20.26 アスレア海、符で飛んで 前編
創世暦1001年10月8日の朝、シノブ達は謎の海神を探りにアスレア海に赴いた。先日アゼルフ共和国で得た遠距離まで憑依できる符、移送鳥符を用いての探索だ。
もっとも初回ということもあり、訓練を兼ねてでもある。そのためシノブ達が向かったのは、アルバン王国に近い海域だ。
ここは『南から来た男』ヴラディズフの出身地だという漁村ヴリトから、100kmほど南である。つまり謎の海神がいるらしき場所から、300km以上は離れている。
しかもアゼルフ共和国の玄王亀アノームやターサは、この辺りまでなら通ったという。もちろん彼らが通ったのは海底より更に何百mも下だが、一応の指標になるとシノブは思ったのだ。
訓練にはアマノ号を使う。双胴船型のアマノ号には魔法の家が設置でき、活動拠点に出来るからだ。しかも魔法の家なら、万一のときは呼び寄せ機能で撤退可能だ。
心配しすぎかもしれないが、相手は神だから何があるか判らない。そのためシノブは、細心の注意を払っていた。
アマノ号を運ぶのは、岩竜の長老ヴルムと炎竜の長老アジド。支援役として姿消しが使える光翔虎からバージ、ダージ、フォージ。他はシノブとアミィ、ホリィ、ミリィのみである。
ちなみにマリィはテュラーク王国の監視があるからキルーシ王国に残り、タミィも非常時の呼び寄せ担当としてアマノシュタットで待機している。そのため今回は、この陣容となったわけだ。
「この近くまで来る漁師もいるんだって?」
魔法の家から甲板に出たシノブは、案内役のホリィに声を掛けた。するとホリィは、頭上の晴れ渡る朝の空のように爽やかな笑顔をシノブに向ける。
今朝は快晴だから見通しが利く。しかしアミィが作った魔道具で何もないように見せかけているから、海上に浮かぶアマノ号が発見されることはない。
もっとも周囲に船など見当たらないし、シノブの魔力感知でも数km以内にいる人間は自分達だけだ。それに極めて優れた視力を持つ竜や光翔虎も、人工物など存在しないと言っている。
そのため問うたシノブも、問われたホリィも平静なままだ。
「真珠採りですので、漁師というより潜水夫かもしれませんね。あまり多くはないのですが、数日掛かりで来るそうです」
ホリィは、アルバン王国の漁業にも詳しくなっていた。
ヴラディズフはアスレア海に面した漁村の漁師で、ルバーシュ伝説の元となった人物も同様だ。そしてホリィ達は二人の出身地を巡り、そこの生活や風習も学んだからだ。
アルバン王国は沿岸でも漁獲量が多く、漁業は近海で充分だという。それに同国は暖かく農作物も豊かで牧畜も盛んだから、内陸まで魚を運ぶ必要もないらしい。
第一、遠洋漁業をしても港に着くころには悪くなってしまう。アスレア地方にも冷蔵の魔道具はあるが、エウレア地方のものよりも更に性能が低いからだ。
そんなわけで漁業は近海が中心だが、何事にも例外はある。
近海だと良い真珠は中々採れないし、食物とは違い遠方から運んでも問題ない。そのため真珠採取を生業とする者達は、定期的に遠くまで赴くという。
「七百年前のヴラディズフや五百年前のルバーシュの時代から、採取方法に大きな変化は無いそうです。遠くまで航海するのは危険が多いので、多くは数隻か十隻程度の集団ですね。といっても人数はさほどではなく、多くても数十人くらいです。
たぶん、ヴラディズフやルバーシュも真珠採りに携わっていたのでしょう」
ホリィはヴラディズフの漁村ヴリトと、ルバーシュの漁村ラリクの双方を調べた。そして二つの村の共通点に真珠採りがあると判明した。
謎の海神は遥か沖に潜むらしいし、バアル神などの異神も同じ場所から現れたのだろう。遠洋まで出るなら、それらと接触する機会があったかもしれない。
