20.17 交わる道 前編
創世暦1001年10月2日、シノブは大砂漠の中央山地を訪れた。しかも一人ではなく、大勢を引き連れてだ。
この日、朝食を済ませたシノブは転移の神像を使い、中央山地の地下空洞へと移動した。
朱潜鳳フォルスの棲家は地下500mほどだ。そして転移の地下空洞は、地上と棲家の中間地点に置かれていた。
まだシノブの短距離転移は500mに届いていないが、中間からなら双方に自力で移動できる。そのためシノブは地下空洞から地上に自身の力で移動し、それから魔法の家でアミィやシャルロット達を呼び寄せた。
『アマノ号の準備は終わりましたか?』
地下から出てきたフォルスは宙に舞い上がり、シノブに顔を向ける。
既にフォルスも魔力障壁を応用した発声を習得していた。出会ってから六日だが、他の超越種が全て習得しているから負けてはならじと励んだらしい。
『もう少しです』
『アミィさんが魔法の馬車を置きに行きました!』
フォルスだけではなく、彼の番のラコスや子供のディアスも同じく発声の技を会得していた。魔法の家から飛び出した二羽は、宙に舞い上がりフォルスへと向かう。
出てきたのは朱潜鳳の母子だけではない。
岩竜リントと炎竜ハーシャ、両種族の長老の番達はアマノ号を運ぶため双胴船型の船体に一つずつ存在する横棒へと向かう。
更に岩竜がヨルムとニーズ、炎竜がイジェとニトラ、嵐竜マナスに光翔虎パーフと続く。出てきたのは何故か全て雌である。
しかし、その理由はすぐに判る。続いて出てきたのはオルムルとファーヴ、シュメイとフェルン、ラーカにフェイニー、つまり先に出た者の子供達だ。
ちなみに海竜の子リタンと玄王亀の子ケリスは外に出ないが、この二頭は空を飛べないからだろう。
──お待たせしました! 魔法の馬車の設置と固定が完了しました!──
船倉の中からアミィの思念が響いてきた。
魔法の馬車の隠し部屋には、転移の絵画がある。そのため馬車を設置しておけば、アマノシュタットにいるタミィやアスレア地方に散っているホリィ達が来ることが可能だ。
そこでシノブ達はアマノ号で長時間の飛行をするとき、事前に魔法の馬車を設置していた。
「それじゃリント、ハーシャ、頼むよ」
──判りました──
──では行きましょう、リムノ島へ──
シノブが声を掛けるとリントとハーシャは思念で応じ、同時にアマノ号は静かに宙に浮く。
リムノ島とは、ここから南に800kmほどに存在する島だ。島といっても東西は最も広いところで100km、南北は150kmを超えるという立派なものだ。
しかしリムノ島はエレビア王国から200kmは離れている上、大型の魔獣が棲んでいる。そのため島に人は住んでいない。
──それでは案内します!──
先導のフォルスは一気に速度を上げ、超越種達とアマノ号が続いていく。
もっとも今回は全員が透明化の魔道具を使っているから、仮に誰かが地上にいても気付くことはない。
──どんなところか楽しみです~! 魔獣が沢山いるんですよね!?──
──はい! 島中が森で、そこに数え切れないほどいるそうです!──
問うたフェイニーに、ディアスが両親から教わったことを伝える。
まだ生後三ヶ月のディアスは、リムノ島に行ったことはない。しかし親のフォルスとラコスは、子育てに入る前は時々出かけていた。そのためシノブ達は、リムノ島がどんなところか知ったわけだ。
エレビア王国の人々はリムノ島を知っていた。しかし、それは上陸したら誰も帰ってこない魔の島としてであった。
アスレア地方の船舶技術は未発達だが、遠洋に乗り出した者が全くいないわけではない。そして彼らは魔獣の海域と同様に、リムノ島も発見していた。
ただしリムノ島は魔獣の海域と同様に、戻る者がいない場所であった。そのため今では上陸を試みる者もいないらしい。
