28.05 ケームトの少年
ミリィ達は先ほど助けた少年を連れ、元々行く予定だった高級料理店に向かった。
通りを歩いていたら、絡んできた荒くれ男達と鉢合わせするかもしれない。だから一緒に食事でもして時間を潰そう。
幸い個室を予約しているし、しばらく部屋に篭もれば無意味な衝突を回避できる。庶民向けだが大商人も使う店だから、無頼の輩など通さない。
このようにミリィが誘うと、少年は素直に頷いたのだ。
「お礼に私が払います」
「全員分ですか~? ヘテープって店ですけど、高いですよ~」
食事代を持つという少年に、ミリィは相当な金額になると返した。
しかし細身の少年は品の良い微笑みを浮かべたままである。やはり随分と裕福な家の子のようだ。
「あの男達、目利きは良かったのだな」
「そうね」
「悪いのは運と頭……ですね」
ムビオとエマの兄妹、それにメジェネ族のハジャルが囁きを交わしつつ追っていく。
ヘテープでの一食は並の者の稼ぎなら一週間分に相当するし、一行は少年を含めたら五人だ。彼が何者だろうと金銭的に余裕があるのは確かだろう。
しかし路上で訊くのは無用心、そこで双方とも素性を明かさないまま店に入る。
高級と称するだけあり、ヘテープは神殿のように立派な店構えだった。
建物は石造りだが、壁に浮き彫りを施して更に彩色までしている。そのため冷たさや硬さはないし、室内に置かれた様々な観葉樹は目を楽しませる。
しかし今、贅を尽くした室内を眺める者は存在しなかった。ミリィ達の視線は助け出した少年に向けられ、少年も真顔で見つめ返していたからだ。
「私の名はトト。父は王都アーケトで働く文官、母は王宮で働く侍女です。来年成人したら、私も文官になるつもりです」
トトと名乗った少年は自身の種族に触れないが、頭に何も被っていないから人族なのは明らかだ。
獣人族なら耳は頭上で獣に似て表側に毛が生えているし、背後には尻尾がある。ドワーフは他の三種族より遥かに背が低く、男なら分厚い筋肉を備えている。最後のエルフは人族と同じで耳は頭の両脇だが、笹の葉のように長い。
このように耳が顕わなら、種族の判別は容易である。
「私達は見ての通り、近くの農民です~。私がミリィ、右がエマ姉さんで反対がムビオ兄さん、この人は兄さんの友達のハジャルさんです~」
こちらは人族一人に獣人族三人だ。
まずミリィだが、アムテリアから授かった神具で人族に姿を変えている。残りは変装の魔道具を使っているが種族は元のまま、エマとムビオが獅子の獣人でハジャルが猫の獣人である。
四人とも肌をケームトの人々と同じ濃い褐色にしているから、トトも同国人だと受け取ったらしい。彼は静かに頷くが、代わりに別の疑問を投げ返す。
「よろしくおねがいします。……あの、質問して良いでしょうか? 幻狼族様を演じた御方が、ただの農民とは思えませんが……」
恩人の言葉を否定するなど失礼極まりない。そう思ったのか、トトの顔には困惑と同じくらいの遠慮が浮かんでいた。
先ほどミリィは犬頭人身の姿に化け、荒くれ男達を脅した。
黒い山犬の頭に人間の体。これはケームトで神々の眷属の一つ幻狼族として知られている姿だ。
幻狼族の大半は闇の神ニュテスに仕え、地上の罪悪を調べて主に報告するという。そのため無法者達は自身の悪行を神に伝えないでほしいと懇願し、土下座までして改心を誓った。
これを見たから、トトもミリィが本物の眷属だと思ったらしい。
トトは十四歳、一方ミリィの外見は十歳程度だ。しかし彼は、遥か年長の者を相手するかのように丁寧な口調を保っている。
「さっきも言いましたが、私は幻狼族じゃありませんよ~。大神アムテリア様の敬虔な信者だとは思いますけど~」
ここに来る道でもミリィは否定したが、それでもトトは下にも置かぬ態で接している。おそらく彼は、眼前の少女が幻狼族以外でも類似の聖なる存在と考えたのだろう。
