24.07 ドワーフと街 後編
素無男には、大きく分けて荒素無男と和素無男の二種類がある。
前者は戦場の技として磨かれ一切の制限がなく、拳での殴打、上体への蹴り、急所攻撃など全てが許される。しかし今ペヤネスクの大神殿で行われているのは神々への奉納素無男だから後者、つまり危険な技を封じた和素無男である。
──和素無男は日本の大相撲と殆ど同じだよ。あちらも神事だからかな──
シノブは斜め下にある土俵を眺めつつ、思念を紡いでいく。
ここは聖堂の大扉の上にある、採光のための大窓だ。シノブは窓枠に腰掛け、ドワーフの伝統武術にして神に奉納する儀式を見守っている。
もちろんシノブだけではない。共に観戦する左右の三人が彼の思念に耳を傾けている。
まずは隣に腰掛けたヤマト王国の王太子、大和健琉。ヤマト王国ではドワーフ以外も素無男を取るし、タケルも人族だが相当な達人だ。そのためだろう、彼はシノブが明かす異世界の闘技を興味深そうに聞いていた。
残る二人は神々の眷属アミィとミリィである。こちらはシノブ以上に多くを知っているだろうが、どちらも口を挟まない。
──これで髷を結っていたら、そのままだね──
シノブが触れたように、こちらの力士達は大銀杏ではなかった。下位の力士だけではなく、幕内に相当する上位も普段通りの髪型である。
──私達も束ねるだけですし、こちらのドワーフは短髪だから無理ですね──
ヤマト大王家の直系は修行すれば思念に目覚めるし、受けるだけではなく発することも可能であった。そのためタケルは明瞭な思念でシノブに応じる。
──イヴァール達なら結えるだろうけどね──
シノブは向かって右、相撲でいうところの東側へと眼を転じた。そこにはペヤネスクの太守ロスラフと並んで、イヴァールが胡坐を掻いている。
いつもとは違い、イヴァールは髪を後ろに持っていき面を顕わにしていた。
普段のイヴァールは、自然に流した髪の先を編み込んで飾り紐を付けるだけだ。しかし今の彼はオールバックのようにして、更に乱さないためか深く編んでいる。それに髭も三つ編みをきつくしているのだろう、常より随分と細く纏められている。
イヴァール達エウレア地方のドワーフ男性は髪と髭の双方とも腰に達するから、大銀杏にしても余るほどだ。しかし普段通り豊かさを見せ付けるような広がり方では、こちらの短髪のドワーフ達と差が目立つ。
そこでイヴァールだけではなく、アスレア地方北部訪問団のドワーフ男性は気を使ったらしい。ただし髪や髭は彼らの誇りだから切ったり剃ったりはせず、出来る範囲で整えただけである。
それでも努力の甲斐はあったようで、シノブの目には肩を並べるイヴァールとロスラフの姿が自然に映っていた。
まわし姿の二人は、まるで長く共に修行した同部屋力士のように仲良さげに語らっている。片方は長髪と長い髭、もう片方は短髪と鼻の下に整えた髭だけと、違いは大きい。しかし土俵を見つめ言葉を交わす二人は、どちらも目元を緩めている。
これなら融和へと進めるだろう、そう思ったシノブは土俵の中央へと視線を戻した。そこではシノブ達が良く知る青年が、闘いの時を迎えようとしている。
もちろん、それはエレビア王国の第二王子リョマノフだ。
──やっぱりリョマノフ殿は立派な体ですね──
タケルが羨ましげな思念を漏らす。だが、それも無理はないだろう。
リョマノフは獅子の獣人だけあって、随分と大柄だ。しかも今月で十七歳になったばかりの若さだから、彼は未だ成長期らしい。そのためシノブと出会ったときより少しだけ背の高さを増し、筋肉も随分と増えている。
もちろん激しい武術の修行で絞っているから、贅肉など見当たらない。まわし姿で歩むリョマノフは、彼の異名『エレビアの若獅子』に相応しい勇姿である。
