26.12 新世紀救世主伝説
創世暦1002年3月14日の早朝。シノブとシャルロットは普段通り日の出前に起床し、愛息リヒトの育児室へと赴いた。
朝方のシノブ達は忙しい。六時からは早朝訓練、そこから一時間刻みに朝食、朝議と続くから我が子と触れ合う時間は決して多くないのだ。
そこでシノブ達は少ない時間を有効に活用すべく、身支度を整えると間を置かずに育児室へと向かう。何故ならリヒトのみならず、オルムル達も待ちわびているからだ。
『シノブさん、おはようございます!』
『今日も良い天気ですね!』
扉を開けると、岩竜の子オルムルと炎竜の子シュメイが即座にシノブ達へと呼びかける。
超越種は魔力感知能力が高いから、扉の向こうに人が歩み寄ったことくらい容易に察する。他の子も飛翔や浮遊が出来る者達は同様にシノブとシャルロットに向き直っており、清々しい朝に相応しい弾むような声を降らせる。
ただし先日加わったばかりの幼体達は飛べないし、まだ発声の術も使えない。そこで一部は床の上、そして思念での挨拶である。
──シノブさん、シャルロットさん、おはようございます!──
──どうです、少しは速くなったでしょう!?──
──リヒトと特訓していました!──
玄王亀の雄タラーク、嵐竜の雌ルーシャ、海竜の雌ラームは、腰の高さほどの衝立で囲まれた中を扉の方に向かって進んでくる。彼らはハイハイするリヒトと共に歩行訓練をしていたのだ。
ただし三種族とも岩竜や炎竜のように直立せず四つ足だから、一見するとリヒトに付き合ってハイハイしているようでもある。
玄王亀はリクガメのような体だから、四本の足を踏みしめての歩みも緩やかだ。しかもタラークは生後十日という幼さだから進む速度はリヒトと良い勝負である。
嵐竜のルーシャは、最も後ろだった。嵐竜は地球の東洋に伝わる龍に酷似しており、蛇のように長い体に比べると足は非常に短いから歩行に向いていないのだ。
海竜も首長竜のように四肢が鰭と化しており歩くのは苦手だが、ラームはルーシャより多少は前である。彼女達はタラークより一日後の生まれと誕生日が同じだから、競争心が強いらしい。
「と~! ま~!」
リヒトは超越種の幼体達と進みながら、シノブとシャルロットに呼びかける。ちなみにシノブへの呼びかけは『とうさま』からだが、シャルロットは『ママ』が元である。
この世界の言葉は日本語で統一され、しかも比較的新しい外来語は含まれていない。そのため本来『ママ』という言葉は伝わっていないのだが、リヒトはシノブが掛ける言葉から学んでしまったようだ。
シノブも誕生直後に思わず口にした例を除くと、我が子の前ではシャルロットを『かあさま』と呼ぶようにしている。しかしリヒトは極めて高い魔力感知能力で、シノブが脳裏に浮かべた『ママ』という言葉を読み取ってしまったらしい。
「陛下、戦王妃様、おはようございます」
「今日もリヒト様は早起きなさいまして……」
当番の乳母達は衝立の外からだ。
リヒトは王子だから乳母も三交代で二人ずつ、休暇もあるから合計十人ほどが専属となっている。もっとも夜間はオルムル達が側にいるし昼間は『白陽保育園』で他の乳児達と共に過ごすから、さほど重労働でもないようだ。
今もリヒトは幼体とはいえ三頭の超越種に囲まれ、上には更にオルムル達が浮いて見守っている。年長者はオシメの交換まで手伝うくらいで、夜間の乳母達は授乳だけで終わるときもあるという。
「ああ、皆おはよう! リヒト~、それにタラーク達も速くなったね~!」
シノブは朗らかな笑みで応じると、囲いを一つ外してリヒト達の側に寄る。
