20.41 破邪の剣 中編
激闘が続くキルーシ王国とテュラーク王国の国境から1000km以上もの南方、アスレア海の洋上。シノブ達は海神ヤムに会いに行くための道を造ろうとしていた。
ヤムが潜むらしき海の上、シノブと眷属達を乗せた岩竜の子オルムルが空高くに静止している。そしてオルムルの背は、彼女が良く知る金の光と馴染みがないだろう蒼い光に包まれていた。
もちろん金の輝きを放つのはシノブだ。そして蒼はといえばアミィであった。この光輝に包まれた二人を、後ろから他の四人の眷属が微笑みと共に見守っている。
舞台は眩しい青の空と海。そこを独占するのは神々の光を乗せた白い子竜。まるで神殿に飾られる聖画のような光景だが、画家どころか眺める者すら存在しない。
何しろアスレア地方の海岸から500km近く、前線基地のファルケ島からでも150kmは南である。しかも、ここを中心とした直径100kmほどの領域は超越種達が封鎖しているから、何かが迷い込んでくることもない。
「アミィ、大丈夫?」
「はい! もっと魔力をください!」
眩い蒼の光を放つアミィは、負けないくらい輝く笑顔と共にシノブに応える。彼女はアルマン共和国の二つの神具、先日彼女がシノブと共に改良を施した秘宝を使っているのだ。
頭上には巨大なサファイアらしき宝石を始めに数々の輝石が煌めく『覇海の宝冠』、手には同じく青き宝玉を上に戴いた『覇海の杖』。この二つの秘宝がアミィに普段とは違う藍の光を与えている。
そして眼下に広がる命の揺り籠と同じ輝きは、アミィの白き神衣にも水面の色を授けている。そのためアミィは大海原の守り手、海の女神デューネの使徒のようですらあった。
「それじゃ……」
シノブは自身の魔力を更に解き放つ。すると生じた太陽のような金色の力は隣のアミィへと吸い寄せられ、蒼の輝きに溶け込んでいく。
覇海の宝冠は、信ずる人の想いを装着者の魔力に変える。そしてシノブは自身の導き手であるアミィを非常に強く信頼していた。
つまりシノブが望めば、アミィは幾らでも魔力を得られる。現に彼女は一緒にオルムルに騎乗した四人の同僚、ホリィ、マリィ、ミリィ、タミィとは段違いの濃密かつ清冽な気配を纏っていた。
今は金鵄族のホリィ達も、アミィやタミィと同じ狐の獣人に変じ、同じ純白の神衣を着けている。そのためシノブを除くと五人姉妹が寄り添っているように映るが、アミィの魔力だけが明らかに突出し、シノブと並ぶほどに増大していた。
「シノブ様が二人いるようなものですね~」
「そうね。通常の魔力譲渡と違って遠方でも可能だし、シノブ様の負担も少ないと思うわ」
金と蒼に輝く二人の後ろで、ミリィとマリィが囁き声を交わしている。
シノブは他者への魔力譲渡が可能だが、それには多少の制約がある。魔力譲渡の場合、原則としてシノブは譲渡する相手に触れ、更に僅かだが精神集中もする。そのため大抵の場合は手を繋ぐか肩に触れるかするし、そうなると戦いながらの譲渡は困難だ。
しかし覇海の宝冠なら、譲渡する者が装着者への強い信頼を持つだけで良い。それに距離の制約も少ないから、シノブが敵に剣を振るいつつ離れたところのアミィに魔力を渡すことも出来る。
「アミィお姉さま、凄いです……まるでデューネ様みたい……」
「ええ、これなら……」
呆けたような顔のタミィに、ホリィが期待の表情で応じた。もっとも二人とも視線はシノブとアミィに釘付けだから、双方とも相手の様子に気付いていないだろう。
「シノブ様、行きます!」
アミィは充分な魔力を溜めたと判断したようだ。彼女はシノブへと顔を向け、力強く宣言した。
「判った! オルムル、頼む!」
