24.31 王太子と競馬 後編
スキュタール王国の王太子カイヴァルが、競馬の予想屋に扮していた。ミリィが示した意外な内容に、天幕にいた者達は驚きの声を上げる。
しかし、どよめきは僅かな間で収まった。続きを聞きたく思ったのだろう、ナタリオ達は興奮冷めやらぬ顔のままミリィを見つめる。
「あの予想屋さん、お客さんがカイヴァル殿下の話をしたら表情が動きました~。それに馬の調子の見方とか唐突に話し始めましたし~」
ミリィはナタリオ達より先に競馬場に来ていた。そのとき彼女は予想屋の不審な行動を目にしたのだ。
賭け事をする人々だから、カイヴァル発見の褒賞にも強い興味を示す。多くの予想屋達も客に同調し、商売の邪魔にならない程度に付き合った。しかしカイヴァルが扮した予想屋は、露骨に話を変えようとした。
伸ばしに伸ばした蓬髪と髭で容貌を隠しても、種族や体格までは誤魔化せない。そして布告には捜索対象の特徴も記されているから、客が気付く可能性も高い。
そこでカイヴァルは話を戻したのだろうが、一瞬だけ苦々しげな素振りをした。それをミリィは見逃さず、更に観察を続けたという。
「元からカイヴァル殿下は髭を伸ばしていましたが、あんなに凄くなかったそうです~。きっと国を脱してから、一度も切っていないのでしょうね~」
「仮に九月上旬なら、もう五ヶ月近いですからね」
ミリィは詳しく語らなかったが、ナタリオは納得したようだ。彼はアマノ王国の伯爵で、しかもミリィが来た当時から知っているからだろう。
「騎馬民族の王太子だけあって目利きも達者、予想が当たるわけです」
「役人の監視がある騎手より、予想屋で稼ぐ道を選んだのですね……」
アルバン王国の王太子カルターンや、ここタジース王国の外務大臣の娘シェイーラも重ねて問うことはない。どちらも既にミリィのことを聞いており、只者ではないと理解しているからだ。
残る二人、ガラーム・ベフジャンと馬場の役人は黙したままだ。
騎手として働いていたガラームは国際情勢に疎いだろうし、しかも彼は先ほどナタリオの庇護下に入った。そのため彼は出しゃばる真似はすまいと思ったようだ。
馬場の役人も似たようなものらしい。確かに国賓達や重臣の娘の会話に加わるなど、一役人としては躊躇するだろう。
「カイヴァル殿下は見つかりたくない……そうすると少々面倒ですね」
「その辺り、まだなのです~。皆の前で聞いたら怒りそうですからね~。でも今日の競馬は終わりみたいですし、そろそろ良いかと~」
ナタリオの懸念に、ミリィは縞模様の尻尾を振りつつ応じた。今日の彼女は虎の獣人に化けているのだ。
「では参りましょう。ガラーム殿は……」
「特例として外出を許可します! それと明日の出走から外しますので!」
カルターンが顔を向けると、すぐさま役人は応じる。
タジース王国では、騎手の不正を避けるために外部との接触を制限している。騎手と家族は役人達の管理下に置かれ、一区画に纏まって住んでいるのだ。
しかし要人達に逆らうのを恐れたようで、役人は呆気なく外出を認めた。
「感謝します。……ではガラーム殿、一緒に」
「はっ!」
振り向いたナタリオに、ガラームは深々と頭を下げた。
ナタリオはガラームを庇護下に置くとき、カイヴァル捜索への協力を条件とした。しかしミリィが見つけたから、ナタリオは解決への助力を代わりとしたようだ。
おそらくナタリオは、無条件に手を差し伸べてもガラームの自尊心を傷付けると考えたのだろう。
「助かりますね~」
ミリィも反対しなかったから、ガラームは刀を佩いて荷物を手にしナタリオ達に続く。そして役人は彼らの背後で、役目を終えたと言わんばかりに顔を緩めていた。
「予想屋ですが、何という名前でしょう?」
「マンヴァルです~。たぶん万馬券からですね~」