「今のケームト王は『黄昏の神』なる存在を奉じ、大神アムテリア様を否定しました。もちろん大神を支える神々や眷属様も……」
トトはケームトの現状を語っていく。もし官吏や軍人の耳に入ったら捕縛されかねないが、彼は恐れる様子もなく言い切った。
ここは個室、ヘテープは高級店だけあって壁も厚い。それに眷属か近い存在らしきミリィなら、告げ口する心配など無用だろう。おそらくトトは、このように考えたに違いない。
「そのようですね~」
軽い声で応じつつも、ミリィの顔は少しばかり苦々しげだった。そして彼女は視線を僅かに動かし、トトの斜め後ろに向ける。
ミリィが見つめる先には彩色壁画があった。
太陽を図案化したような金色の円と、そこから放射状に広がる同色の線。その下では無数の人々が崇めるように両手を上げている。
金円が『黄昏の神』で、下方に広がる線が神の恵み。つまりケームトの人々が新たな神を慕う図だ。
道化めいた振る舞いの目立つミリィだが、れっきとしたアムテリアの眷属である。それもシノブを支える一人に選ばれるほどの逸材だから、このような絵を目にして憤るのは当然だ。
「この絵も王や神官が強制した結果です。壁画を描いたり彫像を置いたりするなら、必ず一つは『黄昏の神』を讃えるものを入れろと……」
『黄昏の神』の似姿が多ければ多いほど税が免除される。しかもケームトは課税に累進制を採用していると、トトは続ける。
どうやら現ケームト王アーケナは、合理的かつ老練な人物らしい。彼は自身が信じる神を崇めろと命じ、同時に従えば優遇すると示したわけだ。
それで街の者達も表向きは大人しくしているのだろう。アーケナは改宗しなければ死罪もあるとしたが実際に重刑に処した例は稀で、下手に逆らわない方が良いとなるのは自然である。
「飴と鞭か……」
「街が栄えているのも、そういう王だから?」
「だが神々を否定した繁栄など、絶対に許せぬ!」
感嘆の声を漏らしたのはムビオ、彼に問うたのは妹のエマ、怒りを示したのはハジャルだ。
ミリィとトトの会話を邪魔しないようにと考えたらしく、いずれも声は抑えている。しかし最後の弾劾は向かいでも聞こえたようで、トトが顔を動かす。
「私も同じ考えです。……現国王が『黄昏の神』の布教を始め、自身を『黄昏の王』としたのは十年前でした。そのころ私は幼く、この暴挙を充分に理解できなかった……でも今は違います」
熱っぽく語ったトトは、昔のようにアムテリア達を信じる国に戻したいと宣言する。
ケームトは地理的に殆ど孤立した国だが代わりに外敵など無縁、歴代の王は治水や緑化に力を注いで文字通り国を潤した。それに巨石建築を可能とする高度な技術もあり、豊かで平和な暮らしが続く。
しかし現国王アーケナは長く恵みを授けてくれた神々を捨て、正体不明の存在を選んだ。これを不吉と捉え、内心で憂える者は多い。
そう語るトトは、ほっそりとした容姿にも関わらずカリスマめいたものすら漂わせている。
「力になりますよ~! もっと詳しく聞かせてください~!」
ミリィは輝く笑みを浮かべて席を立ち、軽やかな駆け足でテーブルを回り込んだ。そして彼女は共に戦おうと示すように、少年へと手を差し出す。
「はい!」
トトも立ち上がってミリィに向き直り、彼女の小さな手のひらを両手で握る。
そして二人は共通する目的に向かって歩んでいく。ミリィとトトは席に戻り、先ほどに勝る熱意で語り始めたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
ミリィ達が食事と相談をしているころ、シノブはメリエンヌ王国のベルレアン伯爵領にいた。
最近のシノブはアマノ同盟結成一周年を記念する式典に出席すべく、各地を巡っている。当時の加盟国のそれぞれで様々な式典が実施されるから、エウレア地方歴訪を兼ねることにしたのだ。
