05.19 初恋のメヌエット 前編
先代伯爵アンリ・ド・セリュジエから、王都メリエでの事件を聞いた日の午後、シノブとアミィはミュリエル達に魔力操作の訓練をするためブリジットの居室へと向かっていた。
あの後、シノブは、いつも通り領軍本部で希望者に魔術を教えた。そして、昼食をシャルロット達と共にした後、ベルレアン伯爵の館へと戻ってきた。
本来なら、昼食後は伯爵家の家令ジェルヴェから貴族の習慣や作法などを教わる時間だ。しかし、今日はミュリエル達の訓練を優先している。ジェルヴェには、魔法の家で夕食後に講義してもらう予定である。
「イヴァールは、熱心に軍人達と修練していたね」
シノブは、隣を歩くアミィへと話しかける。
「やっぱり、あのお話を聞いたからですよね。きっと、王都に行くまでに少しでも腕を上げたいんだと思います。夕食も軍で摂って、ずっと訓練するって張り切ってましたね」
アミィは、シノブを見上げながら答えた。
彼女の言うとおり、イヴァールは領軍本部で修練を続けている。
普段なら、彼は夕方前には訓練を切り上げ、シノブと共にシメオンの待つ領政庁へと赴く。アミィが夕食の準備をする間、彼女の代わりにシノブの従者として付き従うためだ。
だが彼は、今日は訓練の継続をシノブに願い出ていた。
「修練を続けるのは全く問題ないんだけど。領都の中は安全だから、警護は必要ないし。
でも、大族長の命令で俺の従者になったんだ、ってアミィのいない時は離れなかったのにね。
それだけショックだったんだろうな」
人族ではない彼としては、獣人の未帰還兵が奴隷として酷使されていたというのは、シノブ以上に衝撃的だったのだろう。
シノブ達は、館に戻る前に戦斧を振るうイヴァールのところに寄った。だが、彼の鬼気迫る訓練にシノブは声をかけることもできなかった。
「そうですね。イヴァールさん達ドワーフは、同族を大事にしますから」
アミィの言うとおり、そんな彼からすれば、操られてかつての同僚に切りつけるなど、許しがたいことだろう。
「王都に行く準備は後でジェルヴェさん達とするけど、俺達もしっかりしないといけないな……まあ、まずはミュリエル達の訓練だけど。ミュリエルにも、しばらく会えなくなるって言わないとね」
シノブは、自分やアミィと会えなくなると聞いたら、ミュリエルやミシェルが悲しむと思った。だが、幼い彼女達を危険が待つかもしれない王都に連れて行くことはできない。
シノブは、なんとか彼女達を説得できれば良いがと考えながら、エントランスホールの正面の階段を上がっていった。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブお兄さま……私も連れて行ってもらえませんか?」
魔力操作の訓練の後。シノブはミュリエル達に王都行きについて説明していた。
シノブ達の王都行きを聞いたミュリエルは、緑の瞳を潤ませつつシノブを見上げながら、自身の希望を伝える。ミシェルも、姉と慕うアミィが長期間いなくなるのが悲しいようで、幼い顔を曇らせている。
「ごめんね。でも今度の王都行きは危険かもしれないんだ。きっと伯爵や先代様もお許しにならないよ」
詳しいことは、伯爵達から伝えるだろう。そう思ったシノブは彼らの名前を持ち出した。
「そんな……。シャルロットお姉さまは、ご一緒されるのに……」
ミュリエルはシノブ達と王都に赴くシャルロットが羨ましいようだ。
伯爵は、夫人達やミュリエルを連れて行かないと宣言していた。
訪れるのは、暗殺者もどきの戦闘奴隷が潜む王都である。彼の判断は至極当然なものであったし、シノブも彼女達は安全な領都の館にいるべきだと考えていた。
「ミュリエル様、王都は本当に危ないようです。先代様の部下の方も、まだあちらで色々調査されているようですし……」
アミィも、シノブを援護するためか、ミュリエルを諭すように言い添えた。
先代伯爵の腹心ラシュレーは、『隷属の首輪』で操られている可能性が高い元家臣アルノー・ラヴランを必死に探しているらしい。
彼にとって、アルノーは成人直後に従軍した帝国との戦いのとき、親身に指導してくれた先輩だという。それもあって、ラシュレーとその部下は王都で懸命の捜索を続行している。
「その……陛下からお許しを貰う必要があるから、シャルロットと俺が行かないことにはね。だから俺達が行くのは仕方ないんだよ」
シノブは、なんとかミュリエルを宥めようと努力した。
王都には、執務室で先代伯爵アンリの話を聞いた面々が行くことになっている。ただし、先代伯爵自身は領都に残る。
継嗣の婚姻には国王の許可が必要だ。シャルロットとシノブの婚約を国王アルフォンス七世に許可してもらうため、当主であるベルレアン伯爵コルネーユは王都に行かなくてはならない。
伯爵が王都に赴く間、先代伯爵は彼の代理として領地を預かり義理の娘達や孫を守るのだ。
「また、お土産を買ってくるから。何が良いかな?」
シノブは優しくミュリエルに問いかけるが、俯く彼女から答えが返ってくることはなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
結局シノブ達は、ミュリエルを納得させることができないままであった。彼らは後ろ髪を引かれる思いで、ブリジットの部屋から退室していくしかなかった。
