28.15 シノブの決断 後編
シノブ達がヤマト王国の筑紫の島に赴き、同国の王太子健琉が執り行う奉納舞に臨席した日。深夜の上ケームトを密やかに進む者達がいた。
高度な治水技術と巨大鋼人の圧倒的な力で、上ケームトは大規模な灌漑緑化が行われている。そのため元々砂漠だったと思えぬほど緑豊かで、王都の外でも付近は人家が多い。
大型の鋼人を使う関係上、王都内部の通りや外の街道は幅広く造られており狭苦しくはない。ただし王都に職を求める者は多く、主要道路の混雑が解消するのは深夜だけだ。
王都アーケトは着工から十年程度で、日没後の工事も珍しくない。そのため夜半でも出入りの制限は緩いし、帰宅に便利なようにと大半の道を魔力街灯が終夜照らしている。
そんなわけで繁華街や街道筋は遅くまで賑わうし、少々大袈裟かもしれないが不夜城と呼べるほどだ。
しかし真夜中の侵入団は、そんな賑わい豊かな場の近くにも関わらず全く人目を惹かない。なぜなら彼らの往く道は草原の遥か下、つまり地中深くだからである。
それも空間を歪めての潜行、玄王亀や朱潜鳳にしか使えない技だ。
『普通の穴掘りと違い、空間歪曲は無音ですからね~。察知するなら魔力波動でしょうけど、もし出来たら超越種や眷属以上ですよ~』
鷹の姿のミリィが、発声の術で少女のような美声を響かせた。
行き先は先王メーンネチェルの葬祭殿、その奥にある封印された部屋。前日ミリィとシャンジーが調べたが、開錠の仕組みが分からず入れなかった場所だ。
封印の部屋の扉に鍵穴やノブなどは存在しない。ミリィ達は周囲の壁や通路も確かめたが、こちらも同じで何も発見できなかった。
片や神の眷属たる金鵄族、片や超越種で最も人間に詳しい光翔虎。この双方が見つけられない仕掛けがあるとすれば、よほど高度かつ特殊な機構に違いない。
しかし侵入者対策の各種魔道装置は、ほぼ間違いなく存在する筈だ。ここは魔法技術大国ケームトで封印の部屋があるのは王族の葬祭殿だから、どんな高度かつ意外な罠でも不思議ではない。
そこで今回は玄王亀ラシュスに乗って地中を進み、問題の部屋に床下から侵入する。
『かなり小さくなったから、外に漏れる魔力も随分と減ったしね~』
少し後ろで、若き光翔虎の雄シャンジーが賛意を示した。春風駘蕩という言葉が相応しい口調はミリィに似ているが、こちらは少年めいた響きだから容易に区別できる。
現在ラシュスは潜行による移動中、空間歪曲で岩盤を押し開いて浮遊で前進している。そこで彼女は自身の技で生じる魔力波動を抑えるため、元の十分の一程度まで小さくなった。
超越種達にアムテリアが用意した腕輪は、装着者を本来より小さくしてくれる。
元より大きくなれないし、小さくなるほど多くの魔力を必要とするから限度を超えた縮小は生命の危険を招く。しかし家屋に入れる大きさなら人間と容易に交流できるし、このような潜入にも使えるから非常に便利な神具だ。
そのため感知されるリスクは大幅に減ったが、甲羅が全長2mほどになったから大人四名ほどでも身動きすら出来ない。実際ラシュスの背の上には、シャンジーの他に人間が三人いるだけだ。
背にいる三人は、ケームト反体制派の幹部達だ。
人族の大商人サフサジェール、ドワーフで名鍛冶師のテッラメース、獅子の獣人の元将軍セケムターウィ。年齢は初老から青年までと幅広いし種族もバラバラだが、肌はケームト王国の人々に共通する濃い色だから似た雰囲気を醸し出している。
『ラシュスさんなら、建物や像に埋め込んだ罠を見つけるのも簡単ですからね~。流石は土属性です~』
よほど機嫌が良いらしく、ミリィは小刻みに羽ばたく。
サフサジェールは細いが、筋骨隆々のテッラメースとセケムターウィは常人よりも場所を取る。それにシャンジーも普通の虎くらいに小さくなったが、甲羅の上から少々はみ出していた。