──はい! シノブさん!──
シノブとオルムルも短く言葉を交わしたのみだ。段取りは事前に打ち合わせ済みだから、オルムルは迷うことなく高度を下げ、海面へと迫っていく。
「……大海の女神デューネ様に願い奉る! 御身の守りし領域に我らの進む道を創り給え!」
アミィは目を瞑り、デューネへの祝詞を唱える。そしてアミィは詠唱を終えると同時に目を見開き、右手に握った覇海の杖を紺碧の大海原へと振り下ろす。
すると杖に宿った蒼き輝きは、まるで水の奔流であるかのように海面へと突き進む。更に膨大な魔力故だろう、神秘の力は大気を揺るがす。そのためオルムルは僅かに上空に押し戻され、シノブ達の衣装も大きくはためいた。
◆ ◆ ◆ ◆
覇海の杖が放った輝きが海面に届くと、そこに大きな波紋が生じた。そして波紋は轟音と共に周囲に広がり、ついには海に大穴が誕生する。
海面は丸く円形に切り抜かれ、そして下にも筒のように空間が伸びていく。広さは既に都市の広場に匹敵し、深さは比べるものなど思いつかないくらいだ。しかも広がった大穴は、何かで固定されたかのように存在を保ち続ける。
「やりました~! 十回じゃなくて一回で成功です~!」
「……それって『十戒』のつもり?」
喜びの叫びを上げたミリィに、マリィが苦笑を向けた。
アムテリアの眷属達は地球の宗教に詳しくはない。彼女達は世界維持の参考にするため地球の歴史や事物を調べるようだが、アムテリア達と関係のない信仰については調査対象としないらしい。
とはいえモーセの十戒ともなれば一般常識に入るのだろう。地球に特別詳しいミリィだけではなく、平均的な知識のみらしいマリィも海を割った伝説の人物を知っていたようだ。
「アミィお姉さま! 凄いです!」
「これなら海底まで行けますね!」
遥か下を覗き込んだタミィとホリィは、期待する光景を発見して歓声を上げた。
既に海に生じた空間の成長は止まっている。深さは大よそ1000m、半径は100mくらいだろうか。そして内部は本来存在した水が消え去り、先ほどまでの水底が姿を現していたのだ。
当然ではあるが、シノブ達は海中だと呼吸が出来ない。魔力障壁で空間を維持し、光の盾が出す光鏡で海上と繋いでの空気を取り入れは可能だが、そのようなことをしながら戦うのは非常に困難だ。
そこでシノブは、覇海の杖を使って水を退けようと考えた。かつてアルマン王国の軍務卿ジェリール・マクドロンは、この海の神具を用いて高さ100mもの水柱を立てた。ならば魔力次第で深海までの道を造るのも可能だと、シノブは思ったのだ。
──突入します!──
鋭い思念を発したオルムルは、生じた空間に飛び込んでいく。彼女は真下を向き一直線に降下していくが、重力制御で騎乗するシノブ達を自身の背に貼り付けているから、落ちる心配はない。
「綺麗ですね」
アミィには周囲を眺める余裕すらあった。
覇海の宝冠での魔力吸収や覇海の杖で作り出した水塊の維持は、特別な精神集中を必要としないようだ。実際ジェリールもシノブとの戦いのとき、水の柱や巨人を保ったまま剣戟に応じた。
そのため今のアミィも、何らかの魔術の行使や剣での戦いも充分に可能だろう。
「ああ、本当だ」
シノブもアミィと同じ方向に顔を向ける。
周囲の壁が陽光を反射し、巨大な円柱状の場は意外なまでに明るい。そのためシノブも内部がどうなっているか充分に見て取れた。
とはいえ気になるのは目的地である真下、シノブ達からすればオルムルの進行方向である前方だ。
下は岩場らしく濃い灰色が広がっている。少し濡れたような色合いだが、覇海の杖が全ての水を押し退けたからだろう、海水は溜まっていないらしい。
