26.23 ホクカンの都 前編
「やっぱり少し寒いな」
「ええ、時には氷点下になるとか」
日が落ちて暫く経った薄闇の中。村の外れに用意された野営用の広場で、男達が言葉を交わす。
焚き火を囲んでいるのは二人、二十代後半らしき男と二十歳を過ぎたかどうかといった若者だ。二人の後ろには小さな天幕が二つ、それに近くにはロバが数頭、同数の荷車もある。
荷車の上は何かが積まれているようだが、革製らしき厚手の覆いで中は分からない。
一見すると旅の行商人のようだ。
宿に泊まる金がないか、節約のため野営を選んだか。このような零細商人は珍しくなく、この広場にも似たような数組が散らばっている。
ただし他と違い、この一行は商人ではなかった。彼らは猫の獣人アルバーノが率いる潜入部隊なのだ。
ロバや荷車、乗せている商品はナンカンの都市ウーロウで調達したものだ。そして光翔虎シャンジーの助けで、密かに国境のジヤン川を越えた。
そこからアルバーノ達は旅の行商人を装い、ホクカンの都ローヤンを目指した。そして今日3月19日にローヤンに着いたが、都の宿は零細商人が泊まれるほど安くないらしい。
それ故アルバーノ達は他に倣い、近くの村での野営を選んだのだ。
「三月半ばを過ぎたというのに凍るのか。俺達の故郷……ジヤン川の近くとは大違いだな」
「はい。でも、それほど寒いのは稀だそうです。村の人が、今日は凍らないだろうって言っていました」
薪を投げ入れるアルバーノに、諜報員のミリテオが大きく頷きつつ応じる。
今は日が落ちてから暫くで、まだ気温は10℃近い。しかし深夜になると冷え込みが酷くなり、夜明け前の最も寒い時間帯には零下に達することもある。
ローヤンは北緯39度ほど、地球の日本なら宮城県と岩手県の境目くらいだ。この星のヤマト王国だと大王を支える三王領の一つでドワーフ達の住む地、陸奥の国の都タイズミと同程度である。
それを思い出したのか、アルバーノは更に一つ薪を投げ入れた。
「木々も南と違うからな……儂らの故郷とも」
どぶろくが入っているらしき壺を手に現れたのは、やはり諜報員のセデジオだ。ただし彼は普段と違い、ぞんざいな口調でアルバーノに語りかける。
これはセデジオがアルバーノの父の役だからだ。老齢になり今回で息子に商いを引き継ぐが、心配だから同行したという形である。
「ああ、針葉樹が多いな……」
アルバーノは周囲を見回す。
この三人の故郷、カンビーニ王国は南端でも北緯38度でローヤンと大して変わらない。しかしエウレア地方は西と南の大洋からの暖流で暖かく、最南端のカンビーニ王国は広葉樹が中心だった。
そのため比較的高緯度にも関わらず、カンビーニ王国は南方系の獣人が多い。この三人も猫の獣人、つまり南の暖かな地を好む者達だ。
アルバーノ達が着けているのは北部のカン服だが、実は中に革の上下を入れていた。やはり彼らにとって、ここは少々寒いのだろう。
ただしホクカンの服は袖も長いし下も筒袴だから、着込んだものが見えることはない。北のカン服は地球の旗袍や満州服などと呼ばれるものに似た衣装、つまりチャイナ服に酷似しているから外に出ているのは手と顔くらいだ。
「ところで伯父さん、それは幾らしたんですか?」
ミリテオはアルバーノの従兄弟、つまりセデジオの甥としている。他にも兄弟が大勢いて田畑を分けてもらえないから、行商に加わったという位置づけだ。
零細商人らしく、この一団は縁者ばかりとしたのだ。
「驚くなよ。小銀貨一つだ」
小銀貨とはカンの通貨だが、町の飲食店で五回は食事できる価値がある。そのため返答を聞いた二人、アルバーノとミリテオは苦い表情となった。