しかし、そんな魔の島も超越種からすれば程よい餌場のようだ。
「それじゃ、俺は中に入るよ」
シノブは船倉から出てきたアミィと共に、魔法の家へと向かう。到着は予定通りでも四時間後だ。そこでシノブは、船内でシャルロット達と過ごすつもりである。
──シノブさん、ゆっくり過ごしてくださいね!──
──今日は一日お休みですから!──
オルムルやシュメイの言葉に、シノブは苦笑しつつ手を振った。
どうやら自分は、オルムル達から見ても忙しいようだ。たまには遊覧飛行をゆるりと楽しむのも良いだろう。シノブは、そんなことを考えつつシャルロット達のところに向かっていった。
◆ ◆ ◆ ◆
シャルロットの出産予定日まで一ヶ月少々となった。普通の王族や貴族なら外出しないだろうが、彼女がいるのは魔法の家である。
魔法の家に宮殿のような豪華さはないが、設備では逆に上回っている。それに大勢の侍女や従者、護衛に治癒術士が一緒だ。しかも運ぶのは七百年以上も生きた老練な竜達で、周囲も多くの超越種が守っている。
極めつけはシノブとアミィである。母体だけではなく胎児の状態すら詳細に把握し、人知を超えた魔術と魔道具を操る二人が一緒なのだ。異神でも現れない限り、安全は保証されている。
「ここで出産されても良いくらいですわ。もっとも私の見立てでは、予定日通りですが……」
治癒術士のルシールは、冗談だか本気だか判らない表情であった。それだけ彼女にとって、魔法の家は快適なのだろう。
空調は温度や湿度を一定に保っている。空の上だというのに全く揺れず、それどころか水道やコンロすら普通に使用できる。アミィが持つ魔法のカバンからは何でも出てくるし、その中には治癒の杖のような神具もある。そして魔法の馬車を経由すれば、一瞬で王宮と行き来できる。
設備だけではない。ゆったりとした椅子に腰掛けたシャルロットの側には専属侍女のアンナにリゼット、護衛騎士のマリエッタやエマなどが控えているし、ミュリエルやセレスティーヌも同様に侍女や護衛を連れている。しかも石畳の大広間にはシノブの親衛隊が、隊長のエンリオを筆頭に何十人も待機している。
大袈裟に言えば、宮殿ごと移動しているようなものだ。
「ルシールさんの言う通りでしょう。少なくとも三週間は先です」
アミィは強い自信を感じさせる口調であった。
十歳程度にしか見えないアミィだが、実際には何百年も生きている。そして彼女は妊娠や出産に関しても確かな知識を持っていた。
そのため集った者達の顔が更に和らぐ。
──もう少しで会えますね──
生後十日のケリスは、まだ魔力障壁での発声を習得していない。そのため彼女は思念と『アマノ式伝達法』で意思表示をしていた。
『ええ、貴女が今の倍ほどになったら会えるでしょう』
玄王亀のパーラは、背の上の娘ケリスに発声で応じた。
誕生したときのケリスは甲羅の長さが30cmほどだったが、今は一割くらい大きくなった。そしてパーラが言うように、これから一ヶ月少々でケリスは倍ほどに育つはずであった。
『その頃にはケリスも発声を使えますね』
隣から声を掛けたのは、海竜の子リタンである。彼は飛翔が苦手だから、室内に残っていたのだ。
ちなみにリタンの親は、リムノ島で合流する予定だ。つまり今日は超越種達の遠足、母と子が集っての楽しい催しでもあった。
「シャルロット、アスレア地方にようこそ。といっても砂漠だけどね」
シノブはシャルロットの隣に腰を降ろし、窓の外を見つめる妻に語りかけた。シャルロットは窓際のソファーに座っていたのだ。
「砂漠も楽しいですよ。エウレア地方にはありませんから」
シャルロットは顔を輝かせていた。差し込む陽光は彼女のプラチナブロンドを煌めかせ、表情を更に活き活きとさせる。しかし眩さの何割かは、普段目にしない光景によるものらしい。
