23.15 神王虎 中編
シャンジーが打った芝居で、パルタゴーマの城門守護隊は慌ただしく動き出した。街の中央へと向かって走る者は領主への報告、城壁の上を駆けていく者は他の城門への伝達だろう。
そのためパルタゴーマへの出入りは暫し中断となったらしい。城門の外と内には足止めされた人々が困惑も顕わに立ち尽くしている。
「さっきの光る虎……神王虎だったか……お前、何か知っているか?」
「いや……」
人々は小声で言葉を交わしている。どうやら彼らは、下手なことを言って兵士達に咎められたらと思っているようだ。
「虎が空を飛ぶなんて……」
「消えちまったけど、どこに行ったんだろうな?」
街の者達は神王虎について何も知らないらしい。彼らは皆、怪訝そうな面持ちで周囲や空を見回すだけである。
ちなみにシノブ達は未だ上空に留まったままだが、姿消しや透明化の魔道具を使っている。そのため守護隊や街の者が気付くことはない。
──俺はシャルロットとマリィに連絡する。アミィはタミィに伝えてくれ。神王虎について、バージ達の意見が聞きたい──
──はい、シノブ様!──
シノブはアミィと思念を交わす。
どうやらオルムルは、謎の夢で『神王』という言葉を聞いたらしい。しかも神王とは、オルムルですら恐怖を感じる並外れた存在のようだ。
そこでシノブは、ただちに他にも知らせることにした。
まずシノブは、サシャマ村にいるシャルロットに通信筒で文を送る。シャルロットはホリィ、炎竜シュメイ、光翔虎フェイニーと共に、村を守るため残っているのだ。
サシャマ村の長サンジャは、断片的だが神王虎に関する言い伝えを知っていた。彼なら神王についても何らかの知識を持っているかもしれないから、シャルロット達に確かめてもらう。
次にパルタゴーマの領主を探るべく潜入中のマリィにも、同じく通信筒で伝える。領主や一族であればサンジャよりも多くの知識を持っているだろうから、こちらは更に期待できる。
アミィは同じように、アマノシュタットにいる妹分タミィへと知らせる。神王虎について、エウレア地方の光翔虎達に問い合わせるよう指示したのだ。
神王虎は輝く巨体の虎で、空も飛べるという。つまり光翔虎そのものか、似た存在だと思われる。しかも光翔虎には、東の地に棲む者もいるらしい。
フェイニーは叔母、シャンジーは伯父が遥か東にいると言うが、詳しい場所までは知らなかった。そこでシノブは、双方の親に訊こうと思ったわけだ。
フェイニーの父バージは六百歳以上、母のパーフも五百歳を超えている。シャンジーの両親フォージとリーフも三百歳以上だ。更にダージとシューフ、フェイジーとメイニーの番もいる。
光翔虎の雄は成体になると番を得るまで各地を放浪するから、イーディア地方を訪れた者もいるだろう。それにシャンジーの伯父やフェイニーの叔母も、たまには故郷に戻ったかもしれない。
したがって親世代なら、彼らの棲家を知っている可能性はある。
──こちらにも森があるって聞きました──
──随分と大きいそうですが──
──そうだよ~。南の海に近い方にね~──
こちらは嵐竜ラーカと岩竜オルムル、そして光翔虎シャンジーだ。どうやらシノブ達が連絡を終えるまで、雑談で時間を潰すことにしたらしい。
ここイーディア地方は地球でいうインド亜大陸に相当する場所で、北の高山帯から南の半島の先までが2000kmを超える広大な地だ。そしてシャンジーによると光翔虎が棲めそうなくらい大きな森は、半島の西側の海岸沿いと南の内陸部にあるという。
