20.29 平和の祭典 前編
その男は駆けていた。青年というべき年齢に相応しい細く絞られた肉体を操り、同じように軍人らしき数人の男達を必死に躱し、汗を散らして疾駆していた。
彼は大切なものを運んでいた。国の威信が懸かっている重要な品だ。そのため後ろからだけではなく、前からも邪魔者が迫ってくる。
ここで倒れるわけにはいかない。捕まったら全てが終わってしまうし、再び挑む余裕もない。自分を先に進ませてくれた多くの者のためにも。そして困難な任務を成し遂げ英雄になるためにも。
そう思っているのだろう、若者は翼でも生えているかのような素晴らしい疾走を続けていく。
しかし若者の目の前に、最大の敵が立ちはだかる。何しろ諸手を広げて待ち受けるのは、敵の一団を率いる優秀な武人だ。そのためだろう、若者の顔が一瞬だけ歪む。
「大神アムテリア様、我に力を!」
「させるか!」
二人の男の叫びが響き渡る。そして若者が立ち塞がる男に勝負を挑んだ。
『ゴォォォォォルッ!! ファルージュ・ルビウス選手、見事にゴールを決めました! そして、ここで笛が! サッカー大会の決勝は、メリエンヌ王国が制しました!』
『流石はルビウス、あのメグレンブルク伯爵アルバーノ殿と共に潜入した逸材だ。彼はアルマン島……いや、ともかく優秀な若者だな』
数え切れないほど多くの声が、競技場を揺らした。
まず実況を務めるソニアの美声が響き、次に審判が試合の終了を告げる笛を鳴らす。そして解説の先代ベルレアン伯爵アンリが、フライユ伯爵領軍の若き参謀長ファルージュを褒め称える。
「ファルージュ殿、よくやった!」
「おめでとう!」
「嘘だろっ、負けるなんて!」
更に満員の観客席からの、天まで響くかのような轟きだ。人々の喝采や悲鳴は、放送の魔道装置で広がるソニアとアンリの言葉を掻き消すほどである。
何しろ負けたのは、ここアマノ王国の代表チームだ。
メリエンヌ王国は隣国で、故国という者も多い。そのためアマノ王国の軍人などには、かつての同僚達に心からの祝福を送る者も多数いる。しかし元からの住人達は、これ以上ないほどに嘆いている。
『アマノ王国の選手達も健闘しましたね。フォワードの王宮守護隊の副隊長マニエロ殿は先取点を挙げましたし、キーパーを務めた軍本部所属のアントゥス殿も慣れないポジションですが良く防ぎました』
ソニアはアマノ王国の人々の落胆を察したらしい。彼女は自国の選手達の健闘を称え始める。
この実況は競技場だけではなく、王都を始めとするアマノ王国の都市や大きな町に届いている。そのため内容は、どうしても一定の配慮をしたものになるようだ。
ソニアは特に見事だった二人だけではなく、他の選手達の名も挙げていく。
『うむ。ヘリベルト殿達……四将軍が出場していたら、アマノ王国が勝利しただろう。しかし軍人であれば、任務の優先は当然だ』
アンリもアマノ王国に気を遣ったらしい。しかし先ほどファルージュの過去の潜入任務に触れたことに続き、今度も聞きようによっては微妙な発言ではある。
この辺りはアンリの性格、真っ直ぐで飾らぬ人柄を端的に表している。
彼の息子、当代伯爵のコルネーユは領主らしく己の発言に留意し不用意なことを口にしない。しかしアンリは率直な物言いが多いようだ。
もっともアンリが嫌われることはない。むしろ彼が心を開いてくれたと受け取る者が多く、取り繕わぬ様に敬意を払われているという。
これは彼が伝説的な逸話を持つ『雷槍伯』アンリ故で、更に多くの弟子を育て今でもメリエンヌ学園の副校長として後進を導く人格者だからであろう。
『そうですね。四将軍が……正キーパーのオットー将軍だけでもいてくだされば……』
ヘリベルト達が任務で留守をしていることは、周知の事実であった。そのためソニアも、アンリの言葉をそのままにする。
