28.24 歌劇『ケネイトの悲恋』
白み始めた空は五月晴れと呼ぶべき好天だ。東の水平線に薄雲が広がり日輪こそ拝めぬものの、茜雲越しの曙光が目を楽しませてくれる。
地も彩りで満ちている。山肌に聳え立つ大樹達は新緑で眩しく輝き、谷間の清流は澄んだ水を煌めかせる。
まさに山紫水明、誰しも思わず見入るほど美しい。
それも当然、ここは神々の地の一つだ。ヤマト王国の西南、筑紫の島で最も奥深き山に置かれた神域である。
ヤマトの人々は敬虔で、神域に近づく輩など存在しない。そのため聖地の朝に響くのは、命と大自然が織り成す楽の音のみだ。
鳥達が交わす歌、風が奏でる葉擦れ、涼やかな細流。新たな朝を迎えた喜びが即興合奏となり、清き場に安らぎを添えている。
しかし新たな者の登場で、少しばかり空気が変わる。
「ああ~、強く美しいお姉さま~。私の憧れ、皆の希望~」
神秘の地に広がったのは、少女の伸びやかな美声だ。
天真爛漫な魅力を宿す声色、小鳥のように澄んだ高音、そして確かな音程とリズム感。しかも熟練の女優すら及ばぬ表現力まで兼ね備えている。
これほどの技量、もちろん常人の筈がない。声の主は神々の眷属、金鵄族のミリィである。
彼女は転移の神像から現れると、ミュージカルのように踊りながらの熱唱を始めたのだ。
「貴女が剣を掲げたら~、夜空の星すら馳せ参じる~。ケレプアレク様と並び立ち、千年楽土を築く戦乙女よ~」
白い薄手の衣を軽やかに揺らしつつ、ミリィは石舞台へと進み出る。転移の神像は山のような巨岩に刻まれており、その手前はステージのように整えられているのだ。
そして中央に立つと、彼女はクルリと向きを変える。
「いいえ妹よ~。神託の巫女たる貴女こそ、あの方に相応しい~。聖なる言葉を皆に届け、この地に平和を齎しなさい~」
ミリィは声色を変え、先ほどとは別の人物を表現した。
今度も女性だが数歳上、しかも男役を思わせる低い声だ。柔らかな甘さを宿しつつも、男顔負けの力強さがある。
それはともかく、今ミリィが演じている物語こそ『ケネイトの悲恋』だ。
後に初代ケームト国王ネチェルクフとなる男、治水学者のケレプアレクは大河イテルの治水を成し遂げた。このとき彼を支えたのが女戦士ケネイトと巫女ネヘイトの姉妹、更に嵐竜も力を貸したという。
ただし全てが順調だったわけではない。最大にして最後の危機を迎えたときケネイトは妹と愛する人を守るため自身の命を捧げた、と伝わっているのだ。
ここに焦点を当てたのが『ケネイトの悲恋』で、ケレプアレクが主役の『ネチェルクフの遠征』と違って女性好みに纏められている。
とはいえ真実そのままとは言いがたい。
嵐竜に乗って三人が遠征したのは多くが目にしており、そこに疑いを挟む余地はない。しかし帰還したケレプアレクとネヘイトが詳細を明かさなかったから、後の創作者は大半を想像で補った。
そもそも姉妹がケレプアレクを慕っていたかすら不確かなのだ。後に王妃となったネヘイトはともかく、遠征で姿を消したケネイトは記録自体が少ない上に殆どは信憑性が低かった。
「ちょっと飾りすぎよね……そして王家に都合良すぎだわ」
皮肉げな声を発したのはマリィである。彼女も妹分と同様に、転移の神像から姿を現したのだ。
こちらも衣装はケームトの侍女服だから、演者が二人に増えたようにも映る。
「それは言わない約束です~。強く美しいお姉さま~」
ミリィは冗談めかした言葉を歌にして返した。
人懐っこい笑みと程よく力の抜けた声は、普段の彼女のものだ。どうやら演技の時間は終わりとなったらしい。
「お姉さまって……。誰か聞いていたら、どうするの?」
窘めつつも、マリィの顔は明らかに綻んでいる。
眷属になる前、マリィとミリィは姉妹だった。しかし知る者は少なく眷属でもアミィやホリィなど親しい一部のみ、他は二人から教えてもらったシノブだけだ。
