20.13 一人だけの戦争 後編
キルーシ王国とテュラーク王国の間に城壁を築く。しかも独力で。シノブはこの奇想天外な案を、事前にアマノ同盟の統治者達にも伝えた。
それは前日の夕方、アマノシュタットでのことだ。
「では、今回アマノ同盟として直接の支援はしないと?」
メリエンヌ王国の国王アルフォンス七世が、確認するような口調でシノブに問うた。そして『紅玉の間』に集った者達も、同様にシノブを注視する。
シノブはキルーシ王国に行く前に、アマノシュタットに残したタミィに思念で概要を伝えた。
当然タミィは宰相ベランジェへと急ぎ連絡し、更に同盟各国の統治者達にも知らされた。そのため各国の代表達は、同盟会議に備え体を空けていた。
そしてシノブは各国の首都の大神殿に転移できるから、帰還から大して経たずに『白陽宮』での密議は開始された。
集まったのは、まずアマノ同盟の代表が八人。十日前に誕生したウピンデ国の族長ババロコも、正式な加盟国の代表者として加わっている。
アマノ王国からはシノブの他に五人。宰相ベランジェ、内務卿シメオン、軍務卿マティアス、大神官補佐タミィ、そしてシャルロットだ。
シノブは身重のシャルロットには伏せておきたかった。しかしシャルロットは慌ただしさを増した宮殿から緊急事態と察し、出席を希望したのだ。
「はい。これはキルーシ王国の内紛、もしくはキルーシ王国とテュラーク王国の戦いです。アマノ同盟の兵士を戦地に送りたくありません」
シノブはアルフォンス七世に重々しい口調で答えていく。
ベーリンゲン帝国との戦いには隷属という禁忌を消し去るという大義があり、奴隷とされた人々を救出したいという積極的な理由もあった。メリエンヌ王国や支援した国々からすれば神々の教えに背く大罪で、シノブ個人としても隷属など嫌悪していたから自身や他者の参戦に疑問を抱くことはなかった。
アルマン王国での戦いは異神を倒すためであった。異神達が隷属や異形の創造に関わっていたことは明らかで、人々が立ち上がるのに充分な動機となった。誰しも隷属や異形への改変など望んでいないからだ。
つまり、この二つの戦いは信じる正義のため、仲間の救出のため、自衛のためと言える。それに同じエウレア地方でのことで、直接的な脅威であったのも間違いない。
しかしキルーシ王国の変事に、アマノ同盟の人々が命を懸ける理由はあるだろうか。
エウレア地方の東端からキルーシ王国の西端まで1000km近く、テュラーク王国との国境だと1700km以上はある。これがアルマン共和国やウピンデ国からだと、キルーシ王国まで3500kmを超える。
誰一人として知り合いのいない地の、自国や一族の命運と関係ない戦い。出世や褒賞を望む一部を別にしたら、望んで行く者は稀ではないか。
それ故シノブは、最初から出兵という考えを持っていなかった。
「確かに。邪神もいないし、禁忌に触れたわけでもない」
「自国や領地の危機でもありませんからな」
カンビーニ王国の国王レオン二十一世とガルゴン王国の国王フェデリーコ十世は、どちらも平静な表情でシノブに同意した。
ベーリンゲン帝国との戦いを支援した両国だけに、その発言には重みがある。
あのとき彼らが送った傭兵達は、未知の遠方に身を投じた。しかし傭兵達には行くだけの動機があり、送り出す者も世のため国のためと胸を張って旅立たせた。
しかし今回の戦いで命を張れとは言えない。おそらく二人は、そう考えているのだろう。
「アマノ同盟としては関わらない……ならばアマノ王国……いや、まさかシノブ殿……」
低く唸るように呟いたのは、ヴォーリ連合国の大族長エルッキであった。彼はシノブの表情を窺うように、濃い茶色の瞳で見つめる。
「ええ。あくまで私個人の関与で済ませます。ガザール家だけではなくテュラーク王国も動いていますし、急いだ方が良いでしょう」
