28.20 王家の闇
下弦の月が顔を出した深夜、一羽の鷹がケームト王国の上空を目指していた。
夜の飛翔を楽しむなど、当然ながら普通の鷹ではあり得ない。その正体は金鵄族のミリィ、ただし変装の魔道具である足輪の力で本来は青い羽毛を茶色に変えている。
そのため今の彼女を目にした者がいたら、ヨタカの類とでも思うだろう。
ケームト王国のある一帯は本来だと砂漠だが、巨大鋼人など高度な魔道具技術を活かした土地改良で一部は豊かな緑地に生まれ変わった。ここ王都アーケトも長年の灌漑により背の高い街路樹が聳え、周辺は緑の絨毯と見紛う農地で囲まれている。
木々の緑と水路の青で区切られた王都、囲むのは見上げんばかりの城壁。その北隣には都市と同じく人工の産物であるメーヌウ湖、残る三方は春本番を迎えて伸び盛りの麦や果樹。空からの王都アーケトは、元が砂と岩の地だったとは思えぬ栄えようだ。
しかしミリィは高度を増すと共に速度を上げていくから、すぐに無機質な銀砂が眼下の大半を占める。
夜空から眺めた砂の海は、まるで死の国のようだ。砂漠を墓所とする者も多いから事実でもあるし、ケームトでは比喩表現としても通用する。
夜を統べる神ニュテスの領域、神々の長男がしろしめす静寂の国、彼の配下たる幻狼族が守る安息の地。生きて帰れぬ不毛の領域への畏れを、人々は神々への敬慕に昇華してきた。
この地を創世期に受け持った女神デューネが示した教えは、アーケナが黄昏信仰を打ち立てた今も変わることなくケームトの民の心に息づいているのだ。
この夜も遺族達の手で砂漠に還る者がいる。
漆黒の棺と担ぐ人々を照らすのは、半円に近い月と星明りのみだ。しかし黒衣の集団は恐れげもなく足を運び、静々と砂丘を越えていく。
葬送の列が進むのは、砂漠との境界である防風林も見える近場だ。そのため魔獣の出現例も皆無で安心できるのかもしれないが、彼らが唱え続けている聖句や賛歌が支えとなっているようでもある。
星々と銀砂の大海を無事に渡り、その先にある安らぎの地で眠る。そして冥界を司る神ニュテスや彼の眷属である幻狼族に癒され、新たな生を授かり再び歩み始める。かつて創世の時代に説かれた輪廻転生の摂理が、朗々たる声で闇の中に広がっていく。
ここケームトは地球ならエジプトに相当するから、デューネは兄神の従者を犬頭人身の神アヌビスに擬していた。他の眷属と同様に幻狼族も人間の姿を持つが、この地では題材とした神話に合わせたのだ。
ちなみにデューネは自身をケームトを南から北に貫く大河イテルの守り手とした。彼女は海の女神だが、川や湖沼も受け持っているから妥当なところだろう。
そして母神である大神アムテリアは日輪の化身、全てを生み出し見守る存在だ。つまり創造神アトゥム・ラーの位置付けである。
このようにケームトは古代エジプト文化を大いに参考にしており、ここでのニュテスはオシリスと同じく主神に続く高位の神とされた。彼は死者を癒し来世に導く神だから他でも篤く敬われているが、この地では独特の事情もあって一層の尊崇を集めたのだ。
深夜の砂漠にも関わらず葬列の人々が落ち着いた歩みを保てる背景には、このような冥神や彼の眷属への深い信心があるようだ。
ただしミリィが思い浮かべるニュテスや幻狼族は、ケームトの人々とは随分と違っていた。地球のサブカルチャーをこよなく愛する彼女だけあり、その思考が他と異なるのも当然というべきか。
──もしかすると幻狼族の力が宿った剣とかあるかもしれませんね~。そして持った人を剣の達人にしたり~──
──あるわけないでしょう!──
夢想気味のミリィに突っ込んだのは、同僚で姉貴分のマリィだ。しかし用いたのは双方とも思念だから、夜空に響いたのは彼女達の羽ばたきのみである。
