20.28 広がる夢
創世暦1001年10月9日は、アマノ王国とヴォーリ連合国にとって特別な日であった。それは両国を結ぶ大トンネル、玄王亀のクルーマとパーラが造り上げたケリス地下道の開通式が行われるからだ。
アマノ王国の北に聳えるノード山脈は4000m級の高山帯で、踏破不可能だ。しかし二頭の子ケリスの名を冠した大トンネルは何と全長70kmもの向こうまで伸びており、冬場は深い雪に埋もれる高地を避けて行き来できる。
従来は、陸路なら西のメリエンヌ王国を経由するしかなかった。国境のガルック平原を越え、シノブが領主を兼ねるフライユ伯爵領やシャルロットとミュリエルの故郷ベルレアン伯爵領を通り、更にヴァルゲン峠の向こうがドワーフ達の北国である。
この経路だと、アマノシュタットからヴォーリ連合国に入るまで1400kmにもなる。しかしケリス地下道を使えば400km弱だから大違いだ。
ヴォーリ連合国でも西部に属するイヴァールの出身地、ヴァルゲン峠に近いセランネ村に行くなら殆ど距離は変わらない。しかし同国の東部と直接繋がるのは大きかった。
ケリス地下道の出口の近くは、セランネ村から東に折り返して1000kmほどである。つまり今まで通りなら2400kmにもなるから、陸路で行き来する者など皆無である。
エウレア地方の国々には竜達の支援があるから、磐船で空を旅できる。しかし超越種の好意に甘えるだけというのは望ましくない。
既に実用の域に達した飛行船でも、4000m級の山を飛び越えるのは一苦労である。それに荒天の場合、現在の性能だと欠航するしかない。更に飛行船の積載能力は低く、磐船のような大量輸送は不可能だ。
しかし、これからは陸路で直接移動できる。したがって陸の隊商は大きな期待を寄せ、アマノ王国に移住したドワーフ達も里帰りが容易になると待ち望んでいた。
もっとも彼らが待ったのは短い間だ。ケリス地下道は僅か三ヶ月少々で完成したからだ。
比較対象として全長約50kmの青函トンネルを挙げると、着工から完成まで実に二十四年である。そのうち本工事着手から本坑全貫通に限っても、やはり十四年もの歳月だ。
もちろん地球のことを知るのは、シノブやアミィなど僅かな者だけだ。しかし両国の人々も、流石は偉大なる種族と賞賛を惜しまなかった。
「東部の者達は特に喜んでいるぞ。一番近いハルメ族は当然、フロステルやエンケル、リンデンなどもな」
イヴァールは、豊かな髭の下に隠された頬を綻ばせたようだ。彼の黒々とした美髯が、大きく揺れる。
ここはイヴァールが治めるバーレンベルク伯爵領の北端近く、サドホルンの鉱山街だ。今年の六月末にシノブ達も訪れた街の近くに、ケリス地下道の入り口がある。
そしてヴォーリ連合国側の入り口がイヴァールの触れたハルメ族の住む土地で、ハルメ族の周囲に住むのがフロステル族、エンケル族、リンデン族だ。ただしヴォーリ連合国は広大だから、それぞれの中心集落は何れも百数十kmは離れている。
とはいえ今までは大回りして2000km以上も旅したのだ。それを思えば東部のドワーフ達がケリス地下道の開通を歓喜で迎えるのも当然であった。
ここサドホルンにシノブ達が来たように、ヴォーリ連合国側も入り口に最も近い村に大勢の人々が押し寄せていた。既にイヴァールの父である大族長エルッキや、各支族の長達も、そこで式典の開始を待っている。
ケリス地下道の開通を祝う催しは、まず双方の地で行われるのだ。
「私達も同じです! 商いをする方々を始め、ケリス地下道を通りたいという声は沢山上がっています!」
「各国からの来賓の方がいらっしゃいますわ! メリエンヌ王国から、お父様やお兄様。それに……」
ミュリエルはアマノ王国の者達の期待に触れ、セレスティーヌは各国からの賓客の名を並べ始めた。どちらも、これ以上はないほど顔を綻ばせている。
