20.38 幸の在処
シノブ達がアマノシュタットの散策をしたころ、テュラーク王国に動きが生じた。王都フェルガンから、密命を受けた戦士が騎馬で駆け出したのだ。
フェルガンに潜入したアルバーノ達は、数日前にシャルロットが提案した策を実施した。それは姿を消した宮廷魔術師ルボジェクやキルーシ王国から逃げ込んだ筈のエボチェフの足取りを掴むための情報操作だ。
百歳を超える大魔術師ルボジェクは恐るべき人物だが、同時に頼りにもされている。その彼が十日以上留守にしているのは不安だ、王宮に戻ってもらわねば、などという風説をアルバーノ達は撒いた。
潜入している六人のうちアルバーノは官人に化けて宮廷など、アルノーは軍人に扮し駐屯所や軍本部、そしてヘリベルトを始めとする四将軍は町人に混じって王都の各所に。彼らは畏怖と信頼の双方を捧げられた老人の不在を声高に叫び、人々の心に不安を送り込んだ。
このような策をアルバーノ達が採ったのは、ルボジェクが禁術に手を出したと思われるからだ。
ルボジェクや彼の先祖は、キルーシ王国の遺跡から『南から来た男』ヴラディズフの残した魔道具や魔術書を得て、技の再現に励んだという。
これらは禁術である隷属の原型であったり魂を変容させる邪術であったりと、シノブ達にとって看過し得ぬものだ。特に元戦闘奴隷という経歴を持つアルバーノ達六人にとっては、己や仲間を苦しめた忌まわしき技である。
そのためアルバーノ達は、姿を消した宮廷魔術師の行方を懸命に探り続けた。
しかしテュラーク王国の要人は中々扇動に乗らなかった。民や宮殿の使用人辺りはともかく、国王ザルトバーン、王太子ファルバーン、それに宰相アルズィーンなどは悠然と構えたままだ。軍も将軍バラームが掌握し、キルーシ王国との再戦を目指す動きに変わりはない。
どうやら中枢部はルボジェクを相当に信用しているらしい。そう考えたアルバーノ達は、次なる一手を打った。
「やっと動きましたか」
「奴らもルボジェクが魔法狂いだと思っているんですね!」
騎馬戦士を追っているうちの二人、アルバーノとクラウスが微笑みを交わす。それに無言で続くアルノーやディルクの顔にも大きな安堵が滲んでいた。
アルバーノ達は、ルボジェクの研究中の術が暴走したという新たな噂を流した。これは国王ザルトバーンなども要確認と思ったらしく、彼らは近衛戦士を送り出した。そこでアルバーノ達四人は透明化の魔道具で姿を消し、密かに追跡しているのだ。
今、フェルガンには残りの二人ヘリベルトとオットーがいる。
四将軍のうち身軽なクラウスやディルクは偵察が得意で、旧帝国時代も斥候部隊に所属していた。それに対し狼の獣人のヘリベルトはともかく、熊の獣人のオットーは索敵を得意としていない。そこでオットーは、四将軍の筆頭ヘリベルトと共にフェルガン残留となっていた。
「ディジャンの森か?」
「この方角だと、そうでしょう!」
疾駆する馬を自身の足で追走しているにも関わらず、先の二人と同じくアルノーやディルクも平然としていた。二人は呼吸も乱さず、それどころか行く先について語る余裕すらあった。
ディジャンの森とは、王都フェルガンの南東100km辺りから広がる森林だ。東に行くほど標高の高いテュラーク王国だけあってディジャンも冷涼な高地で、覆う緑も針葉樹ばかりだという。
森には魔獣が多いらしく、木こりなども周辺部しか利用しない。したがってルボジェクが秘密の研究施設を置くには向いていそうである。
もっとも王都の西南には同じくらいの距離にカーフス山脈もあり、そちらも潜む場所に事欠かない。そのためアルバーノ達は、謎多き宮廷魔術師の行く先を絞れなかった。しかし、この騎馬戦士がルボジェクへの使者であるなら、魔術師の隠れ家はディジャンの森で間違いないだろう。
