25.07 ナンカンの都 後編
ナンカンの大神殿を訪れたシノブ達は、予想外の成り行きで大神官の願仁と会うことになった。
聖堂でシノブ達が参拝したとき薫風が吹き込んだが、それは相当の修行を積んだ者しか感じ取れぬ神秘の風だった。そして感知できた鉄斉は、稀なる吉兆を大神官へと知らせたようだ。
ユンレンは現ナンカン皇帝の文大の叔父だけに不用意な接触を避けたかったが、高位神官のテーチーが深く尊敬する人物でもある。そこでシノブは面会に同意し、一行はテーチーの先導でユンレンの住まう奥の院へと移る。
奥の院も中華風の建物だが、壮麗な聖堂とは違って普通の家と変わらぬ程度の庵と周囲に庭があるだけだ。
とはいえ庭も丹精込めて世話した草木が美しいし、磨き上げられた飛び石や白く輝く砂利も毎日の手入れのほどを窺わせる。それに庵自体も瀟洒な造りで、趣味の良さを引き立てていた。
そのためシノブだけではなく、続くアミィ達も感嘆の表情となっていた。
先行調査担当のミリィは鷹の姿で空から眺めたのか驚きも僅かだが、アミィは嬉しげに顔を綻ばせている。ここに住む者なら澄んだ心の持ち主に違いないと安堵したのだろう。
ソニアとミケリーノの姉弟も、東洋風の庭園に目を奪われている。ここジェンイーは暖かく二月前半の今でも梅の花が紅白いずれも咲き誇り、足元では水仙なども満開なのだ。
アミィとミリィは虎の獣人に変じ、ソニアとミケリーノは色合いこそ替えたものの元の猫の獣人だ。そのため歩む四人の後ろでは、細い尻尾が上機嫌に揺れている。
「どうぞ、お入りください」
扉を開けたテーチーは、中へ進むようにと促す。ヤマト王国と違ってカンでは殆どの部屋を履物のまま使うから、シノブ達は言われるままに歩んでいく。
次の間への扉は開いており、椅子から立ち上がる老人の姿が目に入る。テーチーと同じような袈裟状の外衣を纏った彼こそ、大神官のユンレンであろう。
甥の皇帝ウェンダーは虎の獣人だが、ユンレンは人族であった。カンの神官は頭を剃り上げるから分かりやすい。
ただしユンレンは結構な長身で体格も良く、頭が顕わになっていなかったら獣人族と間違えそうだ。しかも背筋は真っ直ぐ伸び、カンで盛んな神官武術を習得していると思われる。
「史武殿でしたね。お初にお目にかかります、ジェンイーの大神官ユンレンと申します」
聖者と言うべき澄んだ瞳の老人は手前まで歩んでくると、シノブに向かって深い礼をする。その様子からすると、相手が単なる商人ではないと気付いているのは明らかだ。
「初めまして。実はユンレン殿……私はシノブという名で、遥か西から来た者です」
これなら伏せる必要もないと判断したシノブは、本名を明かし変装の魔道具も解く。
人払いをしたらしく、奥の院の敷地内から感じるのはここにいる者の魔力のみだ。それに名を伝え素顔を見せたところで、アマノ王国やエウレア地方を知らないカンの人々に真実を知る術はない。
そこでシノブは、思い切って踏み込むべきと判断した。
「シノブ様、お明かしくださり大変光栄です。もちろん他言しませんので、ご安心を」
「ご配慮感謝します」
落ち着いた様子を崩さないユンレンに、シノブは神託があったのかと思いを巡らす。眼前の老人は変装に驚いたようで一瞬目を見張ったが、後は一国の神官を統べるに相応しい平静さを保っていたのだ。
「私はアミィ、こちらでは愛美という名を使っています」
「私は迷鈴ことミリィ、アミィの同僚です~」
アミィ達も元の姿に戻り、本名と仮の名の双方で挨拶をしていく。
どうやらアミィやミリィもユンレンを高徳の神官と認めたらしく、神の眷属とは明示しないものの隠していた魔力を普段の状態に戻す。