多くの場合、眷属達は自身の前世に触れない。たとえばマリィとミリィが神界に呼ばれたのは人々のために命を捧げたからだが、これを自慢げに語るようでは神の側付きとして失格である。
そんなわけでマリィは声を潜めたが、一方で姉と慕われたのは嬉しかったようだ。
「ええ。眷属なら誰でも入れますし、シャルロット様達が来るかもしれません」
「そのときは練習だと言い訳しますよ~。でも今日はシノブ様が光の額冠を受け取って一周年の記念式典があります~。つまりアマノ王家は大忙し、こっちに来る余裕はありません~」
第三の登場者はホリィ、つまり二人の秘密を知る者だった。そのためミリィは動じず、いつもの調子で言い返す。
およそ七時間後、ミリィはケームト王宮で『ケネイトの悲恋』を演ずる。舞踏を好む王妃イティの侍女に採用され、国王アーケナを側から観察するためだ。
同様に記念式典も事実だが、姉という言葉に自身の心情を紛れこませていたのも確からしい。大して踊っていないのに、ミリィの頬は傍目にも明らかなほど染まっていた。
◆ ◆ ◆ ◆
三人が神域に来たのは、潜入前の最終確認をするためだ。
参内の前に身体検査があるから通信筒などは置いていくし、王宮侍女になっても当分は見習い扱いで外出できない。国王アーケナを始めとするケームト王家は憑依術者で魔力感知が得意な筈だから、思念や魔術も控えるべき。したがって事前に入念な打ち合わせが必要、神域なら歌や踊りも確かめられる。
このようにマリィが主張し、ホリィも賛成したのだ。
「地球好きの貴女のことだから変なアレンジ版かもと案じていたけど、取り越し苦労だったようね。これなら問題ないわ」
「舞いと歌、それに筋立て自体。どれもケームトの伝統に則っています。では、情報交換に移りましょう」
一通り鑑賞すると、マリィは表情を緩めて合格だと宣言した。するとホリィは間を置かずに次の議題へと進める。
ミリィのケームト王宮参内は現地時間の朝八時だ。ここヤマト王国は五時間ほど早く日が昇るとはいえ、悠長に構えてはいられない。
「ミリィ、王妃の側付きは難しいかもしれないわ」
まずマリィが、王妃イティの侍女から得た情報を披露していく。
この侍女は噂好きで、王宮の出来事を家族に漏らすことがある。そこでマリィは侍女の家で下働きをしつつ探っていた。
「王妃が最も欲しいもの……それは自身の血を継ぐ王だとか。最善は王子達どちらかの即位、次善は王女に将来の王を産ませる……。だから貴女はバーナルの手先として警戒されるでしょうね」
「私の推薦者はバーナルさんとセプストさんですからね~」
マリィの指摘は予想済みだったらしく、ミリィは平静な声で応じた。
王妃イティが舞踏好きと教えてくれたのは、傍系王族バーナルの母セプストだ。もちろん彼女もイティの願いを察しているが、他に王宮侍女として潜り込める先は少ない。
まず男性王族の側近は男のみだから、国王アーケナや王子ジェーセルとウーセルは自動的に除外される。王家の女性は王妃イティと王女メルネフェルの二人だが、後者は姿を現すことすら稀で好みも判然としない。
バーナルはメルネフェルの婿候補だが、御簾越しに僅かな言葉を交すだけだ。王女は異相の彼を嫌っているという噂が正しいのか、年に何度か面会する他は文通という有様だ。
既に王女は十二歳、成人まで三年を切った。そろそろ婿候補との交流を深めるべきだが、イティは静観したままだ。
「王妃が放置しているのはアーケナの研究に期待しているから、って噂よ。まだ王の鋼人は大幅に改良できる……そう信じているというの。でもバーナルは王子達より遥かに魔力が多いから……」
つまり情報秘匿のためバーナル陣営の王宮入りを邪魔する可能性は高い、とマリィは結ぶ。
国王アーケナは優れた魔術師であると同時に、不世出と言うべき魔導装置研究者でもある。そして彼は王の鋼人の改良を隠しているが、近しい者達は大まかなところを察していた。
