26.05 守護の剣
イヴァールの館を辞したシノブ達は、再びアマノ号に乗り込んだ。
次の目的地はゴドヴィング伯爵領の領都ギレシュタット、ここバーレンベルク伯爵領の領都シュタルゼンから南西に200kmほどだ。到着まで一時間はあるから、それまで寛ごうとシノブ達は魔法の家のリビングへと向かう。
魔法の家は外から見ると10m四方の平屋だが、建物の内部は少なくとも六倍以上に拡張されている。神具だからと言うしかないが、中は一種の別空間なのだ。
このリビングだけでも元の家全体に匹敵する広さがある。しかし今は乳児のリヒトを含めても十二人しかいないから、テーブルとソファーを三脚出しているだけだ。
ただしシノブ達は椅子に腰掛けるでもなく、その手前で留まっている。それは椅子より床を好む者がいたからだ。
「リヒト~」
「と~!」
屈みこんだシノブが呼びかけると、リヒトは彼に向かって一直線に這い始める。
魔法の家の内部は大よそ半分が土足で入れる石畳の部屋だが、残りは日本の一般的な住居のように靴を脱いで過ごす場となっている。そのためリヒトがハイハイをしようが、汚れる心配はない。
不要なテーブルとソファーを魔法のカバンに仕舞ったから、今日のリビングは広々としている。そしてリヒトは覚えたばかりのハイハイを楽しみたいようで、中に入るなり床に降ろすようにと望んだのだ。
「凄いですね~! アルベルトも鍛えないと~」
「リヒト様は特別だと思うけど……でも、お側に上がるなら並じゃ困るのも確かね」
驚きを顕わにしたミレーユに、朋友のアリエルが笑みを向ける。
六日前、ミレーユとシメオンの間にアルベルト、アリエルとマティアスの間にフリーダが生まれた。当然ながら新生児の二人は寝返りすら出来ないし、連れ出すことも難しいからアマノシュタットで乳母達と留守番である。
しかしリヒトの絆の友として歩むなら、少しでも早くと母親達が意気込むのは無理からぬことだろう。
「マティアス殿、早くハイハイを覚えさせる工夫はありませんか? 代々武官のフォルジェ家には、ありそうな気がしますが?」
「買い被りすぎですよ。せいぜい母親や乳母が手前で励ましたり、ガラガラなどを振って気を惹いたりという程度です」
シメオンとマティアスは、這っていくリヒトを視線で追いながら語らっている。
何か秘策はと問うたシメオンだが、声音からすると冗談半分のようだ。しかし一方では妻と同様に乳児教育から手を尽くさねばと思っているのが明らかで、面には真摯な色も浮かんでいる。
一方のマティアスは、同僚に比べると落ち着いていた。彼は亡き先妻との間に三人の子を成しているから、父親になったばかりのシメオンと違って焦りが少ないのかもしれない。
それにアルベルトは男子だが、フリーダは女子だ。アリエル達のように騎士の道を歩まない限り、普通の身体能力で充分だろう。
「シャルお姉さま、ベルレアン伯爵家には何かありませんの?」
「いいえ。指を握らせたり、足を突っ張らせるために支えたり……どこでもやっていることでは?」
「それとフォルジェ家と同じように、這わせようと促すくらいだそうです。お婆さまも同じことを仰っていましたし、メリエンヌ王国の伯爵家に共通するのかもしれませんね」
リヒトの後方では、アマノ王家の女性達が絨毯の上に腰を降ろしている。
セレスティーヌの実家、メリエンヌ王家は魔術寄りの家系らしい。神の加護を受けた初代や眷属の血を引く二代目を除くと武功を上げた王は稀で、赤子の身体能力を高める術が伝わっていないのも納得がいく。
しかしシャルロットやミュリエルの言葉からすると、少なくともベルレアン伯爵家とフライユ伯爵家には体力増進を意識した教育法があるようだ。双方とも武芸を誇っているし、戦に出る機会も別して多かったからだろう。