ここはサドホルンの代官所だ。この代官所にはイヴァールのために用意された部屋もあり、そこでシノブ達は式典の開始まで控えている。
今日サドホルンに来た主な者は、シノブ、ミュリエル、セレスティーヌであった。シャルロットは出産予定日まで一ヶ月を切っているから、当然アマノシュタットに残っていた。そしてアミィもシャルロットと同じく王宮にいる。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ……シャルロット殿は出産間近なのか?」
どうやらイヴァールは、アミィの不在をシャルロットから目が離せないからと思ったらしい。彼はシノブの様子を窺いつつ訊ねかける。
「いや。予定日通りで、まだ四週間近く先だそうだ。アミィやルシールは早くても三週間以上って言っているよ」
シノブは第一の従者と、ベルレアン伯爵領出身の女性治癒術士の名を挙げた。
最近ルシールはメリエンヌ学園の研究所ではなく、アマノ王国の王都アマノシュタットとベルレアン伯爵領の領都セリュジエールを行き来している。ミュリエルの母ブリジットも、シャルロットとほぼ同じ時期が出産予定日だからだ。
元はベルレアン伯爵家の家臣だったルシールだが、現在はフライユ伯爵領の所属である。つまり彼女は、メリエンヌ王国でのシノブの家臣だ。とはいえシャルロットは今もベルレアン伯爵家の継嗣だから、ルシールにとっては旧主の跡取りにして現在の主の妻である。
同じようにルシールからすればブリジットは、旧主の妻で現在の主の未来の義母だ。そのため極めて優秀な治癒術士の彼女は、双方に顔を出しているわけだ。
「昨日の島で石板を幾つも見つけたんだけど、読めなくてね……」
シノブは、アスレア海で発見した島について触れた。『南から来た男』ヴラディズフがいたかもしれない、例の島である。
現在アミィは、妹分のタミィなどと共に石板の解読をしている。同じ王宮内だからシャルロットの様子を見に行くこともあるだろうが、主な理由は石板に何が書かれているか知るためであった。
「読めないとは、欠けているのか?」
イヴァールは石板が割れるか削れるかしたと思ったようだ。
この世界の文字は、日本語で統一されているらしい。エウレア地方やアスレア地方、南のアフレア大陸のウピンデムガなどにヤマト王国、この全てで話す言葉と書く文字の双方共に日本語が使われている。
そのためイヴァールは、文字が違うと思わなかったのだろう。
言葉や文字は神々が授けた聖なるものである。したがって、どの地域でも改変されず原型を保ち続けたようだ。
おそらく神々や眷属が、そうなるように誘導したのだろう。地球では言語の違いによる悲劇が無数に発生した。そこでアムテリア達は、各地域に合った知識を教えつつも言語は同一にしたらしい。
「いや、文字が違うんだ。こんな感じでね……」
部屋にあった紙に、シノブは石板のものに似せた図形を記していく。
シノブが書いた図形は、線や細長くした三角形を組み合わせたものだ。石板は解読できていないからシノブは適当に記したが、特徴は捉えている。
仮にシノブの書いた図形を地球の人間が見たら、楔形文字のようだと言うだろう。
「邪神の文字なのか?」
「いや、そういうわけでもないんだ……俺のいた世界だと遥か昔に広く使われていた文字だよ。それに、後世の主要な言語の文字の元になったんだ」
嫌悪感の滲む声を発したイヴァールに、シノブは苦笑しつつ説明を続けていく。
更にシノブは、アルファベットを用いて簡単な文書を記してみた。文字の形を示すだけだから書いた文章は異神やヴラディズフとは関係なく、ふとシノブの心に思い浮かんだ一節である。
「この元となった文字も、実は色々種類があるんだ。でも、たぶん俺が見たことのあるものだと思う」