そのため王妃付きの侍女達は、このように見ていた。イティは夫の研究が更に進むのを待っている、と。
魔力不足のジェーセルとウーセルは王族級すら動かせないが、研究の成果次第では王の鋼人を操れるだろう。そうなれば二人も王の候補だから、バーナルを王女の婿にしなくともよい。
いくら大魔力の持ち主とはいえ、あんなカエル顔の男と王女を結婚させるなんて論外である。イティの側近達の意見は、こうなのだ。
ちなみに今のところ、バーナルは王の鋼人への挑戦を避けていた。
王宮には王子達の支持者が多く、傍系王族の彼を後押しする者はいない。唯一の味方は憑依術の素質を見抜いたアーケナだが、こちらは魔力不足だから修業に励めと言うのみだ。
しかし自分でも動かせるとなったら、バーナルも考えを変えるだろう。このように王妃は警戒しているという。
「こうなったら王女に賭けましょ~! 全力で魅了しちゃいますよ~」
「それは良いけど、怪しまれないようにね。参内中の貴女は王都生まれの少女マァト、まだ十歳で魔術も習っていない……っていう建前なんだから。舞踏や歌も天才少女で済む程度にしておきなさい」
「とはいえオアシス担当としても少々進展が欲しいところです。どうやら皆さん、シノブ様の意図に気付いてきたようですし……」
王妃より王女。そう纏まったと見たようで、ホリィが自身の報告を始めていく。
シノブの意図とは性急な介入の回避、つまり先送りだ。
ホリィが受け持つデシェの砂漠のオアシスでは、連日のように豪タイガーの操縦訓練が行われていた。これは慣れないと魔力の消費が激しく、操縦者のマリエッタが持たないからだ。
しかし寝る間も惜しんで特訓した甲斐あって、最近では長時間の連続稼動も可能となった。
「訓練しなさいと送り出したけど、その後は放置状態ですからね~」
「訪問なさったときも、ネフェルトート君を確かめに行ったようなものだったわ。確かに限界かもね」
頷くミリィに続き、マリィも仕方ないと言いたげな表情になった。
◆ ◆ ◆ ◆
アマノ同盟を構成する国々では、アーケナの早期打倒を望む声が強い。これはアーケナが『黄昏の神』なる存在を奉じ、民にも信仰を強制しているからだ。
この星を創ったのは女神アムテリアで、他に神と呼ぶべきは彼女を支える六柱の従属神のみ。こう信ずる者達からすれば、アーケナは許されざる存在であった。
特にカンビーニ王国やガルゴン王国の首脳陣がアーケナの早期排除を強硬に主張した。
メリエンヌ学園研究所で実施したケームトの技術解析には、両国からも多くが加わった。そのため双方とも現地事情に詳しくなったが、代わりに憂いも深まったのだ。
そんなときガルゴン王国の王女エディオラが王の鋼人に匹敵する大きさの豪タイガーを完成させ、その操縦者にカンビーニ王の孫娘マリエッタを選んだ。これをシノブは両国を抑える奇貨になると睨み、ケームトの西にあるオアシスを訓練場所として提供した。
このオアシスは魔獣の領域にあるがケームトの王都アーケトにも比較的近く、飛行船なら無補給で到達できる距離だ。つまり対ケームト戦の前線基地として絶好の場である。
そのため両国を始めとする急進派も主張が受け入れられたとして一旦は収まったが、どうも予想と違うという声が上がり始めた。
「エディオラさんやマリエッタさんは落ち着いていますし、アルマン共和国のアデレシアさんも同様です。しかし軍人や研究者に、そろそろ出撃をと上申する者が何人もいます。あくまでも私個人の意見ですが、不満解消の機会が必要ではないでしょうか」
「でも黄昏信仰強制を除けばアーケナの治世は穏当そのもの、したがってシノブ様はケームトへの進軍を認めない。……とはいえオアシス駐留組の声も無視できないわね」
「伝説の調査はどうでしょ~? 空から大河イテル上流を探検です~!」
