23.33 幸せの形 中編
「本当に日の出前なんだね! それに寒い!」
魔法の馬車から降りたチュカリは、くりくりした目を大きく見開いて叫んだ。
ここアマノシュタットは北緯45度を幾らか上回る。したがって一月半ばの今だと日の出は七時半よりも遅いし、多くの日は昼を除けば氷点下だ。
それに対しチュカリが住むナンジュマは南緯27度で、しかも時差が八時間ほどもあるから一日で最も暑い時間を過ぎたかどうかである。そのため転移前の気温が30℃以上あったのは確実だし、そもそも彼女は氷点下など経験したことすらない。
時差や寒さについては転移を待つ間に伝えたし、アミィがコートやマフラーを貸したから防寒も万全だ。
しかし実際に肌身に感じると、やはり驚くしかないだろう。チュカリは薄暗い空を見上げ、冷たい風に首を竦めつつも興味深げに周囲を見回す。
「初めまして。シャルロットお姉さまの妹、ミュリエルです」
「シャルお姉さまの従姉妹のセレスティーヌです。仲良くしてくださいね」
魔法の馬車を呼び寄せたのは、ミュリエル達だった。二人は前に進み出ると、柔らかな笑みと共に自己紹介をする。
普段と違う砕けた物言いで、目線を合わせるように身を屈めて。相手は僅か七歳のチュカリだから、二人は出来るだけ堅苦しさを避けたようだ。
一方で内密にすべきと思ったのだろう、側に控えているのは護衛騎士が二人だけだ。それも小宮殿護衛騎士隊の隊長サディーユと副隊長のデニエという念の入れようである。
ちなみに既に六時を回っているから、宮殿の一日は始まっている。そのためだろう、魔法の馬車が出現したのは目立たない裏庭だ。
「あっ、はい! チュカリです!」
しかしチュカリは緊張も顕わに応じる。彼女はシノブが一国の統治者だと知ったから、ミュリエル達への接し方を戸惑ったらしい。
ナンジュマは町を興した十家による合議制で、王はいない。しかし十家は貴族のような権勢を誇っているし、一族も相応の敬意を払われている。
そのためチュカリは、とりあえず王家を十家と同じようなものとしたようだ。
「普段通りで良いんだよ。二人は俺の家族ってだけさ」
「そうですよ。そしてチュカリは私達の友人です」
「う、うん!」
シノブとシャルロットが笑いかけるとチュカリは普段の口調に戻り、更に安心したように顔を綻ばせる。それにミュリエルやセレスティーヌも嬉しく思ったのだろう、表情を大きく和らげた。
「お待たせしました! さあ、中に入りましょう!」
アミィは魔法の馬車を仕舞うと、朗らかな笑顔と共に振り向いた。そして彼女は、促すように一同の先に立って歩き出す。
「ああ、外は寒いからね」
「うん! ……しかしシノブさん、凄いねえ。中央神殿より、ずっと高いよ」
シノブの言葉に、チュカリは笑顔で応えた。しかし彼女はアミィが進む側へと顔を向け直すと、感嘆とも呆れとも言えぬ表情になる。
チュカリが見つめる先にあるのは『小宮殿』だ。ここは『白陽宮』の奥庭の一つで、すぐ近くには純白の宮殿が聳え立っていたのだ。
チュカリが挙げた中央神殿とは、三階建てに相当するナンジュマで最も背が高い建物だ。
しかし『小宮殿』は四階建てで、更に中央の上には大きなドームもある。それに『小宮殿』は一階ごとの高さもあるから、ナンジュマの中央神殿に比べると倍近いかもしれない。
この巨大な建物で暮らしていると思ったからだろう、シノブを見上げるチュカリの表情は尊敬めいたものとなっていた。
「大きいのは確かだね。ともかく入ろう、着替えもあるから」
「ええ。このままでは街を巡るわけにはいきません」
シノブと共に、シャルロットはチュカリの手を取る。そして三人はゆっくりと宮殿へと歩き出した。