先頭はリヒトとタラーク、生後四ヶ月少々のリヒトと未だヨチヨチ歩きのタラークは進む速度が殆ど同じである。まだタラークは甲羅の全長が40cmに満たず体重も赤子のリヒトより軽いくらいで、今のところ良い勝負となっているのだ。
ただし一ヶ月少々でタラークは倍ほどに大きくなり、同族のケリスの例に倣えば生後二ヶ月と少しで浮遊や地中潜行術も習得する。したがってリヒトとタラークが本気で競える期間は、大して残っていない。
そのためか中空に浮かぶケリスは、弟分が歩む姿をどこか懐かしそうに見つめている。
「皆、元気ですね。良いことです」
シャルロットもシノブに続いて囲いの中へと入る。
十数枚の衝立で作られた円の中は、部屋の半分近くを占めるほども広かった。オルムル達が休む『神力の寝台』、リヒトが使う『天空の揺り籠』など、乳母達が過ごすテーブルやソファーは以前よりも端に寄せられ、今は赤子達の遊び場を広く取る形にしている。
そのため囲いの中は、他の子や乳母達も同時に入れるくらいの面積があった。そこをひっきりなしに行き来していたのだろう、リヒトの顔には少しばかり汗が浮いている。
『あら~、汗を掻いていますね~』
光翔虎の子フェイニーは、シノブの頭の上に舞い降りると赤子に顔を寄せた。彼女はシノブから魔力を貰おうと思ったようだが、リヒトの様子が気にかかったらしくもある。
『では私が』
今度は海竜の子リタンが寄ってくる。ただし彼は宙に浮いたままで、しかも自身が得意な水の技を使っていた。
リタンはリヒトの肌から汗を取り除き、宙で水球として纏める。そして彼は海の女神デューネが贈った神具『温泉の子供湯船』へと煌めく水玉を飛ばしていく。
「い~! あ~!」
リタンの水操作は汗の成分も含めて取り除いており、しかも服の下にも及んでいる。そのため心地よくなったらしく、リヒトは機嫌よさそうな声で応じていた。
「ありがとう。さあ皆、疲れただろ?」
シノブは我が子を妻に預け、三頭の幼体を抱き上げる。玄王亀タラークを右腕、海竜ラームを左腕、そして嵐竜ルーシャは襟巻き状に首に掛けてである。
ルーシャは体が長いから、今のようにシノブに巻きつくのが好きなのだ。これは同族のラーカも同じだから、種族的な性質なのだろう。
──シノブさんの魔力、美味しいです!──
──早く大きくなれそうですね──
──大きさより飛びたいです!──
タラークとラームは喜びも顕わにシノブの魔力を吸っていくが、ルーシャは同じように吸収しつつも不満げな思念を発していた。
嵐竜は歩行に向かないから、現状ではルーシャがタラークやラームに勝てる要素は皆無である。そのため彼女は、早く自身の特性である風の技が発現するようにと願ってやまないのだろう。
一方タラークやラームは成長しても浮遊程度だから、あまり空への憧れは存在しないらしい。
「る、ルーシャ、首が絞まるって!」
「まあ……」
シノブは敢えて苦しそうな声を発してみた。それが笑いを誘ったのだろう、シャルロットや乳母達は頬を緩ませる。
幼体の力は大きさ相応で、人間の大人なら容易に振りほどける程度だ。ましてや膨大な魔力を持つシノブなら、生後二年も近くなったラーカどころか成体の嵐竜が締め付けても苦もなく抜け出せる。
そのためオルムルを始めとする子供達も、春の朝に相応しい軽やかな笑声を響かせるのみであった。
◆ ◆ ◆ ◆
はしゃぎすぎたのか、リヒトは早々に眠ってしまう。そこでシノブ達は育児室を後にして居室へと移る。
ただしオルムル達はアミィとタミィへの挨拶を済ませると、先を競うように窓の外へと飛び出していった。いつもと同じく、子供達は狩りと訓練に出かけていったのだ。
最近のオルムル達だが、幼い子が加わったばかりだから彼らの生地や暖かな場所を回っているそうだ。