前者は半島の西海岸の大半を占め、その長さは1500km近い。あまり内陸に広がっていない帯状の森林地帯だが、面積は充分だという。
後者は直径200kmを超えるそうで、こちらも条件は満たす。これは半島の先端から500kmで、海には面していないという。
他にもイーディア地方には大きな森が幾つもあるが、それらは光翔虎が棲むほどの規模ではないそうだ。
ちなみにパルタゴーマやサシャマ村の周辺に森はないから、光翔虎は棲んでいないと思われる。
ここから少し西に行くと砂漠だから、かなり乾燥した土地柄だ。そのため町や村が存在するのは伏流水を活用できる一部だけ、他は岩の目立つ荒野なのだ。
これはパルタゴーマの領内だけではなく、アーディヴァ王国全体も同じだという。そのためアーディヴァ王国は、海を持つ南の隣国を狙っているそうだ。
──それがリシュムーカ王国でしたね! 僕はそっちに行ってみたいな──
嵐竜らしく、ラーカは海に惹かれたようだ。
一般に嵐竜は赤道に近い絶海の孤島で子供を産むし、大きくなってからも台風などが多い海の上空で暮らす。そしてイーディア地方の南洋は暖かい時期になれば熱帯低気圧が発生するから、彼らが好む場所の一つだと思われる。
──そちらはどんな国なのですか?──
──ホリィ殿やマリィ殿の話だと、ここより穏やかみたいだよ~。それに東の二つの国もね~──
オルムルの問いに、シャンジーは大雑把な表現で応じた。
シャンジーがイーディア地方に来たのは四日前で、滞在期間はホリィやマリィの半分以下だ。しかも彼が来たころにはアーディヴァ王国の調査に比重を置いていたから、あまり詳しくないらしい。
──東の北側がチャンガーラ王国、南側がカンダッタ王国って言うんだ~。これはリシュムーカ王国と同じで人族と獣人族の国だね~。
北のマハーリャ山脈の中腹にはドワーフ達が住んでいるけど、他とは付き合いがないみたい~。西は砂漠だから、人は殆どいないよ~──
リシュムーカ王国について語れることが少ないからか、シャンジーは他も挙げていった。
シャンジーは、他の三つの国も魔力による階級制度を敷いているという。しかし何れもアーディヴァ王国ほど厳しく統制していないらしい。
ちなみにドワーフ達について把握しているのは、住んでいる場所くらいである。オルムルが夢で見たのは人族か獣人族らしいから、ドワーフの調査は後に回されたのだ。
シャンジーが語っている間にシノブとアミィは連絡を終え、間を置かずにサシャマ村のシャルロットとアマノシュタットのタミィから了解の旨が返ってくる。
そして最後に、マリィからの文がシノブの通信筒に届いた。
◆ ◆ ◆ ◆
光翔虎のシャンジーが城門に姿を現す少しばかり前、マリィはパルタゴーマの領主の部屋にいた。もっとも彼女は透明化の魔道具を使っており、誰も気付かない。
部屋の中にはマリィの他、二十人ほどがいる。
一人は柔らかそうな長椅子に寝そべる人族の男、部屋の主であるパルタゴーマの領主パグダ・トゥヤーナだ。そして残りは踊り子や演奏者に給仕、全て妙齢の女性である。ちなみに女性も全員が人族で、獣人族は一人もいない。
流石は領主だけあって、パグダの衣装は随分と豪勢だ。服と頭に巻いた布の双方とも真紅の地をふんだんに用いた金糸で飾り、王者のようですらある。
ただし自堕落に横たわっているからだろう、支配者に相応しい威厳はない。浅黒い顔には立派な髭もあるが、だらけた姿だから逆に残念さが増している。