1000mという深みだからか、あるいは海神ヤムの影響か、岩場に海草などは存在しない。それに海水と同時に生き物も移動したのだろう、岩場には動物と植物の双方含め命あるものはいないらしい。少なくともシノブの魔力感知には、何の反応も無かった。
「調べた通り、ここって周囲より高くなっているんだね」
シノブの脳裏に浮かんだのはピラミッドやジッグラトであった。
事前の移送魚符での調査で、概略だが海底の地形も判明していた。それによると、ここは海盆の頂上らしい。
おそらくは周囲が2000m級の深海で、そこに高さ1000mほどの円錐状の山があるようだ。頂上は直径100mほどの平地だが、アミィが創った空間は倍の幅があるから周囲が低くなっているのも充分に見て取れる。
「元々の地形だとは思いますが、巨大な祭壇みたいですね」
アミィもシノブと同様に、作り物めいた印象を受けたようだ。
もっとも、ここが海神ヤムの棲む地だと思うからピラミッドや祭壇といった言葉を連想するのだろう。シノブも妙に魔力が少ないことを除けば異変は感じていないし、もちろん海底に人の手が入った様子はない。
だが、その静けさが余計にシノブの警戒心を刺激する。理由は明確ではないが、ここが母なる女神アムテリアの祝福する場だと、シノブには思えなかったのだ。
──嫌な感じがします!──
オルムルは言葉通りに不快感が滲む思念を発した。しかし彼女は、それでも変わらず突き進み、最後は急激な方向転換と減速をして岩の上に舞い降りる。
ただしオルムルは、着地の際も騎乗者への重力制御を完璧に行った。そのためシノブ達の髪や衣服は、殆ど揺れなかったほどである。
「ありがとう! オルムル、こっちに!」
シノブはオルムルの背から飛び降り、彼女に手を差し伸べる。
オルムルは魔力感知能力が向上し、相手の感情を敏感に察するようになった。そのためシノブは、ここの異様な気配からオルムルを守ろうと思ったのだ。
既にアミィ達も背から降りた。そのためオルムルは子猫ほどの大きさに変わると、シノブの肩の上に収まり顔を擦り寄せる。
「それじゃ、空間への干渉を始めるよ」
「はい!」
声を掛けたシノブの周囲に、アミィ達は寄る。応じたアミィはシノブの隣、そして他の四人は四方を囲む形だ。
この期に及んでも、海神ヤムは現れない。そのためシノブは光の額冠による空間干渉でヤムを探り、呼びかけるつもりであった。
シノブは背負っていた光の大剣を抜き放ち、自身の魔力を更に増幅する。そして光の首飾りから光弾、光の盾から光鏡を出現させ周囲に配置した。
まずは語り掛けからと思うシノブだが、相手が穏当な存在とは限らない。そのため完全武装という状態で対面するのは仕方なかろう。そんなシノブの思いに反応したのか光の四つの神具は輝きを増し、アムテリアから授かった白の軍服風の衣装と緋のマントも神気を濃くする。
そんな中たった一つだけ神気を放たないのが、シノブが腰に佩いた夜刀之鋼虎であった。この稀なる名刀は、むしろ周囲の気を吸い込み溜めているらしい。極めて魔力感知能力に優れた者なら、神気が黒い外装のヤマト太刀に向かっていくのを察しただろう。
──海神ヤムよ。聞こえているか。聞こえているなら応えてくれ──
思念と共に、シノブは額冠の能力を発揮した。するとシノブ達の周りは爽やかな空気に満たされる。
それまでの重苦しい雰囲気は嘘のように消え去り、まるで神域にいるような清冽な気が広がっていく。上からは周囲の海水で青さを増した光が降り注ぎ、その稀なる輝きも合わさり海底の聖地と言うべき神秘的な光景が誕生したのだ。
──私を……海神ヤムを……呼ぶ者は……誰だ?──