「既にガザール家は手勢を都市に集めています。それにテュラーク王国も国境に軍を集結させました。彼らは……」
シノブが顔を向けると、タミィがマリィからの情報を語り出す。マリィはキルーイヴを離れ、東を偵察していたのだ。
ガザール家の嫡男ヴァジークが口にしたように、東の太守達は自身の都市の守りを固めていた。そこまでは予想の範囲だったが、国境の向こうではテュラーク軍が幾つかの集団に分かれて伏せているという。
テュラーク軍は街道から離れたところに潜んでおり、キルーシ王国に向かう隊商などは気が付かなかったようだ。テュラークの兵士は何れも騎馬だから移動は迅速、しかも個々に山道を抜け目的地で合流したらしい。
「……上空から急いで回っているので正確なところは判りませんが、合わせて数千は確実だそうです」
タミィは小さな手で持つ紙片に記されたことを読み終え、顔を上げる。七歳になるかならぬかといった少女の面は年齢に似合わぬ憂いに満ちていた。
「おそらく、アマノ同盟が現れたと知った直後から兵を集めていたのでしょう。東域探検船団のことをキルーシの王宮が知ったのは9月10日、ちょうど半月前です。集結は極めて最近でしょう」
シノブはテュラーク王国の地理を思い出す。
テュラーク王国は『南から来た男』とは関係ないようだから、シノブ達は調査対象としていなかった。しかしホリィやマリィ、それに情報局の者達はキルーイヴの図書館で周辺国の地理も多少は学んでいた。
それによればテュラーク王国の王都フェルガンはキルーイヴから1000kmほど、国境から450km程度だという。したがって仮にテュラーク軍が王都からの指令で動いたなら、何とか集結できるかといったところだ。
相手は騎馬兵のみで、歩兵はいないらしい。そのため急遽の集結が可能なのだろうが、その速度でガザール家の支援に向かったら、どうなるだろうか。
今は既に夕方だ。したがって、これから騎馬で越境してくるとは思えない。しかし仮に動いたらテュラーク軍は二日程度でガザール家の都市ガザーヴィンに到達するだろう。
つまりキルーシ王国軍は、ガザーヴィンでガザール家とテュラーク王国の双方と戦うことになるかもしれない。それを思ったシノブは、自然と厳しい表情となっていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「テュラークという者達の目的は、何なのだろう?」
「そうですね。交渉材料となるものは無いのでしょうか?」
問いを発したのは、ウピンデ国のババロコとデルフィナ共和国のエイレーネだ。
一方は馬のいないウピンデムガに住む者で、他方は森の種族エルフだ。どちらも騎馬に詳しくないためだろう、思考は戦より目的そのものに向かったらしい。
「これはキルーイヴで仕入れた情報で、あくまで推測ですが……暖かい西の地が欲しいようです」
「西が暖かい? ああ、大砂漠でしたね」
シノブの返答に、アルマン共和国の大統領ジェイラスは一瞬だけ怪訝な表情となった。しかし彼は、すぐにアスレア地方特有の事情を思い出したらしい。
アスレア地方の西端は大砂漠に接している。北端が北緯55度近いという謎の砂漠は、アスレア地方の西側に暖かな空気を送り込む。そのためエレビア王国やキルーシ王国は、エウレア地方で最南端のカンビーニ王国を上回るくらいに暑かった。
とはいえ大砂漠から遠ざかるにつれ、通常の気候に近づいていく。そのため東西に長いキルーシ王国だと、東のガザーヴィンなどは温暖で過ごしやすいという程度のようだ。そして更に東のテュラーク王国は、大まかに言えば西端が緯度相応、中央は逆に涼しいらしい。
「テュラーク王国も東西に長い国で、しかも東は少し緯度が低くなっています。そのため東端はエレビア王国やカンビーニ王国より南ですが、標高が高い上に暖気が山脈に遮られるとか」
