27.29 ルシールの推測
治癒術士のルシールは、先日来の疑問に思考を向けていた。
それはイーディア地方の祖霊スープリについて、正確には彼の異常なまで広域に及ぶ力に関してである。祖霊といえど一国に相当する土地を支配下に置くなど、医療に携わる者として信じられなかったのだ。
そのため隣を歩く夫ファリオスの言葉は耳を通り抜けるし、周囲を彩る草花にも心が動かない。
ここ『操命の里』は一年を通して温暖で、まさに常夏と表現すべき色取り取りの花が常に咲き乱れる地だ。しかも里には大勢のエルフが住み、辺りは彼らが手塩にかけて育てた園芸品種や魔法植物で一杯である。
仕事場のある里の中心から自分達の家に向かう途中も、まるで王宮の庭園のように美しい。そして今夜は雲がなく月も煌々と輝いており、星明かりと合わせて大輪の花々を照らしていた。
それらにファリオスは歓声を上げ、あれこれと教えてくれてもいるのだ。
「例の祖霊が気になりますか?」
心あらずな様子はファリオスも察していたようだ。しかも彼は何を悩んでいるかも承知しているらしい。
常なら帰宅の際、その日の出来事を語り合う。あるいは『操命の里』の美しい景色を話題にする。
まだ赴任から半月ほどで珍しいものなど幾らでもあるし、ここは植物研究家の夫にとって理想の地である。そのため道を歩くだけでも話題の種など無数に拾えるのだ。
しかし今日は生返事を繰り返していたから、ファリオスは案じてくれたのだろう。
「ええ……」
ルシールは素直に打ち明けることにした。生前のスープリは夫と同じエルフだったから、彼の意見も拝聴すべきと考えたのだ。
相手は既に魂のみとなった高位の存在、生き物の常識は当てはまらないだろう。それに魂のみになると能力が大幅に上がるのは、憑依などでも確認されている事実である。
実際メリエンヌ学園の研究でも、木人に憑依した者が限定的な思念に目覚めた例が確認されている。ただし思念を使えるのは憑依中のみで距離は手の届く範囲と、実用にならない程度ではあるが。
「……だから、魔力上昇や能力開眼があっても不思議ではないわ」
「しかし国に相当する範囲は桁が違いすぎると?」
生前より力が上がるのは当然というルシールの前置きに、ファリオスは誤魔化されなかったらしい。
ファリオスの専門は植物の研究や栽培だが、巫女の一族だから憑依術にも通じていた。そのため彼は魂に関する術にも造詣が深く、ルシールと同じような疑念を覚えたのだろう。
イーディア地方のエルフの森は、近隣の国々に匹敵する面積を誇る。
たとえば東域探検船団が滞在中のリシュムーカ王国に比べて三割以上大きく、その北にあるアーディヴァ王国との比較でも六割以上はある。ルシールとファリオスが生まれたエウレア地方と比べても、ガルゴン王国、カンビーニ王国、アルマン共和国より広い。
深い森で魔獣が棲む場所も多いから人口は三十五万人ほどらしいが、もし全てが居住に適していれば百万人でも余裕で住める筈だ。
「そうね……。とても一人で成せる技とは思えないのよ……」
「他者の魂を吸収している可能性ですか……。カンの偽大仙、英角という禁術使いは多くの魂で力を増していましたね……」
ルシールの指摘から、ファリオスはホクカンの事件を思い出したらしい。あのとき彼は、巨大木人を動かす一人としてアマノ同盟軍に加わったのだ。
インジャオは憑依術を悪用して何百年もカン地方を裏から操ったという。そして彼は大勢の魂を吸い取って、祖霊と呼ばれるだけの力を得たそうだ。
このように他者の魂を吸収すれば、本来自身が持つ能力を超えるのも容易である。しかし神々は輪廻の輪を乱す行為として禁じており、不確かな伝説を加えても数えるほどだ。