やはりシャルロットを連れてきて良かった。同行した大勢の人々には悪いと思いつつも、シノブは微笑んでしまう。
シャルロットは活動的だ。それ故自身の体を動かせなくとも、直接触れることが出来なくとも、新たなものに巡り合いたいのだろう。シノブは嬉しげな妻の横顔を眺めつつ、改めて彼女の生き方に思いを馳せていた。
「きっと暑いのでしょうね……」
隣のソファーで呟いたのはアルメルだ。隣はアルメルと孫のミュリエル、そしてセレスティーヌが座っている。
昨日シノブはアルメルに声を掛けた。そして今朝シノブはシェロノワに赴き、彼女を連れて来たのだ。
「はい、おそらく山地を抜けて低地に入ると30℃近いと思います。しかも今は朝ですから、昼になれば35℃を超える筈です」
アミィの説明に、アルメルだけではなくミュリエルやセレスティーヌまで嘆声を漏らす。
ここはアマノシュタットやシェロノワと殆ど同緯度だが、向こうを出たときの気温は15℃を下回っていた。したがって大砂漠の方が、15℃近くも気温が高いということになる。
シノブ達は体温を一定に維持する魔法のインナーを着ているし、強い日光に備えて魔法の家に備わっている日焼け防止や保湿効果のあるクリームを塗っている。しかし、それでも外出を躊躇ってしまう数字だ。
「通信筒……マリィだ……キルーシ王国は変わりないって。それにテュラーク王国も」
「シノブが城壁を造ってから六日ですか……ガザール家のエボチェフ達はどうしたのでしょう?」
シノブは明るい声音だったが、シャルロットは僅かに眉を顰め声も曇っていた。
キルーシ王国で反逆を起こしたガザール派の中心人物、都市ガザーヴィンの太守エボチェフは、姿を眩ましていた。どうやら彼は、テュラーク王国に逃げ込んだらしい。
◆ ◆ ◆ ◆
六日前の9月26日に、シノブはキルーシ王国とテュラーク王国の国境に高さ20m、幅10mもの巨大な城壁を造った。それも全長250kmもの長城だ。
しかも国境に集結したテュラーク軍を、シノブは天変地異に匹敵する魔力波動で脅し追い払った。そのため今に至るまで、テュラーク王国は鳴りを潜めている。
キルーシ王国に常駐しているマリィはテュラーク軍を日に一度偵察しているが、それによるとシノブが出会った将軍バラームは、自身の軍を本当に王都フェルガンまで戻したという。
フェルガンはキルーシ王国との国境から450kmは東だ。しかしマリィは金鵄族で普通に飛んでも時速400kmは出せるから、充分に探ることが可能であった。
現在、テュラーク王国はフェルガンに軍を留めたままだそうだ。そのため再襲来しても、今日明日で国境に到達することはない。
「マリエッタ、どう見ますか?」
シャルロットは、愛弟子の一人であるマリエッタに問うた。
マリエッタはカンビーニ王国の公女だから、先々軍を率いる可能性もある。そのためシャルロットは、軍学も彼女に教えているようだ。
「再侵攻の時機を計っているだけかと。
将軍バラームがフェルガンに戻った翌日、マリィ殿は国境に向かって激走する早馬を発見しました。おそらく早馬は、バラームの言葉が事実か確かめたのだと思います。そして一昨日にはフェルガンに戻り報告したでしょう。
……テュラーク王国は高地です。かつてのベーリンゲン帝国のように暖かい地を目指すなら、冬になる前に動く可能性が高いと思われます。何でも今年のテュラーク王国は凶作だとか」
師の試問だけあって、マリエッタは改まった態度で答えていく。
マリエッタが触れたように、テュラーク王国は例年にない凶作らしい。それは向こうから戻ってきたキルーシ王国の商人の言葉でも明らかだし、マリィも僅かだが聞き込みをして裏付けを得ていた。
そしてテュラーク王国は冬を越せるか怪しく、越せたとしても大きな打撃を受け国力が大幅に低下する可能性が高いらしい。