「ヴラディズフは取り憑かれたとして、ルバーシュは……遺物でも得たのかな?」
シノブは紺碧の海を眺める。
アルバン王国の南に大きな島は無いが、それでも小島や岩礁くらいはある。多くは耕地にするほど広くないし、湧き水もない。とはいえ南海で雨も降るし、稀に水源を持つ島もあるそうだ。
もっとも人が定住するほど恵まれた島はないというから、長く暮らすことは難しいのだろう。だが、そんな場所でも異神が上陸して何かを残した可能性はある。
「その辺りも調査ですね~」
「シノブ様、準備が出来ました!」
魔法の家から出てきたのはミリィとアミィである。
非常時の退却を容易にするため、今回は移送鳥符への憑依は魔法の家の中で行う。最初ということもあり、なるべく一緒に行動することにしたのだ。
「それじゃヴルム、アジド、輸送は頼んだよ。バージ達は護衛と近くの探索を頼む」
シノブは五頭の超越種に呼びかけ、ホリィと共に魔法の家へと向かっていった。そしてアマノ号は竜の長老達に運ばれ、静かに南へと動き出した。
◆ ◆ ◆ ◆
「それではシノブ様、行ってきます!」
「手掛かりを発見できるよう頑張ります!」
「……移送転換~!」
アミィはシノブに柔らかく微笑み、ホリィは固い決意を示し、ミリィは先輩のミルーナが伝えたらしき言葉を口にする。
そして三人は本物の鳥そっくりの移送鳥符に乗り移った。彼女達の体はリビングのソファーに腰掛けたままだが、魂はセキセイインコのような青い鳥の中である。
「それじゃ頼むよ」
シノブが窓を開けると、三羽の青い小鳥は外に飛び出し海上へと向かっていく。
移送鳥符の飛翔速度は、憑依した者の魔力で大きく異なる。これを造ったアゼルフ共和国のエルフ達だと燕など飛翔が得意な鳥くらいの速度だが、アミィ達だと倍以上は軽く出せる。
そのため青い小鳥は、あっという間に空と海の間へと消えていった。
──『光の盟主』よ。あの小鳥、オルムル達も試すそうだ──
魔法の家の外から思念で呼びかけてきたのは、岩竜の長老ヴルムであった。ただし彼の思念は、普段と違って抑え気味である。
思念を遠方まで響かせたら、謎の海神を刺激するかもしれない。まだ安全な場所の筈だが、ヴルムは万一を考えたようだ。
──君達が許可したなら、別に良いけど──
──色々な術を学ぶのは良いことだ。自身の体も鍛えなくてはならぬから、限度はあるが──
シノブが苦笑しつつ応じると、炎竜の長老アジドも話に加わってきた。
子供だからか、オルムル達は好奇心旺盛だ。特にシノブ達がすることは真似てみたいらしい。読み書きを覚えたり言葉を発したり、そういったことから、このような魔術や魔道具にもオルムル達は興味を示す。
それに子供達は仲間同士で技を教え合ってもいる。どうやら、どんな技でも一度は試してみるらしい。
──まあ、やってみないと判らないことも多いしね。魔術や魔道具は使い方次第で色々応用できる……だからこそ要注意だけどね──
シノブの脳裏に各種の禁術、過去のベーリンゲン帝国や『南から来た男』ヴラディズフが手を染めたものが浮かぶ。隷属、超越種の血の悪用、対象者の意志を無視した魔力吸収などだ。
ヴラディズフは、禁術の使用を躊躇わない考え方をどこで身に付けたのか。やはり異神との出会いで、ヴラディズフは何らかの変貌をしたのか。シノブは、そのようなことを考える。
もっともシノブには周囲の魔力を探る役目があるから、思案したのは僅かな時間のみだ。
シノブはアマノ号の近くだけだが海中や海上の魔力を調べていた。どんな小さな魔力の動きでも見逃さないようにと気を付けているのだ。
それにアミィ達からも随時連絡が入る筈だが、謎の海神に察知されないよう彼女達は思念に極めて少量の魔力しか用いない。そのためシノブでも、油断すると聞き逃す恐れがある。