残るソニアやミケリーノに魔力の変化はない。しかし二人も本来の髪や瞳の色、そして西洋風の容貌となったから随分と印象が変わる。
「こ、これは……」
「テーチー殿、今まで隠して申し訳ありませんでした」
驚くテーチーにシノブは詫びる。
ただの商人ではないと思っていたらしいテーチーも、まさか姿を変えていたとは思い至らなかったのだろう。アミィ達が自己紹介する間も、彼は目を白黒させていたのだ。
「テーチー、貴方も中に入りなさい」
「は、はい……失礼します」
ユンレンの言葉で、テーチーは我に返ったようだ。彼は入り口の扉に駆け寄って閂を掛けると、奥の間との境の戸も厳重に閉めた。
その間にシノブ達は、奥の間の中央に置かれた長方形の卓に着いた。
奥も手前と同じ石畳だから、重厚なテーブルを囲むのは同じく良く磨かれて黒光りする椅子である。椅子は背もたれが格子状に細工された東洋風の品で、客用だからか華麗な刺繍の座布団まで置かれている。
扉と反対側の壁の上には扁額、その下には三つ掛け軸が並んでいる。上の額には『慈愛光明』と書かれているから光の神であるアムテリアを称えたものだろう。下は神官への戒めなどを、草書のような達筆で書き連ねている。
そして掛け軸の下には七つの神像が並んでいる。聖堂のものと同じ、どこか仏像に似た姿のアムテリア達の木像だ。
大神官の住まいとはいえ飾り立てることはないらしく、他の三方は物を置いていない。神像も丁寧な造りだが片手で持ち運べるほどの大きさで、主の地位を考えれば素朴と表現して良いほどである。
「テーチー、お茶を」
ユンレンは落ち着いて話をと思ったのか、テーチーに茶の準備を命じた。そして彼はシノブ達の反対側に腰掛け、話を待つように穏やかな表情を向ける。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブは自分達がカンの外から来た者だと伝えたのみにした。
エウレア地方どころか手前のアスレア地方すら知らない人達に、アマノ王国のある場所を理解してもらうのは大変だ。カンの人々が知るのは南方のスワンナム地方、かなりの知識人でも海を越えたアコナ列島やヤマト王国の存在までという。
東南アジアに相当するスワンナム地方は陸続きだが、ナンカンの南にある大森林には魔獣が多く、通常は海路で渡るしかない。そして沖縄に相当するアコナ列島との間にも魔獣の海域があり、カンを含む大陸からすると気楽に行ける場所ではなかった。
更にスワンナム地方の西にあるイーディア地方だと伝説の域、ましてやカンの最西端に聳えるファミル大山脈の向こうにアスレア地方があるなど想像の遥か外である。
それらをシノブはユンレンと交わした言葉で察し、先々の正式訪問まではと伏せた。これからの予定もあるから、なるべく簡潔にと思ったのもある。
「実は私達と交流のある国に、カンの禁術使いが現れたのです。幸い私達が倒しましたが……」
「こちらの書物にも記された狂屍術士の大角と弟子の小角です」
シノブとアミィは、スキュタール王国に潜んでいた禁術使いについて語っていく。
ダージャオ達が五十年ほど前までカンにいたと言ったこと、彼らが生身を捨てて鋼人に乗り移っていたこと。その他、カンを探るべきと思うに至った諸々である。
続いて南に逃れた操命術士にも触れる。大勢の森猿達を率いてスワンナム地方を越えて更に他の地方に渡った一派が、大神殿の書籍にあった大操ではないかという推測だ。
それらを聞く間、ユンレンとテーチーは無言であった。
ユンレンは思い当たることがあるのか、険しくも静かな表情だ。一方テーチーは初めて知ったと言わんばかりに目を丸くし、何度か声を上げそうになったくらいである。
そしてシノブ達が語り終えると、ユンレンは深刻な表情のまま口を開く。
