27.14 アンナ、追憶と予兆
シャルロット付きの侍女アンナは、王子リヒトを抱いていた。
シノブとシャルロットの第一子リヒトは生後五ヶ月も近く、かなり大きくなった。両親共に平均より背が高いから不思議ではないが、相当に発育が早い方だ。
おそらくリヒトの体重は生まれたときの三倍近く、といっても太っておらず体格自体が優れている。やはり父母から良い血を受け継いだのだろうと、アンナは目を細める。
「あ~、お~!」
「り、リヒト様、耳はダメですよ~!」
アンナは狼の獣人だから、頭上には三角に尖った獣耳が二つある。そしてリヒトはアンナの耳、つまり彼女の頭上に手を伸ばしたのだ。
一方のアンナだが、リヒトを抱えたまま頭だけを反らした。そして後ろに傾けた頭上では、茶色の毛に包まれた狼耳がピンと立っている。
「うぅ~、あ~」
リヒトは不満げな声を上げた。それにアンナの耳に未練があるらしく、今も手を上に伸ばしている。
シノブとシャルロットは人族だからリヒトも種族は同じで、耳があるのは頭の両脇だし毛は生えていない。それに獣耳は自在に動くから、ますます乳児の興味を惹くのだろう。
リヒトの乳母には獣人族もいるし、アミィと彼女の妹分であるタミィやシャミィは狐の獣人だ。したがって彼も日常的に獣耳を目にしているが、それでも自分に無いものが気になるようだ。
「アンナさん、ガラガラを握らせたら良いですよ。それかハイハイですね」
見かねたらしく、アミィが助け舟を出す。
ここはズヴァーク王国の王都フェルガン、迎賓館の庭に出した魔法の家の中だ。宿泊した迎賓館も立派だが、使い慣れた魔法の家でリヒトのお守りをすることにしたのだ。
現在シノブはミュリエルやセレスティーヌと共に、ズヴァーク国王メフロシュなどと会談中だ。そしてシャルロットは護衛騎士達を連れて馬の品定めに出かけた。
そのためここにはアミィの他に侍従長ジェルヴェと彼の妻で侍女長のロジーヌ、フォルジェ侯爵夫人アリエルなどがリヒトの護衛として残っている。
神の眷属にしてアマノ王国大神官のアミィ、優しげに見えて近接格闘の達人ジェルヴェ、シノブやアミィ達を除いたら魔術の第一人者であるアリエル。更に護衛騎士達も控えているという磐石の態勢だ。
他にはアンナなど侍女達、そしてリヒトの乳母が数名とリビングの中には結構な人数がいる。侍女でも乗馬が得意な者はシャルロットの供として馬場に向かったが、アンナは人並み程度だから留守番を選んだ。
次代の国王リヒトの世話も重要な仕事、それに自分も今年の一月に結婚したから子育ての予習をしたい。そのようにアンナは考えたのだ。
「それではガラガラをお願いします」
アンナは今少しリヒトを抱いていたかった。そこでガラガラで気を逸らせる道を選ぶ。
結婚から二ヶ月、早く子供を授かりたい。夫のハーゲン子爵ヘリベルトは急がなくてもと言ってくれるが、跡取りがいないと子爵家が絶えてしまう。
そのためアンナとしては今年中に第一子、そして更に二人か三人くらいは欲しかった。新興国家のアマノ王国では珍しくもないが、ハーゲン子爵家は夫婦二人のみで他に係累はいないからだ。
正確にはアンナの両親と祖父、弟パトリックのラブラシュリ男爵家がある。しかし弟はラブラシュリの家を継ぐから、養子に出すような子はいない。
「リヒト様、これをどうぞ」
ガラガラを差し出したのはリゼット、アンナの同僚だ。
リゼットは交易商ファブリ・ボドワンの娘で、アンナと同様に乗馬は標準的な腕だから居残り組となった。商家だと馬車を御したり普通に乗ったりという程度で、早駆けをさせるようなことはないからだ。
「あ~! あう~!」
リヒトは機嫌を直し、お気に入りの玩具を受け取る。そして彼は嬉しげに振り回し始めたが、そこからはアンナの予想と少々違った。