最初は同じくメリエンヌ王国フライユ伯爵領の領都シェロノワ、シノブの領地の一つにして同盟誕生の地。続いて王都メリエを経て一旦ヴォーリ連合国のセランネ村、そして今日はベルレアン伯爵領に戻ってきた。
これは一年前にシャルロットが巡った順だ。
既に神殿での転移や磐船はあったから、それらを活用してシャルロットは各地に協力を呼びかけた。とはいえ移動が簡単、では済まされぬ事柄がある。
あのころはシャルロットにとって、そして夫であるシノブにとっても生涯忘れぬだろう特別な時期だったのだ。
「リヒトがお腹にいたのに……本当に大変だったね」
一年前のシノブは異神達により地球に飛ばされ、身篭った妻の側を離れていた。
およそ二週間後に戻れたが、それは結果論でしかない。いつ帰ってくるか、もしや永遠の別れではとシャルロットは案じただろう。
それに当時、この星のある世界と地球のある世界は時間の流れが異なっていた。そのためシノブも戻ったときに何年も過ぎていたらと、内心では不安に思ったものだ。
しかし現在、家族全員が同じ屋根の下にいる。今は内々での晩餐中、場所は領都セリュジエールの中央にある伯爵家の館だ。
館の大広間には、伯爵家とアマノ王家が乳児を除いて全て集っている。
前者が当主のコルネーユに彼の第一夫人カトリーヌと第二夫人ブリジット、そして先代伯爵アンリ。後者がシノブにシャルロット、ミュリエルにセレスティーヌ。偶然だが四人ずつである。
これにアミィを加えた九人でテーブルを囲む。それにリヒトを含む乳児三人も、すぐ近くの育児室だ。
「磐船や転移ですから楽なものでした。それに早い時期ですし……」
シャルロットは嬉しげに微笑むものの、僅かに頬を染めていた。普段と違って父や祖父もいるから、出産絡みに触れるのを気恥ずかしく思ったのだろうか。
「そうでしたね。あのころは私が大きなお腹、そして貴女とブリジットさんは要注意ですが普通に過ごせました」
「はい。今となっては良い思い出です」
懐かしげな声はコルネーユの第一夫人カトリーヌ、頷いたのは第二夫人のブリジットだ。そして二人は示し合わせたかのように、育児室のある側へと顔を動かした。
カトリーヌの子でシャルロットと同腹のアヴニール、ブリジットの子でミュリエルに続く第二子エスポワール。コルネーユの息子達はリヒトと会って大喜び、遊びすぎて三人とも眠ってしまった。
全ての顔が揃い、赤子達も順調すぎるほど順調に育っている。他に何も望むことはないと、母親達は満足げな笑みを交わす。
一方、少しばかり別の受け取り方もあったようだ。
極めて近しい者のみだから、シャルロットも懐妊に触れる程度で恥じらいはしないだろう。そう思った者も幾らかはいたらしい。
「シャルロット、お前の女丈夫はシノブも重々承知だよ。それに私達もね」
「うむ。同盟結成自体に以後の叱咤激励、いずれも見事であったぞ。祖父として鼻が高い」
からかうような調子で語りかけたのはシャルロット達の父、ベルレアン伯爵コルネーユだ。それに先代アンリまで便乗する。
二人はシャルロットとミュリエルの帰省に浮かれたのか、今日は常よりも饒舌だ。
「父上……お爺様まで」
囃し立てる二人にシャルロットは怒りもせず、それどころか笑みを増していた。
弟達は双方とも一歳未満だ。先に生まれたアヴニールですら生後十一ヶ月を過ぎたばかり、エスポワールに至ってはリヒトと同じで五ヶ月半ほどでしかない。
この二人を皆は目に入れても痛くないほど可愛がっているが、まだ語らえはしない。したがってシャルロットは、父や祖父が過剰なほど自分やミュリエルに構うのも当然と受け取ったらしい。
しかし幸いというべきか、とある者からの知らせで話題が変わる。