楔形文字には様々な系統があるが、その中にバアル神を信奉した者達が使ったウガリット文字も含まれている。そして島で発見した石板に記されていたものは、ウガリット文字に似ているようだ。
シノブはウガリット文字を正確に覚えていなかったが、幸いアミィがスマホから得た情報に入っていた。シノブが日本で検索したときの情報が残っていたのだ。
「石板に刻むなら、普通の文字より楽かもな」
「アミィさんも、そう言っていました。そして、元になったものより簡略化したようだとも……」
イヴァールの呟きにミュリエルは頷き、更に文字が改変されていることに触れた。
石板は粘土板より記すのが大変だから、文字を簡易なものに変えたらしい。そのため幾つかの文字に関しては、どれに該当するか推測するしかなかった。
「それと完全に対応しているわけじゃないんだ。不要な文字もあるし、逆に追加したものもあると思う」
シノブは、どう伝えるか悩みつつ言葉を紡いでいく。
ウガリット文字の大半は、アルファベットにも存在する子音に対応する。しかし幾つかの子音は日本語では用いない。
ウガリット語だとハ行の子音『h』に無声の摩擦音や強勢音があるし、同じように『t』や『s』に相当するものも複数存在する。そして、それぞれに別の文字が割り当てられていた。
逆にウガリット語では基本的に母音を省略するし、存在するのも『a』『i』『u』に相当する三つのみだ。そのため石板の文字は『e』『o』に相当するものを追加したのでは、とアミィは言う。
要するに、日本語の文章をローマ字表記のような形式で石板に記しているらしい。
「……時間が掛かるのか?」
未知の文字の理解を、イヴァールは放棄したのだろう。彼は解読までの時間だけを問うた。
「アミィさん達なら、すぐに解き明かしますわ。それにベランジェ叔父様も、応援の人を回してくださいました」
セレスティーヌは相当アミィを信頼しているようで、穏やかな笑顔を浮かべたままだ。そして彼女が触れたように、宰相のベランジェは助っ人を用意してくれた。
それは旧帝国の資料を調べた者達である。
およそ七ヶ月前の帝都決戦の直後から、ベランジェはベーリンゲン帝国の古文書を調べ過去の把握に努めてきた。そしてベーリンゲン帝国の文書は他と同じで日本語だが、それでも記した単語に共通のものがあるかもしれない。
初代皇帝となったヴラディズフや、彼の家臣の侯爵などはアスレア地方からエウレア地方に移住した。そうであれば、ベーリンゲン帝国初期の人名など固有名詞が石板に記されている可能性はある。
そこでベランジェは、旧帝国の秘録を調べた者達を石板の解読に回したのだ。
「どんな文字か、ある程度は予想している……それに石板は結構な量があったから、推測の材料も充分だ。もしも、こんな短文だけだったら難しかっただろうけどね」
シノブが例として記したのは、単語数個での一文のみだった。アルファベットを全て使ったわけでもないし、言語体系を把握するには情報が少なすぎるだろう。
「ふむ……それは、何と記したのだ?」
イヴァールは、シノブが記したアルファベットによる文章を見つめている。それは短い英文であった。
「こちらの言葉なら『大神アムテリア様のご加護を!』ってところかな。正確には、ある劇のセリフを元にしたんだけど……悪の帝国を倒す騎士の言葉だね」
シノブが記した一文は、巨大な帝国の打倒を目指す若者達を描いた映画の名台詞であった。おそらくベーリンゲン帝国のことが頭にあったからだろう。
あの映画は宇宙を舞台にしたもので、台詞も神への祈りではない。そのためシノブは多少の改変をし、アムテリアの名を組み入れてみた。
実際、こちらでは『大神アムテリア様の加護があらんことを!』というような言葉を口にする。アムテリアだけではなく自身が特に信ずる神の名を後ろに続ける場合もあり、イヴァール達ドワーフだと大地の神テッラの名を唱える。