今日は海竜ラームが生まれた地、地球ならハワイに近い孤島へと出かけていった。向こうにはラームの両親マートとティアもいるし、それぞれの棲家を結ぶ転移の神像を使ってタラークやルーシャの親達も集まるという。
先日までオルムル達は毎日のようにカカザン島に行き、森猿スンウ達に人と共存する術を教えていた。
しかしスンウを始めとする森猿は『アマノ式伝達法』を完全に習得し、幾つかの試験的な交流も大過なく済ませた。そのためオルムル達も訪問の頻度を数日に一度くらいにしたらしい。
スンウ達はスワンナム半島の仲間にも『アマノ式伝達法』を教えると意気込んでいる。既に『操命の里』に近い高山に転移の神像を設置済みでオルムル達が付き添えば簡単に往復できるから、意外と早く伝授できそうだ。
「メイリィも海猪や浄鰐に教えたいって言っていましたね」
「森猿に海猪に浄鰐……まるで西遊記だね。そうするとチュカリが三蔵法師かな?」
お茶を差し出すアミィに、シノブは笑みと冗談で応じた。
今はオルムル達を見送った直後、居室には他にシャルロットとタミィがいるのみだ。そのため全員がシノブの比喩を理解して微笑みを漏らす。
「三蔵法師……ありがたい教えを授かりに西に旅をするのでしたね」
「西ならアマノシュタットですよ! チュカリさんも先々はアマノ王国に仕えるでしょうから!」
シャルロットはシノブから聞いた話を思い浮かべたようだ。そしてタミィは西ならアマノ王国に来る筈と言い出す。
確かにチュカリはアマノ王国の奨学生扱いになったから、将来は仕官するなり何らかの形で関わるだろう。彼女が成人するころにはアウスト大陸との正式な交流も始まっているだろうし、アマノ王国の所属でも駐アウスト大陸大使など故郷で働ける道もあるとシノブも思ってはいる。
「俺はお釈迦様みたいにお経を授けはしないよ。それに、まずは『操命の里』での修行じゃないかな?」
シノブは魔獣使いの技を学んでおらず、チュカリの指導など不可能だ。したがって彼女は、まずスワンナム半島の操命術士に師事することになるだろう。
伝説の神操大仙が開いた『操命の里』、今も眷属メイリィとして大仙が見守る地ならチュカリを大きく伸ばしてくれるに違いない。転移の神像もあるから容易に行き来できるし、気が向けば互いに訪問可能で実質的にアマノシュタットで学ぶようなものだ。
そのようにシノブは期待しており、いきなりチュカリを側に呼び寄せるつもりはなかった。
「ナンジュマやカカザン島と違ってアマノシュタットは寒いからね。子供のうちは『操命の里』が良いんじゃないかな……ヴィジャンのようにアマノシュタットに移すべき事情はないからね」
シノブは先月末に招いたばかりの元エンナム王国王子を思い浮かべる。
かつてのエンナム王国の都、今はヴェラム共和国の首都となったアナムは北緯25度ほどだ。そこで生まれ育ったヴィジャンからすれば、北緯45度を超えるアマノシュタットは極寒の地に等しいだろう。
ヴィジャンは僅か六歳だが弱音を吐かないし、他の南国出身者と同じく暖房の魔道具や厚手の寒冷地用装備を用意してもいる。しかし一昨日オスター大山脈の高地に行ったときも寒そうにしていたし、急には馴染めないようだ。
「そうですね。南方生まれでも大人であれば我慢できるでしょうし、ミケリーノのように家族が一緒なら別ですが……」
「イナーリオ一族の場合、ロマニーノさんが移籍すれば若手は全員ですからね。それに親御さん達も引退後は移住するでしょうから」
シャルロットがミケリーノの名を出すと、アミィが彼の年長の従兄弟に触れた。