そのためルシールにも魂を糧にしたと決め付けるほどの根拠はないが、単なる魔力吸収のみでは難しいとも考えていた。
「私が学んだ医術の常識では、魔力操作や譲渡吸収には明確な上限があるとしているわ。もちろん訓練で向上できるし、熟達すれば一桁や二桁上も珍しくない……」
「だけど魔力で影響を及ぼせる範囲は、そういった大魔術師でも半径100m以内。しかも活性化などは触れていないと無理……ですからね」
ルシールが言いよどんだ後を、ファリオスは重々しい声音で引き取った。
イーディア地方のエルフの森は、長さが1500kmほどで幅も最大200km近いという。つまり幅の方で比較しても大魔術師の千倍である。
しかも距離ではなく面積で考えたら、一千万倍に達しようかという差だ。スープリは祖霊となって肉体の枷から解き放たれているが、本当に個人の能力向上のみで実現できるのか。
ルシールやファリオスのみならず、医学や魔法学を修めた者なら多くは不審に感じるだろう。
「ええ。……今のところ、否定する材料はシノブ様が動いていないことくらいね」
ルシールは学究の徒らしからぬ根拠を持ち出した。
魂に関連する事件ならシノブが全面的に乗り出す筈。何故なら彼は神の血族で、輪廻の輪を守ろうとするから。推論と呼べなくもないが、医療や魔術の研究者が挙げる内容でもなかろう。
そのためルシールは、苦さの混じる笑みを浮かべてしまう。
「シノブ様も全てを見通してはいないでしょう。カンの事件……その前のエンナム王国が滅びヴェラム共和国が誕生した件でも、充分な調査をなさったと伺っています」
ファリオスの指摘は、ルシールも気になっていた。
ここ『操命の里』はヴェラム共和国と同じスワンナム地方、しかも事件解決に里の者達が力を貸した。そのためルシールも、かつてのエンナム王国にもカンと同様に魂を操る禁術使いが関わっていたと知っている。
そして同時に夫が指摘したこと、シノブが念入りに調べてから関与を決めたのも承知していた。つまりスープリの件も調査中なのではと言われたら、頷かざるを得ない。
「……ともかく、家に入りましょう」
ルシールは自分達の家に目を向ける。
夫が丹精篭めて育てた花達に囲まれ、自分が生まれ故郷のメリエンヌ王国風に飾った住まい。それでいて研究に必要なものも揃った、お気に入りの場所。二人の理想を形にした、二人だけの場所が目前に迫っていたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
生きている以上、何かを糧にせざるを得ない。これは生き物の業であり、植物だろうが動物だろうが同じことだ。
神々も弱肉強食の世だと認めているし、それだからこそ自身を磨くようにとも語っている。生きるための努力を惜しまず、あらゆる可能性を模索すべきと教えているのだ。
しかし禁忌は存在し、その中に魂の吸収も含まれていた。
「魔力の吸収は良いのよ。こうやって私達が飲むお茶だって、魔力回復のために作った魔法薬ですもの」
ルシールは夫へとティーカップを差し出す。
カップの中に入っているのは、ファリオスが育てたハーブで淹れた茶だ。もちろん彼の育てるものだから魔法植物で、葉にも多くの魔力が含まれている。
流石に生命の大樹のお茶には敵わないが、一日の疲れを癒してくれる上に幾らかの魔力補充効果もあるからルシールも重宝していた。
「美味しいです……また腕が上がりましたね。……魔力と魂は別、それは私達からすれば常識です。実際、魔力を得ても魂は輪廻の輪へと戻っていく……食物として得る栄養と同じですね」
ファリオスは柔らかな笑みで応じた後、一転して真顔となった。