流石にアルバーノやアルノー、そして四将軍がテュラーク王国に潜入中とは明かされていない。しかし彼らが国王から特別な任務を授かったことは、広く公表されていた。彼らは東域探検船団の支援に向かったことになっているのだ。
つい先日、東域探検船団の半数が帰国したから代わりに東に行った者は多い。船団の出港から一ヶ月を迎えたから、半数ほどの人員を入れ替えたのだ。もっともナタリオなど主だった者達は変わらず東に駐留しており、交代したのは彼らの部下達である。
そんな中ソニアが帰還したのは特別な理由があった。彼女の叔父で養父、情報局長を務めるアルバーノがテュラーク王国に渡ったからである。幾らなんでも局長と局長代行の双方が長期間不在というのは、望ましくないとされたのだ。
『おそらくはな……しかし少しくらい他国に花を持たせてくれても良かろう。さて、そろそろ選手の声が聞けるようだぞ』
『はい、それではグラウンド担当の……』
アンリが指摘した通り、グラウンドでは選手へのインタビューが始まろうとしていた。そこでソニアは、グラウンドで待機しているリポーターに呼びかける。
◆ ◆ ◆ ◆
「アルフォンス殿、テオドール殿。優勝、おめでとうございます」
シノブは隣の二人に笑顔を向けた。
ここはサッカー競技場の貴賓席である。シノブの周囲にいるのは、メリエンヌ王国の国王アルフォンス七世や王太子テオドールを始めとする限られた者達だけだ。
何しろエウレア地方の七国に加え、アフレア大陸からウピンデ国の代表も来た。そのため貴賓席も満席である。
このような状況だから、シャルロットは王宮に残っていた。出産予定日まで二十五日だから、彼女は大事を取ったわけである。
まだ生まれる兆候はないが、周囲も気を使うだろう。そうシャルロットは言い、アミィ達も賛成した。
半月少々前には競技場の視察もしたシャルロットだが、そのときは家族や側近達と連れ立ってである。それに対し、今回は諸国から招いた賓客達がいるのだ。彼女が遠慮するのも無理からぬことであった。
そのため今日はミュリエルとセレスティーヌが、各国の女性達を持て成している。
「ルビウス選手を始めフライユの者達が活躍したからですよ。つまり、シノブ殿の勝利です」
「ベルレアンの者達もですね。どちらも『アマノ式魔力操作法』があればこそです」
メリエンヌ王国の国王と王太子は、柔らかな笑顔でシノブに応じた。確かにシノブはメリエンヌ王国のフライユ伯爵でもあるから、どちらが勝ってもシノブの成果ではあった。
シノブやアミィから最初に魔力操作を学んだのはベルレアン伯爵領の者達だ。そして一部はアマノ王国に移籍したが、ベルレアンやフライユに残った者も多い。
そのため競技大会でアマノ王国に次ぐ成績を上げたのは、メリエンヌ王国であった。
特に球技はアマノ王国とメリエンヌ王国が強かった。
武術は他も健闘したし、走力や投擲力などを競う陸上競技も同様であった。武術には駆け引きもあり、身体能力だけで決まるわけではない。それにメリエンヌ学園が出来てからは各国も新たな修練方法を学んだから、二国以外も半分程度は勝者となった。
それに対し球技、特に大人数で行うサッカーや野球は、普及度の差が激しかった。何しろグラウンドの整備もあるし、審判を出来る者も限られている。
もっとも女子テニスを制したのは、アマノ王国でもメリエンヌ王国でもなかった。ただし、これもシノブ達の関係者ではある。
「マリエッタ達の勝利も、シノブ殿やシャルロット殿に学んだから。嬉しいことだ」
カンビーニ王国の獅子王は、言葉通りに頬を緩ませていた。豪放磊落で武王と称されるレオン二十一世も、孫娘には甘いらしい。
とはいえマリエッタはテニスのシングルスで優勝し、ダブルスも彼女の学友フランチェーラとロセレッタが頂点に立った。国王であるレオン二十一世が破顔するのも、極めて自然なことだ。