「ま、またですか~!?」
どうも今日のリヒトは、よほどアンナの耳が気になるらしい。
アンナは何度もリヒトを抱いているが、こんなことは初めてだ。ここ数日の旅が気持ちを高ぶらせたのか、小さな王子は右手でガラガラを振り回しつつ、左手を上へと伸ばす。
これにはアンナも少々困った。振り回すガラガラや手が体や頭に当たるが、両手で抱えているから防ぎようがない。
かといって相手は王子、それに重さも増してきたから片手を外して何かあったら大失態だ。
リヒトは既にハイハイするくらいで、意外なまでに力が強く動きも素早い。そのためアンナは両手で彼を支えたまま耐え続ける。
「アンナ、ハイハイをしていただく方が良いのでは?」
「はい。抱っこの練習は、また今度が良さそうです」
ロジーヌは女性陣だと最年長で孫までいるし、侍女長だからアンナの上司でもある。そのためアンナは素直に助言を受け入れ、リヒトを絨毯の上に降ろした。
「お~!」
リヒトは先ほどまで熱心に振っていたガラガラを放り捨て、全速力で這い始めた。もちろん乳児の全力だから充分に追いかけられるが、ゆっくり歩くよりは速いかもしれない。
自分で移動できるようになってからは、リヒトが最も好む遊びはハイハイになった。この調子だと立つのも早いだろうと、アンナは大きな喜びと共に見つめる。
リヒトは次代の国王になるだろうし、健康や成長の早さはアマノ王国全体にとっても大きな意味を持つ。もっとも長くシャルロットに仕えたアンナとしては、これなら彼女も一安心だろうという思いも強かった。
「あらあら……」
アミィは顔を綻ばせつつ前に進むと、ガラガラを大切そうに拾い上げた。
以前アンナはアミィから教わったが、このガラガラは神々が作った品で『勇者の握り遊具』というそうだ。つまりリヒトにとっては単なる玩具でも、本当は床の上に放置して良い品ではない。
もっとも乳児には由来など理解できないだろうし、リヒトが投げ捨てるように手放すのはいつものことだった。
「可愛いですね……」
アンナはリヒトから目が離せなかった。といっても危険を感じたわけではない。
リヒトの進路は他の侍女達が上手く操っている。今はミュリエル付きの二人、ミシェルとロカレナが手前に回り込んで尻尾を振って誘導していた。
「リヒト様、こちらですよ!」
「次は私のところに!」
「あ~!」
ミシェルはジェルヴェとロジーヌの孫で二人と同じ狐の獣人、ガルゴン王国出身でイーゼンデック伯爵ナタリオの婚約者でもあるロカレナは虎の獣人だ。
そのため片方はオレンジ色に近い黄の先が白く変じた太い尻尾、もう片方は黄と黒の縞の細い尻尾の持ち主だ。この目にも鮮やかな尻尾をミシェルとロカレナはスカートの後ろで揺らめかせる。
年少向けの侍女服はスカートの裾も膝丈くらい、それにフリルも多用しており見た目も華やかだ。しかも二人は十歳に満たない幼さだから、追いかけるリヒトと同じくらい愛らしい。
◆ ◆ ◆ ◆
「やっぱり早く授かりたいの?」
寄ってきたのは同僚のリゼット、彼女は好奇心も顕わな顔でアンナへと囁く。
アンナがリゼットと知り合ってから、既に一年四ヶ月ほどになる。それはシノブの爵位がブロイーヌ子爵のみだったころ、創世暦1000年12月の上旬だった。
このころはベーリンゲン帝国が滅びておらず、それどころかメリエンヌ王国に侵攻するなど隆盛を誇っていた。そしてシノブは帝国軍を防ぐべく、シャルロットや彼女の父ベルレアン伯爵コルネーユと共にセリュジエールへと戻ってきた。
ベルレアン伯爵領の領都にして、アンナの生まれ故郷でもある地に。
そして帰還した一団にはリゼットや彼女の弟レナンの姿もあった。