セデジオが手に提げた壺は随分と大きく、彼の頭ほどもある。したがって今日一日で飲みつくすことはないだろうが、仮にエウレア地方なら三分の一以下の値段で手に入るだろう。
何しろ中身は自家製の濁り酒、味など期待できない代物なのだ。
「仕方ない、寒さ凌ぎには必要だからな……」
頭を掻いたアルバーノだが、零度近くになりかねない冷え込みを耐えるにはと割り切ったらしい。
活動資金はシノブが充分に渡しており、荷車にはカンの通貨をギッシリ入れた壺が幾つもある。したがってローヤンの宿に泊まるのも可能だが、怪しまれないように他と同等にしただけだ。
それに周囲も村人から酒や食物を買っているし、彼らに紛れる意味でも必要だった。
「おっ、他も戻ったか。お帰り、楼雷」
アルバーノが微笑みかけたのはロセレッタ、三人の女騎士の一人だ。
ロセレッタの後ろには他の二人、フランチェーラとシエラニアもいる。それにアルバーノの甥で養子のミケリーノ、ナンカンの葛師迅、『華の里』の美操も続いている。
ちなみに旅人だと、男女の服に大した差はない。アルバーノを始めとする男が青系統の飾り気のない服、女性陣の衣装が赤や桃色などで少々刺繍がある程度だ。
「少し高いですが、明日の朝も含めて調達できました」
ロセレッタは手にした袋を掲げてみせる。
こちらは食料を買い出してきたところだ。一行は九人、しかも今晩と明朝の二回だから結構な量である。
午前中は歩き通し、それも40km近い距離だ。加えて殆どが武人で大柄だから食欲旺盛、ロセレッタ達は全員が両手に包みを下げている。
しかし立ち上がったアルバーノはロセレッタのみを見つめ、彼女へと真っ直ぐ歩んでいく。
「重いだろう? 持つよ」
「いえ……貴方、遅くなりました」
ロセレッタは頬を染めつつ応じる。彼女はアルバーノの妻の役なのだ。
もちろん潜入中の仮初め、こうやって語らい寄り添うだけでしかない。しかしアルバーノを強く慕うロセレッタにとっては、それでも至福の時間なのだろう。
恥じらいと共に答える彼女の姿は、まさに新妻といった初々しさを漂わせている。
友の女騎士達は応援のつもりか少し歩みを遅くし、距離を空ける。するとミケリーノにシーシュン、メイツァオの三人も年長の二人と歩調を合わせた。
シーシュンやメイツァオも含め、ローヤンまでの旅でロセレッタの気持ちを察したのだ。
「遠慮するなよ、夫婦じゃないか」
「は、はい……」
アルバーノは荷を受け取り、歩み出す。
ロセレッタは騎士で力に優れた獅子の獣人だから、両手に下げた野菜の束くらい何ほどのこともない。しかし夫が妻を労らないのも変だろう。
「も、持ちますよ」
「いえ、大丈夫です」
ミリテオはフランチェーラの荷物を受け取ろうとするが、すげなく断られてしまった。彼はフランチェーラに惚れているが相手にされていないという役なのだ。
女騎士達は三姉妹、元の年齢通り上からフランチェーラ、ロセレッタ、シエラニアとしている。そして残りの少年少女は、ミケリーノとシーシュンがアルバーノの弟でメイツァオがミリテオの妹という配役だ。
そのためエルフのメイツァオは変装の魔道具を使い、猫の獣人に化けている。
◆ ◆ ◆ ◆
行商人達が互いに距離を置いて設営しているのは、盗難を避けるためだった。アルバーノやミリテオが残ったのも、荷の見張りが必要だからだ。
ならば別の場所に移れば良いかというと、それも難しい。村人達が結託して襲う可能性もあり、単独の野営は避けるべきとされている。行商人同士で身を寄せているのは、一種の自衛措置でもあった。
下手な安宿に泊まらず、同業者と付かず離れず、荷物を目の届くところに置いて交代で眠る。ホクカンの行商人は、そうやって己を守るのだ。
ちなみにナンカンの場合、ここまで殺伐としていない。