「次回は我が国も勝ちますぞ」
ガルゴン王国の王フェデリーコ十世は、平静を装いつつも僅かに悔しげであった。彼のガルゴン王国を含めた残りの五つの国は、球技で優勝できなかったのだ。
ガルゴン王国はカンビーニ王国と同じで獣人族が多いし、彼らは身体能力が優れている。したがって一つも優勝できなかったのは、ガルゴン王国にとって大きな屈辱のようだ。
これからは南方の国々でも球技の普及が加速するらしい。フェデリーコ十世の様子から、そうシノブは察し頬を緩ませる。
ちなみにドワーフのヴォーリ連合国は、野球で健闘したが他は振るわなかった。他の三競技のうちサッカーやテニスは走力が必要だし、卓球は身長差が不利に働いたようだ。
西の島国アルマン共和国とエルフのデルフィナ共和国は、少ない人口が災いしたらしい。それに彼らは魔術に寄っているから、武術や陸上競技も好成績は一部だけだ。せいぜいデルフィナ共和国が弓術で活躍したくらいである。
そしてアフレア大陸から来たウピンデ国だが、こちらは武術と陸上競技で存在感を示したものの球技は別であった。もっともアマノ王国に留学中の者達がいるから、先々彼らが躍進する可能性は大いにある。
「南方水術があったから良かった」
「猛虎落水翔や波翅離洲駆は、暫く我らの独壇場なのじゃ」
王達の背後で囁き合っているのは、ガルゴン王国の王女エディオラとカンビーニ王国の公女マリエッタである。
シノブは自国やメリエンヌ王国が有利になりすぎると思い、それぞれの国が得意とする競技を加えていた。そのため南方水術を用いた種目やボート競技をアマノ湖で実施し、この演習場の一角では丸太切り競争なども繰り広げられた。
「走力と跳躍はウピンデ族も強かったけど、次は他でも勝ちたい」
「私達はボート競技くらいでしたね。ですが、明日の芸術祭は期待できます」
こちらはウピンデ族のエマと、アルマン共和国のアルマック伯爵の妹アデレシアだ。
エマは国を率いる族長ババロコの娘だから、兄のムビオと共に父の側近として貴賓席に招かれた。そしてアデレシアは、兄と共に大統領であるベイリアル伯爵ジェイラスの補佐役を務めている。
「エルフの皆様も芸術祭で素晴らしい品々を披露してくださるとか」
「弓も素晴らしかったですけど、明日も楽しみです」
セレスティーヌとミュリエルは、エルフのメリーナの側だ。
メリーナは族長である祖母エイレーネの側近としての出席だからか、静かに控えていた。しかしセレスティーヌ達は、メリーナにも会話に加わってほしいと思ったらしい。
「はい。私達の魔道具や工芸品、きっと楽しんでいただけると思います」
随員という立場を意識したようで、メリーナは普段に増して抑えた口調であった。エルフは理知的な種族で、更にメリーナは生真面目な性格だ。そのため場と役に相応しい態度をと思ったらしい。
ミュリエルとセレスティーヌに声を掛けようかと思ったシノブだが、和気藹々とした女性達の様子に、そのままにしておこうと思い直した。
二人は立派にシャルロットの代わりを務めてくれている。ならば後で感謝を示したら良いだろう。そんなことを思いつつ、シノブはテオドール達に顔を向け直した。
◆ ◆ ◆ ◆
全ての競技が終わり、シノブ達は『白陽宮』へと移動した。
夕日で赤く染まる宮殿では祝宴が始まっている。明日も芸術祭の後に宴を行うが、この日も各国の交流の場を用意したのだ。
エウレア地方には転移の神像があり、飛行船や磐船での行き来も可能となった。そのため今までだと考えられないほど頻繁に、各国の要人は言葉を交わしている。
しかし、せっかく集まったのだから存分に語り合ってほしい。昨日のケリス地下道の開通から明日までの三日で、更なる発展の元が誕生する。あるいは既に芽吹いたものが大きく育つ。シノブ達は、そうなるべく接待役を務めていた。