ボドワン商会はセリュジエールに本店を置いているが、メリエンヌ王国の王都メリエにも支店を構えていた。そこでシノブはファブリと再会し、子供達を従者や侍女にと懇願されたそうだ。
当時シノブの従者はアミィだけ、他には客将というべき立場のイヴァールがいるのみだった。これでは子爵家としての体裁も整えられないとシャルロットもボドワン姉弟を雇うように勧め、シノブも雇用へと踏み切った。
加えて同じ日に出会ったソニア、来月早々に従兄弟のロマニーノに嫁いでイナリーノ子爵夫人となる女性も侍女として加わった。シノブはシャルロットとの婚約を認められたから、彼女を妻に迎えたときに備えてリゼットとソニアを婚約者付きにしたわけだ。
そこにアンナが仲間入りする。
アンナはシャルロット付きとして長く、彼女を強く慕っていた。シャルロットが成人して北辺のヴァルゲン砦司令官となってからは母のカトリーヌ付きに回ったが、シノブのブロイーヌ子爵家に行けばシャルロットに仕えられると思って手を挙げた。
しかも一家全体、つまりラブラシュリ家の全員がシノブの家臣となった。シノブにはアンナやパトリックの祖父パトリスを治療してもらった上に、ベーリンゲン帝国の戦闘奴隷とされた叔父のアルノーを救出してもらった恩があるからだ。
殆ど同時期にブロイーヌ子爵家の侍女になったこともあり、アンナはリゼットやソニアと親しくし助け合ってきた。しかしソニアは情報局での活動が中心となり、近日中に嫁ぎもする。それにアンナも結婚したから、リゼットは寂しく感じたのかもしれない。
「貴女こそどうなの? リンハルト様との仲は進展しているのかしら?」
アンナは敢えて冷やかしめいた表情を作った。
リンハルトとは滅び去ったベーリンゲン帝国のベルトーネル子爵の次男だ。もっとも当時の彼は不治と思われた病で外出すら出来ず、そのままだと皇帝が死を命じる可能性すらあった。
そこでベルトーネル子爵はリンハルトを死んだものとし、別邸に隠して養うことにした。アンナには想像もつかぬことだが、帝国の貴族には同じような例が幾つもあったらしい。
このようにリンハルトは皇帝に会わずに済み、異神バアルの力による洗脳を受けることもなかった。そして彼は長い療養生活を読書や勉学に当てており、父が商務の高級官僚だったこともあって宮仕えできるだけの教養を備えていた。
そこに目を付けたのがアマノ王国宰相となったベランジェで、彼はリンハルトを自身の補佐官の一人に迎えた。アマノ王国はベーリンゲン帝国を打倒して興した国だから元から住んでいる人々は旧帝国人、ならば彼らを良く知る側近をと考えていたらしい。
こうしてリンハルトはアマノ王国のベルトーネル子爵となったが、商務系の血統だけに商家出身のリゼットと気が合ったらしい。二人は舞踏会などでは組んで踊ることが多いし、それを見て取った周囲も接点を増やすべくリゼットに宰相宛ての書類を持たせるなどした。
ただしリンハルトには、もう一人気になる女性がいた。
「それが……アンネさんの件もあって……」
先ほどまで煌めいていたリゼットの瞳が翳る。
アンネとは帝国時代からの大工の棟梁ハンス・ホルツケンの娘だ。このハンスは現在もアマノシュタットで貴族向けの高級建築を手がけており、リンハルトのベルトーネル子爵邸に加えて侯爵家などの増改築も請け負うほど繁盛している。
とはいえ相手は大工の娘、今や男爵令嬢となったリゼットの方が格としては遥かに上だ。父のファブリは商人のままだが、リゼットの弟レナンはシノブの筆頭従者として男爵位を授かったのだ。
それにファブリもシノブの御用商人だから、下手な貴族より遥かに影響力を備えている。
エウレア地方だとボドワン商会の名は各国に知れ渡っており、アルバーノの妻モカリーナが率いるマネッリ商会と並ぶほど有名だ。それに、ここアスレア地方にも両商会は商圏を広げ、巡ってきた国々でもアンナは双方の名を耳にしていた。