魔法の馬車から降りた四人は、アウスト大陸の衣装の上から外套を纏った状態だ。このうちチュカリ以外の三人は容貌を元に戻して頭に巻いていた布も取ったが、コートの裾から出ているのは見慣れぬ真紅の服と飾り気のない革靴である。
このままでは街どころか『大宮殿』に行くのも躊躇われる。
ちなみにミュリエルとセレスティーヌは普段用のドレスの上から毛皮のコート、護衛のサディーユ達は当然ながら軍服姿だ。今はシノブ達四人もコートを着けているから目立たないが、仮に取ったら大違いである。
「そうだねえ……あんなに違うんだものね。……それでどんなのを着るの? あの女兵士さん達みたいなのかな?」
どうもチュカリは、サディーユ達の軍服に興味を示したらしい。
チュカリは活動的で、しかもモアモアに乗るのが仕事だからズボンのようなものを穿いている。そのため彼女は、ドレスより軍服に親近感を抱いたのかもしれない。
アウスト大陸の衣装は緩やかな構造で、チュカリが着ているのも下は裾を絞った袴を思わせる。したがって印象は随分と異なるが、スカートより近いのは確かだろう。
「こちらのなら好きな服で良いけど……でも、軍服っぽいのも良いかもね」
「そうですね。チュカリに見せたいものがありますし」
「見せたいものって?」
シノブとシャルロットが思わせぶりな会話をしたからだろう、チュカリは二人に訊ねかける。それにミュリエルやセレスティーヌも物問いたげな顔となっていた。
「きっとチュカリなら気に入ってくれるよ」
「ふ~ん。なら、楽しみにしておく!」
シノブの意味深な言葉と表情に、チュカリは何かを感じたらしい。そして彼女は宣言通り期待で顔を輝かせながら、眩い宮殿へと入っていった。
◆ ◆ ◆ ◆
服を着替えたシノブ達は、約束通りチュカリをリヒトと会わせた。
もっともリヒトは生まれて二ヶ月半の赤子でしかない。そのため育児室でチュカリが声を掛け、リヒトが上機嫌な声で応じただけである。
アミィに借りた軍服風の衣装へと着替えたチュカリは、乳母達と共に揺り籠を覗いているのだ。
一方シノブ達は、脇のソファーで軽いものを食べていた。チュカリは向こうで昼食を済ませたが、シノブ達はまだだったのだ。
食事をしているのは出かけた三人と迎えたミュリエル達、それに軽食を用意したタミィだ。楽しげなチュカリとリヒトの声に笑みを浮かべつつ、六人はサンドウィッチのような具を挟んだパンを食べている。
ちなみにシノブ達も、タミィ以外は外出用の衣装に変えている。
お忍びで巡るからシノブとシャルロットは騎士の装いだ。アミィも同じく軍服風の衣装、それにミュリエルやセレスティーヌも騎士見習いのような服である。
ちなみにミュリエルとセレスティーヌは、シャルロットと同様に髪を綺麗に結い上げている。アミィのように肩に掛かる程度なら流すだけで問題ないが、二人のような長髪だと邪魔になるから多くは結う。
鎧を着けない場合は纏めるだけでも充分だが、非常時に備えて勤務中は結い上げるのが女騎士の嗜みなのだ。
「この玩具、振ると良い音がするねえ! こっちには、こんな面白いのがあるんだ!」
「あ~、あぅあ~」
チュカリが感心したような声を上げると、揺り籠の中でリヒトはガラガラのようなものを振り上げた。
一方のシノブ達だが、何れも微かな笑みを浮かべている。何故ならリヒトが握っているのは、戦の神ポヴォールが贈った神具『勇者の握り遊具』だったからだ。
名前に相応しく身体能力を向上させる神具だが、そのようなものは魔道具製造が盛んなアマノ王国にも存在しなかった。むしろ各種の魔法植物の方が、近い効果があるだろう。
「ラーカさんの探しものは、如何でしょう?」
セレスティーヌは少々曖昧な表現で問いを発した。おそらくチュカリが側にいるからだろう。
嵐竜ラーカの加護の手掛かりを見つけるべく、アウスト大陸に多くの超越種が渡った。ラーカ自身や他の子供達、更に支援する親達などだ。