それに対し、タケルは少女のように華奢な体格であった。背もリョマノフやシノブより頭一つは低く、肉が付かない体質なのか腕や脚の太さも女性並みだ。
今のタケルは斬鉄を成すほどの剣術の達者で、素無男でもドワーフの祖霊将弩に勝った猛者だ。もちろん魔術で力を増して体を強化した結果だが、こちらの武術では一般的なことだから恥じることではない。
しかし男として隆々たる肉体に憧れる気持ちは、消しきれないのだろう。
タケルは土俵の上のリョマノフから、隣のシノブへと視線を向けた。獅子の獣人のリョマノフより細いが、シノブも超絶の武技を駆使するだけあり人族の男性として理想的な体型だったのだ。
──タケルは……素早さで勝負すべきだから、それで良いんじゃない?──
少々口篭もったシノブだが、何とか言い繕った。
しかし少し弱いと感じたシノブは、アミィとミリィに視線を動かす。神々の眷属である二人なら、更に適切な言葉を掛けてくれると思ったのだ。
──リョマノフさんが闘いますよ!──
──相手のトゥドルさんは大相撲なら幕内下位ってところですね~。でも油断は出来ませんよ~!──
どうもアミィ達は、話を逸らすことにしたらしい。
もっともリョマノフ達の取組が始まるのは事実である。リョマノフの向かいにはペヤネスクのドワーフが陣取り、二人は仕切りの体勢に入っている。
そのためシノブも眼前の土俵に意識を向けなおした。リョマノフは兄のようにシノブを慕ってくれるし、タケルとも兄弟のように仲良くしている。そもそもタケルはリョマノフの素無男を見たくて来たのだから、雑談などしている場合ではないだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブ達は透明化の魔道具で姿を消しているから、下にいる者達が気付くことはない。そのため行司役の老神官も、これまでの取組と同じくリョマノフとトゥドルを立合いへと導いた。
しかし両者が立ち上がってからは、最前までと少しばかり違う。
「はっきよい! ……の、のこった、のこった!」
行司役の老ドワーフは微かに揺らいでいた。彼の声を掻き消すくらいの、物凄い轟音が土俵の中央で生じたからだ。
リョマノフとトゥドル、両力士のぶつかり合いは今までになく激しかった。
既に多くの取組を終えているが、それらは大相撲と同じく力量の低い方からだ。したがって当たりも今の二人に比べれば随分と軽かったのだろう。
しかし今のリョマノフ達の衝突で生まれた激音は、まるで雷が至近に落ちたような恐ろしさであった。突進自体が稲妻のように速かったから音も比例して大きく、観客達の中には顔を顰め耳を塞ぐ者も多かった。
「リョマノフ様、頑張って!」
「す、凄いですね!」
ロスラフやイヴァールの反対、西側で叫んだのは豹の獣人の少女とドワーフの若い女性だ。前者はキルーシ王国の王女にしてリョマノフの婚約者であるヴァサーナ、そして後者はロスラフの長女マリュカである。
奉納素無男は神に捧げるものだから、正面は七体の神像が並ぶだけで人は座っていない。
正面も土俵の至近は空いているが、神々に背を向けて座るわけにもいかない。そのためヴァサーナ達も土俵の側ではあるが、横からの観戦となっていた。
シノブ達のように向正面、つまり入り口の側からであれば見やすい。しかし神像に近い左右で土俵の近く、つまり東西の砂かぶり席が最上とされるようだ。
実際ヴァサーナやマリュカの脇には、ロスラフの妻達や次女のエシェナが座っている。
ちなみにロスラフの長男ボルトフは他の力士達と共に支度部屋だ。力士で常時観戦するのは東西の筆頭のみ、つまり東の横綱ロスラフと西の横綱イヴァールだけである。
「りょ、リョマノフさま、トゥドルに押し負けていない!」