カルターンの問い掛けに、どこか楽しげな表情でミリィは応じた。彼女は冗談や駄洒落を好むから、カイヴァルに親近感を覚えたのだろう。
「城壁外に用意した仮住まい……そうですね?」
「はい。旧テュラークからの脱出者ですので……」
シェイーラの問い掛けに、合流した護衛の戦士が言い訳めいた言葉を返す。どうも彼は外国の要人達を気にしたらしく、ナタリオやカルターンの背へと視線を動かしていた。
ただしナタリオ達も当然の措置と受け取ったようで、表情を動かさない。
テュラークの戦から三ヶ月半、直前の混乱を含めても四ヶ月少々だ。したがって警戒が続くのは仕方ないし、急なことだから受け入れ態勢を整えるだけでも一苦労である。
それに難民にはガラームのような元戦士も多く、扱いには注意すべきだ。そこで当面の住まいとして王都の脇に専用の居留地が用意された。
冷たいようだが一般的な措置で、ナタリオもメリエンヌ王国とベーリンゲン帝国の戦いで目にしている。それにアスレア地方でも歴史を紐解けば幾らでもあることだから、カルターンにも気にした様子はない。
「あちらが居留地です」
先導の戦士が示す方向、かなり遠くに丸太の防柵があった。
柵は高さが大人の背の倍近くもあり、丸太の上端は槍の穂先のように尖って物々しい。とはいえ、これは居留地だからというわけではない。
この世界には魔獣がいるから、全ての町村は防柵を備えているのだ。
それに難民達が現れた当初は、彼らに仕事を提供する意味もあった。今は街道整備や港湾施設の拡充などが中心だが、自身の居住地整備は一石二鳥の良策として難民達にも歓迎された。
「浄化の魔道具もありますから清潔ですし、タジクチクは暖かいので急ごしらえの木造でも快適だと思います。もっとも王都の中には敵いませんが……」
自国の名誉を思ったようで、案内の戦士は充分な配慮をしたと並べ立てる。
実際タジース王国は、良くやっている方だろう。眺める限りでは普通の村と変わらないし、建造から四ヶ月程度だから柵や家も新しい。
王都の住居には及ばぬというが、予算や場所も有限である。それに長年王都で暮らした民からすれば、新顔が優遇されすぎたら面白くない筈だ。それらを考え合わせると、小屋のように狭くても家族ごとに一軒を割り当てている現状は妥当な範囲だと思われる。
◆ ◆ ◆ ◆
近づくまで時間があるから、ナタリオ達は雑談しながら馬を進める。話題は当然と言うべきか、新たに加わったガラームについてだ。
「ガラームさんが騎手を選んだのは、お子さん達が小さかったからですか~?」
「実は三人もおりまして……しかも一番下の子は二歳と幼く、妻も働けませんので」
問うたミリィに、ガラームは恥ずかしそうな物言いで事情を明かしていく。
ガラームはテュラーク軍で伝令を務め、しかも彼を含むベフジャン支族では有数の乗馬自慢だった。そのため馬に関わる仕事に就くのは自然だが、制限の多い競馬の騎手を選んだのは一人で稼ぐためだという。
不自由の代わりに、騎手は王都内部に用意された専用の区画で暮らせる。基本給だけでも他の何倍にもなるし、入賞時の褒賞も高額だ。
制限を嫌って大抵は数年で辞めるが、伝令兵や大商人お抱えの御者など転職先にも事欠かない。既に三十半ばのガラームだと軍人はないだろうが、それでも裕福な商人や牧場主に拾われたら一生余裕を持って暮らせる筈だ。
幸いガラームがタジクチクに着いたのは早く、そのころは騎手の空きもあった。そこで建設に着手したばかりの居留地よりはと、束縛の多い道を選んだわけだ。
「役人達も細かいことは聞きませんでした……騎手として閉じ込めるためかもしれませんが」
「経過観察という側面はあったかと。外で働く者達にも監督官を置いています」