そこでミリィは金鵄族本来の青い鷹の姿に戻り、ラシュスの頭の上に収まった。つまり彼女がサフサジェール達と話すなら、発声の術を使うしかない。
今の言葉はラシュスに向けたものだが、仲間外れは良くないと全員が理解できる手段を選んだのだろう。
それはともかく玄王亀は遥か先の地中まで探れるから、建材内部の調査など朝飯前だ。彼らは壁や床の中に仕込まれた装置も容易に見抜くし、空間自体を歪めての侵入は物理的な痕跡を殆ど残さない。
とはいえ魔法回路そのものを通過すれば、波動の乱れを感知されるかもしれない。つまり監視装置が網の目のように部屋全体を囲っていたら通り抜けは難しいが、そのときは短距離転移を使えるシノブに頼むなど別の方策もある。そのようにミリィは続けていく。
『お褒めの言葉、嬉しゅうございます。ですが私は若年ですし、邪悪な魂達に騙され操られた未熟者でもあります……』
重ねての賞賛に、ラシュスは消え入るような小声で応じた。
ラシュスは雌、更に成体になって数年と若い。そのため術で作った声も妙齢の女性を思わせる響きだが、浮かない声音からすると彼女は自己嫌悪気味のようだ。
つい先日まで、ラシュスはイーディア地方のエルフの森にいた。ただし好きで滞在したのではなく、一万を超える霊魂の集合体に操られた結果だ。
どの霊も生前エルフだったから魔術は大の得意、しかも祖霊スープリや生命の大樹の力まで悪用してラシュスを縛り続けた。もしシノブ達が救出しなければ、彼女は今も虜囚のままだったに違いない。
まだ二百数歳のラシュスは親達や長老のような円熟の境地に達しておらず、加えて若いから純粋で集合霊の甘言に裏があると見抜けなかった。
しかしラシュスは言い訳しない。後悔の滲む彼女の言葉からは、己の失敗を真正面から受け止めたのが明らかだ。
将来ラシュスの番となる存在、ほぼ同年の雄シューナは彼女を気分転換させようと自身のところへ遊びに来るように誘った。単なる物見遊山では同意しないだろうと、現在彼が取り組んでいる大トンネル掘削を手伝ってもらえないかと理由も拵えての招待だ。
しかしラシュスは断った。誘いを嬉しく思いつつ、大勢に迷惑をかけたという引け目が強かったらしい。
こういった経緯をミリィも知っているから、殊更に明るい言葉を発したのだろう。
『ラシュスさん~、あまり気にしちゃダメですよ~』
『そうです~。正直なところ、ボクは引っかかっちゃうでしょうし~』
ミリィに続き、シャンジーも慰めらしき言葉を発した。
実際シャンジーの年齢だと、あの大規模集合霊に対抗するのは難しい。なにしろ彼は百歳を超えたばかり、成体の半分にしか達していないのだ。
この星の人間は十五歳で成人とするから、単純に当てはめるとシャンジーは八歳ほどだ。ただし超越種は一歳程度でも大抵の魔獣を狩れるし、百歳なら大きさも成体と殆ど変わらない。
それらを考慮すると、シャンジーは人間の十歳から十二歳くらいに相当するのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
イーディア地方のエルフの森で起きた事件だが、元凶の集合霊が並外れて強力だったのも事実である。
何しろ大魔力を持つエルフの魂が万の桁で集まり、しかも祖霊スープリや生命の大樹の力を吸い取った存在だ。もし不意を突かれたら、ラシュスの倍の年齢でも術中に落ちると思われる。
しかし裏を返すと、若くても充分に心得た者が注意すれば回避できる筈だ。
シャンジーは謙遜したが、彼のように竜の技すら身に付けて更にシノブやアミィの指導も受けたなら。あるいは類似の術について対策を学ぶか、知らずとも怪しいと察するだけの場数を踏んでいれば。このうちの一つか二つでも満たしていれば、集合霊に支配されずに済むかもしれない。
『つまり今後の研鑽次第です~。ラシュスさんも、すぐに対処できるようになりますよ~』