幼い少女エシェナは立ち上がり、目を丸くして叫ぶ。
まだ四歳のエシェナだが、ドワーフだから素無男好きだ。そのため彼女もリョマノフが突進する相手と互角以上だと察していた。
トゥドルはドワーフ戦士でも特に分厚い筋肉の持ち主で、樽のような胴体と並外れて太い四肢を誇っている。おそらく彼の体重は100kgを一割以上超えているだろう。しかもドワーフは贅肉が殆どないから、重さの全ては力を生み出す原動力だ。
だが、リョマノフも負けてはいない。こちらは体重こそドワーフに劣るが、獅子の獣人だけあって力強さでは負けていない。獣人族でも一二を争う力自慢の種族だから、筋肉も特別製なのだろう。
それにリョマノフは幼少から武術を仕込まれただけあり、力の使い方も絶妙であった。彼は二割近くも勝る重さを苦にしないどころか、徐々に押し返してすらいる。
「ええ! イヴァール様から素無男を教えていただいたのです!」
「そうなのですか!」
ヴァサーナの誇らしげな声に、エシェナは純粋な驚きを示す。
しかし年長の女性達、つまりマリュカやロスラフの妻達は納得顔となる。それほどリョマノフの押しは堂に入っていたからだ。
リョマノフはトゥドルに比べると頭一つ以上も背が高く、その分だけ重心も上だから素無男では不利な筈だ。しかし彼は柔軟な足腰を持っているようで相手以上に体勢を低くし、もろ差しにしている。
こうなると抗う術はなく、リョマノフは順調に土俵際までトゥドルを押し込んでいく。
王子らしく正攻法で勝負を決めようと思ったのか、リョマノフは投げや奇手に出なかった。これが地球なら電車道と呼ばれただろうが、この星には電車は存在しないし先ごろエウレア地方に誕生したのも蒸気機関車のみである。
しかし、ここ西メーリャ王国には代わる用語があったようだ。
「素晴らしい玄王道ですね」
「ええ、本当に」
声を上げたのは二人の年長の女性、つまりロスラフの妻達だ。どちらも押し出しで勝利したリョマノフの背を見つめている。
どうやら西メーリャ王国では、電車道を玄王道と呼ぶらしい。
「もしかすると、玄王亀様に由来する言葉でしょうか?」
ヴァサーナは夫人達の言葉から巨大な亀の姿の超越種、玄王亀を思い浮かべたようだ。
婚約者に拍手を贈りつつも、ヴァサーナの金色の瞳は夫人達に向けられていた。それに彼女はさり気なさを装っているが、声は僅かに上擦っている。
これは訪問団の目的の一つに、若き玄王亀シューナの捜索が含まれているからだ。
訪問団には玄王亀の長老夫妻アケロとローネが密かに同行しているし、大砂漠に棲む朱潜鳳の番フォルスとラコスも支援している。これは西メーリャか東メーリャにシューナがいると予測してのことである。
数年前、成体となったシューナはアスレア地方の南西にあるプロトス山の地下から旅立った。そして彼は北東、つまりメーリャの二国がある一帯へと行ったようだ。
玄王亀は二十年に一度だけ長老の棲家に集まるが、次の会合は相当先だ。しかし最年少の玄王亀ケリスが自身と同じ若手に会いたいと願ったから、彼らは先んじて探すことにしたわけだ。
シューナの父母アノームとターサは二番目の子を得ようとしているが、長命な彼らだから出産も稀である。そのため長老達はケリスに続く子が生まれるのを待つより、シューナを探した方が早いと判断したらしい。
「ええ……」
「そのようです……」
夫人達は、僅かだがマリュカへと視線を動かす。
次の一番が始まろうとしているが、ヴァサーナだけではなく彼女達も土俵に注意を向けてはいない。どうも玄王亀に関する事柄は気軽に語れないらしいが、相手は一国の王女だから素っ気なく断るのもどうかと思ったのだろう。
