27.15 リゼット、将来を語らう
シャルロット付きの侍女リゼットは、アマノシュタットにある贔屓の料理店を訪れていた。
店の名は海虎亭。ガルゴン王国料理が売りの一つで、同国出身のイーゼンデック伯爵ナタリオとの縁でアマノシュタットに店を構えたという。ただしメリエンヌ王国風の料理も出してくれるから、リゼットは故国と異国の味を双方とも楽しめる場所として重宝していた。
二国の料理を看板に出来るのは、料理長がナタリオの実家であるバルセロ子爵家に仕えていたからだ。バルセロ子爵は駐メリエンヌ王国大使を長く務め、その間に料理長はメリエンヌ料理を本格的に学んだわけだ。
実は海虎亭という名も、虎の獣人で海軍元帥のナタリオにあやかってである。
ガルゴン王国は海洋国家だけあり、魚を使った料理が多い。しかも米と共に煮込むなど、メリエンヌ王国の北部内陸出身のリゼットからすると異国情緒に溢れている。
それに豪快な肉料理も魅力だ。リゼットは交易商の娘で父のファブリ・ボドワンや弟のレナンと共に馬車の旅もしたくらいで、野趣溢れる食事を味わいたくなるときもある。
しかし今は男爵令嬢にして王妃シャルロットの侍女だから、あまり街に出る機会もないし行き先も高級街に限られる。そのため元子爵家料理人が品よく纏め、手の込んだメリエンヌ料理も出してくれる店は願ってもない場所だった。
場所といえば海虎亭が中央区に近いのも好都合で、同僚達を誘って行くことも多い。しかし今日リゼットの前にいるのは侍女仲間ではなく、大工の棟梁ハンス・ホルツケンの娘アンネであった。
「忙しいところ、ごめんなさい。この前、幾つか改築の話があるって聞いたけど」
「いえ、まだ大丈夫です。それにリゼットさんこそ帰国したばかりで……」
個室に通されるなり、リゼットは問いを発する。するとアンネは首を振り、逆に気遣うような顔となる。
半年少々前から、二人は頻繁に連絡しあう仲となっていた。昨年八月にメリエンヌ王国の都市アシャールを一緒に巡って以来、友人としての交流を始めたのだ。
アンネと出会ったとき、リゼットは恋敵になるかもと警戒した。それはアンネも同じだったようで、言葉や態度に明らかな距離を感じた。
しかしリンハルトは子爵だから、妻を二人持つことも出来る。したがって共存の道もあるし、当時はアマノ王国に移ってから三ヶ月ほどで友人が欲しくもあった。
もちろん『白陽宮』には同僚や他部署の同年代の女性など親しい者は多いし、同じシャルロット付きの侍女アンナや今は情報局に移籍したソニアのように親友と呼べる相手もいる。とはいえ全て仕事絡みだから、リゼットは王宮外にも誰かいればと思っていた。
アンナやソニアと語らうのも楽しいが、彼女達は従士階級の出身だ。そのため商家生まれのリゼットとは幼い頃の過ごし方も随分と違う。
主の側仕えに上がったり武術の鍛錬に励んだりなど興味深くはあるが、街路を遊び場とし小銭を手に雑貨屋を覗いた自分の過去とは共通点が少なかった。
しかしアンネの子供時代とは、似ている点が多い。それに今の彼女はホルツケン一家の経理や事務を担当しており、商家時代の自分と重なった。
シノブに仕える前のリゼットも帳簿を付けたり備品管理を任されたりと力仕事以外は殆ど経験したし、父が出した武具関連の店で売り子もした。何しろシノブ達との出会いも、メリエンヌ王都メリエの支店で販売員をしていたときだ。
武具と建物では大きく異なるが、異業種の裏事情も面白い。そのためアンネと会う日を待ち遠しく感じるほどで、最初の警戒が嘘のようだと笑ったものだ。
「私達は随伴しただけだし、王宮から離れて骨休めになったくらいよ。疲れただろうから休みなさいと早上がりさせていただいたのが申し訳ないくらいで……だから大丈夫」
「そうですか。私の方も概算を出す前ですし、手がけているものは全て工期途中です。だから引き渡し間際のような忙しさはありません」
リゼットが内情を明かすと、アンネは安心したらしく顔を綻ばせる。
この日の夕方、シノブ達はアスレア地方歴訪の旅を終えた。そして直後にシノブは随伴した者達を労い、解散を命じた。
そこでリゼットは急遽アンネと会うことにした。昨日アンナ達との話に上がった、リンハルトに関する件を伝えるためだ。