現在ロマニーノはカンビーニ王国の男爵で駐アマノ王国大使として働いているが、今月一杯で退任してアマノ王国に移る。彼はミケリーノの姉ソニアと結婚し、アマノ王国の子爵となるのだ。
急激に同盟国を増やすアマノ王国で、情報局の役目は重くなるばかりだ。しかし担当が諜報だけに、能力のみで幹部に据えるのも躊躇われる。
しかしロマニーノはシノブの親衛隊長エンリオの孫で、メグレンブルク伯爵かつ情報局長のアルバーノの甥である。加えて従姉妹のソニアは情報局長代行、その弟ミケリーノはシノブの側近だ。
ロマニーノは王太子シルヴェリオの側付きだったから人物も折り紙つき、そもそもソニアが強く慕っており障害は何もない。そこでシノブはシルヴェリオが第二妃としてオツヴァを迎えたら、移籍してもらうことにした。
オツヴァはエレビア王国の王女で、この婚礼を纏めるまではロマニーノも大使の任を退くわけにいかなかった。つい先日までオツヴァは名目のみだが駐アマノ王国大使としてアマノシュタットにいたから、同じ場に駐留するロマニーノも仲を取るのに忙しかったのだ。
「今ごろシルヴェリオ殿達はカンビーニ半島を周りこんでいるところか……リョマノフも航海を楽しめただろうな」
シノブは壁に掛けた地図へと目を向ける。これはエウレア地方からアスレア地方までの北大陸西部、そして南のアフレア大陸の北岸を描いたものだ。
更に広域をシノブ達は知っているし、地図を作らせてもいる。しかし側付きや乳母達も入る居室に掛けるには時期尚早だから、一般に公開した地域のみを掲載した地図を飾っているのだ。
シノブは視線を右から左へと動かす。
エレビア王国はアスレア地方でも最西端の国で、シノブ達からすると東への玄関口である。しかもエウレア地方とアスレア地方の南には魔獣の海域が広がり、航路は同国の近海を通る一つしかない。
エレビア王国からだと大砂漠の近海を西に進んでエウレア地方に入る。そして最初にアマノ王国、続いてデルフィナ共和国を経由して、メリエンヌ王国やカンビーニ王国だ。
エレビア王国の王都エレビスからカンビーニ王国の王都カンビーノまでは直線距離でも3000km近いし、双方の半島を周りこむから更に一割か二割は航海する。しかしシルヴェリオは海洋国家カンビーニ王国の実力を示す場と勇み、エレビア王国の第二王子リョマノフも将来の大航海に備えて学ぼうと張り切っている。
双方共に通信筒を持っているから、殆ど毎日のようにシノブには知らせが入るのだ。
「だが、今日はナンカン皇帝との会見だ」
「ええ。せっかくミリィが場を整えてくれたのですから」
シノブが立ち上がると、シャルロットも続く。
これから早朝訓練に朝食、朝議までは普段と同じだ。しかし朝議の後、シノブ達はナンカンに移動する。
まだ非公式でありナンカンで知る者は一部のみだが、アマノ王国の王にして国家間同盟の盟主として赴くから遅れるわけにもいかない。意気込みのためだろう、シノブの足取りは自然と早まっていく。
◆ ◆ ◆ ◆
ナンカンとホクカンを隔てるジヤン川は、中流でも幅20kmほどはある大河だ。したがって流れは緩やかだが、点在する中州に巨大な鰐が棲んでいるから渡航は難しく、漁も岸の近くに限っている。
このジヤンワニと呼ばれる動物は魔獣とされているが、巨大なだけで特別な能力は持っていない。しかし最大で全長10mにもなるというから、大きさ自体が既に脅威である。
そのためジヤン川を泳いで渡る者などおらず、南北の交流も自然と制限される。幸いジヤンワニは子供を含め細い川に紛れ込むことはなく、沿岸の集落でも被害は皆無である。
二日前にホクカン軍が攻め寄せた都市ウーロウもそうだが、川岸の街の多くはジヤン川に流れ込む支流を活用しているし、実際ウーロウとジヤン川の間には田んぼの水路を含め、大小数え切れないほどの流れが存在する。