シノブも最初は不思議に感じたが、テュラーク王国は東に行くほど標高が高くなり、東端は平野部でも標高1000mを随分超えるそうだ。そして南と隔てる山脈が涼しい高原地帯を作り出しているという。
ちなみにテュラーク王国は山脈の切れ目から南方のアルバン王国やタジース王国とも行き来できる。しかし両国とは不仲なようだ。
過去に南で暴れた騎馬民族の末裔が、北に逃げてテュラーク王国を作った。そんな言い伝えもあるが、流石に遠く離れたキルーシ王国だと真実は判らなかった。
「要するに、暖かな西の地……海のある土地が欲しいらしいのですよ。まるで、どこかの帝国を思い出しますね!」
ベランジェの言葉に、多くの者が苦笑を浮かべた。
例外はウピンデ国のババロコだ。彼はベーリンゲン帝国が滅びた後のエウレア地方しか知らないから、知識として知っていても共感するまでには至らなかったのだろう。
「しかし今回は隷属から解放するという大義も無く、邪神に操られているわけでもない。したがって軍を出さないというのは理解できます……ところで陛下、どのようにして?」
マティアスはシノブが数千の騎馬をどうやって食い止めるのかを問うた。もっとも彼は純粋な興味を感じただけで、不安や懸念などはないらしい。
ここにいる者でシャルロットを別にしたら、最も多くシノブの魔術を目撃したのはマティアスだろう。ガルック平原の戦に始まり、ベーリンゲン帝国への進攻、打倒した後の街道敷設など。それらで見聞した事柄が、シノブに対する全幅の信頼をマティアスに植えつけたようだ。
「国境に城壁を造る。北から南まで250kmほどらしいが、飛翔するから大して時間も掛からないだろう」
シノブは、自身の考えを披露していく。
キルーシ王国とテュラーク王国を巨大な城壁で遮り、ガザール家が期待している支援を断つ。そうすればガザール家を担ぐ者も離れるだろうし、懐柔も容易になるだろう。仮にキルーシ王国で内戦が起きるとしても、早期に終結するに違いない。シノブは、そう考えたのだ。
「王国軍の参考にならなくて残念だけど……それにキルーシ王国やテュラーク王国の人も驚くだろうな」
シノブは僅かに苦笑を浮かべていた。
どんな人々が両国にいるか、シノブは殆ど知らない。シノブが知っているのはキルーシ王国の僅かな人々だけだ。しかし、これで両国の者はシノブを知ることになる。おそらくは、人外の存在として。
たった一人が、何百kmもの城壁を一日と経たずに造る。そんなことは夢想した者すらいないだろう。シノブのことを知るエウレア地方の者なら別だが、アスレア地方の人々にとって想像の埒外の筈だ。
目にした人達は、どう思うだろうか。シノブはキルーイヴでの出来事を思い出す。
キルーシ国王ガヴリドルは、自分の前に平伏した。亡国の危機を救ったのは事実だが、同じ王と王ではありえない行為だ。
おそらくガヴリドルは、自分のことを常の人と思っていないのだ。この想像は、シノブの胸中に大きな寂しさを生じさせた。
エウレア地方の人々とは、共に歩んできた時間があり結んだ絆がある。
シャルロットは、自分を夫として接してくれる。ベランジェは、自分のことを当初と同じく気安く呼ぶ。
他の者達も同じだ。国王として、主として、あるいは統治者同士や盟主として。この場にいる者達は、それぞれの立場で親しみを示すし、外の人々も同じだ。
しかし何も知らない人々の前に、空前絶後の長城を独力で築いた男として登場したら。シノブは明るい将来を予想できなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ……確かに大きな力を持った者は、別格の存在として扱われるでしょう。ですが、それはここにいる全てが感じていることです。もちろん、貴方ほど強くではありませんが」
