20.39 異神と会う日
創世暦1001年10月の後半は、多くの者にとって穏やかに始まった。特にエウレア地方の人々は、平和と繁栄を満喫していた。
エウレア地方から戦が消え去って五ヶ月以上が過ぎ、つい先日は諸国が集まっての大祭まで開かれた。もちろん実際に目にしたのは開催したアマノ王国でも一部の者のみだが、他国でも盛んに噂されている。
まずアマノ王国では、都市や大きな町に限ってだが放送の魔道装置で音が届けられた。これは実況付きだから、各種の武術や球技の大会の中継で人々は大いに盛り上がった。
そしてシノブが力を入れている新聞も、伝達の一端を担った。記事には先日完成した写真の魔道具で絵を添えたし、服飾や美術、演劇の役者なども紹介したから女性にも大人気である。
アマノ王国以外でも、近隣では新聞を導入する国が出始めた。どこもアマノ王国と同様に国営新聞からだが、やはりアマノ同盟大祭での自国の活躍や他国の珍しい風物を紹介している。
アマノ同盟の加盟国は広域用の魔力無線で結ばれているから、大祭の出来事も文面だけなら一日と掛からず国まで届く。したがって新聞制度を導入した国は翌日には記事を紙面に載せ、まだ新聞がない国も町々に布告し遠方の出来事を伝えていた。
極めて一部の恵まれた者は飛行船や竜の運ぶ磐船でアマノ同盟大祭を見物しに行ったが、この時期になると多くは帰国している。それらの者達は目にした事柄を自慢げに語り、囲む人々は羨望と驚嘆の表情で話に聞き入る。
南のアフレア大陸との交流も順調だ。
エウレア地方の南は魔獣の海域が広がりアフレア大陸とは殆ど行き来できなかったが、それでも冒険航海に成功した強運な船が何十年に一隻くらいは出現する。そのため昔から海運商の興味を集めていたのが、安定した航路の登場で一気に爆発したようだ。
向こうに誕生したウピンデ国はアマノ同盟にも加盟したから、実際に訪れる商人も南のカンビーニ王国やガルゴン王国だと相当な数に登っている。ただし南方との交流が始まって三ヶ月少々で、商船だと往復だけでも一ヶ月半の大航海だから行ったきりの者も多い。
とはいえ早い者は戻っており、ウピンデ国とも魔力無線でのやり取りが始まり情報は日々入ってくる。そのため南方に関しては、身近ではないが現実的な存在として意識する人々が増えている。
それに東域、アスレア地方との交易も人々の興味を惹き始めた。
今まで全く知られていなかったアスレア地方だが、何といってもエウレア地方と同じ北大陸に存在するのは大きい。南のアフレア大陸とは違い、アスレア地方には沿岸を伝って航海できるのだ。
こちらも魔獣の海域で塞がれていたが、今は南と同じく海竜達が造ってくれた航路がある。それに補給港も途中に置かれたから、比較的小型の商船でも行き来は可能であった。
もっともアスレア地方との交流は先月からで、まだ情報先行というべき状態だ。そのため商人達の殆どは、航路開発の東域探検船団が送ってくる情報を吟味している段階である。極めて一部は探検船団の入れ替えに便乗し東に乗り出したが、今のところ未知の国々には代わりない。
もっとも東域への航路は南方行きの半分程度と短く、多くは興味津々で吟味も参入を前提としたものだ。
このようにエウレア地方の人々は争いの無い日々を謳歌し、魅力的な南や東との交易に大きな希望を感じている。そして双方の地も、エウレア地方の活気が伝わったかのように新たな時代への動きを加速していた。
ウピンデ国にはメリエンヌ学園の分校も誕生した。もちろん気候や文化が大きく違うから、体制や教える内容は大きく異なるし、今も模索中である。しかし本校やエウレア地方の分校とは魔力無線で連絡を取り、更に南大陸の珍しい産物を求めて赴任する研究者もいるから、魅力溢れる場所になりそうだ。