ガラームの想像は当たっていたらしく、シェイーラは大きく頷いた。まだ彼女は十三歳だが外務大臣の娘だから、難民対策の内情も聞き及んでいるのだろう。
テュラーク王国の後継であるズヴァーク王国が誕生して二ヶ月ほど、既に混乱は収まり帰還した者も多い。つまり今でも残っている人々は、何らかの理由で帰りたくないのだ。
そういった者に旧体制の武人が多いのは明らかで、戦闘経験が豊富な彼らを普通の民と一緒に働かせるのも物騒だ。そのためタジース王国は、一箇所に集めての力仕事など管理しやすい作業を割り当てたわけだ。
現に居留地へと戻る者達も集団で、彼らを先導するのは監督官らしい。
「おっ、ガラ……カーヴァムじゃないか! もう騎手を引退したのか!?」
集団の一人がガラームに呼びかける。本名を言いかけたところからすると、テュラーク王国時代からの知り合いなのだろう。
遠くの街道敷設にでも行ったのか、彼は他の者と一緒に荷馬車に乗っていた。そして残りの面々もガラームやナタリオ達へと顔を向ける。
「戦士団に拾われたのか!?」
「運が良かったな!」
難民の男達はガラームが新たな就職先を見つけたと思ったようだ。ナタリオ達は下級戦士に扮しているから、地方の守り手にでも引き抜かれたと受け取ったのだろう。
「ああ、乗馬の腕を認められてな!」
一方のガラームだが、男達と話を合わせることにしたらしい。とはいえ満更でもなさそうな顔からすると、このままナタリオの配下に加わりたいのかもしれない。
「知り合いにでも伝えに来たのか?」
「その通り……そうだ、予想屋のマンヴァルの家を知らないか? この国に入るとき世話になったんだ」
併走する荷馬車から投げかけられた問いに、ガラームは何気ない様子で答えた。しかし彼の目は僅かに鋭さを増し、ナタリオ達も耳を欹てる。
「へえ……意外な縁があるものだな。まあアイツなら、そういうこともあるか」
「あれで世話好きだからな……中央の少し奥だよ。有名人だから道々聞けば大丈夫さ!」
予想屋という職業に加え、マンヴァルは蓬髪に伸ばし放題の髭と人目に付く風体だ。そのため答えた二人だけではなく、他の男達も承知しているようで首肯や補足をする。
「ありがとう! それじゃ先に行かせてもらう!」
「達者でな!」
馬を急がせるガラームに、荷馬車の上から男達が手を振り返す。
こうして予想屋マンヴァルこと、スキュタール王国の王太子カイヴァルの住居は簡単に掴めた。そしてナタリオ達は日暮れ前に彼の家に辿り着く。
マンヴァルの家は、他と同じ簡素な木造の小屋だった。窓は板戸、煮炊きも裕福な家とは違って魔道具ではないらしく脇には薪の束が幾つも積まれている。とても王太子と妻子が暮らす場所とは思えないが、ここでは他に合わせるしかないだろう。
もっとも家の主が気にする様子はないし、それどころか馴染んでいた。建て付けが悪いらしい扉を蹴飛ばして閉める姿など、子供のころから繰り返したとしか思えないほどだ。
「この俺が!? 冗談はよそうや!」
「予想屋と掛けるとは、やりますね~。王子だけあって見事な応じ方です~」
笑い飛ばす男に、ミリィが感心したような顔を向ける。もっとも彼女は後列に控えており、声が届かなかったようで返答はない。
先ほどから予想屋は、はぐらかすばかりで自身が王太子だと認めない。ぼろが出るのを恐れたのか妻子は家の中に留めたまま、それに言質を取られるのを避けたらしくタジース王国に入った経緯も必死だったから覚えていないと繰り返すのみだ。
「皆が待っていらっしゃいます。従兄弟のパムダル殿も……」
「人違いだよ! そろそろ食事だ、迷惑だから帰ってくれないか!」
ナタリオは説得を繰り返すが、相手は他人だと主張するのみだ。カルターン達も翻意を促そうとするが、埒が明かない。
そうこうするうちに周囲から人が集まる。通りは狭く家屋も密集しているから、声が届かぬわけもない。