シャルロットはシノブの隣から柔らかな声音で語りかけた。そして彼女は、そっと夫の手を握る。
シノブは思わずシャルロットへと顔を向ける。すると、そこには普段と変わらぬ愛妻の微笑みがあった。
「シノブ様。単なる内務卿でしかない私ですら、多くの貴族や民から絶大な権力の持ち主として恐れられています。
私の一存で襲爵や昇爵、あるいは逆があるそうですよ。民からすれば監察官の元締めですからね……こちらも商会や工房に難癖を付けられたくない、国の仕事を得たい……色々あるでしょう。
私の選択で、彼らの一生は大きく左右されるのです。もちろん公正無私を心がけていますが、それでも私が生殺与奪の権を握っていると思うようで……中には私を人非人と恨んでいる者もいるでしょう」
シメオンも、シノブの内心を察したようだ。彼は強力な権限を持つ内務卿に寄せられる感情に触れた。
確かに統治者や彼らを支える重臣は、多くの人の運命を変えている。そして相手からすれば、天地の災害と同様に抗えない絶対的な力なのだろう。
「私など何人を殺したか判らんよ。それでも処刑の署名の度に本当に間違っていないのかと手が止まる……」
「さよう。戦場ならともかく、捕らえられ抵抗できない者に極刑を命ずるのは……神に代わって世に平穏をと思うから、何とか耐えているだけ。その意味では、我らも人ではない」
フェデリーコ十世とレオン二十一世は、どちらも遠い目をしていた。双方とも五十歳を超えており、統治期間も当然長い。その間には、様々なことがあったのだろう。
捕らえた者に、時には家臣や知人に自分が死を与える。それは王家に生まれ王となるべく育てられた二人にとっても、途轍もない苦難であったようだ。
おそらく王達は神の代行者としての責務を果たさんと、非情の剣を振るったのだろう。彼らやシノブが即位のときに誓った民を守る剣とは、慈愛の剣だけではない。それは間違いない事実だった。
「私もね、綺麗な手じゃないよ。統治で、そして戦場で……シノブ君、ガルック平原を覚えているかい?
あのとき私は、反乱軍の兵士を斬り捨て戦場を駆けたよ。彼らもメリエンヌ王国の民、我らが守るべき若者達だというのにね。
だけど私はアシャール公爵で、王国軍の総大将だった……後ろにテオドールはいたがね。ともかく倒れるわけにはいかないのさ。アシャール公爵として、そして今はルクレール侯爵として……人でありたいとは思うが、時には人であることを捨ててきたねぇ……」
ベランジェは皮肉げな口調であった。言葉通りに彼は、自身が人として在るより多くが人として暮らせる道を選んだのだろう。
しかし神ならぬ身だ。おそらくベランジェは、自身の過去の幾つかを今でも後悔しているのだろう。そう思わせる悩ましさが、彼の表情には滲んでいた。
「シノブ殿、神の代行者として生きるのは辛く厳しい道です。人に恐れられ、あるいは愛想笑いで迎えられ、好きでもないのに擦り寄られ……ですが、判ってくれる者はいます。
アスレア地方でも、リョマノフ王子がシノブ殿を慕っていると……彼は単に神の使いとして崇めたわけではなさそうです。エレビア王家も、きっとリョマノフ王子に続くでしょう。そして彼と縁の出来たキルーシ王家も。そこから両国にシノブ殿の真の姿が伝わっていくかと」
アルフォンス七世は、神の代行者という言葉を国王の比喩として用いたのだろうか。彼が続いて語ったことからすると、アムテリアの血族たるシノブへの呼びかけなのかもしれない。
リョマノフとの絆、そして彼から広がっていくだろう繋がり。それはシノブの胸に大きな希望を宿してくれた。
国同士の長い対立を乗り越え、リョマノフはヴァサーナと手を取り合った。寄り添う二人を思い出したシノブは、自然と笑みを浮かべていた。
「そうですね。アスレア地方では、喜ばしいことも沢山ありました。それは、もっと増やせる筈です」