侍女が差し出す酒や果物を口に運びつつ女性達の踊りを眺めるパグダの姿は、二十代前半とは思えないほど退廃的だ。しかも不摂生な生活が長いのか彼は随分と肥えているし、顔も満月のように丸い。
それに対し女性達は、何れも細身で容貌も美しい。踊り子達はもちろん、楽器の奏者や給仕の侍女も選りすぐりの美女である。
しなやかに手足を動かし瞬時に様々な形を作る踊り子達は、贅肉など全くないに違いない。彼女達は軽快な音楽と共に素早く身を翻し、高々と跳ね、時に片足立ちで静止する。激しく躍動する舞踏は長い修練だけではなく、厳しい節制により可能となるのだろう。
それは演奏者達も同じだ。弦楽器や笛、太鼓など様々な楽器で、踊り子達と極限の速さを競っている。踊り子達が素早く身を転じ、手足や胴に頭、更に表情すら自在に操り千変万化の技を示す。すると奏者達も負けず劣らずの早業で調べを紡ぎ盛り立てる。こちらも踊り子と同じく無駄な肉などあっては無理だろう。
そういった者達と並ぶためか、給仕の侍女も身軽そうな者達ばかりだ。もしかすると彼女達も舞踏や演奏の達者なのかもしれない。
それだけに、丸く膨れたパグダが余計に目立つような気がする。おそらく、この部屋で最も浮いているのは主自身だろう。
「酒を……今度は葡萄酒が良い」
「はい!」
パグダが呟くと侍女の一人が差し出された酒杯を受け取り、隣の者が新たな杯に酒を注ぐ。そしてマリィは姿を消したまま、密かに溜め息を吐く。
実は、これでマリィの潜入は二回目であった。彼女は二日前にもパルタゴーマを探り、その際も領主を確かめていたのだ。
そして前回マリィが潜入したときも、パグダは自堕落というべき姿で寝そべり酒を飲み果物を摘んでいた。それも日がな一日と表現すべき長時間で、結局マリィは彼が領主らしく働く姿を見ぬまま立ち去った。
しかし今日は二日前とは違い、パグダは踊りの鑑賞を中断することになる。何故なら唐突に辺りが暗くなったからだ。
「む……日が陰ったか? お前、外を確かめろ!」
パグダは怪訝な表情となり、身を起こす。
パルタゴーマや近辺は乾燥した土地で、雨が降ることは少ない。それに一瞬にして夜のように暗くなるなど、あまりに不自然である。
もちろん、これはシャンジーの出現に伴い嵐竜ラーカが起こした黒雲によるものだ。そのためパグダが異変と判断するのも当然ではあった。
「は、はい!」
指名された侍女が、窓際へと走り出す。
ここはパグダの私室でしかないが、領主が寛ぐ場所だけあり相当に広かった。そのため侍女は窓に寄るまでに、三十歩以上は足を進める。
踊り子や演奏者達も含め、駆けた侍女の背を無言で見つめていた。そのため先刻までと違って室内は、完全と言っても良いほどの静寂に包まれる。
「空が真っ暗です! そ、それにあれは……光る虎!?」
幸いというべきかパグダの私室は二階で、しかも侍女が駆け寄ったのは空に浮かぶシャンジーが見える側だった。そのため彼女は窓に辿り着くのと殆ど同時に、眩しい光を放つ若虎を発見する。
「……まさか神王虎?」
微かな呟きを漏らしたパグダは、ゆっくりと立ち上がる。そして彼は、侍女のいる窓際へと歩み始めた。
一方のマリィは顔を輝かせると、音を立てぬように続いていた。
二日前マリィが潜入したとき、パグダが書物を手にすることはなかった。そのため彼女は有益な情報を得られないままだったのだ。
どうもイーディア地方は書籍が少ないようだが、ここアーディヴァ王国は更に希少であった。中級や下級の農民だと一度も本を見たことがない者も珍しくないし、商人でも帳簿くらいという者が大半らしい。
