20.25 歴史の先に
テュラーク王国に海はない。
まずスキュタール王国が北、タジース王国が南東、アルバン王国が南西、そしてキルーシ王国が西を塞いでいる。更にテュラーク王国とスキュタール王国の東には、ファミル大山脈という標高8000級の高山帯だ。
このファミル大山脈が東への交通を妨げ、他も道は少ない。スキュタール王国との大半にロラサス山脈、タジース王国とも一部にはファミル大山脈の南端が聳えている。更にアルバン王国の側も殆どがカーフス山脈で、残りも随分と険しく標高も相当ある。
しかしテュラーク王国とキルーシ王国の間は違う。
テュラーク王国の国土は東が高山で、西に行くにつれ低くなる。更に河川も西に流れるから、キルーシ王国への街道は川沿いの緩やかな下りで難所も少ない。したがって両国の往来は古くから盛んであった。
そのためだろう、双方の支配者達も婚姻を重ね関係を強化した。それらは今のキルーシ王家とテュラーク王家も同様で、幾度も縁を結んできた仲だ。
ところが今、両国は断交をしている。先日のキルーシ王国での反乱に、テュラーク王国が手を貸したからである。
シノブ達の協力もあり、反乱を主導した将軍ヴァジークは捕らえられた。しかしヴァジークの父でガザール家の当主、エボチェフは姿を眩ました。
だが逃亡から数日後、エボチェフはテュラーク王国の王都フェルガンに現れた。シノブ達がアゼルフ共和国の玄王亀達と会う六日前、9月30日のことだ。
「エボチェフ殿、無事だったか」
豪奢な椅子に腰掛けた熊の獣人が、感情の滲まぬ声で呟いた。
ここは石とレンガによる街、王都フェルガンを睥睨する王宮の奥だ。そして言葉を発したのはテュラークの主、国王ザルトバーンである。
当年とって四十二歳のザルトバーンだが巨体は引き締まっており、若者のような活力を感じさせる。黒々とした豊かな髪と髭、人を圧する鋭い眼光、王者に相応しい重々しい声音が、纏った衣装と同じく彼に特別な威厳を与えている。
しかしザルトバーンのいる部屋は王の御座所とは思えぬ狭さで、しかも窓すら無い。人も少なく、国王の脇に数名が佇立するのみだ。おそらく、これは密会なのだろう。
「生き恥を晒しております……」
エボチェフは静かに跪き、対面する国王に頭を下げた。
落ち武者に相応しい言葉と、王への畏敬を示した態度。それらはザルトバーンへの臣従を示すかのようであったが、下を向くエボチェフの瞳には力があった。
跪礼をする熊の獣人の顔には、強い意志が宿っている。まだ、この中年の元太守は諦めていないのだ。
ガザール家の当主、かつてのガザール王家の末裔は、再起のために一時の撤退をしただけ。そう思わせる不敵さを、エボチェフは備えていた。
「仕方があるまい。お主達を打ち砕いたのは、一日も掛けず長城を築く相手……シノブという男だ」
「俺達も耳を疑ったし、確かめに斥候を出した。お陰でバラームを処刑せずに済んだがな」
国王に続いたのは、王太子ファルバーンだ。
父と違いファルバーンは狼の獣人だし、まだ十八歳だから若々しい容貌だ。しかし親子だけあって、顔や鋭い目付きの相似は明らかである。
「ファルバーン様……」
王太子の名を呟いたのは狼の獣人、国境でシノブと対峙した将軍バラームだ。厳つい武人は、微かに苦笑いを浮かべている。
二日前にバラームが戻ってきたとき、王宮に衝撃が走った。
何しろ国境を越える筈の将軍が、率いる軍の全てを連れて王都まで撤退したのだ。しかも国境にはフェルガンの城壁にも勝る高さの長城が築かれ、それを造った男は嵐と地震を起こしたという。当然ながら、これを頭から信じる者は皆無であった。
まず国王ザルトバーンを始めとする中枢が、バラーム達の正気を疑いつつも詰問した。しかし全員が同じことを繰り返すから、ザルトバーン達は国境に早馬を送り確かめさせた。