実は、とある思いをシノブは抱き始めていた。東域探検船団は時期尚早だったのでは、という疑念だ。
結果的に謎の海神を探すことになり、その意味では必要となった。しかし異神の探索のみであれば、自身やホリィ達だけで密かに追うことも出来ただろう。
大船団を送り出したから、大きな波紋が広がりテュラーク王国を刺激した。個人か小集団で探索をしていれば、ガザール家の暴発は無かった。それがシノブの頭にあったのだ。
「ええ、私もアゼルフ共和国のエルフと会いたいです。ソティオスからの文だけでは満足できませんから」
「儂もメーリャという国々のドワーフ達と会う日が待ち遠しい」
エイレーネが珍しく冗談めいたことを口にすると、エルッキが続く。
アスレア地方の北には西メーリャ王国と東メーリャ王国というドワーフの国がある。そこに行くには、今のところキルーシ王国を北上するしかない。そのためエルッキは、キルーシ王国の騒乱を非常に残念に思っているようだ。
「私達にはアスレア地方への航路が必要です。我が国が再起するには、東への航海しかありませんから」
アルマン共和国のジェイラスは自国のためと言いつつも、シノブに優しげな目を向けていた。おそらく彼は、東域航海に喜びを感じている人の存在をシノブに伝えたいのだろう。
「ありがとうございます……」
シノブは、多くの支えがあることに感謝した。そして自身が思い上がっていたのでは、と考える。
確かに自分に並ぶだけの魔力を持つ人間はいないだろう。竜や光翔虎のような超越種、それにアミィを始めとする眷属ですら、同様だ。
しかし、それが何だというのだろう。ここにいる者達は自分より遥かに多くの経験を積み、心を鍛えてきた。それらが本当の強さではないだろうか。
揺らがず人々を信じ愛する心、それが真の強さだ。ならば自分の強さなど、如何ほどのものか。シノブは、そう思わざるを得なかった。
「シノブ……貴方を支えてくれる人々も、貴方の強さです」
シャルロットの短い言葉は、シノブの心に深く染み入った。
まるで母なる女神アムテリアのような言葉と微笑み。それは産み月も近づいた母故の強さと心境か。シノブは自身の体験することのない事象に、畏れに似た感情を覚える。
「その言葉、忘れないよ」
シノブは強さと愛を宿した妻の笑みに見惚れてしまう。そしてキルーシ王国にいる多くの女性や子供を戦禍に巻き込まないためにも、力を尽くすと決心した。
◆ ◆ ◆ ◆
支えてくれる人達や守りたい人達を思い描きつつ、シノブは飛び続ける。とはいえシノブは透明化の魔道具を使っているから、第三者が見て取れるのは飛翔に合わせて生じていく巨大な壁のみだろう。
キルーシ王国とテュラーク王国の国境を、シノブは北の山脈から南の山脈に向けて飛んだ。そして未明に北を発ったシノブは、日の出のころには250km向こうの南端へと到達した。
街道作成で慣れたから、城壁は極めて精密な出来だ。高さ20m、幅10mの壁が延々と南北を仕切っている。
しかも単なる壁ではない。キルーシ王国側である西には階段もあるし、川があれば水が通るように下は空けている。それに一定間隔で排水溝として人が通れないくらい小さな穴も空けている。
川に架けた場所も、壁は水面から僅かに下に達しているから、騎馬で通過することは不可能だ。もし水を塞き止めれば壁の下を潜れるが、防御の兵が配置されたら充分に防げるだろう。
もっとも、ここはガザール家の支配領域だ。したがって、このままではキルーシ王国の国境防衛軍は孤立してしまう。
シノブが造った城壁から西、国境から少し離れたところには国境防衛軍が詰める砦が複数存在した。その中で最大のオームィル砦には国王配下の将軍がおり、南北の小砦も彼の配下が常駐している。しかし人員は、全ての砦を合わせても二千名程度だ。