「シノブ様、ミリィからの文です」
「ありがとう」
小走りに寄ってきたアミィから、シノブは紙片を受け取った。ここセリュジエールはミリィ達がいるアーケトから5000km近く離れているが、通信筒があるから即時の連絡が可能なのだ。
「神殿潜入、今日のところは失敗。……夕食前、街で文官の子を自称するトトという少年を助けた。そのときの様子からすると、街では密かにアムテリア様達への信仰を保っていると思われる。トトも正しい世に戻すと固い決意を示した……」
皆が注目する中、シノブは声に出して読み進めていく。すると最初は暗かった一同の顔が、徐々に明るくなっていく。
シャルロット達はミリィなら潜入も容易と期待していたらしい。あるいは一日も早くアムテリア達への信仰が復活するように願っていたのか。
いずれにせよトトとの出会いが良い結果に繋がると感じたらしく、皆は顔を綻ばせていた。
「トトさんに訊けば調査が進みそうですね!」
「ええ! 大神アムテリア様の教えを守る方ですから、きっと良い関係が築けますわ!」
ミュリエルとセレスティーヌは、これで大丈夫と言わんばかりだ。
眷属のミリィが直々に担当しているものの、ケームトの状況は掴みがたい。これは現国王アーケナが独自の神を奉じたからでもある。
創世のとき、この星の人々は神々から生きる術を授かった。これは技術のみではなく人としての道も含んでおり、後世まで続く規範の骨格を成している。
つまり地域独特の風習はあるものの、この星の人間は全て同じ人生観や哲学を共有している。何しろ神々が同じ教えを授けたのだから、考え方や生き方が似てくるのは当然だ。
それに対し今のケームトは独自の宗教で動き、アムテリアの教えで推し量れない部分があった。そのためミリィ達も自分達の常識が通じず、手間取ってしまうわけだ。
しかしケームトの者は『黄昏の神』を信じるか否かに関わらず、十年の長きを接してきた。それだけ触れていれば感覚的に理解した部分もある筈、つまり国王アーケナの思考を追えるかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆
「幾つかは想像できるよ」
シノブは自身の推測を披露することにした。
ミリィほどではないが、シャルロット達もケームトの現状を不気味に感じているらしい。神々はアムテリア達のみと思っていた者からすると、別の神を崇めること自体が理解しがたいし不愉快でもあるのだろう。
行きすぎると宗教弾圧に繋がりかねないが、歴史が始まって以来アムテリア達だけを神としてきたから多少の反発は無理もない。そこでシノブは信仰上の問題として触れずにおき、代わりに『黄昏の神』についての想像を伝えることにした。
あくまで想像、不確かどころか空想そのものも多々含んでいる。しかし海の女神デューネはケームトを形作るとき古代エジプトを参考にしており、それほど的外れでもない筈だ。
ならば安心してもらうため、ある程度は見当が付いていると示そう。幸い広間にいるのは家族や親族のみ、他言無用と念押しすれば問題ない。そんな風にシノブは思ったのだ。
「ぜひ聞かせてもらいたいが……」
「もちろん、儂らが聞いて良ければだ」
コルネーユとアンリは遠慮を示しつつも、可能ならばと言葉を添える。
どちらも面には強い興味が浮かび、手にしていたワイングラスも卓上に戻している。それに女性達も全て居住まいを正し、聞く姿勢になっている。
いずれもシノブが彼だけの知識を明かすと理解したようだ。
シノブが生まれ育った地球、アムテリア達の故郷でもある場所の話。神々の秘事、神話の更に向こうの出来事。これを食事しながら聞き流す不信心者など、エウレア地方の王族や貴族にいる筈がない。
「まず、今のケームトの王都アーケトです。おそらくアケト、ケームトに相当する地で『地平線』を意味する言葉……『黄昏の神』が降りる場に相応しい名を選んだのでしょう」