アマノ号に置いた魔法の家を拠点とし、その中に体を置いて人間同様の外見の木人で集落を巡る。木人に憑依した親子が組となって集落で聞き込み、更に別の成体が空から見守るというものだ。
移送鳥符の技術で改良した木人は、数十km遠方でも操作できる。そのため一度に多数の集落を探れるし、その範囲なら超越種達は思念でやり取りできる。
この極めて効率の良い探索方式に、セレスティーヌは大きな期待を抱いたらしい。
「気になる話を仕入れたよ」
既にシノブには、オルムル達からの連絡が入っていた。向こうにはシャンジーなど通信筒を持った者もいるから、進展があれば教えてくれるのだ。
そのため謎の魔獣使いの伝説も、シノブの知るところとなっていた。
シャンジーが纏めた文によれば、同様の言い伝えを複数の集落で耳にしたそうだ。
魔獣使いは三つの魔獣を従えていた。魔獣には人間のように直立可能で毛むくじゃらなものがいた。今のキビキビの団子の元となったのは魔獣使いが用いた道具だ。ただし魔獣使いが作る団子には特別な成分が含まれており、今の元気になる薬とは違う。
どれもオルムル達が聞いたものと、殆ど変わらない。それに時期も遥か昔、おそらくは二百年以上というのも共通している。
ちなみにチュカリの住むナンジュマや近辺に、この話は伝わっていないようだ。
ナンジュマはアウスト大陸の東海岸に近く、南北なら中間くらいだ。それに対し今回調べているのは北海岸の側で、ナンジュマから北西に2000kmほど離れた場所である。
両者の間には砂漠や魔獣の領域もあり、行き来は可能だが遠回りするしかない。したがって同じ大陸だが、直接的な交流はないらしい。
「二百年以上前ですから、ヴィルーダの可能性も?」
「時系列としてはあり得るけどね」
ミュリエルの問い掛けに、シノブは首を傾げつつ応じた。
アーディヴァ王国を操った禁術使いヴィルーダは魔獣を式神としたくらいだから、魔獣使いの技も修めていたかもしれない。それにアーディヴァ王国の初代国王ヴァクダがヴィルーダと会ったのは百八十五年前だ。
しかしヴィルーダが魔獣使いで時期的に可能だとしても、それだけでしかない。
ヴィルーダは憑依術を悪用して新たな体に乗り移りながら何百年も生きたし、時間さえあれば遥か遠方でも行き来できるだろう。とはいえアウスト大陸は広大な魔獣の海域に囲まれ、今まで調べた範囲だと他の地方との交流はないらしい。
もちろん魔術師や魔獣使いなら、何とかするかもしれない。しかし同一人物とする根拠には弱いと、シノブは思ったのだ。
「向こうでも他所から来た可能性は考慮しています」
「どうも問題の魔獣使いは、特定の個人か同じ集団みたいですし……」
シャルロットとアミィも、声を潜めつつ話に加わる。双方とも食事を終えたのだ。
超越種達が聞き込んだ話は、どれも元が同じなのか極めて似通っていた。せいぜい何十km以内という範囲だから不思議ではないが、猿のような魔獣について触れている逸話が他にないのだ。
そもそもアウスト大陸に、猿のような動物はいない。木登りをする動物や物を掴む動物はいても、更に二足歩行までとなると人間だけなのだ。
そのためオルムル達は、該当する魔獣を探すことにしたそうだ。人間は知らなくとも魔獣の領域の奥深くに隠れているかもしれないし、大陸を囲む魔獣の海域に生息地の島があるかもしれない。そして魔獣を発見すれば、近くの集落で再び探るというわけだ。
ちなみにアウスト大陸から最も近いスワンナム地方には、魔獣と普通の動物の双方に猿はいる。魔獣であれば山岳には岩猿、平地の森林には森猿というのがいるそうだ。
「兄上は『アウスト大陸に連れていきなさい』と言っただけだからね」
