25.25 父の怒り、父の愛
オーマの木の花粉に錯乱効果があるのは、動物達に受粉の媒介をさせるためだという。興奮状態になった魔獣達が森を駆け巡り、雄花から雌花へと花粉を運ぶのだ。
動物達が葉や若い枝を食べてしまうため、自然の状態だとオーマの木が密集することは稀である。しかも数百年に一度しか花が咲かないから、風の他にも交配する手段を用意したらしい。
つまりオーマの木は、当初シノブ達が想像したような禁術使いが品種改良した植物ではなかった。
ただし『操命の里』などでは予防薬となる草も育てているから、大々的に栽培していた。
葉などから採れる成分は花粉と違い、動物を穏やかにする効果がある。これは使役の対象に食べさせて馴致を容易にしたり医療時の鎮静剤として用いたり、有用な使い道が多数あるからだ。
そしてオーマの木を人工的に増やす場合、接ぎ木や挿し木をする。おそらくカカザン島の森猿スンウ達は、限度を超えて増やしすぎたのだろう。
オーマの木の増やし方を、スンウ達の先祖は操命術士の初代大操から教わったようだ。しかしダーツァオの指導が不完全だったのか、カカザン島の森猿達は制限があると理解していなかった。
「……どうも、こういうことみたいですね」
語るアミィは、どこか安心したような顔をしていた。
先ほどシノブ達は神操大仙こと眷属メイリィに別れを告げ、生命の大樹から地上へと戻った。今は予防薬の試験をしていたアミィと合流し、結果や収集した情報を聞いているところだ。
予防薬の試験は成功、薬を試したエルフの少女美操も健康そのものだ。彼女は『操命の里』の少年少女と集落を巡っている。
それにオーマの木の由来や注意点だけではなく、奪命符の情報も相当集まった。流石は大仙の一派の総本山だけあり、メイツァオ達の『華の里』より秘伝の書も多かったのだ。
そちらは今もメイツァオの父である高操が、他にもないかと書庫を漁っている。奪命符は狂屍術士の技で全容が不明だから、手掛かりは少しでも多くあった方が良いからだ。
「初代ダーツァオは大仙の叱責が身に染みたのでしょう、かなり慎重な性格になったようです。それに高弟から外れた上に栄えあるダーツァオの名を失っても腐らず、里のために尽くしたと伺いました」
「ああ、そうみたいだね」
続けてのアミィの言葉に、シノブは曖昧な言葉で応じた。
この辺りはメイリィも詳しく語らなかったが、おおよそはシノブも察した。そのため隣では一緒に聞いたホリィも苦笑いに近い表情となっていたし、光翔虎のヴェーグも意味ありげに尻尾を揺らしていた。
里の者達はシェンツァオ大仙が眷属に生まれ変わったと知らず、祖霊になったと受け取っているようだ。そのため彼女をメイリィの名で呼ぶわけにはいかない。
もっとも眷属と祖霊の違いは、直接神々に仕えているか否かだけらしくもある。善なる祖霊に限った話だが大神殿などを宿とする者もいるし、そういった場合は神々も彼らを地上の守護者としているからだ。
つまり善き祖霊とは、日本でいう国津神に近い存在なのだろう。そのためシノブは、眷属と祖霊の双方ともに神々を助ける存在として捉えていた。
「ところでアミィ、初代ダーツァオは予防薬や材料の魔法植物を持っていかなかったのですか? カカザン島では目にしませんでしたが?」
「それだけど……渡航するとき草や薬を携えたのは確からしいの。だから三百年の間に災害で失われたのだと思う……証拠はないけど」
興味深げなホリィに、アミィは自信なさげな顔となる。
前半分は里の者達から聞いたからともかく、残りは全くの推測なのだろう。しかし蓋然性は高そうだ。
泳ぎが得意な海猪と浄鰐が減ったから、初代ダーツァオは森猿達を運ぶのを諦めカカザン島に残したという。その際に島で暮らせるように様々な知恵を授けたくらいだから、決して捨て置いたのではない。