「勉強になりますね!」
「姉さんのところも武家だものね。……そういうのがあったら僕も少しは違ったのかなぁ」
狼の獣人の二人、侍女のアンナと少年従者のパトリックが密やかに言葉を交わす。この姉弟はアミィと共に、シノブの側に控えているのだ。
二人はベルレアン伯爵家の家臣の出で、父のジュストはラブラシュリ男爵として王宮の守護隊長を務めている。しかし登用は忠誠心を買われてで、ジュストの武芸は並より少々上といった程度だ。
先代のパトリスも侍従、次代のパトリックも武官より文官に向いているらしい。それにアンナも獣人族にしては珍しく治癒魔術が使えるなど、魔術向きの家系らしくもある。
とはいえアンナが嫁いだのはハーゲン子爵ヘリベルト、武勇で将軍職を勝ち取った男だ。そのため彼女は子が生まれたら実践しようと、シャルロット達の会話に耳を傾けている。
もっとも現在のところアンナに懐妊の兆候はなく、少しばかり気が早い。そのためか、隣のアミィは二人のやり取りを微笑ましげに見守っている。
ちなみに乳母達は隣室、侍女や従者も別の間で休んでいる。
他に親衛隊も同乗しているが、彼らは隊長のエンリオと共に石畳の間だ。今日は合計四時間もアマノ号に乗るから、エンリオは空き時間を配下の訓練に当てたらしい。
シャルロットの側付きの女騎士マリエッタやエマなども加わり、時には甲板も使って腕を磨いている。
「と~!」
「良く頑張ったね! ほ~ら、高い高~い!」
縋りつく愛息をシノブは抱き上げ、ご褒美として掲げながら緩やかに歩く。オルムル達が背に乗せて飛ぶから、リヒトは高いところに慣れているし好きなのだ。
笑顔の父子を、シャルロット達は同じくらい顔を綻ばせて見つめている。
神々の血族という出自に加えて異神達すら倒したシノブだが、素顔は自分達と変わらない。我が子の成長を喜ぶ今の姿が、何よりも確かに示している。
宮殿で働く者達も気さくに声を掛ける国王に最初は驚いていたが、すぐに親しみが勝ったらしい。シノブは家臣達を覚えるように務め、実際に昨日今日働き始めた者でもない限り名前で呼んでいる。それに子を持つ者は『白陽保育園』で親同士としての交流もあり、ますます親近感が湧くようだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……あっ、エンリオ達が走っているよ!」
「え~」
胸に抱え直したシノブが指差すと、リヒトも外に顔を向ける。リビングの正面の窓はアマノ号の前方に向いており、左右には双胴船の前部が見えるのだ。
エンリオは右側の船体の舳先まで行ったところで、彼を先頭に折り返してくる。
走り込みをしている面々は自身に匹敵するくらい大きな背嚢を背負っている。本式の訓練だと全身甲冑を着けてだが、着脱に時間が掛かるからか今日は軍服のみだ。
ちなみに背嚢の重さは成人男性の平均体重の倍以上、しかしエンリオ達は慣れているから平気な顔で走っている。
「ドリアーヌさんも頑張っていますね~」
「辛そうですが、遅れてはいませんね」
ミレーユとアリエルは女騎士の最後尾に目を向けていた。そこには四日前の大武会に出場したメリエンヌ王国の公爵令嬢ドリアーヌの姿がある。
ドリアーヌは真っ赤な顔で息も荒い。加わったばかりの彼女も、他と同じ重さの背嚢を背負っているのだ。
「特別扱いしないと言い渡しましたから」
「私達の従姉妹ですし、仕方ないですわね」
毅然とした様子を崩さないシャルロットと違い、セレスティーヌは僅かに心配げだ。
ドリアーヌはオベール公爵の娘、そしてオベール公爵はセレスティーヌの父アルフォンス七世の弟である。しかもシャルロットの母カトリーヌはアルフォンス七世とオベール公爵の異母妹だ。
