05.03 貴き誓いの日に 前編
「そういえばアリエルやミレーユはどうしたの?」
伯爵の執務室に向かう途中、シノブはシャルロットに質問した。
シノブは、いつも一緒に居る彼女達の姿が見えないことを疑問に思っていた。
カトリーヌの居室である左翼側の三階から、執務室のある右翼側の二階へと移動する間に、シャルロットへと問いかける。
「どうも気を使ったようでな……ミュリエル達が私の部屋に来たとき、一緒に行かないかと誘ったのだが」
シャルロットは僅かに頬を染めていた。
アリエルとミレーユは、シャルロットの居室にある衛兵用の待機部屋に住んでいる。8月の終わりに領都付きとなって以来そこで暮らしているのだ。
シノブは最初、男爵の娘である彼女達なのに質素すぎないかと思ったが、どうやらこの国では伯爵と男爵の間には大きな差があるらしい。
伯爵は平均二十数万人もの領民が暮らしている広大な領地を持つが、男爵は一つから幾つかの町村を所領とする程度で、領内の人口も千人に満たないのが普通だという。
したがって都市の代官を務める伯爵家の家臣のほうが、担当区域内の人口は遥かに多い。
たとえば、ベルレアン伯爵領の南部の都市アデラールは約三万人が住む大都市である。所領ではないが、都市の代官のほうが、ある意味権力を持っていると言えるだろう。
「お屋敷の中では警護の必要もありませんからね」
アミィが、シャルロットを見上げながら言う。
彼女もこの館の中では警戒していないようで、侍女服に似たドレスを身に着けている。
もっともアミィは素手であってもほとんどの相手を苦もなく無力化できるので、武装の有無はあまり関係ないかもしれない。
「そうだな。とにかく、アリエルがミレーユを連れて領軍本部へと行ってしまったのだ。……帰って間もないからゆっくりしろと言ったのだが、不在の間のことを確認するそうだ」
そういう経緯で、シャルロットはミュリエル達だけを連れて魔法の家に訪れたわけだ。
シノブはシャルロットの説明で状況を理解した。しかし一方で、アリエルの気遣いを少しばかり面映ゆく感じる。
シノブとシャルロットが親密な間柄となったのは、仲間達もすぐ察したらしい。
セランネ村でネックレスを贈った直後、アリエルやミレーユはシャルロットに盛大に祝福した。それどころか戻ってから忙しくなると、早くも先々のことを話し合う有様だった。
シノブにとって意外だったのは、いつもこの話題でシャルロットをからかっていたシメオンが素直に祝いの言葉をかけていたことだった。彼は普段の無表情からは考えられない温かい笑顔で、己の又従姉妹を祝福していた。
「そうか。そろそろ時間だし……」
シノブが言いかけたとき、噂の二人が現れた。エントランスホールに続く階段から、アリエルとミレーユが上がってくる。
「シャルロット様、本部は特に問題ありませんでした」
「閣下がいらっしゃるのに異常があるわけないじゃない……」
穏やかな笑顔を浮かべるアリエルとは対照的に、ミレーユは疲れたような表情を浮かべている。
副官としての業務が得意なアリエルに対し、ミレーユは事務仕事は苦手らしい。
「そうか、ご苦労だった。では父上の下に行こう」
部下達の報告を受けたシャルロットは、労いの言葉をかけると、彼女達を加えて伯爵の執務室へと歩みだした。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ殿、ゆっくり休めたかね?」
執務室に入ると、上機嫌な伯爵がシノブに問いかけてくる。
伯爵の脇には家令のジェルヴェも控えており、シメオンとイヴァールも既に室内にいる。16時にはまだ若干間があったが、全員揃ったようだ。
「はい。今、カトリーヌ様の診察をしてきました。経過は順調だと思います」
シノブは、返答とあわせて伯爵へと彼が気にしている妻の様子を報告する。