ミリィは冗談めかした口調で、大規模集合霊に関する話を締めくくった。
あの事件はエルフの森の全てを巻き込んだから、ラシュスが気にするのも当然だ。それ故ミリィは、敢えて軽めのアドバイスに留めたらしい。
「そうでございますとも」
「ミリィ様が仰るなら、その通りに違いない」
「はい! 勝利への道を示す眷属様のお言葉ですから!」
既にサフサジェール達は、ミリィが眷属だと察していた。この地の古い書物に、金鵄族は鷹に変身できると記されているからだ。
しかも金鵄族は、ケームトで有名かつ人気のある眷属だという。
これは海の女神デューネが、この地に古代エジプトの要素を散りばめたからだ。彼女は創世期にケームトを教え導いたとき、金鵄族にホルス神の役割を当てたのだ。
金鵄族の本来の姿は青い鷹で、ホルス神は隼の頭を持つ。そのためデューネは、似た文化や信仰体系に育てるのに好都合と考えたのだろう。
ホルス神は戦神としてファラオに勝利を齎す存在でもあるから、デューネはケームトでの金鵄族を武人の守護者や勝利への導き手にした。
したがって元将軍のセケムターウィや鍛冶師で武具と縁の深いテッラメースが、ミリィの言葉を絶対とするのも無理はない。それに商売繁盛も勝利の一種だから商人にも金鵄族を敬う者は多く、サフサジェールも厳粛な表情で頭を下げていた。
もちろんデューネは母なる女神から授かった使命を忘れず、あくまでケームトの守護役として地域に相応しい文化を育もうとしただけだ。それに指導は大筋として適切だったようで、この地の人々も神と眷属を分けて考えている。
しかし三人の力強い返答や敬慕も顕わな様子からすると、この地における神々と使徒の境界は他より少しばかり曖昧なのかもしれない。
『ちょっと褒めすぎですよ~』
ミリィは後ろに向き直り、やんわりとだが過大な賞賛だと意思表明をした。どうやら彼女は、幹部達の盲信めいた雰囲気を憂えたようだ。
ケームト以外なら神々と眷属を同列に扱うような言動は不謹慎とされる。ましてやミリィは眷属だから見逃せない問題と捉えて当然、もし聞き手が彼女の同僚達でも何らかの意思表示をした筈だ。
「失礼いたしました」
『いえいえ~。今までの神官が色々うるさかったそうですし~』
サフサジェールが改まった様子で一礼すると、残る二人も続いた。それを見てミリィは言いすぎたと思ったらしく、彼らの責任ではないと返す。
十年前に現ケームト王アーケナが黄昏信仰を唱えるまで、この地も他と同じくアムテリア達を祀っていた。
しかし神官達には鋼人の操り手が多いから治水工事や都市建設などにも意見できたし、代々の王に巫女を嫁がせたくらいで王家にも物申せる立場だった。そしてケームトの神官達は持てる力を十二分に活用し、最終的には職権乱用というべき行動が目立つようになる。
『以前の神官って、自分が威張るために神々や眷属の威光を振りかざしたんだってね~。今の黄昏信仰は問題だけど、その前も別の意味でダメだよね~』
「シャンジー様の仰るとおりです! 好みの女性に『お前を神官として修行させるように神託があった』と言って手元に置いたり、恋敵を『犯人とお告げがあった』として冤罪に落としいれたり……神官のすることとは思えません!」
「全くだ。鍛冶師仲間にも、無礼を働いたからと長期の強制労働にされた者がいるぞ。客の神官が支払いを踏み倒そうと、罪をでっち上げたのだ」
「巫女が代々の妃となったからでしょうが、縁組みで影響力強化を狙うのも……。中級以上の神官は文官や武官に、下級神官だと私達のような商家に子供の婿入りや嫁入りを望む者もおりまして。もちろん見込みがある若者なら、私も息子や娘の相手にと思いますが……」
若き光翔虎の嘆きに、ケームト反体制派の三人も同じくらい深刻そうな声音で応じた。