つまりドリアーヌはシャルロットとセレスティーヌ双方の従姉妹で、下手な配慮は和を乱しかねない。
親族だから、あるいはメリエンヌ国王アルフォンス七世の姪だからとシャルロット達が手を貸せば、周囲も面白くなかろう。そこでシャルロットはドリアーヌをマリエッタとエマの下に付け、直接の指導を控えた。
これはアリエルやミレーユも同じで、訓練でも容赦なく叩きのめしている。
「う~!」
「またハイハイ?」
リヒトの魔力波動から、シノブは動きたいのだと察した。そこで床に降ろすと、金髪の乳児は先ほどに勝る勢いで這い始める。
「リヒトも訓練ですか……あっ、キッチンはダメですよ!」
「向こうに行きましょうね」
ミュリエルが叫ぶと同時に、アミィがリヒトの側に寄って抱え上げる。
リビングはダイニングやキッチンと仕切りなしで繋がっている。そこでキッチンに入らないようにと、アミィが反対側に向け直して降ろす。
幸いリヒトは素直に従い、彼は入り口側の広く空いた側へと這っていく。
「パトリック!」
「はい!」
今度はアンナとパトリックが先回りし、入り口の前に陣取る。
他の従者や侍女、それに乳母などは呼ばない限り入ってこない筈だ。しかし万一ということもあるから、油断しない方が良いだろう。
「衝立でも置くかな」
「それが良いかもしれませんね」
シノブはシャルロットと笑みを交わす。
ハイハイできるようになったから、今までと違った注意が必要である。それは理解していたシノブだが、今日は多くの目があるから大丈夫だと高を括っていたのだ。
今はハイハイだけだが、つかまり立ちに挑戦し始めると更なる注意が必要だ。
テーブルの上に置いたお茶に触れたり、ペンや紙など小さなものを誤飲したり、目を離したら何が起きるか分からない。幸いリヒトには多くの乳母達が付いているが、シノブは人任せにしたくなかった。
母なる女神アムテリアは、子育ての過程でシノブやシャルロットも成長すると言った。そのためシノブは出来る限り関わっていき、人や王として大切な事柄を学ぶつもりだ。
それらを思い起こしたからだろう、シノブの意識は出産から一週間弱の母親達に向く。
「アリエルとミレーユ、学園は忙しすぎるんじゃないかな?」
「当分はアマノシュタットの分校を担当するそうです」
子供と会いにくいだろうと案じたシノブだが、妻の返答を聞いて再び顔を綻ばせる。
アリエル達はメリエンヌ学園の理事であり教師でもある。そのため身篭る前は一日の大半をフライユ伯爵領にある学園で過ごしていた。
当時の二人は転移の神像を朝と晩に使い、毎日アマノシュタットとメリエンヌ学園の本校を往復していた。しかし本校に赴くのが理事としての仕事のみなら、多くの日は空き時間で家に戻って子供と触れ合える。
「分校の様子を確かめるようにと、リュクペール様と先代様が……」
アリエルは校長と副校長の指示だと明かす。
三日後にアスレア地方の国々は正式にアマノ同盟に加入するが、そうなればメリエンヌ学園の分校も増えることになる。既存の加盟国には全て分校があるし、新規の国々も新たな学習機関には大いに関心を示しているからだ。
そのため二人は現在の分校の視察を兼ね、アマノシュタットで教鞭を執ることになったわけだ。
「子供の側に置く方便でしょうけど~」
ミレーユの言葉に、シノブ達は笑みを深くする。
校長の先代シュラール公爵リュクペールは穏やかな性格、副校長の先代ベルレアン伯爵アンリは二人の師でもある。どちらも気を利かせそうだし、アリエルも否定しないから事実なのだろう。
「授業も専任を持たず、色々と見て回るのみですよ」
「シャルロット様が遠征なさる際は、ぜひ私達にもお声掛けを!」
「分かった、必ず誘うから」
やはりアリエル達もカンに行きたいらしい。そう悟ったシノブは、笑いを堪えつつ頷き返した。