そのためアスレア地方を探索したときのように、図書館で調べ物など出来る筈もなかった。
それなら領主の館でとマリィは潜入したが、主は踊りを眺めるだけである。しかも館には多数の使用人がいるから、手当たり次第に本を漁るのは難しい。幾ら姿を消していても、目の前で物が消えれば騒ぎになるからだ。
しかし、これで何かが起きるのでは。例えばパグダが先祖伝来の記録を確かめる。あるいは誰か昔に詳しい腹心を呼んで訊ねる。少なくとも城門の守護隊から報告が入れば、彼らと何らかのやり取りはするだろう。
そのときを想像したのだろう、歩むマリィは一層笑みを深くする。
『醜い欲望に囚われた者達よ。天に代わって我が……この神王虎が成敗してくれる』
朗々と響くシャンジーの声は、領主の館まで届いた。パルタゴーマは中心から城壁まで1kmもないから、街の中心どころか反対でも聞こえたかもしれない。
「虎が……しゃべった」
「そんなことが……」
「やはり神王虎か! おい、アシャタを呼んで来い!」
女性達は虎が話したこと自体に驚いたようだが、パグダは何らかの予想をしていたらしい。やはり領主だけあって、パグダは神王虎の伝説を知っていたのだろう。
「はい、アシャタ様をお呼びします!」
侍女の一人が部屋から走り出す。どうやらアシャタという人物は、相当な高位にあるようだ。
侍女の服は輝く桃色で、頭のヴェールは真紅だ。しかもヴェールは金糸で縁取っているから、彼女は特級の侍女である。
その侍女が敬語を使うのだから、アシャタという人物も相当な高位なのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
パグダの私室に、すらりとした容姿の人族の青年が現れた。おそらく彼がアシャタなのだろう。
歳は二十代半ば、服は鮮やかな赤地だが白の模様が入っているから文官らしい。しかし彼が頭に巻いているのは朱色の布、つまり中級の文官だ。
特級の侍女が敬意を示した相手にしては、少々意外ではある。
それはともかく中級文官の青年が入室すると、部屋にいた女性達は静々と退出していく。やはり神王虎とは相当な秘事なのだろう、パグダは人払いをしたのだ。
もっとも相変わらずマリィが潜んでいるから、女性達を外させた意味は全くない。
「アシャタ、あれは本当に神王虎なのか!?」
女性達が去ると、パグダは間を置かずに問いを発する。
主のパグダは再び長椅子に腰掛けているが、踊りを鑑賞していたときと異なり身を起こしている。それに浅黒い顔と鼻の下の立派な髭で目立たないが、顔は青ざめているようだ。
既にシャンジーは姿を消している。しかし彼は不当な従者集めを禁じ、もし破るなら全ての戦士を連れ去ると宣言した。
そうなれば領主を続けることは出来ないし、パグダ自身も始末されるかもしれない。したがって彼が怯えるのも無理からぬことではある。
「判りかねますが、その可能性は高いかと。しかし……」
呼び出された男性、つまりアシャタは静かに応じる。
アシャタも鼻の下に髭を蓄えているし、肌も他の者と同じく濃い。その辺りはパグダと共通するが、こちらは細身で姿勢が良い。
しかもアシャタは美男子と言うべき容貌だから、一見すると正反対のようにも感じる。
しかし二人をじっくり見比べると、何となく似ているようでもある。もちろんアシャタは太っていないし丸顔でもないが、パグダと血縁関係があるのか目鼻立ちに確かな共通点があるのだ。