時々姿を消すルボジェクだが、短いときは三日かそこらで王都に戻ってくる。つまり隠れ家は、それほどフェルガンから遠くない筈だ。そして南東で条件を満たすのは、何といってもディジャンの森である。
◆ ◆ ◆ ◆
早馬といっても休みもするし長距離だから全力疾走するわけでもない。それに森の中では街道と違って駆けるわけにもいかない。
奥に続く道はあるし、騎馬戦士は嫌気か何かの魔道具を所持しているらしく魔獣も寄ってこない。しかし馬の進む速度は並足から速歩といったところだ。
したがって騎馬戦士が目的地に着いたのは、半日以上も過ぎてのことだった。
それもあってか、騎馬戦士は僅かな時間で引き返していく。
早く森を抜け出さなければ、ここで一泊することになる。戦士は歴戦の武人らしき風格を漂わせていたが、暗い森で一人野営するのは願い下げらしい。彼は来たとき以上の速度で、夕闇迫る森から去っていった。
一方のアルバーノ達は、当然だが残っていた。彼らが捜し求めたルボジェクの隠れ家が目の前にあるのだから、引き返すわけがない。
「これは……魔獣を閉じ込めた檻か?」
「おそらくは……」
アルノーの問いに、アルバーノは大きく頷く。
アルバーノは断定こそしなかったが、顔には確信が滲んでいる。丸太で拵えた檻、それも家が丸ごと入っても余る巨大な設備には、明らかに獣の匂いが染み付いていたからだ。
ただし檻の中には何もいない。太い木の柵の内側には雨避けらしき屋根や壁で囲まれた場所もあるが、そこにも生き物の気配は存在しなかった。
「随分ありますね……」
「……五十はあるか? 仮に一つに五頭だとしたら、二百を超えるぞ」
呆れたような様子のクラウスに、ディルクが首を振りつつ応じる。どちらも森の奥に隠されていた施設が、これほど巨大だとは思っていなかったらしい。
エウレア地方やアスレア地方には、動物園など存在しない。したがってクラウス達は形容すべき代物を思いつかなかったようだ。
敢えて言えば牧場の畜舎が近いだろう。しかし四人が目にした檻の群れは、牛馬や豚などを入れておく場と明らかに異なっている。
「四つ足ではないな……」
「はい。登るための柱……それに横に渡した丸太は、伝わせるものでしょう。おそらくは猿の類、しかもこの大きさですから岩猿だとしても相当の大物では?」
アルノーとアルバーノの視線は、檻の中に立てられた垂直の木の柱や、高みで両端を結ぶ横木に向けられていた。
これらを使う生き物であれば、樹上性か近い生態に違いない。したがって単なる牧場ではないのは明確である。
「ともかく調査だ。このような場所、真っ当な目的とは思えん」
アルノーは檻を見つめ続けても、と思ったらしい。彼は中央の建築物に歩んでいく。先ほど騎馬戦士が入り短時間で出て行った、館ほどもある大きな建物だ。
「ええ。あれだけ厳重に隠蔽するのですから」
アルバーノが言うように、森に続く道にも途中から幻惑の魔道具が仕掛けられていた。
おそらく騎馬戦士は幻惑を回避する道具も持っていたのだろう。そしてアルバーノ達も彼の背を追ったから、ここに辿り着けた。
しかし一般の者は到達できない筈だ。そのため魔獣の飼育場というべき怪しげな施設は、今まで人の噂に上がらなかったのだろう。
「これだけのことをするんですから、禁術にも手を出していますよ!」
人の気配が無いからだろう、クラウスは大声を張り上げた。ここには魔獣どころか、人っ子一人いないようだ。
既にアルバーノは施設の発見と無人であるらしいことを王都のヘリベルト達やキルーシ王国にいるマリィに連絡していた。彼らには通信筒があるから、速報を入れるなど造作も無い。
ここにルボジェクやエボチェフがいないなら、次なる手を打つ必要がある。そして相手は魔獣の軍団を所持しているかもしれないのだ。したがってキルーシ王国に伝えるのも当然だ。