テュラーク王国の国土は東が高く西が低い。そのため両国の国境は最も標高が低く、さほど寒冷な場所ではない。つまり本格的な冬の訪れは随分と先だし、冬に入っても充分に軍を動かせる。
とはいえ軍を集めたままにしている以上、再侵攻が何ヶ月も先ということはない筈だ。凶荒に備えるなら、末端の兵士を故郷に帰すべきだからである。
したがってシノブも、マリエッタと同じ意見であった。
テュラーク王国も一度は激突しなければ、格好が付かないのではないだろうか。現場の将軍は前代未聞の魔術に戦意を挫かれたが、国王は未だ諦めていないに違いない。
そして出征を命じたのは国王だろうから、彼は自身の権威を保つためにも一戦を望むと思われる。このまま引き下がったら、彼の評判が地に落ちるのは間違いないからだ。
「テュラーク王国はガザール家のエボチェフを侵略の口実にする筈です。彼もキルーシ地方の王家の末裔ですから。それにエボチェフ達が逃げ込む場所は、テュラークしかありません。もっとも逃げ込めたか未だキルーシ王国内に潜伏しているか、判りかねますが……」
マリエッタは、シャルロットの表情から先を続けるべきと思ったのだろう。彼女はガザール家などに触れていく。
キルーシ王国軍は、9月26日の夜に都市ガザーヴィン近郊に到着した。しかし、その時点でガザール家の当主エボチェフはガザーヴィンを脱出していたようだ。
マリィはガザーヴィンも偵察対象の一つとしていたが、あくまでも一つであった。彼女はガザール派の他の都市や国境、更にテュラーク王国にも赴いた。
そのためマリィは、エボチェフが脱出したとき他所に赴いていたらしい。
「ええ。ですが、多くの人が戦に巻き込まれずに済んだのは良いことです」
シャルロットはマリエッタの答えに満足したようだ。彼女は大きく頷き笑顔となる。
武術では激しい攻めを披露するシャルロットだが、将としては守りの気持ちが強いようだ。彼女は軍略を学んだが、攻める手段としては捉えていないのだろう。
「そうだね……国王のガヴリドル殿は、まだガザーヴィンだそうだ。彼はエボチェフがテュラークに逃げたと思っているようだが、念の為に国内も調べている。
王都キルーイヴでは、東の太守が誰になるか噂になっているって。これはキルーイヴに配置した情報局員からだ」
シノブも微笑みつつ、マリィからの文に触れていく。
王都キルーイヴが平穏を取り戻した後、シノブはアマノ王国の情報局員を再度送り込んだ。そしてキルーシ王家から譲られた屋敷に彼らを住まわせ、情報収集に当たらせた。
本来なら外務省の内政官でも置くところだが、まだ完全に政情が安定したか疑問が残る。そのため配置したのは極めて腕利きの数名のみで、更に脱出の手段も用意した。
ホリィが使っている魔法の幌馬車と同じものを、更に二つ授かったのだ。
これはマリィとミリィが使うためのものだ。そう思ったシノブは二人に渡した。
マリィはキルーイヴの屋敷に幌馬車を置き、脱出や他国との行き来に使うことにした。ミリィはアゼルフ共和国を移動中だが、馬車で移動できるような場所ばかりではないため、普段はカードにしたまま携帯しているという。
「どなたが太守に……まさか?」
「ああ。最有力はヴァサーナ殿……正確には夫になるだろうリョマノフだ。もっともヴァサーナ殿が成人して結婚し、更に東部が平穏になってからだが」
表情を変えたミュリエルに、シノブは苦笑混じりの顔を向けた。
結局ガザール家を含むガザール派の太守は、全て職を退くことになった。明らかな反逆をし、しかも王都を占拠したのだから当然である。家は取り潰し、エボチェフなどの情報を得るため刑の執行は先に延ばしているが当主は極刑となるだろう。
したがって、五つも太守の位が空くことになる。このうちテュラーク王国から遠い幾つかをヴァサーナとリョマノフに譲ろう、というわけだ。