産業にも互いに新風が吹き込まれた。ウピンデ国の魔法植物は北でも珍重され、逆に北からは幾つかの農法が伝えられた。それに交易はウピンデ国からアフレア大陸の更に東西へと広がり、そこからウピンデ国に学びに来る人々も出始めた。
アスレア地方でも、アマノ王国に最も近いエレビア王国は未曾有の好景気だという。両地方を繋ぐ交易の要衝とすべくエレビア王国も梃入れを開始し、その開発にはアマノ同盟も出資しているからだ。
エルフのアゼルフ共和国も国を開いたから、エレビア王国は更なる躍進を遂げるだろう。実際アマノ同盟の海洋王国は、エレビア王国から東にアゼルフ共和国、アルバン王国と進む航路の整備に意欲的だ。
キルーシ王国も東の国境ではテュラーク王国を警戒し続けているが、他は極めて平穏だ。こちらもエレビア王国を通じてアマノ同盟との交流が始まったから、同じように活況になると多くの者が期待している。
更に東、ヤマト王国でも四種族の融和が成った。
王太子の大和健琉と彼の一行は都に帰還すべく陸奥の国を旅立ち、そこにはドワーフの姫である亜日夜刀美も加わった。おそらく来月の頭ごろ、タケルは四種族を纏めた英雄として都に凱旋する。そして人々は彼を歓呼の声で迎えるだろう。
このヤマト王国を西で知る者は少ない。しかし早ければ数ヶ月、遅くとも数年以内にはヤマト王国とエウレア地方などの交流が始まる筈だ。東域探検船団の最終目的地は、ヤマト王国なのだから。
このような前途洋々というべき状況に、多くの人々は期待に胸を膨らませ、更なる慶事を待ち望んでいる。特に、ここアマノ王国では。何故なら国王であるシノブと戦王妃シャルロットの第一子が来月早々に誕生する予定だからである。
◆ ◆ ◆ ◆
その日の朝、シノブは奇妙なものを居室で発見した。
奇妙といっても形が変だとか怪しげだとかではない。ましてやシノブが第一子に奇妙と名付けたわけでもない。シノブは名前に凝るつもりはなかったし、そもそも赤子はまだ寄り添うシャルロットに宿ったままだ。
もっとも、これを奇妙と感じるのは、シノブくらいかもしれない。何しろ彼が見つめる代物は、伝説の聖具と言われても頷くほどの神気を放っていたからだ。
「おはよう、アミィ、タミィ。……この揺り籠は、また?」
シノブの意識は、居室の中央に置かれた揺り籠に向けられていた。そのためアミィやタミィへの挨拶が少々おざなりなものになったが、幸いにして気にした者はいないようだ。
何しろシャルロットは隣で絶句したまま、オルムル達も固まったかのように宙で静止したままである。
「その……『天空の揺り籠』です……」
「昨日が『聖王子の鎧人形』でしたね……」
アミィは少しばかり苦笑めいた表情で揺り籠の銘を口にし、タミィは飾り棚の上に置かれた甲冑人形に顔を向けた。すると双方の品は存在を主張するかのように、僅かに輝きを増す。
『天空の揺り籠』は名前の通りベビーベッドだが、造りが尋常ではない。揺り籠の囲いや脚は金銀細工に宝玉まであしらった豪奢なもので、寝床となる面も見たこともない艶やかな布で覆われている。
あまりに素晴らしいものを見たせいか、赤子が粗相をしたらとか、手入れはどのようにすればとか、要らぬことがシノブの頭に浮かぶ。
『聖王子の鎧人形』も負けず劣らずの恐るべき逸品である。こちらは大人の三分の一くらいの大きさで、椅子に腰掛けた全身鎧の騎士を精密な細工で再現したものだ。素材はミスリルのようだが、やはり随所を宝石で飾り、更に各種の武具が甲冑騎士の後ろに飾られている。
しかも剣や盾なども同じく魔力が大量に篭もった白銀と稀なる輝石を用いているから、その一本だけでも値が付けられない宝物である。隣にはオルムル達が造った巨大な宝石によるシノブ達の像が置かれているが、そうやって並べても全く見劣りしない。