「帰還早々すまないね。でも、シノブ殿の言葉を聞いて安心したよ。
侍女や治療院の者も問題ないといっているから、心配はしていないつもりだが……」
そう言いつつも伯爵は嬉しそうだ。隣のジェルヴェの表情も緩んでいる。
「おっと。竜を退けた顛末を聞くのだったね。シノブ殿、まずは座ってくれ」
伯爵はソファーを指し示すと、自分も執務机から移動した。
シノブは伯爵の対面へと腰掛ける。シャルロットとシメオンがそれぞれ左右に座り、アミィにイヴァール、二人の女騎士は後ろに控える。
「イヴァール殿? 着席しないのかね?」
伯爵はソファーに座らないイヴァールを怪訝そうな顔をして見つめる。
「さっきも言ったが、俺はシノブの従者となったのだ。従者たるもの主の後ろで控えるものだろう?」
言葉遣いは無愛想なものだが、イヴァールには彼の考える従者像というものがあるらしい。
隣のアミィもコクコクと頷いているところを見ると、案外彼女の指導の結果なのかもしれないが、彼らはシノブの後ろから動こうとはしなかった。
「そうか……さっき聞いたときは驚いたが、本当だったんだね。
それではシノブ殿。ヴォーリ連合国でのことを教えていただけないだろうか」
伯爵はイヴァールの決意が固いと見て取ったのか、それ以上着席を勧めず、事件の詳細を聞くことにしたようだ。街道の平和を取り戻した経緯について、シノブに説明を求める。
シノブはセランネ村でエルッキ達に説明したように、竜の活動期の原因である子育てについては伏せ、竜と戦った結果、友情を結んだと説明した。
エルッキ達、アハマス族やセランネ村を纏める者には竜と会話できることを教えたので、伯爵やジェルヴェにもその点は伝えている。しかし当事者であるドワーフ達にも秘密にした子育てについて、シノブは他に明かすつもりはなかった。
「なるほど……シノブ殿やアミィ殿が竜と話せるとはね。おかげで街道の岩猿達も早期に駆除されたのか……理解はしたが、全く驚くしかないよ。
竜と会話できることは、エルッキ殿達だけに伝えたのだね。確かに大勢に言うべきではない……私も秘密を守る」
伯爵はシノブが伝えた内容に驚きを隠せないようだ。
特に竜と会話して交渉したことについては、珍しく目を見開き、顎の短く刈りそろえられた髭に手をやっていた。
だが伯爵は、しばしの驚きから醒めると、シノブの頼みを聞き入れ竜と意思疎通できることは秘密にすると誓ってくれた。
「ありがとうございます。私を通して竜を利用しようと考える者が出るかもしれないし、できるだけ内密にする必要があります」
竜の念話が広範囲でも届くことが知られれば、シノブを通して竜を呼び出そうとするものが現れるかもしれない。シノブは、少なくとも活動期が終わり竜が去るまでは、このことを秘密にしたかった。
「当然の配慮だよ。竜を退治するのも偉業だが、竜を従えるのは前代未聞だ。
いや、『剛腕アッシ』や『闇の使い』も同様だったわけだが、彼らが隠したのも当然だろう。竜の力を利用できたらなんて、考えるだけでも恐ろしいよ」
伯爵はシノブ達から聞いた竜のブレスや飛行能力を思い出したらしい。真剣な顔でシノブに答えていた。
確かに疾走する軍馬の何倍もの速さで飛行でき、上空から一方的に攻撃できる竜の能力を自由にできたら、この地方の国々を統一することさえ可能かもしれない。
竜の力に安易に触れるべきではないと伯爵が考えるのも当然だろう。
「伯爵、私は竜を従えたわけではないので……」
シノブは、細かいことだが伯爵の言葉を訂正する。
メリエンヌ王国の商人ボドワン達には、竜がシノブに屈したと説明したので、『竜を従えた』という噂が広まるのは仕方ない。だが、シノブは事実の一端を伝えた伯爵にはなるべく正確に理解してほしかったのだ。
「おお、『竜の友』だったね。しかし竜と友誼を結ぶなんて、伝説、いやそれ以上だよ……」