とはいえ平和になってからの話だ。それにヴァサーナは十四歳だから、結婚は一年以上先である。
「名目だけで、実際には代官を置くんじゃないか、って言う者もいるらしい。現地に行くにしても、複数の都市を貰ったら住む都市以外は代官を置くからね。だったら若いうちは全部に代官を置いて、王都で暮らすっていうのもアリだな」
シノブが言うように、自身はキルーイヴで生活し代官を派遣するというのが一番多い意見だった。まだリョマノフは十六歳だ。それに武人肌で活動的なリョマノフが、若いうちから内政に熱中するとも思い難い。
キルーイヴの人々は知らないだろうが、リョマノフは海上交易に強い関心を抱いている。それも自身が直接交易に関わりたいらしい。したがって、当人も都市に縛り付けられるのは望んでいない筈だ。
「エレビア王国の方々は、お喜びでしょうね」
セレスティーヌは、リョマノフの故国に触れた。
エレビア王国の都市は三つだ。仮にリョマノフが三つの都市を任されたら、故国と同じ規模だと言える。
リョマノフを取られたとしても、彼が新たな場所で大きな勢力を築けばエレビア王国は更に発展するかもしれない。エレビア王国に近い西側ではないから面倒だが、キルーシ王国の東はアルバン王国とテュラーク王国に続く要衝だ。総合的に考えると、エレビア王国は様々に得をしそうである。
「国交樹立も成し遂げたしね。リョマノフも更に期待に応えようと頑張っているだろう」
シノブは進路の南側から南東、つまりキルーイヴの方向に顔を向けた。そしてシノブは若い王子の活気に満ちた顔を思い浮かべる。
◆ ◆ ◆ ◆
「へ~っくしょい! ……てやんでい、こちとらエレっ子でい!」
およそ800kmは離れたキルーイヴで、一人の若者が威勢の良い声を張り上げていた。もちろんエレビア王国の王子リョマノフである。
ここはキルーイヴの王宮だ。しかも奥近くである。それもその筈、リョマノフの向かいにも貴人がいる。
「エレビスの方は、そのように仰いますの?」
華やかかつ幸せそうな笑みで応じたのは、キルーシ王国の王女ヴァサーナだった。
ヴァサーナのキルーシ王国とリョマノフのエレビア王国は、正式に国交を樹立した。キルーシ国王ガヴリドルはシノブに語った通り、二国の接している海域は等分とし更に両国の地位も完全に対等とした。
しかもキルーシ王国は、莫大な額の謝礼をエレビア王国に贈った。反乱鎮圧に協力したリョマノフに感謝を示すためである。
既に両国は大使を交換し、ヴァサーナとリョマノフも正式に婚約した。
出会ってから十日程度しか経っていない二人だが、王族同士の政略結婚だから利害が一致すれば期間は関係ない。もっともヴァサーナの満面の笑みや随分と気を許したらしきリョマノフの様子からすれば、愛情も相当に育ってきたのだろう。
「ああ、エレビスの下町では多いな……そうだろう、ヨドシュ?」
「はい、殿下の仰せの通りでございます」
リョマノフの言葉を肯定したのは、彼の専属侍従のヨドシュであった。そしてリョマノフの後ろには、護衛武官のイゾーフとズーザフも控えている。
ヨドシュ達は、マリィの魔法の幌馬車でやってきた。エレビア王国の王都エレビスにはソニアやナタリオがいるから、呼び寄せ権限を付与すれば可能なことだ。
キルーシ王国は未だ国王ガヴリドルが東に赴いたままだ。王太子のヴァルコフはキルーイヴに留まっているが、他に男性王族はいない。
そこでヴァサーナはリョマノフの逗留を望んだ。これにリョマノフは快く応え、ヨドシュ達を呼びに行ったとき一旦戻った他は、ずっとキルーイヴに滞在している。
もちろんリョマノフにも様々な計算はあるだろう。ここで恩を売っておけば、両国の関係は更に強化できる。それに、キルーシ王国に婿入りするであろう自身の立場も極めて強いものとなる。そのくらいは、当然考慮のうちに違いない。
