20.08 王子と王女 前編
大演習場に赴いた翌朝。シノブは普段と同じくシャルロット達と共に、閣議の間へと入った。
平穏な日々が続いており、朝議も和やかに進んでいく。
第二期街道が完成し、暫く大きな工事も行われない。アマノ王国は寒冷な地が多いからである。
農業も同様だ。積雪の多い時期に大きな改革をするのは難しいだろう。まずは秋の収穫を済ませ、それから冬に備える。地域にもよるが山間部だと十月に入れば降雪に見舞われるからだ。
「妹からも注意されましたが、冬に新たなことをしない方が良いでしょう。イーゼンデックなど東南部の三伯爵領だと、まだやりようはありますが」
農務卿代行ベルナルドは、随分と残念そうであった。
ベルナルドが今まで住んでいた場所はメリエンヌ王国だと比較的低緯度で、王都メリエよりも更に南であった。そのため彼は、積雪に閉ざされるような経験をしたことはないという。
しかしベルナルドは妹のアルメル、ミュリエルの祖母から北方の冬について聞いたようだ。アルメルはメリエンヌ王国でも北に位置するフライユ伯爵領で長く過ごしたから、相談相手には適任である。
「自然には勝てません」
実感の篭もった声で応じたのは、シャルロットであった。
シャルロットはメリエンヌ王国の最北端の一つヴァルゲン砦で三年近くを過ごした。そしてヴァルゲン砦も標高1000m近い高地である。そのため彼女は農業の経験は無くとも豪雪は経験したし、周囲の農村から色々聞いてもいた。
「仰せの通りです。しかし、こう涼しくなると暖かな南方が羨ましくなりますね」
「そうですね。せっかく造っている競技場も何もしないで使えるのは来月まで、後は除雪を頑張るか雪解けを待つかですし。昨年末のガルック平原を思い出しますよ……」
ベルナルドに同情めいた顔を向けたのは、宰相のベランジェであった。
ベランジェの故地、都市アシャールもメリエンヌ王国だと中部で更に標高が低い恵まれた土地だ。そのため彼も豪雪で身動きが取れなくなったことはないだろう。
「冬になったら主要任務は雪掻きですな」
苦笑いをしたのはメリエンヌ王国の王領出身者、軍務卿マティアスだ。
メリエンヌ王国でのマティアスは王家警護の騎士隊隊長で、当然ながら勤務地は王都メリエである。そのため常に除雪が必要な場所など、彼もガルック平原が初めてだったに違いない。
「この辺りではソリも使うのでしたね?」
ミュリエルは年齢相応の期待を顔に滲ませていた。
ちなみにミュリエルの故郷ベルレアン伯爵領の領都セリュジエールの方が、ここ王都アマノシュタットより僅かに緯度が高い。しかしメリエンヌ王国は暖かな海流の影響で全体的に気温が高いから、多くの場では冬でも馬車が行き来していた。
もちろん例外はあり、ヴァルゲン砦の近辺ではソリを持っている者も多いという。それにメリエンヌ学園があるフライユ伯爵領のアマテール地方も同様だ。
「ええ。どこの村でもソリはあるそうですよ」
同じくベルレアン伯爵領出身のシメオンだが、彼は年長な分だけ落ち着いていた。もっともシメオンが子供のように瞳を輝かせソリについて語り始めたら、それこそ明日は雪が降るだろう。
それはともかく、こちらは積雪の多い地だけあり昔からソリが使われていた。
ただし、街道は軍が使うから冬場でも馬車が通行できるようにしたそうだ。帝国時代は冬になると村々から多くの奴隷を集め、除雪作業に充てていた。
ちなみにメリエンヌ王国では、除雪板を馬に牽かせるなどする。しかし帝国では奴隷を使って強引に作業を進めたのだ。
もっとも、それらの凄惨な過去にシメオンは触れなかった。過去の諸々についてはミュリエルも含め全員が学んでいるし、それをシメオンも知っているからだ。
「ソリは農村などで多いとか……向こうでも、そうでしたわね」
「はい。農道や林道はソリになるようです。……陛下、鉱山鉄道に用意している除雪車を転用できないでしょうか?」
シメオンの祖父シャルルはセレスティーヌに答えた後、シノブに顔を向けた。
鉱山鉄道は順調で、既に東部では必要不可欠な存在となっていた。東部では最新式の製錬所を集約したこともあり、そこまでの輸送を担う鉄道に問題が生じたら大混乱が起きるに違いない。