もちろんデューネが教え導いた創世期は、こんな不心得者の神官が存在する筈もない。彼女は真面目な性格だから私利私欲で動く神官を厳しく罰したし、そもそも採用の時点で不適格として除外した。
しかし神々が直接関与しなくなってから、およそ九百年が過ぎている。そのため多少の変質は当然だし、ケームト以外でも数百年ほどで大きく変わった地は複数存在する。
しかもケームト王国には大変化の要因となる特有の事情があった。
それは先ほどからの話題に挙がった事柄、神官による治水事業や巫女からの妃輩出である。これらは地域に即した文化をというデューネの意思を超え、神殿の権威を極めて高くした。
古代エジプト風の文化を推奨したら、強力な神官団の誕生は極めて自然なことだ。しかしデューネは日本由来の神だから、それらの概要を知っていても詳細まで把握していなかったのだろう。
それに日本での彼女は海神として素朴かつ純粋な信仰を捧げられたが、政治の場とは比較的距離があった。そのためケームトの神官達のような権力志向や堕落など、あまり目にする機会がなかったのかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆
玄王亀の移動速度は人間の徒歩や早足程度だから、到着するまで時間がかかる。それにラシュスは注意深く調べつつ進んだから、ますます緩やかな移動となった。
しかし慎重を期した甲斐があり、一行は無事に封印の部屋の真下に着いた。
葬祭殿の設計者も大深度からの接近は想定外だったらしく、ここまで魔法回路どころか物理的な罠も存在しなかった。とはいえ間近になると別で、ラシュスは魔法回路があると告げて浮上を中止する。
『床下の魔力の流れですが、幾らかの隙間があります。ただし今の大きさでは抜けられないので、皆様だけ先に上がってください』
まず乗り手だけ入室させようと、ラシュスは提案した。
部屋の四方と上下は全て魔法回路で囲まれ、普通に穴を掘ったら気付かれてしまう。しかし回路は粗い網のように張り巡らされているだけで、人間の腕くらいなら隙間から充分に通せる。
この網の目とでもいうべき場所の空間を押し広げ、人間の大人が通れる程度の穴を用意する。そして乗客が床上に昇ったら、ラシュス自身も更に小さくなって続く。これが彼女の考えだ。
回路自体は避けるし、歪曲に使う魔力も極力抑える。そして周囲の波動を観察しつつ、ゆっくりと空間に穿った穴を押し広げていく。こうすれば万一のときも感知される前に退けると、ラシュスは締めくくった。
『なるほど~! ちなみに床に機械的な仕掛けは~?』
『上手く避けたら奥まで進めるようになっております。ですから安全な場所を歪めて室内に繋げ、そこから皆様に入っていただきます。まずはミリィ様やシャンジー殿が浮遊で上昇を……そしてサフサジェール殿達は、私が行くまでシャンジー殿の背の上でお待ちになってください』
『ボクやミリィ殿なら床を踏まずに済むからね~。ついでだから姿消しも使おうか~』
ミリィの疑問にラシュスが答え、更にシャンジーが念のための方策を口にする。
床の上に出る場所はラシュスが選ぶから安全だが、そこから不用意に進むと罠が作動する。そのため人間達は一旦シャンジーに乗って待つのだ。
アムテリアが授けた腕輪は注ぐ魔力を増やせば更に小さくなれるし、短時間であれば後の行動に差し支えるほど疲れない。そこでラシュスは乗り手を降ろしてから、人間の肩幅ほどの穴を潜れる程度に小さくなる。
隠された仕掛けを感知するには、玄王亀のラシュスを伴うべき。それは誰もが認めるところだから、サフサジェール達も賛同する。
『では透明化の魔道具を使いましょ~!』
「はい」
ミリィが自身の魔道具を起動させ、他も倣う。
シャンジーは生来の能力だから誰よりも早く消え、残る三人と一頭も使い方を教わっており待つほどもなく続く。ただし既に同調済みで互いの姿が見えており、行動に支障はない。