──シノブ様、5kmほど南です! 異常ありません!──
──アミィから連絡があったけど、気が付いた?──
シノブはヴルム達に問うが、返ってくるのは否という答えだけだ。アミィの絞りに絞った魔力波動は、老竜達や熟練の光翔虎達でも感じ取ることは出来なかったのだ。
ホリィやミリィからも密やかな連絡が入るが、これも同じである。
思念は伝えたいと思った相手にしか理解できないが、優れた感知能力を持つ者なら魔力の動きを察する。そのためアミィ達が普段通りに知らせてきたら、ヴルム達は何らかの魔力が動いたと気付く。
今のヴルム達は、シノブと同様に感知能力を研ぎ澄ましている。視覚なら目を凝らし、聴覚なら耳を澄ましている状態だ。その彼らでも察知できないのだから、たとえ相手が神でも近距離でなければ感じ取れない筈である。
──よし! このままアミィ達を追っていこう!──
シノブは正面の窓の外へと顔を向けた。視線の先には、朝日を受けて眩しく輝く大海原が広がっている。
十月の初旬も終わりに近いが、この辺りはアマノシュタットに比べて随分と南で北緯33度を切る。仮に日本なら九州の中央付近といった辺りである。
しかもアスレア海には暖流が流れているから、ますます暖かだ。そのためだろう、煌めく海面は大袈裟に言えば夏の雰囲気すら残っていた。
──了解した──
──では、このまま南に──
ヴルムとアジドは、シノブの指示に従ってアマノ号を進める。
アミィ達が宿る移送鳥符には、姿や魔力波動を隠す魔道具も追加で装着した。そのため老竜達も符の位置を把握できず、シノブの言葉を頼りに移動することになっていた。
──今日中にある程度は調べたいな……明日はケリス地下道の開通式だし──
シノブは明日10月9日からの予定を思い浮かべる。
まず明日が玄王亀のクルーマとパーラが造った大トンネル、アマノ王国とヴォーリ連合国を繋ぐケリス地下道の開通式典だ。そして明後日はアマノ同盟大祭の一日目で武術と体術の大会、明々後日は二日目の芸術祭である。
アマノ王国の国王として、そしてアマノ同盟の盟主としてシノブも当然これらに出席する。そのため一日を全て探索に使えるのは、今日だけであった。
幸いアスレア海までの移動は随分と楽になった。アゼルフ共和国の玄王亀アノーム達の棲家に近い地底にも転移の神像を拵えたから、ここまで500km少々だ。そのため竜の飛翔と光鏡による連続転移を組み合わせたら、十数分で到着できる。
したがって明日からの三日も多少は探索を続行するが、大きく時間を割けないのは事実である。
そこでシノブは、今日中に100kmか200kmくらい南まで調べたかった。
ここから謎の海神がいると思われる海域まで300kmほど、その中心までだと更に50kmはある。そのため中間辺りに前線基地でも造れたら、とシノブは思っていた。
もっとも海上から調べただけでは安心できない。そこでシノブは移送鳥符の海中版、移送魚符の作成をアゼルフ共和国のエルフ達に頼んでいた。
アゼルフ共和国の魔道具技師達は戯れに鳥以外の符を作ったことがあり、数日あれば完成するそうだ。そこで可能であれば今日、それが無理でも続く三日で拠点に相応しい場所を発見し、移送魚符を用いての本格的な探索に繋げたいシノブであった。
──探索といえば、あの隠密名人はどうしているのだ?──
──アルバーノか……今はテュラーク王国の王都フェルガンだよ──
光翔虎バージの問いに、シノブは苦笑しつつ答える。どうもアルバーノは、光翔虎から見ても卓越した潜入術の持ち主のようだ。
以前バージ達はエウレア地方の西の島国アルマン王国、現在のアルマン共和国での異神探索に協力してくれた。そのとき潜入した人間で中心となったのはアルバーノだから、バージ達も強く記憶に残ったようだ。