しかしジヤンワニは子育てをするし群れで暮らすから、子供は親の側を離れず若い個体も遠くにいかない。ジヤン川には巨大魚もおり、小さいうちは彼らの餌食になってしまうからだ。
それ故ウーロウなども農業地帯としては栄えているが、水上交易での利は少なかった。
沖に漕ぎ出せない上に、川岸もホクカン軍の侵攻を恐れて一部しか整備していない。商人達も内陸に設けた運河を選ぶという有様で、ウーロウも都市と称しつつも居住者は五千人程度だ。
カンでも都市は一万人からで、本来ウーロウは町と呼ばれるべきである。これが都市を名乗っているのはホクカンに備えての守護隊を置いているからだが、対岸のホクカンに対する見栄というのが本当のところであった。
常備軍は五百人、ここを超えたら都のジェンイーまで50kmという要地とは思えぬ防備の薄さである。もしかすると代々のナンカン皇帝はウーロウに大して期待しておらず、ジェンイー近くまで誘い込んで叩く考えだったのかもしれない。
しかし今回は皇帝の孫文大がウーロウに滞在しているから別だ。
行幸中で立ち寄った都市を攻められて逃げ出すようでは皇帝失格であると、ウェンダーは初戦も近衛軍を率いて街を出た。実際にホクカン軍と戦ったのは葛将軍達の先鋒だが、街の者達も流石は君主と褒め称える。
更にウェンダーは夜のうちに都へと使者を飛ばし、翌夕には近衛の精鋭が増援としてウーロウに到着する。これには大神殿からの神官兵が同行しており、その中には大神官である願仁もいた。
神官兵達は昨夜の戦いで傷ついた人馬を治癒魔術で治していった。それにウーロウには北の農地を捨てて逃げ込んだ者達がおり、こちらも深夜の避難で多少の怪我を負っていたから同じく治療をする。
しかもユンレンの呼び掛けで篤志家達が支援の物資を持ち込んだから、ウーロウの者達も表情は明るい。
「これならホクカン軍など、すぐに押し返せるさ!」
「いや、物見の兵が言っていたが、ヤツらも船で増援を運び込んだそうだぞ」
「こっちだってジェンイーからの応援が続々と来るじゃないか!」
「そうだ! お前、ホクカンの間諜じゃないだろうな!?」
意気軒昂な者に首を傾げる慎重派、すると更なる反論に加えて敵の扇動だと言い出す者まで現れた。
これには物見の結果を持ち出した男も堪らず、慌てて自分は守護隊の言葉を繰り返しただけと言い訳する。
しかしホクカン軍が兵を送り込んでいるのは事実であった。
この辺りのジヤン川は現在ホクカン側が抑えており、数に差があるナンカンの軍船は接近すら出来ない。ナンカン側も対抗できる水軍を揃えようと上流や海からも船を集めているが、まだ数日は必要なようだ。
そのためホクカン軍が築いた橋頭堡には、ほぼウーロウと同数の兵がいるようだ。つまり予断を許さない状況に変わりはない。
「大丈夫だよ……こっちは都の近衛だぜ? そこらから掻き集めた兵士と違うのは、見れば分かるだろ?」
「ああ。グオ将軍の猛虎騎馬団は、ホクカンの兵達を蹴散らしたんだ。それに神々も助けてくれたようだし……」
「そうさ、だいたいホクカンの皇帝は『神聖皇帝』って名乗ったそうじゃないか。きっと兵士さん達が言ったように天罰が下るよ……」
夕暮れも近い大通りで、街の者達は声を抑えつつも会話を続ける。
彼らは通りを歩む兵士や神官兵へと目を向けていた。煌びやかな近衛軍団の甲冑や手にした大槍、質素な装いだが積んだ修行の深さが窺える挙措の神官達。それらが今の彼らの心を落ち着かせてくれるのだろう。
それにホクカン皇帝の曹紫煌が神をも畏れぬ称号を用いたのも、街の者達にとっては精神を安定させる材料のようだ。