「ダージャオ達……そして彼らが祖師と崇める神角大仙は、荒禁の乱が収まったころに北へと向かったそうです。現在のホクカンに当たる地に入ったのは間違いありませんが……」
何故かユンレンは、途中で言い淀む。言おうか言うまいか悩んでいるのだろう、顰めた眉には彼の苦悩が宿っているようだ。
「まだホクカンに留まっている者達がいる……しかし確証はない。そうですね?」
「可能性でしかありません。ただ、北に向かわれるときは充分に注意なさってください。何しろ相手は輪廻の輪を乱す存在……神々の定めに真っ向から反する者達です」
シノブの推測に、ユンレンは明確な回答をしなかった。しかし気をつけろというのだから、大神官も禁術使い達の一派が北の隣国にいると思ってはいるのだろう。
シノブは頷きつつも、大神官が暗示したことに考えを向ける。
シェンジャオ大仙と彼の一派は、ホクカンの中枢部に食い込んでいるのでは。それならユンレンが明確な指摘を避けたのも理解できる。
何故ならナンカンとホクカンは対立しており、小康状態を保ってはいるが交戦中には違いないからだ。
もしユンレンが神託を授かるほどであれば政治と距離を置く筈で、自身の言葉で神の使徒を味方にするなど良しとしないだろう。ならば無理に聞くまいと、シノブは重ねての問いを避けることにした。
「操命術士についても教えてください~」
ミリィも大神官の胸中を察したのか、次なる話題に移った。
ナンカンはカンで最も南にあり、隣接するスワンナム地方との交流も多い。それに南緯15度ほどのカカザン島に適応した森猿スンウ達の先祖が、冬になれば雪も降る北方の出身とは考えにくい。
つまりスンウ達の先祖は、ナンカンの南に広がる大森林の出身ではないだろうか。ならば彼らを使った魔獣使いも、この辺りで生まれた可能性は高い。
「操命術の使い手達……神操大仙と弟子達はスワンナム地方に渡ったと聞いています。彼らは荒禁の乱を嫌って静かな地を求めたのです」
ユンレンによると、操命術士の主流は穏健な者が多かったようだ。中には乱に加わった者もいるが、どうも一部の過激派のみらしい。
それにシェンツァオ大仙は狂屍術士のシェンジャオ大仙と並び立つ伝説的な術士だが、目指すところは大きく異なったという。
先ほどユンレンは狂屍術士を『輪廻の輪を乱す存在』と明言したが、操命術士を同類と断罪しない。この地の神官達の認識だと、後者は一律に禁術使いと括る対象ではないのだろう。
「静かな地……」
「シェンツァオ大仙が操命術を編み出した理由は、魔獣との共存にあったそうです。強大だからと敵視せず、共に生きる術はないか。同じ場で生活できなくとも、穏便に去ってもらえないか。それが当初の目的だったとか……」
思わず呟いたシノブに、ユンレンは大きく頷き返した。
少なくとも初期の操命術士は、動物を思いのままにする者達ではなかった。シノブは森猿のスンウ達がカカザン島に連れてきた魔獣使いを慕っていたことを思い出す。
スンウ達が先祖から語り継いできた通りなら、魔獣使いは森猿達を暮らしやすい島に留めるなど気遣いもしたらしい。
「……そして創始者の博愛の思想と苦難の末に得た成果を称え、集った者達が大仙と呼んだそうです」
ユンレンは大仙を流派の祖としての尊称だと続ける。
通り名も実力に応じた選択で、『神』や『大』などは同門での階級を表しているのだろう。つまりシェンツァオ大仙が操命術士を率いて南に行ったなら、残ったのは破門された弟子や傍流ではないか。
「すると葛将軍や先祖達は?」
アミィは現在もナンカンに残る魔獣使いの一族に触れた。
