28.25 嵐竜の夢
ミリィがケームト王国の王都アーケトで『ケネイトの悲恋』を演じているころ、シノブは夢の中だった。
といっても寝坊ではない。今シノブがいる場所は朝の四時半ごろ、まだ夜明け前である。
──眩しいな……それに真夏のような暑さだ──
夢の中のシノブは実体を伴っていないらしく、呟きは思念のように音なき響きとして広がっていく。
シノブがいるのは赤道直下のような場所だ。
雲一つ無い快晴、太陽は真上に近い。空気は熱く、しかも乾いている。
このような空にシノブは浮いていた。まるで重力魔術を使ったときのように、宙の一点で静止している。
──ケームト……それともエジプトか?──
眼下の光景を見下ろしつつ、シノブは首を傾げた。
見渡す限り続く広大な砂漠を、大河と呼ぶべき流れが二分している。河の両岸には僅かな緑地があり、その中には土壁か日干しレンガで造ったらしき建物が点在している。
ミリィが気になったからケームトの夢を見ているのか、それともケームトからの連想でエジプトを思い浮かべたのか。シノブは確かめようと周囲を見回した。
しかし判断材料になりそうなものは見当たらない。人どころか動物すらいないし、集落も建物が並んでいるだけだ。
──あれは町かな?──
とある方向に、シノブは大きな集落を発見した。
多くは十軒から二十軒程度の小村と呼ぶべき規模だが、これは少なくとも二桁は上だ。それに随分と高い防壁で囲まれている。
この規模なら、なんらかの手がかりがあるだろう。そうシノブは考えた。
もしケームトなら都市の門には名が記されている。そして女神アムテリアは自身が創った星の言語を日本語で統一したから、文字を見れば判断できる。
夢の中だからケームトやエジプトとは限らないが、このまま宙に浮いているより町を眺める方が楽しいだろう。
ともかく行ってみよう。そう思った瞬間、周囲の様子が変わる。
──町の上に転移したのか?──
先ほどまでと違い、シノブがいるのは巨大集落の上空だった。
重力魔術による飛翔ではないし、短距離転移とも違う。行きたいと思った瞬間に移動したのだ。
現実なら驚くべき現象だが、ここは夢の中だから気にしなくてもよい。そう思ったシノブは地上に意識を向ける。
住宅らしき建物の多くは日干しレンガ製だが、中には石造りの立派な邸宅もある。それに大通りには石畳が整然と敷かれている。
中央にある巨大建築を含め古代オリエントに似た様式だが、多くは建てて数年といったところだろう。
王都アーケトより小規模だから、ケームトだとすれば地方都市か。そこまで思いを巡らせたとき、シノブは宮殿らしき場所の中庭に人がいることに気付いた。
人影は二つ、どうやら人族の男女らしい。
──俺のこと、見えていないようだな──
再び瞬間移動したシノブは、男女の側に現れた。しかし二人は驚かず、先ほどまでと同様に互いを見つめている。
そこでシノブは静かに観察を続ける。
双方とも黒髪に褐色の肌、つまりケームト風の容姿だ。どちらも二十代ほどの若々しい外見で、しかも均整が取れた細身である。
容貌も美しい。男性は学者風の知的な美形、女性も人形のように整った顔立ちだ。
白い服には綺麗な刺繍が施され、サンダルも金糸銀糸で飾られている。彼らが特別な地位に就いているのは間違いないだろう。
しかしシノブの注意を惹いたのは、別れの場面のような重苦しさだった。
曇りきった面、深い苦悩を宿した瞳、固く握りしめた手。二人とも舞台俳優を思わせる容姿だから、ますます痛々しく感じる。
「ケレプアレク、このままでは神殿が……」
「こちらにも神官達が来た。『大族長、一日も早く跡継ぎを。もう待ちきれません』とね。今回も『我々に匹敵する魔力の持ち主を探している』と返したが、これまで以上に粘られたよ」