巫女の一族に生まれただけあり、ファリオスは魂を感じ取れるという。憑依術は自身の魂を感じる修行から始めるし、彼は巨大木人を動かす達人だから感知能力も別して優れているのだ。
「でも魔力の吸収には限界があるわ。おそらくは魂の器……吸収速度や効率には肉体も関係していると思うけど、最終的には魂の容量を超えた魔力を溜められない」
ルシールがスープリの支配力に疑問を感じた理由は、ここにあった。
スープリは祖霊となった後、イーディア地方の生命の大樹に宿ったらしい。それ故彼が常識外れに大量の魔力を得ても不思議ではないが、蓄えられる上限はある筈だ。
今飲んでいるハーブティーに例えるなら、どれだけ多くを持ってこられても飲み干せる量に限りがあるように。
「そうですね。私達エルフの体は、魔力を扱うのに向いています。他と違って初めから一定の域に達しているというか……。とはいえ人族でも魔力操作を極めれば同じくらいになるでしょうし、元からエルフに近い体質の者もいますが」
ファリオスが語る内容は、ルシールの研究課題と関係していた。
ここ『操命の里』には、長命の術と呼ばれる技が伝わっている。その名の通り長寿になるための術で、極めればエルフ以外でも彼らと同じくらい長生き出来るという。
実際に長命の術で二百歳を超えた人族の例も伝わっているが、習得できる者は随分と限られるようだ。どうもファリオスの指摘した体質を備える者は、極めて稀な存在らしい。
「体質……それが問題なのよね。人族、エルフ、獣人族、ドワーフ……四種族の違いは肉体から。そう考えないと、憑依時の能力解放を説明できないわ」
幸いと言うべきか、その稀な者にルシールは該当した。
既にルシールは長命の術の修行を始めたが、まだ半月だから違いを感じ取れるほどではない。まずは何年か続けて自身の体で実感し、次に出来るだけ大勢が習得できるように体質なるものの研究を進めるつもりだ。
夫と二人三脚で進めていく、極めて長期の課題である。
「ええ。もちろん魂にも個人差はありますが、逆に言えば個体差で収まる範囲です」
これはファリオスと親しくなってから知ったことだが、エルフだからといって魂に蓄えられる魔力量が極端に違うわけではないらしい。
他の三種族が魂の限界まで魔力を溜められないのだと、ファリオスは断言した。
エルフに比べると他は魔力の吸収効率が悪く、しかも吸収した後に漏れる量も多い。結果として体内に保持できる魔力が少ないと。
「つまり体質の謎を解き明かしたら、私達は同じように生きられる……」
ルシールは脇に置いたティーポットへと目を向ける。このティーポットが肉体で中身が魂だとすると、大きさ自体は大差ないが入れ物の素材が違うのだ。
エルフの体は、目の前にある陶器製のティーポットのようなものだ。漏れることなどない上に作りも良く、湯を入れる口や注ぎ口も大きい。
他は釉薬を塗っていない素焼き、水漏れが多い器だろうか。しかも口が小さく、入れるにしろ注ぐにしろ少しずつの不便な代物だ。
「体質の差は超えられないと分かるだけかもしれませんよ? シノブ様達のような例もありますから」
「そうね。でも私達は……」
ファリオスによると、シノブやアミィ達は全く異なるらしい。しかしルシールは、他なら解明により差が縮まると考えていた。
神の血族と支える眷属、どちらも魂の容量が比較にならないと夫は語った。自分達がティーポットなら、彼らは風呂桶や池のようなものだと。
それに超越種もシノブ達に近いという。おそらくだが、彼らと人間は魂の格自体が違うのだ。
祖霊もシノブ達と同じ側だろう。幾度もの輪廻転生で鍛えられ人を超える器を得た魂だと、ルシールは解釈している。
しかしシノブ達や超越種ですら、国に匹敵する広域を術の影響範囲としたことはない。もしかするとシノブなら可能かもしれないが、伝説として残る眷属や超越種の逸話でも皆無である。