──アルバーノ達は、一昨日の夜フェルガンに着いた。キルーシ王国に渡ったのは一週間前だけど、ガザーヴィンで情報を仕入れたりテュラーク王国に入ってからは途中の街を調べたりだからね──
当然ではあるが、派遣前のアルバーノはガザール家の当主エボチェフの顔すら知らない。そこで彼はキルーシ王国の王都キルーイヴやガザール家が太守を務めた都市ガザーヴィンに赴き、必要と思われる情報を入手した。
既にマリィがキルーシ王家の人々と昵懇の仲になっているから、キルーシ国内での情報収集は容易であった。そのためアルバーノ達は到着した日と翌日で、エボチェフやテュラーク王国の主要人物について絵姿なども含め諸々を得た。
──あちこち巡ったのだな──
──逃亡者は隣国の中心に向かったのではないのか?──
ダージとフォージも興味津々らしい。どうやらアルバーノは、光翔虎の間でも人気者のようだ。それともダージ達は、何かあれば自分達も手を貸そうと思ったのだろうか。
──俺達はテュラーク王国の風習に詳しくないからね。練習を兼ねて途中の街も調べたそうだ。それに姿を隠すなら誰もが思いつく王都を避けたかもしれないし──
シノブは二つを挙げたが、特に前者が大きな理由であった。
潜入といっても透明化の魔道具を使って歩き回るだけではない。何か訊ねるなら不審に思われない程度の常識は必要だが、生憎と初めて赴く国だ。
とはいえ長々と準備していたら、エボチェフを追うのは難しくなる。そこでアルバーノ達は最低限の知識を得たら、後は実地訓練をしながら進んだわけだ。
ちなみにエボチェフは先月末の9月30日深夜にテュラーク王国の王都フェルガンに辿り着き、国王ザルトバーン達との密会を果たした。しかしキルーシ王国やアマノ同盟は、この事実を未だ知らない。
もちろんシノブ達も、エボチェフがザルトバーンに縋るだろうと思っているし、王都フェルガンに入ったアルバーノ達も、それを最有力と考え動いている。
しかし厳重に匿われているのか、それとも既に他所に移されたのか、昨日の時点では元ガザーヴィン太守の足取りは掴めないままであった。
──アルバーノ達ならエボチェフを見つけてくれるよ。それにエボチェフより、テュラーク王国が何を考えているかが重要だ──
シノブは昨夜アルバーノから届いた報告を思い出しつつ思念を発した。しかし、こちらも今は探索中だ。
アミィ達からの思念は、こうしている間にも入ってくる。そのためシノブは、アルバーノのことを一旦は置くことにした。
◆ ◆ ◆ ◆
一日前、アルバーノは仲間と共にテュラーク王国の王都フェルガンに着いた。そして彼らは軽い調査でフェルガンでの初日を終え、とりあえずの拠点へと戻ってきた。
拠点はフェルガンの安宿だ。王都でも下町というべき雑然とした場所で、流れ者も多いから紛れ込むには最適である。
「改めて思いますが、豪勢な潜入部隊ですな……しかも隠密調査より、強襲向けの……」
アルバーノは呆れたような表情で呟いた。彼の前には五人の北方系の獣人がいる。
部屋を一つ借り切ったからだろう、アルバーノは一癖も二癖もありそうな面々に遠慮のない視線を向けている。
ちなみに今のアルバーノは、狼の獣人へと姿を変えている。ここテュラーク王国では南方の種族は少なく、猫の獣人では目立つからだ。
そのためアルバーノの瞳は本来の金色ではなく黒に近い色合いで、髪も茶色である。
「クラウスやディルクは斥候部隊だった」
短く答えたのは非常に締まった体をした狼の獣人、ゴドヴィング伯爵アルノーである。
しかも他もアマノ王国の将軍だから、アルバーノが豪勢と言うのも頷ける。まず、この十月初めに子爵となった狼の獣人ヘリベルト。そして熊の獣人オットー、狐の獣人クラウス、狼の獣人ディルクの男爵達。合わせて四人の将軍だ。