もちろん、このような品を贈ってくれる者達が普通の人間であるわけがない。これらは神界に住まう神々からの贈り物であった。シノブの第一子誕生を、神々も待ちわびているのだ。
「鎧人形はテッラの兄上だったけど、これは母上かな……」
「シノブ、お礼の言葉を」
揺り籠に近寄りつつ呟いたシノブに、シャルロットは早く礼をと促した。
シノブは神々の御紋でアムテリア達と会話できるし、普段から日に一度は御紋を使って日常のことを伝えている。そのため急いで感謝の意を伝えるべきというシャルロットの言葉は、至極当然であった。
『それではシノブさん、先にファルケ島に行きますね!』
『今日は移送魚符にしてみます!』
オルムルとシュメイがシノブに声を掛け、窓際へと飛翔する。昨日からオルムル達もファルケ島での調査に加わっているのだ。
現在ファルケ島にはホリィが常駐し、彼女の魔法の幌馬車も置かれている。そのためオルムル達は『白陽宮』の庭にある創世の聖堂から、アスレア海の南に位置する前線基地に転移するつもりのようだ。
ちなみに憑依術を会得していないフェルン、ディアス、ケリスも同行している。これはシノブがファルケ島に造ったピラミッドの上なら安全だと判明したからだ。
シノブ達は、ファルケ島の南に潜むらしい海神ヤムを警戒していた。しかしヤムは、石で囲まれた場所が苦手なようだ。
アミィ達が解読した石板には、バアル神が『南から来た男』ヴラディズフに語った一節として『神力を注入した石の部屋にヤムは侵入できない』と残されていた。そしてヴラディズフ達がファルケ島に石造りの住居を造ったのは、この一節が理由のようだ。
ウガリット神話でも、ヤムを恐れたバアルは石造りの神殿に篭もろうとしたという。また彼はヤムを斃し遺骸を檻に押し込めたそうだが、おそらくこの檻も同じような細工をしたものだろう。
つまり巨大な岩石のピラミッドにシノブの魔力を満たせば、一種の結界として機能する。そのようにアミィは進言し、シノブは早速実施した。そのため超越種の長老や親世代達も、ピラミッドを安全な城として利用しているのだ。
「ああ、いってらっしゃい」
シノブはシャルロットをソファーへと導きながら、オルムル達に声を掛けた。
ファルケ島を中心にした探索も順調だ。それにシノブは超越種の力も遠慮なく借りると決めた。互いのしたいこと、出来ることをすれば良い。その思いがシノブの顔に朗らかな笑みを生み出す。
輝く陽光に誘われるように、オルムル達は青い空に飛び出していく。シノブは平和を象徴するような子供達の姿に目を細めつつ、懐から神々の御紋を取り出した。
◆ ◆ ◆ ◆
「母上、立派な揺り籠、ありがとうございます」
シノブは御紋を片耳に当てたまま、お辞儀をする。御紋の形状はスマートフォンのような薄い板だから、ついつい日本で慣れた仕草が出てしまうようだ。
そんなシノブの様子をシャルロットはソファーから、アミィとタミィは脇に並んで立ちつつ微笑みと共に見守っている。
この世界では遠方との通話は魔力無線くらいで、日常会話への使用を思い浮かべる者など殆どいない。しかしアミィはシノブのスマホから地球の知識を得ているし、他の二人もシノブと接しているうちに大よそは理解したようだ。
そのため三人とも、起立して頭を下げるシノブに驚くことはない。
『良いのですよ。それにしても来月が待ち遠しいですね』
シノブの感謝の念が伝わったからだろう、アムテリアは非常に華やいだ声を返してくる。そして嬉しげな母なる女神の声音に、ますますシノブの心に幸せが広がる。
「はい……ところで母上、昨日はテッラの兄上、そして今日は……もしかして?」
『ええ、明日からも届くでしょう』