つまり島でオーマの木を活用させるなら、予防薬の元となる魔法植物もあった筈だ。おそらくアミィが考えたように、大嵐や大旱魃などの異常気象で予防薬の草が全滅したのだろう。
「オルムル達に聞いてもらおう。明日もカカザン島に行くだろうし、帰ったら頼めば良い」
『ところで兄貴、そろそろ休んでは?』
シノブが帰ったらと口にしたからだろう、ヴェーグが早く戻るようにと勧める。
今はアマノシュタットだと午前二時すぎだ。シノブとアミィはスワンナム地方に来る前に仮眠を取ったが、用事が済んだら一寝入りするつもりだったのだ。
「それじゃ、戻る前にマリィ達に連絡しておくか」
「お願いします。詳しいことはアナムに戻ってから伝えますが、早い方が良いでしょうし」
シノブの思念が届く距離は、眷属や超越種に比べるとは桁違いに長い。そしてホリィは速報だけでもと考えたらしく、即座に頷き返す。
『操命の里』からエンナム王国の北端まで1600kmほど、これはホリィ達の思念が届く距離の十倍を超えるのだ。
──シノブだ! 予防薬の検証は問題なく終わった!──
エンナムの王都アナムのマリィ、そして彼女を支える四頭の光翔虎へと、シノブは思念を送り始める。
予防薬に続いて奪命符の調査状況、それに式神とされた海猪はシェンツァオ大仙の一派と無関係で野生の魔獣らしいことも知らせる。これらはエンナム王国と直接関係するからだ。
四頭の光翔虎、つまりイーディア地方の親世代達はアナムから地方へと向かった使者を追いかけている。これは新たな魔獣使いが地方に潜んでいるかもと睨んだからである。
そして奪命符や海猪などの情報は、追跡担当の光翔虎達にとって大きな意味があるかもしれない。特に都市ホミンに向かったフォーグ、魔獣の海域の近くに行った彼には。
──フォーグ、都市ホミンの辺りの海は魔獣の海域だ! 済まないが海にも寄ってくれ!──
シノブはエンナムの海岸線を思い浮かべる。
エンナム王国は南北に長いが、東は全て海岸だ。したがって領海も非常に広いが、その中で一つだけ魔獣の海域が陸に接しているところがある。
それが都市ホミンの東の海岸で、ここなら海猪を狩れるかもしれない。そこでシノブはフォーグに海岸線や近くを調べてもらい、必要に応じて海竜や嵐竜を呼び寄せるつもりであった。
「それじゃ俺達は戻るよ。ヴェーグは……そうだな、フォーグを手伝ってくれないか? 通信筒も渡しておこう」
シノブは念のために応援を頼むことにした。
『華の里』ではミリィが聞き込みがてら待機しており、彼女とホリィに任せればメイツァオ達の帰還は問題ない。そしてヴェーグがフォーグのところに行けば、思念で伝え切れなかったことも補足してくれるだろう。
「ヴェーグさん、これをどうぞ。使い方は分かりますか?」
『ええ、シャンジーから教わったので! では行ってきます、親父には負けませんよ!』
アミィが通信筒を渡すと、ヴェーグは意気軒昂というべき声を張り上げた。彼はフォーグの息子なのだ。
光り輝く成獣は、早くも空へと舞い上がる。現在地から問題の海域まで700kmほど、光翔虎が急いでも三時間半は掛かるだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
そのころヴェーグの父フォーグは、既に都市ホミン東部の海岸近くにいた。何故なら彼の追跡している使者は、真っ直ぐ王都に帰還せず東へと向かっていったからだ。
使者は南端の都市ホミンの太守に面会し、王都へ武人や職人を送るように伝えた。もちろん彼の独断ではなく、国王ヴィルマンの命令である。
