくれないの?」
「僕が作れるように見えるかい?」
「ううん。でも一人暮らししてるんじゃ」
「料理が出来なくても今の世は生きていけるんだよ。君は知らないかもしれないけど」
確かに二十四時間営業のコンビニや飲食店は町中にあふれていて食べ物だったらいつでも簡単に手に入る。ふんふん、と納得しているとおじさんは財布を片手に握りしめていた。
「じゃあ買いに行ってくる。お茶とか飲みたかったら勝手にしていいよ。ウチを出て行くならそこの鍵はポストに入れておいて。いるならゆっくりしてていいから、狭い部屋だけどね」
最後はさっきの私への意趣返しだろうか、とか思っているうちにバタンと扉は閉まっていった。
家主がいなくなった部屋を改めて見遣る。ぐるっと一周しただけで全てが目に入るその大きさは、なんだかホッとする。おじさんの部屋はすごく綺麗、という訳でもなかったけどそれなりに整頓され、相応に生活感あふれるどこか落ち着く部屋だった。見渡した限り変わったものもなく、平凡な部屋だと思った。
ふ、と暗い部屋に差す光が目に入ってそこを見るとベランダがあった。ガラガラと鳴る引き戸を開けて、野ざらしにされていたようなサンダルを突っ掛け私は外に出た。
澄んだ空に浮かぶ月が、星々の輝きをかき消す夜だった。
「ただいま、買ってきたよ」
「あ、おかえり。早いね」
「まあね。あれ?電気つけてなかったの」
「嗚呼忘れてた。月が明るかったから気にならなかったよ」
「そうなの?でも一応つけるよ」
「うん」
おじさんが買ってきてくれた牛丼をもぐもぐしながらここにいる自分の歪さにちょっと笑った。
私なんで見ず知らずの人の家に上がり込んでチェーン店の牛丼なんて食べてるんだろう。
自分で望んだことなのに、その現実味のなさになんだか笑えてきた。
おじさんは自分の分は買わなかったらしく、どこからか出してきた煙草を吸っていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末でした。って僕が作ったわけじゃないけどね」
「ううん。わざわざ買ってきてくれたし。あ、お金いくら?」
「子供にたかるほど貧乏じゃないよ」
「私、子供じゃない」
「大人は家出はしない」
「それとこれとは話が別なの!」
「いいよこれは大人の弁えだから。君はありがとうって言っておけばいいんだ」
着古されたスーツのジャケットを脱いでさらに貧相に見えるおじさんのくせに、笑いながら一丁前の大人みたいなことを言うんだから。
「・・・ありがと、おじさん」
「ねえ。一つ、気になってたんだけど、おじさんはやめてくれないか。僕は暁生っていうんだ」
あかつきがうまれるって書くんだよ。
暁生さん、と口の中で転がした音はどこか弾んで聞こえた。
食後のお茶を飲んで私は再びベランダに出た。二階建てのアパートから見える空なんて程度が知れているけれど、私が今まで見てきたどの空よりも美しいと思った。
気がつくと側に煙草の匂いがして、私は思わずあの有名な一節を口にしていた「月が、綺麗ですね」と。
ロマンチックなその名言もうだつのあがらない風貌のこの人にかかれば形無しだ。内心がっくりしつつも思った。出会って二時間も経っていない私たちがロマンチックな関係になるはずもないのだと。
シャワー浴びてよれよれのスウェットを借りた。手が隠れるほど大きいそれは確かに男性もので、おじさんも男なんだなぁと思う。着込んだそれはうちとは違う洗剤の匂いがして、私はこっちの方が好きだなと思った。
牛丼を食べた床の間のちゃぶ台を退かし布団を引くと二人ともさっさとそこに潜り込む。私は慣れない枕にもぞもぞしていたが、いつの間にか眠りに落ちていった。知らない場所で知らない匂い、知らない人の横にも関わらずすっかり安心しきっていたのだと目が覚めてから気づいた。
「お世話になりました」
「今日はちゃんと帰るんだよ」
「はい。お風呂に入りたいんで帰ります」
「湯船がなくて悪かったね」
「いえ、何事も経験です」
「可愛くない子だねまったく」
「すみません。でも私、一宿一飯の恩義は忘れませんから」
「あーはいはい、もう行った行った」
「信じてないんですね。私、ちゃんと恩返ししますから」
「期待しないで待っとくよ。じゃあね」
「はい。さようなら。また」
「バイバイ」
私は、忘れない。
───そう、言ったのにな。
三年後、再び訪れた赤レンガの寂れたアパートの一番奥の突き当たりの部屋に、あの人はもういなかった。
これが私の、出来損ないロマンス。
夜明けの名を持つあの人に、月をもじって告白なんてしたから届かなかったんだ。
なんて、ぼやけた頭でそう思った。
お読みくださりありがとうございました。