26.14 伝説と裏切り 後編
シノブ達が木人と戦い始めたころ、ミリィは少し北のナンカン軍の陣地を巡っていた。
先導するのは葛師貢、グオ将軍の父親だ。既に日も落ちて幾らか経っているから、隣にいる孫の師迅は灯りの魔道具を手にしている。
ミリィはシーゴン達の後ろ、両脇がシメオンにマティアスで直後にイヴァールとアルノーだ。その後ろにはアマノ王国から来た軍人達や『華の里』の操命術士達もいる。
「今は陛下の供をした五百に加え、都から駆けつけた三千がおります。とはいえホクカンにも増援があり、おそらくは同数以上の様子。それに……」
シーゴンは自軍の陣容やホクカン軍の様子などを語りながら進んでいく。しかし彼の言葉は、鈴を鳴らすような可愛らしい声で遮られる。
「やっぱり引っかかりましたね~」
ミリィは立ち止まり、意味深な言葉を呟く。彼女はシノブからの思念を受けたのだ。
およそ三百の木人が現れたこと、現在は交戦中だが押しており問題ないこと。シノブが伝えた内容を、ミリィは周囲の者達に明かしていく。
「ほう! シノブの読みが当たったか!」
イヴァールの声には強い期待が滲んでいる。どうやら彼は、自身が戦う機会もあると受け取ったらしい。
無意識なのだろうが、イヴァールの手は背負った戦斧へと動いていた。しかも鍛え上げた筋肉が盛り上がったのが厚い革の軍服の上からでも明らか、今にも得物を抜き放ちそうな姿である。
「すると、こちらにも……」
「敵襲! 敵襲!」
シメオンの言葉が合図だったかのように、見張り台の上でナンカン軍の兵士が声を上げる。そして見張りは銅鑼を打ち鳴らし、ホクカン軍が動いたと自陣に知らしめる。
「皆様、大変恐縮ですが失礼します。シーシュン、後は頼むぞ!」
「は、はい! お爺様、ご武運を!」
シーゴンは一礼すると走り出す。そして案内役を任されたシーシュンは、祖父の背に必勝と無事の願いを投げかける。
陣地にはグオ家の虎達もいるが、使役者がいなくては戦場に出せない。しかしグオ将軍はナンカン皇帝孫文大と共に木人達を迎え撃っており、陣地にはシーゴンと彼の次男の師明のみである。
そのためシーゴンも案内役を切り上げたわけだ。
前回と同様にホクカン軍は歩兵のみ、そのため軍馬の突進と違って対処の時間は充分にある。しかし今回はナンカン側も徒歩だから、悠長に構えてはいられない。
これはホクカン側の術士を警戒してのことだ。落とし穴を仕掛けているかもしれないのに騎馬の戦いを挑むのは愚策に過ぎると、ナンカン軍は歩兵とグオ家の虎達での迎撃を選んだ。
したがってシーゴンが出ないと、ナンカン側の戦力は随分と落ちることになる。
「……皆さん、本陣に行きましょう! 観戦塔もありますから!」
シーシュンも虎を使役できるが、まだ十二歳でしかない。そのため彼は祖父の命じた通り、案内役に徹するようだ。
もっとも多少は未練があるのか、ミリィ達へと振り向くまでには少々の間があった。
「加勢しようと思うのだが?」
「我らが護衛し、シーシュン殿が虎を使役するのは如何でしょう? そうすれば三方面に虎軍団を配置できます」
イヴァールが不満げな声を上げると、マティアスが一歩進み出て提案する。するとアルノーも賛成らしく、静かに頷いた。
「私は本陣で大人しくしています。場所は先ほど伺いましたから、ご心配なく」
「そうですね~、私も待機します~。美操さんはどうしますか~」
「もちろんシーシュン君と一緒に行く」
シメオンやミリィも介入に反対しない。そして『華の里』の操命術士メイツァオが共に行くと名乗りを上げた。
これはホクカン軍の攻撃が苛烈なものになると予想しているからだ。