やはりアーケトは、最初から『黄昏の神』のために造られた都市なのだ。シノブはケームト王アーケナの意図が篭められた命名だと断言する。
「そうでしたの……」
「こちらにも神々や聖人に授かった言葉はありますから」
思わずといった様子で声を漏らしたセレスティーヌに、隣のミュリエルが相槌を打つ。
実際セレスティーヌの名は、遥か昔に聖人ミステル・ラマールが授けたセレストという言葉を元にしている。それにコルネーユの息子達の名、アヴニールやエスポワールも遥か昔から伝わる由緒あるものだ。
「他にもあるんだよ。ケームトはケメト……肥沃な大地を意味し、国を示す言葉にもなった。それに昔の都だというネーフェルはネフェル、『美しい』という意味だね」
多少発音は違うが、ケームト自体や都市の名は多くが古代エジプト由来だった。それに大河イテルの『イテル』は、古代エジプトだと大河そのものを意味する。
メーヌウ湖やデシェの砂漠も同様だ。どうやら海の女神デューネは、モデルとした場所の要素を出来るだけ取り込もうとしたらしい。
「ケームトにもエウレア地方と同じ流れがあったのだな」
「ええ、ここと変わらぬ大神アムテリア様が慈しんだ場所だったのですね」
アンリやコルネーユも、決して理解不可能な異郷ではないと感じたようだ。他も幾らかは親しみを覚えたのか、僅かに表情を緩めていた。
「人名はどうなのでしょう? 王のアーケナや妃のイティ、それにトトという少年……これらも何か由来があるのでしょうか?」
シャルロットはケームトの人々を名前から探ろうとしたらしい。
ヤマト王国などと同じく、ケームトは節目で名を変える風習があった。そしてミリィによれば、国王アーケナは自身で今の名を選んだそうだ。
つまりアーケナという名には、彼の思想や行動原理が隠されているのでは。おそらくシャルロットは、そう考えたのだろう。
「アーケナはアーケトの語尾変化……つまり同じ意味だと思う。イティは『訪れ』だよ」
歴史好きなシノブは、古代エジプトにも興味を持っていた。そのため有名なものであれば、意味も含めて知っている。
アケトはアメンホテプ四世が造った都アケト・アテンや、ギザの大スフィンクスのホル・エン・アケトなど多くの名称に使われている。ちなみに彼は即位後に改名してアクエンアテンを名乗ったが、これはアケト・アテンと同じで後の研究家が判別しやすいように呼び分けたに過ぎない。
イティはアメンホテプ四世の王妃ネフェルティティの名の一部にも使われている。ネフェルティティとは『美しい者の訪れ』を意味するが、最後の『iti』が『訪れ』なのだ。
しかも『黄昏の神』の姿は、夕日を図案化したものらしい。これはアクエンアテンが崇めたアテン神に似ているから、シノブは単なる偶然かと頭を悩ませる。
もっともシノブは、そこまで詳しく触れなかった。
重要なのはアーケナが地平線という言葉を選んだこと。そして『黄昏の神』を信じる彼にとって、地平線とは日が沈む場所ではないか。これらをシノブは強調する。
「するとトト君は……」
「知恵を司る神トートから……かもね。でも、御両親が賢く育つようにと願ったのかもしれないよ? それに似たような音の単語もあるし」
恐る恐るといった様子のアミィに、シノブは微笑み返す。
トートはトキの頭に人の体を持つ、知を担当する神だ。非常に有力な一柱で、トトメスなど王の名にも用いられている。
この星には知恵の神サジェールがいるから、デューネがケームトの文化を育てるとき彼をトート神と重ねた可能性はある。幻狼族の姿をアヌビス神の犬頭人身としたように、サジェールに仕える眷属をトート神の姿にするなどだ。