「俺もそう思います! 岩猿の飼育なんて聞いたことがありません! いえ、ヴラディズフはやったそうですが……ともかく支配の魔術を使っているなら、動物相手でも禁忌に極めて近いことです!」
ディルクは憤然とした様子で叫ぶ。
動物への支配を禁術とすべきか。これは解釈が分かれるところではあった。たとえば騎馬にしろ牽き馬にしろ、馬達も好きで人に力を貸すものばかりではないだろう。中には安定した生を得られるなら多少の拘束も喜んで受け入れるという馬もいるかもしれないが、そうではないものも多い筈だ。
そして家畜への物理的な拘束は良く、魔道具での支配は悪いと言えるのか。乗馬はともかく食用の家畜なら最後は命すら奪うわけで、拘束や支配どころではない。
とはいえ一般には動物相手でも、精神操作は望ましくないとされていた。
末期の苦しみを和らげるための闇魔術を別にすると、その類の術は虫除けや魔獣避けなどの嫌気くらいしか存在しない。そのため馬や犬などを除き、騎獣や使役獣といったものが広まらないようである。
「きっと何かある……堂々と発表できるものなら、こんな森の奥に隠さないでしょう」
アルバーノは微笑みを浮かべると、二人に大きく頷いてみせた。そして彼は身を翻すとアルノーの後に続いていく。
同僚の背を追うアルバーノの顔は、直前までとは違って険しいものであった。彼は、この施設の中で何を目にするか、予想しているのだろう。
妄執に取り憑かれた老魔術師の邪法。それはアルバーノならずとも、誰がどう考えても幸を呼ぶ術とは思えぬものであった。
◆ ◆ ◆ ◆
中央の建物は、居住と研究のための施設であった。おそらく魔獣の世話係などが常駐していたのだろう、大勢が住んでいた気配が残っている。ただし、空き家になってから少なくとも数日は経っているらしい。
「やっぱり支配の魔道具なんですね……あれだけの数を十数人で操って餌を採りに行かせたんだから当然ですが……」
「ああ。それに隷属に近いようだ。ヴラディズフの時代のように一対一でなくても良い、か……」
二人の狼の獣人ディルクとアルノーは、魔獣の飼育係が残した資料を確かめていた。
資料によれば、ここで飼われていたのは大型の岩猿であった。飼育の開始は最低でもルボジェクの祖父の代まで遡るらしい。そして飼育員や研究員も、代々ルボジェクの一族に仕えた者のようだ。
「だけど、それだけ安定したのは近年のようですね。それに餌を採るくらいならともかく、戦場に出すには不安があったようで……」
「おそらく巨人スヴャルや長腕ストリヴォの再現を狙ったのだろう。だが、あれは皇帝の邪悪な力があったから。常人では、血に酔った魔獣の支配は難しい筈……」
ディルクの言葉に頷いたアルノーだが、何かを思うかのように瞑目した。
アルノーは、口にした巨人や長腕を直接は知らない。しかし彼はメリエンヌ王国のベルレアン伯爵家に仕えたラヴラン家の生まれで、そして彼の国の二代国王アルフォンス一世は、その異形達を打ち破った。いわゆる『王太子の二十五年の戦い』という逸話である。
アルフォンス一世がベーリンゲン帝国と戦ったのは五百年以上も昔のことだが、アルノーや彼の同僚達も帝国の侵攻を押し留めるために身を投じた。そしてアルノーは二十年もの間を戦闘奴隷となり、知人や友人には命を落とした者も多い。
そのような経歴を持つアルノーからすれば、魔獣を支配して兵士に仕立てるのは、特別に許し難いことに違いない。
「はい。移動は幻惑の魔道具で何とかなるみたいですが……旧帝国軍の魔狼使役のように隷属なら強制も可能ですけどね……」
ディルクはアルノーの感慨に触れようとはしなかった。