穏健な主流派が南に隠れたというなら、グオ一族は傍流の好戦的な一派なのか。彼らは虎や狼の群れを率いて戦に出るというから、シェンツァオ大仙に破門された者達でも不思議ではない。
「アミィ様、グオ将軍は……」
「テーチー! シノブ様、どうか御自身の目でお確かめください。ただ一つ、彼らが残ったのはシェンツァオ大仙の指示でもある……そう先代から教わりました」
何かを言いかけたテーチーを、ユンレンは素早く遮った。やはりユンレンは、シノブ達に予断を与えたくないらしい。
◆ ◆ ◆ ◆
大神官ユンレンは幾つかの事柄について明言を避けたが、それは政治への関与を嫌ったからで確かなようだ。彼は甥である皇帝にもシノブ達の訪れを伝えないと誓ったし、調査の支援もするという。
そして支援の一つとして、シノブが演じる商人シーウーは大神殿の御用商人に認定されることになった。ここジェンイーに来た今日いきなりでは怪しいから、認定は現在の鑑札の期限である一週間後だ。
また認定と同時にシーウー達は大神殿の宿泊房に移る。ここにも別格の客人を泊める離れがあり、そこを一つ借り切る形だ。
他の手出しが出来ない拠点に加え、大神殿の御用商人となれば宮城近くへの馬車の乗り入れや剣や槍の所持も認められる。それにジェンイー以外も同様、ナンカンの全てを自由に行き来できる。
こうなれば更なる諜報員をシーウーの使用人として呼べるし、シャルロット達を連れてくるのも容易だ。それにシノブは自分達で確かめたかったから、この方が都合よい。
「御用商人なら、大抵の難を逃れられるでしょう。大神殿の出す免状は都を始め出入り自由、入市税を取られることもありません」
「兵士さんへのお礼も無しですか~?」
免状について語るテーチーに、ミリィは婉曲的な表現を用いつつ問うた。どうも彼女は、城門で賄賂を取っていると伝えて良いか迷ったらしい。
「はい。付け届けなども不要です」
「物事を円滑に運ぶための方便ですが、最近は行き過ぎもあるようですね。嘆かわしいことです」
テーチーやユンレンの様子からすると、彼らは賄賂を知りつつも許容範囲と捉えているらしい。ユンレンが憂えたのも過剰な要求に関してで、金品を包む行為自体ではないようだ。
──街も商業が盛んなようだし、これも文化の一つかな?──
──おそらくは……アムテリア様達は各地の個性を大切にしていらっしゃいますから──
シノブの思念に、アミィは言葉を選びつつといった調子で応じる。
なおシノブ達は思念を使えると伝えなかったが、魔力波動に気付いている筈のユンレン達も触れはしない。どうやら二人は、神の使徒なら当然と受け止めたようである。
「地方には盗賊などもいると伺いましたが?」
「魔術師も賊に混じっているのでしょうか?」
今後の調査に有用な情報を得ようと思ったのだろう、ソニアとミケリーノも会話に加わる。二人はミリィと共にカンに残るから、街道が安全か気になるに違いない。
シノブとアミィ、そして宿で留守番しているエンリオは今日のみでアマノ王国に引き上げる。そっくりの木人に光翔虎達が憑依するから戦力は充分だが、妙な技で目立っては諜報どころではない。
そのため可能な限り通常の戦闘で片付けたいが、魔術師が現れてはそうもいかない。
「魔術師を抱えた盗賊は、まずいないでしょう。荒禁の乱の反省から、厳密に把握しておりますので」
「テーチーの言うように、国に仕えるか神殿に入るか……。全ての子供は十歳のとき、魔力量を調べるのですよ」
二人によれば全ての魔術師は国の管理下に置かれるようだ。他より良い暮らしは出来るが、職業は指定のもので移動も制限されるという。
もちろん制約を嫌って隠す者もいる。しかし国が金を惜しまずに作り上げた感知の魔道具は非常に高性能で、しかも十歳以降は定期検査もあるから誤魔化すのは極めて困難らしい。
