24.01 ドワーフと髭
ドワーフの男性が髭を伸ばす理由の一つは、防寒のためだ。
たとえばエウレア地方のドワーフの国ヴォーリ連合国は、国土の大半が北緯50度を超える。したがって冬は長く雪に閉ざされるが、それでも彼らは狩猟や鉱石の採掘に赴く。そのとき顔中を覆う髭が氷点下の外気から守ってくれるのだ。
ドワーフの男性は他種族より早くから髭が生えるし、伸びるのも速い。そのため彼らが髭を伸ばし続ければ、成人年齢の十五歳までには腹までも達する。
ちなみにドワーフでも女性だと髭は生えないし、毛深いわけでもない。したがって彼女達は極寒期を家の中の仕事をして過ごす。
エウレア地方以外のドワーフの男性も、殆どが長い髭を蓄える。彼らもヴォーリ連合国のような高緯度帯か、低緯度でも高山で寒さが厳しい場所に住んでいるからだ。
そして髭はドワーフ男性の自慢であり、神聖なものでもあった。誓いの際には髭に手を当てて宣言するし、重罪を犯せば剃られて放逐されるほどだ。
しかし、何事にも例外は存在するようである。
「それではイヴァール様。大変失礼ですが……」
緊張も顕わな顔で一歩前に出たのは豹の獣人の少女、キルーシ王国の王女ヴァサーナだ。
よほどのことなのか、ヴァサーナの頭上では小さめの獣耳が不規則に震えている。それに彼女の背後では、丸い斑に飾られた尻尾が揺れていた。
隣に立つエレビア王国の王子リョマノフの様子も不自然である。
リョマノフは背も高く獅子の獣人らしい堂々たる体格で、常ならば若き勇者というべき風格を漂わせている。しかし今の彼は、どこか済まなげな顔で静かに控えるのみだ。
リョマノフがヴァサーナに声を掛けないのも違和感がある。
二人は婚約中で半年後にヴァサーナが成人したら間を置かずに結婚するし、その日を双方とも待ち望んでいる。普段のリョマノフなら愛する女性への気遣いを示すだろうし、ヴァサーナも彼を頼る筈だ。
更に周囲も二人ではなく、反対側にいる人物を見つめている。それはヴァサーナが呼びかけた相手、ドワーフの超戦士として名高いイヴァールである。
「うむ」
頷くイヴァールの様子も普段とは少々違う。
まず、服が異なる。イヴァールは愛用の鱗状鎧や角付き兜ではなく、単なる布服を着ていた。
後ろに控える大勢のドワーフ達も、同様のチュニック姿である。彼らの服は素朴だが、リョマノフと同じエレビア王国やキルーシ王国で一般的な衣装なのだ。
エウレア地方のドワーフの男性は革服を好むが、ここは暖かなキルーシ王国で海岸からも近い王都キルーイヴだから普段の格好では暑すぎる。そこで彼らは鎧や兜を取り、通気性の良い薄い布服にしたわけだ。
しかしイヴァール達が普段と異なるのは、服だけではなかった。
「遠慮はいらん。やってくれ」
イヴァールの顔は髭に覆われているから、表情は殆ど窺えない。しかし声に妙な硬さがあり、やはり緊張か類するものが感じられる。
他のドワーフ達も同じで眼光は鋭く、中には身構えるように拳を握り締めている者すらいる。
「で、では! このヒゲ~!! モジャモジャ~!! 不精者~!!」
何とヴァサーナは、イヴァールを罵倒し始めた。それも壁の向こうに響くような大声である。
イヴァールはアマノ王国の伯爵、つまりキルーシ王国のヴァサーナからすれば他国の貴人だ。しかも彼はヴォーリ連合国の大族長エルッキの長男でもあり、二つの国を詰ったと言われかねない暴挙である。
「くっ……」
一方のイヴァールだが、僅かに声を漏らしただけで怒る様子はない。顔は少々赤く染まっているが、これは憤怒ではなく何かに耐えているのだろう。ともかく彼は、固く目を瞑ったままだ。
後ろのドワーフ達も同じである。彼らも面に血を上らせたり堪えるように首を振ったりするものの、それだけだ。
「……もう、よろしいでしょうか?」