ミリィが思い浮かべたのは日本で非常に有名な少年漫画だから、彼女ほど地球に興味のないマリィも知っていたようだ。
日本由来の神々であるアムテリア達は故郷に神域を残しており、そこから地球の情報を得て新たな星を整える際の参考にした。とはいえ異なる世界に移った者の帰還は上級神が禁じているから、利用したのはテレビやラジオなど電波に乗って届く映像や音声だという。
もちろんアムテリア達は星創りに漫画やアニメを用いなかったが、情報収集を担当する眷属の中には熱中した者もいた。そしてミリィは地球好きの代表格だったから、彼女の監督役を任じるマリィも見聞きすることが多く自然と覚えてしまったのだろう。
それはともかく二人が王都上空で遭遇したのは必然であった。
彼女達は昨日から、侍女に扮しての潜入調査を始めた。マリィは王宮侍女の家、ミリィは若手男性王族バーナルの館だ。そこで得た情報を交換すべく、二人は鳥の姿に戻って空に昇った。
これは憑依術を使えるバーナルなら思念の波動を感じ取れるかもしれないからだ。流石に内容までは分からない筈だが、単なる侍女が強い魔力波動を発していたら不審に思われるのは確実である。
どうやらマリィが不機嫌になったのは、マイペースすぎるミリィの言葉に不安を覚えたからでもあるようだ。確かにバーナルの館でも今のような調子なら、あっという間に放逐されても仕方ない。
──でもヤマト王国の健琉さんはアニメっぽい魔剣を使ったそうじゃないですか~! カードを差し込んで属性を変える魔法刀、実に素晴らしいです~! そうなると、しゃべる剣も欲しいじゃないですか~! たとえば仮面ヒーローのアイテムっぽく『魔法剣、起動!』って叫んで変形するとか~!──
──不謹慎すぎるわ! 眷属の魂が使われた魔剣なんて冗談でもダメよ!──
なおも趣味的な主張を繰り返すミリィを、マリィは自身の嘴で突き始めた。人間に変じたままでは飛行できないから、こちらも鷹の姿なのだ。
ちなみに本来眷属は人の姿でも飛翔できるが、今の彼女達には不可能だ。これは現在の主であるシノブの器が、まだアムテリア達に遠く及ばないからである。
もっとも今マリィが問題にしているのはシノブの能力ではなく、ミリィの不用意な発言だ。
彼女達の妹分となったシャミィがホクカンの聖剣から救い出されたのは三月下旬、まだ一月半ほどしか経っていない。二人だけであろうが、口にして良いことと悪いことくらい区別すべき。このようにマリィは続けていく。
──バーナルの館でも好き放題していたんでしょう! 後で叱られないように、ここの人が気付かない程度に地球のことを織り交ぜながらね!──
よほど気に障ったのか、マリィは想像混じりの弾劾を続けていく。
これにはミリィも驚いたようで、茶々を入れることもなく聞くのみだ。そのため月と星々が輝く夜空は、しばしの間マリィの独壇場と化す。
◆ ◆ ◆ ◆
──そうね……まずは奇妙なポーズかしら。手を顔の前に翳したり、妙に重心をずらしたり……自分で『バァ~ン!』とか言うのもありそうね──
──そ、それは……やりましたけど~──
流石は姉貴分だけあり、マリィは見てきたかのように並べていく。
この二人は前世でも姉妹だったから、絆も他より遥かに強い。そのためミリィも誤魔化せないと諦めているらしく、素直に認めて僅かだが頭を下げる。
ただし二人は鷹の姿で飛翔中、今は寄り添うように近づいているから傍目には仲良さげに映るだろう。
──本当に貴女ったら! よく追い出されなかったわね!──
──バーナルさん付きの侍女って何人も辞めているから、大目に見てくれたようです~──
呆れるマリィに、ミリィは昨日から今日にかけて仕入れた事柄を語っていく。
今回ミリィは、暇乞いを申し出た侍女の後任として潜入した。女性に不慣れなバーナルの性格を改善させるために側付きの少女を置いているが、なんと前任者は僅か一週間で辞めてしまったのだ。