初めてセランネ村に行ったとき、そうやって大族長エルッキが旅立つ自分達を激励してくれた。あれは去年の今ごろだったか。過ぎた日を想起したシノブは、懐かしさを覚え自然と笑みを浮かべる。
「……シノブよ。それを貰って良いだろうか?」
「良いけど……でも、どうして?」
僅かに低くなったイヴァールの声音を、シノブは怪訝に感じた。
元々ここにあった紙だから、イヴァールの思うようにしてくれて良い。だが、彼の言葉には何か特別な感情が宿っているように、シノブは思ったのだ。
「シノブが書いてくれた大神アムテリア様への祈念だ。きっと御利益があるだろう……。守り札にしてティニヤに……我が子に渡そうかと思ってな。元気に生まれ、健やかに育ってほしいのだ」
イヴァールは、自身の髭に手を当てていた。彼の仕草はドワーフの誓いと同じだが、どうやら無意識の行動らしい。
願うは、我が子の無事な誕生と成長である。自身のことなら他の力を借りないイヴァールでも、やはり子供のこととなると別のようだ。
ちなみにイヴァールとティニヤの子が生まれるのは、かなり先で来年の三月ごろだ。とはいえ二人にとって初めての子供だから、今から気になるのは無理もない。
「もちろんさ……守り札にしてくれるなんて、光栄だね」
シノブは楔形文字を模した図形を描いた部分を切り離し、アムテリアへの祈念を書いた部分のみとした。そして紙片を手に取ったシノブは、イヴァールの子が元気に育つよう静かに念ずる。
「きっと、どんな災いからも守ってくれますわ!」
「はい!」
セレスティーヌとミュリエルは、感動が滲む声を上げる。
イヴァールの子への愛と、シノブの友情。それらに二人は、大きく心を動かされたようだ。
「大切にするぞ……我が友シノブの心、子から孫へと代々伝えていこう」
イヴァールは、シノブが渡した紙を押し戴いた。そして彼は自身で作ったらしき札入れに、紙片を大切そうに仕舞った。
◆ ◆ ◆ ◆
昨日発見した島について、シノブは予想していることがあった。
おそらく、あの島はヴラディズフが大陸に渡る前に準備をした場所だ。あの島でヴラディズフはバアル神の使徒になるための知識を学び、更に各種の魔術の使い方や魔道具の作り方を教わった。シノブは、そう考えていたのだ。
ヴラディズフが島を発見したのか、バアル神が連れてきたのかは判らない。嵐か何かで南に流され漂着したのか、それとも多少南下した時点で異神に捕まったのか。それらは石板から判明するかもしれないが、今のところは謎のままだ。
いずれにしても、おそらくヴラディズフは真珠採りの漁師だった筈だ。そして彼は魔術や魔道具と縁はなかっただろうし、ましてや神と交信できたわけもない。
そうであれば、大陸に渡る前に何らかの準備をさせるべきだろう。バアル神ならずとも、そう思うに違いない。
もしかすると、それは修行や学習といったものではなく、改造とでも言うべき代物だったのでは。たとえば最も適性があったヴラディズフを使徒にして、続く者達を使徒に準ずる存在にする。そして使徒に準ずる者は、エウレア地方に渡ったとき侯爵となった。シノブは漠然とだが、そんな予想をしていた。
しかし根拠のない妄言を伝えても意味がないし、害悪にすらなる。そこでシノブは、別の話をイヴァールにする。
「ヤマト王国に行ってみないか? 明々後日、タケルがドワーフの国……陸奥の国の王と鍛冶勝負をするんだよ」
シノブの語る内容を、イヴァールは興味深げな様子で聞いていた。
ここのところイヴァールは忙しかった。何しろ自身の領地に、新たな大街道が誕生するのだ。しかも国境を越えての道である。幾ら相手が同じドワーフとはいえ、国境の防備や通関の監督など、やるべきことは沢山ある。