ヴァサーナの顔は真っ赤であった。
叫び疲れたのか、それとも暴言を連呼したのが恥ずかしかったのか、それは分からない。しかし大きく息を吐いて肩を落とした様子からは、かなり彼女も辛かったのだろうと窺える。
「ああ……済まぬな」
イヴァールも吐息のような応えを返す。そして彼は緊張を解くかのように僅かだが力を抜きながら、礼の言葉を続けた。
「ヴァサーナ、ありがとう。……イヴァール殿、どうでしょう?」
進み出たリョマノフは、婚約者の肩に手を置いて労った。そして続いて彼は、イヴァールへと問いを発する。
この寸劇めいた一幕は、リョマノフの提案によるものだった。
これからイヴァール達が向かう西メーリャ王国は、短い髭というドワーフにしては極めて珍しい風習を持つ国だ。他所のドワーフ男性とは違って長い髭を不精や野蛮とし、剃るか短くするのだ。
そこでリョマノフは向こうで実際に起こりうること、長い髭への罵倒を婚約者に実演してもらった。ちなみに女性のヴァサーナが演じたのは、その方が男達にとって衝撃的だからである。
「む……正直、ここまでとは思わなかった。西メーリャに入るまでに体験しておいたのは正解だ」
「髭は我らの誇りです。もし否定されるなら憤るだろうと考えていましたが、実際には身を切られるような思いを抱きました」
イヴァールに続いたのは弟のパヴァーリである。彼も兄が率いるアスレア地方北部訪問団に加わっていたのだ。
パヴァーリは兄と違って男爵だから、言葉遣いも丁寧だ。イヴァールを助けてアマノ王国の貴族として働くうちに、随分と順応したようである。
「もし知らずに同族の女から言われたら、立ち直れんな……」
「ああ……夢に出そうだ。もちろん悪夢に……」
他のドワーフ達も賛意を示す。そして他の三種族が、彼らに同情の滲む視線を向けていた。
ここには訪問団の全員、つまり二百名ほどが集まっている。そして半数を占めるドワーフは、一様に苦い顔をしていた。
残る人族、獣人族、エルフも強く共感したようで笑う者はいない。どうやら彼らも、それぞれの特徴や誇りに思うものを貶されたらと考えたようだ。
例えばエルフだが、種族の特徴である長い耳に触れた者が多い。エルフにとって耳の長さや形は美醜に関わるからだ。
同様に獣人族は頭上の耳や尻尾を気にしているし、人族も身長や容姿に置き換えたようである。
◆ ◆ ◆ ◆
この日は創世暦1002年1月21日、アスレア地方北部訪問団がキルーシ王国に滞在して三日目だ。そして翌日の22日、彼らは西メーリャ王国へと旅立つ。
ここアスレア地方でドワーフ達が住むのは、西メーリャ王国と隣の東メーリャ王国である。しかしキルーシ王国と東メーリャ王国は接しておらず、イヴァール達は西メーリャ王国から周る。
仮に西メーリャ王国と良好な関係を築けたら東メーリャ王国へと進むが、それは先のことだ。何しろ西メーリャ王国は同じドワーフでも文化や風習が随分と違うからだ。
これは西メーリャ王国が温暖、より正確には暑い土地だからである。そのためイヴァール達のように髭を伸ばしては、暑苦しくて敵わない。
西メーリャ王国はキルーシ王国よりも北で、南端でも北緯45度近いし北端は北緯50度を超える。しかしエレビア王国やキルーシ王国と同じく、西メーリャ王国は大砂漠に接しており熱風が吹き込んでくる。
結果として国土の大半で雪が降らず、それどころかキルーシ王国などと同じで半袖と脛までの短いチュニックで充分であった。したがって髭は不要で、長毛のドワーフ馬もいないという。
一方の東メーリャ王国だが、こちらは西にある大砂漠から700kmは離れているから、緯度相応の気候である。キルーシ王国と接していないから詳しいことは不明だが、ヴァサーナやリョマノフが聞き及んだ範囲だとヴォーリ連合国と近い暮らしだと思われる。