続いて使者は、太守にカイオールという人物の行方を訊くと再びゾウに飛び乗った。そのためフォーグは謎の一端を握っていそうな相手を確かめんと、使者の追跡を再開したわけだ。
しかしカイオールは不在なのか、使者は海に近い町シコンに泊まったのみだ。明けての今朝も、使者は何かを待つように動かない。
そのためシノブの思念を受けたとき、フォーグは辛抱強く空の上で待機していた。この辺りは『放浪の虎』などと名乗る息子のヴェーグと大違いだが、成体になって二十年程度の若造と六百年ほども生きているフォーグを比べるのは失礼というものだ。
──やはり、カイオールという者が関わっているのだろうな──
フォーグもシコンの町の東が魔獣の海域だと気付いていた。シコンの上空からは海も充分に望めたのだ。
この辺りは海岸にも魔獣が現れるから、漁師はいないし船で旅する者もいない。それをエンナム王国は逆手に取って都市ホミンやシコンの町などに金を落とさせた。
ルゾン王国など南の国々は、エンナム王国の陸を通らないとダイオ島やカンに渡れない。しかし他の地方からの産物は高く売れるから、暴利を吹っかけられてもホミンやシコンで北の品々を買い求めた。
中には高い関税を取られても陸路を旅し、更にエンナムの船に目の玉の飛び出るような乗船料を払って自ら現地に赴く豪商もいるくらいだ。
そのためマリィを含め、エンナム王国がシコン付近の魔獣の海域をわざと放置していると考えていた。しかし、ここが式神にした海猪の故郷でもある可能性は非常に高そうだ。
もっともシコンの町からだと海猪など目に入らず、せいぜい人間の大人くらいの海獣が現れる程度だ。幾らなんでも小屋ほどもある大型魔獣が現れるようでは恐ろしくて住めないだろうから、これは当然である。
──海猪を狩る者が潜むとすれば沖の島々か? ……しかし使者から目を離すわけにもいかぬ──
超越種の思念が届くのは150kmほど先までだ。そのためフォーグの言葉は、先ほどと同様に単なる呟きである。
通信筒の数は限られているし、年長の超越種ほど神具の貸与を畏れ多いと断った。
例えば光翔虎なら普通に一日を飛び続けても時速150kmほど、急げば更に三割少々を上乗せした速さで長時間を飛翔できる。そのため今回フォーグ達は、何か報告することがあれば使者が熟睡している夜半に王都アナムの側まで戻り、マリィへと伝えるつもりであった。
実際シコンの町や通過した都市ホミンは王都から350km以内だから、少々急いで往復二時間を費やせば充分に連絡できるのだ。
しかし今のフォーグは、シノブやマリィに現状を伝えられたらと思ったらしい。彼の独白には、僅かだが焦りめいたものが滲んでいたのだ。
──フォーグ、そちらにヴェーグが向かっている! 通信筒も持たせた!──
──流石は『光の盟主』。ならば、このまま暫く待つとしようか──
老練なだけあり、フォーグは単独で解決したいなどと考えてもいなかったようだ。彼は息子の到着を心から喜んだようで、満足気に喉を鳴らした。
シノブはアミィと共にアマノシュタットに帰還するという。しかしヴェーグが来れば海と陸の双方を見張れるし、通信筒があれば連絡も楽になる。
しかし事態はフォーグの予想よりも早く動き始める。
──あの男、禁術使いなのか?──
フォーグが視線を向けた先には、人族の青年がいた。明らかに他より多くの魔力を備えており、禁術か否かはともかく魔術師と考えて良さそうだ。
使者が泊まっているのは町長の館だ。ここは公館でもあり多くの役人が勤めているし、滞在用の部屋も多数ある。
もしかすると、昨夜帰宅した役人の誰かが連絡したのだろうか。あるいは館の庭に揚がっている旗などが召集を伝える合図なのか。