「これは秘事なのですが……。メーリャの地に鍛冶技術を齎したお方は……玄王亀様なのです。まだ創世の時代……プロトス様という玄王亀様が、私達に特別な硬化や製錬の術を授けてくださいました」
一同の視線を受けたマリュカは、静かに語りだした。
やはりマリュカは、王家か並ぶだけの権勢を持つ家の生まれらしい。ロスラフの夫人達には、僅かだが貴人に仕える侍女のような気配すら漂っていた。
昨夜イヴァール達が推測したように、マリュカが単なる太守の娘とは思い難い。年齢からすると西メーリャ王国の王女マリーガの可能性が高いが、もし違ったとしても同じくらい高位の女性だと思われる。
「プロトス様はアゼルフ共和国にお住まいだったと伺っています……向こうにはプロトス山という高山がありますわ。ですからアゼルフ共和国とメーリャの二国を指導してくださったのですね。
そのプロトス様ですが既に輪廻の輪に戻られ、今は御子息のアノーム様が奥様と共に彼の地にいらっしゃいます」
これらのことを、ヴァサーナも旅の間にアケロから教わった。そのため彼女はプロトスが第一世代で、アケロやアノーム達が第二世代だと知っている。
ちなみに第一世代の超越種は、既に全てが没しているらしい。超越種の寿命は千年前後で今は創世暦1002年だが、第一世代は創世のときに成体として誕生したからだ。
「そうだったのですか……」
ヴァサーナの語ったことを、マリュカ達は知らなかったようだ。
西メーリャ王国の女性達は何れも目を見開き、隣国の王女の顔を多少だが見上げている。ドワーフの女性は男性よりも更に背が低く、ヴァサーナとマリュカ達も立てば頭一つ分ほど違うのだ。
「プロトス様は、今の西メーリャと東メーリャの国境付近で教えを授けてくださったそうです。元々メーリャの王都は、今の国境辺りにあったのです」
新たに知った事柄からだろうか、マリュカは先ほどよりも滑らかな口調で語り出す。
プロトスという玄王亀がメーリャに来たのは事実だった。それを知ったからだろう、ヴァサーナの頬は赤味を増して瞳にも常以上の力が宿る。そして彼女は一層の真顔となり、マリュカの話に耳を傾ける。
◆ ◆ ◆ ◆
当然ではあるが、ヴァサーナ達が語らっている間にも取組は続いている。奉納素無男は百番もあるから、間を空けたら日が暮れるまでに終わらないのだ。
幸い仕切り直しが殆どなく、一番ごとは短時間だ。これは神前という意識が強く立合う前の駆け引きは邪道とされ、むしろ双方が協力して呼吸を合わせるからである。
ヴァサーナ達も時折は土俵に目を向けるものの、情報交換を優先しているようだ。これは取組する者達の片方に、既出の顔が続くせいもあるらしい。
百番をこなす片方、東側は西メーリャ王国の者達だから常と同じく規定の人数が集った。しかし西の訪問団でペヤネスクに入ったのは飛行船の調整担当や守護役を除いた一部のみで、用意できた力士は四十名に満たない。
そのため西側の殆どは二番以上を取るし、三番以上も珍しくない。流石にイヴァールの弟パヴァーリのように十番近くもこなす者は稀だが、イヴァールは修行になると有望な若手を中心に何度も出場させた。
したがって取組も終わり近く、大相撲なら幕内上位ともなると新鮮味は薄れてくる。特にペヤネスクの者達からすると東も良く知る者達だから、通になると大よその結果すら読めるようだ。
キルーシ王国から来たヴァサーナは別だが、彼女は素無男より自身の役目に集中していた。それに婚約者であるリョマノフは、最後の方に一番を残しているだけだ。したがって彼女は、今も玄王亀の件を追いかけていた。
もっともヴァサーナ達の側にも、ずっと取組を見続けていた者がいる。
それは幼いエシェナである。創世期の言い伝えより眼前の熱闘の方が、四歳の少女にとっては興味深かったのだ。