そして早馬が戻り、バラーム達の言葉が偽りではないと証明された。
結果として、バラーム達は罪に問われなかった。
どうすれば勝てるというのか。この問いに答えられる者はいなかったし、バラームが指揮官として無駄な損耗を避けたのも理解できる。
責める点があるとすれば、王都までの撤退くらいだろう。しかし国境全体に長城を構築し、天変地異を起こす相手だ。どこまで退くのが適切かなど、誰も判りはしない。
そのためバラーム達は待機を命じられただけで、処罰されることはなかった。
「……立つが良い。そして前を向くのだ」
「はい……しかし、このままに?」
国王に促され立ったエボチェフは、僅かに焦燥を浮かべ言葉を発する。
エボチェフは全てを失った。太守の地位。キルーシ王国で第二の権勢を持つガザール家。そして嫡男のヴァジーク。もはやエボチェフに残っているのは、自身の体一つである。
もちろん喪失は自業自得だ。ヴァジークは民を人質に取り反逆をし、エボチェフも連動して叛旗を翻した。しかもガザール派の残り四太守を同調させてだ。
おそらく今のエボチェフの胸中を満たすのは、復讐だろう。道理など無いが、何とかして元の地位に返り咲き、息子の仇を取る。その思いが彼を支えているに違いない。
◆ ◆ ◆ ◆
「むろん、このままにはせぬ……」
国王ザルトバーンの声には、非常に微量だが先ほどまでに無いものが宿っていた。それは、苦悩という感情だ。
相手は超自然の技を使う存在だ。200kmを超える国境に、ほんの数時間で高さ20mの長城を築く。そして天地を鳴動させ、暴風を巻き起こす。
対峙した者達が地震や嵐そのものだと語ったほどの、揺れと風だ。それも至近にいたバラームだけではなく、彼の配下全てが異口同音に言う。
「……というより、もはや退けぬ」
ザルトバーンの言うように、引き下がれない理由がテュラーク王国にはあった。このままでは、彼らは滅亡する可能性が高いのだ。
今年のテュラーク王国は大凶作だ。昨年や一昨年も良くはなかったが、今年は特に酷い。凌ぐには凌げるが、手を打たねば国力は大きく落ちる。そして来年も同じなら、弱っていくだけだ。
このようなとき、ガザール家などキルーシ地方の東部太守が救ってくれた。不作で足りない分を、ガザール家などから安く購入できたのだ。
そのためテュラーク王国は、ガザール派の勢力維持に手を貸した。キルーシ王国とエレビア王国が関係改善をすればガザール派は衰退し、それはテュラーク王国を道連れにしかねない。テュラーク王国の首脳陣は、そう考えたわけだ。
だが、アマノ同盟を見誤ったのが運の尽きであった。もっとも何百kmも遠方から反乱を知り、瞬時に移動して解決し、間を置かず国境で驚天動地の長城を造る相手を見切れるとしたら、その者も人外に違いないが。
ともあれ絶体絶命の窮地である。
北のスキュタール王国は同じ騎馬民族で好戦的。南のアルバン王国やタジース王国も過去に南進を仕掛けたから険悪な仲。そこで最後の西の伝手を守ろうと動いたが、結果は八方塞がりだ。
降伏し首を差し出せば国を守れるが、それは流石に避けたいに違いない。それに同じ死ぬなら、普通は可能な限り足掻く方を選ぶだろう。
しかし国王の顔に浮かんでいるのは諦めだけではない。どうやら彼には、起死回生の手段があるらしい。
「我らには秘策がある! ……まあ、多少強がりは入っているがな」
ファルバーンは、わざとらしいほど明るい声を張り上げた。どうやら王太子は、言葉通り自身を鼓舞しているようだ。
「……それは?」
「昔からの研究が実りまして……お国のものですよ」
喜色を浮かべたエボチェフに、今まで黙っていた一人が答えた。彼は人族の男だが並外れた高齢らしく、白髪白髯で腰も曲がり杖を突いている。
老人の名はルボジェク、ここテュラーク王国の宮廷魔術師だ。