暫しの間を置き、ヤムと名乗る思念がシノブに届いた。それはアミィ達も同じだったようで、彼女達の顔にも緊張が浮かぶ。
「聞こえました!」
「穏やかそうな思念ですね……」
アミィに続いたのは、どこか怪訝そうな様子のタミィであった。
タミィは好戦的な相手を想像していたのか、抜き放った炎の細剣を油断なく構えていた。しかし今の彼女は気が削がれたのか、僅かに剣尖を降ろしている。
「油断大敵です」
「そうですわ」
「大人しい振りをして、ってヤツかもしれません~」
先輩の三人、ホリィ、マリィ、ミリィの様子はタミィと異なっていた。
ホリィの魔風の小剣には一分の隙も無い。それに攻撃担当ではない残りの二人も同様だ。マリィの魔封の杖、ミリィの治癒の杖も先刻と変わらず揺らがない。
──私はシノブ。この星を預かる女神アムテリアの血族だ。どうして貴方がこの世界に来たのか、何故ここにいるのか、教えてほしい。理由次第では、手助けしても良い──
眷属達のやり取りを他所に、シノブは空間干渉を強めつつ対話を試みる。先ほど届いた思念は弱々しく、少し聞き取り難かったのだ。
──それは……申し訳ありませんが、私はここから動けないのです。大変恐縮ですが、ここまでお出でいただけないでしょうか?──
星を守護する神の一族と聞いたからだろうか、ヤムの思念は更に柔らかなものとなった。それに物言いも非常に丁寧になり、シノブは意外さを禁じえない。
もしかすると、ヤムはバアル神などに連れてこられただけなのか。この星への滞在も不本意なもので、意図的な侵入や占拠ではないのかも。もしそうなら、ヤムは消滅や力の剥奪など厳しい措置を免れる可能性はある。一瞬だがシノブの心に、そのような希望的観測が広がる。
しかし、これはヤムの策略、誘いかもしれない。そう思ったシノブは気を引き締め直す。
──では、そちらに行きましょう──
シノブは思念の調子を緩めつつ、しかし表情は最前と変わらぬ厳しいままで応じた。そしてシノブはオルムルやアミィ達に顔を向ける。
これから厳しい戦いが始まるかもしれない。しかし力を合わせて一緒に切り抜けよう。そんな思いが通じたのだろう、一頭の子竜と五人の少女は無限の信頼が滲む視線を光り輝く青年に向けていた。
◆ ◆ ◆ ◆
ヤムの住まいらしき空間は、濃い青の光で満たされていた。下は岩と砂の地面、周囲はあまり見通しが利かない不思議な煌めきが漂う場所である。
そこにシノブ達は、光の額冠を用いて侵入した。ヤムが思念を発している場所にとシノブが額冠に念じたら、生じた黒い闇はこの場に導いたのだ。
「正面か……」
シノブは海中を思わせる場所を前に進む。呼吸は普通に出来るが、不可思議な光が広がっているため見通せるのは20mほど先までだ。そのためシノブ達の歩みも、自然と緩やかなものになる。
もっともシノブには、ヤムらしき強大な力が明確に感じられた。それはアミィ達も同じらしく、一行の足取りに迷いはない。
「ご足労、申し訳ありません。私が海神ヤムです」
邂逅までには幾らも掛からなかった。向こうもシノブ達に気が付いたらしく、歩み寄ってきたのだ。前方から低めの優しげな声音が響くと、人影が現れる。
ヤムと名乗ったのは、深い青の衣を纏った壮年の男性であった。
海神としての主張なのだろうか、男性の髪や髭は濃い青という普通には存在しない色合いであった。それに彼の瞳も、同じく冬の海を思わせる濃青色をしていた。
身長はシノブと同じくらい、体格も似たようなものだ。司るのが海だからか、特別に肉体派ということは無いらしい。もっとも優男というわけではなく、身体には王者と呼ぶべき力強さが宿っている。