先日ミリィは、ナンカン大神官の願仁に皇帝との仲立ちを頼んだ。
現皇帝の孫文大はユンレンの甥でもあり、場が設けられるのは間違いない。生憎とウェンダーは地方都市の視察中だが、予定通りなら五日後には戻ってくる。
会見のときはシャルロットも伴うつもりだから、そこがアリエル達の最初の出番となる筈だ。それらをシノブは付け加える。
「そのころにはエンナム……ヴェラム共和国の使者も来るかもね」
シノブは向こうにいるマリィからの報告を思い浮かべる。
エンナム王国は王家を廃してヴェラム共和国となったが、誰を代表者にするか揉めていた。しかし統治者不在ともいかないから、二日前に暫定ではあるが初代の大統領が選ばれた。
大統領に選出されたのは、シノブも知っている海軍司令官のコンバオだ。太守達も名乗りを上げたが、武名が高いからか最多の票を得たのはコンバオだったのだ。
ちなみに大統領としているが、これはアルマン共和国の例に倣っただけで今のところ世襲ではない点を除けば王制と大差ない。おそらく制度を定めたら、再び統治者を選定することになるだろう。
とはいえ新たな統治者も定まったことだし、同日中にヴェラム共和国としての使者が各国に旅立った。
ナンカンの都ジェンイーまでは二週間ほどらしく、順当に行けばシノブ達の会見が先になる筈だ。しかし皇帝ウェンダーが向かったのは敵対しているホクカンに近い都市だから、帰還が遅れるかもしれない。
それらをシノブは付け加える。
「また詳しいことが分かったら教えるよ。……おっ、そろそろギレシュタットみたいだね!」
シノブはアマノ号が高度を落とし始めたことに気付いた。
既にエンリオ達は訓練を終えたらしく、甲板は無人である。そして左右の甲板の間には、領都に相応しい大きな都市が広がっていたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
バーレンベルク伯爵領の領都シュタルゼンと同様に、シノブ達はギレシュタットでも簡単なパレードを実施した。
こちらも国王来訪を事前に布告しており、領主の館の周囲は立錐の余地もない混雑だ。それ故シノブ達は、天まで届く歓呼を浴びつつゴドヴィング伯爵家の館へと入る。
そして祝賀のざわめきが消えぬ中、二日前に生まれたばかりの赤子フェリックスが待つ部屋へと入った。
ゴドヴィング伯爵アルノーと妻のアデージュは、双方とも狼の獣人だ。そのため二人の子供フェリックスも頭上に狼耳を持っているし、産着で隠れて見えないが尻尾も備わっている。
獣人は幼いうちから五感や体力が優れているそうだが、フェリックスも同様で外の音が聞こえていたらしい。揺り籠の中で彼はしきりに耳を動かし、目も見開いており黒に近い濃い瞳が明らかだ。
「シノブ様、お願いします」
アルノーは短く言葉を紡ぐと、妻と共に脇に下がる。双方とも軍服姿だから、まるで司令官を迎える士官達のようだ。
実際アルノーは帝国打倒を含む数多くの戦いで別格の功績を残したし、現在のアマノ王国でも有数の武人である。彼はアンナとパトリックの叔父だが、ラブラシュリ家に嫁いだ姉と違って武才に恵まれていたのだ。
もっともアルノーが稀なる武力に開花したのは、今は亡きベーリンゲン帝国に囚われ二十年も戦闘奴隷として過ごしたからでもある。そのため同じく苦渋を味わったメグレンブルク伯爵アルバーノと同様に、彼は自身の過去を殆ど口にしない。
シノブ達が知るのはベルレアン伯爵コルネーユなどから聞いた若き日と、出会ってからの一年半にも満たない期間のみである。
アデージュは傭兵としてベルレアン伯爵領軍に加わった一人で、しかも彼女に身寄りはなかった。そのため指揮官として部下を率いる凛々しい姿しか、シノブ達は知らない。