この違いも東西に分裂した原因の一つらしい。実は百年ほど前まで、両国は同じ国だったのだ。
「本当は東メーリャ王国から訪問できると良かったのですが……」
「西に断らずに通ったら、後々問題になりますからね」
ヴァサーナとリョマノフの言葉に、イヴァール達が頷いた。
既に場所を移しており、限られた者のみでの昼食会となっている。持て成すのはヴァサーナとリョマノフおよび側近達、招かれたのも訪問団の幹部級のみである。
「ああ、それは避けるべきだろう」
「キルーシ王国と西メーリャ王国は国交があるのに、後回しには出来ません」
イヴァールに続き、訪問団の副団長を務めるテリエ子爵アレクベールが口を開く。アレクベールはアマノ王国の外務省副長官で、東域探検船団にも参加したからアスレア地方の情勢に詳しいのだ。
ちなみに他に昼食会に参加した者も、多くはアスレア地方を知る者達だ。例を挙げるとアルバーノと共にキルーシ王国に潜入した諜報員のセデジオやミリテオ、大砂漠を飛行船で調べたときの操舵士ツェリオなどである。
「それが無難でしょう。幾ら最新の飛行船といっても、悪天候などもあるでしょうし」
「リョマノフ殿下の仰る通りです。アケロ様達にご協力いただけば超長距離飛行も可能ですが、それは最後の手段と考えています」
リョマノフに答えたのは、航行担当の代表として出席したツェリオである。彼は大砂漠探索の功を認められ、操舵士から旗艦の艦長に昇格したのだ。
訪問団が使うのは飛行船だから、西メーリャ王国を飛び越すのも不可能ではない。飛行船は上空500m程度なら余裕で進めるし、条件さえ良ければ更に十倍もの高さに昇ることも出来る。
そこまで上昇すれば地上からの攻撃など届かないが、万一領空侵犯が露見したら修好どころではない。
そもそも航続距離の関係もあり、キルーシ王国から東メーリャ王国まで無着陸は難しい。
旅には玄王亀の長老アケロと番のローネが同行してくれるし、キルーシ王国から先は大砂漠に棲む朱潜鳳の夫婦フォルスとラコスの協力もある。
もし超越種達の力を借りたら無着陸横断できるし、その間を透明化の魔道装置で誤魔化すことも可能だ。しかし先に東メーリャ王国に行ったら、どうやって通過したか疑問に思われるだろう。
「早くシューナ様とお会いしたいですわ」
「残念ながら、キルーシ王国にはいらっしゃらないようです」
期待を顕わにしたヴァサーナに、セデジオが済まなげな顔になりつつ応じた。
シューナとは、まだ成体となったばかりの若い雄の玄王亀だ。もっとも若いというのは千年ほど生きる超越種の基準で、シューナは既に二百歳を幾らか超えている。
玄王亀は成体になると、光翔虎のように自身の棲家を探しに出かける。しかし長命な彼らだから短くても何年、長ければ百年近くも地中を放浪するという。
もちろん放浪の間を全く孤独に過ごすのではなく、二十年に一度に開かれる玄王亀達の会合には現れる。しかし前回の会合はシューナが旅立つ直前で、このままだと当分は彼と会えない。
そこでアケロ達は、シューナが向かったアスレア地方北部を訪れることにしたわけだ。
「シノブ殿にはお伝えに?」
「はい。昼前にフォルス様がお戻りになられ、ロラサス山脈の南側はズヴァーク王国も含めて調査済みだとお伺いしましたので」
リョマノフの問いに答えたのは、セデジオの部下のミリテオだ。
朱潜鳳も玄王亀と同様に、空間を歪めて地底を進む。そのためフォルスとラコスは、シューナの捜索に加わった。
普通なら超越種は、一人前の同胞がどこに行こうが気にしない。それでも探しているのは、最年少のケリスがシューナと会いたがっているからだ。
実はケリスに次いで若い玄王亀は、シューナなのだ。
ケリスは既に浮遊や地底への潜行も出来るし、他の子と同様に高い知能も持っている。しかし彼女は生後四ヶ月弱という幼さだから、長老や親世代も甘くなってしまうらしい。