「ヴァサーナさま、リョマノフさまの番です!」
「あら! 本当だわ!」
エシェナに袖を引かれ、ヴァサーナは土俵へと向き直る。
既にリョマノフは土俵に手を付き、相手と睨み合っている。東側に陣取っているのはペヤネスクの戦士長の息子ゴウドルだ。
これでリョマノフは三番目。しかし彼は最初と代わらず平静で、まさに若獅子といった清冽かつ強烈な気迫を放っている。
相手のゴウドルは今まで土俵に上がった誰よりも発達した筋肉を誇っているが、表情は厳しい。まるで襲い掛かろうとする野獣のような王子を前にして、どう闘うべきか考えあぐねているようでもある。
ちなみに次がパヴァーリとロスラフの息子ボルトフ、そして結びがイヴァールとロスラフだ。したがってリョマノフ達を含めても残り三番である。
既にロスラフとイヴァールも、控えの土俵溜りに移っている。東はボルトフとロスラフが審判役を挟み、西は同様にパヴァーリとイヴァールが西メーリャのドワーフを間に置いて座っている。
高位の力士が揃ったからだろう、聖堂の中は静まり返っていた。そのためヴァサーナも少々気圧されたのか、ただ見守るだけである。
「はっきよい! ……リョマノフ山~」
なんと勝負は、一瞬で終わってしまった。行司役が『のこった』と叫ぶ暇もなく、ゴウドルが吹き飛んだのだ。
「変化……ですか?」
「そうですね……」
ヴァサーナが呆気に取られた様子で呟くと、マリュカが苦々しげな表情で頷いた。
立合いの瞬間、ゴウドルは大きく退いた。おそらく彼は、真正面から組み合ったら勝ち目がないと思ったのだろう。そこで身を躱し、はたき込もうとしたようだ。
しかしリョマノフの超人的な反射神経は、ゴウドルの変化にも対応しきった。彼はゴウドルが退くより早く踏み込み、相手の逃げる動きすら自身の突き押しに加えたのだ。
「馬鹿者! 『押さば押せ、引かば押せ』の心を忘れたのか!」
思わずといった様子で、ロスラフが怒声を発する。
押して敗れるならともかく、小細工に出た上で凌駕されるなど最悪に違いない。そのためだろう、土俵を囲む観客達からも、失望めいた溜め息が漏れる。
──こっちでも、ああいう言葉があるんだね──
──それはテッラ様とポヴォール様ですから~──
シノブの思念に、どこか楽しげな空気を漂わせつつミリィが応じた。
これまでの取組もミリィが一番楽しんでいたようだし、色々と解説もしてくれた。どうやら彼女は、相当の好角家のようだ。
そしてシノブ達がミリィの話を聞いているうちに、土俵の上は入れ替わる。リョマノフとゴウドルは土俵溜りへと移り、代わってイヴァールの弟パヴァーリと太守の息子ボルトフが上がったのだ。
ボルトフもゴウドルに負けず劣らずの肉体の持ち主だ。年齢はパヴァーリの方が一つ上だが、見た目だと逆にボルトフが年長に思える。
もっとも、この世界の武術では筋肉量や体重と同じくらい、魔力がものを言う。純粋な魔力量、練り上げて一瞬に乗せた力の大きさ、研鑽を積んだ各種の肉体強化術。そのためだろう、ボルトフは全く油断していないようだ。
何しろパヴァーリは既に十番を闘って全勝し、これが十一番目だ。それだけ多くを勝つのだから、たとえ肉体面で上回っていても過信は出来ない。
現にリョマノフは、本来なら不利な筈の勝負を見事に制した。ならばパヴァーリも、同じことを。おそらくボルトフは、そう考えたのだろう。
そんなことをシノブが考えているうちに呼び上げは終わり、東西の力士は手を付いて仕切る。
「はっきよい! ……のこった、のこった!」
行司役の老神官が掛ける声と重なるように、若武者達が衝突する猛烈な音が響く。しかし何度も繰り返された音だけではなく、今回は異様なものが加わった。
それは太い縄が千切れるような、寒気を伴う異音であった。