特に今日のシノブは、メリエンヌ王国の王太子テオドールとの会話に時間を割いていた。
テオドールはシノブの六歳上で二十五歳だから、話しやすい。カンビーニ王国の王太子シルヴェリオやガルゴン王国の王太子カルロスは未だアスレア地方だから、成人した若い男性王族はテオドールくらいというのもある。
しかしシノブがテオドールに目を配る理由は年齢や公的な立場ではなく、別の親近感からであった。テオドールの第一妃ソレンヌは、今日明日にでも出産するらしいのだ。
もちろんソレンヌは国に残ったままで、テオドールの側には先ごろ彼の第二妃となったシャンタルがいるだけである。しかし分娩が始まればメリエンヌ王国から連絡が入り、シノブ達の誰かが転移の神像で送ることになっている。
既にエウレア地方では、各国の都市に長距離用の魔力無線装置が置かれている。そして長距離用の最先端は800km級から900km級に移ろうとしていた。
そのためメリエンヌ王国の王都メリエからだと、一回中継するだけでアマノシュタットに伝達できた。両者のほぼ中間に、フライユ伯爵領の領都シェロノワがあるからだ。
したがってソレンヌが産気づけば間を置かずに連絡が入る筈で、そうなったらシノブは自身でテオドールを送るつもりであった。
アミィとタミィは今もシャルロットの側だ。そしてホリィとミリィは休暇中だから、祝宴の場にはいるが賓客と同様に寛いでもらっている。要するにシノブが一番適任というわけだ。
「競技は終わったのですから、メリエに行かれては? 明日の朝、迎えに行きますよ」
「いえ、各国の方々との語らいも大切です。ソレンヌも私が王太子として働くことを望んでいますし、彼女が宿している我が子も同じでしょう」
シノブが誘いの言葉を掛けても、テオドールは首を振るだけであった。
ここは敬虔な者が殆どのエウレア地方で、しかもテオドールは王族だ。自身の役目を放棄して妻の側にという考えは、彼にないようだ。
それにテオドールの顔は、普段と変わらぬ落ち着き様である。つい先日までだと陸上の移動手段は徒歩や乗馬、馬車のみだ。そのため出産に付き添えないなど普通で、一種の耐性があるのだろう。
交易商や軍人なども、家族から長期間離れることは珍しくない。そうなると生死についても事後に文が来るだけ、あるいは旅から戻って結果を知るだけ、というのが当たり前に違いない。
「そうですか……」
「アルバーノ殿ですよ。例の件では?」
ある種の驚きと共に呟いたシノブに、テオドールは小声で囁きかけた。シノブがテオドールの視線の先に顔を向けると、確かにアルバーノが話したげな顔をしていた。
昨夜開いた内々の会合で、各国の要人にはテュラーク王国のことも伝えている。そのためテオドールは、アルバーノが潜入の経過を伝えに来たと知っているのだ。
「では、一緒に行きましょう。……パトリック、済まないけどアルバーノを呼んで。レナン、皆にはテオドール殿と隣に行ったと伝えて。それと何かあったら遠慮なくね」
シノブはアルバーノとの密談に、テオドールも同席してもらうことにした。一緒の方が、メリエからの知らせがあったときに動きやすいと思ったのだ。
「ただいまお呼びします!」
「仰せのままに」
少年従者達はシノブの指示通りに動き出す。
二人がシノブの家臣となってから十ヶ月を超えた。そのためアルバーノを呼びにいくパトリックも、シノブに一礼し他の従者達に指示するレナンの双方とも、他国の側近達に劣らぬ見事な挙措である。
「従者達も立派になりましたね。これもシノブ殿の薫陶故でしょう。それにシノブ殿も、押しも押されもせぬ国王振りです」
「そんなことは……」
テオドールの賞賛に、シノブは頬を染めてしまう。しかし彼の温かな言葉は、シノブにとって何よりも嬉しいものであった。