シノブは当然といった様子のアムテリアの言葉に、予想していたこととはいえ笑いを零してしまう。どうやら少なくとも明日からの五日は、毎朝贈り物に驚くことになるらしい。
具体的にどのようなものが続くか、アムテリアは確言しなかった。しかし彼女は、かなり暈した表現で仄めかしはする。
どうもアムテリアは、シノブの驚きを邪魔したくはないらしい。あまり例のないことだが、彼女は敢えて複数のものを持ち出し、その中のどれかかもしれないし全く違うかも、などと韜晦めいた物言いまでした。
「……判りました、楽しみに待ちます。……ところで母上、例の件は如何でしょう?」
シノブは頂き物の礼から、話題を転じた。シノブはアムテリアに、あることを問い合わせていたのだ。
『上位神に確認しましたが、自発的に侵入し長期間の潜伏をしたのであれば重罪は免れないとのことでした。最悪は消滅、良くて力の剥奪と長期の監視です。
……多くの神は、在るべき場所と役目を定められているのです。もちろん私達も』
アムテリアの声は、それまでとは違う憂いの滲むものとなっていた。
シノブが問い合わせたのは、ヤムの処遇がどうなるかについてであった。自分がヤムと会ったとき説得する材料があれば、とシノブは思ったのだ。
この世界にヤムが侵入した動機は不明なままだ。
おそらくヤムは、地球でアムテリアの過去の一族と出会い戦った。もちろんアムテリアの一族だから、遭遇と争闘の相手は日本を起源とする神々の一柱だ。
この神はヤムと同じく海を司る男神らしく、非常に単純化すると同系統に分類できるようだ。そのためかヤムは相手の力や知識の一部を奪い取り、我がものにしたという。
ただし二柱の戦いは私闘で、しかもアムテリアの一族は勝手に地球に訪れていた。したがって戦いについてヤムだけに非はない。
地球でのバアルやヤムは信者を失った神霊であり、大人しくしている分には上位神も問題視しない。むしろ新たな世界で惑星神に昇格したアムテリアの一族の方が、身勝手な行動を責められるそうだ。
『地球での件は、あの子の失態です。相手が神霊で、しかも地球に影響がなかったので厳重注意で済みましたが……』
アムテリアは、前も一族を『あの子』と呼んだ。どうも彼女からすると、問題の神は目下に当たる存在らしい。親しげな呼び方からすると相当に近しい関係なのだろうが、敬うべき対象ではないと思われる。
「ヤムも今のところ侵入だけ……いえ、もしかすると大和之雄槌を盗んだかもしれませんが……仮に窃盗をしていなくても、期間が問題になるのでしょうか?」
シノブは可能なら説得による退去で済ませたかった。
バアル神のように多くの魂を弄んだなら、存在の抹消も致し方ないだろう。しかし現在判明している範囲であれば、ヤムの失態は不法侵入と滞在だけかもしれない。
仮にヤムが神刀と呼ばれる大和之雄槌を奪ったとしたら、神々の間では重罪とされるのか。あるいは不法な長期滞在自体が問題なのか。そこはシノブには判断し難い。
しかし微罪とまで言わなくても一定期間の謹慎で済むなら、穏便な退去に持っていけないか。シノブは、そう考えたのだ。
『人の作りしものを奪ったのであれば、力の剥奪は確実でしょう。ただし何百年、何千年かして改心が認められたら戻される可能性はありますが……。
……シノブ。この星の神……つまり私達は星を正しい方向に導くための関与が認められています。とはいえ私達も完全ではありません。良かれと思ったことが過ちとなる……そのようなことは当然あります』
アムテリアの言葉に、シノブは静かに頷いた。
自身の国王や領主としての立場に置き換えてみれば、明らかである。統治者は人を動かし、良いと思ったことを実施する。しかし全てが思った通りになる統治者はいないだろう。
商会の主、軍の隊長、あらゆる長は与えられた権限の範囲で選択し、配下に命令をする。それは個人であっても同じだ。人は自身の主であり、自身の最善を選び取り進むのだから。