──パヴァーリ殿! まさか、筋肉が!?──
──ああ、それに骨もやられたようだ!──
タケルとシノブは鋭い思念を交わす。それにアミィとミリィも、表情を鋭くしていた。
もちろん四人だけではない。土俵を囲む力士や審判役、それに観戦経験の長い者達はパヴァーリに異変が生じたと察していた。そして彼ら以外も、すぐに事態を悟る。
「パヴァーリ様の右腕が!」
「胸の筋肉と、鎖骨でしょうか!?」
土俵の近くでは、ヴァサーナとマリュカが蒼白な顔で悲鳴を上げていた。
どうもパヴァーリは、ボルトフの突進を受け損なったらしい。強力な硬化を使ったボルトフの頭突きが、パヴァーリの鎖骨辺りに決まったのだ。
パヴァーリも油断していたわけではなく、双方が自身に有利な形をと動いた結果そうなったのだろう。実際パヴァーリは残る左で上手を取り、ボルトフの後ろまわしを掴んでいる。
しかし今のパヴァーリは右腕を使えず、更にボルトフはもろ差しにしている。誰が見てもボルトフが有利、そもそも大きく顔を顰めたパヴァーリが、充分に闘えるとも思えない。
「パヴァーリ!! そこまでか!! お前はそれだけの男なのか!!」
ざわめきで満ちる聖堂を、イヴァールの獅子吼が切り裂いた。
静まり返った場の中央近く、西の土俵溜り。そこにはエウレア地方のドワーフ達が仰ぎ見る英雄、超戦士イヴァールの威風堂々たる姿があった。
イヴァールは先ほどと同様に胡坐を掻いて腕組みをしているだけだ。しかし彼が単なる力士ではなく竜からも賞される伝説中の人物だと、放つ闘気が示している。
そしてイヴァールの檄は、弟の心に届いた。集った者達は、更なる奇跡を目にする。
「ぐ……ぐぉぉぉおおおっ! があああっ!!」
「ば、馬鹿な!」
まるで猛獣のような叫びに、ボルトフの恐れすら滲む声が続いた。なんとパヴァーリは、左腕一本で相手を吊り上げたのだ。
もちろんボルトフも、土俵から離れまいと必死に体を沈めた。しかし後ろまわし、つまり腰の後ろ近くを掴んだパヴァーリは、そのまま敵手を宙に運んだ。
「そ、そんな! ボルトフ様が!」
「若手じゃ王太子様に続く勇士だぞ!」
各所で絶叫が上がるが、決して夢ではない。
あまりにパヴァーリの力が強かったのか、もろ差しにしていたボルトフの両手は一瞬で引き剥がされていた。おそらくパヴァーリは、刹那の間に通常の限界を何十倍も超えた力を発揮したのだろう。もちろん単なる肉体の力のみではなく、技に加えて魔力操作まで駆使した奥義と言うべき精華である。
「ぱ、パヴァーリ山~!」
真っ赤に肌を染めたパヴァーリが相手を土俵の外に投げ捨てると、行司役の老神官が軍配を翻す。そして一瞬遅れ、万雷の拍手が聖堂を埋め尽くした。
◆ ◆ ◆ ◆
「凄かったですね……パヴァーリ様」
「ええ……」
微笑みを浮かべたヴァサーナが、隣にマリュカへと囁きかける。しかしマリュカは、呆けたような応えを返すのみだ。
マリュカの視線は、今もパヴァーリの背に向けられている。
土俵の上にはイヴァールとロスラフがいるのだが、こちらも既に勝負が終わっていた。もちろんイヴァールの完勝である。
ロスラフは山から領内に降りてきた魔獣、森林大猪を絞め殺すほど超人的な膂力の持ち主だという。
しかし力にしろ技にしろイヴァールが上であった。これはイヴァールが乗り越えた修羅場が想像を絶するものだからで、ロスラフが恥じ入るべきことではない。
力の差を察しているからだろう、ロスラフも晴れ晴れとした笑みを浮かべている。それに観客達も勝ったイヴァールと同じくらい、太守を称えていた。
少しでも戦いを知る者なら、イヴァールの激闘を見て敵う相手とは考えないだろう。いるとすれば、竜を知っても戦おうという極めつけの猛者くらいである。