アマノ王国で他国と行き来できるのは、陸がアルバーノのメグレンブルク伯爵領、海がナタリオのイーゼンデック伯爵領だけだった。そのためイヴァールのバーレンベルク伯爵領に、国境での仕事の事例など存在しない。
トンネルの向こう側も同様だ。
出口を含む一帯はハルメ族の土地だが、ここも他国とは遠い。そのため彼らは、今まで同じヴォーリ連合国のドワーフ達だけを相手にしていれば良かった。
しかもケリス地下道の出口に近い村など、単なる内陸山地の小村でしかない。お陰でイヴァールは、ハルメ族の相談にも乗っていた。
だが、これでトンネルは開通するから一段落だ。トンネルの両端では宿屋などの追加やトンネルまでの街道整備など様々な準備をしたが、後は領主自ら口出しするようなことではない。
そのためシノブは、イヴァールをヤマト王国行きに誘ってみたわけだ。
「私達も行くのです! イヴァールさんも如何でしょう!?」
「きっと、得るものが多いと思いますわ!」
ミュリエルやセレスティーヌも、仲間が多い方が嬉しいのか。二人は熱心にイヴァールを誘う。
タケル達には既に話を通している。彼らは王子や王女などだから、一行には多数の供がいる。そのためシノブ達は魔道具で供に変装し入れ替わるつもりだ。したがって、多少人数が増えても問題ない。
もちろんイヴァールはドワーフだから、他種族とは体型が大きく違う。だが、それは魔道具で誤魔化しても良いし、現地で雇ったドワーフとしても良い。したがって飛び入り参加も充分に可能であった。
「ぜひ行きたいぞ。アスレア地方との交流は、まだだからな」
イヴァールは言葉通り、非常に乗り気なようであった。これはアスレア地方のドワーフ達とは暫く会えないからだ。
アスレア地方のドワーフの国はキルーシ王国の北にある西メーリャ王国と、その東隣の東メーリャ王国だ。ただしキルーシ王国の北部はロラサス山脈が塞いでいるから、西メーリャ王国に入る道はキルーシ王国の西部を北上する経路のみ、東メーリャ王国は西メーリャ王国を通って行くしかない。
そしてキルーシ王国は東部国境だけとはいえ、紛争を抱えている。西側は落ち着いているが商人達を送り出して何かあっても困るから、今はメーリャの二国との交流は見送られていた。
実は東西のメーリャ王国は元が一つの国だったこともあり、険悪な仲だ。今は一種の冷戦状態らしいが、それでも安易に首を突っ込むのは躊躇われる。
そもそもキルーシ王国とテュラーク王国という問題も片付いていないのに、更に手を伸ばすのは無謀というべきであろう。
とはいえイヴァールとしては待ち遠しいに違いない。それに彼は、ヤマト王国のドワーフ達との交流を一種の小手調べと考えたようだ。確かにアスレア地方のドワーフと会う前に、異文化のドワーフを見ておくのも良いかもしれない。
「快諾、嬉しいよ!」
シノブは大きな喜びに顔を輝かせた。何しろイヴァールと出かけるのは久しぶりだ。
ヴォーリ連合国への竜と会うための冒険旅行、メリエンヌ王国の王都メリエへの馬車の旅、ベーリンゲン帝国の侵攻を防がんとするガルック平原への行軍、そしてカンビーニ王国やガルゴン王国への外交訪問。各地を巡るとき、そこには親友イヴァールやシメオン達の姿があった。
シノブは懐かしさを感じつつ、過去の様々な旅を思い浮かべていた。
「うむ。競技大会の後なら余裕があるからな。あれに出たら暫く体が空く」
シノブに答えた後、イヴァールは明日の競技大会に触れた。彼は野球で捕手を務めるのだ。これも、ここ最近のイヴァールが多忙だった理由の一つである。
シノブとしては勝ち負けなど気にせず諸国と交流してほしいが、選手達からすると国王が広めた競技で他国に後れを取るわけにはいかないらしい。少し気合が入りすぎかもしれないが、発祥の地であるアマノ王国が好成績を、と選手達が意気込むのは自然なことだろう。
「それじゃ、まずは今日の式典だ! そろそろ来賓の方々も到着するかな!?」