ナンカンでは空き家を借りて休む商人も多いし、町など大きな集落なら普通に宿を利用する。もちろん見張りは立てるが、皆殺しでの証拠隠滅まで考慮しなくても良かった。
どうもホクカンは、南の隣国より遥かに厳しい土地のようだ。
「……結託しての襲撃など、年に一度あるかないか……というがね」
「でも、それって表沙汰になった事件でしょう?」
皮肉げなアルバーノに、ミケリーノが憂い混じりの顔を向ける。今は食事中、焚き火を囲んで雑炊を味わっているところだ。
「実際には何十倍……いや、百や二百を超えているんじゃ……」
強い嫌悪の滲む低い声で続いたのは、虎の獣人の少年シーシュンである。
シーシュンはナンカンでも有名なグオ将軍家の嫡男だ。当然ながら自国を誇りに思っており、ホクカンを敵国として警戒している。
その思いが厳しい評価に繋がったのは間違いないが、実際に埋もれたままの事件も多いだろう。そのため反論する者はいなかった。
「そうだな。特にローヤンの周辺は危険だと聞いておる。お前達も一人で出歩くんじゃないぞ」
セデジオは濁り酒を入れた椀を置くと、一同を見回す。
ここにいる者の大半は武術の達人や熟練者、少年少女も護身くらいなら全く問題ない。か弱い少女にしか見えないメイツァオも大魔力を持つエルフだから、集団に襲われても攻撃魔術で難なく切り抜けるだろう。
とはいえ不要な騒動を招くのは馬鹿らしいし、潜入任務に差し支える。それにローヤン近辺が物騒なのも事実であった。
都への道は他より圧倒的に多くが通るから、事件が増えるのは当然だ。しかしローヤンに行ったきり戻ってこないという話は北上する最中でも繰り返し耳にしていた。
そのためアルバーノ達も杞憂と笑い飛ばさず、真顔で頷くのみだ。
「ああ食った食った……」
「美味かったぞ。随分と上達したじゃないか」
ミリテオは腹を撫で、アルバーノは椀を置きつつ女性陣に褒め言葉を贈る。
およそ一ヶ月前、アルバーノ達はナンカンの南に広がる森に踏み入った。メイツァオと出会い、『華の里』を発見した冒険行だ。
そのときフランチェーラ達が作った料理は、アルバーノに遠く及ばなかった。しかし今回は及第点を与えるべき出来栄えだ。
煮込み加減、味付け、どれも満足できる粋に達している。虎の獣人らしく大食いのシーシュンなど、繰り返しお代わりをして呆れられたほどだ。
もっともシーシュンは十二歳と育ち盛り、しかも代々武人の家系だけあって体も充分に鍛えている。若く健康な肉体が更なる糧を求めるのは、至極当然ではあった。
「嬉しいです……」
「ロウレイは随分と練習したものね。阿麓さんのためにって!」
真っ赤になったロセレッタの肩に、フランチェーラが手を置く。
どうやらフランチェーラは、友人の援護をと思ったらしい。もっとも今日の味付け担当はロセレッタだから、殊勲第一は彼女で良いだろう。
「小妙君、どうだった? 煮込んだのは私だけど?」
「お、美味しかったですよ。火も良く通っていたし、味も充分に染みていましたし……」
その脇では、シエラニアがミケリーノにアピールをしている。しかも魔獣使い同士、シーシュンとメイツァオも肩を寄せ合って何事か語り合っていた。
「くそ……酒でも飲むか」
「ほどほどにしておけ、これから皿洗いもあるからな」
どぶろくへと手を伸ばしたミリテオを、セデジオが制止する。
雑炊の鍋は明日の朝食の分もあるから、蓋をして取っておく。しかし食器をそのままにするわけにいかないから、広場にある井戸の水で洗うのだ。
「お皿は私達が洗います」
「男が付いていった方が良い。ここはアールーに任せ、儂と密鉄が一緒に行く」
ロセレッタの申し出に、セデジオは首を振る。
井戸は広場の中央、そこには同じく食事を終えた者達がいる。どうも若い男も含まれているらしく、セデジオは彼らを警戒したようだ。