おそらく密かに見守るシノブ達を除くと、いつかは挑もうと顔を引き締めたリョマノフとパヴァーリくらいではないだろうか。
そのパヴァーリだが、既にエルフのルキアノスの治療で元の健康体に戻っていた。つい先ほどまで新たな若き英雄の側にいた初老のエルフも、今は元の席に戻って土俵の上を見つめている。
「優勝力士はイヴァール殿、技能賞はリョマノフ殿、敢闘賞はパヴァーリ殿です」
審判役のドワーフ、やはり神官の一人が土俵に上がり声を張り上げる。
一番しか取っていないイヴァールが優勝で、十一番も勝ったパヴァーリが敢闘賞というのも奇妙ではある。しかし奉納素無男では最も優れた力士に優勝が贈られるそうだ。
ちなみにリョマノフが技能賞となったのは重心が高い不利を技で覆したから、パヴァーリの敢闘賞は文字通りの敢闘を称えてのことである。
神官達はイヴァールに優勝杯や盾など、リョマノフやパヴァーリにも少し小さいが同様の品を贈っていく。そして表彰が終わると、土俵の中央に太守のロスラフのみが残った。
「大神アムテリア様! これにて奉納素無男を終わります! 全ての命を造りし大神アムテリア様、常しえに!」
七つの神像に向かって叫ぶロスラフに、起立した一同が続く。
ペヤネスクの者達も、訪問団の者達も。大半を占めるドワーフだけではなく、人族、獣人族、エルフ達も。一つになった声は聖堂すら揺るがし、更に街の隅々まで響いていくようであった。
「さあ、街に繰り出そう! 祝賀の行進だ!」
ロスラフの叫びで、人々は動き出す。
西メーリャ王国や元は同じ東メーリャ王国の場合、奉納素無男が終わると優勝力士や各賞に輝いた力士達を先頭に、パレードをするのだ。もちろん徒歩ではなく、ドワーフ馬が牽く馬車に乗っての一周だ。
「あ、あの! パヴァーリ殿!」
「は、はい……」
真っ赤な顔で駆け寄るマリュカを、パヴァーリは不思議に感じたようだ。彼は僅かだが首を傾げつつ応じていた。
「こちらではパレードのとき、表彰される男性の横に女性が控えるのです。既婚者であれば妻が、リョマノフ殿のように婚約者がいればその方が、そして双方ともいなければ、未婚で婚約者のいない乙女が……」
マリュカは更に頬を染めて俯く。一方のパヴァーリも理解したようで、茹蛸のようになった。
「リョマノフ様、そういうわけですから、どうぞ!」
「おお! これは嬉しいね!」
こちらは婚約者同士だから、自然に寄り添う。とはいえリョマノフの衣装は、まわしのみである。そのためヴァサーナの頬も、普段よりは赤味を増しているようだ。
──ドワーフのマーチ、甘々風味ですね~。少し早いですが、結婚行進曲を贈りましょう~──
入り口の上の窓枠で、ミリィが鼻歌を奏で出す。シノブも良く知る、メンデルスゾーンの名曲だ。
ただしミリィは思念を用いているから、聴衆はシノブ達だけである。
──シノブ様、マーチとは何でしょう? 街ではないですよね?──
──こっちの言葉だと行進……もしくは行進曲だね。一応は地球の言葉だから、他では使わないでね──
問うたタケルに、シノブは説明しつつ他言無用と言い添える。
シノブの隣では、アミィが笑いを堪えている。どうもミリィは、シノブが念を押すと知っているから外来語を持ち出したらしい。その辺りはミリィと付き合いの長いアミィだけに、お見通しのようだ。
頭上の一幕を知らない若い男女は、手を取り合って夕日が煌めく表へと歩んでいく。そして未来へと進む若者達の後ろ姿を、大きな笑みを浮かべたイヴァールやロスラフ達が見守っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年9月30日(土)17時の更新となります。