アルノーとは十五近くも歳が離れており二十代半ばという若さだが、アデージュも歴戦の将と呼んで良いだろう。夫と並んで立つ姿も、将と副官ではなく主将と副将といった雰囲気を醸し出している。
「せっかくだから近くに来て。息子の晴れ姿だよ?」
「ありがとうございます」
「お言葉、感謝します」
シノブが呼び寄せると、アルノーとアデージュは嬉しさが滲む応えと共に揺り籠へと歩み寄る。どうやら二人は、神秘の儀式だから遠慮せねばと思っていたらしい。
「さあ、リヒト。新しいお友達、フェリックス君だよ~」
「あ~!」
シノブが声を掛けると、リヒトは待ち構えていたように『勇者の握り遊具』を差し出した。素早いと表現しても良い動きだけに、神具が発した涼やかな音は室内の隅々まで響き渡る。
同席者はアマノ王家の面々とアミィ、マティアスとアリエル、シメオンとミレーユ、そしてアルノーの親族であるアンナとパトリックのみだ。
神々から祝福を授かる神秘の儀式だけに、むやみに広めるのも問題だろう。シノブとしても、自身の子供とも友誼を結んでくれと人々が押しかける事態は避けたい。
最初はカンビーニ王族のストレーオとミリアーナ、帰国してからベランジェの娘レフィーヌ、先月の下旬にコルネーユの息子達アヴニールとエスポワール。そして三月に入ってからアルベルトとフリーダ、イヴァールの長男アルマス。フェリックスを加えても、九人のみに留めている。
カンビーニ王家は早くから交流させると明言しており、メリエンヌ学園の幼年部で同学年として学ぶのは間違いない。アヴニールやエスポワールも同じだが、遅くとも五歳からはリヒトと身近に接するだろう。
残るは国内の侯爵家と伯爵家だから更に早い。特に王都アマノシュタットに居を構える侯爵家は、『白陽保育園』からの付き合いとなるのが確定している。
メリエンヌ王国の王太孫エクトルはまだだが、六月の建国記念式典で訪れたとき密かに執り行うつもりだ。彼はリヒトの又従兄弟だし、やはりメリエンヌ学園で幼いうちから共に学ぶ筈である。
ちなみにポヴォールに確かめたところ、生後何ヶ月や何年などの制限は無いという。そのためシノブは、よほど近しい間柄を除いてはリヒトが物心ついてからにするつもりだった。
もっともシノブがリヒトの絆の友を思い浮かべていたのは、僅かな間だった。何故ならフェリックスが少々予想外な行動に出たからだ。
「お~?」
リヒトが見つめる先で、『勇者の握り遊具』は赤々とした光を発している。しかし常のように光は四方八方に広がらず、半分近くはフェリックスの顔からの反射である。
そう、フェリックスはガラガラ状の神具を掴むと、咥えたのだ。『勇者の握り遊具』の先は赤子の口に入るほど細くないから、正しくは吸い付いたというべき状態である。
「フェリックス……」
「も、申し訳ありません……」
アルノーとアデージュは顔を真っ赤にしていた。もちろん二人の赤面は神秘の光の反射ではなく、羞恥のあまりである。
「大丈夫、リヒトも毎日のように咥えているから。しかし生後二日だというのに、随分と力が強いんだね」
「ええ、リヒトも驚いているようです」
シノブの隣で、シャルロットも微笑んでいる。
何しろ赤子のすることだし、そもそも新生児には吸啜反射というものがある。これは母乳を吸おうとする動作で、手に触れたものを握る把握反射と同様に原始反射と呼ばれるものの一つである。
「可愛いですね……」
「ええ。こんなに元気なお子ですもの、きっと強く育ちますわ」
ミュリエルとセレスティーヌは、シノブ達の反対側から揺り籠を覗きこんでいる。
両手で神具を保持して吸い付くフェリックスの姿は、まるで哺乳瓶を持っているかのようだ。そのため二人のみならず、囲む者達は一様に顔を綻ばせていた。