何しろナンカン皇帝ウェンダーへの襲撃と同時の進軍だ。つまり敵はナンカン軍の足止めとウェンダーの孤立を狙っている。
しかしホクカン軍はウェンダーから遠い。北からジヤン川、ホクカン軍の陣地、ナンカン軍の陣地、シノブやウェンダーの一行、都市ウーロウという並びなのだ。
したがってホクカン側は可能な限り多くでナンカン軍を釘付けにし、ウェンダー救援を遅らせる筈である。そして兵はホクカンが幾らか多いから、僅かでも助けが欲しいのは確かだ。
「……分かりました。お爺様の許しがあればですが!」
シーシュンは先ほどのシーゴンに勝る速さで駆け出した。
許可を得るならシーゴンが出陣する前に捕まえなくてはならない。それを承知のイヴァール達も、少年の後を追って疾風の如く去っていく。
「私達は本陣ですね~」
「はい」
ミリィが歩き出すと、シメオンも続く。メイツァオ以外の操命術士も同じく二人を追っていく。
今回『華の里』の操命術士が伴ったのは牧草地の罠を調べるためのオオカゲモグラのみで、彼らには戦う手段がないのだ。
「ウェンダー殿の無事は間違いない……それにイヴァール殿達が出れば前線も支えきれる。後は裏切り者の捕縛ですね」
「あっちも大丈夫ですよ~。何しろアルバーノさん達ですからね~」
シメオンとミリィは普段通りの声音で、笑みすら浮かべている。
異神すら倒したシノブが付いているのに、ナンカン皇帝ウェンダーを害するなど不可能。そしてアマノ王国が誇る勇将達が出て、敵の突破を許すわけもない。
後は都市ウーロウにいる筈の内通者を捕らえるのみだ。ウェンダーがウーロウを出た直後に襲撃するなど、何らかの手引きがあったのは確実である。
ただしウーロウには、超越種も認める隠密の達人アルバーノが残っている。しかも光翔虎のシャンジーもいるという万全の体勢だ。
「シャンジーさんにも、こちらのことは伝えました~」
ミリィはシノブやシャンジーと随時連絡を取っていた。
現在シャンジーやアルバーノは、最も疑わしい人物の側に潜んでいる。ウェンダー襲撃の結果、何かしら動くと期待しているのだ。
ソニアやミケリーノ、そしてセデジオやミリテオなどの諜報員もウーロウの各所に散っている。フライユ伯爵領の騎士ファルージュ・ルビウス、フランチェーラ達三人の女騎士も同様だ。
どうも内通者には相当数の配下がいるらしい。
◆ ◆ ◆ ◆
「うおお! がああ!」
宵闇を斬り裂くのは、ナンカン皇帝ウェンダーの雄叫びだ。虎の獣人に相応しい巨体から繰り出す一撃ごとに、彼は周囲を圧する雷鳴の如き大音声を響かせる。
振るうは身の丈の倍を超える大薙刀、地球なら青龍偃月刀や関刀と呼ばれる武器である。銘は嵐月、ナンカン皇帝家が初代から伝える家宝だ。
皇帝の武器に相応しく、嵐月は金銀の細工で飾られている。鋼鉄製の柄の鍔元近くに嵐竜を模した飾り、刃の側面の細かな紋様は怒れる竜のブレスを表しているらしい。
もっとも今の嵐月は霞むほどの速さで振り回され、華麗な姿は目に映らない。
代わりに目立つのはウェンダーの甲冑だ。武器と同じく兜や鎧には嵐竜の彫刻が施され、それらが灯りの魔道具で煌めいている。
胴鎧は長大な嵐竜が巻きついた様、左右の肩甲は竜の頭部を表している。しかも兜も竜の頭を模しているから、三つ首の竜なのだろうか。
それらがカン風の意匠で纏められ、三国志の英雄もかくやという威容を作り出している。
木人達も槍で対抗するが、こちらは木の柄だから簡単に斬り飛ばされている。
この木人達は式神が動かしており、死を恐れることはない。そのため何体か囮にして他が攻め寄せるなど、普通なら容易に躱せぬ攻撃も繰り出す。