シノブにとってテオドールは、義理の従兄弟にして将来の義兄だ。テオドールはシャルロットの従兄弟で、セレスティーヌの兄だからである。つまりテオドールは義理ではあるがシノブの身内なのだ。
そのためシノブは、シルヴェリオやカルロス達とは違う親近感をテオドールに抱いている。彼の妻が出産するとき側にいさせたい、そして自身が送り届けたいと考えるのも、おそらくはシノブの身内としての思いなのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
アルバーノは、テオドールの同席に驚くことはなかった。
メリエンヌ王家は、アマノ王国の幹部達にとって他とは異なる存在だ。宰相ベランジェは実家、軍務卿マティアスからすれば旧主家、内務卿シメオンからしてもシャルロットの母方だから特別な家である。
血縁や仕えた縁がない者も、メリエンヌ王家には強い敬意を払っている。何しろメリエンヌ王家は、シノブが持つ四つの神具を守ってきた一族だ。
そのためアルバーノなど直接はメリエンヌ王家と縁がない者でも、他の王家という意識が薄いのだろう。
「ルボジェクは、まだ戻っていません。そのため五人は監視を継続しています」
密談のための部屋に移った直後、アルバーノはテュラーク王国の宮廷魔術師の動向に触れた。
キルーシ王国の反逆の主要人物、ガザール家の当主エボチェフはテュラーク王国に逃げ込んだらしい。しかしエボチェフは未だ発見できなかった。
どうもルボジェクは、自身の預かる施設にエボチェフを匿っているようだ。しかしエボチェフの行方を知るのは、極めて限られた者だけらしい。
シノブやアルバーノ達は知らないが、テュラーク王国の王都フェルガンに現れたエボチェフを迎えたのは、国王と王太子、宰相、国境でシノブと対峙した将軍バラーム、そして宮廷魔術師ルボジェクだけである。
現在フェルガンにいるのはルボジェク以外の四人だが、彼らも秘密をわざわざ口にすることはない。ルボジェクが王宮に顔を出せば動向を問うだろうが、それまでは最重要の機密として胸の内に秘すだろう。
そのためアルバーノ以外の五人、ゴドヴィング伯爵アルノーやヘリベルトなど四将軍も、フェルガンを見張り続けていた。アルノーはアルバーノと交代で王宮を、四将軍も軍などを透明化や変装の魔道具を駆使して探っている。
「テュラーク軍は、キルーシとの国境に攻城兵器を回しています。そちらはマリィ殿から報告が上がっていると思いますが」
「ああ。戦意は衰えていないってことか……」
アルバーノの問い掛けに、シノブは苦い顔で頷き返した。
金鵄族のマリィがいるから、大型兵器の移動を見逃すことはない。彼女は定期的に国境からテュラーク王国へと偵察飛行を続けており、そのとき多数の攻城塔が西に向かっていると判明している。
ちなみにシノブがキルーシ国境に城壁を造ったとき、彼らは攻城兵器を携えていなかった。これは国境にあるのは幾つかの砦と背の低い防柵や土塁程度だったからだ。そしてキルーシ王国に入ってからはガザール派の内応があるから、攻城塔など不要であった。
巨大な兵器を持っていけば迅速な行動は不可能だし、目立つから奇襲も出来ない。国境を越えるにはキルーシ王家直属の防衛軍を撃破する必要があるが、そこはガザール派の軍と挟撃するか、砦を包囲している間に脇から抜けようと考えたのだろう。
「幸い陛下の脅しが効いたようで、キルーシの商人達は無事に引き上げました。それにフェルガンは静穏を保っています。
過去、ルボジェクが何も告げずに半月以上留守をしたことは無いそうです。既に十日目ですから数日以内に戻ってくるかと」
アルバーノは落ち着いた表情で説明を続けていく。
冷たい言い方だが、キルーシ王国を守る義務はアルバーノ達に無い。もちろん元戦闘奴隷であるアルバーノ達は禁術の使用を強く嫌悪し、その根絶を願っている。しかし通常の戦いなら好きにさせておく、というのが彼らの考えだろう。