それどころか使用人達によると、これまでも彼専任の侍女は同程度の短期間で入れ替わったという。
専任侍女といっても給仕や話し相手だけで、いかがわしいことなど一切ない。しかしバーナルがカエルを思わせる異相だからか、雄牛を想起させる巨躯に威圧感を覚えるのか、全て長続きしなかったのだ。
それなら年長で肝の座った女にすればよさそうなものだが、これはバーナルが嫌がった。そもそも彼を女慣れさせるための措置であり、年頃の女性と普通に会話できたら侍女を置く話など出ない。
それに成人済みの侍女に関しては、母のセプストを始めとする周囲も反対した。彼女達はバーナルが王女メルネフェルの婿になれるよう願っており、侍女に溺れたなどという悪評が立つ危険を避けたのだ。
──似たようなことは私も聞いたわ。彼の顔が怖くて王女のメルネフェルが泣いたとか……五年前の新春だから、彼女が七歳になる直前ね──
どうやらマリィは妹分の追及を一旦棚上げにしたらしい。彼女は王宮侍女から聞いた噂話を持ち出した。
マリィが情報収集先とした王宮侍女は随分と好奇心旺盛なようで、自身が仕えている王妃イティ以外の動向にも詳しかった。王女メルネフェルは巫女として修業中だから殆ど会ったことがない筈だが、それでも彼女が幼いときの逸話まで知っていたのだ。
──それはバーナルさんも気にしていましたね~。母のためにも婿入りして王になりたいけど、第一印象が強烈すぎて避けられているようだ……って~──
ミリィはバーナルから直接聞いた話を披露していく。
今のバーナルは次期国王の最有力候補として期待されているが、成人年齢の十五歳までは大袈裟に表現するなら日陰の身と呼ぶべき存在だった。彼は父を早くに亡くし、母のセプストのみに支えられて大きくなったからだ。
セプストは王家出身の女性だが、五代前の王の子孫だから随分と傍流だ。そのため彼女は叩き上げの武人に降嫁することになる。
幸いにして夫婦仲は良かったし、王族としての栄華は望めぬが夫は将軍職だから羽振りも良かった。加えてバーナルは父に似た異相だが唯一授かった子として愛情を注がれ、軍人になるなら柔弱な容姿より良いとセプストも我が子を励ました。
そのためバーナルは父と同じ道を歩むべく武術に邁進し、成人を迎えるころには早くも実力派の武人として注目された。
ただし狭義の王族ではなく、あくまで王家の血を引く若手軍人としてだ。その証拠に成人直前に初の参内を許されたとき、彼は幾らか下手から剣の誓いを捧げた。
しかし誓詞を受けたアーケナは玉座の側まで呼び寄せ、驚くべき言葉をかける。なんとバーナルに憑依術の素質があり、しかも修行次第で王の鋼人を動かせるかもしれないと言ったのだ。
ケームトでは王の鋼人を操る者が君主となるし、このころ既に王子達の魔力が足りないのは周知の事実となっていた。つまりアーケナの言葉はバーナルこそ自身の跡継ぎと示したに等しく、王宮に揺れんばかりの騒ぎが訪れる。
──だから急遽王女と対面することになったんだそうです~。でもバーナルさんは無骨な軍人、それに対し王女は後宮から出たのが巫女の修行だけっていう子ですからね~──
──せめてバーナルが話し上手ならともかく……そういえば貴女、随分と肩入れしているようだけど?──
先ほどからミリィは『バーナルさん』と敬称を付けているし、思念の響きからも親しげな様子が感じられる。それにマリィは気付いたようで、どこか探るように妹分の周囲を旋回していく。
──バーナルさんはアムテリア様達を信じているんですよ~──
ミリィは昨夜の一幕を明かす。従来の神々を信仰しているとバーナルが暗示した件である。