悩ましげな声を絞り出す女性に、男性は同じくらい重い響きで応じた。
ケレプアレクとは、ケームト初代国王ネチェルクフの即位前の名だ。すると女性はネヘイト、後に王妃ネチェリトと呼ばれる巫女だろうか。
ともかく、これがケームトの夢なのは確かだろう。
ただし『ケネイトの悲恋』や『ネチェルクフの遠征』で語られる時代ではないようだ。
これらの伝説によれば、ネヘイトの姉ケネイトが姿を消したのは創世暦100年を少し過ぎたころらしい。しかしケレプアレクが大族長と呼ばれるようになったのは、それから半世紀近く後だという。
──もし創世暦150年だとすると、ケレプアレクが七十歳以上でネヘイトが六十五歳以上か。とてもそうは見えないから、長命の術を修めたんだろうな──
夢の光景だから現実とは違うかもしれない。そう思いつつも、シノブは二人の若さに驚嘆する。
この星の人間は魔力に比例して若い期間が長くなるが、七十代や六十代の人族が青年のような外見を保つなど普通はあり得ない。それに初代国王夫妻の没年は創世暦200年前後とされており、もし真実なら何らかの術で長生きしたと考えるべきだろう。
「私達のような魔力を持つ子……もしどこかで生まれるとしても、どれだけ先でしょう。それまで神官達が待ってくれるとは思えません」
「ネヘイト、私達に幸せを得る権利などないよ。ケネイトを犠牲にした罪を償い終えるまでは……」
二人は悲壮な表情で見つめ合い、そのまま口を噤む。
予想通り、女性は巫女ネヘイトだった。しかしケレプアレクが続けた言葉に、シノブは大きな驚きを抱いてしまう。
伝説の通りなら、ケレプアレクとネヘイトは冒険行の数年後に結婚した筈だ。つまりケレプアレクが大族長になったころは、夫婦になって四十年以上が過ぎている。
しかし二人の様子からすると、本当の意味では結ばれていないらしい。そして見せかけの夫婦を演じる理由は、ケネイトへの罪悪感のようだ。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブが単なる夢と切り捨てないのは、オルムルの過去視めいた体験があるからだ。
岩竜の子オルムルは、夢の中でイーディア地方の過去を観た。少し後に、冥神ニュテスが授けた啓示だと明かされた一件だ。
同じようにニュテスが何かを伝えようとしているのでは。そうシノブは考えたのだ。
そもそもシノブが知るケームトの歴史に、このような情景は存在しなかった。
『ケネイトの悲恋』や『ネチェルクフの遠征』は、ケレプアレク達が大河イテルの上流に向かう直前から帰ってくるまでを扱っている。その後はミリィ達が纏めた報告書を読んだだけ、それも歴史年表に近い内容だ。
何しろ八百年以上前のことだから信頼できる逸話も少ないし、王国成立後に編纂された正史だと個人的な出来事は皆無である。もちろん伝説の類は事欠かないが、どれも信憑性が低い。
そのためミリィ達も、確実と思われる事柄のみを報告していた。
──そういえば、二代目は創世暦165年に生まれたって書いてあったな。トトが王家の捏造だと言うのも無理ないか──
もし史書の通りなら、ネヘイトは八十歳以上で出産したことになる。そのためトト少年ことネフェルトートならずとも、首を傾げるのは当然だ。
しかし今シノブが目にしている二人なら、そのころも二十代後半の若さを保てるだろう。つまり彼らが子を得た時期は、王家が主張する通りかもしれない。
ちなみにケレプアレクはネヘイト以外に妻を持たなかったそうだ。国王ネチェルクフとなった後も、彼は巫女妃ネチェリト以外の女性を近づけなかったとされている。