とはいえ第一印象は知性派の中年男性といった辺りだ。男の髪や髭は綺麗に整えられており、微笑みも爽やかである。それに物腰も非常に穏やかな上、彼は軽く会釈すらしてみせた。
そのためシノブは、拍子抜けに近い思いを抱いてしまう。
「私がシノブです。そして彼女達は神々の眷属です。……どうして貴方は、このような場所に?」
シノブは簡単に自己紹介を済ませると、単刀直入に問い始める。
まだシノブは、ヤムを信用したわけではない。むしろ和やかすぎる雰囲気にシノブは不自然さを感じてすらいた。
このように穏やかで理性的な存在なら、どうして今までアムテリア達に接触しなかったのか。シノブは、そう思ったのだ。
「私の同族であるバアルに連れてこられたのです。ある出来事により、私は彼を頼ったのですが……」
外見に相応しい落ち着いた口調で、ヤムは語りだした。
とある神と地球で遭遇し、行き違いから戦う羽目になった。相手は同じ海を司る男性神だったから、近い能力で防ぎ何とか戦いを切り抜けた。しかし大幅に力を減じたから、同族であるバアルに助けを請うた。
昔はバアルと不倶戴天の敵だったが、それは神として君臨していたときのこと。既に双方とも信者が無くなってから久しく、地球への力の行使も上位神から禁じられている。そのため競うこともなくなり、自分としては数少ない同族としての親しみがあった。
どことなく懐かしげな表情で、ヤムは地球での出来事を口にしていく。
「しかしバアルは違ったようです。彼も私と同様に大人しくしていたのですが、新たな世界と聞いて心が動かされたようで……」
ヤムによれば、バアルは途中まで戦い敗れた同族への哀れみを示すのみだったそうだ。しかしヤムが闘争相手から得た知識に、バアルは多大な興味を示した。
それは異世界への道である。ヤムと戦った神はアムテリアの地球での同族で、この世界と繋がるアムテリア達の神域も教わっていたのだ。
そして得た知識によれば、この星には既に人を含む生き物が満ちている。つまり信者に出来る人間がいる。しかも惑星神は初めて星を担当した若い神だから、潜入や潜伏も可能だろう。このようにバアルは考えたのでは、とヤムは続ける。
「残念ながら、あのときの私に抗う力はありませんでした。それは今も同じなのですが……」
ここから動けないのは、バアルに力を奪われたため。そしてバアルがこの場に封印したため。ヤムは、そう結ぶ。
「この世界に来たとき、バアルは人の造った宝物を奪いませんでしたか? 遥か東の島、おそらくは貴方達が通った神域の近くの。その宝物とは、神に捧げた名刀なのですが……」
シノブは大和之雄槌の一件に触れた。
このヤマト王国の聖地、ナムザシのカミタに伝わる神刀は、七百年以上前に盗まれたという。そして盗難はバアル神の侵入とほぼ同じ時期らしい。
「ああ、あれですか。あれはバアルが……」
──嘘です! 全て嘘です!──
ヤムの言葉を打ち消したのは、シノブの肩に乗ったオルムルだ。
オルムルの怒りに満ちた鋭い思念は、周囲の謎の青い煌めきすら揺らしたようだ。そして彼女が発した閃光は、まるで断罪の光であるかのようにヤムの顔を照らす。
「……この竜の子は?」
今までと違う陰々滅々たる声音を発したのは、俯き加減となったヤムである。
ヤムはオルムルの光から自身を庇うかのように手を掲げており、そのためシノブは相手がどんな表情をしているのか知ることは出来ない。
しかし顔など見なくとも、ヤムが何を思っているのかは明らかだ。彼の怨嗟に満ちた声だけで、真実は明白である。
「この子は光竜オルムルだ。そしてヤム……お前の考えたことは、全て彼女が読み取っている」