仮にパグダが健康的な生活をして体重を落としたら、兄弟のように見えるのでは。そんな気もしてくる類似である。
「はっきり言え! お前も父上から教わったのだろう!? 俺は秘録を細かく読まなかったが……」
パグダが言う父とは、パルタゴーマの先代領主だ。ただし先代は既に没しているから、彼に問うことは出来ない。
そして先代領主から秘密を教わるのだから、アシャタが相当な地位にあるのは間違いなさそうだ。装いからするとアシャタは中級文官の筈だが、位以上に重用されていたのだろうか。あるいは、やはり領主一族の傍流か何かで特例とされたのかもしれない。
「確かに読みました。建国王ヴァクダを助けた巨大な虎……神王虎。先ほど現れた虎と大きさも同じくらいのようですし、あれが神王虎であってもおかしくありません。
ただし仮に神王虎を知り、何らかの手段で真似できる者がいれば……たとえば幻影や幻惑の魔術です。もっともそのような技の使い手は、創世記にしか記されていませんが」
アシャタは秘録を読んだことを認めたが、先ほど現れたのが神王虎かどうかについては保留した。どうやら彼は、かなり慎重な性格らしい。
「創世記に……すると神々か眷属か!? そんな馬鹿な、神々が今更!?」
絶叫と同時にパグダは立ち上がる。そして彼は掴みかからんばかりの勢いで、アシャタに詰め寄った。
建国伝説に記された存在どころか、その上を行く神々や眷属かもしれないと言われたのだ。これなら神王虎だと断言された方が、衝撃を受けなかったに違いない。
どうもイーディア地方では、神々や眷属は創世期にしか現れなかったのは間違いないようだ。そしてパグダの驚きようからすると、神託も稀だと思われる。
「これでは無理な従者集めなど出来ません。そもそも、ここパルタゴーマは国境からも遠く……」
「駄目だ! そのようなことをすれば陛下が我が領に軍を送るだろう! 神王の力を受け継ぐ陛下に逆らうことなど不可能だ!」
どうもアシャタは元々強制徴用めいた行為に反対していたらしい。しかしパグダは室外にも響くような絶叫で彼の言葉を遮った。
「パグダ様、神王の名をみだりに口にしては……あれは王都でも特別な儀式でしか……」
「わ、分かっている……」
忠告するアシャタは、かなり声を潜めていた。それに傲慢そうなパグダが反駁せず素直に頷くのだから、神王に触れるのは相当な禁忌なのだろう。
しかも二人とも何かに思いを巡らせたのか口を噤み、室内は静けさに包まれる。
「パグダ様、西門の隊長が来ました! 例の件の報告です!」
静寂を破ったのは、外から扉を叩く音と呼び掛けであった。
西門とはシャンジーが姿を現した城門のことだ。つまり西門の隊長はシャンジーが命じた通り、領主へと伝えに来たわけだ。
「通せ!」
パグダの言葉を受け、西門の隊長が入室する。もっともシャンジーが語った内容は既にパグダも知っているから、報告自体は簡単に終わる。
「パグダ様、各門には上級戦士様が村人を連れてきても解放するようにと伝えましたが……」
「勝手なことをするな! これは陛下の命令なのだ! 各門、そして戦士には今まで通り村人を連行しろと伝えるのだ! 下がってよい!」
西門隊長の最後の一言に、パグダは烈火のような怒りを示した。
どうやらパグダは神王虎よりも神王なるものを怖れているようだ。隊長を睨みつける瞳には、紛れもない畏怖が滲んでいた。
「そ、それでは……」
西門隊長は絶句したが、反論はしなかった。そして彼は主の言葉に従い、部屋から去る。