そのため除雪車の準備は早くから進められ、充分に実用的なものが完成していた。
まずは左右に掻き分ける排雪板を装備したもの。それから逆に雪を掻き寄せ、更に遠方へと吹き飛ばす機構を装備した大掛かりな車両。したがって充分に除雪できるだろうが、後者は非常に高価でもあった。
しかし、それを良く知っている筈の財務卿代行のシャルルが街道にと言うのだから、シノブは怪訝に思ってしまう。
「同じようなものを蒸気自動車で実現できますが、街道が対象ですと膨大な数が必要でしょうね」
「シノブ。シャルル殿は若いころ軍で雪掻きを経験されたそうです。確か、お爺様が命じたとか」
首を傾げながら答えたシノブに、シャルロットが苦笑を浮かべながら種明かしをする。
シャルロットやミュリエルの祖父、つまり先代ベルレアン伯爵アンリはシャルルの兄だ。そして若いころのアンリはシャルロットと同じくヴァルゲン砦の司令官を務めた。そこに成人したばかりのシャルルが訪れたとき、アンリは訓練の一環として雪掻きを命じたそうだ。
「兄は強力な身体強化が出来ますが、私は違います。お陰で翌日は起き上がれなかったのですよ。同じことをした兄は平気な顔のままでしたが……」
「雪や氷にも良いところがありますよ。雪の斜面でジャンプしたり氷の上を踊るように滑ったりという競技もありまして……」
シノブは冬季競技に触れる。ちなみにエウレア地方にもスキーやスケートは実用品として存在した。ただし、スキージャンプやフィギュアスケートに相当するものはない。
「シノブ君、それは良いね! これで冬場の楽しみが増えたよ!」
「面白そうですね。それに、ここには向いていますし」
ベランジェは手を叩いて大喜びをする。それにシャルロット達も、強い興味を示した。
「なるほど……しかし私は歳のせいか、暖かい地が好きですよ。もっとも、大砂漠のように暖かすぎても困るようですが」
しかしシャルルはさほど惹かれなかったようで、遥か東の地を挙げた。
ここアマノ王国と同緯度にも関わらず、南のアフレア大陸と同じ灼熱の大地。オスター大山脈を挟んで東の不毛の地。先日ミュレ子爵マルタンが指揮する飛行船を送ったこともあり、シャルルを含むアマノ王国の重鎮達も大砂漠には大いに注目をしているのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「南海岸から100km以内までは、調べ終わったそうです。もっとも炎竜が調べたのは空と地上、岩竜も比較的浅いところまでですが……。ただ、今日からは玄王亀の長老夫妻も加わってくれます」
シノブの説明を聞き、シャルル達の顔が大きく綻んだ。
玄王亀の長老アケロと番のローネも、他と同じく小さくなる腕輪や神々の御紋を授かっている。そのため移動は非常に楽であった。
まず二頭は自身の棲家の近くに設けられた転移の神像から、最も大砂漠に近いイーゼンデック伯爵領の領都ファレシュタットの神殿へと転移した。そして迎えに来た炎竜ゴルンに乗り、二頭は大砂漠へと赴いたのだ。
アケロとローネは、竜達と同様に南岸から調べるそうだ。海はアスレア地方に向かう船の航路だし、海岸には補給地もある。そのため謎の存在の調査と合わせ、海岸地帯に危険がないか確認をしようというわけだ。
そのため大砂漠の中心部や北部まで調べ終わるには長い時間が掛かるだろう。しかし、シノブ達としても航路や補給地の安全を優先させたいから、このような順序となっていた。
「何かがいるとすれば、初代皇帝や邪神が避けた存在ですから。避けた理由が判れば、謎の海神との戦いも有利になるかもしれません。皆さんには苦労をお掛けしますが……」
アミィの頭上では狐耳が伏せ気味になっていた。
竜や玄王亀、それに飛行船の乗組員達。大勢が調査に当たっている現状を、アミィは心苦しく感じているようだ。
「重要なことです。強大な相手に無策で当たるわけにはいきません」
シメオンは冷静な表情でアミィに応じ、続いてシノブへと顔を向ける。彼はシノブが焦りを感じていないか確かめようとしたらしい。