「ズヴァーク王国にもいらっしゃらないか……」
「ロラサス山脈の北側なら西メーリャ王国かスキュタール王国ですわね……」
リョマノフとヴァサーナは、卓上に広げた地図を覗き込む。そこにはアスレア地方の全体が載っている。
キルーシ王国から見ると北に西メーリャ王国がある。しかし両国の間は東西に長く伸びるロラサス山脈が大半を塞いでおり、西の大砂漠に近い一部のみが人の行き来できる場所となっている。
このロラサス山脈はズヴァーク王国、つまり先日までのテュラーク王国へと伸びており、こちらも北のスキュタール王国との間を隔て、僅かに東端のみが空いている。
大雑把に表現すると、この四つの国は東側が下がった田の字状に分かれている。そして西南の角をキルーシ王国、以下同様に東南がズヴァーク王国、北西が西メーリャ王国、北東がスキュタール王国だ。
「その北、スキュタールと東メーリャの間かもしれんな」
「メーリャの二国にも結構な高さの山脈があるし、鉱物資源も豊富だと……」
イヴァールとパヴァーリは訪問予定の二国が記されている辺りに目を向けていた。
スキュタール王国の北には大山脈があり、更に北が東メーリャ王国だ。この山脈は両国を完全に遮っているから、行き来するには西メーリャ王国を経由する形になる。
しかもパヴァーリが呟いたように、メーリャの二国には条件に当てはまる場所が多かった。そのため両国に入ったら、多くを調査範囲とすべきであった。
ちなみにアケロ達は、人間の訪問と合わせて巡るつもりだという。長命な彼らだけあって、発見が数ヶ月かそこら遅れる程度は全く気にならないようだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「しかしお主達、本当にメーリャまで同行してくれるのか?」
「もちろんですよ。向こうに行けば国王にも会うでしょうから」
「キルーシ王国の王女とエレビア王国の王子として訪問したいのもありますわ。どうか遠慮なさらずに」
イヴァールの問い掛けに、リョマノフとヴァサーナは笑顔で応じた。キルーシ王国が用意してくれた案内人は、この二人だったのだ。
もちろん実質的な道案内は他にいるし、リョマノフ達が語ったように二人の国としても意味のあることだ。しかし実際のところ、これはアマノ同盟に対する両国からの恩返しであった。
「どちらもシノブ殿のお世話になりました……今も両国があるのはシノブ殿や皆さんのお陰ですよ」
「それに私達の縁を結んでくださったのも……」
おどけたように肩を竦めたリョマノフと、薄く頬を染めたヴァサーナは対照的だ。しかし双方からは共通する感情、シノブ達やアマノ同盟のために何か出来ればという思いが伝わってくる。
昨年秋、エレビア王国とキルーシ王国は国交樹立に漕ぎつけた。どちらも祖を同じくする王家を戴くが、およそ二百年前にキルーシ家がエレビア家を追い払った因縁がある。それ故両国には、長く正式な交流がなかったのだ。
しかし今は仲間として共に歩んでおり、その象徴である二人が結ばれる日も近い。半年後にヴァサーナが成人すればリョマノフは彼女の婿となり、二人はキルーシ王国の東部大太守として東の数都市を治めるのだ。
「準備もあるだろう? それにお主は航海がしたかったのではないか?」
「家臣達がやってくれますよ。それに空の航海も良い予行演習でしょう。少し修行してからナタリオ殿を追いかけます」
イヴァールが重ねて訊ねると、リョマノフは先刻と同じ冗談めいた口調で応じた。しかし若き王子の声音は、途中から強い熱意を滲ませたものとなる。
アマノ王国のイーゼンデック伯爵ことナタリオは、今も東域探検船団を指揮していた。彼は十二月から一月の初旬にかけて一旦は領地に戻ったが、つい先日復帰したのだ。