シノブは立ち上がり、リヒト達のところへと向かう。そして片付けをするタミィ以外も、同じく揺り籠のある一角へと進んでいく。
シノブは知恵の神サジェールの助言を思い返していた。
海竜リタンをイーディア地方に、嵐竜ラーカをアウスト大陸に連れていくようにとサジェールは語った。しかし彼は、自身が告げた地で加護を授かるとは言わなかったのだ。
リタンがイーディア地方のシャプラで加護に目覚めたから、シノブはラーカもアウスト大陸で得ると思った。だが、それは早計だったかもしれない。
もっとも手掛かりがあるのは確かだろう。したがって周辺へも視野を広げつつ、アウスト大陸も探れば良いだけだ。
「食事、終わったの?」
「ああ。待たせたね、出かけようか」
振り向いたチュカリに、シノブは笑顔で頷いた。そしてシノブは育児室の扉を指し示す。
「うん! ……あれ、タミィさんは行かないの?」
「私は神殿ですので。楽しんできてください」
チュカリが問うと、タミィは片付けを続けながら応じる。
今はホリィ、マリィ、ミリィの三人とも遠方に出かけたままだから、タミィが大神殿での仕事を一手に引き受けている。外見はチュカリより幼く六歳かそこらにしか見えないタミィだが、彼女は大神官補佐なのだ。
「そうなんだ……大神官様のお側で頑張ってね! ……シノブさん、こっちの神殿も見たいな!」
「チュカリ、実はアミィが大神官なんだ」
勘違いしているらしきチュカリに、シノブは真実を教えた。伝えるべきことは沢山あったから、アミィに関してはシノブの側近としての面しか説明していなかったのだ。
「えっ! 大神官様!?」
「はい……殆どの時間をシノブ様の側で働いていますが……」
チュカリが叫び、アミィが恥ずかしげに頬を染める。
残るシノブ達は、微笑みと共に二人を見つめている。あまり大仰な反応をしたらチュカリが可哀想だし、今まで伝えなかったのは自分達だから失礼というものだ。
「あぅ~、あ~」
「ありがとう、行ってくるよ。……アネルダ、イモーネ、リヒトを頼むよ」
声と同時に思念めいたものを発する息子に、シノブは同じく双方を用いて応じた。そしてシノブは当番の乳母達に声を掛け、チュカリやシャルロット達と共に育児室を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆
「流石はチュカリ、見事だね」
シノブは愛馬リュミエールの背から、隣を進むチュカリへと笑いかけた。シノブ達は馬で王都アマノシュタットに出たのだ。
そしてシノブが賞賛した通り、チュカリは馬を乗りこなしていた。『白陽宮』の馬房で選んだ軍馬に、彼女は一人で騎乗しているのだ。
それもリュミエールほどではないが並よりも遥かに大きい黒馬で、まだ若いが威風堂々というべき名馬である。
「そ、そうかな……」
「ええ、大したものですよ。これなら立派な騎士になれるでしょう」
チュカリが照れたのか頭を掻くと、シャルロットが反対側から褒め称える。もちろんシャルロットも、ベルレアン伯爵領からの相棒アルジャンテの上である。
実際チュカリは賞賛されるべきだろう。彼女は僅か三十分ほどで、自在に操るようになったのだ。
軍馬だから馬体は大きいが、そこは大人の背の倍ほどもある巨鳥モアモアを乗りこなすチュカリである。
モアモアの背中までは2m以上もあるから、跨るのは馬より困難だ。よじ登るための綱は鞍から下がっているが、彼女は大柄な虎の獣人とはいえ僅か七歳である。
しかしチュカリは綱を使わず鐙に飛びついて騎乗する。そして彼女は軍馬も同じように一挙動で飛び乗ったのだ。
「本当に……」
「全くですわ……いえ、全くです」
同じく騎乗したミュリエルとセレスティーヌが続く。どちらもシノブ達と外出できるよう、乗馬の腕を磨いたのだ。