「マンヴァルさんは嫌がっているじゃないか!」
「どこの者だか知らんが、放っておいてくれんかね!」
事情を知っているのか定かではないが、居留地の住民達は揃って庇いたてる。ついには割って入り、近づくことすら許さない。
「……失礼します」
こうなってはナタリオ達も退くしかない。
嫌がる者を連れ帰っても、重責を担えないだろう。これだけ慕われるなら統治者の才もありそうだが、意欲がなければ国が乱れる。
それに説得するにしても、嫌がる理由を知らねば話にならない。そう思ったのだろう、カルターン達も反対することなくナタリオに続いていく。
◆ ◆ ◆ ◆
「貴方……戻らなくて良いのですか?」
家に入った予想屋に、中にいた狐の獣人の女性が声を掛けた。質素な服を着ているし化粧もしていないが、元からの美しさが補って余りある麗人だ。
歳のころは三十過ぎ、側には十歳か過ぎた程度の人族の少年と狐の獣人の少女がいる。子供達も服こそ簡素だが、女性と良く似た整った容貌は生まれの良さを感じさせる。
「我が身や家族を守るため国を捨てたのは事実……それにパムダルなら立派な王になるさ」
落ち着いた物言いは、予想屋マンヴァルの剽げた口調と大違いだ。やはり彼はスキュタール王国の王太子カイヴァルだったのだ。
狐の獣人の成人女性はカイヴァルの妻メフルナ、少年は息子のティルームで少女は娘のリーミアである。なおリーミアが姉で十二歳、ティルームは十歳だ。
「お前を王にしたくはあるが……」
「父上を差し置いて王位に就けません。それに、ここの人々に尽くすのも尊いことです」
「ティルームの言う通りです。お父様の思うようになさってください」
肩に手を置いたカイヴァルに、ティルームとリーミアは笑顔で応じた。
大人びた口調は王族としての教育からだろうが、僅かに無理しているようでもある。どちらも故郷に戻りたい気持ちより、悩める父の後押しを優先したのだろう。
それはメフルナも同じらしく、二人の子供と共に夫に寄り添った。
暫しの間、カイヴァル一家は無言で互いを抱きあう。しかし四人の声なき交流は、扉を叩く音で中断される。
「マンヴァルさん! これをどうぞ!」
「おお、果物か! 仕事先で貰ってきたのかな?」
近くに住む少年が差し出したのは、小振りのオレンジだった。それをカイヴァルは大切そうに受け取る。
「うん、果樹園! いつもお世話になっているから……」
少年はティルームより僅かに年少だが、それでも簡易な仕事なら充分できる。そこで今日の彼は農園で収穫の手伝いをしたわけだ。
「ボクも貰ってきたよ! この間のお礼!」
他にも多くの子が続き、たちまちカイヴァルの腕の中は一杯となる。
カイヴァルは稼ぎの多くを周囲の住人達に渡していた。病を得た者や幼い子を抱えて働けない者に、彼は僅かだが足しにしてくれと配っていたのだ。
「テムル、リーア、頂き物だ!」
商品にならない小玉ばかりだが、数が多いから抱えきれないほどだ。そこでカイヴァルは子供達を呼ぶべく、二人の偽名を叫ぶ。
「テムル君、リーアちゃん!」
「あのね、テムル君達とも一緒に行ったんだよ!」
「そうか……」
囲む子供達にカイヴァルは目を細める。伸ばし放題の髪と髭で顔の大半は隠されているが、声や雰囲気からは彼が喜ばしく思っているのは明らかだ。
そのためだろう子供達は今日の出来事を楽しげに語り続け、彼らは夕食が出来たと呼ばれるまで輪を崩さなかった。
その様子を、小屋の上で一羽の鷹が眺めていた。もちろん鷹は本来の姿に戻ったミリィだが、流石に気付く者はいない。
そしてミリィは一部始終を聞き終えると、夕暮れで赤く染まった空へと飛び去っていく。
「とまあ、こういうわけでして~」
「やはり殿下は居留地のために尽力なさっているようです」