しかしリョマノフは、将来の伴侶を元気付けたいという気持ちも大きかったようだ。婚約者に向けた彼の瞳には、とても優しい光が宿っていた。
「私も行ってみたいですわ。エレビスにキルーイヴ、どちらの下町でも構いませんが……」
ヴァサーナは陶然とした表情で街への外出を語る。すでに彼女の心は、リョマノフとの散策に飛んでいるようだ。
「ラジュダ殿のお許しが出れば、幾らでも」
「私達を伴ってくださるのであれば……」
女官長のラジュダは反対しなかった。
せっかく王子と王女、それに国同士も上手くいっているのだ。ここで水を差すことはないと思ったのかもしれない。
「まあ、ガヴリドル陛下がお戻りになってからだね……ところでヴァサーナ殿、ラジュダ殿、テュラーク王国は、そんなに状態が悪いのかな?」
それまで親しみやすい笑みを浮かべていたリョマノフだが、突如厳しい顔となる。彼らもテュラーク王国が凶作で追い詰められたと知ったのだ。
「どうでしょうか? 確かに良くはないと思いますが、それを理由にしているようでもあります。後がないから戦え、と」
「そんな……でも、軍を揃えられるのだから、そういうことになるの?」
冷静なラジュダとは違い、ヴァサーナは蒼白な顔となっていた。どうやらヴァサーナは、テュラーク王国が軍に食料を強制的に集めている様子を想像したらしい。
「少なくとも何戦かするだけの糧食はある……それは確かだろうな。しかし、そうなるとテュラークの国王ザルトバーンや王太子のファルバーンは、よほどの戦好きってことに……」
リョマノフは、自分の思考の中に沈んでいったようだ。特に後半は誰に問うわけでもない様子であった。
ザルトバーンは四十代前半、ファルバーンは十八歳という若さだ。そのため二人が外征を望むだけの欲を持っていてもおかしくはない。
◆ ◆ ◆ ◆
「ファルバーンといえば、ミラシュカ殿はどうなさるのかな?」
リョマノフの問い掛けに、ヴァサーナはピクリと肩を震わせた。それに彼女は顔色も良くない。
ミラシュカはヴァサーナの異母姉だ。
ガヴリドルは第一王妃との間に第一子で王太子のヴァルコフと第三王女ヴァサーナを、第二王妃との間に第一王女ロザーミラと第二王女ミラシュカを得た。そしてロザーミラは既にアルバン王国に嫁いだから、手元に残った娘はミラシュカとヴァサーナだ。
つい先日までミラシュカは、テュラーク王国の王太子ファルバーンと婚約していた。しかしキルーシとテュラークが国交断絶となった今、当然ながら婚約も取り消された。
「それなのです。アルバン王国の王太子カルターン殿下にはロザーミラ様が嫁いでおりますし、他に適当な男性王族はおりません。そして西メーリャ王国はドワーフの国です。残る王族は……」
キルーシ王国に接していて婚姻関係を結べる国は、エレビア王国だけ。そのようにラジュダは考えているようだ。
ちなみにアゼルフ共和国も隣接しているが、エルフはドワーフ以上に他種族との婚姻の例がない。そのためラジュダは口に出すことすらしなかった。
ならば国内の名家は、というとこれも避けたいようだ。先日まで王太子の婚約者だったミラシュカだから、何とか王子にと考えるのだろう。
ヴァサーナ付きの女官長ラジュダが、他の王女の心配をしなくても良さそうなものだ。しかしリョマノフと気軽に話すことが出来るのはヴァサーナ達だけだから、二人が水面下の打診を受け持ったのだろう。
「確かに兄上の妻は、まだカルヴァ殿だけだ……」
浮かない表情のラジュダに、同じくらい顔を曇らせたリョマノフが応じる。
エレビアの王太子シターシュに妻は一人しかいない。したがって彼の第二妃は空いている。
そして姉妹を揃って妻に迎える例は稀だから、リョマノフは除外されたのだろう。それに姉のミラシュカがリョマノフに嫁いだら、ヴァサーナの立場が微妙なものとなる。