シノブは浮き浮きした気分で声を張り上げる。
各国からの来賓は、まずバーレンベルク伯爵領内の都市ライムゼナッハ、ここサドホルンに最も近い都市まで転移で来る。そしてライムゼナッハからは飛行船だ。
ライムゼナッハからサドホルンまでは30kmを切るから、最新式の飛行船なら三十分もあれば着く。このようにアマノ王国内を急ぐときは飛行船、そしてヴォーリ連合国にはケリス地下道というのが、これからの形になりそうだ。
◆ ◆ ◆ ◆
ケリス地下道の入り口近くで、開通式は盛大に執り行われた。
式典は長距離用の魔力無線を使って連絡を取りつつ、地下道の両端で同時に始まった。そしてアマノ王国には魔力無線での放送設備があるから、各地に中継もされた。
最近は大きな行事だと、このように中継をされるのが常である。しかも都市に加えて特に大きな町にも設備が置かれたから、倍ほどの場所に音声放送が届く。
もちろん明日からのアマノ同盟大祭も、主要な部分は中継される予定だ。残念ながら、今は複数の放送を同時に発信するほどの設備がないため、同時進行している行事や競技はどれかのみとなる。もっとも、これを残念だと思っているのは地球のことを知っているシノブくらいだろう。
式典には各国の代表者や跡継ぎの多くが揃っていた。彼らはアマノ同盟大祭も見物するから、ケリス地下道の開通式にも出席したのだ。
メリエンヌ王国からは国王アルフォンス七世や王太子テオドール、他も同様に国王や先王などがいる。しかしカンビーニ王国の王太子シルヴェリオとガルゴン王国の王太子カルロスは不在であった。
この二人は、可能な限りアスレア地方に滞在したいと主張した。そのため彼らは、今月の半ばまで向こうに留まることになったのだ。どちらも海洋王国の王太子だけあって、新航路を出来るだけ自分達の手で調べ上げたいらしい。
そして開通式典の最後は、全長70kmにもなる大トンネルの通り初めだ。
──父さま、母さま、凄いです! それに人間の技師さん達も!──
『そうですね。ケリス地下道を造ったのはクルーマさんとパーラさんですけど、この乗り物も凄いです』
まだ生まれて半月少々のケリスは思念と『アマノ式伝達法』のみ、そして海竜の子リタンは発声の術を用いている。しかし発した音がかなりの速度で後ろに流れていくのは、双方とも同じであった。
ケリスやリタンにクルーマとパーラ、更にシノブ達が乗っているのは、大きな箱型の蒸気自動車だ。何しろ馬車と比べると幅こそ同じくらいだが高さは上回り、前後は倍以上もある特大の車体だ。
これが時速30km以上もの速度で走るのだから、ケリス達が驚くのも無理はない。何しろ玄王亀や海竜の浮遊速度よりも速いのだ。
「俺がいたところだとバスって言うんだけど……こんなのが数え切れないほど走っていたんだよ」
シノブは蒸気自動車を運転しながら、地球の交通事情に触れた。この蒸気自動車に乗っているのは超越種達とシノブ、イヴァール、ミュリエル、セレスティーヌだけだから、こちらでは馴染みの無い言葉も交ぜてである。
ちなみに他の者達とはいうと、後ろに続く同型の蒸気自動車に乗っている。アマノ王国側から出発した蒸気自動車の先頭がシノブの運転しているもので、続いての数台に賓客達だ。そして後続ではベランジェなどが接待をしている。
これは、大トンネルを掘ったクルーマやパーラに寛いでもらうためだ。
蒸気自動車の全長は大型バスほどもあり、10mを超える。しかし玄王亀の成体は、アムテリアが授けた腕輪を使って小さくなっても、人の大人と同じくらいはある。かなり魔力を使えばクルーマ達は全長1mほどになれるが、それでは失礼ということで今は三倍ほどになってもらっている。
そのため先頭の蒸気自動車は座席の多くを撤去し、空いた場所にクルーマ達が直接鎮座していた。ちなみに今の大きさだと彼らは首を擡げれば直接外を見ることができ、非常に都合が良い。