しかしウェンダーの武力は木人達の及ぶところではなく、全て嵐月の餌食となる。
「残り五十を切ったか!?」
主の死角を埋めるように位置取りつつ、グオ将軍は大業物というべき長槍を突き出していく。
グオ将軍は、相棒たる虎や狼を連れていない。これはシノブ達が連れてきたアマノ王国の軍馬が警戒するからだ。
しかしグオ将軍の槍術は並外れており、ウェンダーと同様に一撃で木人の頭を貫き、あるいは首を飛ばしていく。
相当に膂力が優れているらしく、グオ将軍の愛槍はウェンダーの嵐月に匹敵するほど長く太い。更に刃も長く、小剣に長柄を付けたような形状だから薙ぎ払っても使える。
それを小枝のように軽々と突き出し振り回しと虎将軍の名に相応しい戦い振りで、彼は主に匹敵する戦果を挙げていく。
「これで二十五かの!?」
「うん。私は二十二」
アマノ王国の面々も負けていない。一番槍の栄誉を勝ち得たマリエッタは勢いに乗ったようで続けざまに木人を貫いていき、支援をと申し出たエマも殆ど変わらぬ数を倒している。
疾風のように駆け抜けるマリエッタ達に、木人達が突き出す槍が届くことはない。どちらも完全に見切っているようで、掠ったとしか思えぬところを抜けても煌めく鎧は傷一つ無いままだ。
「あの二人も強くなりましたね~」
「本当にね。弓で援護しなくても良かったかしら」
ミレーユとアリエルは矢を放ちつつ笑みを交わす。
シャルロットを合わせた三人は、前衛に攻め寄る木人達を間引き続けている。しかしマリエッタ達には、助けがなくても大丈夫だと思わせる確かさがあった。
「もうそろそろ終わりですか……」
シャルロットは矢を放つ手を休め、周囲を見回す。
三百はいた木人も今では数えるほどだ。先ほどまでは獅子奮迅の勢いで戦っていたシノブも剣を収め、アミィと共に戻ってくる。
「アミィ、エンリオ。術士を探すから周りを頼むよ」
戦いながら遠方を探るのは困難だ。そのためシノブは後ろへと退いたのだ。
「はい、シノブ様」
「仰せのままに。お前達、陛下を守るのだ」
アミィは正面、エンリオは後方に陣取る。そして見習いのジャル族の若者ヒュザとメジェネ族の若者ハジャルが左右だ。
「アリエル、ミレーユ、後は頼みます」
シャルロットも念のためにと思ったのか、シノブの側に馬を寄せた。
五人が警戒する中、シノブは魔力感知能力を高めていく。すると1kmほど東に、魔術師らしき波動を発見した。
どうも一人だけのようだが、方角からするとウーロウの外なのは確実だ。しかも両軍が布陣している北側でもない。
この距離なら短距離転移で探れると思ったシノブは、感知を中断して空間把握へと移る。転移能力の一部として、空間を繋いで遠方を確かめる技があるのだ。
探った先は背の高い作物で一杯の畑の中、そこに中年の男がしゃがみこんでいる。しかも仲間もいなければ農具も持っていないという怪しさだ。
そもそもウーロウより北は戦地になる可能性があり、住民は全て避難している筈だ。昼間なら畑の様子を見に帰ったかもしれないが、今は日も落ちて二時間近い。
これはホクカンの送り込んだ者に違いないと、シノブは確信する。
「やはり術士のようだ……ここに呼び寄せるから注意して。出現したら、まずアミィの催眠魔術だ」
「はい!」
シノブは呼び寄せと同時に相手を眠らせることにした。
相手が魔術師なら『魔封じの枷』を嵌めてから尋問すべきだろう。式神を使うのみとも限らないし、奪命符が仕掛けられている可能性もある。
それらを思ったのだろう、アミィの声も鋭さを増している。
「いくぞ! 短距離転移!」
「眠りの霧!」
シノブが転移で引き寄せると同時に、アミィは催眠魔術を行使した。