ただし親世代だけありフォーグは泰然としたままで、腕輪の力で普通の虎ほどに大きさを変えつつ緩やかに降下していくのみだ。現れた男が何者にしろ使者に会いに行くだろうし、それなら見張れば良いと思ったのだろう。
実際、青年は使者のいる部屋に通された。そして二人は随分と時間を惜しんだらしく、挨拶もせずに言葉を交わし始める。
「カイオール殿の?」
「はい。師は沖に出ております……お急ぎでしたら案内いたしますが?」
使者の問いに、魔術師らしき青年は静かに応える。
青年はカイオールではないが、弟子の一人のようだ。それに魔獣の海に出るというのだから、やはり何らかの術を使えるのだろう。
この様子をフォーグは館の外に潜んで聞いていた。片方は魔術師らしいから、彼は部屋に入るのを避けたのだ。
シコンの町は北緯21度ほど、二月下旬の朝でも気温は20℃近い。そのため建物は茅に似た植物で葺いた屋根に通気性の良い大窓を備えた壁と、防音性は低かったのだ。
敷地は高い塀で外と隔てられ見張りの武人を要所に配しているから、使者や青年も安心しきっていたのだろう。とはいえ二人は充分に声を抑えており、超越種の鋭い耳がなければ聞き取れないほどではあった。
それはともかく二人は連れ立って外出し、更に青年の手下らしき男達が操る船で魔獣の海に乗り出していく。町から離れた人の寄り付かぬ場所に、隠し港があったのだ。
これをフォーグは姿消しを使ったまま追跡していく。彼も息子のヴェーグの到着を待ちたいだろうが、千載一遇の機会を逃すわけにはいかないと動いたのだ。
もっともヴェーグが近くに来れば、思念を飛ばして呼べば良い。それなりの大きさの船だが、地球の東アジアのジャンク船のように細い竹を通した縦帆は、二枚とも10m四方を下回る。
良い風に恵まれたようだが、船の速度は光翔虎の飛翔に比べたら十分の一にも満たない。ヴェーグは都市ホミンを目指すだろうが、到着したころでも充分に思念が届くだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
出港から二時間半ほど経っただろうか。使者と青年を乗せた船は、既に陸も見えぬ遠くへと移っていた。
青年は嫌気の術を心得ているらしく、魔獣は現れぬままだ。この手の術は双方の力量で結果が変わるから、青年が優れた魔術師であるのも確かだが近海故に大物がいないのだと思われる。
船も危険な海域を避けているらしく、北に寄ったり南に戻ったりと不規則な蛇行を繰り返す。船乗り達も慣れた様子で、青年の指示を聞くまでもなく帆を操っていた。
──むっ!?──
鋭い思念を発すると、フォーグは空へと昇っていく。
ヴェーグは前方に別の船を発見した。そこで見やすい場所に移ろうと、彼は高度を上げたようだ。
船の周囲を多くの海猪達が取り巻いている。
どうやら海猪の集団は、二つの群れが入り混じっているらしい。数は双方合わせて十数頭、しかも長大な爪を振るっての死闘である。
謎の船に近い群れは成体だけなのか、どれも同じような大きさである。というより不自然に揃いすぎているから、式神の可能性が高そうだ。
もう一方は同程度の体長6mほどから人間の大人と変わらぬものまでと様々で、野生の海猪らしくある。つまり、式神を使って海猪を狩っているらしい。
──ヴェーグ、早く来い!──
幸い高度を充分に取ったから、強い思念を発しても大丈夫だ。そこでフォーグは、かなりの魔力を込めて息子ヴェーグへと叫ぶ。
優れた魔術師や特別に鋭敏な武人なら、思念を発したときに生じた魔力波動を感知する。そのため内容までは理解できなくとも、警戒される恐れがある。