「私やオットーは特別歩兵隊でした……アルバーノ殿とは別の隊でしたが」
ヘリベルトは、帝国時代の自分達の所属に触れた。
彼ら六人に共通するのは、ベーリンゲン帝国の戦闘奴隷だった過去だ。アルノーは故国メリエンヌ王国に潜入した暗殺部隊の一員、他の五人はガルック平原会戦に帝国兵として加わった者達である。
「街道敷設にも少々飽きて……おっと失言ですな」
熊の獣人らしく巨漢のオットーは、その体に相応しい豪放な笑い声を上げた。そして残りの三人の将軍が、彼に和す。
今のアマノ王国は平穏そのもの、陸軍の仕事は国内の魔獣退治と街道建築に城壁の補修などであった。他にすることといえば、数日後に開催されるアマノ同盟大祭の武術や体術の大会への出場くらいだ。
そのため四将軍も暇を持て余したらしく、喜び勇み潜入部隊に加わった。可哀想なのは、碌な引き継ぎも無いまま業務を押し付けられた副官達である。
「情報局員は猫の獣人が多いですが、可能であれば変装の魔道具を使わない方が良いでしょう」
「いざとなれば強攻策に出るのも事実です」
知性派のクラウスは種族を理由に挙げ、熱血漢のディルクは問答無用の事態もあると主張した。どちらも彼らが選ばれた理由であるのは事実だから、アルバーノも苦笑で応じるのみだ。
「良いでしょう……ところで、街はどんな様子でしたか?」
真顔になったアルバーノは初日の成果を訊ねた。アルバーノは王宮に潜入、他は街に散って聞き込みをしたのだ。
「例の将軍バラームは、お咎めなしで済んだそうです。再戦の司令官も彼だという噂でした」
「よっぽど戦いたいのでしょうな。凶作だというのに……」
まずはヘリベルトとオットーが口を開く。
シノブと国境で対峙した将軍バラームは、再びキルーシ王国に攻め上がるべく準備を進めているそうだ。兵士や街の者は国境での話を聞いて及び腰だが、国王や将軍に逆らうわけにはいかないのだろう、口を噤んだままだという。
既に軍人となった者は、脱走をすれば処刑される。街の者は陰で国を批判する程度なら問題ないが、下手なことを言えば強制的に軍に放り込まれるかもしれない。
しかし王都の民には、密かに先行きへの不安を語り合う者が多かった。
「エボチェフの所在は噂になっていません。こちらに逃げたと多くは思っているようですが、異国の太守がどうなろうが関係ないですからね」
「上手く潜んでいるのでしょうね……当然というべきか、目撃情報はありませんでした」
残りの二将軍、クラウスとディルクはエボチェフに触れた。
もっともエボチェフの行方知れずは予想の範囲内であった。幾ら王都とはいえ街の者が知っているくらいなら、これまでの街道でも多少は情報が手に入るだろうからだ。
「軍も同様だ……王宮は?」
寡黙なアルノーは、普段と同じく言葉少なに問い掛けた。
アルノーが受け持ったのは、テュラーク王国軍の本部だった。彼は諜報を専門にしたことはないが、身体能力はアルバーノに匹敵する。
それに暗殺部隊なら潜入も経験する。アルノーは同僚に並ぶ見事さで軍本部に忍び込み帰還していた。
「今いないのは確実だと思います。ただ、怪しい点は幾つかあるのですよ……」
アルバーノは苦笑を浮かべつつも、自慢げな様子であった。対するアルノー達は、アマノ王国が誇る諜報担当者に期待の滲む顔を向けている。
あまり表情を動かさないアルノーは極めて僅かに。オットーやディルクは瞳を輝かせ顔も綻びつつ。ヘリベルトやクラウスもオットー達ほどではないが、やはり喜色を浮かべ。そして五人の視線を受けたアルバーノは、彼らしい余裕が滲む面のまま王宮で目にしたことを語っていく。
◆ ◆ ◆ ◆