そのため打ち合わせた通り、空間歪曲での侵入経路作成と床上への移動は短時間で完了する。
封印された部屋の中は普通の家屋ほどの広さだが、左右は様々なもので埋まっている。
テーブルや椅子、鏡台にベッド、それに作り物だが花や観葉植物まである。ただし使用者は先王メーンネチェルと彼の妃ヘメトだから、いずれも国王夫妻に相応しく金銀や宝石で飾られていた。
正面は二人を描いた壁画を中心に、生前を示す様々な絵で埋まっている。それに葬祭殿に相応しく、彼らを輪廻の輪へと導く神の姿もある。
ただし神の頭部は黄金の真円、つまり『黄昏の神』の姿だった。どうやら外と同じく、封印の部屋の内部も現国王アーケナが改修させたようだ。
──アーケナが描き直しを命じたんですね~。残念です~──
床の上に降りたとき、ミリィは人の姿に戻っている。これはサフサジェール達と筆談するためだ。
そのためミリィはシャンジーとラシュスに思念を送った直後、手にした紙にも同じ内容を記して残る三人に見せる。随分と面倒だが、トトことネフェルトートの出生の秘密を探るにはケームトの文化を知る者達が必要だから仕方ない。
──子供や赤ちゃんの絵は無いね~──
シャンジーは気落ちしたらしく、緩やかに首を振る。
現在トトは十四歳、そして彼が生後十ヶ月ほどで先王メーンネチェルは亡くなった。もしトトが先王の子なら、ここには乳幼児の絵もあるべきだろう。
しかし左右の家具を含め、赤子の存在を示すものは見当たらない。
サフサジェール達三人も、あちこちを見回したり近寄ったりと調べ始めた。
部屋の中央は小型の荷馬車なら通れるほどの通路となっているが、各所に罠が仕掛けられており真っ直ぐには進めない。ただし右に左にと避けつつ歩けば問題なく通れる。
おそらくだが、特別な儀式のときなどは封印を解いて入室することもあるのだろう。そのため安全な場所を選べば、多少の荷物を持っても充分に移動できる余地が残されているのだ。
これらをラシュスが調べ上げ、ミリィが簡単な平面図を拵えて三人に渡した。これには危険地帯も記しているから、サフサジェール達は手にした紙を見つつ慎重に歩んでいく。
しばらくすると鍛冶師のテッラメースが手を挙げた。
初老のドワーフが手にした紙には『この絵を調べてほしい。塗り直した形跡があるし、どこか不自然な気がする』と書かれている。彼の前にあるのは先王夫妻の日常を示した壁画だが、言われてみると描いた職人が他と違うのか微妙な差異があるようだ。
──確かに最初は別の絵だったようですね。……ミリィ様、どうも女性が子供を抱いていたようです──
──流石はラシュスさんです~! その子供の絵ですが、どんな感じでしょ~!?──
ラシュスが玄王亀の技で壁画の下に隠された痕跡を探り、彼女の言葉が示すものをミリィが絵に纏めていく。そしてシャンジーやサフサジェール達は、筆を走らせる少女を後ろから見守っている。
元々の絵だが、残念ながら描き直しの際に幾らか削られてしまったようだ。しかし下地の顔料が僅かに残っており、そこからラシュスは構図や色を読み取っていく。
どうやら元の壁画は、寄り添う夫婦と二人の間に生まれた子供を示したものらしい。妻らしき女性が赤子を抱き、側の夫と思われる人物が二人に顔を向ける。ミリィが描いていくのは、そんな幸せそうな家族の情景だ。
しかも残されていたものは他にも存在した。この三人らしき名が、純金の象嵌で記されていたのだ。
もちろん象嵌も痕跡のみだが、ラシュスにすれば充分に読み取れる範囲である。
◆ ◆ ◆ ◆
ケームトの北西4000kmほど、時差にして二時間ほど日没が遅い場所。そこでミリィからの知らせを受け取った青年がいる。
彼の名はシノブ、アマノ王国の王でありアマノ同盟という広域多国間連合の盟主でもある。
「やっぱりトト……ネフェルトートは先王の子らしい」