それに比べるとハンスはアマノシュタットでは名が通っているかもしれないが、あくまで一地方の建築家に過ぎないし後ろ盾も宰相補佐官だから格落ち感は否めない。
つまり爵位を別にしても、リゼットの実家が数段上というのが世間の評価である。そのためアンナは、何が問題なのかと小首を傾げた。
「それがその……アンネさんは私が第一夫人で良いと……」
「えっ!?」
リゼットの告白はアンナにとって意外なものだった。
アマノ王国を含めエウレア地方の王制国家だと、王族や貴族は一夫多妻を認められている。これは魔力の多い者に男子が少ないからで、男系の跡取りを得るために自然発生したようだ。
神殿も一夫多妻を認めている。
夫が妻達を平等に扱い、妻達が共に夫を支え、そして誰が産んだ子か関係なく皆で子育てをする。これらを守った上でなら、神々も良しとすると神官達は語っている。
ただし実際には下級貴族だと一夫多妻は少なく、大半は伯爵以上の上級貴族と王族だ。これは収入が少ないと複数の妻を抱えられないという現実的な問題に起因している。
何しろ全ての妻を平等に扱うから、それだけ金が必要なわけだ。嘘か真か、妻が二人もいたら宮廷でも恥ずかしくないドレスが五十着は必要だから断ったという笑い話もある。
もちろん子爵や男爵でも役職次第で大きな差がある。多くの手当てが上乗せされたら平均の数倍も夢ではないし、各国は王族や貴族の副業を禁じていないから余った金を投資に回すなり一族の誰かに商売させるなり幾らでも手はある。
とはいえ役を外れたら妻を養えないようではと、大抵の者は二の足を踏むという。しかしリゼットの返答からすると、リンハルトは二人とも娶ると決めたのだろうか。
◆ ◆ ◆ ◆
いつの間にか、アンナとリゼットの周囲には多くの女性が寄っていた。アンナが声を上げたのもあるが、その前から恋愛話だと察した者が多かったのだ。
流石に侍女長のロジーヌは別だが、シャルロットの親友にして侯爵夫人のアリエルまで側にいた。古くからの付き合いのアンナは知っているが、彼女は真面目そうに見えて実は噂好きなのだ。
その脇にはシャルロット付きのマリアローゼやマヌエラ、セレスティーヌ付きのフォリアの姿もある。
なおアリエルと対を成す女性、ビュレフィス侯爵夫人ミレーユはシャルロットと共に馬場に向かった。同じくマリエッタやエマを始めとする護衛騎士や、侍女でも騎士としての適性が高い者も同様だ。
これはミュリエルやセレスティーヌの侍女も同様で、要するに部屋にいる若い女性の殆どはリゼットの続く言葉を待っている。
「あ~! あぅ~!」
「キッチンは駄目ですよ。さあ、こちらに戻りましょう」
女性達の期待に反し、響いたのはリヒトの声と侍従長ジェルヴェの言葉だった。
ジェルヴェとロジーヌは孫や幼い少女と共に王子のお守りを続けているし、乳母も周囲を取り巻いている。こちらは結婚してから長いか逆に十歳にもならない者達だから、リンハルトと二人の女性の恋愛模様に興味がなくて当然だ。
「あ、あのですね……あくまで私とアンネさんが話しただけで、リンハルト様は何も……」
皆の注目が集まったからだろうが、リゼットは顔を赤く染めていた。それに声も少々弱い。
先ほどまで若い女性達は、二人か三人ずつで思い思いに語らっていた。魔法の家の内部は何倍にも空間拡張されているしリビングにもソファーが幾つも置いてあるから、それぞれ好きなところに座っていたのだ。
しかしリヒトがハイハイを始めたから殆どが立ち上がって眺め、お陰で声量が落ちたところに面白そうな話が聞こえてきたから寄った。これに気付かなかったとすれば、リゼットも相当に動揺していたのだろう。