そしてシノブは、ミュリエルの悲しそうな顔が頭から離れないまま、夕食のときを迎えていた。
夕食のメニューはアミィが作った和風料理だが、彼はいつもほど箸が進まなかった。
今日は、特訓のためイヴァールは留守である。彼は領軍での訓練を続行するために居残り、夕食も向こうで取る事にしたのだ。
普段は陽気なところもあるイヴァールがいないせいか、食卓はどことなく明るさに欠けていた。
「シノブ様、どうされたのですか?」
後ほど講義する予定のジェルヴェは、今日はシノブ達と一緒に食事をしている。
どうやら彼は、シノブ達の浮かない様子が気になったようだ。給仕をする侍女のアンナもシノブ達を心配そうに見ている。
「それが……ミュリエルなんだけど……」
シノブは、ブリジットの居室での一幕をジェルヴェに説明した。
ところどころアミィが補足するが、彼女もこの件には困った様子である。普段仲良くしているミュリエルやミシェルに悲しい思いをさせたせいか、頭上の狐耳も元気がない。
「そうですか……シノブ様、明日は軍服などが仕上がる日でございましたね?」
シノブとアミィの言葉に、しばし考え込んだジェルヴェは何故か明日の予定を確認する。
「確か、明日の夕方に持ってきてもらうはずだったな。そうだよね、アミィ?」
「はい、間違いありません。伯爵家御用達の職人さんに届けていただく予定になっています」
ジェルヴェの唐突な質問に、シノブとアミィは首を傾げながら答えた。
領都セリュジエールに戻って早々、シノブは伯爵家の魔術指南役となった。そのため領軍大隊長格の軍服や貴族に相応しい服を整えていた。
伯爵家御用達の服飾職人ラサーニュを招いて採寸してもらったのが、およそ一週間前である。
近々王都に赴くため、伯爵は大急ぎで仕立てるよう職人に指示していた。その甲斐あって明日納品される予定である。
「それでしたら、明日の午後ミュリエルお嬢様をお連れになって、ラサーニュの店にお出かけになってはいかがでしょう?
王都にお連れ出来ない代わりに、領都を回られるのも良いかと思います。
私もお供いたしますので」
ジェルヴェは、領都の散策でミュリエルの不満を解消できないかと考えたようだ。
彼は、ミュリエルと服飾店などに行った後、彼女の興味を引きそうなところを回ってみてはどうかと提案した。
「それは良い考えだな。アミィもそう思うだろう?」
シノブは、ジェルヴェの提案に思わず笑顔になった。
王都に連れて行けないのは仕方がない。でも、その代わりに半日領都セリュジエールを一緒に満喫するのは、とても素晴らしい考えに思えたのだ。
「はい! 良い埋め合わせになると思います!」
アミィもシノブと同じ考えに至ったようだ。
先ほどまでとは一転して、薄紫の瞳が楽しげに輝いている。
「明日は私とシメオン様の講義は無しにしましょう。ミュリエルお嬢様と領都をお楽しみください」
活気を取り戻したシノブ達の様子に、ジェルヴェも笑顔になった。
彼も、伯爵家の家令として王都に随伴する。留守の間、館の管理は息子で家令見習いのフェルナンに任せるそうだ。
「気遣い、ありがとう」
ジェルヴェも出発の準備で忙しいだろうに、半日シノブ達に付き合ってくれるのだ。
シノブは、にこやかに微笑むジェルヴェに軽く会釈し、謝意を表した。
「ミュリエルお嬢様も、お館様をはじめ皆様が王都に行ってしまっては寂しいと思います。
お戻りになるまでの楽しい思い出となるよう、私も微力ですがお手伝いします。
それではラサーニュ達には明朝早々に、こちらから行くと伝えておきます」
「何から何まで本当に助かるよ。ミュリエル達の悲しげな顔は、とても堪えたから」
ジェルヴェの行き届いた配慮に、シノブは感謝した。
伯爵が言うように、彼は家令としての職務を越えて主とその家族に尽くしているのだ、とシノブは改めて感じる。
「はい! ジェルヴェさん、明日はミシェルちゃんも一緒に行きましょう!」
このところ忙しかったシノブが半日の休暇を取る事になり、アミィも嬉しそうだ。
ミシェルも含め一緒に回ろうと、明るい声でジェルヴェに提案していた。
「ご配慮感謝します。それでは、食事を再開しましょう。この後、礼法の勉強もございますので、ゆっくりはしていられませんよ」
ジェルヴェはシノブ達に食事を促した。
「お手柔らかに頼むよ」
シノブは、後に控える作法の勉強に首を竦めながら答える。
ジェルヴェの授業は決して辛くはないが、貴族の礼法には覚えるべきことが沢山ある。
そして授業の最後には、ジェルヴェに学習した内容を確認されるのだ。元々、王都に行くのを前提にしていたので、記憶力の良いジェルヴェの確認は中々厳しいものだった。
「シノブ様は筋が良いので、教え甲斐があります。
そうです。今日は明日お教えする分も一緒にやってしまいましょうか?
王都に行くまでに覚えるべきことは山ほどあります。いっそのこと、これから毎日、夜も授業を行うようにしましょうか」
ジェルヴェは、珍しく冗談めいた口調でシノブに授業の追加を申し出た。
「ジェルヴェさん、王都で授業を続けて良いから、それは勘弁してほしいな」
シノブが顔色を変え、降参したように両手をかざす様子に、アミィとアンナは思わず噴き出した。
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