もちろん失敗することもあるが、正しい権限を持つ者が手を尽くした結果であれば受け入れるしかない。その意味では、アムテリア達の世界の管理も同じである。
『ですが、この星に在るものを招かれぬ者が勝手に動かす……それは許されぬことです。そこに在ったものが、将来その場で大きな役割を果たす可能性は、誰にも否定できないのです。
……貴方を招いたときも、私は必要な手続きを取っています。星を預かる私の申請で、しかも血族ということもあり許可いただきましたが、そうそう出来ることではありません』
やはり大きな力を持つというのは、それに相応しい責任を伴うことなのだ。そして責任は制約に繋がる。制約は自制であったり強制であったり様々だろうが、大きな力を心の赴くままに振るえば、更に大きなものが正す。アムテリアの語る内容は、神々も厳格な決まりの中に置かれていることを匂わせるものだった。
「そうですね……大和之雄槌がヤマト王国で何かの役目を果たしたかもしれませんし……少なくとも、処罰された人はいるでしょう」
シノブはヤマト王国の歴史に思いを馳せた。
ドワーフ達は大王が率いる人族に押されて北に移住した。もし、そこに神刀があれば歴史が変わった可能性はある。そこまで大きな変化がなくとも、神刀の管理責任者が職を追われるなど明らかな影響が生じている筈だ。
『仮に盗難に関与しておらず、バアル神などの強制で世界を渡ったなら。そして長く潜んだのも何らかの不慮の事態であれば……そのときは退去と上位神による監視のみで済むかもしれません』
「ありがとうございます。それらをヤムに訊ねてみましょう」
憂いを増したアムテリアの言葉を聞きながら、シノブは真実が彼女の語るようなものであればと思ってしまう。しかし現実は、そう甘くないのだろうと同時に気を引き締める。
『シノブ。貴方ばかりに負担を……』
「母上、これは私のすべきことです。何しろ地上の出来事……もっとも相手は深海のようですが」
謝罪しかけたようなアムテリアの言葉を、シノブは静かに遮った。
神々にも様々な思惑があるだろう。神の直接関与を可能な限り避けたい。先々迎える仲間の成長の場としたい。あるいは、人の身では想像もできない何か。
しかしシノブは、それらを確かめる気はなかった。シノブは今回の件を地上の出来事として収めたかったのだ。
相手は神霊かもしれないが、世界を揺るがしたわけではない。それに人を脅かしたわけでもない。ならば、なるべく穏便に対処すべきだろう。それが何千年もの昔から存在した異神ヤムへの敬意の示し方だと、シノブは思っていたからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「シャルロット、ミュリエル、セレスティーヌ。今日もファルケ島に行ってくるよ」
朝食を終えたシノブは、その日の行き先を妻と婚約者達に伝えた。
アスレア海に浮かぶ、先日まで名前すらなかった小島。そこは海神ヤムを探す最前線、一種の要塞と化した。そしてシノブやアミィは数多くの超越種と共に、毎日のように島に渡っている。
そのため改めて言わなくても、シャルロット達は行き先を察していただろう。しかしシノブの言葉に特別なものを感じたのか、三人とも表情を引き締める。
早朝のアムテリアとの会話で、シノブは必要なことを全て済ませたと感じていた。
先日、アルマン共和国の海の神具『覇海の宝冠』と『覇海の杖』も取りに行き、決戦に備えた改良も施した。そして超越種達の調査で、ヤムが潜んでいるらしき場所は大きく絞られた。
ヤムと対面したとき、伝えるべきことも定まった。上位神の裁定に身を任せるよう呼びかけるにしても、適当なことは言いたくない。そのため神々の法を問い、大よそのところは把握した。