そこが引っかかるのだ。スープリは祖霊だというが、その点を考慮しても説明がつかないほど大きな影響力を備えていると。
「……明日はイーディア地方に行きましょう。もうヒャクバインの抽出は終わりましたし」
ファリオスが口にしたヒャクバインとは『力フエイン』の葉から得られる薬効成分だ。これを生命の大樹のお茶に混ぜると、祖霊スープリの影響圏内でも眠らずに済む。
そのため今日もファリオスの指揮で一日を抽出に費やした。先日赴いたバイタハ山や周辺には他にも幾らかの群生地があり、前回ほどではないが多少を採ってきたのだ。
しかし今日で採集した全ての葉を処理したから、もう里に篭もる必要はない。
「良いの?」
「私も気になっていたのですよ。スープリ……と思われる者は、エルフと他種族の婚姻を嫌っているようです。その理由を確かめたい……シノブ様は私達の結婚を神々の意思に適うと仰いましたが、ならば聖人と称えられた賢者が、どうして反対するのかと……」
ルシールの問いかけに、最初ファリオスは優しい笑みで応えた。しかし彼の顔は、次第に厳しい表情へと変じていく。
前回エールルの里に行ったとき、シノブ達はスープリの術に落ちた者に襲われた。そして襲撃者達は、ファリオスとルシールに特別な敵意を向けていた。
これを岩竜の子オルムルは、操る者がエルフと他の結びつきを嫌っているからと告げた。彼女が神から授かった感応力が、背後にいる者の意思を見抜いたのだ。
「はい……一緒に解き明かしましょう」
自分達が祝福されない存在かもという恐れは、ルシールの心にも暗い影を落としていた。
それ故ルシールは夫に同意する。この問題を避けたまま、自分達は前に進めないと思うから。
◆ ◆ ◆ ◆
東域探検船団を中心とした海からの救出作戦は順調に進み、目標とした全人口の一割を超える人々を助け出した。それに内陸を巡ったシノブも殆ど同数を救っており、合計すると三割近くが夢の病から抜け出した。
そこで今日はスープリの聖地を目指す。
夢の病に対抗するにはシノブなど一部を除くとヒャクバイン入りのお茶が必要だが、今までの救出作戦で多くを消費した。そして『力フエイン』は希少な樹木だから、当分は葉を採集できない。
つまり残りは聖地に突入する精鋭部隊に使うべきとなったわけだ。
まだ夜が明けたばかりの森の上を、双胴船型の磐船アマノ号が飛んでいる。巨船を運ぶのは例によって朱潜鳳のフォルスとガストルである。
空飛ぶ戦艦の後ろには、輝く若虎シャンジーやイーディア地方の光翔虎達が続く。彼らは念のために聖地の周りを囲み、不測の事態に備えるのだ。
祖霊とはいえスープリはエルフの生まれ変わり、つまり元は人間だ。そのため集った人々の多くは人間で解決すべきと主張し、超越種達も受け入れた。
とはいえ超越種でも子供は別だ。オルムル達は普段から『白陽宮』で暮らしているせいか、自分達も人と共に生きる者という意識が強いらしい。
そのためアマノ号には、一歳以上の超越種の子も乗船した。それにアミィを始めとする眷属達もいる。
「光翔虎の皆さんにも聞きましたが、どうもスープリが力を増したのは最近らしいですね~」
「せいぜい数年……それも一年か二年のようですわ」
眷属のミリィとマリィが、ここ数日で調べた成果を語っている。
他にも二人と同じ金鵄族のホリィ、そして天狐族のタミィとシャミィがイーディア地方の光翔虎達を訪ねて回った。その結果、スープリの夢の力は当初予想していたような何百年もかけての成長ではないと分かったのだ。
もちろん光翔虎は人間ばかりに注意を向けていないから、詳しいことは不明なままだ。しかし今のように森を覆いつくすほど巨大な力なら容易に気付いたと、彼らは断言した。