キルーシ王国の国境防衛は、砦でテュラーク王国の動きを察知したら、背後の太守達の軍を呼ぶ前提だ。これはガザール家が勢力下に多くの国王直属軍を置くのを嫌ったからで、彼らが砦の命運を握る形となっていた。おそらく、それも勢力維持のためなのだろう。
シノブはオームィル砦の将軍と会い、国王ガヴリドルからの命令書を渡した。したがって彼らは城壁を使ってテュラーク軍を防いでくれるが、背後から襲撃されたり補給を断たれたりしたら一週間と持たない筈だ。
「さて、最後の仕上げをしておくか……相手も集まってきたようだし」
シノブは南北の山脈からほぼ中間、東西に街道が走る地点に戻ってきた。
ここだけは街道を通すため、壁に大きな穴が空いている。先々は城門を取り付けるだろうが、今は単なるトンネルだ。
キルーシ王国の商人には、テュラーク王国に隊商を出している者達もいる。そのため彼らの帰還を妨げないように、シノブは城門にする場所を用意したのだ。
テュラーク軍も街道だけは通れると気が付いたようだ。彼らは伏せていた兵を街道に移動させており、南北の丘陵や林の影から数え切れないほどの騎馬がやってくる。
国境には幅が数十kmにもなる緩衝地帯があり、キルーシ王国の砦からだと東の奥まで見通すのは難しい。全てが平らならともかく、丘陵もあれば窪地もある。そして街道から多少離れた場所に兵を隠しておけば、隊商などに見つかることもない。
そのためテュラーク軍は何千もの人馬を密かに国境に集めることに成功したようだ。
猛烈な土埃と共に巨大馬達が駆けてくる。狼煙か何かを使ったらしく、テュラーク軍は僅かなうちに集合していた。シノブの見るところ、ほぼ全てが街道に寄ってきたらしい。
テュラーク軍は、守り手が現れる前に突破しようと考えているのだろう。しかし、彼らは知らないがシノブがいる。
「……出でよ、土竜!」
街道に降り立ったシノブは透明化を解除して姿を現し、声を張り上げる。
すると街道の両脇に二頭の竜の像が出現した。岩製で高さは大人の背丈の十倍ほど、背後の城壁に匹敵する巨像だ。
『ガアアァァオオォォ!!』
二頭の竜は同時に叫び声を発する。
これはシノブが魔力障壁の振動で作った音で、オルムル達の発声と同じである。シノブは日常的に使っていないから流暢な会話をするほど上達していないが、このような咆哮なら充分作り出せる。
「う、うわっ!」
「馬が!」
乗り手達は何とか自身の乗馬を制御しようと試みるが、馬群は大きく乱れ左右に散っていた。
シノブの造った巨竜は僅かに首や尻尾を振る程度で、歩きはしない。とはいえ巨体が生き物のように動くのだ。殆どの馬達は恐慌に近い状態で、城壁に近づくどころではない。
そんな中、シノブは静かに歩み竜の像の前に出る。
「貴様、何者だ!?」
正面から一頭の馬が前に進んでくる。巨大馬揃いのテュラーク軍でも一際大きな漆黒の馬で、それに相応しい巨体の武人が乗っている。
武人も高位の者らしく、革の装束は他と違って金糸銀糸で飾られていた。それに兜や胸甲などには鉄らしき金属も使われているようで、朝日で鈍く輝いている。
顔しか出ていないから判りづらいが、おそらく歳は二十代後半から三十代前半、黒い眉や髭が恐ろしげな男性である。そして兜の上に獣耳を収納する膨らみがあるから、獣人族らしい。
彼は既に巨大な刀を抜き放っている。それは巨馬の上からでも地面に充分届く代物で、刀身だけでも人の身長を超えていそうな大業物であった。
「俺の名は、シノブ! ここから先は俺の土地だ!」
シノブは緩やかに馬を進める武人に叫び返した。
城壁から先10kmはキルーシ王国から譲り受け、正式にシノブの土地となった。今後はシノブがキルーシ王国に貸し、キルーシの国境防衛軍が維持管理をする。したがってシノブの言葉は嘘ではない。
「何だと!? シノブ……アマノ同盟がキルーシを手に入れたのか!?」