アルバーノは少年少女達と残って火と荷の番、女騎士三人が皿洗いでセデジオとミリテオは用心棒。老年の諜報員は、手早く担当を割り振った。
行商人に絡まれても容易に対処できるが、荒事になれば正体露見に繋がりかねない。それなら未然に防ぐのが賢い選択である。
フランチェーラ達も納得し、椀を重ねて洗い桶へと入れていく。そして女騎士三人は、諜報員の男二人と井戸に向かっていった。
「おっ……これは」
見送ったアルバーノだが、唐突に声を発すると懐に手を入れた。そして彼は通信筒を取り出す。
「どなたからでしょう?」
「お前の姉さんからだ。西から戻った……それと宝鈴殿が来るぞ」
小声で問うたミケリーノに、アルバーノはソニアからの知らせだと囁き返した。そして彼は、ホリィがローヤンに向かっていると続ける。
ここのところ、ホリィはスワンナム半島のバマール王国を調べていた。
バマール王国は半島の西側にある国だ。東は旧エンナム王国、この三月からのヴェラム共和国だが間には魔獣の森があって行き来できない。
ただし優れた術士なら横断可能で、かつて大戮という男がエンナム王国からバマール王国へと渡った。この男こそ後にイーディア地方でヴィルーダと名乗った人物、アーディヴァ王国を長く裏から操った禁術使いである。
ヴィルーダはシノブ達の手で倒されたが、途中に災厄を残していないかとホリィがバマール王国を調べた。しかし杞憂だったようで、彼女はスワンナム地方をマリィに任せて自身はカン担当のミリィの支援に回ったわけだ。
「ホーリンさんが来てくれるなら、ますます心強いですね」
「あの方もいるけどね」
「街ではホーリンさんの方が……でも」
ミケリーノは笑みを浮かべたが、シーシュンとメイツァオは何かを気にしたように空へと顔を向ける。
あの方とはシャンジーのことだ。彼は姿消しを使い、アルバーノ達に同行しているのだ。
ただしシャンジーは偵察中らしく何の返答もない。
シャンジーは必要があれば、発声の術で会話に混じる。こういった他の者がいる場でも姿を消したまま密やかな声を届けるし、自身が話題に上がったなら喜んで加わってくる。
しかし反応がないままだから、若き光翔虎はどこかを周っているのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
この日の午後早く、シノブ達はカンビーニ王国を離れアマノ王国へと向かった。しかしソニアは魔法の家の中にある転移の絵画を使い、一足先にナンカンの都ジェンイーに帰還した。
ローヤンやジェンイーはカンビーニ王国の王都カンビーノより七時間ほど早く日が沈むから、つい先ほどソニアはカン地方に戻ったわけだ。
そしてソニアが不在中の一日と少々で、幾つかの事態が動いていた。
まず五日前の戦い、都市ウーロウ防衛戦で捕らえたホクカン軍の武将から幾つかの追加情報を引き出せた。どうもホクカンの術士は、組織的に魂を集めているらしい。
ホクカン軍の術士は数百体の木人を従えていた。これを武将達も疑問に感じ、どうやって集めたか問うたことがあったのだ。
そのとき術士は詳細を明かさなかったが、自身で魂を狩らずとも上が送ってくると答えたそうだ。上とはおそらく、狂屍術士の元締め神角大仙だろう。
術士の二人に確かめたところ、彼らも認めた。ローヤンでシェンジャオ大仙から魂を収めた符を受け取り、それを各自の術に合わせて作った符に移し変えると白状したのだ。
これが最大の秘密だったのか、ホクカンの術士二人は一転して素直に話し出した。ただしシェンジャオ大仙がどうやって魂を集めているか、それは彼らの知るところではないらしい。