そして普通なら攻城兵器があっても高さ20mもの防壁の攻略は容易ではないし、それらの所在は空から掴んでいる。そのためアルバーノ達は、禁術を知っているらしきルボジェクを最優先の捜索対象としていた。
それに天変地異を起こして軍を追い払ったシノブに、普通の兵器だけで当たるとは思えない。
テュラーク王国の王宮で働く者達はシノブを恐怖の大魔術師、想像を絶する魔王と噂している。そんな相手に反撃するなら、何らかの秘策がある筈だ。そして秘策の提供者はルボジェクに違いないというのが、アルバーノ達の推測である。
ならばルボジェクが姿を現すまで、事態が急変することはない。警戒すべきはルボジェクが突然国境に現れることくらいだ、とアルバーノは締めくくる。
「判った、ともかく今日のところはゆっくりしてくれ。アルノー達には悪いけど……。
それと野球の優勝、おめでとう。アルバーノの投球術、充分に楽しんだよ。何しろ完封だからね。時間の都合で四回だけにしたけど、あれなら九回までだって打たれなかったと思うよ」
シノブはアルバーノを労った後、改めて祝いの言葉を伝えた。
アルバーノは決勝戦だけだが投手を務めた。そのためヘリベルト達が出場できなかったサッカーと違い、野球はアマノ王国が優勝したのだ。
残念ながらアルノーは帰還できなかった。したがって俊足の先頭打者を欠いたアマノ王国チームだが、それを補うアルバーノの熱投であった。
敗れたメリエンヌ王国チームからすれば、決勝戦までアルバーノが温存されたから余計に攻略できなかったのだろう。稀に球を当てる者はいたが、ついにヒットは出なかったのだ。
「ありがとうございます。ですが……」
「失礼します! 陛下、ソレンヌ王太子妃殿下が産気づかれたと知らせがありました!」
アルバーノが何かを言いかけたとき、部屋の外からレナンの声が響いた。
どうやら待ち望んだ瞬間が来たらしい。これにはテオドールも平静でいられなかったらしく、彼は腰を浮かしていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「エクトル・ド・メリエンヌ……将来はエクトル七世ですね。タミィ、ありがとう」
シャルロットは、目を細めて笑みを浮かべた。そして彼女は、メリエンヌ王国の王都メリエから戻ってきたタミィに感謝の気持ちを伝える。
ここはアマノ王家が暮らす場、『白陽宮』の『小宮殿』だ。まだ『大宮殿』では宴が続いているが、出産も近いシャルロットは早くから『小宮殿』へと戻っていた。
今もシャルロットは、ゆったりとしたソファーに腰掛けている。
「とんでもありません! それにソレンヌ王太子妃のお産はとても軽かったです!」
タミィは随分と恐縮したらしく、大きく首を振る。そして彼女の動きに合わせてオレンジがかった茶色の髪とその上の狐耳が揺れ、居室を照らす魔道具の灯りで煌めいた。
「そうですね。時間も短かったですし」
お茶を運んできたアミィは、妹分の言葉に大きく頷いた。
シノブ達に連絡が入ったのは、実際には分娩に入ってから暫く経ってであった。メリエンヌ王国側も、アマノ同盟大祭という大きな行事の邪魔をしたくなかったのだろう。
そのためシノブがテオドールを送り届けてから大してしないうちに王太孫エクトル、彼の曽祖父と同じ名を持つ男子は誕生した。
「次がテオドール五世で、その次がエクトル七世だね……」
シノブはシャルロットの隣に腰掛け、メリエンヌ王国の将来の王達の名を呟いた。シノブは妻に慶事を伝えるため、一旦自室へと戻ったのだ。
産気づいたとの知らせを受け、まずシノブがテオドールと共にメリエの大神殿に転移した。そして夫と同様に知ったシャルロットは、タミィにシノブの後を追わせたのだ。
僅か六歳か七歳にしか見えないタミィだが、神の眷属だから高度な治癒の術を使える。それにいざとなれば治癒の杖を彼女に届け、行使してもらうことも出来る。