同じ経歴を持つ彼らは互いの過去を明かしているから、ディルクも相手の心境を充分に理解しているのだろう。そのため若き狼の獣人は、敢えて目の前のことを取り上げたようだ。
ルボジェクや配下達は、既に森を出ているらしい。とはいえ随分と慌ただしく旅立ったのか、研究に必須の資料はともかく日常を記したものや古い文書は残ったままである。
ちなみに周囲に仕掛けた幻惑の魔道装置は、森に満ちる魔力だけで機能するそうだ。それ故ルボジェクは証拠隠滅などを考えなかったと思われる。
そしてルボジェク達は、幻惑の魔道具で誤魔化しつつ隠密行動を続けているらしい。そのため国王達は彼に連絡を取らなかったようだが、ここが空き家となったことは知っていたに違いない。
それなのに研究中の魔術が暴走したと聞き、国王達はルボジェクに代わって確認の者を送ったわけだ。おそらく国王達は、ルボジェクなら研究に熱中するあまり何かを忘れることもあると考えたのだろう。
「ああ。だが、それらはマリィ様が調べてくださる。我らでは理解できぬことも……」
既にアルノー達は、キルーシ王国の王都キルーイヴからマリィを呼び寄せている。
マリィは自身の魔法の幌馬車の他に一時的にミリィのものも借り、こことキルーイヴの双方に転移可能な神具を設置した。これなら発見した資料の押収も容易だし、必要に応じてアマノシュタットから増援を呼ぶことも可能である。
何しろアルノー達は超人的な武力の持ち主だが、魔術に詳しくない。情報局長として諜報に長けたアルバーノも魔道具の使用には慣れているが、魔術理論は普通の武人より多少通じているという程度だ。そのため専門家を呼ぶというのは当然の選択であった。
「アルノーさん、ディルクさん、こちらでしたか。やはりルボジェクは、禁術に手を出しています」
アルノーの呟きが呼び寄せたように、扉が開きマリィが現れた。
よほどのことがあったのか、マリィの顔は蒼白に近い色となっていた。
普段の大人びた余裕のある口調や声音と違い、今のマリィは簡潔極まりない物言いである。それに今日の彼女は猫の獣人に扮しているが、頭上の耳は怒りのためか真っ直ぐに天を指している。
「それは……」
「人と魔獣の融合……全く、何を考えているんだ!」
問うたアルノーに言葉を返したのは、マリィではなかった。怒声を発した人物は、彼女の後ろから姿を現した長身の猫の獣人、アルノーの親友アルバーノであった。
◆ ◆ ◆ ◆
「人間の血で魔獣の知能を上げようとしたのでしょう。竜や朱潜鳳の血を用いたのと同じです」
マリィの推測混じりの語りに、アルノー達は聞き入っている。
使役を確実なものにするために、魔獣の知能を上げる。それに身体能力では人など相手にしない巨大魔獣が、人の賢さを得たら。野獣の直感や敏捷性に人の知恵が加わる。もし実現したら、超一流の武人でも簡単には手を出せなくなるに違いない。
「ヴラディズフは朱潜鳳の血で超人を作りました。ルボジェクが遺跡から得た情報に、どこまで記されていたか判りません。ですが、そういった構想は残されていたのかも……それに巨人スヴャルや長腕ストリヴォにも、何らかの細工をした可能性はあります」
もしかしたら巨人や長腕と呼ばれた大岩猿や長腕岩猿にも、密かにヴラディズフが何かの処置をしたのでは。その光景をマリィの言葉から想像したのだろう、アルバーノ達の表情が大きく歪む。
「どうも魔力の多い者の血が良いようです。それも出来るだけ多く……」
部屋にいるのは語るマリィの他、アルノーにアルバーノ、そして共に来た二将軍だけだ。そのためだろう、かなり踏み込んだところまでマリィは触れていた。
旧帝国に残っていた資料からすると、竜の血であれば僅かであっても充分だったようだ。しかし人間だと血が含む魔力の違いからか、相当な量を必要とするらしい。それも命取りになりかねないほどの量である。