動物に加え、人間の魂まで大量に集める方法だ。後ろ暗い手段なのは間違いないし、配下の術士にも簡単には明かせないだろう。
そのためミリィ達は捕らえた二人が知らない可能性もあると考え、今は他の事柄を訊ねている。
次にヴェラム共和国の使節がジェンイーに着き、ナンカンとの語らいを始めた。
ヴェラム共和国の前、エンナム王国の時代は自国の海域に入る船に多大な関税を課して交易を独占した。しかし新たな体制では妥当な税率に戻して他国の船も受け入れる。
南のダイオ島やルゾン王国も同様とし、更に東のヤマト王国やアコナ列島からの船も渡ってくる。ぜひナンカンとも良き交流をしたいと、ヴェラム共和国の使者は申し入れた。
ナンカン皇帝の孫文大は大いに喜び、ヴェラム共和国との国交樹立へと舵を切った。元々彼はシノブから密かに聞いており、ヴェラム共和国誕生の経緯も知っているから断る筈もない。
ウェンダーはシノブを伝説の救世主とし、更に自身の子供達をアマノ王国に留学させたくらいだ。その救世主が成立させた国なら友好関係を結ぶべしと、南からの使者を大歓迎したのだ。
他にもソニアはエウレア地方の出来事や、カンビーニ王国で見聞きしたことを記していた。しかしアルバーノは西のことには触れず、手紙を懐に仕舞う。
「これで後顧の憂いは無くなったわけだ」
「はい。それに交易で国力を上げれば……」
「きっと協力してくれる。だってローヤンには……」
アルバーノが濁り酒の入った椀を掲げると、シーシュンとメイツァオが笑みで応じる。それにミケリーノも嬉しげな顔で頷いた。
この四人はヴェラム共和国誕生にも関わっており、彼らのことを良く知っていた。
代々のエンナム王はカンの狂屍術士の系譜に連なる禁術使いで、多くの魂を操り人々を魔道具で縛り続けていた。そのためヴェラム共和国が狂屍術士の祖師シェンジャオ大仙に与する筈はなく、ナンカンの後押しをしてくれると四人は承知しているのだ。
ダイオ島、ヤマト王国、アコナ列島も同じで、この三つの協力も充分にあり得る。もしヤマト王国やアコナ列島の木人がナンカン軍を支援すれば、ホクカンの巨大式神に対抗できるだろう。
「邪術の使い手など、我らが主の敵ではない。しかし彼らを倒しても、この巨大な国は残る。その後を抑える力がなければ、再び大乱の時代に戻るかもしれん」
アルバーノは、いつになく鋭い顔となっていた。
シェンジャオ大仙を倒すのはシノブだろう。五百年以上を生きる禁術使いに立ち向かえる者など、彼や支える眷属達の他に存在しない。
そこまでの道を作るのが自分達の仕事と、アルバーノは思い定めているようだ。
ホリィやシャンジーの支援もあるし、潜入任務の成功は間違いない。そしてシェンジャオ大仙や彼の配下は滅び、ホクカンは禁術から解き放たれる。
だが、その後はカンの人々次第だ。シノブの介入は人の領域を逸脱した者達を倒すまで、その先に平和を齎すのはカンで生まれ育ったシーシュン達なのだ。
おそらくアルバーノは、そう言いたいのだろう。
ホクカンの人口は百六十万人近く、ナンカンが九十万人ほど。セイカンの七十万人を加えて、ようやく同等だ。
しかしセイカンはカン帝国正統と称し、他の二国を下に見て国を閉ざしている。現在ナンカン大神官の願仁が交渉しに向かっているが、簡単に乗ってくれるとは思いがたい。
最悪の場合、崩壊したホクカンで大量の難民が発生しナンカンに雪崩れ込んでくるだろう。あるいはホクカンの後継者が、改めて他国に挑むかもしれない。
禁術使いが去ったところからが、ナンカンの本当の戦い。その可能性は、確かにあった。
「もちろん俺達が何とかします!」
「私も協力する。『華の里』はナンカンの隣だから、他人事ではないもの。それにシーシュン君は私と同門……これからも一緒」