驚くべきことにルボジェクは百歳を過ぎていた。一般に魔力の多い者は長寿になるが、百年以上を生きて矍鑠としているのは人族だと極めて稀である。
「ルボジェク殿でしたな……貴殿の先祖が我が国から持ち出した?」
エボチェフが口にしたように、ルボジェクの先祖はキルーシ王国の人間だった。そのためルボジェクの名は、テュラーク王国風ではなかったのだ。
「ご存知でしたか……。かつてキルーシ王家に仕えていた先祖……賢王ガヴリドル一世の命で書物を収集した者ですよ」
ルボジェクは深々と頷き、続いて自身の先祖がキルーシ王国の第二代国王ガヴリドル、現国王と同名の人物の家臣だったと明かす。
この第二代国王は碩学で、キルーシ王国の王都キルーイヴに王立図書館を造った。ホリィやアマノ王国の情報局員などが、過去の調査に用いた場所だ。
そしてルボジェクの先祖は王立図書館の設立担当、それも主要人物であった。そのため彼は過去の様々な書物に触れ、歴史的遺物や秘術にも詳しくなった。
「先祖は書籍収集より秘術の再現に熱中したようです。しかも禁術に傾倒し、そのため賢王に追放されたそうで……。
ですが知識は知識、禁術などありませんよ。避けるのではなく、知って先に進む。それに犠牲を恐れては発展などありません。作物を得るには雑草を抜き害獣や害虫を始末する……手を汚さずに、知恵という果実は得られぬのです」
ルボジェクは秘術の詳細を明かすつもりはないようだ。老魔術師は先祖のことから話を転じていく。
「……秘術とは、それほどのもので?」
「あの『南から来た男』の遺跡から発見したのですよ。エボチェフ殿の都市ガザーヴィンにも近い場所です。先祖は秘術を再現するため、遺跡に目を付けたのですな」
首を傾げるエボチェフに、ルボジェクは年齢にそぐわない得意げな様子で語り出す。彼も先祖と同じく、秘術に取り憑かれているのだろう。
ルボジェクの先祖が放逐されたのは百八十年ほど前、つまりテュラーク王国が誕生したころだ。彼はテュラークへと逃げたが研究を続け、更にテュラーク王家の支援も得て遺跡発掘をした。
とはいえ遺跡探しは一代では終わらず、それに発見後の解析や再現も時間が掛かった。そのため使えるだけの術や魔道具が出来たのは、極めて最近のことだという。
「その……やはり元はエルフの術ですか? ……私達の夢は叶うのでしょうか?」
エボチェフは声を上擦らせた。彼は秘術の詳細を知らないが、目的とするところは知っていたのだ。
ガザール家は、この地域の主と昔から親密であった。特に彼らがキルーシ地方の主であったころは顕著で、およそ五百年前から二百年ほど存在したガザール王国の王は必ず東の騎馬民族から妃を得たという。
今でもガザール家とテュラーク王家は婚姻を重ねているし、ガザールは作物、テュラークは良馬を融通し互いを助けている。彼らの結び付きは、他が考えているよりも遥かに強かった。
「そうです。エルフの長寿や魔力、魔道具……アゼルフ共和国が私達の半数以下で広大な森を守り、独立を維持する根源……。それらは何百年もの繁栄を保証してくれます」
最後の一人、やはり老人がエボチェフに頷いてみせる。
外見からすると六十歳ほどらしい老人は、この辺りだと珍しい豹の獣人だった。猫科の獣人は南方系で、寒冷な地が多いテュラーク地方には元々住んでいない。しかし創世から千年の間の行き来で、僅かながら移住した者もいる。
この老人、アルズィーンも移住者の一人だが、彼は他に無い経歴を持っていた。彼は現在でいうアルバン地方の西部にあった国、カーフス王国の王族の血を引いているのだ。
四百五十年ほど前、彼の先祖は臣籍に降りた。そして更に後代が、婚姻で異国に渡ったという。
「外には海への進出で通していますが、本当に欲しいのはエルフの秘術です。かつてのカーフス王国の賢人ルバーシュの伝説もそうですが、エルフの恐ろしさを語ったものは無数にあります。