「……腹を割って話すが、父上はアマノ同盟との縁組を考えている。王族でも大貴族でも……例えばカルロス殿下の妹君、あるいはシルヴェリオ殿下の姪御殿。もう少し血が遠くても王家の親戚と言えるくらいなら、と思っているようだ。
とはいえ、アマノ同盟の王や王子となると……まず我が姉上をね……こちらは上級貴族って辺りで良いんだけど、それでも上手い相手を探しているくらいだ」
宣言した通り、リョマノフは飾らず語っていく。
ガルゴン王国のカルロスの妹は王女エディオラ、カンビーニ王国のシルヴェリオの姪は公女マリエッタだ。この二人がアスレア地方に嫁ぐ気があるかは別として、家格は申し分ない。
なおエウレア地方やアスレア地方は、王族や貴族の妻の人数を制限していない。そのためシターシュが更に二人妻を娶ることは可能だが、相手側も第三王妃となるのは喜ばないだろう。
エウレア地方の王家の男子に嫁ぐ場合も、対象者は少ない。成人で妻が一人という者がシノブとシルヴェリオ、未婚の成人はガルゴン王国の第二王子ティルデムだけだ。
とはいえシノブには二人も婚約者がいるし、実はシルヴェリオも内々の婚約者がいた。一方ティルデムは最近謹慎が解かれ、東域探検船団にも一船員として乗船していた。しかし経過観察中で王族であることは伏せられているから、不適当だろう。
ちなみにエレビア王家は、自国の王女オツヴァの嫁ぐ相手を伯爵以上で良いと考えているらしい。しかしオツヴァは自身より遥かに強い相手を望んでいるから、中々適当な者が見つからないのだろう。
「ヴァルコフ殿に姉上を娶ってもらって、代わりに兄上にミラシュカ殿を……。しかし幾らなんでも強固すぎるか……」
リョマノフの呟きには、誰も答えなかった。悪い案ではないだろうが、彼が言う通り結びつきが強くなりすぎるからだろう。
リョマノフとヴァサーナ、シターシュとミラシュカ、ヴァルコフとオツヴァの三組が婚姻。いっそのこと両王家を統合したらどうか、という声が聞こえてきそうである。エレビア王家とキルーシ王家の先祖は同じだから再統合というのもあり得るが、わざわざ玉座を減らしたい国王も少ないだろう。
それに他の国と縁を結ぶ機会を捨てるのも、可能なら避けたいに違いない。
「お父様達に御判断いただくしかありませんわね……ですがリョマノフ様?」
「うん?」
微笑むヴァサーナに、リョマノフは怪訝な表情の顔を向けた。どうやらリョマノフには、婚約者の意図が理解できなかったようだ。
「こちらの勝手なお願いをここまで真剣にお考えいただき、真にありがたく思いましたわ。私の夫となるお方は本当に頼りになると……とても嬉しいですわ」
ヴァサーナは、まだ少女らしさの残る顔を大きく綻ばせた。
お世辞も入っているのだろうが、かなりのところは彼女の本心のようだ。それを示すかのように、少女の金色の瞳は太陽のように強く煌めいている。
「俺のためさ。俺の家を平穏に保つには、キルーシ王家の女は一人が良い……そう思っただけだぜ?」
リョマノフは立ち上がり、ヴァサーナの側へと寄っていく。彼は言葉に似合った悪童のような笑みを浮かべている。
「それでも嬉しゅうございますわ。だって、私を選んでくださったということですもの」
同じく席を立ったヴァサーナは、婚約者と似た茶目っ気のある表情で応じる。どうやら二人は、こういう方面でも相性が良いらしい。
「ヴァサーナ……」
「リョマノフ様……」
寄り添う二人から、侍従や女官、それに護衛達は慎み深く顔を逸らした。そして随分と長い間、集った者達は明るい日輪が輝く空を見つめ続けていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年1月10日17時の更新となります。
異聞録の第三十一話を公開しました。シリーズ化しているので、目次のリンクからでも辿れます。