バーナルとは創世期にデューネが聖なる言葉として授けた一つだから、アムテリア達を敬っている傍証としては充分だろう。国王アーケナが見逃している理由は謎だが、彼も本心から『黄昏の神』を奉じていないとバーナルは言及した。
どうにも不思議ではあるが、先ほどの葬列からも旧来の教えを守る者が多いのは明らかだ。これはアーケナの黄昏信仰推進が見た目より緩やかな証ではないか。このようにミリィは続けていく。
──そこが全ての鍵かもしれないわね……。そうだわ、母親のセプストは!? アーケナが国王になったころ、彼女は王宮勤めだったんでしょう?──
少しの間、マリィは思案に耽っていた。しかし彼女は今夜の本題というべき事項を思い出したらしく、強い魔力波動を響かせる。
今朝ミリィが通信筒で伝えた通りなら、彼女はセプストと会えた筈だ。
バーナルは己の容貌を恐れないミリィを気に入ったらしく、彼女がセプストに会いたいと望むと後押しをすると明言した。そして彼は朝食の場で母に打診し、これをセプストも快諾したから少なくとも面会できたのは確かだろう。
ちなみにアーケナが王位に就いたのは創世暦989年、トト少年ことネフェルトートが生まれたのは前年の創世暦988年だ。したがって当時王宮で働いていたセプストなら裏事情に詳しいだろうと、マリィは強い期待を抱いていた。
しかしミリィの奇行が脱線を招き、少しばかり寄り道してしまったわけである。
──やっぱり新情報がありましたよ~! 実はですね~!──
再び墓穴を掘るのを避けたのか、あるいは大したことではないと思っているのか、ミリィは朗らかに語り始めた。ただしマリィも更なる遅延を嫌ったようで、そのまま静かに聞き入る。
そのため先刻とは逆に、深夜の高みに響くのは妹分の思念のみとなった。
◆ ◆ ◆ ◆
バーナルの母セプストは、息子とは似ても似つかぬ容姿端麗な女性だった。共通点があるとすれば、どちらも人族ということのみかもしれない。
それはともかくセプストの美しさは並外れている。長い髪は艶やかな漆黒、小麦色の肌も滑らかでシミ一つない。なにより整った容貌が、極めて高貴な出自だと声高に示している。
当年とって四十歳のセプストは美人といっても若い女のような色香は持ち合わせていないが、面は王宮の麗人達よりも輝いている。歳月を重ねて得た強さ故か、最低限の化粧のみにも関わらず彼女は往年以上の美を保っていた。
五歳下の王妃イティと並んでも見劣りしない容姿だが、それでもセプストが兵卒上がりの男に嫁がされたのは魔力が少なかったからだ。
傍系とはいえセプストは王族だから国内有数の魔力量を誇るが、イティと比べたら半分程度だろうか。ちなみに国王アーケナは更に上、最低でもセプストの三倍以上は確実である。
つまりバーナルは一種の先祖返りなのだろう。彼の父は一兵卒から将軍にまでなった優秀な軍人だが、魔力は妻よりも随分と少なかったのだ。
そのためかミリィが気にかけたのは相手の魔術師としての力量ではなく、バーナルが厳格と評した人品だったようだ。セプストの部屋に入ったとき、彼女は侍女の見本と賞すべき見事な礼を披露する。
「大奥様。昨日から御奉公させていただいておりますマァトでございます」
「ご丁寧なお言葉、痛み入ります。私はセプスト、かつては巫女を務めたこともありますが末席というのも恥ずかしいほどの端女でございます。どうか頭をお上げになってくださいませ」
仮の名を口にしたミリィに返ってきたのは、恭しさも顕わな声だった。
もっともミリィの注意が向いたのはセプストが示した敬意ではなく、その言葉自体だろう。弾かれたように上げた顔は驚愕で彩られ、大きく見開いた目は部屋の主に真っすぐ向けられている。
幸いと言うべきか、ミリィの動揺を目にした者はいなかった。