加えて普段のリゼットは商会上がりに相応しく、数字に強い落ち着いた女性だ。この誰もが認める才女が初々しく頬に血を上らせているからか、囲む者達に微笑みが広がっていく。
とはいえ一人だけ、真顔となった者がいる。それは王子リヒトを除けば最も高位の人物、侯爵夫人にして文化庁長官でもあるアリエルだ。
「私が口を挟む問題でもないと思いますが、リンハルト殿に決断を促した方が良いのでは? リゼットさんは十八歳、それにアンネさんも同じ年頃と聞いています」
アリエルの意見に、かなりの者が頷いた。エウレア地方だと貴族女性の殆どが二十歳までに嫁ぐからだ。
カンビーニ王国などでは優れた女性武人は婚期を遅らせるし、二十代前半なら飛びぬけた実績を上げれば問題ないとされる。それに騎士家や従士家、町の者達も数年は遅い。
しかし多くの国の貴族は、娘が二十歳を迎える前に嫁入りさせようと腐心する。おそらくリゼットの両親は商人だから気にしないだろうが、今の彼女はボドワン男爵家の一員だ。
つまり下手をすると、当主を務める弟レナンに恥を掻かせる羽目になる。
「リンハルト殿は、どのようなお考えですの?」
「あの方なら更なる出世は間違いないでしょうし、二人でも問題ないと思いますが」
我慢しきれなくなったのか、マリアローゼとマヌエラまで問いを発する。
この二人は旧帝国貴族だ。そしてベーリンゲン帝国の貴族も伯爵以上や裕福な子爵や男爵は一夫多妻だったから、どちらも娶れば良いと考えたらしい。
リンハルトが補佐官で終わらないのは確実である。中には商務卿や財務卿になるのではと噂する者もいるくらいだ。
今の彼は二十一歳だから、閣僚となるのは相当先だろう。しかし数十年後まで視野に入れたとき、そのくらいは当然と考える者が半数以上を占める筈だ。
「少なくとも、一人は早く娶るべきです」
セレスティーヌ付きのフォリアの意見に頷く者も多かった。
経済的な負担や他の理由で、高位でも妻は一人のみにするという例もある。特にアマノ王国の場合、今は高位でも元は下級貴族や騎士や従士、それに平民出身という者が多いから結構な数を占めている。
アンナの夫ヘリベルトも平民出身だからか、二人など気疲れすると首を振っていた。それにラブラシュリ家もベルレアン伯爵家に仕えていたころは従士階級だから、アンナも正直なところ他の夫人と上手くやっていける自信はない。
もっともアンナやヘリベルトは狼の獣人、つまり魔力が多くないから男の子も普通に授かるだろう。したがって早く自分が最初の子を得て、更に何人かと意気込むのだ。
ただしアンナは獣人族にしては珍しく治癒魔術を使えるし、魔力も平均より多かった。そのため分が悪いのではという思いもあり、ますます焦ってしまう。
ちなみにこういった話をシノブが聞いたとき、彼は珍しく眉を顰めた。どうも女性にも多様な道をと考えているらしく、彼は出産だけを目的にしてほしくないと零したくらいだ。
とはいえ貴族にとって家の継続は最大の関心事、せっかくの爵位も跡取りがいなければどうしようもない。そこで養子をという者もいるが、これも厳しく詮議されて許可されずに終わる例も多いという。
もっとも今アンナが考えていたのは別のことだ。
リゼットは困惑を面に浮かべている。どうやら彼女は、思い人を非難されるような話をしなければと考えたらしい。
しかしリンハルトとの仲を訊ねたのは自分だ。それにアンナはリゼットの親友、ここは助け舟をと動く。
「大丈夫です! 私に任せてください!」
「……そうですね。アンナが保証するなら間違いありません」
根拠のないアンナの宣言に、何故かアリエルが乗ってきた。
おそらくアリエルも、余計なことに突っ込んだと悔いていたのだろう。そこで自分の言葉に乗ってみせたと、アンナは推し量る。
「はい」
「お頼みします」
集った者達も、これで終わりと察したようだ。