「逆に恐ろしくはありますね。僅か一年かそこらで前代未聞の域に達したわけですから」
「確かに……もっとお茶を飲んでおくかの?」
「私も飲む」
シャルロットが呟くと、マリエッタとエマはテーブルの上に置かれたティーポットへと目を向けた。他も同様で、ポットに手を伸ばす者が多い。
聖地突入の志願者は多かった。どうも彼らはルシール達と同じ疑問を抱き、自身の目で真実を確かめたいと望んだらしい。
シャルロットの隣には側近にして親友のアリエルとミレーユ。シノブの側には同じくイヴァールにアルノー、アルバーノの三伯爵。もちろん親衛隊長のエンリオも主達の側に侍っている。
ただしシノブは、ミュリエルやセレスティーヌまで連れてこなかった。聞き及んだところだと、彼女達に愛息リヒトを預けて『白陽宮』に留めたらしい。
それに宰相ベランジェや内務卿シメオン、軍務卿マティアスもいない。ヒャクバインが限られることもあり、彼らもアマノ王国の守りとして残されたという。
そのため魔法の家のリビングに集う面々は二十人ほどだ。他は入ってすぐの石畳の間にいる者達、夢の術に抗すべく呼んだ魔霊バクと使役者たる操命術士のみである。
「これは根拠のない妄想にすぎませんが、スープリは魔霊バクのように特殊な力を備えたのかもしれませんね」
ホリィは夢を操る魔獣を持ち出した。
魔霊バクは魔獣だから別格の魔力を備えている。しかし超越種に勝るほどではなく、もちろん祖霊に敵う筈もない。
それにも関わらず夢の病を中和できるのは、種族が持つ固有能力だろう。
『私達の飛翔やブレスのようなものですか……』
「だとしたら、いったい何から得たのでしょう? それに、どうやって……」
「光翔虎ではないでしょうし、もしかして玄王亀……アープさんやサラスさんでしょうか?」
思考に沈んだらしきオルムルに、疑問を覚えたらしきタミィとシャミィ。ルシールも口を挟まぬものの、首を傾げていた。
ここイーディア地方に魔霊バクは生息していない。それは光翔虎達が保証してくれたし、同様の夢に干渉できる生き物も知らないという。
ちなみに先日イーディア地方にも玄王亀がいると分かったが、光翔虎は知らぬままだった。玄王亀は地下に棲むから、無理からぬことではある。
この玄王亀の番にはラシュスという娘がいるそうだが、生憎ルシールは三頭と会ったことがない。それに玄王亀は夢を操る術を持っておらず、スープリと無関係ではないか。
まずは夫に聞いてみよう。そう思ったルシールだが、生憎と彼は側にいなかった。
ファリオスは里から携えてきた袋を手にし、人々の間を巡っていたのだ。
「錠剤もありますよ。吸収は遅いと思いますが、これなら戦いの最中でも補給できるでしょう」
「おおっ! これは助かります!」
「確かに」
ファリオスが差し出す粒に、アルバーノやアルノーが早速手を伸ばす。どうも彼らは、お茶を飲みすぎたと感じていたらしい。
果たして武人達に活躍の場があるか、ルシールは疑問に感じていた。しかし武人達からすれば、主が出陣するのに後方待機など不名誉極まりないだろう。
それに武人ではないが、エルフの森の代表として神託を受けたシースミに兄のラークリも乗っている。
「シースミ、ウーシャ様は?」
「一緒にいるよ。……済みません、無理を言いましたね。ですが私もスープリの真実を確かめたいのです」
ラークリの問いに、最初シースミは年齢相応の口調で応じた。しかし残りは七歳という幼さに似合わぬどころか、十歳の兄よりも遥か年長に感じる言葉を返す。
祖霊ウーシャは再びシースミの体に宿っていた。鋼人ではお茶を服用しても効果がないが、これならスープリの術から逃れられると分かったのだ。