「ああ。謎の海神が攻めてきたわけじゃない。だったら、先に打てる手を充分に打つべきだ」
シノブは謎の海神がいるらしきアスレア海へと思いを馳せる。
最も近い場所、アルバン王国にいるホリィ達も異変など察知していない。元々アルバン王国の漁師は近海にしか出ないという事情もあるが、今のところ平穏無事なようだ。そうであれば、一つでも多くの手掛かりを掴んでからアスレア海に乗り出すべきだろう。
何も考えずに飛び込み、謎の海神の目覚めへと繋がったら。あるいは謎の海神に利することになったら。それらを考えると、シノブも不用意に手を出す気にはなれなかった。
「多少海が荒れているようだけど、たぶん台風だね」
エウレア地方には台風という言葉自体は存在した。そのためシノブは西欧に該当する地域には似合わないと思いつつも口に出す。
エウレア地方と南のアフレア大陸の間、メディテラ海は非常に広大だ。
メディテラ海は地球なら地中海に相当する海だが、エウレア地方の南端カンビーニ半島の先からアフレア大陸まで2000km近い。そしてシノブ達も訪れたウピンデムガの北端は、北緯18度ほどである。
したがって熱帯低気圧が発生することもあるのだが、この惑星の言語をアムテリアは日本語で統一したからサイクロンやハリケーンとは呼ばれなかった。
ただし、アマノ王国に台風が上陸することは殆どない。アマノ王国の南方にはズード山脈という4000m級の高山が聳えているし、最も南でも北緯42度を超えている。そのため海岸線を持つイーゼンデックでも上陸は極めて稀だという。
メリエンヌ王国も緯度は同じだが、こちらは山脈で遮られた場所は一部でしかないから、多少は上陸する。しかし高緯度だから内陸まで侵入する例は少ないようだ。
そのため台風と呼べるだけのものを経験しているのは、ここだとシノブくらいであった。
それに対し、アルバン王国の南は北緯35度を幾らか切るらしい。つまり日本なら房総半島の南端よりも南となる。
ちなみにアルバン王国の辺りでも、アフレア大陸まで少なくとも1000kmはあるようだ。したがって台風が発生することもあるし、上陸も珍しくはないのだろう。
「南にも南の苦労があるのですな……ヤマト王国も同様なので?」
「あちらも同じですね」
問うたベルナルドにシノブは頷き返し、ヤマト王国のことを想起する。
ヤマト王国にも台風は来るし、頻度は日本と変わらないようだ。健琉やシャンジーからの文には台風らしき大風についても記されているし、向こうで生まれた嵐竜ラーカも台風が存在すると言っていた。
「今日、タケルは台風で留められたようです」
シノブは今朝の手紙を思い出す。もの凄い大風で旅を出来なかったと、タケルは伝えてきたのだ。
今タケル達がいるのは陸奥の国、日本だと東北地方に相当する場所だ。そして一度は陸奥の王がいるタイズミに着いたタケル達は再び旅に出ようとしたが、そこに台風が来たのだ。
タケルは王から他の部族にも会えと言われたらしい。どうやら、まずは各部族から同意を取り付けろということのようだ。
祖霊となったドワーフの英雄将弩は、静観しているようだ。彼は陸奥の王に自身のことを伝えなかったのだ。マサドは表に出ずに、タケル達が自身の力で解決するのを見守るつもりなのだろう。
マサドは宿った鋼人に鬘を被せ、顔も髭で覆ったそうだ。そして彼は、案内役に雇われたドワーフとしてタケル達に随伴しているという。どうやらマサドは、よほどの事態でなければ正体を明かさないつもりのようだ。
マサドは子孫の二人のドワーフにも、予め自分の心積もりを伝えていた。したがって彼らが陸奥の王に話すこともない。
「アシャールは内陸だったから、風に悩まされることはなかったねぇ」
「ベルレアンも同じですよ。せいぜい山脈近くで強い風が吹くくらいでして」
天井を見上げたベランジェに、最年長のシャルルが続く。
ベルレアン伯爵領は都市アシャールより更に北で、海から遠い。領都セリュジエールの辺りだと、南のシュドメル海にしろ西のルシオン海にしろ、500kmは離れている。そのため天候は安定しているのだろう。