何しろシャルロットの少女時代すら知る侍女と親友の発言だ。反論できる者など、ここにはジェルヴェやロジーヌしかいないし二人がそんな野暮をする筈もない。
そのため魔法の家のリビングは、最前までと同じ小さな王子と少女達の声が響く、明るく朗らかな場所となった。
◆ ◆ ◆ ◆
こうしてアンナはリンハルトの件を預かったが、まだアスレア地方歴訪の途中だから帰国するまで棚上げにするしかない。リンハルトは宰相ベランジェと共に、アマノシュタットに残ったからだ。
もっとも明日の創世暦1002年3月30日にはアマノシュタットに戻る。そこでアンナは気合を入れつつ一日を過ごし、就寝の際も目が冴えてしまったほどだ。
そのためか朝を迎えたとき、アンナは体が重たいと感じていた。しかし眠りが遅い上に浅かったからだろうと、治癒魔術や薬に頼ることなく起床する。
アンナの魔力は獣人族にしては多いが、人族の魔術師に比べたら少ない方に属する。それに自分の力はシャルロットやリヒトの治癒をするためにあると、アンナは訓練以外での行使を控えていた。
「ついに帰国ですね!」
「まだキルーシ王国に寄りますよ」
どうにも重さが抜けない体に気合を入れようと、アンナは声を張り上げた。それをシャルロットは里心の表れと受け取ったらしく、笑いを堪えているような顔で応じる。
それに同じように感じた者は多いらしく、魔法の家のリビングに笑みが溢れていく。
とはいえ昨日とは状況が違い、リビングのソファーにはシノブを始めとするアマノ王国の王族、更にアリエルやミレーユが座っている。そしてアンナやリゼットなどの古参を中心とした王家の側近は、彼らの後ろに整列だ。
今の魔法の家はアマノ号の上、そしてズヴァーク王国の王都フェルガンを発った直後である。西を目指すアマノ号の後ろには、高さを増していく朝日が祝福するように輝いている。
「き~?」
「ああ、帰国だ……しかしリヒトの言葉も随分と豊かになったね」
窓に張り付いていたリヒトが振り返りつつ声を発すると、シノブは応じながら立ち上がり寄っていく。そして若き国王は次代を託す我が子を抱き上げ、共に青空と草原を見つめ続ける。
フェルガンの周辺には牧草地が多く、その中には昨日シャルロット達が訪れた馬場もある。そこで二人の視線は、放牧中の馬達へと向いていた。
ちなみにシャルロットは十頭ほどの馬を買い付けたから、シノブは彼らが昨日までいた場所はと思ったのかもしれない。
なお今回購入した馬達は一種の見本で、帰国後に本格的な方針を決めるためでもある。軍馬中心にするか、馬車などに使う輓馬にするか、はたまた農耕馬にするか。馬にも色々あるから、各方面の意見を募ることにしたわけだ。
それはともかく、シノブが動けば他の者も続く。
「本当ですね……」
シャルロットは夫の側に寄っていく。更にアミィ、ミュリエルとセレスティーヌ、アリエルとミレーユ、そして従者や侍女に護衛達も窓際へと歩む。
往路は他国の王族、エレビア王子リョマノフやキルーシ王女ヴァサーナが乗っていた。そのため魔法の家のリビングは王族同士の交流の場とし、他の者は遠慮した。
しかし帰路は身内のみ、そのためアンナ達も主への敬意を示しつつも適度に砕けた態度を選んでいた。これはシノブが堅苦しいことを嫌うためでもある。
「南北の山脈は険しいけど、こうやって空から眺めると自然が多くて良い場所ですね」
「実際には少し涼しいですが……今回は春で助かりましたわ」
ミュリエルの評に、セレスティーヌが大袈裟に肩を抱いて更に震えてみせる。そのため室内に、新たな笑いが広がった。
確かにズヴァーク王国には豊かな森林や草原があるし、開発済みの場所も眼下のように牧草地が多いから同じく緑の絨毯ではある。