なんとセプストは腰掛けていた長椅子から降り、床に伏していた。室内には毛足の長い絨毯が敷かれているとはいえ、王家の末裔が雇い入れた侍女に示す姿ではない。やはり彼女はミリィが眷属だと気付いているらしい。
「その……椅子に戻ってください」
「それでは失礼します。……マァト様、どうかこちらへ」
どうやらミリィは言い繕えないと諦めたらしい。彼女は普段の緩やかな口調にこそ戻らなかったが、侍女として謙るのは止めた。
一方セプストは相手の正体を問わぬままだが、先刻同様に遥か上位にある者への態度を保つ。彼女は自身の長椅子の対面に置かれた豪奢なソファーを示すと、間の小卓に置かれた茶器を手に取った。
この準備万端といった様子から考えるに、セプストがミリィの正体を察したのは入室以前で間違いないだろう。
「いつ気付いたのですか?」
「息子が語った貴女様のお振る舞いが、巫女に伝わる秘録と重なりまして……」
ソファーに腰掛けたミリィの問いに、セプストは茶を淹れながら応じていく。
秘録とは創世期の巫女達が記した古文書、最低でも九百年以上は昔の記録だ。つまり最初期のケームトを担当した眷属には、ミリィのような変り者がいたらしい。
この地を導いたのは海の女神デューネで彼女の眷属は白鰐族だから、ケームト担当の地球愛好者がミリィの知己とも限らない。しかし幻狼族がアヌビスの代わりとされたように金鵄族もホルスの占めた地位に収まっており、実は同族という可能性もある。
ただしミリィが眷属になったのは創世期より何百年も後だから、彼女に真実を知る術など存在しない。
そのためかミリィは絶句し、僅かだが視線を泳がせた。しかし幾らもしないうちに彼女は真顔に戻り、再びセプストを正面から見つめる。
「なるほど……。良いですか、私はバーナル殿を後押しするために訪れたのではなく、この地を正しい状態に戻すために来たのです。聞くところによると、貴女は彼を王にしたいと願っているようですが?」
「それは息子が王の条件を満たすかもしれないからです。もし資格があるなら相応しい地位に就いてほしいと思いますが、あくまで息子が歩む道でしかありません。ましてやマァト様の御役目を妨げるなど、あってはならぬことでございます」
鋭くすら響くミリィの言葉に、セプストは元巫女に相応しい凛とした声音で応じた。
するとミリィの表情が幾らか和らいだ。どうやら彼女は、セプストが真実を述べていると認めたらしい。
もちろん鵜呑みにしていないだろうが、もう少し踏み込んでも構わないと思ったようだ。ミリィが次に発した一言は、より核心に迫るものだった。
「ネフェルトートという名を知っていますか?」
「その件でしたか……もちろん存じ上げております」
眷属の問いには答えねばならぬと思ったのか。セプストは長い沈黙の後、大きな憂いを示すような吐息と共に肯定の言葉を送り出す。
「あれは十四年前の三月……先王妃ヘメト様は男子をお産みになられました。そして先王陛下が赤子にネフェルトートという名を授けます」
奇妙なことに、セプストは先王メーンネチェルとネフェルトートなる新生児の関係を明確にしなかった。
一般に先王夫妻は子を得ぬまま没したとされている。十三年前にメーンネチェルが崩御して同年中にヘメトも後を追うように亡くなったから、もしネフェルトートが二人の子なら先王の長男にして唯一の忘れ形見としか思えない。
しかし先ほどの言葉を選びつつといった様子からすると、この件についてセプストが何らかの疑いを抱いているのは間違いないだろう。
ちなみにセプストが口にした十四年前の三月とは、トト少年としてシノブ達が知るネフェルトートの生まれ月でもある。ただしネフェルトートが養父母の文官夫婦に預けられたのは二歳ごろだから、それまでの事柄は国王アーケナの捏造という可能性も否定できないが。