ミュリエルは高度な身体強化が出来るくらいだから、今では騎士といっても恥ずかしくない腕の持ち主となった。それにセレスティーヌも、普通に乗る分には問題ない。
ちなみに他に同行しているのは表向きアミィだけだが、周囲は多くの護衛が固めている。アミィが通信筒を使ってシノブの親衛隊長エンリオに知らせ、エンリオは部下が携帯する魔力無線装置を使って先回りなどの指示を出しているのだ。
既に個人用の魔力無線は実用の域に入っており、軍でも大いに活用されている。ただし短距離の個人用でも、まだ20kgほどもあるから気軽に持ち運ぶには少々辛い。
「て、照れるよ……しかし凄い街だねえ。ここだけでもナンジュマの十何倍か人が住んでいるって聞いたときは驚いたけど、これなら納得だよ」
少々蓮っ葉な口調なチュカリだが、馬上だから周囲には聞こえていないらしい。
アマノシュタットの大通りは幅が50mはあり、しかも車道と歩道は分かれている。そして蹄の音もあるから、歩いている者達までチュカリの声は届かないのだろう。それに同じ車道を進む馬車や馬も、騎士達に距離を詰めるようなことはしない。
そのためシノブもナンジュマなどといった言葉が出ても、注意することなく流していた。
もっとも誰かが聞いていたとしても、遠い異国から来た親戚の子でも案内していると受け取ったかもしれない。アマノ王国には他国から多くの人が移り住んだし、その中には遥か南のアフレア大陸から来た者もいる。最近では東のアスレア地方まで加わったから尚更である。
そういった事情もあるから、シノブはチュカリに変装の魔道具を使わなかった。身なりさえしっかりしていれば、異国風の容貌の方が誤魔化せると読んだのだ。
「この大通りもそうだけど、宮殿や大神殿も凄かったし……。でも、これはアマノ王国のごく一部なんだよね?」
チュカリは今まで目にしたことを思い浮かべているらしい。
『大宮殿』には入らなかったが『小宮殿』も王族が暮らす場だけあり、充分に壮麗な建物だ。輝くような白壁には見事な絵画が多数飾られ、それどころか天井も緻密な絵が彩り、床ですら寄せ木細工で目を楽しませる。もちろん調度も名匠が技を競った代物で、しかも金銀や宝石を惜しげもなく使っている。
宮殿の敷地は何個かあればナンジュマが入ってしまいそうな規模で、厩舎には名馬が並んでいる。大神殿も同様で、広い敷地に煌めく聖堂、そして思わず見惚れてしまう精緻な神像である。
これらを目にしたチュカリが感嘆の表情となるのも、無理からぬことだ。むしろ変わらず普通にシノブ達と接している彼女は、別して強い心の持ち主に違いない。
「そうだね。アマノシュタットの人口は九万人で、国全体だと二百五十万人を超える。色んな人が、色んな思いを抱きながら生きているんだ」
「本当にね……宮殿の人に、神官様、勉強しに来た子達、お店の人達に兵士さん達、さっき会った大工さんの一家も……。きっと王様が凄く良い人なんだね!」
シノブが感慨深げな声で応じたからだろう、最初チュカリも真顔で言葉を紡いだ。しかし彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべると、名を伏せつつもシノブを称える。
ここアマノシュタットには様々な暮らしがある。
宮殿で暮らすシノブ達から普通の町家で暮らす人々まで。内政官や武官から商人や職人まで。それらの多くはチュカリが暮らすナンジュマにもあるが、アマノシュタットほど多様ではなく極端な違いもない筈だ。
「それにドワーフやエルフもね……」
この二つの種族について、チュカリは存在を知るのみだった。
アウスト大陸の場合、ドワーフは南に浮かぶゴディア島に住むのみだ。それにエルフも森を出ないから、普通の人族や獣人族からすると無縁な存在である。