四ヶ月少々前のエレビア王国の騒乱の後、リョマノフとナタリオは親友として認め合う仲となった。それにリョマノフは元々海洋交易に憧れており、短期間だが東域探検船団で航海術を学んだこともある。
おそらくリョマノフは、可能なら東への航海に加わりたいのだろう。しかし今の彼はアマノ王国への礼を優先させたようだ。
「ズヴァーク王国はヴァルコフ義兄上にお任せすれば安心ですし、タジース王国もカルターン殿下が赴かれます。ならば私は、東西メーリャへの橋渡しをすべきでしょう」
リョマノフが挙げたのは、キルーシ王国とアルバン王国の王太子だ。
東部大太守に就任すれば、リョマノフとヴァサーナは領地と隣接するズヴァーク王国の窓口となるだろう。しかし今のズヴァーク王国は建国から二ヶ月も経っておらず、まだ若い二人では少々心もとない。
そのため次の国王であるヴァルコフが直々にズヴァーク王国に手を貸している。もちろん、これは善意からだけではなく、せっかく誕生した親キルーシ政権を支えるためだ。
そしてアルバン王国はキルーシ王国と共にズヴァーク王国建国に手を貸しつつも、東隣のタジース王国に訪れる準備も進めていた。こちらはシノブ達の希望である東への航路を確立するためだが、彼らにとっても魅力的な話であった。
東への航路は、エレビア王国からエルフのアゼルフ共和国、アルバン王国と伸びた。しかし現在のままだとアルバン王国は単なる終着点だから訪れる船も少ない。
これがタジース王国、そして更に東のイーディア地方へと伸びたら、アルバン王国の近海は東西を繋ぐ大動脈に変身する。各地方は大山脈に塞がれ陸路だと行き来できないから、海路は非常に有望なのだ。
そのためアルバン王国の王太子カルターンは東域探検船団に乗り込み、タジース王国への使者となっていた。そこでリョマノフは、自分は残る北方をと考えたのだろう。
「シノブはアスレア地方が一つに纏まってから、更に東へと進むつもりのようだ。実際には密かに東へと渡っているが、本格的な交流はアスレア地方も加えてからだと……」
「ご配慮、大変ありがたいです。ですが、世話になってばかりというのも恥ずかしい……やはり我らも働くべきでしょう」
イヴァールとリョマノフの顔と声には、隠し切れぬ喜びが滲んでいた。
髭で覆われたイヴァールの表情は分かり難いが、親しい者なら彼が若き王子との旅を楽しみにしていると察するだろう。そして髭のないリョマノフは間違えようのない輝く笑みで、冒険旅行への期待と歓喜を示している。
「ならば、今日も体を鍛えるか!」
「喜んで! メーリャのドワーフとも素無男で競ってみたいですし!」
立ち上がった二人の顔に宿ったのは、飽くなき求道心であった。一昨日と昨日、リョマノフはイヴァールから素無男を習ったのだ。
色々な点でイヴァール達と異なる西メーリャのドワーフだが、相撲に似た闘技を楽しむのは同じであった。そのためリョマノフも、エレビア王国とキルーシ王国の名を辱めないように学んでおこうと考えたわけだ。
「それでは観戦させていただきますわね!」
ヴァサーナも満面の笑みで続く。
今は大人しくしているヴァサーナだが、刀術を中心に各種の技を修めた武術好きである。そのため彼女は観戦だけでも大満足らしい。
ちなみに相撲と同じく素無男も女人禁制だ。幾ら何でも、まわしと革の半ズボンのみになるわけにもいかないだろう。
一同は午後に入ったばかりの庭へと向かう。その間もイヴァールとリョマノフは闘技について様々に語らい、ヴァサーナ達は微笑ましげに見守っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
そのころシノブは、シャルロットやアミィと共に自身の執務室にいた。といっても昼食の時間を逃したわけではない。