出現した男は前のめりに崩れ落ちる。といっても元々が片膝を突いた姿勢だったから、怪我するようなこともなく地に伏せただけだ。
「枷を嵌めます」
「ああ、頼む」
エンリオが素早く動き、魔力を封じる魔道具を術士に着ける。一方のシノブは返事をしつつも、相手の観察をしていた。
外見からすると年齢は四十前後、農民に変装したのかナンカン風の服は粗末な単で、素肌に前合わせの上と筒裾の下のみだ。しかし先ほどまでの溢れんばかりの魔力が、常人ではないと教えてくれる。
「シノブ殿、その男は何者でしょうか? かなりの魔力でしたが……」
ナンカンの大神官願仁が馬を寄せてくる。
ユンレンは転移の技について問わなかった。彼はシノブを神の使徒としているから、そのくらいは充分に可能だと考えたのだろう。
「おそらくホクカンの術士だと思います。畑の中に潜んでいました。……奪命符はないようですね。落ち着いた場所に移ってから催眠を解除しましょう」
シノブは奪命符の魔力を探ったが、目の前の男からは感じなかった。それを聞いて周囲も顔を綻ばせる。
「シノブ殿……もしや木人達の?」
興味深げな声は、ナンカン皇帝ウェンダーのものだ。既に全ての木人が倒され、グオ将軍やマリエッタ達も側に集まっている。
「おそらくは……」
「シノブ様、符がありました! 木人の残骸から回収したものと同じです!」
シノブは断定を避けた。しかしアミィの言葉からすると、この男が木人達を操ったと考えて良さそうだ。
確かに二つの符は全く同一に見える。木人から取り出した符は中央が失せているが、残った箇所だけでも充分に同じだと判断できる。
「この符も破きますね。人の命を作り変えたものですから……」
アミィの悲しげな声に、シノブは静かな頷きで応じた。そして一同は、無念の最期を遂げただろう命達に黙祷を捧げた。
◆ ◆ ◆ ◆
「な、何だと! 陛下が襲われた!? それでどうなったのだ!?」
豪華な部屋の隅々まで、中年男の叫び声が響く。声の主は娯仲祥、部屋の主にしてウーロウ太守である。
ジョンシャンは一旦自室に下がっていた。皇帝ウェンダーは陣地の視察へと出かけ、一時間やそこらでは戻って来ない筈だからだ。
とはいえ皇帝の帰還に備えて服は正装のままだし、酒も控えている。まさか皇帝より先に休むわけにもいかないから、ジョンシャンは先ほどまで文机に向かって書き物をしていた。
しかし奇妙なことに机の上の紙は大半が白く、せいぜい一行か二行が記されたのみだ。しかも僅かな字数だというのに誤字もあり、集中していなかったのは明白である。
もっとも入室した家臣に机の上は見えず、疑問を抱くわけもない。彼は静かに顔を伏せて跪いたまま、報告を続けていく。
「そ、それが……。陛下は……陛下は崩御なされました! 生き残った近衛兵の言葉では、三百の木人に襲われたと!」
なんと家臣は、ウェンダーが死んだと報告する。
これはシノブ達が仕掛けた罠である。ウーロウにいる内通者を探るために、わざと誤情報を流したのだ。
ウーロウで真実を知るのは駆け込んだ近衛兵と残っていたウェンダーの側近、それに姿を消して探っているアルバーノ達のみである。この家臣も信じきっているようで、目を赤く腫らしている。
「……下がって良い。すぐに儂も向かう」
「はっ!」
ジョンシャンが抑え気味の声で命ずると、家臣は退去する。
次の報告先があるのか、家臣は主の顔も碌に見ずに駆け去った。そのため彼はジョンシャンが歪んだ笑みを浮かべたと知らぬままであった。
「ふふふ……これでホクカンは儂を厚遇してくれる。こんな半端都市ではなく、何万人も住む地の太守になれる……」
「なるほど、それが狙いでしたか」