そのためチュカリはアマノシュタットに住むドワーフやエルフに、とても驚いたらしい。しかし彼女は、すぐに彼らが自分と変わらないと気付いた。そしてアマノ王国では、四種族が親密に交流しているとも。
「チュカリ……」
「きっと大神アムテリア様もお喜びだと思う! だって色んな人がいるけど、皆とても楽しそうにしているから!」
シノブは頬を染めるが、チュカリは気付いていないのか更に賛辞を贈る。
いや、チュカリはシノブの内心を察しているに違いない。何故なら彼女の瞳は、陽光に照らされた雪よりも輝いていたからだ。
チュカリは幼いが、既に様々な人を知っている。
助け合い共に生きる近所の人々、そして街道で運んだ人々。彼らにも商人や職人はいるし、神官や武人などもいる筈だ。そして彼らには、ここと同じく富める者も貧しい者もいたに違いない。
それらの経験がチュカリに告げたのだろう。ここアマノシュタットの人々は、明日に希望を持って生きていると。
「ええ。もちろん不満を抱く者はいます。しかし多くは今日を楽しく過ごし、明日を更に良い日にしようと意欲を燃やしているでしょう。チュカリが暮らすナンジュマと同じで」
シノブと違い、シャルロットは照れていなかった。
シャルロットは生まれながらの貴族である。そのため賞賛される機会も多いし、美辞麗句も珍しくないだろう。そして領地持ちであれば、褒める対象は統治についてとなるに違いない。
もちろんシノブも領地を得てからは、そういった言葉を数限りなく耳にした。とはいえシノブはフライユ伯爵となってから一年を過ぎたばかりで、領地がないブロイーヌ子爵から数えても二ヶ月追加されるだけだ。それに対しシャルロットは十九歳だから、シノブとは随分と年季が違う。
「ともかく、次に行こうか」
「うん! 町の中より、外で走りたいからね!」
シノブの言葉にチュカリは更に顔を輝かせた。
もっとも今度は純粋な歓喜で、子供らしいといえる表情だ。これからチュカリは、シノブ達と共に軍の演習場に行き、本格的に馬を走らせるのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
エウレア地方の国々の幾つかでは、『戦場伝令馬術』というものが非常に重視されている。
これは戦場を駆けるための技で、坂を駆け登り濠を渡り、生け垣などの障害を飛び越す軍事訓練の一環である。そのため騎士は高記録を競い、一秒でも速く駆けようと血道を上げる。
「行け! シュバシュバ!」
チュカリが叫ぶと、彼女の乗馬が見事に生け垣を飛び越えた。
シュバシュバとは、チュカリが乗る黒馬である。本当はシュバルツケーニヒというアマノ王国風の名だが、チュカリはアウスト大陸の生き物や物に多い二音節の繰り返しで呼んでいるのだ。
チュカリの家のモアモアもモリモリやモエモエといった名だし、向こうの産物にもキビキビの団子のように類似の呼び方は珍しくない。そのため彼女は呼びやすい愛称としたのだろう。
エウレア地方でも、名の一部を取って愛称とすることは多い。実際にシノブのリュミエールはリュミ、シャルロットのアルジャンテはアルとしている。
そんなこともあってかチュカリの黒馬も一風変わった愛称を受け入れたらしい。
人馬は次の障害、大きな空堀を難なく飛び越えると、再び全力疾走に入っていく。その様子は長年を共にした騎士と愛馬のようですらあった。
「これは本当に凄いね!」
「ええ!」
シノブとシャルロットは、チュカリの後を追いつつ笑みを交わした。
二人は全力ではないものの、それでも伝令騎士の平均を超えるペースで追っていた。しかしチュカリに追いつくどころか、少し足を速めたくらいである。
「チュカリさん、凄いです!」
「ええ、本当に!」
こちらはミュリエルとセレスティーヌだ。