シノブの返答は、多分に誇張を交えたものである。オルムルは相手の感情を察するが、思考の全てを読むほどの能力は持っていないからだ。
しかし相手が偽りを口にしたかどうかであれば、オルムルは殆ど完璧に見抜く。多くの場合、嘘を吐こうという意志は、侮りや蔑みを始めとする負の感情を伴うからだ。
そしてオルムルの精神感応力は、成体どころか全ての超越種を凌ぐ。そのためヴルムやアジドを始めとする長老達も、まだ子供であるオルムルの同行を認めたのだ。
「そうか……確かに偽りだ。この世界の入り口を教え、代わりに我はバアルから多少の力を得た。それに刀を盗んだのも我だ。あの刀、地球で奪った神の力とも相性が良かったからな」
ヤムは不敵な笑みを浮かべると、体を動かすことなく奥へと遠ざかっていく。
水面に吸い込まれていくかのように消えていく海神の声に、先刻までの柔らかさはない。これが本来のヤムなのだろう、傲慢と表現すべき見下すような感情が低い声に満ち、嘲弄めいた耳障りな響きがそれを飾る。
「ここに潜んでいたのも、力を溜めようとしたから。まだ不完全だが、ここは我の城だ。愚かにも飛び込んで来おって……」
「愚か者は貴方です! この星の水は、私に味方しています!」
アミィが覇海の杖を翳すと、周囲を満たしていた深い青は消えていく。蒼い光を放つ宝杖は、ヤムの神力を宿した水であろうが関係なく操ったのだ。
まるで渦を巻くようにして、不可思議な深青の霧はアミィが掲げる覇海の杖に吸い込まれた。
しかしシノブ達は安堵してばかりはいられなかった。何故なら開けた視界の先には禍々しい姿の怪物、多頭の巨竜が陣取っていたからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
おそらく怪物の大きさは成竜の二倍以上、体長50mを超えていそうだ。四つ足の体に羽は無く、太い胴体からは八つの長い首が生えている。そして体を覆うのはヤムが纏っていた衣に似た深青色の鱗である。
大雑把に言えば、海竜の首が八つに増え、胴体に鰭の代わりに玄王亀のリクガメに似た足を生やしたようなものだろうか。ちなみに後方は見えないから、尻尾がどの程度の長さかは判然としない。
「八岐大蛇ですか~!」
「これも、地球で得た知識から!?」
ミリィとマリィが驚愕も顕わに叫ぶ。もっとも二人は既に臨戦態勢で、魔封の杖と治癒の杖にも魔力を通している。
──オルムルを頼む! かなりの力を使ったらしい!──
シノブは密かな思念をマリィとミリィだけに向けて発する。そしてシノブは、手を差し伸べたミリィに自身を慕う子竜を預けた。
他に無い感応力を持つオルムルでも、神霊の感情を探るのは並大抵ではなかったのだろう。そのため役目を果たした彼女は、深い眠りに入っていた。
もっともオルムルは魔力を大量に消費しただけだ。そのためマリィが持つ魔封の杖で魔力を譲渡し、更にミリィが治癒の杖で念の為の回復をすれば、すぐに元気になるだろう。
そう判断したシノブは、再び海神ヤムへと顔を振り向ける。幸いヤムはオルムルのことなど目に入っていないようだ。どうやらヤムは、ミリィの言葉が気に掛かったらしい。
「我の偉大さを知る者が伝えたのではないか? 我が名の一つ『ヤム・ナハル』に似た響きだからな」
ヤムは自身が大元で、自身の影響を受けた存在が八岐大蛇だと考えているらしい。
現在ウガリット神話として知られるものは、紀元前十四世紀から紀元前十三世紀ごろの粘土板によるものだ。そして紀元前六千年ごろには、既に壁で囲った集落がウガリットにあったという。
今日まで残っている粘土板はウガリットの末期である紀元前十三世紀ごろに作られたもので、いわば最終的な形を示しているにすぎない。つまりヤム自体の誕生は更に前で、神代の八岐大蛇の伝説より古い可能性はある。