ホクカンが神々の教えに背いたなら正義は我らにあり。こちらの皇帝は大神官が支援しているのだから、どちらに神が微笑むかは明らか。アムテリアは弱肉強食の世として他力本願を戒めているが、それでも戦を目前にした人々からすれば何かに縋らざるを得ないのだろう。
「神官様……」
「貴方達、心配無用です。普段通りに過ごし、自身の出来ることをしなさい。軽挙妄動は神々も戒めるところです」
兵士が頼むと、神官の一人が噂話をする集団へと歩み寄った。そして説法めいた言葉を掛けると、集っていた者達も頭を下げて仕事に戻っていく。
このような状況だからウーロウは文字通り常の数倍の賑わいで、街の北に築かれたナンカン軍の陣地とも大勢が足繁く行き交っている。したがって噂話をする暇があるなら商売にでも精を出した方が、自身の稼ぎも増えるし街のためにもなる。
とにもかくにもウーロウの街は大袈裟に言えば誕生以来の活況を呈している。
そのためか中央の城砦奥で行われたシノブとウェンダーの会見は、意外なほど人目を惹かなかったようである。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ陛下、こちらが我が甥でナンカン皇帝のウェンダーにございます。……ウェンダー、この方こそアマノ王国の王にして十八の国を統べるアマノ同盟の盟主、シノブ陛下です。礼を失することがないように」
畏れも顕わなユンレンの紹介を、ナンカン側の大半は息を呑んで聞くのみだ。
ユンレンは皇帝の叔父だが、神官となってからは政治に口出ししない。しかし今の紹介は明らかにシノブを立てたもので、しかも礼儀を弁えろとまで付け加えた。
このような流れになると思った者は、おそらくシノブと会ったグオ将軍くらいだろう。それに彼の父も多少は教わったのか、平静な様子を保っている。
対照的に目を丸くし顔色を大きく変じているのが、ウーロウ太守の娯仲祥だ。
ジョンシャンは五十前後の押し出しも立派な男で、豊かな髭は普段なら年齢相応の落ち着きを醸し出してくれるだろう。しかし今の面を赤くしたり青くしたりという有様では、どこか滑稽にしか映らない。
もっともウーロウの主といっても皇帝滞在中は場所を貸すだけの存在、この会合はもちろん布陣した軍の指揮権もない。そのため何かを叫び出しそうに大きく開いたジョンシャンの口は、結局一言も発せぬまま閉じられる。
そのため紹介は途切れることなく進められ、シャルロットやアミィにミリィ、シメオンにマティアス、イヴァールにアルノー、アルバーノと続いていく。そう、シノブは伴うと約した者の大半を連れてきたのだ。
宰相ベランジェには留守を頼んだが、代わりに内務卿シメオンと軍務卿マティアスを連れ出した。衣装は双方ともアマノ王国の第一礼装、白の文官服と軍服である。
イヴァールもドワーフ用の白い革製の軍服、こちらは愛用の戦斧を背負ったままだ。なおアルノーとアルバーノも含め、他は小剣を佩いている。
シメオンとマティアスは文武の代表としてシノブの脇に侍し、その周囲を残る三人が固める。ナンカンにドワーフはいないから最も注目を集めたのはイヴァール、しかし剣聖と呼ばれるアルノーもナンカン武人達の視線を釘付けにしている。
一方アルバーノは気配を消しているが、その自然な隠形にグオ将軍などが熱い視線を注ぐ。グオ将軍は先日の陽光仮面がアルバーノと気付いたらしいから、それもあるのだろう。
シャルロットの左右にはアリエルとミレーユ、その脇に常の側近マリエッタとエマが並んでいる。こちらも全て軍服を着用、そのため僅かにいるナンカン側の女性達は何れも美麗な女騎士達を見つめたまま頬を染めている。