「それにリゼットさんから外国の話を聞けると、楽しみにしていました!」
「そうだったわ。これ、お土産。こちらの袋がアンネさん、これはご家族の分よ」
微笑みを浮かべるアンネに、リゼットは携えてきた包みを渡す。
生憎と観光に興じる余裕はなかったが、どこの国も王宮出入りの商人を回してくれた。そのためリゼットも、家族や友人向けに様々な品を購入していた。
「ありがとうございます! 開けて良いですか?」
「ええ、どうぞ」
喜色満面となった相手を微笑ましく思いつつ、リゼットは応じる。このようにアンネは、生まれながらの貴族女性と違ってリゼットだと構えずに済むらしい。
それにリゼットが語るリンハルトの仕事振りも、アンネは楽しみの一つだと口にする。
アンネは午前中をリンハルトの館で侍女として働いており直接聞く機会もあるが、機密が多いからと詳しく教えてくれないそうだ。それに彼は節度ある青年で自慢などしないし、男目線より女から見た王宮の方がアンネも興味深いのだろう。
しかも現在リンハルトが担当している件は、あまり面白味がなかった。ここのところ宰相ベランジェと共に取り組んでいるのは、憲法制定と国史編纂なのだ。
これが昨年十月のアマノ同盟大祭や六月に予定されている建国一周年式典であれば、華やかな催しも多数ある。しかし二日後の4月1日に発刊される国史第一巻について、恋する乙女が慕う相手に問う様子はリゼットにも想像できなかった。
そもそも今のリンハルトは多忙を極め、最近は『白陽宮』に泊まることも多い。そのためだろうか、アンネはリゼットと食事を共に出来るのをとても喜んでいるらしい。
それはともかくアンネは土産物とした異国の服を大いに喜び、大切そうに仕舞っていく。ちなみに家族の分は小物類だが、当人より先に見るのもと思ったらしくアンネは開封せず脇の籠に入れていた。
「では、注文しましょう」
「はい!」
リゼットはテーブルの上に置いてあるメニューを広げ、アンネも倣う。
そして暫くの後、リゼットはテーブルの上のボタンを押した。これは呼び鈴の魔道具で、店員を呼ぶためのものだ。
ちなみに『白陽宮』や上級貴族の邸宅だと魔力無線を用いた高級品だが、ここは有線式だった。しかし持ち運ばないなら、これで充分だろう。
◆ ◆ ◆ ◆
魚介類と米のリゾットに豚肉の煮込み、各種のハムと果物の盛り合わせ、それにサラダと果汁で割ったワイン、更にガルゴン王国風のニンニクを利かせたパン。リゼットとアンネが注文したのは、そういった品々だった。
ただし全て量は少ない。食べ過ぎると太るから、二人で分けつつ様々な味を楽しむつもりだ。
それと誰にも聞かれずに話したいから、どれも早く出てくる料理にした。リゾットや煮込みは仕込みが終わっているし他は切ったり盛ったりが殆どだから、予想通り幾らもしないうちに全てが並ぶ。
「……というわけで、アンナさんがリンハルト様の意思を確かめてくれるの」
リゼットは昨日の出来事、ズヴァーク王国の王都フェルガンでの一幕を語り終えた。
同僚のアンナからリンハルトとの仲が進んだか問われ、それにアンネが自身に第一夫人を譲ろうとしていると応じた。ただしリンハルト自身は答えを出していないと続けたとき、周囲が聞きつけた。
そして周りの者達は、いつまでも待たされないようにリンハルトに決断を迫るべきと言い始めた。一般的に貴族女性は二十歳までに嫁ぐが、リゼットとアンネは既に十八歳だからである。
特にリゼットは残り一年半だから、貴族の通例に倣うなら悠長に構えていられないのは確かだった。
しかしリゼットがリンハルトを庇ったから、アンナは余計なことを言ったと悔いたらしい。そのため彼女は自身がリンハルトとの仲を纏めようと宣言した。
最初リゼットは驚いたが、これで中途半端な状態が終わるならと考え直した。今の自分はボドワン男爵家の一員で、当主である弟に迷惑をかけたくないとも思っていたからだ。
「もちろんアンネさんが同意してくれたらだけど。……それと手伝ってほしいことがあるの」
「わ、私は第二夫人で構いません。それにリンハルト様が一人だけと仰るなら……」