高度な身体強化が出来るミュリエルはシノブ達を追って『戦場伝令馬術』のコースを疾走していた。一方セレスティーヌは騎士なら並程度の強化しか出来ないから、併設されている普通に整地されたコースを多少遅れて追いかけている。
「無理しないでくださいね!」
アミィはセレスティーヌのお守りである。彼女も通常のコースで、セレスティーヌの馬の少し後方だ。
「あの子を護衛騎士にしてみたいものじゃな」
「うん、良い戦士になりそう」
馬場の一角では、護衛として随伴したマリエッタとエマが言葉を交わしていた。
マリエッタは武王が治めるカンビーニ王国の公女として、幼いころから武芸を仕込まれた。その中には馬術も当然あり、彼女はカンビーニ王国の武術大会では『戦場伝令馬術』にも出場したくらいだ。
一方のエマはアマノ王国に来てから馬術を学んだが、故郷のウピンデムガでゾウに騎乗して戦った経験が活きたようで幾らもしないうちに上達した。流石にマリエッタほどではないが、彼女も充分に名人と呼べる域には達している。
そのため今は護衛騎士として控える二人だが、自身も駆けたくてうずうずしているようだ。
「アウスト大陸での生活もありますぞ。とはいえ、儂も育てたいとは思いますが……」
「お爺様……」
窘めつつも乗り気な様子を隠さないエンリオに、孫のミケリーノが微笑みを浮かべる。
ミケリーノはシノブの従者の一人だが、姉のソニアや養父となった叔父のアルバーノから諜報の訓練も受けている。そのため彼は、こういったお忍びに随行することが多いのだ。
「そうじゃな……人それぞれに生きるべき場所があり、幸せがある。……あの早駆けを見れば、故郷でどれだけ充実していたか一目瞭然じゃ」
「そう思う。馬も人も、とても楽しそうに駆けているもの……。あの子は自分の道を見つけている……エマ達と同じで」
やはり一流は一流を知るのだろうか。マリエッタとエマはチュカリの力量を見抜き、更に彼女の暮らしぶりすら察したようだ。
「おや? 陛下が……」
「通信筒でしょうか?」
一方エンリオとミケリーノは、シノブへと目を向けていた。
つい先ほど、シノブは胸元に手を当てた。おそらくはミケリーノが口にしたように、通信筒に何らかの連絡が入ったのだろう。
シノブはリュミエールを走らせたまま通信筒の蓋を開け、中から紙を取り出した。疾駆する馬上でも、魔力で包んで通信筒や紙を押さえれば充分に可能なのだ。
「シャルロット! オルムル達が手掛かりを掴んだ!」
「では、向こうに!?」
シノブとシャルロットが交わした言葉に、マリエッタ達は色めきたった。といっても、非常事態に驚愕したわけではないらしい。
「アウスト大陸とやらに行けるかもしれんの!」
「エマも楽しみ!」
興奮のあまりか、マリエッタとエマは子供のように無邪気な笑みを浮かべた。それにエンリオやミケリーノも興味津々らしく、こちらも瞳を輝かせている。
「チュカリ、ちょっと早いがオルムル達のところに行くよ!」
「えっ、もう竜と会えるの!?」
速度を上げて並んだシノブに、チュカリは喜びも顕わな声で応じた。元々シノブは、チュカリをナンジュマに送り届ける前にオルムル達と会わせるつもりだったのだ。
三頭が綺麗に並んで戻ってくる。チュカリの乗る黒馬が中央、シノブとシャルロットの白銀の名馬が左右である。リュミエールとアルジャンテは兄妹だから駆ける姿も似ており、ますます美しい。
そして馬上の三人は危険な場所に行くとは思えないほど輝かしい笑みを浮かべている。そのためだろう、到着を待つマリエッタ達の顔も、同じくらい綻んでいた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年8月26日(土)17時の更新となります。