「オスター大山脈の東側も、風が強いそうですね」
「ホリィ様達から、そう伺っております。ですから飛行船は、あまり山脈に寄らない方が良いと」
侍従長のジェルヴェの問いに、マティアスが残念そうな顔で頷いた。
オスター大山脈とは、エウレア地方と大砂漠を隔てる高山帯だ。この西側はアマノ王国だからシノブ達も熟知しているが、東側については実際に見た者は極めて少ない。今のところ、東域調査の初期にホリィ達が訪れたくらいである。
オスター大山脈の東は険しい断崖に僅かな遊牧民がいる程度だ。
仮に普通の手段で旅するとしたら、大砂漠の端から延々と歩いていくことになる。飛行船を使うとしても強風を乗り越えてで、更に着陸できるだけの大きな土地が必要だ。しかもオスター大山脈は8000m級の高山が連なっているから、現在の飛行船では飛び越えるのは厳しかった。
そのためアマノ王国から近いにも関わらず、オスター大山脈の東は後回しにされていた。
「こうなると、アゼルフ共和国とキルーシ王国の情報に期待ですかな?」
「キルーシの使者は、どうなったのでしょう?」
ベルナルドとシャルルは、シノブへと顔を向けた。
アゼルフ共和国は、まだミリィやソティオス達が入国したばかりだ。こちらは族長のいる集落に辿り着くまでの数日間、動きはないだろう。
しかし、もう一方のキルーシ王国からの使者がエレビア王国に着いたのは一昨日の夕方だ。そして昨日、予定通り第一回目の会談が行われた。
そこで二人は、キルーシ王国について何かの進展がと期待したのだろう。
「進展というほどではないのですが……」
シノブは苦笑しつつ、一同に語り始める。
キルーシからの正使ヴァサーナ王女からの情報には、シノブも少しばかり期待していた。
彼女の母はアルバン王国の姫である。そしてアルバン王国は、謎の海神が潜む地に最も近い。またキルーシ王家には、そのアルバン王国の伝説的大商人ルバーシュと縁があるらしい。
そのためシノブは、エレビア王国の第二王子リョマノフに探れるなら探ってくれと頼んだのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
ヴァサーナ達は一昨日の夕方、エレビア王国の王都エレビスに入った。到着は夜も近くなったころであり、その日は歓迎の晩餐が開かれたのみで詳しい話はしなかったという。
何しろキルーシの正使は王女ヴァサーナ、副使は外務大臣のテサシュである。そして使節団は六日も船旅に費やしてやってきた。したがって、一日や二日で帰るわけではない。
そして今まで大使も交換していなかった両国だ。何らかの協定を結ぶにしても、最低でも一週間や十日は必要だろう。
それに双方とも相手の人物や状況を把握したいに違いない。そのため到着した日の晩餐は当たり障りのない会話だけとなっていた。
しかし二日目、つまり昨日からは本格的に動き出した。
キルーシ王国からは先乗りした使者がおり、その者が大よその段取りをしていた。そのため両国は、朝食を済ませると第一回目の会合の場へと移動する。
「我らが王も、このような状況が続くのは望ましくないと仰せになりまして。貴国が誕生して来年で百五十年、そろそろ融和をという意見が出てきたのです」
キルーシ王国の外務大臣テサシュは、もっともらしい表情と口調で切り出した。
会合の場にいる者達は、何れも作った笑みを崩さない。しかし彼らの多くは、吹き出すのを堪えていたのではないだろうか。
キルーシ王国が急遽使節団を送り込んできたのは、エレビア王国に大事件が発生したからだ。
まず、西から想像を絶する技術を持った集団、アマノ同盟が大船団を送り込んできた。そしてアマノ同盟には竜が味方しており、両者はエレビア王国の災難を払ったという。
今までキルーシ王国は、自国の十分の一以下の国土しか持たないエレビア王国を『エレビア小国』などと呼び下に見ていた。それにエレビア王家は、キルーシ王家が追い払った一族だ。双方とも先祖は過去に存在したヴァルーシ王国の王族だが、キルーシ王国が誕生したときにエレビア一族は故地を追われたのだ。