王都中央近くの迎賓館に戻ったミリィは目にしたこと、ガラームは旧友を訪ねて聞き込んだことを語る。
予想屋マンヴァルと家族に何かあるのは、多くの者が察していた。競馬場で会うだけならともかく近所の者達までは誤魔化せないし、妻も子供達のために私塾を開くなど高い教養を示していたからだ。
そして昨日のカイヴァル捜索の布告で、彼らの正体に気付いた者もいた。
「このまま見守れないのかと言う者もおりました」
「多額の賞金があるのに黙っている……相当に慕われているのでしょうね」
内心複雑らしくガラームが重々しく結ぶと、負けず劣らずの浮かない顔でカルターンが応じた。
カイヴァルの居場所を知らせた最初の者は、普通の家族が数年を暮らせるだけの褒賞を得る。もし役所まで送り届けたら、更に数倍である。後者はともかく前者なら、今の居留地に可能な者は多数いる筈だ。
「……最低でも要人として保護すべきでしょう」
ナタリオの言葉に多くが頷く。
もし誘拐でもされたら。子供を盾に脅したら、傀儡政権の黒幕となれるかもしれない。
スキュタール王国の再建にはシノブも関わっており、多くは彼を恐れて手を出さないだろう。しかし一人の愚か者がいれば、そして失敗に逆上して子供達を害したら。その可能性を否定できる者はいなかった。
「ですが護衛に囲まれて居留地に住むのは~。きっと周りも引きますよ~」
「仰せの通りかと。……我が国としてはお帰りいただくのが一番、逗留の場合は王宮の賓客として遇したく思います」
冗談めかしたミリィに、対照的な恭しさで応じたのはタジース王国の国王シャマームだ。まだ三十を幾つか過ぎたばかりの若い王は、シェイーラと彼女の父の外務大臣を従えている。
「お言葉、もっともです。それにカイヴァル殿下は従兄弟のパムダル殿を王にとお考えのようですが、それでは納得しない者が多いと聞いています」
ナタリオにはシノブからの続報も入っている。そのため彼はスキュタール王国上層部の反応を詳しく知っているのだ。
「王宮に御招待し、お心を動かすべきでは? あるいは書状で故国の状況をお伝えしても……」
「どうも国を脱したのを恥じているようで~」
外務大臣のディーザヴは説得を主張するが、ミリィの返答に顔を曇らせた。
禁術使いのダージャオ達に対抗するなど、よほどの魔術の使い手でも不可能だ。しかも相手は宰相となり国王も鋼人として支配したから、真っ向から立ち向かうのも難しい。
そのため脱出は無理からぬことだが、落ち延びて平気でいられるかは別だ。おそらくディーザヴは、そう思ったのだろう。
「シャマーム陛下、私に考えがあります。私とカイヴァル殿下に勝負の場を……」
沈黙を破ったのはナタリオだ。そして彼はタジース王国の主に自身の考えを伝えていく。
よほど意外な内容だったのか、カルターン、シェイーラ、ディーザヴの三人は頭上の耳を震わせたり尻尾を動かしたりと驚きを示す。カルターンはナタリオと同じく虎の獣人、シェイーラとディーザヴは豹の獣人なのだ。
それに人族の二人、シャマームとガラームも表情を変えている。平静なのはミリィだけ、彼女は楽しげに虎縞の尻尾を揺らすのみである。
◆ ◆ ◆ ◆
翌朝、一同は馬場に集った。ただし今回は更に多く、国王シャマームも含めた大集団である。
馬場の正面にある貴賓席にはシャマームと王妃達、更に王太子のヴィシームと王女のフィールアが並ぶ。そしてフィールアの隣には、婚約者となったアルバン王国の王太子カルターンだ。
ただしカルターンは二十三歳でフィールアは十歳だから、大人が子供の相手をしているような微笑ましさが漂っている。ちなみにヴィシームは八歳と更に年少で、義兄となる青年の言葉に耳を傾けるのみだ。
王達の左脇にはシェイーラを含む外務大臣一家など重臣達と家族、右脇にはナタリオの配下である東域探検船団の中心人物達だ。そしてミリィは船団の側に混ざり、王家のすぐ脇に着席していた。