しかし『アメンの生ける似姿』ことトゥト・アンク・アメン、つまりツタンカーメンの例が示すように近い音で別の意味の言葉は存在する。したがってトトという名の由来が神とも限らない。
「その辺りはミリィに探ってもらいましょう」
「ああ、そうしよう。アミィ、トト君との接触を継続するように伝えてくれ。それと危急の場合は目立たないように支援しても良い……安易な干渉は避けたいけどね」
シャルロットの意見は至極真っ当なものだし、シノブも同じことを考えていた。そこで多少の指示を付け加えた上で、アミィに返信をお願いする。
「はい、シノブ様!」
「手出しは無しか……」
「父上、時期尚早かと」
アミィが返事を記していく横で、アンリが残念そうな声を響かせた。するとコルネーユが諫めるような言葉をかける。
『黄昏の神』信仰の強要以外、現在のケームトに口出しすべき点はない。奴隷化や魂の悪用など世の根幹を揺るがす行為が確認できないのに、内政干渉は勇み足というべきだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
一方ケームトの王都アーケトでは、トトとの交流が続いていた。ただしミリィはアミィからの文が届いたから離席中、残るムビオ達が少年と共に食事している。
「これは美味いな! それにビールも!」
「ヘテープ自慢の羊肉の煮込みですね。玉ねぎにニンニク、ひよこ豆……他にも具は沢山で味も充分に染みています。上等のオリーブオイルを使っているし、香辛料も色々入っているようです」
舌鼓を打ったのは猫の獣人ハジャル、対照的に落ち着いた返答が少年トトだ。
ハジャルは素のままだが、それが逆にトトの心を解したようだ。少年の整った顔は、少女のように柔らかな笑みで満たされている。
ちなみにケームトでも、ドワーフ以外は未成年の飲酒を禁じていた。
この星を創った女神アムテリアは地域ごとに相応しい文化を授けるべきとし、彼女を支える従属神達も賛同した。しかし神々は極端な地域差を争いの元として避けたから、ケームトも他と同様に十五歳で成人としている。
そのためトトは牛乳を飲んでおり、酒の味には触れずに済ます。
「確かに美味しい。アーケトは良いところ……これでアムテリア様を信じていれば完璧なのに」
「そうだな……。ところでトト君、どうして日も暮れた街に出ていたのかな?」
エマが同意を示すと、兄のムビオが後に続いた。
トトは文官の子、それに対しムビオ達は農民としている。そのため本来なら敬語でも使うところだが、既に打ち解けており堅苦しいことは無しとなった。
どうもトトは気の置けない付き合いを望んでいるらしい。
ムビオは二十一歳で既婚者、ハジャルは独身だが十九歳。それに対しトトは成人まで一年、エマと同じで十四歳だ。
したがって身分の上下を抜きにしたら、これが妥当なところだろう。
「それは……済みませんが、今は言えません。というより、私の一存では……」
トトは優しげに綻ばせていた顔を引き締め、声にも凛々しさを滲ませた。どうやらムビオは、まだ踏み込んではならないところに触れてしまったらしい。
「いや、構わない。確かに軽々しく口に出来ないこともあるだろう……それに独断で先行しない慎重さは、責任ある者にとって何より大切なことだ」
「ムビオさんの仰る通りですよ! 流石はしんえ……いや、親戚一番の知恵者だ!」
ムビオの言葉は武張っているが、それでも農民の演技として通用する範囲だろう。しかしハジャルは酒が回りすぎたのか、親衛隊と口にしかけた。
この二人はシノブの親衛隊員、残るエマはシャルロットの護衛騎士なのだ。
「ありがとうございます。近いうちには必ず……そうです! 三日後の夜、また会いましょう!」
どうやらトトは、再会までに仲間の同意を取り付けるつもりらしい。