「やっぱり武人……この場合は拳法家かもしれませんが~。そういえばユンレンさんも相当な使い手ですよね~。出来ればナンカンの拳法を見せていただけないでしょうか~?」
「仰せとあらば……」
ミリィの願いに応えるべく、ユンレンは立ち上がる。
もちろんシノブ達も続く。ソニアとミケリーノは今後の参考になるだろうし、シノブとしても興味があったのだ。
ユンレンの先導で、一同は奥の院の裏庭に出る。どうやら裏庭はユンレンの修行用らしく、表の庭園とは違い剥き出しの土が広がるだけの素っ気ない場所だ。
目立つものといえば、両端に数本ずつ立てた拳打の修練に使うらしき巻き藁くらいである。
袈裟状の外衣を取ったユンレンは、作務衣のような前合わせの上と細い筒裾の下の組み合わせだった。大神官でも身の回りのことは自分でするというから、こういう簡素な衣装になるのだろう。
そんなことを考えていたシノブだが、直後のユンレンに少々驚くことになる。
「それでは、ナンカンの神殿に伝わる拳法……『南都神殿拳』を」
中央に進み出たユンレンは一礼し、演武に入る。そして彼が両手を広げた独特の姿勢から怪鳥のような叫びと共に腕を振ると、隅に立てられた巻き藁の一本がスッパリと切れる。
ユンレンは超高速の動きで強烈な衝撃波を放ち、真空斬りを実現した。そして彼は突きや蹴りなどで、同様の切断技を続けていく。
──その……これもポヴォールの兄上が授けたのかな?──
──ここジェンイーはナンカンの都……つまり南の都ですからね──
──百八の技があるとか~。ちなみに最初は虎襲拳っていう技です~──
シノブの驚きを隠しつつの思念に、アミィは何とも言えぬ調子で応じた。するとミリィは、どこか得意げに語り始める。
今のように複数の国に分かれる前、カン帝国の時代から現在と殆ど変わらぬ拳法があった。そのころジェンイーは南の副都と呼ばれ、こちらで編み出されたものを南派拳法あるいは南都拳法などと呼んだという。
当時から神殿は拳法の中心で、神官達が伝える正統派を『南都神殿拳』と称した。つまりアミィの推測は外れではないが、完全に当たりでもなかったのだ。
「神殿は虎襲拳などを門外不出としていますが、荒禁の乱より前は外に漏れたと言います。何しろ当時は神官が人々を救いに赴くことも多く、奥義を使わざるを得ない場面も多々あったとか……」
テーチーは苦渋と言うべき表情をしていた。
神官達は不殺を基本とするが、子供の救出などで刀槍にも勝る秘技を出すしかないときもあったそうだ。そして神官達の参戦が重なると、外部に伝わってしまった技も多いという。
優れた武人であれば見ただけである程度は真似るが、目撃者の全てを口封じするわけにもいくまい。その結果、今でも神殿武術の劣化版というべき技を使う者がいるのだ。
「劣化版ですか……」
「あれほど凄まじい技ではないのですね?」
ソニアは呟きに安堵を滲ませ、ミケリーノは明らかにホッとした様子で笑みを浮かべる。あのような達人が出てきたら、と二人は想像したようだ。
何しろユンレンは、十歩以上も離れた標的をいとも簡単に両断した。これでは水弾などの魔術や武器の投擲で対抗するしかないが、それらも熟練者なら真っ二つにするだろう。
「もちろんです。大神官様は持てる技を余すところなく示していらっしゃいますが、それはシノブ様達の御前だからです。盗賊などは少しだけ……指の長さほどを挟んだ先の肌を裂く程度でしょう」
テーチーの言葉を信じるなら、少々間合いに気を付ける程度で済む。そう思ったのだろう、ソニアとミケリーノは、大きく顔を綻ばせていた。
◆ ◆ ◆ ◆