ホリィの何か対応をという意見に、マリィは同意しつつも悩ましげな顔になった。そして残るミリィだが、相変わらずの楽天的な表情で代替案を示す。
『ネチェルクフの遠征』で赴いたのはケームトの南だが、こちらもオアシスの周囲と同じで巨大魔獣が犇めく地だ。したがって飛行船や豪タイガーが活躍する場はあるかもしれないが、それで邪教打倒に燃える人々の気持ちが治まるだろうか。
「これはシノブ様に御判断いただくしかなさそうね」
「ではミリィ、お願いします」
「はいはい~。まず魔力についてです~」
マリィが保留を宣言すると、ホリィは最後の報告者に顔を向けた。するとミリィは待ってましたとばかりに口を開く。
「アミィに頼んでトト君の自然放出魔力量を調べてもらいました~。なんと千超え、たぶん先王メーンネチェルと同じくらいですよ~! ちなみにバーナルさんは七百三十、セプストさんは二百七十です~!」
ミリィが口にした数字は魔力眼鏡が示した値だ。
メーンネチェルは故人だが、先日セプストから聞いた話を元に推測した。彼女の感知能力は確かなようで息子バーナルとの差も測定結果と一致したから、大きく外れてはいないだろう。
「普通の人族の二百倍以上……流石はケームト王家の隠し子と言うべきかしら? それにバーナルだって、他なら国一番だわ」
「これほどの者を輩出するなど、知る限りヤマト大王家やメリエンヌ王家くらいです。よほどの関与があったのでしょうか?」
聞き手の二人は驚きを隠さなかった。
マリィが触れたように常人の放つ魔力量は五程度、上級騎士でも十や二十だ。瞬間的に何倍もの魔力を操って桁外れの武力を得る者もいるが、これは極めて短時間しか持たない。
放出量を増やしたままだと、あっという間に魔力が尽きてしまう。そのため普通は技を出す瞬間のみ解放するのだ。
しかしトト少年ことネフェルトートは桁が違いすぎる。やはりケームト王家は特別と考えるべきなのではないか。
ちなみに誰もアマノ王家に触れないが、これには理由があった。以前シノブの魔力量を確かめたら、計測不能と表示されたのだ。
「アーケナの魔力は先王より少ない筈です~。もし多かったら先に即位したでしょうし~。つまり上空なら大丈夫、測定よろしくです~」
ミリィは同僚達に、ペコリと頭を下げた。
ケームトは降雨が稀だから野外上演が多く、今回も王宮の庭が舞台に選ばれた。そこでホリィとマリィが鷹の姿で高空から見張りつつ、魔力眼鏡でアーケナ達の魔力を調べる。
魔力眼鏡は姿が見える相手なら距離に関係なく測定できるが、今までアーケナは外出しなかった。つまり今回は絶好の機会というわけだ。
「任せなさい。でもミリィ、くれぐれも気をつけるのよ」
「万一のときはマリィと私で助けますが、それでは眷属の関与を疑われるでしょうから」
「はい~。眷属出現で片付いたとかなったら、シノブ様に申し開きできません~」
『黄昏の神』を奉じるアーケナの前に、女神アムテリアの眷属が現れたらどうなるか。
邪教を打ち払い、地上をあるべき姿に戻すために来た。こう受け取る者が殆どだろう。
しかし、そんなことを神々やシノブが喜ぶ筈がない。
地上の者達の成長を願い、神々は介入を避けている。シノブも神の血族としての登場など望んでいない。
今は正体を伏せるべき。そう三人は誓い合う。
「貴女達の誠心、確かに受け取ったわ。でもミリィ、手抜きはダメよ」
今まで誰もいなかった場から、涼やかな女性の声が広がっていく。
美しく、神々しく、それでいて心弾む軽やかな響き。金鵄族であれば数え切れないほど耳にする、しかし常に新鮮に感じる声音だ。
とは言うものの、唐突すぎる登場は眷属達にとって衝撃的だったらしい。三人は驚きも顕わに向き直ると、そのまま跪く。
「アルフール様!」
「ご降臨に気付かず、申し訳ありません!」
「そ、その……。眷属の力を示せ、との仰せでしょうか? ですが……」