先ほど『私の一存では』と言いかけたから、トトが何らかの集団に入っているのは間違いないだろう。そして彼の属する集団とは、ケームトを元に戻すための集まりではないか。
「それは嬉しい」
「楽しみに待っている」
「俺もだ!」
ムビオとエマの兄妹、そしてハジャルも破顔する。三人とも、トトの言葉の裏に隠されたものに気付いたらしい。
そして再び和気藹々といった雰囲気になったとき、ミリィが戻ってきた。
「失礼しました~。あっ、羊の煮込みですね~! 美味しいです~!」
ミリィは室内に入った直後、新たなメニューの到着に気付いたようで走り出した。そして彼女は自席に駆け寄ると、椅子に座ったかどうかという早さで料理を口に運ぶ。
「い、いえ……」
これにはトトも驚いたようだが、他は平然としている。
それどころか接することの多いエマは、食事の世話まで焼いていた。彼女はミリィが現れたと同時に小皿を手にし、羊肉などを取り分けるとフォークとスプーンまで添えたのだ。
「ほうでしは~、ホホさん~」
「ミリィ……お行儀悪い」
しかし肉を頬張りながらのミリィの問いには、慣れたエマですら呆れたらしく袖を引く。
ちなみにムビオとハジャルは顔を逸らして気付かぬ振りをしていた。これでもミリィはアマノ王国の大神官補佐だから、あまり子供らしく振舞わないでほしいと思ったのだろう。
「んがぐぐ……そうでした~、トトさん~」
「……はい、なんでしょう?」
恥じらう様子もなく肉を飲み込んで言い直したミリィに、トトは礼儀正しく応じた。
文官の子として上品な振る舞いを学んだのか、あるいは器量の大きさ故なのか。ともかく細身で純真そうな少年に宿っているのは、知性豊かな大人にも負けぬ心のようだ。
「トトさんの名前って、何か由緒正しいものなんでしょうか~?」
ミリィは通信筒に届いた指示通り、トトに名の由来を問うた。
知恵の神トート、または『姿』を意味する古代エジプトの言葉。アミィはシノブの推測を付記した上で、少年の正体も探るようにと伝えたのだ。
「……いえ。両親に問うたことはありませんので……申し訳ありません」
知らないと言いつつも、何故かトトは苦い顔になっていた。そのためミリィとエマ、ムビオとハジャルは互いに顔を見合わせる。
「いえいえ~、そういうものですよね~」
「トト君……名前、嫌いなの?」
ミリィは無かったことにしようと思ったようだ。しかしエマは逆に踏み込み、更なる問いを発した。
確かに先ほどのトトには、何かを嫌うような雰囲気が漂っていた。エマの言葉も、当たらずとも遠からずといったところだろう。
「その……響きが女性のようですから。もっと力強い名が良かったのですが、どうしてもと言われてしまい……」
ケームトには改名の風習がある。どうやらトトは、名を変えたいと親に願って断られたようだ。
ちなみにケームトの元である古代エジプトは、名詞に男女の性があるし代名詞も男女別にしている。そして区別は性別ごとの語尾で、女性の場合は『t』の追加だ。
この星の言葉は日本語で統一されており文法や文字まで倣っていないが、名前は古代エジプト風だから『t』を含むものを女らしい響きと感じるのだろう。
「良い名だと思いますよ~。どこか賢そうな響きですし、容姿が良さそうな気もします~」
「そ、そうですか?」
ミリィは鎌をかけたらしいが、トトはキョトンとした様子で首を傾げるのみだ。演技なのか本心からか分からないが、これ以上探るのは難しいだろう。
「ともかく食べましょ~! それに遅くなったから、帰りは送りますよ~!」
「はい、お願いします!」
ミリィが再び料理に手を伸ばすと、トトも彼女に倣う。そしてミリィ達は、どこか謎を感じる少年トトとの交流を深めていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2019年2月16日(土)17時の更新となります。