そのため今までキルーシ王家は、勝者である自分達が頭を下げる必要は無いとしてきた。それに彼らは、大きな差があるのだから国交を望むならキルーシが上と認めろと主張した。
それが対等な関係で融和を、と突然言い出した。しかも理由はエレビア王国の建国百五十年だ。
確かにエレビア王国が誕生したのは創世暦852年で、来年で建国百五十年だというのは正しい。しかし今まで属国になれと主張した相手が、いきなり建国百五十年を祝してと言ったのだ。
これを笑わずして何を笑えば良いのか。おそらくエレビア王国の者達は、そう思ったに違いない。現にテサシュの向かい側にいる者達、エレビア王国の国王ズビネク、王太子シターシュ、第二王子リョマノフの表情は微かに動いていた。
「私達も良い関係を築きたいと思っている」
内心はともかく、ズビネクは素知らぬ顔で頷き返した。
獅子の獣人であるズビネクは、種族の特徴である柔らかに広がった髪の持ち主だ。そのため首肯と同時に金色の髪が大きく揺れる。
ちなみにエレビア王国やキルーシ王国は、他種族との婚姻は盛んである。そのためズビネクの長男シターシュは母の第一王妃リリージヤと同じ人族だ。そして次男のリョマノフは父と同じ獅子の獣人だが、彼の母である第二王妃サチュヴァや姉のオツヴァは虎の獣人だ。
同様にヴァサーナは豹の獣人だが、父と兄、それに一番上の姉は人族、二番目の姉は狼の獣人であった。また外務大臣テサシュも猫の獣人だが、やはり他種族の妻子を持っている。
「商人達は昔から行き来しているのです。上の者が手を取り合うのは不可能ではありませんわ」
国を出る前にはエレビア王国に行くなんて、とヴァサーナは荒れた。しかし彼女は、そのようなことを露ほども感じさせない淑やかさで相手国の王に微笑んでみせる。
更にヴァサーナは王太子のシターシュ、第二王子リョマノフと顔を動かし、そこで一層笑みを深くする。どうやら彼女は、父王の指示に従いリョマノフに好印象を植えつけるべく動いているようだ。
「王女殿下のお言葉の通りです。両国が力を合わせれば解決できない問題などないでしょう」
「ええ。航行や漁労の問題など、きっとすぐに片付くかと」
シターシュとリョマノフの返答、正確には後者にキルーシ王国の者達の表情は動く。
エレビア王国は大砂漠から南東に向けて突き出すエレビア半島を国土としている。そして半島の東側に広がるアマズーン湾を挟んだ向こうがキルーシ王国である。
このアマズーン湾のどこまでを自国とするか、それが昔から騒動の種となっていた。
現状では大国のキルーシ王国側が広く、つまりエレビア王国は押し込まれた形だ。おそらく両王子は、これを中間点まで戻せと言いたいのだろう。
ちなみに、この問題の海域はキルーシ王国からすれば僅かな面積でしかない。アマズーン湾は東西500km、南北200kmを越える大きな湾だが、両国が接する海域は大雑把に言えば150kmほどである。そこを10kmや20kmくらいキルーシ王国に近づけても、彼らの領海全体からしたら僅かなものだ。
とはいえ僅かだからといって譲れないのが普通だろう。エレビア王国も半島の逆側には争う国もなく船を出し放題だが、それでも敢えて持ち出すのだ。
「え、ええ……」
有利な立場となった今、取れるものは全部取るつもりか。そう思ったのだろう、ヴァサーナの顔が一瞬だけ引き攣る。
「仰せの通りでございます」
一方、外務大臣のテサシュは毛筋ほども表情を変えない。彼は成人直前のヴァサーナに比べたら、三倍以上は生きているだろう。それに外務の長だけあって、踏んだ場数や積み上げた経験が若い王女とは大きく違うようだ。
「領海問題は重要ですね。中途半端にしておくと、後々争いの種となるでしょう」
脇から言葉を投げかけた若者は、エレビア王国とキルーシ王国のどちらにも属していなかった。彼の所属はアマノ王国、名はナタリオ・ド・バルセロ。イーゼンデック伯爵にして東域探検船団の総司令官である。
会談の場には、ナタリオやソニア、それにマリィなどもいた。実はエレビア王国とキルーシ王国の双方の願いで、アマノ同盟が立ち会うことになったのだ。