意外な武芸に驚いたシノブ達だが、大きな成果もあり深い満足感と共に大神殿を去る。そして一旦宿に戻り、今度は光翔虎のヴェーグがシノブとアミィ、そしてエンリオを乗せて宙に飛び出した。
もちろんヴェーグは姿消しを使っており、ジェンイーの住民達が騒ぐことはない。それに宿では三人と瓜二つの木人に、シャンジー、ヴァティー、フェイジーの三頭が憑依して代役を演じている。
「農民は働き手を軍に取られているようですな……」
「明らかに成人男性が少ないね」
後ろで呟くエンリオに、シノブは下を眺めつつ応じる。
飛翔するヴェーグの背からであれば、村や農地の様子も一目瞭然だ。それにシノブの魔力感知でも、大人の男性が少ないのは明白であった。
見た限りだと、農民の貧困は最大の労働力を奪われて生産力が低下したからだと思われる。
農村が崩壊するほどではないが、十代後半から三十前までの男の多くが不在では大打撃だ。少なくとも作付けを減らしたのは確かで、所々に耕作を放棄した農地が散らばっている。
「お金があれば徴兵を……って言っています。稼ぎの多い人は徴兵を逃れているのでしょうか?」
シノブの前でアミィが呟く。彼女は三人の中で最も耳が良いから、地上の声を聞き取ったようだ。
『そういえば昔、これで軍に行かなくて済むって喜んでいた人が街にいましたよ。確か、お金より命が大切だ、とか』
ヴェーグは十数年前に立ち寄ったときの一件を紹介する。彼は一年ほどをカンで過ごしており、ここの暮らしを断片的だが知っているのだ。
「無理な徴兵は好ましくありませんが、相手がいることですから……」
「ああ。この国だけ兵を減らしたら、残る二国が攻めてくるだろう」
悩ましげに言葉を紡ぐエンリオに、シノブも同じくらい重たい声を返すしかなかった。
三国の争いが続く限り、この光景も消えない。いや、更に酷くなるかもしれない。
徴兵された者を故郷に帰すには戦いを終わらせるのが一番だが、そのような大変革は容易に起きないだろう。とはいえシノブ達は介入できるほどカンを詳しく知っていない。
何しろ最初の一国、ナンカンですら調査を始めたばかりだ。
「とりあえず、魔獣使いのグオ将軍を確かめよう」
『分かりました! 短気は損気、兄貴は暢気って言いますからね!』
新たな行き先を告げるシノブに、ヴェーグが彼の好きな地口めいた言葉で答えた。
ヴェーグはヤマト王国に長くいたこともあり、こういった物言いを好む。しかし今は単なる冗談ではなく、沈んだ空気を変えようとしたようだ。
物好きで腰の軽そうなヴェーグだが、およそ二百二十年も生きた立派な成体の超越種でもある。そのことを示すように、彼は軽やかに青空を駆けていく。
グオ将軍の屋敷の場所はユンレンに教わったが、聞かなくても簡単に発見できただろう。何しろ宮城に次ぐ広さだけあって、上空からであれば間違えようもない。
しかも200m四方はある敷地の大半を使役獣のための小屋や運動場に充て、他とは全く違う。人が住むための区画は全体の十分の一程度、残りの全てを虎と狼の場所としていた。
大神殿にあった伝記の通りなら百頭近い動物がいる筈だ。グオ将軍伝によると、彼は特に優れた五頭の虎を五虎将と呼び、それぞれに五頭から六頭を付けているらしい。同じく狼にも十狼将がおり、こちらも同数の配下を率いるという。
それだけの大型動物を飼育しているなら、これでも手狭ではないか。少なくとも野生の虎や狼では争いが起きるに違いない。
もっともシノブ達が目にしたのは、そんな予想とは正反対の光景であった。
「ほら、お前達! たっぷり食えよ!」
「慌てないで! いつも通り沢山ありますから!」
「じゃれつかないで~! それに舐め回すのもダメ~!」
伝記ではグオ将軍のみが餌を与えるとしていたが、数が数だから実際には家族総出らしい。将軍らしい偉丈夫が当主の師諭、他の数人は妻や子供達のようだ。