「少しビックリさせすぎたかしら……でもマリィ、そんなに叫ばなくても良いでしょ? ホリィ、今の貴女達はシノブの器で制限されているのよ。だから気にしない! そしてミリィ、これから話すけど、まずは立って!」
畏まる三人に手を差し出したのは、森の女神アルフールだった。
彼女は魔力の動きを最小限に抑えつつ現れたが、その理由は悪戯心の発露だったようだ。もしかすると三人の制限を失念していたのかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆
アマノ同盟にはシノブを神の血族と察している者も多いし、ベルレアン伯爵家やメリエンヌ王家のように真実を教わった者もいる。
いずれケームトの要人も知るだろう。そのとき『流石は眷属、あのときも素晴らしかった』と賞賛されるように。ただし現時点で気付かれてはならない。
眷属の名に恥じぬ結果を望む。そうミリィに語ると、アルフールは姿を消した。
そして数時間後、ホリィとマリィは鷹の姿でケームトの空を飛翔していた。
二人が見つめる先には王宮の野外劇場がある。先ほどミリィはアーケナ達に紹介され、今は『ケネイトの悲恋』を演じているのだ。
舞台の上には少女マァトの姿になったミリィのみ、伴奏なしの完全な独演だ。
しかし誰もが見惚れるほど素晴らしい。正面の貴賓席に座すケームト王家の面々、両脇に控える家臣達、どちらも一心に見つめている。
──眷属の力を使わずに成すのは至難の業……アルフール様のお言葉を聞いたとき、そう思ったわ。でも杞憂だったようね──
──きっと後々まで語り継がれます。アルフール様が望まれたように表向きは人族の少女マァトの、そして真実を知った者には眷属ミリィの伝説として──
二人が感嘆の言葉を交わす間も、ミリィは歌い踊り続ける。
あるときは不世出の女戦士ケネイトとして凛々しく、あるときは聖なる巫女ネヘイトとして清らかに。更には天才治水学者ケレプアレク、三人を助けた嵐竜、それどころか襲い来る魔獣達すら演じ分けていく。
身に纏うは白き衣のみ、両手は空のまま。しかしケネイトを演ずれば輝く鎧と剣が、ネヘイトを演ずれば聖衣と錫杖が、自然と重なってくるほどだ。
しかもミリィは、これらを自身の表現力だけで成していた。
今の彼女は眷属の力を封印し、魔力も常人並みに抑えている。変身の足輪を使い、人族の少女と同等の能力にしたのだ。
魔術どころか初歩の魔力操作すら使えないが、それでも彼女の舞踏と歌唱は幻の世界を築いていた。
「これが本当の『ケネイトの悲恋』……」
「ああ、お二人の心が伝わってくるぞ」
「お二人が初代陛下を慕う様子、嵐竜に乗って大空を飛ぶ光景、イテル上流で無数の魔獣と戦う雄姿……。私は今、『ネチェルクフの遠征』の真実を見ているのですね……」
劇場に集った者の殆どは、うっとりとした様子で浸りきっている。
側付きや護衛の兵士達は職務を忘れてしまったらしい。しかし注意する者がいないから、いずれも単なる観客と化したままだ。
最初は顔を伏せがちにしていたバーナルやセプストも、真っすぐにミリィを見つめている。傍系王族として家臣寄りの扱いを受けている二人が遠慮を忘れるなど、よほど心を動かされたのだろう。
「まさか、これほどとは……」
「はい……」
「てっきり誇張かと思いましたが……」
王妃イティや王子達も驚きの言葉を漏らす。
この三人、開始前は言葉や態度の端々にバーナルへの敵意を滲ませていた。その余波は彼が紹介した少女マァトことミリィにも及んだが、激しい驚きが全てを消し去ったようで今は感動を顕わにしている。
とはいうものの、ごく少数だが例外は存在した。アーケナは無表情を貫いているし、王女メルネフェルの様子は御簾に阻まれて分からない。
──ミリィも成長したわね!──
──アルフール様──