「それではアマノ王国イーゼンデック伯爵ナタリオ閣下と、謎の騎手殿の勝負を始めます!」
「謎……何だあれは!?」
「覆面を被っているぞ!」
美麗な装いの戦士が朗々たる声を響かせると、観客達が大きくざわめいた。
流石に貴賓席の者達は上品に口を噤んでいる。しかし左右の戦士と役人の席や反対側の一般席は、国王臨席の馬比べということを忘れてしまったようだ。
騎乗で馬場に進み出た二人の一方は、黒覆面で顔を隠していた。もちろん顔を顕わにしているのがナタリオで、謎の騎手と紹介された方が覆面だ。
首から下は双方ともタジース王国の王都騎手の馬上服、ナタリオが黄に黒い縞で相手が黒一色だ。しかし色や模様が異なるのは普段も同じだから、注目する者はいない。
目を除き頭の全てを覆い隠す黒覆面。そこに皆の視線が集中している。
「ナタリオさんが勝ったらカイヴァル殿下は帰国して王になる、逆なら好きにして良い……どうなるでしょうね~」
「ナタリオ様も相当な腕……良い勝負だと思います」
楽しげに虎耳を動かすミリィに、騎手のガラームがナタリオ達を注視したまま応じる。
今日もミリィは虎の獣人に変じているが、衣装は貴賓席に相応しいドレスだ。一方のガラームもナタリオの配下から借りた東域探検船団の軍服を着けている。
ガラームはナタリオの家臣を選び、アマノ王国に移籍した。もっとも彼は内陸の出身だから、船員ではなくイーゼンデック伯爵領で陸上勤務となる予定だ。
もちろん家族全員での移住で、今度ナタリオが帰還するときに揃ってアマノ王国に移る。
「出来れば私に……」
「本職だと殿下に断られます~」
悔しげなガラームに、ミリィは微笑みを向ける。ガラームは家臣の自分にと願い出たが、騎手として有名だから除外されたのだ。
「静粛に! 謎の騎手殿は身分あるお方ですが、故あって正体を明かせません! ……それでは出走の準備を!」
打ち鳴らされた銅鑼の音で静けさが戻ると、司会役の戦士が説明とも呼べぬ言葉を続ける。しかし殆どの者が、これで事態を理解したようだ。
覆面を被っているのは捜索の対象である貴人、スキュタール王国の王太子カイヴァルだと。
「テムル君、リーアちゃん……」
「メーナさん……」
特に貴賓席の反対側では、とある一角に視線が集中していた。招かれた難民達は、渦中の人物の家族を見つめていたのだ。
カイヴァルの妻メフルナ、息子のティルームに娘のリーミア。三人は周囲の視線に気付いていないのだろう、黒衣黒面の騎手に顔を向けたままだ。
そして再び銅鑼の音が響く。もちろん勝負開始の合図、ナタリオとカイヴァルの馬比べが始まったのだ。
「どちらも速いぞ!」
「ああ! 人気の新人、カーヴァムにも負けていない!」
人々の叫び通り、二頭の馬は昨日の競馬でも一着になるだろう素晴らしい速度で突き進む。
コースは地球の一般的な競馬場と似た長方形の両端を丸くした形で、エウレア地方の『戦場伝令馬術』のような障害は設けていない。そのため二頭の黒馬は自慢の身体強化能力を存分に発揮し、あっという間に時速100kmを超える。
人間と同じで、馬にも魔力で身体能力を高めるものがいる。そして優れた血統を掛け合わせて生まれた名馬は、このような驚愕すべき脚を備えた。
もちろん全力を発揮できる時間は短く、今のような疾駆は十分も続かない。しかしコースの全長は10kmほどだから充分で、それを知っている馬達は更に速度を上げていく。
「殿下、やはり乗馬も超一流ですね!」
「賞賛だけ受け取ろう!」
一般席側の直線に入ったとき、馬上で短い会話が交わされた。しかし馬蹄が生み出す轟音が掻き消し、観客席までは届かない。