シノブとアミィ達もアムテリアから授かった正装だ。しかもシノブは光の神具、アミィは炎の細剣、ミリィは治癒の杖を携えている。
別に争うつもりはないが、全くの初対面だから手を抜かないようにとベランジェが助言したのだ。
「初めまして、私がシノブ・ド・アマノです。この度は多忙中にも関わらずの快諾、感謝しています」
シノブは常と変わらず平易な言葉を用いる。あまり脅すのもどうかと思ったのもあるが、眼前の相手なら充分に通じると感じたからだ。
ナンカン皇帝ウェンダーは虎の獣人だから大柄、年齢は三十九歳でシノブより十九も上である。武術が得意だというだけあり引き締まった体で、更に周囲を圧する風格もある。
しかし今、シノブはウェンダーから穏やかな気配を感じていた。よほどユンレンやグオ将軍が上手く伝えたのか、彼の表情には好意めいたものすら宿っている。
「ご丁寧に痛み入る。このウェンダー、救世主の到来を心から歓迎する」
なんとウェンダーは頭こそ下げなかったが、抱拳礼をシノブに捧げた。これにはナンカン側の多くが驚いたらしく、微かな声が周囲から漏れる。
「救世主……まさか新世紀の……」
「あの伝説は……」
「いや、確かに今は創世暦1002年……新世紀に入ったばかりだ」
新世紀救世主伝説。そのような言葉がシノブの耳にも届いてくる。
そのためシノブは笑みを保ちつつも、最もカンに詳しい筈のミリィへと密かに思念を飛ばす。
──これって君の悪戯じゃないよね?──
──ち、違いますよ~! 新世紀救世主伝説は、昔からカンに伝わるものです~!──
シノブの思念にミリィが心外だと言いたげな応えを返す。すると思わぬところからミリィにとっての救世主が現れる。
──確か今の三国の誕生を予言したっていうヤツだよね~。でもシノブの兄貴が救世主で良いと思うけどな~──
──ミリィ、そういうことは早く報告しなさい──
救世主は姿消しを用いて同行していたシャンジーであった。彼の一言でアミィも納得したらしいが、どうして自分達に伝えなかったのかと苦言を呈する。
──ナンカンにホクカン、セイカンの三つが出来たのは創世暦800年頃、つまり世紀の変わり目だったじゃないですか~。だから三つの国を創った者達が荒禁の乱に終止符を打った救世主っていう伝説です~──
ミリィは既に成就した神託だろうと、報告の対象から除いたそうだ。
確かに創世から千年少々の全てを伝えられては、聞くだけで日が暮れてしまう。それにエウレア地方の各国にも過去には数々の神託があったが、それらの調査をシノブが命じたことはない。
歴史好きなシノブだが、一方で各国が今に伝える逸話を覆すようなことは嫌っていた。伝説には伝説となった理由があるのだから、そこを掘り返すのは悪趣味と手を出さなかったのだ。
「ウェンダー殿、私達の出会いがカンに幸せを齎すようにしたいものです」
「仰せの通り……」
シノブは後で詳しく聞こうと思いつつ、ナンカン皇帝ウェンダーの差し出す手をしっかりと握り締めた。対するウェンダーも顔を綻ばせ、固い握手から抱擁へと移った。
君主達の親しげな様子を目にしたからだろう、双方から自然と拍手が起こる。
何故ウェンダーが、このような破格の対応を示すのか。おそらくはホクカンの侵攻が関係しているのだろうが、それだけだろうか。
幸い続いての会談は場を移し参加者も数名ずつに限ってだから、そこで問えるだろう。それ故シノブは融和の演出に専念する。
つまり二人揃って片手で肩を抱きつつ、残る手を周囲へと振ったのだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年6月23日(土)17時の更新となります。