ならば後は打って出るだけである。今日は半日ほどを調査に使い、特別に変わったことが無ければヤムがいるらしき領域の中心に行ってみる。シノブは、そう決めていた。
シャルロット達の表情が変わったのは、シノブの決意が声に滲んだからだろう。家族の雰囲気に変化が生じた理由を察したシノブは、思わず苦笑いを浮かべる。
「シャルロット……何度でも誓うよ。君の側に一生いる。俺の居場所は君のところだ……だから、心配しないで待っていてくれ。君と……そして俺達の子供が笑っていてくれるから、俺も笑顔で出かけられるんだ」
シノブは立ち上がり、シャルロットの側に寄る。そしてシノブは妻の肩に手を置きながら語りかけた。
「はい……信じて待ちます。貴方は私達の太陽ですから……」
シャルロットは夫の配慮を理解したのだろう、腰掛けたまま夫の手を握るのみに留めた。その代わりに彼女は零れんばかりの笑みを浮かべ、隣に立つシノブを見上げる。
「その言葉、光栄だね……ああ、君に似て強い子だ。この子も応援してくれている」
シノブの鋭敏な魔力感知能力は、まだ見ぬ自身の長男がどのような姿勢をしているか、そしてどのような感情を抱いているかすら教えてくれる。
単なる偶然なのだろうか。それとも必然か。もうすぐ外界を知るだろう新たな命は、母と同じ姿勢を取っていた。
もちろん出産間近だから、赤子の頭は下を向いている。しかし丸まっている彼の手は突き上げるように顔の近くに寄せられていた。それもシャルロットの動きと重なるような、殆ど同時にである。
そして心も。小さな命は、確かに父親を応援していた。本当に僅かだが、シノブは彼の魔力が自身に向けて揺れたのを間違いなく感じ取ったのだ。
シャルロットと同じ二つの動き。それを察したシノブは、必ず戻ってくると心中で密かに誓いを重ねる。
「はい……私も感じました。この子の……そして皆のためにも、無事なお戻りを……」
シャルロットの顔は誇らしさと幸せ、そして慈しみに満ちていた。
それは夫と同じものを感じ取ったからか。間もなく誕生する子供への愛と期待からか。何れにせよ彼女は戦士に相応しく、つまり憂いのない顔を伴侶に向ける。
「ミュリエル……シャルロット達を頼む。今の君なら、俺の留守を安心して託せるよ。君の優しさと知恵で、シャルロット達を見守ってくれ」
シノブは妻の肩に右手を置いたまま顔を動かし、空いた左手を銀髪の少女へと差し出した。もちろん、その先にいるのはミュリエルだ。
初めてミュリエルと会った日、シノブの目には彼女が母に縋る幼子のように映った。姉のシャルロットに暗殺未遂という凶事が降りかかったからであり、実際まだ九歳という幼さだから自然ではあった。
しかし今、シノブの目の前に立つ小さな少女は、人々に縋られる大きな存在に育っていた。
歳は一つ増しただけ、背も幾らかは伸びたが握り拳一つ分にも満たないだろう。だが、叡智に輝く緑の瞳が、気品を増した身ごなしが、そして放つ雰囲気が彼女を大人以上だと主張している。
「はい! お任せください、シノブさま!」
ミュリエルも、やはり武人の娘であった。彼女の父は『魔槍伯』コルネーユ、祖父は『雷槍伯』アンリ、そして何より姉は『ベルレアンの戦乙女』シャルロットである。
旅立つ戦士に余計な言葉はいらないと、ミュリエルは生まれたときから教えられている。そもそも愛する人が全てを託すと言ったのだ。これに応ずるだけで良いと、彼女のベルレアンの、そしてフライユの血が叫ぶのだろう。
「セレスティーヌ……君の笑顔で家族を励ましてくれ。君の姉と妹……そして……何と言うべきかな?」
シノブはセレスティーヌがシャルロットやミュリエルを家族として大切にしていると知っていた。