シノブも暫しの間、フェリックスの仕草に目を奪われていた。しかし寿ぎをせねばと思い出し、二人が末永く友情で結ばれるようにと祝福と祈願の言葉を紡ぎ始める。
◆ ◆ ◆ ◆
友誼の儀を終えたシノブは、シャルロットにリヒトを預けると居室の脇のソファーへと移動する。
シノブに続いたのは今回も男性のみだ。シメオンにマティアスがシノブの左右、向かい側にはアルノーとパトリックが腰掛ける。
一方の女性陣だが、フェリックスに授乳が必要ではないかと隣室に移っていた。神具への吸い付きが良すぎたから、お腹が空いていたのではと考えたらしい。
「良い跡取りを得て、ゴドヴィング伯爵家も安泰だね」
「ありがとうございます。ですがフェリックスが領主に向いているか……これからは武力よりも治世の才ではないかと」
シノブの言葉に、アルノーは嬉しげに顔を綻ばせる。しかし彼は再び真顔に戻り、我が子が領主に相応しい能力を備えているかは別と続けていく。
確かにアマノ王国が戦乱に巻き込まれる可能性は低く、今後は武より知が必要となるという見方が大勢を占めている。
国内だと武人の活躍の場は魔獣退治くらいで、領主自身が剣や槍を振るうほどとは思えない。軍には治安維持など抑止力としての役目もあり必要不可欠だが、こちらも先頭に立っての指揮など稀だろう。
「私など戦ばかりで、領主としては未熟の極み。未だ家臣達に教わる毎日です」
「ですが叔父上の強さは大きな魅力です。家臣の方々も、叔父上の力になろうと喜んで働いているのではないかと……」
淡々と語るアルノーに、パトリックは反論めいた言葉で応じた。
パトリックはアルノーの武勇に強く憧れているらしい。まだ彼は十一歳だから強くありたいという気持ちは強いだろうし、自身が武人向きではないと察しているのも影響しているようだ。
同年代の貴族や騎士の子と比べたら、パトリックは充分に腕の立つ方だ。しかし周りがシノブ達だから、彼は自身の実力を過小評価しているらしい。
「私より、お前の方がよほど良い領主になるだろう。私の子供達に治世の才がなければ、お前を伯爵にしようと思っている」
「アルノー殿は、パトリック殿を爵位継承者としています。そのためフェリックス殿が十歳を迎えるまで、パトリック殿が第一位継承者です」
アルノーに続いたのはシメオンである。彼が管轄する内務省は、貴族籍の管理もしているのだ。
継承に関する取り決めだが、殆どはメリエンヌ王国の内規をそのまま引き継いだ。ただしシノブは実力がない者が上に立つ事態を避けたかったから、全ての爵位の継承に国王の承認が必要という一文を加えている。
とはいうものの余程のことが無ければ承認するし、赤子のフェリックスを伯爵にするわけにもいかない。つまり現時点でアルノーに何かあれば、パトリックが第二代ゴドヴィング伯爵である。
「まあ、アルノーがどうにかなるとは思えないけどね」
「そうですな! アルノー殿を倒すなど、人だろうが病だろうがあり得ぬこと!」
シノブが杞憂だと切り捨てると、マティアスは即座に大きな声で和した。彼もシノブと同じで、縁起でもない話を続けたくなかったのだろう。
「私も同意します。それにアルノー殿は貴族となって九ヶ月少々、これから統治者として開花するかもしれません。ましてやフェリックス殿の将来に至っては、それこそ神々のみが知ることでしょう」
「アルノー、支えてくれる人がいるのも立派な領主の才だよ。俺は皆に助けられているけど、助けてもらえるだけの何かがあるからと思っている……甘えちゃいけないと自戒してもいるけどね」
珍しく励ますような口振りとなったシメオンに、シノブも続いてみることにした。
ここゴドヴィング伯爵領ではアルノーが頂点だから、周囲に漏らせぬ悩みも沢山ある筈だ。強さで信頼を得ている自分が弱音を吐いてはと、妻と共に頑張ってきたのではないか。