シノブは通信筒で届いた報告書を読み終えると、隣に座るシャルロットに手渡す。
ここは王都アマノシュタットの中央にある『白陽宮』、その最奥に位置する『小宮殿』だ。しかし今は日が変わるのも近い深夜だから、二人は既に寝室に移っている。
普段なら就寝する時間だが、この日は潜入結果の速報を待っていたのだ。
今シノブ達がいるのは寝室内のソファーだ。二人の前には軽食できる程度のテーブルがあり、卓上にはティーカップが二つ置かれている。
カップの中にはシャルロットが淹れた紅茶、遥か東のイーディア地方から届いた逸品だ。向こうは地球のインドに相当する場所だから良い茶葉が多く、先ほどまでシノブ達は芳醇な香りと味を堪能していた。
しかし今のシノブは銘茶を味わう気になれなかった。ミリィが報告した事柄は、様々な意味で難しい問題を含んでいると感じていたからだ。
「絵に添えられていた名は三つ……。まず成人男女がメーンネチェルとヘメト、つまり先王夫妻ですね。そして赤子には『二人の愛し子 王子ネフェルトート』と……。単純に考えたらケームト反体制派にとっての朗報ですが、貴方の意見は違うのですね?」
シャルロットも悩ましく感じたらしく、顔には隠し切れない憂いが滲んでいる。
絵姿や名前は消されていたが、玄王亀のラシュスが痕跡から読み取ったのだから先王夫妻にネフェルトートという子がいたのは確かだろう。先王は子を得ぬまま没したとしているが、少なくとも絵に記した時点では嫡子が存在したわけだ。
しかし消した理由次第では、トトは王位を継げないかもしれない。たとえば不義の子などで、先王自身が廃嫡した場合だ。
「もし正統と認められない理由があり、それでも反体制派がトトを即位させようと動いたら、国を二つに割っての激戦になるかもしれない。それに現国王アーケナが簒奪目的で細工した場合でも、トトが即位して本当に幸せになれるのか……」
「先日教えていただいた事柄……地球の歴史との類似が気になるのですね? 宗教改革をした王がいて、それを否定して元に戻した少年王がいる……しかし少年王は暗殺されたのか若くして没し、再び神官達が権力を握る。もしケームトが同じような道を辿ったら、トト殿を死地に追いやることになります」
シノブの悩みを、シャルロットは理解していた。
古代エジプトの第十八王朝で、アメンホテプ四世はアテン神を唯一神とする新宗教を立ち上げた。これは従来の横暴な神官団を嫌ってのことらしく、彼はアクエンアテンと改名して新たな神への信仰を明示した。
もっとも急激な改革は根付かず、没した数年後にツタンカーメンが元のアメン信仰を復活させる。このアメン信仰復活はツタンカーメンの主導というより周囲が元に戻そうと動いた結果らしく、それもあって彼の死を暗殺とする説も根強い。
これらをシノブが伝えたから、シャルロットはトトの行く末を案じたのだ。
「ああ、あまりに状況が似ている。アーケナが追いやった従来の神官達が、若いトトを扱いやすいと侮って戻ったら……。もし戻らなくても、今なら出世できると夢見る者達が現れるかもしれない」
「そうですね。向こうは王家と神殿が近しいそうですし、地球の事例のように神官達が再び政治介入に乗り出すかもしれません」
シノブとシャルロットは、揃って溜め息を吐く。
ミリィの報告によれば、サフサジェール達はトトの出自が明らかになったと大いに沸いたそうだ。その興奮からだろうが、彼らは睡眠すら忘れて王位奪還計画を練り始めたという。
アマノ同盟の各国も、トトが先王の遺児と知ったら今まで以上に支援する筈だ。彼らは黄昏信仰を異端として嫌悪しているから、一日も早く現ケームト政権を打倒すべきと主張するに違いない。
それにミリィを始めとする眷属や彼女に協力する超越種達も『黄昏の神』を嫌っており、性急な行動に走りかねない。眷属はアムテリア達に仕える存在だし、超越種も神々から星を守り育てる役目を与えられているからだ。