セレスティーヌは、ここにはいないミュリエルの祖母、フライユ伯爵領を守るアルメルを祖母と呼んでいる。もちろんセレスティーヌとアルメルに血の繋がりは無いが、一家としてありたいという心の発露だろう。
その愛情溢れる少女に、もうすぐ生まれる我が子も託そうと思ったシノブだが、何と表現すれば良いのかと今更ながらの疑問を覚えた。
「もちろん、私達の子、ですわ! シャルお姉さまの子は、私やミュリエルさんの子でもあります! ねえ、ミュリエルさん!」
「はい! セレスティーヌお姉さま!」
シノブの手を取るセレスティーヌに、胸の中へと移ったミュリエルが元気良く応じた。
これが、この世界の在り方なのだろう。もちろん全ては無いが、一人の男を支える選択をした女性達の愛と調和の道に違いない。
地球とは異なるが、これが今の自分の家族の姿だ。シノブも少女達の言葉に大きく頷く。
「ああ、その通りだ。それじゃ改めて……君の明るさで俺達の子を守ってくれ。多くの人と手を繋ぎ、微笑みで満たそうという君の心を、この子にも」
「はい!」
セレスティーヌも多くは語らなかった。その必要は無いからだ。
愛と調和。それが外交を司るセレスティーヌの本心だ。甘い、少女の夢想だと人は言うかもしれない。しかし大きな力を持つ者同士が自身の利を声高に主張してぶつかり合えば、どうなるだろうか。譲り合い、手を繋ぐ。そして共に得たものを分け合い微笑む。全ての人に増して徳を積むべき王者の歩む大道である。
自身の心を、共に歩む相手は理解してくれた。セレスティーヌは至福と言うべき表情で婚約者の胸の内に飛び込む。
「それじゃアミィ、行こうか。タミィ、皆を……」
「シノブ様! 私も行きます!」
シノブはタミィにシャルロット達の守護を頼もうとした。しかしタミィは自分も同行すると言い出す。
ミュリエルよりも更に小さな狐の獣人は、背伸びをするようにしてシノブを見上げている。姉と慕うアミィと並び寄ってきた彼女は、固い決意を示すように狐耳を立て尻尾も大きく揺らしている。
「シノブ様、タミィも一緒に。眷属は多い方が良い筈です」
アミィは妹分の肩に手を添え、更に前に押し出した。
タミィは眷属用に調整した神具を扱えるし、思念を飛ばすことも可能だ。そしてシャルロットは今日明日に出産するという状況ではない。
ならば動員できる全てを島に連れて行くべき、とアミィは考えたのだろう。
「判った。こちらはアンナやルシールに任せよう」
シノブもタミィを同行すべきだと考え直した。
常にシャルロットの側に眷属を置くようでは、治癒術士達を信頼していないと言っているようなものだ。シャルロットは誰が見ても安定した状態であり、ならば人間の技を信ずるべきだろう。シャルロット達が、シノブを信じて送り出してくれるように。
「ありがとうございます!」
「礼を言うのは、こちらだよ。それじゃ、七百年寝太郎のヤムを見つけに行こう! どんなやむを得ぬ事情があるか知らないが、そろそろ起きてもらわなくちゃ!」
タミィの笑顔を見たからか、シノブは思わず軽口めいた言葉を発した。もっとも表現はともかく、これはシノブの本心でもあった。
本当に眠りに就いているだけだとしても、これから通る海の近くに正体不明の神霊がいるのは勘弁願いたい。シノブならずとも、大抵の者は同じことを考えるだろう。
「シノブ。今の冗談、この子にも通じたようですよ。大きく動きました」
シャルロットの言葉に、シノブを含め囲む者達は大きな歓声を上げた。
どうやら出立まで、もう少し時間が掛かるようだ。シノブは待たせている者達に済まないと思いつつも、家族との一時を今少し楽しむことにした。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年2月23日17時の更新となります。