テュラーク王国は男性優先の国だが、王宮には女性も多い。王妃に王女などの女性王族に仕える女官もいるし、王や将軍などに酌をする侍女もいるからだ。
多くは低い身分に留められているが、王宮での日常を支える料理番や衣装係、清掃担当なども含めれば、半数以上は女性だろう。
そしてテュラーク王国でも男性より女性の方が話好きというのは変わらないらしい。
「このままだと、勝ち目はないんでしょ?」
「ええ。バラーム様を破ったシノブという者は人の倍ほどもある大男で、しかも冷血非道な大魔術師。何でも自分から化け物だと認めたとか……」
やはり噂には尾ひれが付くものらしく、国境での出来事は随分と誇張されていた。もっともシノブが、化け物と叫んだバラームに直接的な反論しなかったのは事実である。
シノブの返答は、人の範疇を外れた自分でも受け入れてくれる者はいる、という意味であった。しかし混乱極まる戦場に、彼の思いを汲む者などいなかったようだ。
「陛下や王太子殿下は戦いを続けるようだけど……」
「エボチェフとかいう太守なんて、放っておけば良いのよ! どうせ、どこかで野垂れ死んでいるわよ!」
心配げな狼の獣人の女性に、人族の女性は憤慨気味な様子で言い放った。どうやら彼女達は、ここフェルガンにエボチェフが来たことを知らないようだ。
「そうね……エボチェフなんてどうでも良いのよ。こちらの血も入っているけど、所詮は他所の国の者だから。それより勝つ方法があるかよね……」
「軍だけだと難しいと思うわ。だって既に一回負けているわけだし……しかも全く敵わなかったって……。でも、ルボジェク様に何か策があるみたいよ? あのお方、不気味で怖いけど確かに頼りになるから……」
話題はエボチェフから宮廷魔術師ルボジェクに移った。
当然というか、百歳を過ぎても壮年者と変わらず働くルボジェクは畏怖の対象であった。二人だけの控え室にも関わらず、彼の名を挙げた人族の女性は不安げな顔で周囲を見回す。
「そういえば、ここ数日お見かけしないけど……」
「きっと例の場所ね! 恐怖の大魔術師シノブに勝つ手段を、密かに用意しているのよ!」
ルボジェクは宮廷魔術師だが、頻繁に王都から姿を消す。どうも彼は秘密の拠点を持っているらしい。
短いときだと三日程度でルボジェクは現れるから、その拠点は王都から少し離れた場所にあるのだろうか。もっとも王都のどこかに秘密の研究所でも構えている可能性はある。
「そのようなこと、みだりに口にしてはいけません」
唐突に現れて声を掛けた者は、この国では極めて稀な種族らしい。何しろ彼の髪は薄い色に黒い斑、これに該当するのはアスレア地方だと南方系の豹の獣人だけである。年齢は六十歳前後だろうか、かなり高位の者らしく衣装は極めて上等だ。
「あ、アルズィーン様!」
「申し訳ありません!」
侍女はどちらも蒼白な顔となり、床に平伏する。
宮廷魔術師ルボジェクが頻繁に姿を消すのは厳然たる事実だ。しかしルボジェクが伏せているのだから、侍女風情が噂をするなど不遜である。つまり宰相のアルズィーンに知れたら、良くて王宮から放逐、最悪の場合は処刑となる問題行動であった。
随分と厳しくはあるが、この国の歴史を振り返れば同様の失言で重罪とされた者はいる。そのため二人が平謝りに謝るのは無理からぬことであった。
「立ちなさい。公の場ではありませんから、見逃しても良いでしょう。ただし、どのような意図で語ったか聞かせなさい」
アルズィーンと呼ばれた男は、穏やかな言葉を侍女達に掛ける。
対する侍女達は立ち上がり、それまでのことを説明し始めた。そして彼女達は、相手の問いにも素直に答えていく。