グオ将軍達は、大きな桶から何かに浸して変色した肉を取り出しては動物達に食べさせていく。どうも与える量が決まっているらしく、彼らは拳ほどもある塊を数えながら食べ終えたかも確かめている。
そして囲む虎や狼は、素直にグオ一家を待っている。ねだるように身を寄せる個体もいるが、大きさを別にすれば飼い主と愛玩動物のような微笑ましい光景である。
「これは……良き交流ではありませんか」
『あの変な魔力が込められた餌のせいだって!』
思わず漏れたらしいエンリオの一言に、ヴェーグが素早く反論する。
発声の術を使っていてもヴェーグの憤慨は明らかだ。そのためエンリオは、失言したと言いたげな表情で口を噤む。
狼はともかく、虎は光翔虎とそっくりな外見だ。もちろん普通の虎は飛べないし姿消しも使えないが、自分の似姿のような生き物が囚われたら誰だって良い気はしないだろう。
「ともかく、あの餌を手に入れよう」
シノブは短距離転移を使い、餌の一つを手元に呼び寄せる。ただし選んだ先は桶や手の中ではない。
掴んだ餌を転移させたらグオ将軍達が気付くし、数えているから桶の中も駄目だ。塊の一部のみを切り取るにしても多すぎれば露見は確実、かといって少なすぎれば検査できない。
そこでシノブが選んだのは、既に虎が食べた餌だ。転移の精度は壺の中に詰まった紙束から一枚を抜き取るほどに向上しており、胃の中から回収するなど造作もない。
「ほぼ丸呑みだから原型のままだね」
「とりあえず、ここで簡単に調べます」
シノブは餌の表面のみを残して転移させたが、念のため浄化の魔術で綺麗にする。そして後ろに向き直って待ち構えていたアミィは、肉塊を挟みこむように両手を翳して魔力を探り始めた。
「……はっきりとは言えませんが、これは能力向上を目的とした餌のようです。体を強くしたり魔力を溜めやすくしたり……心を操る効果はありません」
『悪い薬じゃないのですか!?』
アミィが口にした効能は、ヴェーグにとって意外なものだったらしい。彼は動物達を意のままにする、麻薬のようなものを想像していたのだろう。
「虎や狼は効果を理解していないでしょうし、その意味では悪い薬ですね。相手の意思を確かめず、勝手に強くしていますから。ただ、そうなると馬などの家畜も同じです」
「ヴェーグ、この餌は持ち帰って充分に調べるよ。だから彼らを見張っていてくれないか?」
アミィなら間違いないだろうと思ったシノブだが、ヴェーグの気持ちを考えて柔らかな表現で提案する。
先ほどシノブが餌を奪った虎は再びグオ将軍に擦り寄り、将軍は別の桶に入れていた魔法薬抜きらしい肉塊を追加として与えている。言葉は通じないが、そこには双方の愛情があるようにシノブは感じていた。
おそらく虎や狼は、自身の意志でグオ一家の側にいるのだろう。しかし確かな証拠もなしに決め付けるのは、光翔虎達に失礼である。
そこで詳しく調べてからでも遅くはないと、シノブは断定を避けた。
『……分かりました! しっかり見張ります!』
地上を眺めていたヴェーグは、悩みを振り切るように顔を上げた。そして彼は一直線にジェンイーの外に向かっていく。
これでシノブとアミィ、エンリオの三人はアマノシュタットに帰る。次に来るのは検査結果が出たときか、カンに大きな動きがあったときだろう。
どこか惹かれる東洋風の街をシノブは目に焼き付けるが、それは僅かな間であった。一刻も早くと思ったのだろう、ヴェーグは全力で蒼穹を飛びぬけたからだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2018年1月31日(水)17時の更新となります。