ジョンシャンの呟きの直後、部屋の隅に一人の男が現れた。濃い金髪に金眼の猫の獣人、アマノ王国が誇る諜報の達人アルバーノだ。
シノブ達がウーロウを離れた直後から、アルバーノは透明化の魔道具を使ってジョンシャンの側に潜んでいた。
皇帝の行幸に合わせてのホクカン侵攻、誰にも知られず牧草地に罠を仕掛ける手際良さ。これらを実行するにはウーロウの要職にある者の協力が必要だと、シノブ達は考えたのだ。
おそらくホクカン側は、ここウーロウでウェンダーを始末したいのだろう。わざわざ行幸を狙うのだから、狙いは彼としか思えない。
そこで少ない供で視察に出て手出しを待つ。ウェンダーが死んだか行方不明になったと言えば、ホクカンに密使を走らすなど何らかの動きがあると思ったのだ。
「き、貴様!」
振り向いたジョンシャンの顔は蒼白だった。まさか聞かれていたとは思いもしなかったのだろう。
しかし呟いた内容が内容だけに、何も知らぬ家臣を呼ぶわけにもいかない。先ほどの男もウェンダーが死んだと聞いて悲しみを顕わにしていたし、全てがジョンシャンの同調者ではないらしい。
「確かにウーロウの人口は五千人で通常の都市の半分、それにジヤン川の向こうはホクカンだから駐留軍までいる。色々面倒な場所で実入りも少ないかもしれませんが、だからといって故国を裏切らなくても良いでしょう?」
アルバーノは静かに歩み寄りつつ、断罪の言葉を紡いでいく。彼一流の柔らかな口調だが端々に滲む軽侮は明らかで、強い怒りを覚えているのは間違いない。
「聞かれては仕方ない……」
「……ほう?」
ジョンシャンは先刻までと違う、低く濁ったような声を発した。対するアルバーノは、何かを感じたのか歩みを止める。
距離は十歩ほど、太守の部屋だけあって広いから語りながら歩んでも触れるほど寄っていない。しかしアルバーノは飄々と佇むのみ、このくらいの距離は一足飛びに詰められるからだろうか。
「死ね!」
ジョンシャンが袖の中から取り出したのは、拳ほどの大きさの袋だった。そして彼が袋を打ち振ると、無数とも思える紙片が飛び出してくる。
一枚ごとの大きさは指先ほど。しかし両者の間は宙に浮いた紙切れで埋まり、相手の姿など見えない。おそらく数千はあるのだろう。
符は振動しているのか、蜂の群れが飛ぶような鈍い音を発している。そして二呼吸ほどの後、白い塊は散って四方からアルバーノに襲いかかる。
「やはり符術士でしたか」
アルバーノに動揺はない。
ジョンシャンは太守に相応しい大きな魔力を備えているし、加えて彼に武術の修行をした形跡はない。もちろん魔術師も様々だが、アルバーノはシャンジーを介してシノブやミリィの言葉を聞いていた。
そのためアルバーノは表情すら変えず、小剣を抜いて飛び交う符を斬り割いていく。
「この飛び方、蜂か何かですか?」
「そ、そうだ! 触れたら毒で死ぬぞ!」
アルバーノは突きや斬撃で次々に符を落としていく。そのため脅して動きを鈍らせようと思ったのか、ジョンシャンは問われぬことまで口にした。
もっとも符術士の叫びは、アルバーノの顔に不敵な笑みを生じさせただけである。
「触れたら……ね。ですが、触れなければどうということもありませんな!」
一際大きく叫ぶとアルバーノの姿は掻き消えた。数段上の身体強化を使っての、本気の攻撃である。
おそらく先日ミリィ達に見せたもの、魔力眼鏡で二百と測定されたときよりも更に一桁は上だろう。あのときが嘘だったのではなく、一瞬に持てる魔力の半ばほども注ぎ込んだのだ。
無数の紙片が白い雲を作ろうが、アルバーノの小剣が生み出した輝く半球を通過できはしない。数え切れぬ剣尖が全ての紙片を二分し、単なる紙吹雪となって床に舞う。