リゼットが語るにつれ、アンネの顔は曇っていった。この件になる前、アスレア地方歴訪での話をしていたころとは全く違う。
異国の出来事を聞いているとき、アンネはリゾットを口に含んでは頬を緩め、トマトソースの煮込みには家でも作りたいと目を輝かせていた。それに生ハムや胡椒の効いたソーセージの薄切り、やはり綺麗に切り分けた南の果物など、ガルゴン王国由来の品々を幸せそうに食べ比べたほどだ。
しかし今、アンネの顔は青ざめている。声も料理に嘆声を上げていたときとは別人のような、どうにか向かいのリゼットに届くかという元気のなさだ。
「リンハルト様は貴女を妻に迎えたいのよ……長い療養生活を支えたのだもの。侍女として雇ったのだって、貴女を手放したくないから。だから、そんなこと言わないで」
リゼットは溜息混じりの言葉を紡ぐ。
とはいえリゼットにも、アンネの気持ちは痛いほど理解できた。彼女はリンハルトに釣り合わないと尻込みしているのだ。
リンハルトは現在でさえ子爵にして宰相補佐官、先々は閣僚にすらなると噂される逸材だ。
その妻に平民上がりの自分がなって良いのだろうか。先々生まれながらの貴族女性が嫁入りしたら、自分など隅に追いやられるのでは。今は貴族となったリゼットですら、こう思うときがある。
それ故リゼットは、同じような出自のアンネと共同戦線を張ろうと考えた。第三夫人まで迎える者は少ないし、その場合でも二対一なら対抗できると思ったのだ。
もちろん口にしたのも嘘偽りない本音だ。リンハルトがアンネに惹かれているのは確かな事実、おそらく彼は自分だけを娶りはしないだろうと。
「第二夫人かどうかはともかく、私と一緒にリンハルト様の両脇を占めましょう。それに、このままだと誰かがリンハルト様に娘をと言い出しかねないわよ? もし相手が外国の大物ならベランジェ様も賛成するでしょうし、宰相閣下が同意なさったらリンハルト様だって……」
リゼットは今までも何度か伝えたことを繰り返し、更に最も恐れる事態に触れた。
現在リンハルトに婚約者はいないが、『白陽宮』で働く女性達はリゼットとの仲を知っているから名乗りを上げはしない。しかし遠方や外国の者は別だし、異国の王族や上級貴族との縁なら宰相ベランジェも国のためにと検討するだろう。
惚れた欲目もあるとは思うが、リンハルトは整った容貌の穏やかな青年で頭も良い。それに彼の魔力は、かなり多い方らしい。
去年五月までリンハルトは魔力が漏れる難病で歩くことも出来ず、当然ながら魔術を学ぶどころではなかった。しかしアミィの治療で完治したから、充分に修行すれば魔術師として活躍できるそうだ。
もちろん政務で忙しいから手を出さないだろうが、魔力量は子供に遺伝するから結婚相手として魅力的なのは間違いない。
加えてリゼットは、今更リンハルトを逃したくなかった。
元が商家の娘だからか、リゼットは軍人の男性が苦手だった。主君のシノブやメグレンブルク伯爵アルバーノのように物腰柔らかなら別だが、いかにも武人といった筋骨隆々とした容姿は嫌いなのだ。
ましてや朝から晩まで武術のみ、他は我関せずといった相手など願い下げである。別に商売絡みでなくとも良いが、少しは知的な会話を楽しみたい。そしてリンハルトはリゼットの好みに当てはまっていた。
長い療養生活を読書と勉学に費やしただけあって博識だし、病弱だったせいか人を思いやる優しさがある。それに子供向けの私塾を開いていたくらいで、面倒見も良い。
血筋は代々の貴族だが、そういった生活をしてきたからか自分達と同じ平民出身のように感じるほどだ。要するに気が合うのだろうが、いつの間にかリゼットの頭から他の選択肢が消え失せていた。
「アンネさん、本当にリンハルト様を諦められる? 私達の手の届かないところに行っても良いの?」
「……分かりました。それで手伝いとは、何をすれば良いのでしょう?」
リゼットの最後通牒じみた言葉が効いたのか、アンネの面と声に力が戻った。
今のアンネは、必要があれば棟梁にして父のハンスすら叱り飛ばす金庫番に相応しい威厳を漂わせている。それをリゼットは見て取り、彼女なら大丈夫と笑みを浮かべる。
◆ ◆ ◆ ◆
翌日の創世暦1002年3月31日、リンハルトは久しぶりに自邸で朝を迎えた。