しかしアデージュも伯爵夫人となるまで統治について学んでおらず、二人で試行錯誤を重ねてきたに違いない。
同じ伯爵でも、イヴァールやアルバーノは少々事情が異なる。
イヴァールはヴォーリ連合国の大族長エルッキの息子で、祖父のタハヴォもアハマス族の族長を務めた。世襲ではないが二代も続けて統治に関わっていれば学ぶ機会もあった筈だし、実際にイヴァールは無難に領内を纏めている。
アルバーノは妻のモカリーナの助力が大きいようだ。大商人として複数国家に支店を置く彼女は、並の領主では太刀打ちできない経験の持ち主だ。しかも彼女が扱う商品には米やスパイスなどもあるから、農業についても一通りは理解している。
アルノーも朋友に倣って統治の才に恵まれた夫人を迎えるという手もある。しかし彼は第二夫人を娶るつもりはないと、以前シノブに伝えていた。
次代の担い手なら、姉の子供達のアンナやパトリックもいる。自身の子が伯爵となっても、パトリックが望むならゴドヴィング伯爵付きの子爵として迎えたいと、密かに明かしたのだ。
シノブも嫌なものを押し付ける気はないし、アルノーの望む通りにと答えた。元々現代日本で育ったシノブだけに、無理に一族での統治に拘らなくてもと思ったのもある。
それに優秀な内政官を迎えて子爵にし、先々は子供同士の婚姻で一族としても良いだろう。
「叔父上……フェリックスは立派な領主になると思いますし、続くお子達も産まれるでしょう。ですが何かあったときは遠慮なく私にお声掛けください。そのときに備え、私は陛下のお側で統治の術を学びますから」
「ありがとう。頼んだぞ」
凛々しい顔で宣言する甥に、アルノーは短くも嬉しげな礼で応じた。
もしかすると、アルノーはパトリックに内政官への意識付けをしたかったのでは。彼にしては珍しい弱音めいた言葉も、最初から甥に向けられていたに違いない。シノブは胸中に浮かんできた思いが、おそらく真実だろうと感じていた。
アルノーの顔にはパトリックへの愛情が強く滲んでいる。それは文と武の狭間で悩んだ甥を案じたが故で、自領に引き込もうという利己的な動機からではない。シノブは、そう受け取ったのだ。
「これで私も遠慮なく働けます」
「もしかして、カンに行きたいの?」
意味深なアルノーの言葉に、シノブは先に続くものが何か悟った。
こう立て続けに聞けば気付かない方が不思議だろう。現にシメオンやマティアスも、更なる仲間の登場を祝福するような笑みを浮かべている。
「はい。私が振るうのは守護の剣……シノブ様のため、領内や国内の民のため、そして更なる多くの人々のために。それに命を弄ぶ輩を見逃しては、戦友達に顔向け出来ませんから」
アルノーの声は、決して大きくない。しかし静かな中に秘められた熱き信念は、シノブの心へと強く染み渡っていく。
かつて戦闘奴隷として二十年も束縛された苦渋。解放後に掴んだ大きな喜びと、他にも届けたいという情熱。不幸にも先に倒れていった仲間達への誓い。抑えた声音でも、シノブには充分に理解できた。
「喜んで歓迎するよ。さっきも言ったように、支えてくれる人がいるのは凄く嬉しいことだから……君と俺、そして皆との絆の賜物だからね」
シノブは心に浮かんだことをそのまま表現する。
助け、助けられ。それでこそ仲間というべきだ。独裁を嫌うなら、独走も控えるべきだろう。慕ってくれる人達を無視して動くなど、一介の戦士ならともかく国を治める者のすべきことではない。
禁術使いとの対決を人任せにするつもりはないが、そこに至る道は皆で切り開こう。シノブの宣言に、アルノー達は晴れやかな表情で頷き返した。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年5月30日(水)17時の更新となります。