イヴァール達がいるキルーイヴと、ここアマノシュタットの時差は二時間近い。つまりシノブ達がいる『白陽宮』は、午前十時を回って幾らも経っていないのだ。
「シノブ、どうでしょう?」
「……ああ、問題ないよ」
シャルロットが持ってきた書類にシノブは目を通し、サインをして返す。
リヒトを出産したシャルロットは、以前と同じく国王預かりの三伯爵領を担当している。三つとも代官はいるが、シャルロットが束ねているのだ。
シノブは国全体と王領を担当しているが、これらも含め二人で意見を交わしつつ進めていく。そしてアミィや侍従長のジェルヴェを始め大勢の側近が、若い二人を支えていた。
もっとも側近達の大半は二人の従者や侍女だから、やはり年齢は若い。そのため国王の執務室は政務の場というより、学校か何かのような瑞々しさを伴う場所であった。
「それではアンナ……いえ、リゼット」
「はい、シャルロット様」
シャルロットは最古参の侍女アンナの名を挙げたが、同じくベルレアン伯爵領時代からのリゼットを呼び直す。
実は昨日アンナは結婚し、一週間ほどの休暇へと入っていた。彼女は同じ狼の獣人であるハーゲン子爵ヘリベルトの妻となったのだ。
今回の結婚式は三組の合同で、ヘリベルトを含む四将軍のうち続いて年長の二人も伴侶を得た。ちなみに残る二将軍と結ばれたのはシャルロットの護衛騎士だから、合わせて三名が休暇中である。
「そういえば、リョマノフとヴァサーナ殿の挙式も近いね」
「はい! 東部大太守の件もありますから、七月中を予定しているそうです!」
僅かに頬を染めた妻にシノブが助け舟を出すと、アミィも乗ってきた。
つい先ほど、シノブはアスレア地方北部訪問団の副団長であるテリエ子爵アレクベールからの文を受け取った。アレクベールはイヴァールが持つ通信筒を使い、シノブへと報告を寄越したのだ。
リョマノフ達の結婚式が半年後だとシノブは以前から聞いていたが、報告書を読んだばかりで強く記憶に残っていたのだろう。
「アスレア地方の結婚式がどのようなものか、楽しみですね」
「内容は殆ど同じようだけど、衣装が全く違うからね」
主達が雑談を始めたからだろう、側近も手を休めた。
例外は先ほど呼ばれたリゼットである。彼女は宰相ベランジェの執務室に、書類を届けに行ったのだ。
それはともかく側近のうち侍女や女騎士達は、何かを思うような表情となった者が多い。おそらく彼女達は、自身が嫁ぐ日を脳裏に浮かべたのだろう。
一方シノブの側仕えである少年従者達は、お茶などを飲んで一息入れるだけだ。こちらは未成年ばかりだから、あまり実感がないのだろう。
「でも、先にあるのは健琉と立花さんの結婚式か」
「二月末でしたね……来月から再来月にかけても祝い事が続きますね」
感慨深げな様子のシノブに、シャルロットは微笑みかける。
二人が触れた通り、来月末にヤマト王国の王太子タケルが長く思い続けたタチハナを迎える。タケルには更に三人の婚約者が待っているから、タチハナが成人すると間を置かずに挙式するのだ。
ここアマノ王国では2月14日にシノブが二十歳となり、その翌日は岩竜の子ファーヴが一歳を迎える。更に翌3月3日は、ミュリエルの十一歳の誕生日である。
そして二月後半から三月にかけては、出産が続く。イヴァールとティニヤ、シメオンとミレーユ、マティアスとアリエル、そしてアルノーとアデージュが子を得るのだ。
慶事はアマノ王国だけではない。
二月中にはカンビーニ王国の女公爵フィオリーナが、つまりシャルロットの側近マリエッタの母が出産する筈だ。そのときは転移でマリエッタを故郷に送るし、他と重ならなければシノブ達も祝いの輪に加わる。
もちろん他にも様々な祝い事があり、更に日々の仕事もある。こうなると、先日までのように気軽に出かけるのは難しいかもしれない。
「ルゾンさんが捕まらなかったのは残念だね」