シーシュンが勇ましく宣言すると、メイツァオが彼の拳に繊手を重ねる。
二人は神操大仙の一派、確かに同門だ。しかし頬を染めた少女の様子からは、到底それだけとは思えない。
「その意気だ。しかし今日は遅い、そろそろ休んでおけ」
「小迅、緑美、天幕に行こう」
アルバーノが就寝を促すと、ミケリーノが立ち上がる。見張り番は焚き火を囲んで過ごすが、他は天幕で雑魚寝するのだ。
ただしミケリーノとシーシュンは右、メイツァオは左である。天幕が二つあるのは、男女それぞれに用意したからだ。
「お先に失礼します」
「アールーさん、お休みなさい」
呼ばれた二人、シーシュンとメイツァオも素直に続く。
今日はローヤンに着いたのが遅く、充分に調査できなかった。そこで明日は早くから動くことにしていたのだ。
ローヤンの中で商売すると、多額の税金を取られる。そこで行商人は街道沿いに露店を開くが、良い場所は早く埋まってしまう。
アルバーノ達は商売に精を出さなくても良いが、客が寄らない中途半端な場所では情報収集に差し支える。そこで彼らもローヤンに程近い場所を確保することにしていた。
そしてアルバーノを含む数名は、ローヤンに入っての調査だ。見物客なら入市税は安いから、商売の合間に物見遊山をする田舎者を装う。
ここまでの道と同じく、都の地理は光翔虎達の調べによる地図がある。とはいえ宮城などに侵入するには、実際に見てみないと難しい。
そこで明日は要所と思われる場所を巡っての下調べ、実際の潜入は明後日以降を予定しているのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
翌日の朝四時ごろ、アルバーノ達はローヤンの南城門へと向かった。
カン地方だと、都市の出入りは日の出から日没までとされている。もちろん公用なら別だが、他は太陽が昇っている間しか城門を潜れない。
しかし日の出と同時に動いても、良い場所は埋まっている。そこで近隣の村に泊まった行商人は、空が白み始める前に動き出す。
幸いにもアルバーノ達は、城門から百歩足らずという場所を確保できた。
狙いはローヤンから旅立つ人達、正確には彼らの持つ情報である。そこで商品は主に薬、熱冷ましや傷薬など旅人向けだ。他にも雨具や保存食など、やはり旅関連で纏めている。
そして日の出を迎え、彼らは更なる行動へと移る。
「それじゃロウレイ、親父。後は任せたぞ」
「はい。ゆっくり都見物をなさってください」
「子供達から目を離すなよ」
アルバーノが店を離れると、ロセレッタとセデジオが後を追って脇へと移る。
これからアルバーノは、ミケリーノ、シーシュン、メイツァオの三人を連れてローヤンに入る。残るセデジオとミリテオ、そして三人の女騎士達が店番だ。
既に多くの旅人が露店に寄り、商品を買い求めている。年頃で美貌の女性が三人もいるから、集客力は充分なのだ。
邪魔したら悪いと思ったらしく、アルバーノは手を振ったのみで城門へと向かっていった。
「……見物客でも大銅貨三十枚か。三食は食えるな」
「子供も同額とは……」
城門を抜けたアルバーノは、後ろを振り返りつつ呟いた。すると隣のミケリーノが囁き声で応じる。
ちなみに大銅貨が五十枚で小銀貨一枚、百枚なら銀貨一枚である。つまり四人がローヤン見物をするだけで、昨日セデジオが買った濁り酒の二つ分以上だ。
「あっ、宿屋だ。どれどれ……素泊まりで銀貨一枚、朝食付きだと大銅貨二十枚追加。荷車の預かりは銀貨一枚、馬車は銀貨二枚……本当かよ」
「やっぱり都は高いね」
シーシュンとメイツァオは宿屋の看板に目を向けている。
まだローヤンに入ったばかり、場所からしても安宿だろう。しかし値段は少なくとも相場の倍以上だ。