一方のシノブは、テオドールを送った直後にアマノシュタットへと戻った。テオドールが帰還を勧めたこともあるし、タミィが到着したのだから自分がいなくても大丈夫と判断したからでもある。
そのためシノブは、二代先のメリエンヌ国王の誕生をアマノシュタットで知ることになった。
「……テオドール殿達は、男子なら建国王エクトル一世陛下の名を、と決めていたそうだ。新時代には、新たな時代を創った王の名が相応しい、って……それとテオドール殿は、エクトル六世陛下の意志を受け継ぐ者になってほしいって」
シノブは送る道でテオドールが語ったことを、シャルロットに伝える。
メリエンヌ王国の王で一番多いのは第二代であるアルフォンスの名だ。現国王が七人目のアルフォンスで、初代のエクトルよりも多いのだ。
これは、それだけアルフォンス一世の事跡が別格であったからだ。
神から強い加護を授かった初代も多くの功績を残したが、二代はベーリンゲン帝国を国境で退けた人物である。それにアルフォンス一世の母は神の眷属である聖人ミステル・ラマールだ。この秘事は王家に伝わっているから、特別な出生の英雄の名を子に、と後の王達も思ったのだろう。
ちなみにテオドール一世はアルフォンス一世の長男だ。そのためエクトル、アルフォンスと並ぶとテオドールが選ばれることが多いそうだ。
そして先王エクトル六世は今も矍鑠としているが、高齢である。今日生まれたエクトルが成人するまで先王が生きるのは、難しいことかもしれない。
そこでテオドールは、祖父の名を自身の子に与えた。我が子が祖父の意志を継げる立派な人物となるように、とテオドールは願ったようだ。
「素晴らしいことです。お爺様も、きっとお喜びでしょう」
シャルロットの深い蒼の瞳に煌めきが宿る。彼女の母方の祖父は、エクトル六世なのだ。つまりシノブとシャルロットの子は、今日産声を上げたエクトルの又従兄弟である。
祖父から我が子へと思いを馳せたのだろう、シャルロットは新たな命が宿る場所へと自身の手を当てた。
「ああ。皆も喜んでいるよ。義伯父上や義父上もね……ほら、シャルロット」
シノブが窓を示すと同時に、夜空に明るい光が幾つも生まれた。
まるで花火のような、しかし少し違う光が音も無く空に誕生する。そして光は、これも花火と同様に大きく広がっていく。
「綺麗ですね……」
「本当にね……」
シノブとシャルロットはソファーから空を見上げた。そして二人の脇ではアミィとタミィも同じように次々と生まれる光の芸術を見つめている。
これはメリエンヌ学園の研究所で開発した魔道具の一種だ。花火のように打ち上げるのではなく、更に上を飛ぶ飛行船から魔道具を投下している。
魔道具が落下するのは軍の演習場で、人の立ち入りを禁止した一角だ。そのため被害は発生しないし、落ちた魔道具も大破するだろうが、魔力蓄積結晶などは回収できる。
この光の祭典は、本来もっと早い時間に行う予定であった。
しかしタミィからソレンヌの状況を聞いたベランジェは、出来る限り遅くまで待とうと言った。彼も実家の跡継ぎの誕生を祝いたかったのだろう。
「……シノブ、戻らなくて良いのですか?」
「花火が終わるまでは良いだろ? どうせ皆、空を見上げているからね。……俺だって、君の側に出来るだけいたいんだよ」
問うたシャルロットに、シノブは穏やかに応じた。そしてシノブは愛妻へと顔を寄せる。
いつの間にかアミィとタミィは姿を消していた。どうやら二人は隣のアミィの部屋へと移ったようだ。シノブはアミィ達の配慮に感謝しつつ、シャルロットと彼女が宿す我が子に愛を注いでいった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年2月3日17時の更新となります。