『ケネイトを犠牲にした』という言葉からすると、大河イテル源流の冒険行で彼女を失ったことが偽装結婚と呼ぶべき状態に繋がったのだろう。しかし長く若い姿を保てるだけあり二人の魔力は飛びぬけて多いから、その双方の血を継ぐ子を望む声は年々増した筈だ。
そうシノブが思いを巡らせたとき、誰かが近づいてきたようで魔力の動きを感じる。
──凄い魔力だ……しかも上手く隠している。まさか眷属か?──
シノブは相手の魔力量に驚いた。
後の初代国王と王妃だけあり、ケレプアレクとネヘイトの魔力は別格だ。シノブが知るケームト王族、つまりネフェルトートよりも幾らか多い。
しかし三人目の魔力は人の上限を遥かに超えているし、それを巧みに抑えてもいる。はっきりとは分からないが最低でもケレプアレクの数倍はあるだろう。
やはり神々の眷属だろうか。そんなことを考えつつ待つシノブの前に現れたのは、ケームト風の衣装を纏った人族らしき女性だった。
容姿はネヘイトにも劣らぬ美しさ、ただし少し若く感じる。外見通りなら十代後半だろうが、眷属だとしたら二人より遥かに年長という可能性もある。
「ワーニャ様!」
「お久しゅうございます」
驚愕の叫びはケレプアレク、静かな挨拶はネヘイトだ。両極端な応えだが、どちらも相手を敬っているのは明らかである。
やはりワーニャという女性は特別な存在らしい。
「二人も変わりないようで何よりです。……しかし困ったことになりましたね」
ケレプアレク達が抱えている問題を、ワーニャは充分に承知しているようだ。彼女は最初こそ柔らかな笑みで応えたが、すぐに表情を引き締める。
「はい。神官長や側近達は、私とネヘイトの子を望んでいます。他は諦めたようですが……」
「大族長は血縁に拘らず選ぶべき、と言っても聞く耳を持ちません」
「あなた達が見せかけの夫婦だと、彼らは知っていますからね。それに大族長の鋼人を動かすには、相応の魔力を必要としますから」
悩める二人に、ワーニャは頷きつつ言葉を返す。
ケレプアレクとネヘイトの秘密を知るのは、どうやら極めて一部だけらしい。それ以外は二人のどちらかが子を成せぬ体だと受け取っているようだ。
ちなみにワーニャが触れたように、このころ既に巨大鋼人は存在した。
大族長の鋼人は全高15mほどで、後の王族級に匹敵する。そのため動かせる者が限られるのも当然だ。
そういう意味ではケレプアレクとネヘイトの子が必要という意見も理解できるが、二人は自分達だけの幸せを拒んでいる。
ケネイトとネヘイトの姉妹が双方ともケレプアレクを慕っており、将来は三人で暮らすつもりだったという説がある。当時のケームトだと、族長になるほど優れた男性が複数の妻を持つ例は珍しくないのだ。
これが真実だとしたら、ケネイトを置いての帰還は断腸の思いの末だったに違いない。そして若さを保てたことが、ケレプアレクとネヘイトを何十年も苦しめたのだろう。
まだ子を成せると、周囲が期待するのも当然だから。
──もしかして、ワーニャが二人を動かすのか?──
ケームト王国の正史は、二代目の王をケレプアレクとネヘイトの実子としている。
そうすると二人の心の傷は癒され、正真正銘の夫婦になったのか。あるいは強制された結果、望まぬ子を儲けたのか。
前者であれば良いのだが、とシノブは願う。
「……私達に子を成せと!?」
「いくらワーニャ様のお言葉でも、それだけは! どうか、今少し時間をください」
「いえ、私が力を貸します。これ以上、あなた達を苦しめたくありませんから」
血相を変えた二人に、ワーニャは静かに首を振る。
どのような解決方法を示すのか。続く言葉を待つシノブだが、残念ながら叶えられることはなかった。
シノブは夢から目覚めたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