……あの『南から来た男』もエルフから逃げたのでしょう。彼は北上し、更に大砂漠へと向かいましたが、どうも手出ししたエルフに追われたようです」
アルズィーンは『南から来た男』ことヴラディズフの移動を、エルフから逃れるためと解釈したようだ。
七百年近くも前のことだから諸説あるが、最も有力な説は『南から来た男』が豊かなキルーシ地方を目指したというものだ。ただし他にも、海で酷い目にあったから内陸を好んだ、砂漠に宝があると思ったなど、様々な説が存在する。
もっともエルフ達がヴラディズフを追ったのは事実だ。歴史の表には出ていないが、エルフの長老ルヴィニアはシノブ達に明言した。同じことを、アルズィーン達は何らかの手段で知ったのだろうか。
「つい先日だが、我らはエルフの術の再現に成功した。それも普通なら禁術とされるものにな。そしてシノブという男……そやつが率いるアマノ同盟は、禁術を激しく嫌悪しているようだ」
「エレビア王国では、竜を使ってまで禁術を消し去ったそうじゃないか。あそこの王族は禁術に惑わされただけだから、お咎めなしで済んだ。しかし自ら手を染めたら……おそらく処刑、良くて追放じゃないか?」
国王と王太子の言葉に、残りの者は頷いた。
テュラーク王国で密かに再現された術が、どのようなものかは定かではない。しかし彼らが徹底抗戦を選ぶ理由には、シノブやアマノ同盟への恐怖もあるらしい。
シノブは人と思えぬ力で国境に長大な防壁を造り、空と大地を揺るがし戦うことなく大軍を追い払った。しかし、それらはテュラーク王国の中枢を追い詰めたのかもしれない。
その結果テュラーク王国の、そしてアスレア地方の未来がどう変ずるのか。窓すらない閉塞感極まる密室は、彼らの行き場のなさを示しているかのようであった。
◆ ◆ ◆ ◆
同じ九月の末日、同じような密室。しかし場を仕切るのは、随分と明るい男性だ。それはアマノ王国の宰相で筆頭侯爵のベランジェである。
彼と共にテーブルを囲んだのは同じ侯爵の内務卿シメオンと軍務卿マティアス、更にメグレンブルク伯爵にして情報局の局長も兼務するアルバーノだ。ちなみに室内には、この四人しかいない。
「やあ! 新婚生活はどうだね!?」
「お陰さまで幸せです。しかし結婚から一ヶ月、そろそろ前線が恋しくて。東ではソニアにセデジオ、ミリテオ達まで大活躍ですし……私も四十一歳になりましたが、まだ若い者には負けませんよ」
子供のように顔を輝かせるベランジェに、猫の獣人アルバーノは気取った仕草で頭を下げた。そしてアルバーノは、役者のように見栄えのする動きで肩を竦めてみせる。
この九月の初めアルバーノは結婚し、月の半ばに誕生日を迎えた。
そのためアルバーノは口にした通り四十一歳となったが、そうは思えない若々しい容姿だ。彼は随分と前に『永遠の二十八歳』と言ったことがあるが、実際に誰もが若者と思う外見に仕草である。
ちなみにベランジェは四十半ばを少々過ぎ、マティアスは三十一歳、シメオンは二十六歳だが、アルバーノは最年少のようにすら映る。もっともこれは、シメオンが実年齢より多少上に見えるからでもあるが。
「うむ! シノブ君も、そろそろ良いだろうってね!」
「アルバーノ殿、貴殿にはキルーシ王国に行ってもらいたい」
軽いベランジェとは違い、マティアスは重々しい声音であった。
アルバーノが率いる情報局は、軍務省の一組織だ。情報局には国王であるシノブが直々に命令することもあるが、軍ではマティアスがアルバーノの直接の上官となる。
そのためマティアスは、多少堅苦しい口調と表情を選んだのだろう。
「はっ! お任せあれ!」
よほど退屈していたのか、応じたアルバーノは満面の笑みを浮かべている。それに声も浮き浮きというのが相応しい弾みようだ。