どうも船の舳先近くにいる老人が術士らしく、彼に気付かれるわけにはいかない。もし奪命符が仕掛けられていたら、せっかくの手掛かりを失ってしまうからだ。
しかし今の高度なら、都市ホミンまで届く強烈な思念を発しても感知は難しいだろう。
──親父!?──
遥か遠く、おそらくは思念が伝わる限界近くから微かな応えがあった。
しかしフォーグは返事を待たず、矢のように海上へと向かっていく。それも常や長距離飛行の数倍、まるで転移したかのような急降下である。
今からヴェーグが駆けつけても間に合いはしない。そのためフォーグは呼びかける以上のことをしなかったのだ。
──子供まで……許さん!──
襲われている海猪には、まだ爪が短い幼獣も混じっていた。
海猪の成獣は四肢に長大な爪を持ち、それらの長さは人間の背に匹敵する。しかし幼いうちは乳を飲んで育つから爪も可愛いもので、指先から僅かに覗く程度である。
しかし式神らしき魔獣は、身を守る手段もない幼獣にすら容赦しなかった。
──ええい、死んでも構わぬ!!──
一か八かと思い定めたのだろう、フォーグは海すら震えるような魔力波動で催眠の術を行使した。そのため謎の船どころか、使者と青年の乗った船まで全ての人間が倒れ伏す。
もちろん催眠で人が死ぬことはないが、奪命符が仕掛けられていた場合は無事とも限らない。しかし今すぐ制止しなければ、襲われている海猪は全滅してしまうだろう。
そこでフォーグは幼子の命を優先した。超越種も成体になるまでは魔獣を食べるが獲物は成長した個体のみ、しかも命を繋ぐために避けられぬ行為だ。
仮に命を落としたなら、それは式神に変えて魂を弄んだ報いだ。いっそ冥神ニュテスの腕に抱かれて、正道へと立ち返れ。
フォーグの圧倒的な魔力波動からは、命の尊さを知り世界を守る超越種の慨嘆すら聞こえてくるようであった。
──片付いたか──
襲っていたのは、やはり式神であった。既にフォーグは全ての式神を輪廻の輪に戻し、海上に浮かんでいるのは切り裂かれた残骸のみだ。
船は二つとも近場に寄せ、碇を降ろして留め置いている。こちらは全員が生きており、今も催眠の術で眠っている。
しかしフォーグの眼差しは、そのどちらにも向いていない。およそ体長6mほど、命を落とした者達と同程度の大きさに変じた彼は、更に小さな者達を見つめている。
それは黒々とした毛皮の海獣、つまり海猪の子供達だ。
海猪は、確かに猪を思わせた。太い体に猪首、そして先端が平たい鼻を持っており成長すると口から短い牙も突き出る。毛皮の色は親も子供も黒、短い毛並みも良く似ている。
ただし耳介、つまり頭から張り出した集音のための部分はなく耳の穴も途中で塞がっている。イルカなどと同じように骨伝導によって音を感知しているのだろう。
そして最大の違いは蹄の代わりに長い爪があることだ。間に水掻きの膜があるのも異なるが、一見して目立つのは、やはり長大な爪だろう。
もっとも爪が伸びるのは大きくなってからで、フォーグの前にいる三頭に戦う手段など存在しない。
──この子達のみか……もう少し早く着けば──
「プギュ……」
「プグゥ~」
「プギュ、キュ~」
海面スレスレに浮かんだフォーグは、悲しげな思念と共に三頭の海猪を見つめていた。海に浮かんで見上げているのは全て幼獣、おそらくは乳を必要とする小さな命達ばかりである。
もちろん小なりといえど巨大魔獣の子だから、体重は大柄な男性すら超えているだろう。しかし親を失った今、生き続けることすら危うい。
幼獣の父母を含む群れは、どうも三組の家族だったようだ。
海猪は『猪』の字に反して多産ではなく、通常は一頭しか産まないらしい。つまり生き残った三頭は兄弟姉妹ではなく、別々の番の子だと思われる。