反対側のヴォーリ連合国側も同様で、事前に同型の蒸気自動車と運転手を送っている。
こちらはドワーフ達と共に、玄王亀の長老夫妻アケロとローネが乗っている。長老達は、若手の祝福と出来の確認に来たらしい。
「地球のことはともかく、蒸気自動車は排ガスが出ないからトンネルに向いているよね」
シノブが触れたように、この世界での蒸気機関は二酸化炭素や煤などを出さない。蒸気自動車の蒸気は、火属性の魔道具による熱で作り出しているからだ。
問題は、魔力の薄いところだと補充に時間が掛かり実用的ではないことだ。しかし、ここノード山脈のように魔力が濃い場所なら、自然に吸収する分だけでも短時間の充填で問題ない。そのため鉱山鉄道なども含め、魔力式の蒸気機関と山地は非常に相性が良かった。
「馬と違って落とし物もしないからな!」
女性達が同乗しているからか、イヴァールは直接的な表現を避けたようだ。しかし彼の口にしたことは非常に重要であった。
馬車も通るから、トンネル内は専用の蒸気自動車を使って定期的に清掃する。これは先に出来たアケローネ地下道、メリエンヌ王国とヴォーリ連合国を結ぶ道でも採用されているが、もし放置したら途轍もないことになるだろう。
「それに、速いのも良いですわね!」
「そうですよね。優秀な馬でも、この大きさの馬車を牽いたら……それに、疲れることも無いですし……」
セレスティーヌとミュリエルは、一瞬苦笑を浮かべた。しかし二人はイヴァールの発言に触れず、速度や馬車との比較などに話題を転じた。
通常の荷馬車だと、一日辺り50kmほどを移動できるという。一日といっても馬には休憩をさせるから一日八時間程度しか歩かせない。もちろん短時間なら速度は大幅に上がるし、王族や上級貴族が使う馬車馬なら大幅な基礎身体強化が可能だから一日で200kmは進める。
しかし、この蒸気自動車は現状ですら最上級の馬車を大きく超えている。ここのように条件の良い場所なら一日あたり十時間でも稼動できるからだ。それに、まだ改良の余地はあるから更なる向上が望める。
「まあね……でもオルムル達には敵わないけど」
『子供達は、威勢よく飛び出していったな』
シノブの呟きに、クルーマが応じた。実はオルムル達も一緒に来ていたのだが、トンネルをどれだけ速く抜けられるか競争しに行ってしまったのだ。
「向こうから来るのと、ぶつからないと良いけどね……やっぱり制限速度を決めるべきかな?」
『オルムルさん達ですから、それはないでしょう』
パーラは真面目さが滲む思念を返す。どうやら彼女はシノブが冗談を言ったと思わなかったらしい。
──私も速く飛べるように頑張ります!──
ケリスの純粋な言葉に、シノブ達は微笑みを浮かべてしまう。それに両親であるクルーマとパーラも、温かな応援の言葉を掛けていた。
玄王亀のケリスの浮遊速度は、上達しても今の蒸気自動車の速度くらいだろう。
しかし今のケリスは浮遊を覚える前である。仮に、この時期から訓練を積み重ねたら。シノブは彼女なら、もしかすると、とも考える。
「そうだね、夢は大きく持たなくちゃ。人間の技術だってマルタン達が諦めないで頑張ったから、ここまで来たんだし、もっと伸びていく。……ケリスだって、そして俺達だって、どこまでも遠くに行ける筈だ」
灯りの魔道具で照らされた前方を見つめながら、シノブは将来を夢見る。万能にすら思える超越種だって更なる可能性はあるだろうし、もちろん未熟な人間は尚更だ。
そして広がり高まっていくのは技術だけではない。心も、絆も、それ以外も。シノブの思いが伝わったのだろう、車内には未来を語る明るい声が途切れることなく続いていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年2月1日17時の更新となります。