シノブの思いがわかったのか、伯爵は『竜の友』と訂正した。
シノブも『竜の友』という言葉が広がるのは諦めていた。そこで、こちらについては気恥ずかしく感じつつも受け入れる。
「ともかく、これで交易は再開できます。もうすぐ11月ですから王国の商人が峠を越えることは出来ないと思いますが、ドワーフ達なら11月中は峠越えできると聞いています。
彼らも二ヶ月近く交易できなかったので、再開を喜んでいました」
シノブは、最後に街道の状況に触れ、報告を終わりにした。
「ありがとう。こちらも北に向けて隊商を送るよう、商務長官達に伝えるよ」
街道が正常に戻ったことを聞いた伯爵は、嬉しそうにシノブに言った。
「閣下、私のほうでリシェ長官にはお伝えしておきました。さきほどシュナル長官に帰還を報告した際に会いましたので。もちろん正式に通達いただく必要はありますが」
シノブの隣に静かに座っていたシメオンが口を開く。
彼も領政庁に顔を出していたらしい。上司の内務長官シュナルを訪れたときに商務長官リシェに会ったことを伯爵に伝えた。
「そうか。シメオン、ありがとう。峠が閉ざされるまであと僅かだ。準備が早いに越したことはない」
今から通達しても、メリエンヌ王国の馬では峠越えはすぐに出来なくなる。だが、寒さに強いドワーフ馬であれば11月末まで荷馬車で峠越えができる。
ヴァルゲン砦での引き渡しであれば、ヴォーリ連合国からの金属製品や鉱石を輸入し、メリエンヌ王国の農産物を輸出するにはまだ充分な時間があった。
「いずれにしてもシノブ殿のおかげで我が国もヴォーリ連合国も大いに助かった。いくら感謝しても感謝したりないよ。この恩にはきちんと報いたい。遠慮せずなんでも言ってほしい」
伯爵はシノブに頭を下げ謝意を表す。
「いえ、私自身がイヴァールを助けるために行ったことです。いわば自分勝手に行っただけなので」
シノブは、伯爵の言葉をやんわりと否定する。
今回、シノブは伯爵から依頼されて行ったわけではない。
それに愛妻家の伯爵は内心、シノブに留まってほしかったのではないだろうか。領主としての責任があるので態度には表さないが、その心のうちはどのようなものであったのだろうか。
シノブに彼の意図を推し量ることはできなかったが、苦悩もあったのではないかと思っていた。
「そうか……だが、我々でできることなら何でもする。そのことは忘れないでいてほしい。
……シャルロットやシメオンも良く頑張ってくれた。ベルレアン伯爵家の当主として、お前達の活躍を誇りに思うよ」
伯爵の言葉に、シャルロットとシメオンは頭を下げる。
「晩餐まで、まだ間がある。シノブ殿達はサロンにて寛いでいただこうか」
交易の再開が可能になれば伯爵としては問題ない。旅の出来事などは、いずれゆるりと聞こうと思ったのだろう、一同に散会を伝えた。
「伯爵、少しご相談があるのですが……いえ、さきほどの件ではありませんが……その……内密にお話したいことがありまして……」
シノブが少し口ごもりながら伯爵へと語りかける。
「それでは閣下、私達は下がらせていただきます。シノブ殿、晩餐でまたお会いしましょう」
シメオンは席を立ち、伯爵へと一礼する。
後ろでは、アリエルやミレーユもそれに倣い一礼していた。
「ああ、シメオン、ご苦労だった。
アリエルやミレーユもシャルロットを助けてくれたこと、感謝しているよ。これからもよろしく頼む」
シメオンは伯爵の言葉を受けて退室する。
アリエルやミレーユ、イヴァールも彼に続いて部屋を出た。
「シノブ殿。ジェルヴェは居ても構わないのかね? それとも私と二人きりのほうが良いのだろうか?」
伯爵は僅かに微笑しながらシノブに優しく問いかけた。
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