国史第一巻も完成し、第一刷も予定の数を用意できた。後は明日の4月1日に発表し、各地に送るだけだ。
そのためリンハルトは帰宅できたわけだが、お陰で彼は朝から冷や水を浴びることになる。
「……今、なんと?」
「ですから、父が縁談を持ってきまして。取引先の貴族様が、跡取りの嫁に欲しいと仰ってくださったとか……」
リンハルトの表情は寝耳に水といった様子、アンネの言葉は本物の冷や水より効いたらしい。朝食後の楽しみである新聞から上げた顔は、病で伏せっていたときのように蒼白だ。
もちろん縁談など存在せず、リンハルトに揺さぶりをかけるための芝居だ。もっともアンネの浮かない顔や弱々しい声は激しい困惑を完璧に表現しており、とても作り事とは思えない。
それにアンネは父のハンスにも話を通し、仮にリンハルトが確かめても真実に辿り着けないだろう。
「父も行き遅れないうちにと思ったのか、検討させていただくと答えたそうです。何しろ貴族様の場合、大抵は二十歳までに嫁ぐそうですから」
アンネは十八歳、もし貴族の娘なら親が焦りを感じ始めるころだ。つまり縁談が舞い込んだ場合、もう次はないかもと妥協しかねない時期である。
そしてハンスは貴族相手の棟梁だから、そういった事情には詳しい。したがって本当に話があって更にハンスが前向きだったら、脈があるか不明なリンハルトを待つよりはと考える可能性が高いだろう。
それらが思い浮かんだから、リンハルトの表情が激変したのだ。
「そ、その……どこの家から申し込まれたのですか?」
「それが……。あっ、そろそろ出仕される時間では?」
恐る恐るといった様子で問うたリンハルトに、アンネは口篭もってから家を出る時間だと答えた。
実はアンネが別れ際に切り出したのは意図的で、このように相手を伏せたまま乗り切るためだ。架空の相手だから出せる名前など存在せず、今まで切り出せなかったという態で誤魔化す算段である。
そしてアンネの演技は大したもので、リンハルトは信じ切っているらしい。おそらく意表を突かれた上、激しい動揺が目を曇らせたのだろう。
「そうでした!」
リンハルトは弾かれたように立ち上がった。帰宅できるようになったとはいえ、やるべきことは山のようにあるのだ。
今回の国史第一巻は建国までを纏めたもので、六月頭に出す第二巻からが本番だ。そして第二巻は一部の原稿が未だ執筆中、残りも校了していない部分が殆どである。
これが普通の本なら担当の部署に任せるところだが、国の歴史だけに宰相ベランジェ自らが査読に加わっているし企画自体にも大きく関与している。
そのため補佐官たるリンハルトも、当分は国史や並行して進めている憲法策定で忙しかった。
「いってらっしゃいませ……」
アンネは静かに頭を下げるが、リンハルトは振り返ることなく駆けていく。
果たして自分の言葉は響いたのだろうか。それとも慕う相手は仕事に熱中してしまい、自分のことなど心から抜け落ちたのか。
見送るアンネの顔は、そんな声が聞こえてきそうな寂しげな表情をしていた。
一方のリンハルトだが、出仕後も災難は続く。
やはりアンネの言葉は相当な衝撃だったらしく仕事も手に付かず、彼は一息入れようと休憩室に向かった。しかし入室の直前に、とある者達の会話を耳にして立ち止まる。
休憩室にはシノブの少年従者が三人、それもアマノ王国誕生以前からの古参ばかりがいたのだ。
「……リゼットさん、待ちきれなくなったのですか?」
まずはラブラシュリ男爵ジュストの跡取りパトリック、まだ十一歳の少年である。
ラブラシュリ家はシャルロットとミュリエルの実家ベルレアン伯爵家で代々従士という家柄、そのためジュストは今も王宮守護隊の隊長という要職にある。しかも娘のアンナはシャルロットの側近だから、パトリックも男爵家の跡取り程度と軽く見られることはない。
加えてラブラシュリ男爵夫人はゴドヴィング伯爵アルノーの実姉で、アンナやパトリックに手を出したら『剣聖』と称される英雄を敵に回すことになる。
「ああ。やっぱり二十歳までに嫁がないと外聞が悪いって……。僕も一応は男爵だから、気にしちゃったんだろうな……」
続いてがリゼットの弟のボドワン男爵レナン、今度の五月で成人年齢の十五歳に達する少年だ。