武人は馬を留め、シノブを睨みつける。キルーシ王国がアマノ同盟の傘下に入ったと、彼は受け取ったらしい。
「ここから先に進むなら、俺が相手になる。キルーシの者達の入国は許すが……人質に取ったりするなよ? 民に非道を働くなら、あのヴァジークとかいう将軍のように成敗してくれる!」
シノブは言質を取られるようなことは言わず、代わりにテュラーク王国にいるだろうキルーシ人に触れた。
目的は大きく分けて二つだ。テュラーク軍を警戒させ足止めすること。そしてキルーシ王国の隊商や旅人に危害を加えないように釘を刺すことだ。
テュラーク軍の協力がなければ、キルーシ王家はガザール家を容易に封じる。数はキルーシ王国軍が勝るから、都市の包囲くらいは出来る。
そして国境は城門を中心に防衛しながら増援を待つ。これだけ強固な防壁があれば、そして反逆者達の妨害がなければ、少数で凌げる。シノブは、そう判断していた。
「お前を討ち取れば良いだけだ! 俺の名はバラーム! ベフジャン支族の黒狼、この軍の総大将だ!」
バラームと名乗った武人は、馬上からシノブを斬り捨てるつもりのようだ。右手に持った長大な太刀を大きく振りかぶっている。
「ちょうど良い……」
シノブも背負った光の大剣を抜いた。
このバラームという男を倒したら、敵も瓦解するかもしれない。ならば力の差を見せ付けるべき。歯向かう気にならないくらいの。震え上がり一目散に逃げるくらいの。
そこでシノブは己の魔力を解き放つ。異神達と戦ったときに匹敵する強大な力を、シノブは単なる奔流として周囲に送り出す。
「じ、地震か!? それにアイツ、光っているぞ!」
「嵐が!? だ、駄目だ! 戦えねえ!」
シノブが金色の光と共に発した魔力は、物理的な振動や空気の流れを生み出していた。
大地は悲鳴を上げ、轟音と共に揺れる。風は四方に吹き荒れ、草を薙ぎ倒し撒き散らす。そして風の衝突で、巨竜の像は元となった偉大なる種族のような咆哮を放つ。
もちろん人馬も平気ではいられない。かなりの馬が棹立ちになっているが、それは狂奔したからか風で飛ばされそうになったからか。
中には早くも背を向けて逃げ出す者達もいた。彼らは風に押されたわけでもあるまいが、物凄い勢いで東へと去っていく。
「ば、化け物!」
「ああ、そう思うよ……だが、こんな力でも役に立つし、受け入れてくれる人はいる!」
恐怖の表情を浮かべるバラームに、シノブは叫び返す。
これで多くの命が救えるなら。シノブは昨夕の会話を思い浮かべつつ、光の大剣を構える。そしてシノブの決意故だろう、天地の鳴動は一層激しくなる。
「て、撤退だ! 地震や嵐には勝てん! 王都に知らせるのだ!」
何とバラームは、シノブに背を向けて逃げ出した。確かに絶対に勝てない相手に立ち向かうのは、愚かしいことではある。
「う、うわぁ~!」
「ひぃぃ~!」
そしてバラームに押されるがごとく、テュラーク軍全体が壊走する。
まるでシノブから少しでも早く遠ざかろうというように。歴戦だろう戦士達が恥も外聞も無く悲鳴を上げて。人だけではなく馬も恐怖を感じたのか、体力の配分など考えてもいないような激走で彼らは逃亡する。
「う~ん……これはこれで良かったのかな? あの様子なら、当分帰ってこないだろうし……」
苦笑と共に、シノブは剣を収めた。一殺多生を決意したシノブだが、命を奪わずに済めば、その方が良いに決まっている。
「さて、アミィやマリィと合流するか……あ、その前に砦の将軍に知らせないと」
再び姿を消したシノブは、宙に舞い上がる。そして穏やかな笑みを浮かべ西に飛翔する彼を、後押しするように朝日が照らしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2017年1月2日17時の更新となります。