「『ヤナハ』と転じ、それがヤマタでしょうか!?」
「単に首の数かも!?」
ホリィは魔風の小剣を持ち右に、タミィは炎の細剣を手に左へと散る。もちろん中央を受け持つのは、光の大剣を持つシノブである。
「『Yam・Nahar』から子音だけのところを除いたってのはありそうだな!」
シノブもホリィの言葉に一定の説得力を感じた。殆どが開音節、つまり母音で終わる日本語では末尾の『m』や『r』が馴染まず欠落したという説だ。
ちなみに『ヤム』は海、『ナハル』は河を表す言葉だという。そのため洪水の化身であるという八岐大蛇には『河』の部分が残ったのかもしれない。
もっとも、それらは後でゆっくり論ずれば良いことである。そこでシノブは右手で光の大剣を保持しつつ、左で夜刀之鋼虎を逆手に抜く。
「そなたら、我が恐ろしくないのか? 我はバアルすら退いた偉大なる神霊、海神ヤムだぞ」
八つ首だけあって、ヤムは口も達者らしい。彼は一本の首で会話を続け、残り七本からシノブ達に水のブレスを放ってくる。
しかし、それがシノブ達に当たることはない。光鏡と光弾が守っているからだ。命中すれば致命傷となるかもしれない太い水の束も、無数の光の弾や円盤の中に消えていくのみである。
「本気で言っているのか!? こっそり侵入して盗みを働き、更に何百年も潜伏しておいて……さあ大和之雄槌を返してもらおう!」
シノブは左手の夜刀之鋼虎を前に突き出した。
大量の魔力を注ぎ続けたからか、シノブは夜刀之鋼虎に意志のようなものを感じていた。そして稀なる名刀は、シノブに仲間を取り戻してくれと訴え続けていたのだ。
「これなるはヤマトの陸奥にて生まれた夜刀之鋼虎! 祖霊となったドワーフ将弩の力が宿りし当代一のヤマト太刀! ……そしてカミタの神刀、大和之雄槌の後継だ!
いざ再会の時は来たれり! 夜刀之鋼虎よ……己が対を救い出せ!」
シノブは気合と共に夜刀之鋼虎に異神を屠ったときに匹敵する魔力を、そして自身の想いを篭める。
異なる世界とはいえ、ヤマトはシノブにとって故郷の一つと言うべき土地だ。その神宝を奪ったヤムに、シノブは烈火のような怒りを抱いていたのだ。
「な、何を! ……ち、力が!?」
最初ヤムは、シノブを嘲笑おうとしたらしい。しかし彼は自身に異変を感じたのか、巨大な首を胴体に向ける。
しかも胴に向けた首は、一本ではなく全てだ。よほどの変事が生じたのか、ヤムは水のブレスを中断し、長い首を全て胴体へと向けていた。
「ギャアアアッ! 腹が!」
突然ヤムは地響きを立てて横転した。そして間を置かずに、八つ首の巨竜の腹部から黒い霧のようなものが飛び出してくる。
それは闇のように黒く、しかし清らかだ。まるで神々の長兄ニュテス、冥界と夜を預かる魂の守護者のように清冽な力をシノブは感じ取る。
あれが大和之雄槌なのだろう。そう思ったシノブは、夜刀之鋼虎を順手に持ち替え高々と翳す。
するとヤムから出た黒い霧は一直線にシノブへと向かい、夜刀之鋼虎の白き刃に吸い込まれた。
──貴子様、ありがとうございます──
──我が背の君、お会いしとうございました──
手に持つヤマト太刀は太陽のように眩しく輝き、同時にシノブの心に二つの思念が飛び込んでくる。
大和之雄槌と夜刀之鋼虎、時を越えて巡り合った二本の刀。その歓喜の言葉は、戦いの最中にも関わらずシノブの心を温かくしてくれた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年2月27日17時の更新となります。