──お褒めの言葉、あの子に代わってお礼申し上げます──
アルフールの思念は唐突だったが、ホリィとマリィは動ずることなく応じた。
これは神域で予告されていたからだ。現地に赴くことはないが神界から鑑賞させてもらうと、森の女神は明言したのだ。
──ホリィ、あくまで念のためだけど魔力眼鏡で確かめて──
どうやらアルフールは、これもミリィへの試練と考えているようだ。
そもそもケームト担当はミリィへの罰、なにかにつけて地球文化と絡めて遊ぶのを咎められた結果だ。つまり今回の指示には、好みに流されず励めという意図があるのだろう。
──はい──
ホリィは近くに浮いていた魔力眼鏡を自身の前に移動させ、それを通してミリィを注視する。
この高さだと鷹ですら小さな点にしか見えないし、充分に離れているから僅かな波動ならアーケナ達に気付かれる心配も不要だ。そこで魔力で浮遊させて携えようとなったわけだ。
──魔力量は五のままです──
──ちゃんと誓いを守っているわね!──
──はい、後は侍女の件だけですね──
結果を聞くとアルフールは満足げな思念を響かせ、更にマリィが相槌を打つ。
実は既にケームト王家の魔力測定を終えていた。国王アーケナが八百七十、王妃イティが五百四十、王女メルネフェルが八百十。それに対し王子ジェーセルとウーセルが百前後だ。
これらの数値は予想の範囲内だったが、改めて一つの疑問が浮かぶ。
イティが『自分の息子達に王位を』と画策するのも心情的には理解できるが、流石に不可能ではないか。いったいアーケナは、どのような研究をしているのか。
ホリィとマリィは、そう首を傾げたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
そうこうするうちに、演目は最終盤を迎えた。
『ケネイトの悲恋』は題名通り彼女に焦点を当てているから、ラストはケネイトが命を捧げるシーンである。もっとも遠征先で何があったか不明なままだから、全ては演出家達の想像の産物だ。
巨大魔獣の大群に立ち向かって落命したという話もあれば、大河イテルを鎮める人柱になったとする話もある。中には妹ネヘイトとの隔意が死を招いたなどの変わり種もあるが、主流は愛する男を妹に託して単独で死地に残ったというものだ。
もちろんミリィは王道の展開を選ぶ。
「さあ早く! 二人で国を興し、ケームトに平和を!」
ミリィは高らかに叫ぶと、これまでで最も激しい舞いに移る。
たった一人で魔獣の群れを抑えるケネイト、しかし長くは続かない。最愛の二人が逃げ延びたと知った彼女は静かに膝を突き、そのまま倒れ伏す。
これがミリィが選択した終幕だ。
「ケネイト様!」
「なんて尊い……」
女性達は滂沱の涙、男達は堪えようと歯を食いしばる。流石のアーケナも心を動かしたのか、両手は肘掛けを固く握りしめている。
「天才……いや、そんな言葉すら霞む!」
「マァト殿、貴女こそケームト最高の踊り手にして歌い手だ! それも永遠の!」
しばし続く感動のざわめき、続いて起こるは賞賛の声と拍手。そして舞台の中央で、一旦は身を起こしたミリィが静かに平伏する。
今の彼女は王都の少女マァトだから、国王達への敬意を示さねばならない。少なくともアーケナが声を掛けるまでは、このままの姿勢で待つことになる。
「マァトよ、見事であった。さあ、立つがよい」
「はい」
アーケナの言葉を受け、ミリィは静かに起立した。すると再び周囲から万雷の拍手が沸き起こる。
通常なら身を起こすように言うのみ、つまり跪礼の姿勢へと促す。立ってよいという言葉は、それ自体が最高の賛辞なのだ。
「私は芸事に疎いが、それでも空前絶後の素晴らしさと感じ入った。……さてイティよ、この娘を側仕えとするか?」
あまり感動の言葉を並べても王者の威厳を損なう。そのように思ったのか、アーケナの称揚は短かった。