「これで終わりです」
アルバーノは静かな一言と共に、驚愕で固まったジョンシャンを手刀で気絶させる。
すると中空から光り輝く虎、光翔虎のシャンジーが現れた。彼も姿を消して潜んでいたのだ。
『おみごと~。でもボクの出番も残しておいてほしいな~』
「それは失礼しました。とはいえ、この程度の相手にシャンジー殿が動かれなくとも……」
冗談混じりのシャンジーの褒め言葉に、アルバーノも伊達者ならではの優雅な礼で応じる。
ただし軽口はそこまでらしく、真顔に戻ったアルバーノは『魔封じの枷』を取り出した。そして彼は先刻のエンリオと同様に、倒れ伏した相手の魔力を封じる。
◆ ◆ ◆ ◆
内通者は太守のジョンシャンの他、家臣にも五人いた。こちらもソニアやミケリーノなどが捕らえたが、全てジョンシャンを支える重臣である。
ウーロウに戻ったシノブ達は、それらをアルバーノから知らされる。ナンカン皇帝ウェンダーやグオ将軍も同席しており、彼らも苦い顔で聞き入っていた。
「このように中枢の多くが裏切り者では、密かにホクカンの術士を招き入れるのも造作はない……か。それにジョンシャンが狂屍術を学んでいたとは……」
予想していた結果とはいえ、ウェンダーは慨嘆しきりといった様子である。やはり自身の統治に問題があったと受け取ったのだろう。
「全く嘆かわしいことです! 確かにウーロウは規模が小さいですが、それで太守としての名誉や権利を与えているのですから!」
一方グオ将軍は、憤懣やる方なしと言うべき表情で声も怒りに満ちている。
確かに半分の規模で太守として遇したと表現できるのも事実だ。もっとも気落ちした主君への気遣いなのは誰の目にも明らかで、ウェンダーも首を横に振るのみだ。
今のウェンダーの姿は、先刻までの大薙刀を振るった豪傑とは思えない。
しかし武人から君主に戻れば、高揚した気持ちも萎むだろう。広間にはシノブ達のみならずナンカンの家臣も集っているが、ウェンダーは皇帝らしく取り繕うともしない。
「ウェンダー殿、まだ戦いは続いています。過去を振り返るのは、現在の大難を乗り越えてからでも良いでしょう」
シノブは思わず口を挟んでしまった。
自身も王位に就いているだけに、ウェンダーの気持ちは痛いほどに理解できる。もし近しい家臣に裏切られたら、そのときは自分も同じように嘆き苦しむ。
強い共感を覚えたシノブだが、今は思考の淵に沈むときではないと告げる。この瞬間もナンカンの兵達は戦っているのだから。
おそらくホクカン軍には、ウェンダー襲撃の失敗が伝わっていないのだろう。彼らは猛攻を続けていると、ミリィが思念で知らせてきた。
それに敵が打って出た今こそ大打撃を与える好機だと、ナンカン軍も勇んでいるそうだ。
「そうでしたな……瑾よ、出るぞ!」
「はい、陛下!」
気分を変えようと思ったのだろう、ウェンダーはグオ将軍を諱で呼んだ。
主君だから無礼には当たらないが、異国の王までいる公的な場には似合わない。しかしグオ将軍は喜色満面といった様子で応じる。
おそらくグオ将軍は、彼の敬愛する皇帝に戻ったのが何よりも嬉しいのだろう。
主従の絆を感じ取ったシノブの顔にも笑みが生まれる。それにシャルロット達も同じ気持ちなのだろう、何れも顔を綻ばせていた。
「私も行きますよ。前線には友がいますから……どうも彼らは最後まで付き合うつもりのようです」
複雑な思いを抱きつつ、シノブは進み出る。
ジョンシャンや木人使いを捕らえたと喧伝して退かせる手もあるが、不確かな情報のみでは橋頭堡の放棄と撤退に結びつかない。これはシメオンの意見だが、おそらく他も同じことを言うだろう。