このようにローヤンの物価は高く、特に旅人向けは足元を見ているとしか思えない価格設定だ。そのため行商人が近隣の村での野営を選ぶのも無理からぬことである。
それもあってアルバーノ達も店を冷やかすこともないまま、北の中枢部へと足を運んでいく。
まずは宮城の周囲を巡り、更に大神殿へと足を運ぶ。
周囲の官衙や高官の住まいを含め、見物客の入れぬところが大半だ。しかし大神殿は別で、一般にも開放している筈である。
それにナンカンのように、喜捨をすれば書籍を閲覧できるかもしれない。もちろん高額だろうが、それだけの価値は充分にある。
しかしアルバーノ達は、方針変更を余儀なくされた。彼らは大神殿に向かう途中で、早くも騒動に出くわしたのだ。
「待て!」
「逃がすな!」
声を上げるのは十名ほどの男達、そして彼らの前を走るのは少女である。
交差する通りから飛び出した少女は、アルバーノ達のいる方に曲がった。そして追っ手の男達も続いて駆けてくる。
少女の年齢はミケリーノと同じくらい、つまり十三歳かそこらのようだ。服の布地は上等で刺繍も細やか、上衣の裾は足首近くまである。少なくとも官位のある者の子供だろう。
一方の追っ手だが、揃いの白服を着けている。どうやら何かの制服、おそらくは公職か類する職業の衣装に違いない。
しかし、どうも様子がおかしい。男達の顔には強い焦燥が滲み、少女の背に向けた視線は射殺すかのように鋭い。
それに少女も必死な表情、捕まると酷い仕打ちでも受けるのか整った容貌は恐怖で彩られている。
「兄さん!」
「もちろん! このアールー様は、か弱い女性の味方さ!」
ミケリーノが顔を向けると、アルバーノは大きく頷いた。そして二人は少女に向かって走り出す。
「そうこなくっちゃ!」
「あの男達、絶対に悪人」
シーシュンとメイツァオも脇に並んで疾走する。こちらも少女を追い回す男に強い不信感を抱いたらしい。
「助けて!」
「お前達、邪魔するな!」
「我らは国の役人だ! そいつを捕らえるのを手伝え!」
悲鳴に近い少女の絶叫。役人と名乗った男達の怒号めいた叫び。それらに重なる靴音。宮城にも近い場所とは思えぬ殺気だった空気がアルバーノ達に迫ってくる。
しかしアルバーノは、これこそが自分の生きる場と言いたげに楽しげな笑みを浮かべていた。そして彼は一瞬のうちに割って入ると、少女を自身の背後に庇う。
「お前、何のつもりだ!?」
「お前達こそ何のつもりだ。嫌な匂いをさせやがって……二十一年前のあいつらと良く似てやがる」
役人と名乗った男達は強権的な様子で迫ったが、アルバーノの苛立たしげな声に足を止める。
二十一年前。それはアルバーノがベーリンゲン帝国に捕まり戦闘奴隷にされたときだ。どうやら彼は、眼前の男達に人の心を踏みにじる輩と通ずる何かを見つけたらしい。
「一番手前の男! 右手の筒に人の魂が入っている!」
メイツァオの叫びに、大きな衝撃が走る。
優れた術士だからか、それとも大魔力や鋭敏な感知能力を持つエルフだからか。メイツァオは男の手にした筒状の品が符の一種だと断定する。
「何だと……。お前ら、生きて帰れると思うなよ」
再び空気が震える。今度は暗い、地の底から響くような低い声だ。
もちろん発したのはアルバーノ。剣聖アルノーと同じく二十年の苦難を乗り越え、稀なる力を得た英雄。アマノ王国が誇る姿なき狩人による、終焉の宣告である。
そしてアルバーノの姿が微かに揺らぐと同時に、白服の男達は全員が倒れ伏した。彼らは神速の手刀が起こした衝撃波で、意識を断たれたのだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年8月1日(水)17時の更新となります。