「アシャタ、何かあったらお前が責任を取るのだ。お前が俺を脅して徴用を続けた……そういうことにする、良いな? さあ、お前も下がるのだ!」
「……はい」
何とパグダは、アシャタに責を負わせると言い出した。しかもアシャタは、どういうわけだか抗うことなく頭を下げる。
おそらくパグダは、アシャタの弱みを握っているのだろう。それも絶対に逆らえないくらい致命的な重大事を。
それを示すかのように、アシャタは先ほどの西門隊長にも勝る無表情でパグダの前から辞した。
◆ ◆ ◆ ◆
アシャタは領主の館を離れると、向かいにある別の建物に移る。そこはパルタゴーマの文官の仕事場だ。
「母上……」
自室へと入ったアシャタは、椅子に腰掛けると憂いに満ちた顔で呟いた。部屋には彼しかいない筈だが、何かを怖れているようで囁くような小声だ。
「御母堂が人質に取られているのですか?」
「誰です!?」
声を掛けられたアシャタは、弾かれたように立ち上がり振り向く。
するとアシャタが見つめる先に、十歳ほどの虎の獣人の少女が現れた。もちろん彼女は、人の姿に変じたマリィである。
「貴女は……」
「先ほど現れた神王虎の仲間ですわ」
アシャタの問い掛けに、マリィは意味ありげな笑みと共に応じる。するとアシャタは、今までにないほど鋭い表情となる。
「大丈夫です、私達は正しく生きる人々の味方ですわ。神王なる存在とは関係ありません……もちろん、あの神王虎も」
「やはり……建国伝説の神王虎とは別の存在なのですね?」
マリィの言葉から、アシャタは何かを掴んだらしい。彼は、それまでと違って安堵を顔に浮かべる。
「ええ。ところで貴方は? どうも領主の一族のようですが、姓はシャルマですから……従兄弟か何かですか?」
マリィもアシャタとパグダが似ていると気が付いていた。
しかしアシャタの姓はシャルマで、パグダはトゥヤーナだ。そのためマリィは、比較的近い親族だと思ったのだろう。
「……私はパグダの異母兄です。そしてシャルマは母方の姓です」
自身とパグダの関係を、アシャタは先ほどと同じくらい密やかな声で明かした。
先代の領主、つまりアシャタとパグダの父は数年前に急死した。そして本来はアシャタが領主になる筈だったが、彼はある事情で辞退した。
それはマリィが推測したように、母親が人質に取られたからだ。
イーディア地方では魔力量で階級を決める。これは専用の魔道具で判定するが、成長により魔力量は増えるから普通は成人まで何度も測定する。
しかし極めて稀だが、成長後に大病で魔力量が減る者もいる。そして母親を盾に取られたアシャタは、病で魔力が下がったとして再検査を受け、特級から中級に階級を落とした。
魔力が多いと誤魔化すのは困難だが、少なくするなら本気を出さなければ良いだけだ。しかもアシャタの自己申告による再検査だから、疑う者はいなかったという。
その結果、パグダは血を流すことなく兄の追い落としに成功した。上級以下だと領主の一族を名乗れないのだ。
「パグダが追い落とすとは思わなかったのですか?」
「それまでは大人しく従順な弟だったのです。もっとも私も、こんな性格で……父からも領主としては甘すぎると叱られてばかりでした」
マリィの厳しい問いに、アシャタは苦さの滲む笑みで応じた。村人の強制徴用にも反対していたようだから、彼は良く言えば心優しい、そして悪く言えば甘い人物なのだろう。
しかしアシャタの甘さを、マリィは欠点だが長所にもなり得ると受け取ったようだ。彼女は歳の離れた弟を見るような慈愛溢れる笑みを浮かべる。
「……やり直せるなら、貴方はどうしますか?