レナンはシノブの筆頭従者だから将来の出世は確実、成人したら即座に子爵になるという噂もあるくらいだ。しかもエウレア地方で知らぬ者もいない交易商人ファブリ・ボドワンの長男でもあり、財力という後ろ盾にも恵まれている。
「でも分かりますよ。アンナさんに続いて、僕の姉も明日結婚ですからね。昔なじみの二人は順調に子爵夫人になったのに、自分だけ独り身っていうのは……だから良い話があればと考えるのは当然ですよ」
最後の一人はメグレンブルク伯爵アルバーノの甥にして養子、十三歳のミケリーノだった。
こちらも一族の多くがアマノ王国に仕えており、祖父のエンリオはシノブの親衛隊長で姉のソニアは情報局長代行、そして今月に入ってから従兄弟のロマニーノまで移籍した。
このロマニーノは子爵として迎えられ、しかもソニアと結婚するくらいで一族の結束も固いから国内貴族では一大勢力になると予想されている。
そしてミケリーノも、成人後はメグレンブルク伯爵付きの子爵になると内定していた。
おそらくラブラシュリ男爵も近々昇爵するだろうから、将来はパトリックも含めて全員が子爵以上になる筈だ。そもそも彼らは国王の側近だから、未成年と侮る者など存在しない。
もっとも今のリンハルトにとって、そんなことは二の次だったようだ。彼は呆然たる面持ちで歩み始める。
向かう先は休憩室ではなく、リンハルトは反対方向に夢遊病者のような足取りで去っていく。その傷心も顕わな姿は、とても先々閣僚になると噂される男には見えなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
「リンハルト様、どうしたのですか?」
「アンナ殿……」
アンナは正面から来たが、リンハルトは間近に迫るまで気付かなかったらしい。彼はハッとした様子で顔を上げる。
ここは休憩室から随分と離れた場所、同じ二階でも反対側のバルコニーの近くである。リンハルトは物思いに耽ったまま、廊下を延々と歩き続けたのだ。
「ぼんやりするなど、リンハルト様らしくないですよ。何かお悩みでしょうか?」
「はい……。そうです、よろしければ少々お時間をいただきたいのですが……」
アンナが誘いをかけると、リンハルトの面から僅かに翳りが減じた。どうも彼は、ここでアンナと会ったのを神々の計らいのように感じたらしい。
しかしアンナの登場は必然、それどころか先ほどの少年従者達の会話すら仕組まれたものだった。
実はシノブがリンハルトの魔力を探り、彼の場所どころか心の揺らぎすら把握していた。そしてシノブはリンハルトが休憩に行きそうだと察すると少年従者達を先回りさせ、続いてアンナを彼の彷徨う先に向かわせたのだ。
「ここなら良いでしょう。誰か来たらすぐに分かりますし」
「ええ。実は……」
バルコニーに出るとアンナは話を促した。するとリンハルトは手際よく語っていく。
アンネとリゼットが他に嫁ぎそうだと仄めかした件はアンナも重々承知、というより彼女が発案者だから聞くまでもない。しかし知っているとは言えないから、彼女は時々頷きや合いの手を入れて自然な様子を装う。
もっとも内容は単純、女性達が待ちきれずに他を選ぶかもというだけだ。そのため幾らもしないうちにリンハルトは説明を終える。
「私はアンネさんやリゼットさんと共にいたい……。ですが……」
「ですが?」
苦悩の色を深めたリンハルトの顔を、アンナは見つめ続ける。もし相手が偽りを口にしたなら、必ずや見抜かんとばかりに。
アンナからすればリゼットは親友、棟梁の娘アンネとは接点がないが友が認めた相手ではある。そのため彼女は、我が事のように入れ込んでいるらしい。
「ご存知だと思いますが、私は魔力を溜められない病で長く伏せっていました。そして私の病ですが、どうも遺伝的なものらしいのです。昨年末から代々の当主が残した文書を調べているのですが、過去にも何人か同じ症状の者がいたと分かりまして……」
「それは……。確かに魔力流出症には先天的な事例もありますが……」
リンハルトが明かした内容はアンナにとって予想外だったらしく、彼女は大きく目を見開いた。それに頭上の狼耳もピンと立ち、内心の驚きを示している。