「ご存知の通り向こうにはマリィ殿がいますし、転移できる魔法の幌馬車というものがあります。それにホリィ殿やミリィ殿も同じものを持っています。
基本的にはキルーシ王国での拠点作りと情報収集ですが、役立つことであれば御随意に。存分に腕を振るってください」
シメオンは、アルバーノに全てを任せるつもりらしい。魔法の幌馬車に触れたのも、帰還は自由にというだけではなさそうだ。
ホリィとミリィ、アルバン王国とアゼルフ共和国にいる二人に言及したのは、必要があればそちらに行っても良いということだろう。それにエレビア王国にはアルバーノの姪で養女のソニアなどがいるから、呼び寄せで訪問可能だ。
いずれにしても情報局長のアルバーノを投入するのだ。一々お伺いを立てなくとも良いというのは、頷けるところであった。
「……では、テュラーク王国の情報が必要だったり、不穏分子の排除が必要だったりすれば?」
アルバーノの金色の瞳が、鋭く光る。
この時点でキルーシ王国やアマノ同盟は、エボチェフの行方を掴んでいなかった。シノブに脅され退散した将軍バラームは軍ごとの移動だから、マリィも空から簡単に把握できた。しかしエボチェフの逃亡は少数のみで更に充分に偽装したらしく、金鵄族の彼女でも発見できなかったのだ。
エボチェフはテュラーク王国に入っただろうが、可能であれば捕らえるなり口を封じるなりしたい。それらもキルーシ地方の安定には欠かせない。どうやらアルバーノは、そう考えているらしい。
「ええ。キルーシ王国を知るには、関係する国々を正しく把握するのも大切でしょう。それに降りかかる火の粉を払う……この場合は事前に火の元を始末する、でしょうか……それも重要ですね。
もっともエボチェフをどうにかしても、テュラーク王国に良い口実を与えるだけかもしれません。それにガザール王家の血を理由にするなら、向こうの王や王太子なども条件を満たしています。確かエボチェフと王が、又従兄弟かと」
シメオンは本当に全権を任せるつもりらしく、反対しなかった。ベランジェやマティアスも同様である。
しかしシメオンは、エボチェフを葬っても大勢に影響は無いと思っているようだ。実際のところテュラーク王国が動く理由など、どうとでも付けられる。
大罪を犯したヴァジーク、エボチェフの息子をキルーシ王国が許すわけはない。しかしヴァジークはテュラーク王国の血縁だから、非道あり、と口を挟むことは大いにあり得る。
仮にガザール家が絶えたとする。そのとき彼らの治めた地を受け継ぐのは親族であるテュラーク王家だ、などと介入するかもしれない。
「でも、やるときはやって良いよ! 拙速は良くないけど、座視して最悪の事態になるのも嫌だからね!」
「過度の手出しはしたくないが、大勢の人々が苦しむことは避けたい……陛下も、そう仰せになられた」
ベランジェは変わらず無邪気にすら思える朗らかさ、反対にマティアスは厳粛とすら言える表情でシメオンに続く。
テュラーク王国と異神に直接の関係はないと、シノブ達は判断していた。
後にベーリンゲン帝国の初代皇帝となったヴラディズフは、現在のアルバン王国の西部を北上し、そこからキルーシ王国を北西に進み大砂漠の手前まで進んだ。つまりバアル神はテュラーク地方に訪れていない。
しかし同じくヴラディズフが足を運ばなかったエレビア王国でも、鋼人の事件が起きた。そのためシノブ達は、テュラーク王国やガザール家にも一定の注意を払うことにしたのだ。
「陛下の御意志を胸に、世のため人のために尽くしましょう! 更なる大物を追っていらっしゃる陛下に、これ以上の重荷を背負っていただくわけにはいきませんからな……」
「その通りだよ! 私は邪神との戦いには加われないけど、小物くらいは何とかしたいね! 普通の戦は当然だし、少し変わった玩具で遊ぶ奴らなら、シノブ君に頼らず何とかしなきゃ!