イヴァールにアルノー、そしてシメオンにマティアス。彼らは今月、子を得たばかりだ。しかもマティアスを除けば初めての子である。
その彼らが命の尊さを忘れて戦いに酔っている筈はない。逆に一刻も早く終戦させるには、ここで決定的な損害を与えねばと心を定めたのだろう。
戦いを長引かせたら、更に多くの血が流れる。川向こうならともかくナンカン側に敵国が居座っていたら、これまでとは比較にならない激戦が繰り広げられる。
ナンカンは自国の領土を回復するため、ホクカンは苦労して得た地を手放さぬため。どちらにも充分な理屈があるだけに、熾烈な戦いとなる。
果てには少年達や、これから生まれてくる命も巻き込まれる。そのような悪夢を避けるには、今ここでと彼らは決めたのだ。
「……御厚志、ありがたく受け取ります。この御恩、必ずや返しますぞ」
ウェンダーはシノブの手を取り感謝の意を示したが、その一方で僅かに視線を動かしていた。どうやら彼は、シャルロット達も出陣するのではと案じたらしい。
「ご心配には及びません。……シャルロット、君達でウーロウを守ってくれないか?」
「それが最善ですね。私も可愛い弟子達を鍛える場には不似合いと感じていました」
シノブの要請に、シャルロットは微笑みで応えた。
シャルロットとしては、シノブの側にいたいだろう。リヒトが誕生して数日後の手合わせ、共に歩む強さを示すと叫んだ彼女の声は今もシノブの胸に響いている。
しかし今は時が惜しい。それを理解しているから、シャルロットは笑顔で見送ると決めたに違いない。
「ありがとう……なるべく早く帰ってくるよ」
シノブはシャルロットを抱き締める。そして宣言した通りに最短での帰還をするため、己に課していた枷を外す。
母なる女神から授かった、自身の力を制限する神具。それをシノブは、最愛の妻へと渡したのだ。
「シノブ……」
シャルロットは感極まった表情で、シノブを見つめる。どのような気持ちで夫が神具を預けたか、それを彼女は察したのだ。
かつてテュラーク王国戦で国境の全てを塞ぐ長城を築いたように、大地を震わせ天まで轟く魔力で敵を壊走させたように。人として在りたいシノブが人の域を超え、持てる力の全てで当たる何よりもの証だと。
「お待たせしました。ですが、その分だけ移動時間を短縮します」
シノブは魔法の家を使ってナンカン軍の陣地に移動しようと提案する。
既にシーシュンは何度も転移を経験しているし、グオ将軍も大まかなところは聞いているだろう。もちろん主君である皇帝ウェンダーも。
それに来るときもミリィとシャンジーが誤魔化して魔道具での移動と分からないようにしたが、常識外れの手段で遠方から訪れたのは明らかだ。
「……いや、良いものを見せていただきました」
「陛下のお言葉の通り……妻や友を大切になさる御方だからこそ、ますます共に戦いたくなります」
ウェンダーとグオ将軍の言葉にシノブとシャルロットは頬を染め、残る面々は笑み零れる。
アミィは心底嬉しげに微笑み、アルバーノやエンリオなど男性陣も大きく顔を綻ばせ、マリエッタ達女性陣は眩しげな表情で頬を染めつつ。それにナンカンの者達も親しみが湧いたのか、戦の緊張が解れたような明るい顔で。
「お褒めの言葉、ありがとうございます。……それでは大切なものを守るために行きましょう」
「大切なものを守るために!」
シノブの宣言を、男達はウーロウ全体に響き渡るような大声で唱和した。そして彼らは戦に赴くと思えぬ穏やかな顔で僚友達と語らいつつ歩み出していった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年6月30日(土)17時の更新となります。