「対ケームトの方針を変える。まずは直接見てくるよ……このままだと誰も手綱を引く者がいないからね。訪問の理由は『新たな王になるだろうトトの器量を知りたい』といった辺りかな。それと出来ればアーケナの真意も聞きたい。……甘いと思うけど、可能なら和解への道を探りたいんだ」
シノブは自分の目で確かめると宣言した。
今まで苦労したミリィ達の立場もあるから、あからさまに牽制するつもりはない。しかし場合によっては多少の誘導をし、なるべく穏便に事態を収拾したい。
内政干渉は可能な限り避けたいが、もはや静観し続ける方が問題だ。それに今さらケームト反体制派への支援を中断するのも難しい。
アマノ同盟はアムテリアを最高神として崇める国々の集まりだから、黄昏信仰を放置しての撤退など加盟国の全てが反対するだろう。したがって関与継続は必須、ならば自分が間に入って軟着陸させるべき。そのようにシノブは結論付けたのだ。
「それが良いでしょう。もはやミリィへの罰……地球文化への過剰な思い入れに注意を促すなど、二の次です。これは一国の命運を左右する事態、選択次第で多くの血が流れかねませんから。ですがシノブ……」
シャルロットは熱の篭もった声で賛意を示したが、なぜか途中で口篭もる。どうやら彼女は、何かを言い出しかねているらしい。
「大丈夫だよ。明日は俺の帰還一周年を祝う式典、一年前と同じくエウレア地方の統治者が全て集まるし、他も大使が出席してくれる。そして明後日はアスレア地方、シューナが造ってくれた東メーリャとスキュタールを結ぶ大トンネルの開通式だ。その次は東西メーリャの間、パヴァーリの自治領の視察がある」
「はい。同盟の盟主としては、こちらも外せません」
シノブが頷き返すと、シャルロットは表情を緩める。
これらは前々から決まっていたから、よほどの緊急事態でなければ欠席など許されない。帰還一周年式典はシノブが主役だし、地下道開通や自治領視察も盟主や国王として祝辞を述べるのだ。
「忙しいくらいで良いんだよ。その方がケームト支援をゆっくりと進められるしね。まずは顔を出す程度、こっちの多忙を理由に最終的な判断は少し先にしよう。トト達はデシェのオアシスに避難したし、今のところアーケナも穏便な捜査で済ませているから。それに今月の十一日は……」
「アヴニールの誕生日ですものね」
シノブが気にしていることなど、シャルロットは重々承知なようだ。彼女は弟の記念日に触れたとき、意味ありげな笑みを浮かべていた。
シノブは義弟のアヴニールやエスポワールを非常に可愛がっており、この記念の日に欠席するなどあり得ない。
それにシャルロットにとっても大切な日だ。
メリエンヌ王国の法では爵位継承者の条件を十歳以上としているから、当分はシャルロットが跡継ぎだ。しかし彼女はアマノ王国の王妃になったから、弟が順当に育てば譲ると常々口にしている。
「ああ。ついにアヴ君も一歳だ……アルマン島の戦いから一年でもあるけどね」
「リヒトも三日後で生後半年です。貴方が……そして皆で守った平和が多くの命を育んでいます」
シノブとシャルロットは、壁の向こうにある育児室へと顔を向けた。
穏やかな寝息と共に揺れる我が子の魔力を、そして彼を守るように集うオルムル達の優しい波動を、シノブは手に取るように感じた。シャルロットも同様らしく、表情を和らげ慈母の顔となる。
このような穏やかな時間が、ケームトの先王メーンネチェルや彼の妃ヘメトにもあったのだろうか。そしてトトことネフェルトートに彼らは愛情を注いだのか。
なるべくならトトにとって幸せな真実であってほしい。しばし静けさが満ちた場で、シノブは無言の祈りを捧げていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2019年7月中旬を予定しております。