アンナは治癒術士でもあるから、これらの症例にも詳しかった。
リンハルトが語ったような事例は、幼いころの病か遺伝性の二つに大別される。そして彼は生まれた直後に大病にかかったというから、本人や周囲は前者だと思っていた。
しかしリンハルトは子爵となって親が残した館に移った後、自身が後者である可能性が高いと知った。つまり彼は、我が子に魔力流出症の因子を渡してしまうかもと結婚を躊躇ったわけだ。
「私はアミィ様に治療していただきましたが、子供が同じような幸運に恵まれるとも限りません。ましてや更に先々は……」
リンハルトが完治したのはアミィが調合した薬を服用したからだ。しかし彼女は神域の魔法植物を使っており、後の世でも同じように治療できる保証はない。
アミィ達が神々の眷属だというのは、アマノ王国の中枢にいる者なら周知の事実だ。そのためリンハルトは、自身を治した薬が他と全く異なるものだと察した。
もしアミィ達が神界に戻り、治療法が消え去ったら。子や孫の時代ならともかく、眷属達が何百年も地上に留まるかどうか。これを憂えたとリンハルトは続ける。
「私達でも作れるように頑張ります! だから心配しないでください!」
「リンハルト、アンナの言う通りだよ。俺達が国を良くしていくように、治癒術士を中心に医療技術も進んでいくさ」
「アミィもリヒトや続く子供達の成長を見届けたいと言っていますし、次の世代も見守ってくれると思います。ですから、時間は充分にありますよ」
アンナが力強く宣言すると、直後にシノブとシャルロットが現れた。しかも二人に続き、リゼットとアンネもバルコニーへと入ってくる。
「リンハルト様、一人で抱え込まないでください。結婚した後を案じてくださるのは嬉しゅうございます……ですが私達のことでもあるのですから」
「そうです、私達にも教えてください! 私は無学ですし、治癒の術も分かりません。でもリゼットさんなら良い薬を取り寄せるとか、優れた治癒術士にお頼みするとか……」
リゼットは優しい笑みと共に、一緒に考えたかったと伝える。一方のアンネは大粒の涙を煌めかせながら、自身の想いをリンハルトにぶつけていた。
「だから、だからリンハルト様……一緒に生きましょう!」
アンネは感極まったのか、慕う相手へと縋りついた。そして受け止めたリンハルトだが、涙こそ流さぬものの目元を赤くしている。
やはり二人には、とても強い絆があるのだ。自分は素直に退くべきでは。リゼットの胸に、今まで何度も過った思いが湧いてくる。
それ故リゼットは自分も続きたいと思いつつ、踏み出すことすら出来ずに立ち尽くす。
「リゼットさん!」
「きゃっ!?」
躊躇いに縛られたリゼットを、同僚のアンナが文字通り後押しをした。彼女はリゼットの背後に回ると、両手でリンハルトに向けて突き飛ばしたのだ。
それも転んでしまうかと思うほどの勢いだったが、幸いリンハルトとアンネが受け止めて事なきを得る。
「私だけでは貴族様の奥方なんて務まりません。ですからリゼットさんも……」
「私も二十歳を過ぎるまで療養生活という世間知らず、貴族としてどころか人としても半人前です。だからリゼットさんのお力を貸していただけないでしょうか? これからは、どのようなことでも二人に相談しますから……」
「はい……喜んで」
涙を流し続けるアンネ、堪えつつも瞳を濡らすリンハルト。これから共に歩む二人に、リゼットも熱いものを零しつつ応える。
平民として生まれ育った自分とアンネ、先祖代々の貴族だが大半を別邸に匿われて命を長らえたリンハルト。三人で力を合わせ、貴族として生きていく。
足りないものを互いに補いながら、市井を知る者としてアマノ王国に貢献しながら。それが自分の望む道、敬愛するシノブやシャルロットを支えつつ幸せを掴みたい。リゼットは家族となる二人に、自身の夢見る姿を伝えていく。
いつしかバルコニーは三人のみとなっていた。これで万事解決と思ったらしく、シノブとシャルロットはアンナを連れて静かに立ち去ったのだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年10月27日(土)17時の更新となります。