そして暫くの後、彼女達は無事に解放された。もちろん厳重に口止めされてではあるが、罪を問われることはなかったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……ルボジェクは王都の外に何らかの施設を持っているようです。それも私物ではなく、国から金が出ているとか。侍女達は、そう語りましたよ」
侍女達を叱責したのは、魔道具で姿を変えたアルバーノだった。
アルバーノ達は、特定の人物の姿を変装の魔道具に設定していた。キルーシ王国で得た絵姿やキルーシ王家の人々の話を元に、マリィが魔道具を調整したのだ。
もちろん設定したのは主要人物だけだ。具体的には国王や王太子、宰相アルズィーン、宮廷魔術師ルボジェク、逃げ込んだらしきエボチェフである。
キルーシ王国の第二王妃はテュラーク王国の出身だから、王や王太子については精巧な絵を所持していた。それに要人である宰相や大魔術師も、キルーシ王国は絵姿を入手している。
それ故アルバーノは、宰相に変装できた。しかもアルバーノは先に当人を確かめに行ったから、口調なども誤魔化せる程度には似せていた。
「ルボジェクの施設の情報は、書面などに残されていませんでした。おそらく漏洩を警戒したのでしょう。仮にエボチェフが王都に来たとしても、やはり記録は作らないでしょうね」
「……怪しいのはルボジェクの施設か」
アルバーノが語り終えると、アルノーは静かに呟いた。歓喜に沸く四将軍とは異なり、あくまで彼は平静な様子を崩さない。
「ええ……それと、気になることが。……私見ですが、ルボジェクの秘策は禁術かもしれません。侍女達の言葉は、何となく『南から来た男』ヴラディズフを思わせます」
禁術かもと告げたアルバーノは、これ以上ないほどの真剣な顔をしていた。
アルバーノに誘導されるまま、侍女達はルボジェクの噂を幾つか語った。
ルボジェクの先祖はキルーシ王国の者だが、彼はキルーシ地方に残る遺跡に興味を示していたらしい。これは当代であるルボジェクも同様だ。
先祖と同様にルボジェクも時々西に出かけ、加えて妙にキルーシ地方の歴史に通じている。それにルボジェクは、常々『手を汚さずに知恵という果実は得られぬ』と語っているそうだ。
それらがアルバーノに、不吉なものを連想させたようである。
「事実であれば、叩き潰すのみ。それが我ら戦闘奴隷であった者の使命だ」
「ええ。私達がここに来たのは、天の配剤です」
アルノーの重々しい言葉に、アルバーノは静かに応じた。そして四将軍は同意を示すかのように頭を垂れる。
「……とはいえ民や下の者に罪はありません。侍女の二人も素直で可愛い子達でしたよ」
暫しの沈黙の後、アルバーノは普段の彼らしい軽妙な口調に戻った。どうやら彼は、皆の気持ちを静めようと思ったらしい。
「モカリーナ殿に伝えて良いのか? それに私は一応モカリーナ殿の養父だが……」
珍しく冗談めいたことを、アルノーは口にした。
アルノーは形式でしかないがモカリーナを養女にした。彼女がアルバーノと婚姻するための身分拵えとしてだ。したがってアルノーがモカリーナの養父というのは、事実であった。
「そ、それは御勘弁を!」
大袈裟に慌てるアルバーノに、囲む者達は更に顔を綻ばせる。アルバーノは、そしてアルノーも皆の心を解すために一幕演じたのだ。
もちろん四将軍も、二人の胸の内を理解している。しかし彼らは、それだからこそ大いに笑っているのだろう。別して強い心を持つ二人に続くために。
悲しい過去を乗り越えた彼らなら、この国の悲劇を未然に防ぐだろう。強さと優しさを宿した六人の勇者の姿は、晴れた青空のような清々しさと明るい未来を感じさせた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年1月28日17時の更新となります。