しかも能力付与に成功するには、元となる血も選ぶようだ。血の提供者が魔術師や王家の血筋など、特別に魔力の多い者でなければ何の効果も生じなかったとルボジェクや研究員の記録には残されていた。
もちろん、単純に血を与えただけでは変化しない。そのように容易なことであれば、人を糧とした魔獣が次々に異能を得ていくだろう。魔法薬として処置した上、投与の際も施術者が魔力的な補助をするから本来の種族を超えた存在が誕生する。
ただし、全ての魔獣に同じだけの血を与えなくとも良い。岩猿のように元の知能が高く更に群れを作るような種族なら、統率する個体を中心に強化すれば一個の軍団として充分に機能するようだ。
それらをマリィが説明していくと、ますます四人の表情は険しくなった。
「その……マリィ様。エボチェフは……」
耐えかねたかのような声を発したのは、クラウスであった。もっとも他の三人も同じ想像をしていたのだろう、何れも表情は暗い。
ここには条件を満たす者が二人いた筈だ。
一人は主のルボジェク。百年の時を生き、なおかつ壮年者に勝る体力を保持し、魔力や術は何十年も他の追随を許さない。この大魔術師なら、群れを支配する個体の改造に最適であろう。
だが、もう一人のエボチェフも条件を満たすと思われる。かつてのガザール王家の末裔であり、先日までキルーシ王国で第二位の名家の当主。それがエボチェフという男だ。しかもガザール家はテュラーク王家とも婚姻を繰り返したから、エボチェフにはテュラーク王家の血も大いに入っている。
そして命に関わるほどの大量の血液を、高齢のルボジェクが提供するとも思えない。ならばルボジェクが採る手段は一つしかないだろう。
「おそらくは……この館にエボチェフの日記がありました。そして最後の日付は、十月一日です」
マリィの顔は、これまでに無いほど曇っていた。
エボチェフと息子のヴァジークは、キルーシ王国に乱を齎した。それも罪なき人々を盾にしての狼藉である。当然ながら、マリィも彼らの非道を許さないだろう。
しかし、あまりに無残な末路ではないだろうか。日記によればエボチェフは九月末日にフェルガンに到着したらしい。そして翌日、この館に移送されたようだ。
つまり館に移された次の日、エボチェフは魔の手に掛かった。禁術に狂ったルボジェクは、そして彼を後押しするテュラーク王達は、最初からエボチェフを生け贄にするつもりだった。そうとしか思えない素早さである。
「我々がフェルガンに入ったときには、もう……」
「ええ。それどころか私達がテュラークに入国したころには、この世の人ではなかったのでしょうな」
呆然とした様子のディルクに応じたのは、慨嘆しきりという態のアルバーノだ。
もちろん二人は、そして残る者達もエボチェフが死したとしても自業自得だと思っているだろう。とはいえ仮に許し難い卑劣漢だとしても、人としての尊厳まで踏みにじって良いのだろうか。
アルバーノ達は戦場で命を奪い、いつかは自身も倒れるかもしれない武人である。それだけに彼らは命の尊厳というものを重視しているに違いない。一瞬瞑目した四人は、会わずじまいの異国の元太守への祈りを捧げたようである。
「ともかくキルーシ王国を支えましょう。邪術を広めようとする指導者達の国など、このままにしておけません」
「はい……しかし幻惑があるのは厄介ですな。それさえ無ければ、今からでも首を取りに行くのですが」
締めくくったマリィに、アルバーノは頷いた。
しかしアルバーノは、姿を消したルボジェクを自身の手で始末したいらしい。口調は冗談めかしてはいるが、声は極めて真剣なものであった。
「私も、そう思います。ですが、自慢げに現れた邪術使いを真正面から叩き潰すのも良いのでは?