「私は王族と名乗るのも恥ずかしい末流ですが、王家に連なる者であるのも確かです。そのためでしょうがヘメト様が出産を終えた後も私は留め置かれ、ネフェルトート様が二歳になるまで御養育いたしました……。もっとも私の子はバーナルのみですから、乳母は別に用意していただきましたが」
おそらくセプストは、今でもネフェルトートを愛おしく思っているのだろう。それまでの重苦しい雰囲気が幾らかだが薄れ、微笑みというべき柔らかさが彼女の面に浮かぶ。
◆ ◆ ◆ ◆
先王妃ヘメトの出産は秘中の秘として伏せられた。そのためネフェルトートの存在を知る者は少なく、最初の養育役となったセプストも家族にすら語らぬまま現在に至る。
今回ミリィに明かしたのは、あくまで彼女が眷属だからということのようだ。
ネフェルトートが二歳になったときセプストは養育係の任を解かれたが、このときも彼女は余計な詮索をせずに従ったし他に漏らすことはなかった。我が子や当時存命だった夫に害が及ぶのを恐れ、その後のネフェルトートについても調べぬままだ。
ネフェルトートが後宮奥で育てられたころバーナルは六歳から八歳だったが、彼は母が何をしていたか知らぬままのようだ。どこか単純であり感情豊かでもある彼だから、もし真実を知っていたら昨夜ミリィに国王の隠し子がいるかもと話したときに多少なりとも揺らぎを示すのではないか。
それらを考え合わせると、現在ネフェルトート出生の秘密を知る者は非常に限られた者のみだろう。生者だと国王アーケナだけか、せいぜい王妃のイティまでと思われる。
──そういうわけでセプストさんは、アーケナに聞くように勧めましたよ~──
ミリィは数時間前の出来事を語り終えると、どこか自慢げに大きく羽ばたいた。
大きな進展があったのは確かだから、彼女の殊勲と表現すべきかもしれない。しかし報告を受けた側は、少なからぬ不満を抱えたままだったようだ。
──聞くようにって……素直に答えると思う?──
マリィの思念には、頭が痛いとでも言いたげな苦さがあった。
ネフェルトートの出生が秘された以上、王家にとって何か不都合があるに違いない。しかも先王メーンネチェルが没した後も公開せず、かといってネフェルトートを消すこともなかったのだから、現国王であるアーケナにとっても極めて微妙かつ黙秘したい問題なのは明らかだ。
──とはいえ他に問う相手がいませんし~──
ミリィの指摘は事実であった。
産みの母のヘメトは亡くなり、父親の最有力候補である彼女の夫も同じく輪廻の先に旅立った。そのため今さらネフェルトートの実父を確かめるなど、冥神ニュテスか彼の眷属でもないと不可能だ。
もちろん星を統べる最高神たるアムテリアは全てを知っているだろうが、まさか彼女に訊ねるわけにもいくまい。
セプストにしても、ヘメトが子を産む際に立ち会ったというだけだ。巫女には治癒魔術を修めた者が多く、しかも王妃の出産だから特にと呼ばれたという。
ちなみに他にも王族の巫女はいたが、一人は出産するヘメトで残る一人は現王妃のイティだから頼れない。セプストは魔力が足りず王妃候補に挙げられなかったが、イティはヘメトと争った仲で誰もが万一の事態を恐れたのだ。
アーケナがネフェルトートを自身の管轄としたのも、競争相手が没した後も妻の心に嫉妬の火が燻っていると感じたからではないか。もう一つ忌まわしき想像も浮かぶが、ミリィは口にしたくないのか先ほどの思念も敢えて冗談めかしたようではある。
──ねえ……ネフェルトート君は──
──マリィ、憶測するくらいならアーケナに聞くべきです──
躊躇いが滲むマリィの問いかけを、ミリィは彼女らしからぬ落ち着いた思念で遮った。
先王メーンネチェルが没したのは三十四歳のときだ。もちろん彼は次代を得るため早期に結婚したが、彼と妃の間には十数年も子が生まれぬままだった。