昨夜から、シノブはメリエンヌ王国の王都メリエに滞在している。
ちょうど一年前、シノブは光の額冠を得た。光の大剣、光の首飾り、光の盾に続き、メリエンヌ王国の第二代国王アルフォンス一世にしか使えなかった神具を受け取ったのだ。
そして四つの遺宝が揃った日を、メリエンヌ王家は特別なものとした。一年前もエウレア地方の統治者を招いて盛大な式典で祝ったが、今日も同じように各国から大勢が集まっている。
ちなみにシノブは招待客かつ主催側の一人という特殊な立場だ。
光の神具を動かせるのは、シノブか彼を支える眷属達のみだ。そこでメリエンヌ王家は神具なしの記念式典を避けるべく、式典の主役をシノブに打診した。
しかし今のシノブは一国の王だから、呼びつけるような真似は望ましくない。そう考えたメリエンヌ王国は、一周年記念の場を聖地サン・ラシェーヌの大聖堂にした。
シノブは光の神具を着けて聖壇に上がり、神像に向かって剣舞を奉納する。つまり神々に感謝を捧げる形にしたのだ。
そこでシノブは、早朝訓練でフライユ流大剣術の型を確かめるつもりだった。
アルフォンス一世が使った剣技もフライユ流、そして聖地には彼とその父エクトル一世が祖霊として宿っている。ならば全身全霊で挑みたいと、シノブは密かに決意していた。
しかし先ほどの夢を放置するわけにもいかない。
シノブは手早く訓練着に着替え、同じく準備を済ませたシャルロットと共に寝室を出る。幸いアミィも既に起きており、居間で二人を待っていた。
ちなみに今回はリヒトを伴っておらず、普段のようにシノブとシャルロットが愛息の顔を見にいくことはない。そのため三人は朝の挨拶をすると、そのまま夢の話に移る。
「……というわけなんだ。ミリィが王宮に潜入したら調べられないかな?」
「はい、マリィに頼んでみます!」
シノブが語り終えると、アミィは頷いて手紙を書き始める。
王宮に入るときに身体検査があるから、今のミリィは通信筒を持っていない。そこで連絡したいときは一旦マリィに伝えることになっていた。
「今は『ケネイトの悲恋』を演じている最中でしょうか?」
「そうですね。でも、そろそろ……あっ、もしかして!」
シャルロットに応じようとしたアミィだが、ペンを置いて胸ポケットに手を伸ばす。
どうやら通信筒に知らせが入ったようだ。おそらく王都アーケトにいるホリィかマリィからだろう。
「やっぱりホリィです! ……ミリィが王宮侍女に採用されました! あっ、でも王女メルネフェル付きだそうです」
最初は喜びを顕わにしたアミィだが、途中で表情が曇る。
ケームト王宮に潜入するのは国王アーケナの秘密を探るためだが、彼の側仕えは男性のみだから次善の相手として王妃イティが選ばれた。つまり王女担当では完全な成功と言いがたい。
「でも、いきなり国王夫妻の側よりは良いかもね」
シノブは敢えて良い面を挙げてみた。
謎多きアーケナより、未成年のメルネフェルの方が危険度は低い。それに朝から晩まで王女と共にいるわけでもないだろう。
まずは王女の側で王宮の内情を掴み、ある程度の勝算を得てからアーケナに挑む。それで問題ないとシノブは言おうとしたが、そのときノックの音が響いた。
「どうぞ!」
「お邪魔します」
「ミリィさん、どうでした?」
シノブが声を掛けるとミュリエルが恥ずかしげな顔で入室し、興味も顕わなセレスティーヌが続く。
どうやらミリィが無事に採用されたか気になったらしい。
ちなみに二人もシノブ達と同じような恰好、つまり丈夫な上着とズボンという姿だ。こちらの朝食までに知らせが入る筈だから、それまで一緒に訓練しようと考えたのだろう。
「大丈夫、王女付きになったよ」
「ミュリエル、ここは貴女の家ですよ?」