しかし標高が高く冬は長く雪に閉ざされるし、山に近い場所には荒野も多い。この厳しい土地柄が耕作を時間と種類の双方で限定するから、国土が広い割に農業生産力は低かった。
ズヴァーク王国の馬が強靭なのも、おそらくは厳しい環境で鍛えられたからだとアンナは思ってしまう。そして山地や冬に思いを馳せたからか、思わず身震いをしてしまった。
「アンナさん、どうしたのですか?」
「なんでもありません。ズヴァーク王国の冬を想像したからだと……」
心配げなリゼットに、アンナは笑みを返そうとした。しかし悪寒が続いたせいで、引きつった感じになってしまう。
そのためリゼットだけではなく、近くにいた者までアンナへと振り向いた。
「……アンナ、おめでとう」
多くの人が案じ顔となる中、シノブだけが満面の笑みを浮かべていた。そして彼はリヒトを抱いたまま、アンナの前にやってくる。
「あ~? お~?」
「ああ、そうだ。新しいお友達だよ……会えるのは今年の終わりごろだろうけどね」
どうやらシノブは我が子に魔力波動で何かを伝えたらしい。今年に入ってからのシノブは、リヒトに対し魔力波動での語りかけをしているのだ。
超越種のオルムル達と暮らしたからだろうが、リヒトは思念の萌芽らしきものに目覚めていた。そこでシノブは言葉と同時に魔力での語りかけもしているらしい。
もっとも今のアンナの関心事は、シノブが婉曲的に示したことについてだった。
何しろ待望の子供を得たのだ。それも魔力で妊娠を判断できるシノブが保証したのだから、誰に言われるよりも確かだ。
もちろん嬉しい。ヘリベルトに伝えたら、どれだけ喜ぶか想像できないほどだ。
ただし可能なら、今この場で言ってほしくなかったという思いもある。
「おめでとう、アンナさん!」
「……ごめんなさい」
祝福するリゼットに、アンナは思わず謝ってしまう。
今年の一月に結婚したばかりなのに、早くも子を得た。これで貴族女性としての大任を最低限は果たしたことになるし、もし男の子なら大殊勲である。
それに女の子でも、子を宿せると証明できたのは大きい。中には一生かけても妊娠しない女性もいるのだから。
エウレア地方の医療技術は他に比べて進んでいる方だが、流石に産めるかどうかの判断など不可能だ。そのため結婚後に石女なる蔑称で呼ばれ、第二夫人に居場所を奪われる例もある。
しかし自分は違う。これは非常に嬉しいが、まだ結婚自体に障害があるらしき親友に比べ、遥か先に行ってしまったのも事実だ。
それなのに友は心からの笑顔で祝福してくれた。その強い心に感動したからか、アンナは無意識のうちに心に浮かんだ言葉を涙と共に零してしまった。
「心配ないさ。アンナがアンナだけの幸せを掴んだように、リゼットはリゼットの道を歩んで自分だけの幸せを得るよ。大丈夫、俺も後押しするから……だから泣かないで」
「そうですよ。めでたい日に涙は似合いません……嬉し涙は別ですが」
「あ~! あ~!」
窓から入る光を受け、シノブとシャルロットは輝いていた。それに父親の腕の中で微笑むリヒトも。
まさに『光の盟主』と『光の戦王妃』、そして二人の跡を継ぐ存在。神々しさすら覚える光景に、アンナの目から煌めく雫が更に流れ落ちる。
しかし生じた思いは先ほどと違い、限りなく明るいものだった。
この二人を信じ、支え、共に歩もう。夫や宿した我が子と一緒に。そうやって今まで歩んできたし、それは遥かな先も同じ。自身が輪廻の輪に戻り、この子や更なる子孫に後を託す日まで。
いや、生まれ変わっても続くのだ。アンナは春の青空にも勝る澄んだ笑みを浮かべ、主達に改めての忠誠を誓った。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年10月24日(水)17時の更新となります。