実はね、各方面にも呼びかけているんだよ! せっかく新たな友人も増えたことだしね……むしろ何か起きてほしいものだねぇ……」
凛々しい顔で応じたアルバーノだが、ベランジェの言葉には表情を崩す。それはマティアスやシメオンも同じであった。
どうやらシノブと集う者達は、彼の庇護を受けるだけでは満足しないらしい。
そもそも彼らは、シノブを支え育ててきた。そして囲む者達がいるから、シノブは後顧の憂いなく異神と戦える。
そのことを示すかのように、ベランジェ達の顔は自信と誇りで強く輝いていた。
「……シノブ君は、立派な王になってきた。それにアスレア地方の西南……エレビア王国、キルーシ王国、アゼルフ共和国、アルバン王国とも順調だ。
エレビアは、すでにアマノ同盟の一員と言っても良いくらいだし、そこと強い縁が出来たキルーシも続くだろう。アゼルフはエルフ同士で何とかなりそう、シノブ君とアルバン国王の会見もつつがなく終わった……新たな時代の新たな歴史の先に、何があるか楽しみだよ……」
ベランジェの顔には、何十歳も年長のような深みが宿っていた。彼の緑の瞳は壁に向けられているが、その先のアスレア地方を見つめているかのようですらある。
残る三人は、未来を思うベランジェの邪魔をしてはいけないと思ったようだ。二人の侯爵と一人の伯爵は、静かに控えるのみであった。
◆ ◆ ◆ ◆
ベランジェから王に相応しく成長したと評されたシノブだが、二十歳前の若者であることには違いない。
アスレア地方の玄王亀アノームやターサと会った翌朝、シノブは少しばかり落ち着きが無かった。
アルバーノは六日前の10月1日からキルーシ王国に渡った。そして彼は間を置かず、数名の仲間と共にテュラーク王国へと潜入した。
もっともシノブの心配事は、アルバーノ達のことではない。ベーリンゲン帝国との戦いを潜り抜け、アルマン王国でも異能を持つ相手を探り悠々と戻ったアルバーノである。その彼にとって超常の存在がいない場への潜入など、散歩と変わらないだろうからだ。
それではシノブが何を案じているかというと、メリエンヌ王国の王太子妃ソレンヌを発端にした事柄であった。
ソレンヌは、どうも出産が数日後に迫っているらしい。そして、これは本来より一週間ほど早いという。
もっとも、ここまで来れば今日生まれてもおかしくはない。それに夫の王太子テオドールから先ほど届いた文には、ソレンヌに異常はないと記されていた。
ただしシノブには、一つだけ気になることがあった。
「今度も予定日より一週間ほど早いんだよね……アヴ君のときも一週間か十日は早かったな……メリエンヌ王家の子は早めに生まれるのかも……」
ソファーに腰掛けたシノブは、お茶を置いたアミィに言葉を掛けることもなく呟き続ける。しかも先ほどオルムル達が飛び立ったときから、ずっとである。
シャルロットの母カトリーヌは、メリエンヌ王国の先代国王エクトル六世の娘だ。したがってシャルロットの弟アヴニール、そろそろ生後五ヶ月になる赤子にもメリエンヌ王家の血が強く入っている。
そうなるとシャルロットが宿している我が子も、来月上旬ではなく今月中に生まれるのでは。シノブの脳裏に、そんな思いが浮かんだのだ。
もちろん出産予定日から一週間かそこら前後するなど珍しくもない。しかし初めて父親となるシノブが動揺するのも、無理からぬことだろう。
「シノブ様……シャルロット様の御出産は予定通りだと思いますよ。もちろん絶対ではありませんが」
「アミィお姉さまのお言葉通りかと……それに私やルシールさん、アンナさん達も付いていますから」
アミィと妹分のタミィは、少し呆れているようだ。二人は良く似た苦笑を愛らしい顔に浮かべていた。