シノブは微笑みと共に結果を伝えると、シャルロットが楽しげな声で続く。ここはフライユ伯爵家の別邸なのだ。
メリエンヌ王国の伯爵家は王都に別邸を置き、参内などの際に使っている。そしてシノブはアマノ王国の王だがメリエンヌ王国のフライユ伯爵位も保持しており、ミュリエルは先々代フライユ伯爵の孫で成人後にシノブと結婚してフライユ伯爵夫人になることが決まっている。
一方メリエンヌ王国でのシャルロットはベルレアン伯爵家の継嗣、セレスティーヌは王女だ。
つまり、この別宅ではシノブとミュリエルが主だと表現できる。そのためシャルロットは、遠慮がちに呼びかけた異母妹を微笑ましく思ったのだろう。
「シャルお姉さまのお言葉通りですわ。しかも今回はアルメル様がおりませんから、名実共にミュリエルさんが女主人です」
セレスティーヌが言うように、ミュリエルの祖母アルメルは領内行事のためフライユ伯爵領に残った。どうも晴れの舞台を孫娘に譲ろうとしたらしい。
今日の式典にシノブはアマノ王国の立場で出席するから、ミュリエルがフライユ伯爵代理を務めるのだ。
もっともセレスティーヌが主張したかったのは女主人や伯爵代理についてではなく、姉と慕う女性への共感だったようだ。彼女はミュリエルの背を押すと、そのままシャルロットが待つソファーへと向かう。
しかし彼女達が腰を下ろす前に、新たな知らせが入る。
「今度は俺か……。嵐竜の長老からだ! ケームト王国の過去を知る仲間と合流したって!」
シノブは通信筒から取り出したものを広げてみせる。
嵐竜の長老から送られてきたのは、幼児の手のひらほどもある葉だった。そして表面には点字のように小さな穴が並んでいる。
これは『アマノ式伝達法』に則った文章だ。
シノブは知り合った超越種達に通信筒を渡しているから、どんなに離れていても即時に連絡できる。しかし筆記用具を持っていない相手だと、このように『アマノ式伝達法』を使って知らせてくるのだ。
「シノブ、これから行くのですか?」
「ああ、魔法の馬車を呼び寄せてもらう」
シャルロットの確認に、シノブは立ち上がりつつ応じた。
こういう時に備え、出会った超越種達には魔法の家などの呼び寄せ権限を付与している。普段は停止状態にして、連絡があったときに権限を有効にするのだ。
嵐竜や海竜は広い範囲を巡って暮らすから、今回のように棲家以外の場所で会うことが多い。そのため呼び寄せは、彼らと会うときの手段として重宝されていた。
「では私が残ります」
帰りも呼び寄せを使うから、全員が行くわけにはいかない。そこでミュリエルが留守番役に手を挙げた。
「私も残りましょう。伝えたいことがありますし」
「伝えたいこと……ですの?」
シャルロットが居残りを申し出ると、セレスティーヌは怪訝そうな顔をした。まだシノブの夢の話をしていないから、不思議に思うのも当然だろう。
「説明は任せるよ。それに遅くならないようにする」
「通信筒と腕輪をお渡ししたら、お呼びもできますし」
シノブとアミィは足早に外へと向かう。
出会った超越種達には、アムテリアから授かった小さくなる腕輪も渡す。魔法の家などに入れないと、こちらに招くときに困るからだ。
ちなみに呼び寄せ権限の付与は簡単で、それだけなら五分と掛からない。
◆ ◆ ◆ ◆
「太陽が高い……今朝の夢みたいだ」
魔法の馬車から降りたシノブは、頭上からの強烈な日差しを遮ろうと手を翳す。
降り立った場所は潮の香りがする砂浜で、少し先にはエメラルドグリーンの輝きも見える。嵐竜の長老が会合の場に選んだのは、赤道に近い絶海の孤島だったのだ。
「北緯1度、東経91度……アフレア大陸の南東よりイーディア半島の南と言うべきですね。ちなみに現地時間だと、午前10時半です」