ウーシャは祖霊になってから百数十年、まだ駆け出しというべき存在らしい。一方スープリは人としての誕生が九百年前、祖霊となってからでも六百年だという。
それにスープリのように明らかな影響力を示す祖霊の方が異例なのだ。多くは密かに子孫を見守る程度、しかも自身の墓所や安息の地として定めた場所から動かず神官達に祀られる存在だ。
ルシールの祖国であるメリエンヌ王国も、初代国王エクトル一世と二代目のアルフォンス一世が祖霊として人々を見つめているという。しかし彼らは聖地サン・ラシェーヌや光の神具の安置所を守るのみで、人々に働きかけたことなどない。
やはりスープリは異色の存在なのだ。祖霊としての能力以外にも想像を超える何かを得ている筈と、ルシールは気を引き締める。
もしカンやエンナムの禁術使いのように、スープリが他者の魂に手を出していたら。ルシールは眩しい朝日に照らされる森に目を向けつつも、心晴れることはなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
「大丈夫ですよ……ほら、貴女もどうぞ。これは特製、貴女だけのために作った品です」
いつの間にかファリオスが側に寄っていた。そして彼は腰に下げた袋からクッキーを取り出すと、口付けしてからルシールに差し出す。
「……ありがたくいただきます」
クッキーを口にすると、ルシールの心から不安が消えていく。
何らかの薬効成分が入っていたのか、あるいは夫の愛情を感じたからか。ともかく魔法のように心が安らいだのだ。
そのためルシールは、真っ黒に染まった大樹を目にしても平静なままだった。
理由は不明なままだが、イーディア地方の生命の大樹は最近になって黒く変じていた。元は『操命の里』の大樹と同様に緑が美しい巨木だったが、今では葉から幹まで全てが漆黒の一色で塗りつぶされている。
しかも黒い大樹の魔力波動は、動物にも似た脈動を伴っている。先日偵察したアミィやシャンジーが、肉のようだと評した蠢きである。
「不気味ですね……」
「でも平気です……貴方がいるから」
眉を顰めた夫に、ルシールは手を握り返しつつ応じた。
少し離れた場所では、同じようにシノブがシャルロットと寄り添っていた。それに他も同僚や友人と励まし合っている。
絆で結ばれた者達が支え合う姿は、ルシールに更なる勇気を与えてくれた。しかし湧き上がる思いに冷や水を浴びせるかのような響きが、アマノ号を襲う。
『気に入らぬ……』
『エルフが他種族と結ばれるなど、あってはならぬ……』
雷鳴のように重々しい音を発したのは、眼前の天を貫くような巨木だった。同時に晴れ渡った空が、一転して暗雲に包まれる。
漆黒の大樹は誇張ではなく雲に届く高さを誇っており、大半が暗黒の中に消えていく。
『それに超越種共まで……』
『鉄槌を降すのじゃ……』
『さあ、薙ぎ払え……』
大樹からの声は微妙に揺らいでおり、あるときは男のようにも聞こえるが別のときは女性としか思えぬ響きに転ずる。それに老人のようであったり壮年のようであったりと、掴みどころがない。
しかし声の正体に思いを巡らすより、もっと注意を惹く出来事が起きる。
「あれは玄王亀!?」
『ラシュスさんでしょうか!?』
『たぶん、そうです~!』
誰かの悲鳴じみた絶叫に、炎竜シュメイと光翔虎のフェイニーの声が被さる。漆黒の大樹の前方に、同じく黒い巨大な亀が浮き上がったのだ。
丘のように盛り上がった大地の中から出てきたのは、確かに玄王亀だった。しかも成体らしく、甲羅の大きさは20mほどもあるだろう。
桁外れの大亀が浮遊する姿は非現実的だが、それだけなら玄王亀を頻繁に目にしている者達が驚くことはない。叫びが上がったのは、こちらを向く漆黒の亀の巨大な口に目を貫かんばかりの光が宿っていたからだ。