勝負を受けたくらいだから、カイヴァルも強く否定するつもりはないらしい。流石に王宮からの使者に呼び出されては、誤魔化しきれないと観念したのだろう。
だが馬比べに勝てば、このまま予想屋のマンヴァルとしてタジクチクに留まれる。勝利すれば全てが解決するとばかりに、彼は更に馬足を速めていく。
しかし直線に響き渡った声援に、カイヴァルは思わずといった様子で顔を動かす。
「マンヴァルさん、頑張れ!」
「勝って!」
「父上、頑張って~!!」
「お父様、負けないで~!!」
まるで地鳴りのような歓声の中、確かにカイヴァルの子供達の声が届いた。
興奮のあまりか、二人は王族らしい呼びかけに戻っている。しかし双方とも気付いていないのだろう、立ち上がった子供達は真っ赤な顔で声援を送り続ける。
メフルナは無言のままだが、彼女も夫を一心に見つめている。その真摯な表情と煌めく瞳は、どんな言葉よりも雄弁に胸中を示していた。
「ああ、負けないさ!」
「まだだ!」
あれだけ飛ばしてもカイヴァルの馬は首一つ前、ナタリオにも充分勝機が残っている。おそらくは歴史に残るだろう大激走に、競馬場は興奮の坩堝と化していた。
「マンヴァル! マンヴァル!」
「勝て! 勝て! 勝て!」
大半を占めるのは予想屋マンヴァルへの声援だ。難民達からすれば恩人、競馬場に集う者も多くは予想で世話になっている。
殆どはスキュタール王国の王太子だと察している筈だが、本名を口にする者はいない。おそらく彼に迷惑を掛けたくないからだろう。
人々の熱狂は馬達にも乗り移ったようだ。まるで天駆ける神馬のように二頭は加速していき、最後の直線を飛ぶように駆け抜ける。
「どっちだ!」
「分からん!」
「……静粛に! 一着は謎の騎手殿、鼻の差で謎の騎手殿の勝利!」
発表通り、カイヴァルの馬が僅かに先だった。遠方の一般席はともかく近くなら明らかで、しかも審判委員には身体強化が得意な者を揃えているから拳一つほどの差でも間違うことはない。
「お見事です……お国には殿下の意思を尊重していただくよう嘆願します」
「いや、その必要はない」
無念そうなナタリオに、カイヴァルは首を振った。そして彼は覆面を脱ぎ捨て、馬場に放り捨てる。
「殿下、そのお顔は……」
「王に相応しく整えた……出走前に妻に頼んでね」
目を丸くしたナタリオに、カイヴァルは微笑みを返す。
王太子は今も長髪で髭も伸ばしている。しかし予想屋だったときとは違い、王族に相応しく充分に整っていたのだ。
「……お勝ちになっても戻るつもりで?」
「正直迷った……しかし子供達や皆の声援で、私のいるべき場所はスキュタールだと確信した。それに君との勝負で心が燃えた……ありがとう」
怪訝そうなナタリオに、カイヴァルは莞爾と言うべき澄んだ顔で心境の変化を明かした。
自身の勝利を願う声が、カイヴァルには後押しするように聞こえたという。ただし声が示した先は予想屋としての生ではなく、王としての姿であった。
馬術自慢の頂点に君臨し、思うままに駆けろ。悩みを振り捨てて人々の先頭に立て。いつしか声援は、幼き日に父が語った王者の理想像に重なったという。
「後はお任せください。お約束した通り、居留地の者にはタジース王国に加え我が国も支援しますし希望者の移住も歓迎します」
昨晩ナタリオはシノブに相談し、許可を取り付けた。勝負の結果に関係なく難民達を支える。これはアマノ王国として正式に決めたことだ。
「やはり君には勝てなかったようだ。そして馬場に戻ったとき、私の駆けるべき道は決まっていたのさ」
一礼をしたナタリオに、カイヴァルは馬を寄せる。そして王太子は自身と競った若者の腕を取り、称えるように天高く掲げた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年12月23日(土)17時の更新となります。