おそらく海猪の成獣達は、子供を守るために必死に戦ったのだろう。命を落とした巨獣達は、全て数え切れないほどの傷を負っていた。
そして何とか子供達を守り通した代わりに、彼らは命を落としたのだ。
──海竜殿に頼もうか……しかし乳が必要だろう──
偉大なる種族にも不可能なことは幾らでもある。
光翔虎は哺乳類に該当するが、雄のフォーグに授乳は不可能だ。それに他は竜に朱潜鳳に玄王亀だから、雌であっても乳が出るわけはない。
「プグ~! グ~!」
子の一頭が、海上に突き出していた顔を更に上げる。
お腹が空いているのだろうか、それともフォーグを父母の代わりと定めたのか。今のフォーグは彼らの父母と代わらぬ大きさだから、後者の可能性もあるだろう。
──済まぬな……ともかく今は我に縋るが良い──
光翔虎は水浴を嫌うが、フォーグは構わず海中に入った。すると三頭の幼獣は何れも彼の下に潜り込んでいく。
どうやら授乳を望んでいたようだ。しかしフォーグはもちろん、彼の番ファンフがいたとしても無理である。
フォーグ達の子はヴェーグと妹パルティーの双子のみだ。
しかしパルティーは二百二十歳と成体にしては若く、まだ番を得ていない。釣り合う相手としては最近まで囚われの身であったドゥングがいるが、まだ仲が発展するほど会っていなかった。
何しろイーディア地方の光翔虎は大半が出払っており、ドゥングやパルティーには留守を預かる役目もあるからだ。
他の光翔虎達も同様で、授乳期の者はいなかった。光翔虎の子が乳を飲むのは僅か三ヶ月ほど、彼らの千年近い寿命からすると極めて短い間のみだ。
「キュ……」
──『光の盟主』に頼み、海猪を飼う者達に預けるからな。だから、もう少しの辛抱だ──
浮かび上がってきた子供達に、フォーグは顔を寄せる。しかし暫しの後、彼は空の一点を見つめた。
視線の先には、全速力で飛翔するヴェーグがいた。速度は最低でも普段の倍以上、魔力の全てを振り絞っているのか姿消しすら使わず流星のような輝きと共に一直線に向かってくる。
◆ ◆ ◆ ◆
ヴェーグは貰ったばかりの通信筒を早速使った。
シェンツァオ大仙の一派には、その名も『海獣の里』という海辺の集落がある。魔獣の森がそのまま魔獣の海域に面している場所があるのだ。
そこに早く海猪の子供達を連れていきたいが、せっかく捕らえた者達を放置するわけにもいかない。
まずヴェーグはスワンナム地方担当のマリィに相談した。そして彼女の指示通り、父と共に海猪の子供達と二つの船を近くの海岸に移した。
そしてマリィが魔法の幌馬車の呼び寄せで王都アナムから転移し、更にシノブとアミィを含む一団をアマノシュタットから連れてきた。
「シノブ様、朝早くから済みません」
「いや、もう起きていたから問題ないよ。それに充分休めたし」
たった四時間弱で呼び戻したこともあり、マリィは気まずそうな顔だった。しかし既にシノブ達は居室に移り、『操命の里』のことをシャルロットやタミィに話していたところだ。
現在エンナム王国は真昼近く、つまりアマノシュタットは朝六時前である。大抵シノブ達は朝五時半に起床して六時から早朝訓練、七時から朝食という流れなのだ。
「シノブ様、催眠の術の引き継ぎ終わりました!」
「捕縛も完了しております」
アミィに続き、親衛隊長のエンリオが状況を伝えた。
エンリオの後ろでは、三十名ほどの隊員が船に乗っていた者達を担ぎ上げている。このままアミィが術を維持して暫くは眠らせ続け、奪命符を検知できないか試すのだ。
符が仕掛けられているとすれば、式神を操った老術士と魔術師らしき青年だろう。しかし他も逃したらエンナム王国に気付かれるから、全てを拘束することにした。
「アミィ、エンリオ。後は頼む」