アミィは自分達がいる場所を正確に割り出した。これはシノブのスマホから得た位置測定能力で、GPS並みの精度を誇っている。
もっともシノブが場所に思いを馳せていたのは、そこまでだった。馬車の側面から回り込むように、四頭の嵐竜が姿を現したのだ。
いずれも全長60mほどもあり、かなりの迫力だ。体積は他の超越種と大差ないが、蛇のように長い体が実際より大きく見せる。
ただしシノブやアミィは慣れているから、どちらも笑顔で振り向く。
「ナーダ、ウプナ、久しぶり! そちらがラジャとターシャだね?」
──うむ。そちらは朝早いから悪いと思ったが──
──妹から気になることを聞きまして──
シノブの呼びかけに応えたのが長老夫妻のナーダとウプナ、その隣に残る二頭が並んでいる。
事前に教わった情報によると、雄のラジャが六百歳ほど、そしてウプナの妹ターシャが五百歳を超えているという。長老ナーダが八百三十歳ほどでウプナが彼より八十歳近く若いから、『ケネイトの悲恋』や『ネチェルクフの遠征』の元となった冒険の時点では四頭の全てが生まれていない。
──お初にお目にかかります。ターシャと申します──
──『光の盟主』よ。我がラジャだ──
ラジャとターシャはヤマト王国の更に東、それも大洋の反対側に近い海域を巡って暮らしている。地球だと中央アメリカの西といった辺りである。
そのため彼らは今までシノブ達と縁がなかったが、毎年この時期にアフレア大陸へ出かけると長老夫妻が知っていた。ナーダ達はイーディア半島の南を活動範囲にしているから、ターシャはアフレア大陸に行く途中で姉と語らうのを常としていた。
「これからよろしくね。ところで気になることって?」
シノブは挨拶も早々に問いかける。
嵐竜達の思念には、どことなくだが硬さがある。そう感じたシノブは、通信筒などを渡したり呼び寄せ権限の付与をしたりといった件を後回しにする。
──これから向かう場所には私達の姉がいます。既に千歳近いので、終の棲家で余生を送っているのです──
ターシャはシノブ達に向かって一礼すると、静かに語り始める。
創世のとき女神アムテリアは第一世代を成体として誕生させたから、直後に子供を授かっても不思議ではない。それに長老より高齢なら、空を巡らない生活も当然だろう。
そう思いつつ静かに聞いていたシノブだが、次の言葉には驚かされる。
──私やウプナは、長姉のことを知らないまま育ちました。長老殿すら生まれていないころ、彼女は勘当されたのです。……しかも両親は、亡くなる直前まで教えてくれませんでした──
──よほどのことがあったのだろう──
悲しげなターシャを案じたらしく、ラジャは静かに身を寄せる。
第一世代は生まれたときから成体、つまり肉体的には二百歳を超えている。そして超越種の寿命は千歳ほどだから、ターシャとラジャが知ったのは二百年以上も前だ。
それからターシャは長姉の棲家を毎年訪れたが、同行者を番のラジャのみとした。これは彼女の両親が他言無用と厳命したからだ。
親達は勘当した経緯を語らず、後事を託した理由も黙したまま世を去った。そしてターシャ達は遺命というべき言葉を尊重し、今まで長老を含め誰にも伝えなかった。
──ですが長老殿から伺った場所が、長姉が隠棲している一帯ではないかと思いまして。それに『光の盟主』が探しているなら、偶然の一致と片付けるわけにもいきません──
「大河イテルの源流近くにある人工湖ですね? イテルはアフレア大陸の北東部を南から北に流れている川で、中流から河口を含む地域にはケームトという国があります」
ターシャが一息入れると、アミィは問題の場所について確かめていく。