後に続こうと思う者が未来永劫出現しないほど、徹底的に……それも神々や眷属、超越種の力ではなく、正しき人が正しき力を合わせて打ち砕く……そのために向こうではベランジェ様達も尽力されていますわ」
マリィは普段の調子を取り戻したようでもあった。しかし彼女の声に宿る熱量は、今までに増しての真摯な想いが内に宿っていると如実に示していた。
おそらくルボジェクは、キルーシ王国との国境に現れるだろう。そして彼は、もう何があろうが国境へと突き進むに違いない。
たとえ主であるテュラーク国王ザルトバーンが崩御しようが、それどころかテュラーク王家が消え去ろうが。ルボジェクは自身が百年以上、そして先祖から数えれば二百年近くを費やした研究の成果を披露するに違いない。
そこが血塗られた演壇で聴衆が怨嗟の声で迎えようとも、彼には幸せの舞台であり心地よい歓声なのだ。何故なら、まさに一世一代、一生を懸けた瞬間なのだから。
しかしマリィは、少しばかりの皮肉を篭めて宣言した。その最高の舞台を、これ以上も無いほど完璧に打ち砕いてみせると。そのためだろう、先刻までの暗澹たる気配は嘘のように霧散していた。
◆ ◆ ◆ ◆
「……アルバーノ達には、もう少しテュラークに滞在してもらうよ」
夜の帳に包まれた『小宮殿』で、シノブはシャルロットに語りかける。
今日は珍しくオルムル達は不在であった。木人により人の姿を得た子供達は、今も嬉しげな笑顔で宮殿を回っている。オルムル達は、公園で買った人形飴を配りに行ったのだ。
シノブは従者達にと百本ほどの飴を買った。もちろん自身の従者だけではなく、シャルロットやミュリエル、セレスティーヌの侍女や護衛達も含めての本数だ。務める当人は大人でも子供を持つ者もいるし、弟妹もいるだろう。それを考えれば百本でも足りるか判らない。
そのためオルムル達の飴配りも、随分と時間が掛かっているようだ。もっとも、これは子供達が自身の新たな姿を披露しながら巡っているからでもある。
そしてタミィはオルムル達の引率をしているから、居室の中には二人の他にアミィしかいなかった。
「何かあったのですか?」
「宮廷魔術師ルボジェクの拠点を発見したが、そこに相手はいなかった。どうやら国境に向かって密かに進軍しているらしい。幻惑の魔道具を持っているそうだ」
シノブは愛妻の問いに、穏やかな表現を心掛けながら答えた。
邪術やエボチェフのことなど、シノブは出産間近な妻の耳に入れたくなかった。しかし身重でも王妃としての責務を可能な限り果たそうという気高いシャルロットだから、全く触れないわけにもいかないだろう。
そう思ったシノブは、要点のみを伝える。
「それでは、貴方も?」
「いや、義伯父上にお任せするよ。義伯父上は、これを俺達の結束を見せつける場としたいらしい。アマノ同盟を更に広げるために……大軍を動かしはしないが、密かに有志を募って準備しているよ」
小首を傾げたシャルロットに、シノブは苦笑混じりで語っていく。
宰相ベランジェ、つまりシャルロットの母方の伯父は、ここのところ密やかな会合や文のやり取りを続けているらしい。彼はアスレア地方に起きようとしている乱を、エウレア地方の者も含む多くで防ぎたいようだ。
アスレア地方の人々に、新たな時代を感じてもらう。そしてアスレア地方の人々にも加わってもらう。更に遠方へと輪を広げる。そのために出来るだけ多くの国から参加者を募り、力を合わせて難事に挑む。それがベランジェの意図だと思われる。
もちろん、主役はアスレア地方の人々だ。ベランジェはリョマノフやヴァサーナなどにも話をしているし、更にシノブが巡った東の国々全てを巻き込もうとしている。
ただ、そうなるとシノブが前線に出て剣を振るうというわけにもいかないようだ。