シノブが触れたのはヤマト王国の交易商で、南方に航海して大儲けした人物である。
この本名を堺屋助三郎、別名を呂尊助三郎という人物は再び航海に乗り出していた。そのためタケルが派遣した使者と擦れ違いになったのだ。
「ええ。ですが筑紫の島に寄るようですし、そのときは熊祖威佐雄殿が留めてくださいます」
「それにスワンナム地方やカンは、皆さんが探ってくれますから」
シャルロットとアミィは、微笑みを浮かべていた。どうやら彼女達は、シノブの無念そうな様子を面白く感じたらしい。
二人の言う通り、対策は打っている。
ルゾンの選んだ航路は店に残った者から聞き出せたから、魔力無線で筑紫の島の王イサオに伝えた。そのためルゾンがヤマト王国を出る前に接触できるだろう。
そして謎多き二つの地方、地球の東南アジアや東アジアに当たる場所は超越種達が空から探ってくれる。他の地方に渡った禁術使いや魔獣使いがいたのは二百年以上昔らしいが、今はどうなっているか概要だけでも確かめに行くのだ。
姿消しや透明化の魔道具を使って観察するだけで、それも大雑把に各地を巡るのみだ。しかし大規模な戦乱などの明らかな異常があれば、充分に掴めるだろう。
「申し訳ありません……」
「やあ、シノブ君!」
そんなことをシノブが考えていると、二人連れが執務室に入ってきた。宰相の執務室から戻ったリゼットと、部屋の主である宰相ベランジェだ。
「義伯父上……その格好は?」
「キルーシ王国でのことを聞いたのですか?」
シノブに続き、シャルロットが呆れたような声を漏らす。
しかし、それも無理はない。何とベランジェは、まわしを締めていたのだ。
寒い時期だからであろう、ベランジェは肌を晒していない。しかし、まわしを美麗な服の上から着けた姿は、余計に珍妙であった。それにドワーフを真似たらしき長い付け髭と鬘が、おかしさを何倍も増している。
「その通りだよ! リョマノフ王子も習っているそうだから、私もと思ってね!」
床に手を付き仕切りのような格好をしたり突き押しのような仕草をしたりと、ベランジェは忙しい。
しかしベランジェはメリエンヌ王家の恵まれた魔力を受け継ぐ一人で、更に武人として充分な修練を重ねている。そのため息を切らすことなどないし、案外と様になっている。
「シノブ……」
「義伯父上、そんなに素無男がお好きでしたら、後で私が相手します……全力で」
シャルロットの意図を悟ったシノブは立ち上がり、続いて殊更に恐ろしげな声を作りベランジェに語りかけた。
すると執務室に痛いほどの静寂が訪れた。
従者や侍女達は首を竦めている。もしかすると、外に匹敵する寒さを感じたのかもしれない。
「し、シノブ君、それは死んでしまうよ!」
「だったら宰相として致命的な行動は避けてください。もし改めないなら、付け髭や鬘と一緒に地毛も毟りますよ?」
素っ頓狂な悲鳴を上げるベランジェに、シノブは意地悪そうな笑みで応じる。そしてシノブの宣告に、ベランジェは大袈裟な悲鳴と共に指摘された二つを放り出す。
大慌てのベランジェ故だろう、凍りついた場が元に戻る。そしてシャルロットやアミィ、更にジェルヴェに側仕え達も含め、皆が声を上げて笑い出す。
笑声が満ちる中、シノブは遥か東のイヴァール達のことを思い浮かべた。
イヴァール達もメーリャの二国で微笑むだろう。どんな困難があっても彼らなら乗り越え、両国に幸を齎す。その思いから、シノブもシャルロット達と同じくらい顔を綻ばせた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年9月9日(土)17時の更新となります。
以下、前回以降の関係作品更新状況です。
・異聞録 第46話、第47話
上記はシリーズ化しているので、目次のリンクからでも辿れます。