国王は他国への戦を計画し、ここパルタゴーマに軍を出せと言ってきた。しかし他国と接していないパルタゴーマは弱兵ばかりで、戦士達は農民を身代わりに立てようとしている。貴方は民に優しいようですが、領主になれば農民達を犠牲にする道しかないかも……。
そんな茨の道を歩むくらいなら、このまま一人の文官として過ごす方が良いかもしれませんわね」
再び真顔となったマリィは、まるで挑発するかのような言葉を紡いでいく。
おそらくマリィは、アシャタという男を見極めようとしているのだろう。彼女は表情を消したまま、目の前の男を見つめ続ける。
「領民を守るため、最善を尽くします。ご存知だと思いますが、アーディヴァ王国は他より階級に厳しい国です。しかしパグダの策に嵌まるまで、私は正しく認識していませんでした」
「生まれたときから触れているものに疑問を抱くのは、とても難しいですわね。何か思い知るような体験でもしない限りは」
決意表明とでも言うべきアシャタの返答に、マリィは先ほどと変わらぬ冷たい口調で応じた。
しかしマリィは、アシャタを非難しているわけではないらしい。常識から逃れるのは困難だという彼女の言葉は、不合理な制度を見過ごした過去のアシャタへの許しのようでもある。
「はい。しかし私は、真実に近づく機会を得ました。
建国王ヴァクダは類稀なる魔力を得たからでしょう、魔力の多寡を絶対的な指標としました。そして彼の桁外れの力を怖れ、人々は魔力による階級制度を受け入れ、更に他国へと広がりました。
しかし魔力量以外にも、目を向けるべきものは沢山あります」
アシャタは中級として過ごす数年で様々な不条理を目にしたのだろう。この国の制度を根本から正すべきと彼は続ける。
「魔力量での階級制度は、アーディヴァ王国が発祥の地だったのですか……」
マリィは思わずといった様子で呟く。この辺りの経緯は、十日程度の調査だと分からなかったのだ。
アーディヴァ王国の建国から既に百八十年も経っており、多くの者は昔から存在する制度だと思っている。それに権力者達も自分達に不都合な記録は廃棄しただろうし、表立っては語れぬように持っていったに違いない。
イーディア地方の書物は限られた者が独占しているから、揉み消すのは意外に容易だったかもしれない。
「昔も多少は魔力量を重視したそうですが……しかし今のようになったのはアーディヴァ王国の建国と急速な発展に対抗するためのようです。我が国が短期間で版図を広げたのは、魔力重視の階級制度があるからと思ったようですね」
アシャタによれば、建国王ヴァクダの時代は奇跡と言うべき連戦連勝で、その後の数代もヴァクダほどではないが他に例のない早さで国を大きくしたそうだ。それを見た他国は、魔力量に優れた家系を作ることが強国への道だと倣ったらしい。
そのためドワーフやエルフの国以外は全て類似の階級制度になったと、アシャタは結ぶ。
「ところで、貴女はどこからいらっしゃったのでしょう? 神王虎の仲間であり姿を消す技を持っている……まさか神々が降臨されたのではないでしょうから眷属様だと拝察しましたが……しかし眷属様であれば、この国の歴史など重々ご承知かと……」
「私は……いえ、私達は外から来たのです。そして、この方が私の主ですわ」
「私はイーディア地方の外、遥か西から来たシノブという者です。貴方が民のためを思って進むなら、支援をしましょう」
マリィが横に手を差し伸べると、その先にシノブが姿を現す。シノブは短距離転移を使って、上空から室内に移動したのだ。
この部屋に移動してから、マリィは今まで見聞きしたことを思念でシノブ達に知らせていた。もちろん現在のアシャタとの会話も含めてだ。
したがってパグダの部屋での会話も含め、シノブは全てを承知している。
「眷属様の主……もしや、貴方様は……」
「取りあえず、それは忘れてください。そうしないと話が進みませんから」
驚愕の面持ちで呟くアシャタを落ち着かせようと、シノブは微笑みを浮かべつつ応じる。
何しろ室内には、姿を消したアミィやシャンジー、そしてオルムルとラーカもいる。シノブは自身だけではなく、他も短距離転移させたのだ。
神王虎や神王の話をする前に、アミィ達の紹介をしたい。しかし、これ以上アシャタに負担を掛けて良いものだろうか。あまりの驚きように、そんな不安をシノブは抱く。
「貴方様は……貴方様は……」
アシャタは未だに呟き続けている。どうも、このままだと暫く待つしかないらしい。
──鎮静の魔術を使いましょうか?──
──俺のせいだから、俺がやるよ──
マリィの提案に、ほろ苦い笑みと共にシノブは応じる。そしてシノブは宣言通り、鎮静の魔術をアシャタに行使した。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年6月24日(土)17時の更新となります。