続いて彼は隣に座す妻に顔を向け、採用するかを問うた。
「……これほどの者を侍女にするなど、悲劇というべきでしょう」
短い沈黙の後、イティは緩やかに言葉を紡いでいく。
この踊りと歌、まさしく国の宝。それにマァトは十歳、ならば更に伸ばすため芸能の道へと導くべき。彼女は、そう示したのだ。
──もっともではあるけど、やっぱり避けられたのかしら?──
──おそらくは……。それと観たいときは再び招けばよいと思ったのかもしれません──
上空ではマリィとホリィが疑念混じりの思念を交わしていた。
イティの言葉は正論だが、バーナル派を嫌っているという前提に立てば別の見方が浮上する。歌や踊りに邁進しなさいというのは建前で、本音は採用拒否というものだ。
──後は任せるわ。ミリィには、本当に素敵だったと伝えてね!──
アルフールは予断を与えるのを避けたらしい。彼女はミリィへの誉め言葉を残し、思念での交流を終わりにする。
「母上のお言葉通りかと」
「ええ、私達が独占してはなりません」
地上では、王族達の会話が続いていた。
どこか冷たく聞こえる声は、王子ジェーセルとウーセルのものだ。これで厄介払い出来ると言いたげに、母に似て整った顔を歪ませている。
どちらもイティの作った流れに乗ろうとしたのだろう。
──芸事に専念するとなったら潜入調査なんて無理よ──
──ですが、これだけ大反響なのに姿を消すなど不自然……あっ、王女が!──
上空での悩ましげな会話は、唐突に途切れた。ホリィが口にした人物、王女メルネフェルが御簾の後ろから姿を現したのだ。
「お父様、マァトを私の側に置いていただけないでしょうか? 歌や踊りに専念させるなら、しっかりした後ろ盾が必要です」
メルネフェルは可愛らしい声を響かせると、父親に顔を向けた。
こちらもイティ譲りの美貌だが、受ける印象は正反対である。真摯な眼差し、少女らしく優しげな面持ち、純粋さが滲む声、それらが心底マァトを案じていると感じさせるからだろう。
室内に篭もることが多いからか、メルネフェルは肌の色が随分と薄い。髪は家族と同じ艶やかな黒だが、肌は小麦色といった程度だ。
ケームトは褐色の肌に黒髪という容姿が殆どだから、とても目立つ。
「流石は巫女姫様」
「これは良い案ですな」
家臣達から喜びの声が上がる。
あの歌や踊りを再び間近で鑑賞したい。もし可能ならマァトを王宮に残したい。そのように多くの者が囁き合っていたが、王妃や王子達に遠慮して大きな声では言えなかったのだ。
「メルネフェル様……」
歓喜の響きが広がる中、唐突に跪き顔を伏せたのはバーナルだった。
どうやら彼は自身の異相を恥じたらしい。そんな息子を哀れんだのか、隣では母のセプストも同じ姿勢を取る。
「あ、あの……」
一方メルネフェルだが、下座の様子に気付いたらしく可憐な面に困惑を滲ませていた。
しばらくすると彼女は再び父親に顔を向ける。同様に王妃や王子二人、更には居並ぶ臣下達もアーケナの言葉を待つ。
「……よかろう。マァトよ、そなたは我が娘メルネフェルの庇護を受けつつ技を磨くのだ」
「ありがとうございます。陛下のお言葉通りにいたします」
アーケナの言葉が終わると、間を置かずにミリィが礼を述べた。どうやら彼女は邪魔が入るのを嫌ったらしい。
──流石ミリィ、ちゃっかりしているわね! でも少しは言葉を飾るべきよ。それに十歳とはいえ、食い気味の返答なんて処罰されたらどうするのよ──
──良い判断だと思いますよ。王妃が何か言おうとしていましたから──
上空では同僚達が再び思念を響かせる。
マリィは軽口めいた調子で、ホリィは冷静に。いつものやり取りは、二人の安堵からだろう。
もちろん大変なのは、これからだ。しかし今は素直に、王宮潜入の成功と新伝説の誕生を祝おう。
軽やかに飛ぶ鷹達の姿は、そう語っているかのようだった。
お読みいただき、ありがとうございます。