もはや人を超えた技を使うシノブが前に出ては、キルーシ王国とテュラーク王国の国境に城壁を築いたときのように、ただ一人で片付けてしまうだろう。そうベランジェに言われては、シノブとしても苦笑と共に受け入れるしかなかった。
「まあ、こっちにもすることはあるしね」
「はい! 新たな装備もありますし!」
シノブが顔を向けると、ソファーの向かい側でアミィが大きな青い宝玉が付いた宝冠と杖を掲げた。
アミィが手にしているのは、アルマン共和国の二つの秘宝だ。つまり『覇海の宝冠』と『覇海の杖』である。
海神であるヤムと戦うのだから、水を操る神具を持っていた方が良いだろう。それに無いとは思うが、これらをヤムが盗もうとするかもしれない。
ならば先に手元に置き、戦いに使えるなら使えば良い。シノブは、そう思ったのだ。
『覇海の宝冠』は周囲の人々や自然の魔力を自身の力へと変えた。そして『覇海の杖』は集めた魔力で天にも届く水の柱を打ち立て、更に砲弾や巨人と化して攻防の両面で恐るべき能力を示した。どちらも非常に強力な神具であり、シノブと共に戦うアミィ達の助けになってくれるだろう。
そこでシノブは、アルマン共和国の大統領ジェイラスに頼み、神具を借りたわけである。
「すると、この二つの神具もアムテリア様に強化していただくのでしょうか?」
シャルロットは、バアル神との決戦の直前を思い出したらしい。アムテリアは決戦の前に、アミィが持つ炎の細剣などに改良を施したのだ。
シノブが所有する光の神具は、これ以上ないほどに強い力を篭められている。しかし元々が聖人の作である炎の細剣などは、改善の余地があったらしい。
そのためシャルロットは『覇海の宝冠』と『覇海の杖』にも同様の機能向上をと考えたようだ。
「いや、それも俺とアミィでやってみようかと思ってね。……義伯父上が皆で頑張る、っていうのと同じさ。俺も出来るだけのことはしなくちゃね」
人事を尽くして天命を待つ。シノブは、先日アミィに伝えた言葉を思い浮かべた。大きな力に安易に縋りたくないと思うのは、ベランジェだけではなかったのだ。
「まずは自分で動く。それは、とても大切なことです。だからオルムル達も、自分の意志で貴方を手伝おうとしています」
穏やかに微笑んだシャルロットは、アミィの側に歩む夫から隣室へと顔を動かした。
シャルロットの見つめる壁の向こうには、木人に憑依しているオルムル達の体がある。そして彼女が言うように、オルムル達はシノブの力になろうと様々に努力している。小さな自分でも何か出来ることがあると、子供達も思っているからだ。
「ありがたいことだよ。そんなわけで俺もね……もっとも魔力を渡すだけなのは、ちょっと情けないけど」
シノブはアミィの肩に手を添えながら、頭を掻いてみせる。
オルムル達を育てるにしろ、こういった繊細な術を助けるにしろ、自分がするのは魔力譲渡だけ。それはシノブにとって、喜んでばかりはいられないことであった。
「そんなことありません! それにシノブ様が魔道具作りまで上手くなったら、私の仕事が無くなってしまいます!」
アミィは真顔で反論する。確かに、こういった特別な術はアミィの独壇場である。そこを奪われたら、というのは彼女の本音かもしれない。
「それじゃ、これからも頼むよ」
「はい!」
シノブの言葉にアミィは顔を輝かせた。そして彼女は、嬉しげな表情のまま二つの秘宝に手を添える。
シャルロットは優しい微笑みを浮かべ、神具の強化という稀なる出来事を見守る。シノブも聖なる業の発現に、顔を綻ばせる。
望んで力を貸し、望んで技を振るう。その清らかで純粋な意志から、新たな幸が誕生する。シノブは生まれ変わる神具を見つめつつ、命ある者、そして人が造りし物の幸せを願っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年2月21日17時の更新となります。