その結果、ターシャとウプナの姉の棲家があるのは大河イテルの上流で間違いないと判った。それに彼女達の両親が若いころ暮らしていた場所が、ケームトの北に広がる海だったということも。
これらに耳を傾けるシノブの脳裏に、とある疑問が浮かんでくる。
ターシャとウプナの姉こそが、ケレプアレク達と関わった嵐竜ではないか。今まで第一世代だと思っていたが、百歳を超えていれば成体に近い大きさと能力を持っていた筈だ。
ともかく確かめよう。そう思ったシノブは、夢で聞いた名を口にする。
「君のお姉さん……ワーニャって名前じゃないか?」
──なぜ御存知なのですか!?──
やはりシノブの想像は当たっていた。ターシャは驚愕も顕わな思念で肯定する。
あの夢でワーニャという女性に人を超える魔力を感じたのは当然だ。その正体は嵐竜なのだから。
しかし、どうして人の姿をしていたのか。ホリィ、マリィ、ミリィが持つ変身の神具を、ワーニャも持っていたのか。
「実は夢で見たんだ」
シノブは今朝の出来事を明かしていく。
しかし残念ながら、ターシャ達は何も知らなかった。両親から縁を切られ同族達にも会わずに暮らす理由など、ワーニャも語りたくないだろう。そう考えた彼らは、この話題を避けたのだ。
「変身の神具でしょうか?」
──分からぬ……しかし我らの親達は人の姿になれたと聞いている。長老のみが受け継ぐ伝承だが、この期に及んで隠す必要もあるまい──
アミィの問いに、長老ナーダが重々しい思念で応じた。
創世期の超越種には人々を導いた者がいるという。ただし彼らは肉声による会話が出来ないから、シノブは神々や眷属達の仲介があったと思っていた。
しかし神々が変身の神具を授けていれば、あるいは類似の術でも教わっていれば、話は別だ。
「もしワーニャさんが教えてくれたら、ケレプアレク達のことを聞いてみたいな。でも苦しめるようなことはしたくないし……」
「そうですね。……とりあえず、通信筒や小さくなる腕輪を渡しましょう。それに呼び寄せ権限の付与も」
シノブは真実を知りたく思うが、老竜ワーニャを傷つけたくないとも感じていた。それはアミィも同じらしく、彼女は大きく頷いた。
全ての謎は、ケレプアレク達が造った人工湖にあるようだ。もしかすると大河イテルの治水以外にも、なんらかの意味を持つ場所なのかもしれない。
しかし竜達の気持ちを尊重すべきと、シノブは疑問を胸中に留めた。そして代わりに、全く別のことを口にする。
「次はラーカとルーシャを連れてこよう! ラーカは二歳、ルーシャは二ヶ月を過ぎたばかりなんだ。とても可愛いよ!」
──それは嬉しいです。ラーカは私達の孫ですから──
──ええ、楽しみですね──
ターシャが明るい思念を発すると、姉のウプナが和す。
ちなみに長老夫妻からすると、ラーカとルーシャの双方が孫に当たる。こちらは既に孫と会っているが、ラジャとターシャは遠方で暮らしているから初めてなのだ。
ワーニャも幼子達と会えば喜んでくれるだろうか。そうであればと願いつつ、シノブは更なる言葉を続けていく。
「ラーカは憑依術も覚えたよ! それにルーシャは飛べるようになった!」
「ええ、どちらも仲間達と一緒にスクスク育っています!」
──素晴らしいな──
──ええ──
シノブとアミィが子供達の成長ぶりを伝えると、ラジャとターシャは喜びの声を上げる。
ある程度は長老達から聞いていたようだが、シノブ達が描写する幼子達の日常には知らないことも多いようだ。どちらも身を乗り出し、魔力波動も興奮を示すように高まっている。
どうやら予定より遅くなりそうだ。そう思ったシノブだが、心は頭上の青空のように晴れ渡っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。