ネフェルトートがメーンネチェルの実子の可能性もあるが、セプストが明言こそせぬものの疑念を隠さなかったように真の父親が他にいると思う者も多いだろう。
そもそもネフェルトートの誕生を伏せたのは、明かせぬ出自だからではないか。
たとえばメーンネチェルが子を得られぬ体質と分かった。あるいは彼自身が実子を授かれぬと諦めたなど。もし彼では無理と判断したなら、次に魔力が多い者に希望を託すしかない。
しかし当時のケームトで最も魔力が多い女性はヘメトで、男性でメーンネチェルに次ぐのはアーケナだった。そして既にアーケナはイティと結婚して長男も誕生していたが、残念ながら二人が授かった男子は王の鋼人を動かすほどの魔力に恵まれなかった。
そのため『万全を期すなら最高の組み合わせを』という声が上がっても不思議ではない。
とはいえメーンネチェルがヘメトを離縁した場合、彼が子を成せぬと公表したに等しい。その屈辱に耐えかね、しかし優れた次代を望む勢力を抑えきれず、といった想像をセプストもしただろうし先ほどのマリィも同じことを思い浮かべたのだろう。
最悪というべき事態だが、これならアーケナが黄昏信仰を立ち上げた理由も推し量れる。
王の鋼人に拘るのは王家だけではない。むしろ治水を受け持ってきた神殿こそ、権威を保ち続けようと強い執着を示してきた。
代々の王妃に巫女を送り込んだのも王家の魔力を維持したいからで、神官達と王家との関係強化は二次的な動機にすぎない。ケームト神殿にとって治水の掌握こそが力の源泉であり、これを守り通すには大都市開発や人工湖造成すら可能な巨大鋼人を操れる血統が必要なのだ。
したがって王家に圧力をかける者がいるとしたら高位神官達で、彼らの不当な要求に王家が屈したとすれば復讐に走る蓋然性は充分以上にある。
──貴女……強いわね──
──先に知ったからですよ~──
不快な予想を抑え込んだ妹分に、マリィは思わずといった様子で感嘆の言葉を贈った。ミリィは軽く流すが、それでも賞賛に値するのは事実だろう。
眷属達は命を慈しむ神々を支える存在である。それだからこそ醜く身勝手な行為への反発は強いだろうし、神官達の堕落や横暴に対する嘆きも激しい筈だ。
しかしミリィは、現実から目を逸らさず真実を求める揺らぎなさを持っている。どうやらマリィの目には、このように映ったようだ。
──ともかくセプストさんと巡り会えたのは幸運でしたね~。彼女なら私達のことも黙ってくれるでしょうし~──
どうやらミリィは話を逸らそうとしたらしい。普段は厳しい姉貴分に褒められたのが、よほど照れ臭かったのだろう。
しかし彼女の謙遜らしき発言は、思わぬ結果へと繋がる。
──そうだったわ……。ミリィ、貴女の奇行で危うく潜入調査が台無しになるところだったじゃない!──
今さらだがマリィはミリィの不手際を責め、先刻のように嘴での攻撃を始めた。
どうやらケームト王家が隠し持つらしい闇は、マリィに極めて強い衝撃を与えたようだ。なにしろ妹分の失敗すら、一時は完全に頭から消え去るほどである。
しかし思い出してしまえば別、もしくはミリィと同じく照れ隠しの表れなのだろうか。マリィは猛烈な勢いでミリィを追い回し、執拗に突きまくる。
──い、痛い! マリィ、そんなに突っつかれたら痕が残ります~! ダメですってば~、ハゲちゃいますよ~!──
──待ちなさい! 今度という今度は、性根から叩き直してあげるわ!──
深夜の空では、今しばらく騒ぎが続くようだ。
二人を見守るのは高度を増してきた月と満天の星々のみだ。もちろん夜を統べる神ニュテスは承知しているだろうが、月や星と同様に彼も無粋な介入をすることはなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2020年1月中を予定しております。