これはブレス発射の前兆、玄王亀達が超空間玄咆と呼ぶ空間すら破砕する攻撃の前触れである。
玄王亀は空間を歪めて地底を進むが、普段は周囲への影響を最小限に抑えている。そのため丘にも穴など見当たらないが、乱したままに留めれば攻撃としても使えるのだ。
「皆、頼むぞ!」
巨大な口内が輝きを増す中、シノブが大音声を張り上げる。同時に彼は思念を使ったようで、ルシールは彼から広がる太陽のような魔力波動も感じていた。
『ラシュス、目を覚ますのだ』
『邪悪な術に屈してはなりません』
『シューナです! 今助けますから!』
閃光がアマノ号を襲う直前、何頭もの玄王亀が舳先の手前に出現する。そして彼らが作り出す眩い壁が、放たれた光の奔流を遮った。
「あれはラシュス様の御両親でしょうか?」
「ええ、シューナ様も! それに……」
溢れる光でルシールには前方の様子が掴めない。それは夫も同じらしいが、どうも複数の玄王亀が守ってくれたのは確からしい。
しかし疑問は直後に解消する。光が収まったとき、眼前には八頭の玄王亀が浮いていたのだ。
手前に大きな七頭、後ろに小さな一頭。いずれもラシュスと同じ高さにいる。
どうやら跳ね返したブレスが雲を突き破ったらしく、空は陽光の満ちる場に戻っていた。そのためアマノ号を守るように陣取った八頭の甲羅も、黒々と輝いている。
『我が名はアープ。その娘の父親だ』
『サラスです。娘を返しなさい』
まずはイーディア地方の玄王亀達から。そして更に名乗りが続いていく。
アスレア地方のシューナ、ラシュスと同世代の雄。そして彼の両親であるアノームにターサ。エウレア地方のクルーマとパーラ。最後はクルーマ達の娘ケリス、生後半年少々の幼体だ。
どうやら既知の玄王亀のうち、長老夫妻と先月生まれたばかりのタラーク以外の全てが集ったらしい。
「大樹が黒く染まったと聞いて、もしやとね……。そこで急遽アープとサラスを探しに行ったのさ」
集った者達の視線を受け、シノブが種明かしをする。彼は偵察したアミィやシャンジーの報告から、ラシュスが囚われていると予想していたのだ。
玄王亀達は腕輪の力で小さくなり、光翔虎の背に乗って移動した。しかも光翔虎は姿消しの応用で隠し通したから、相手も気付かず仕舞いだったのだろう。
「流石はシノブ様……」
「ええ。私達が奉じる『光の盟主』です」
無意識のうちに発したルシールの感嘆に、ファリオスが同じく喜びも顕わな声で応じる。
まだ戦いは始まったばかり、しかしルシールは勝利を確信する。天に届かんばかりの大樹より、自分達が主と仰いだ若者が大きく映ったからだ。
もちろんシノブに縋るだけの存在に堕すつもりはない。夫と二人で医療や魔術で貢献し、光の若者が示す道を様々な者達と共に歩むのだ。
『まだそのようなことを……』
『エルフと共に歩もうなど、不届き千万……』
またもやルシールの思いを読み取ったかのように、大樹から憎々しげな声が響く。どのような術か分からないが、少なくともファリオスとルシールを注視しているのは間違いないと思われる。
ならばとルシールは進み出る。もちろん隣にはファリオス、最愛の男性も一緒だ。
「貴方達には負けません」
「ええ。スープリに寄らなくては何も出来ない者達になど」
二人が宣言すると、大樹の波動が大きく揺らぐ。やはり相手は集団、核は祖霊スープリかもしれないが大勢の集まりらしい。
しかしルシールに不安はない。自分達にも強い絆で結ばれた多くの仲間がいるからだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年12月15日(土)17時の更新となります。