「シノブ。案じてくださるのは嬉しいですが、こればかりはなるようになるだけです。ソレンヌ殿も無事に出産されます……テオドール殿はアマノ同盟大祭に出席されるでしょうが、都合が付けば転移でお送りすれば良いかと」
シノブの隣からシャルロットが言葉を掛け、更に夫の手に自身のそれを重ねる。
動じないシャルロットの様子は、シノブと対照的ですらあった。幾らシノブが魔力感知で母体や胎児の様子を探れるといっても、当事者である彼女には勝てないのだろう。
ちなみにアマノ同盟大祭とは、九月に国内予選を行った武術、体術、芸術などの本戦、つまり国際大会である。開催日は明々後日の10月10日に武術と体術、その翌日が芸術祭だ。
「そうだね……しかしケリス地下道の開通式を含めると三日か……テオドール殿も気の毒に……」
シノブが触れたのは、アマノ王国とヴォーリ連合国を結ぶ長大なトンネルの開通式だ。トンネルを造った玄王亀クルーマとパーラは、自分達の子ケリスの名を冠してほしいと願ったのだ。
この10月9日に行われるケリス地下道の開通式にも、テオドールは出席する。したがって彼は合わせて三日をアマノ王国に滞在し、そこに妻の出産が重なりそうなのだ。
「仕方ありません。テオドール殿は、メリエンヌ王国の王となるお方なのですから。それに記念すべき初めてのアマノ同盟大祭です。王太子として欠席は出来ませんし、そのようなことはソレンヌ殿も嘆かれるかと」
シャルロットの言葉は、本心からのものらしい。
大領を預かる伯爵家の一員として生まれたときから育てられ、早いうちから跡取りに据えられたシャルロットである。特別な立場にいるからには、それに相応しくという彼女の信念は揺るぎないもののようだ。
「そうか……そうだね……。でも、何とかして出産日と調整できたら……そうだ!」
唐突なシノブの叫びに、シャルロット達は強く驚いたらしい。三人は大きく目を見開き、シノブを見つめている。
「短距離転移なら、赤ちゃんの取り上げが出来るよ! 予定日も近いんだから、問題ないんじゃない!?」
自身が会得した短距離転移が分娩に使えると、シノブは閃いたのだ。
完全に密封した壺の中から、シノブは任意の紙片を抜き取った。それだけの精度なら、赤子を取り上げることだって充分に可能である。
「これは歴史的な発見かも!」
帝王切開と違い母体を傷付けることもないし、予後も良好ではないだろうか。そう思ったシノブの顔は、自然と綻んでいた。
「シノブ様しか出来ませんよ……」
「……そうですね。他に方法がないのなら別ですが、自然な出産が良いと思います。もちろん、万一のときにシノブに解決する手段があるのは、非常に心強いですが……」
生憎とシノブの発案した短距離転移分娩法は、女性陣の支持を得られなかった。
アミィは苦笑を浮かべ、シャルロットは遠慮しながらだが自然に任せたいと答えた。それにタミィは口を噤んでいるが、表情からするとシャルロット達と同じ意見のようである。
「そうか……まあ、何事も自然に待つのが一番だね」
シノブは顔を赤くし、頭を掻く。
最愛の妻と彼女が宿した子に関係することだから少々我を失ったが、元々不用意に文明を進めるのはシノブの嫌うところである。自然な発展を願う神々の方針には、シノブも大いに賛同していたからだ。
エウレア地方の発展やアスレア地方との交流も、出来るだけ自然であってほしい。微笑みかけるような朝の光の中で、広がる世界と紡ぐ歴史の先の平穏をシノブは願っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年1月26日17時の更新となります。