シノブ達に見送られ、アミィと親衛隊の一団はアマノシュタットに引き上げた。
そこでシノブは海猪の子供達へと振り向いた。するとマリィが海猪の世話を始めていた。
「シノブ様、『操命の里』で聞いたことが早速役立ちましたわ。ご覧の通り、元気良く牛乳を飲んでいます」
「それは良かった。でも本来より薄いから、これだけにすると駄目なんだって。だから早く『海獣の里』に連れていこう」
笑顔のマリィに、シノブは歩み寄っていく。三頭の子供達は、大きなタライに入れた牛乳を一心に飲んでいるのだ。
──お前達、立派な海猪に育つんだぜ? なんてったって、この『放浪の虎』さんが助けてやったんだからな!──
──全く……お前は後から駆けつけただけだろう──
「プギュ?」
父子の思念が聞こえたのではないだろう。しかし海猪の子は、何かを感じたように顔を上げた。
元々動物達は僅かな仕草で意思を交わす。そのためフォーグとヴェーグの動作や喉を鳴らす音から、意思を読み取れるのか。シノブは、円らな瞳をした海猪の子を見つめ続ける。
「プキュ! キュ~!」
「お、おい! 俺も乳は出ないぞ!」
「きっとシノブ様の優しさを感じたのですわ」
勢い良く飛びついた子を、シノブは慌てて抱き止める。幼獣といっても人間の大人より重たいから、気を抜いたら押し倒されてしまうのだ。
「キュ~!」
「キュキュ~!」
残り二頭も嬉しげな声と共にシノブに顔を寄せていく。優しさか分からないが、何らかの好意を感じているのは間違いないだろう。
──兄貴、可愛い弟や妹が出来ましたね!──
──そうするとヴェーグ、お前の弟妹でもあるな。つまり我の子供達ということだ──
楽しげなヴェーグ、満更でもなさげなフォーグ。どちらも海猪の子と共にシノブを取り囲んだ。
「この子達のためにも、式神使い達から真実を聞き出すよ。もちろん、せっかく捕らえてくれた君達のためにもね」
シノブはマリィの文に書かれていたことを思い浮かべていた。
老術士の懐には、既に魂が篭められた符が十枚以上も入っていた。今回の航海なのか不明だが、彼は多くの魂を日常的に自身の道具としていたのだ。
それらは二頭の光翔虎が破ったから、既に魂達は解放された。しかし同じような術士が魂を道具に変えているかもしれないし、そういった者達が海猪の魂を集めてエンナム艦隊の護衛としたのではないだろうか。
つまり使者は、失った分の式神を寄越せという命令を伝えに来たのだろう。そして命令を発したのは、使者を出したエンナム王ヴィルマンだ。
もはやヴィルマンが魔術師かどうかなど、些細なことだろう。式神製造に大きく関わっているのが明らかである以上、元凶を排して更なる悲劇を防ぐべきだ。
つまりヴィルマンがエンナム国王である限り、対決は避けられない。
「でも今は『海獣の里』だ!」
「ええ、お願いします。私はアナムでホリィと共に、ヴィルマンの監視を続けますわ」
シノブが声を張り上げると、マリィが笑みと共に賛同する。
これからマリィは王都アナムに戻り、残る者達はシノブの連続転移で『操命の里』へと向かう。そこで『海獣の里』への案内役を付けてもらい、海猪の子供達を同族のいる場へと送り届けるのだ。
「さあ、行こう! 君達の仲間が待っているよ!」
「キュ~!」
「プキュ~!」
「キュッキュ~!」
シノブがヴェーグ達を示すと、海猪の子供達は光り輝く虎達に向かっていく。そして伏せた親子の背に、三頭は先を争うようにして収まった。
もちろんシノブも彼らに続く。そしてシノブ達はマリィの笑顔に見送られ、真昼の蒼穹へと舞い上がっていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年4月4日(水)17時の更新となります。