エレビア王国にしたら、手間を省いたつもりだろう。
キルーシ王国は両国の融和をと言っているが、それは単なる名目でアマノ同盟と接触したいに違いない。ならば変に隠すより、会う場を作った方が国交に関する話し合いも上手くいく。逆に焦らして臍を曲げられても敵わない。おそらく、そんなところだと思われる。
キルーシ王国は、昨日の晩餐で第三者による仲立ちをしてくれないかと言い出した。
アマノ同盟がエレビア王国寄りなのは、最初から判っていることだ。何しろ空飛ぶ船と竜で駆けつけて亡国の危機から救ったのだ。したがって全くの中立になってくれるわけがない。
しかしキルーシ王国は、その不利を鑑みてもアマノ同盟に近づきたかったのだろう。
エレビア王国とアマノ同盟は良い関係を築き始めた。西から来たアマノ同盟にとって、エレビア王国は得難い良港だ。そしてエレビア王国からすれば、西の果てから脱却させ東西の要衝としてくれる相手だ。
どちらにとっても損はないし、日に日に関係が深まるに違いない。ならば一日でも早く自分達も、とキルーシ王国が思うのも当然だ。このまま座してエレビア王国を利するよりも、というわけである。
「おお、素晴らしいお言葉です!」
「流石、遠い海を越えていらっしゃる方々ですわ」
テサシュは大袈裟な表情、ヴァサーナも少女らしく愛らしい笑みで応じた。どちらもナタリオが自分達の不利に働く発言をしたとは思えない賞賛である。
「確かに遠くから来ましたが……しかし、皆様も陸路では遠方と交易をされているようです。その経験を活かしたら、きっと双方の満足がいく解決が出来るでしょう」
「そうですね。何でも、あの大砂漠に挑んだ商人もいらっしゃるとか。確か大商人ルバーシュという……ヴァサーナ殿下の母君と同じアルバン王国……当時の名でカーフス王国のご出身でしたね?」
ナタリオに続いたのは、リョマノフであった。彼はシノブの依頼を果たすべく、大商人ルバーシュの伝説について訊ねたのだ。
「まあ! 良くご存知で……確かに母はルバーシュと同じアルバン地方の生まれですわ。私が幼いころ母は『大商人ルバーシュの七つの冒険』を歌ってくれました。懐かしい思い出ですわ」
ヴァサーナは狙う相手と会話が出来たのが嬉しいのか、華やかな声を上げた。しかし彼女は、あまり押しすぎてもと思ったのか、最初の歓声はともかく後は控えめにすら感じる声音となる。
「大商人ルバーシュは、歌だとガザールを経由して砂漠に行ったとか。アルバン地方からでしたら当然そうなるわけですが……もっとも私なら、砂漠に行くよりアマズーン湾に漕ぎ出す方を選びますね」
リョマノフが言うガザールとは、キルーシ王国が誕生する前に同じ一帯に存在した王国の名だ。
ちなみに、そのころエレビア一族はガザール王国の太守だった。しかしエレビア一族はルバーシュと会わなかったのか、エレビア王家に関連する話は伝わっていないという。
「リョマノフ様は、海がお好きですのね。今回の船旅で、私も海が好きになりましたわ」
「それは嬉しいですね。私達を繋ぐのは海なのですから」
王女と王子。やはり、どちらも単なる若者ではないらしい。まるで本当に親しくなったのではと思うような無邪気な笑みを、双方共に浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「……というわけで、前哨戦は互角だったようです」
シノブが一息入れると、閣議の間に男性達の微かな嘆声が広がった。その様子を、先に聞いていたアミィやシャルロット達は微笑みながら見守っている。
これらの内容は、昨晩ソニアとマリィから通信筒で送られてきたものだ。そのためアミィとシャルロットは夜に、ミュリエルとセレスティーヌは先ほど朝食のときに聞いていた。
「昨日の段階で両国の交渉は纏まっていません。領海をどこで線引きするかは、そう簡単に決まることではないでしょう。エレビア王国側は中間点にと押すつもりのようですが、キルーシ王国側は現状や過去の実績、それに自国の漁師が多いことなどを挙げているそうです」
「まあ、どこかで折れるんじゃないかな? それより、ルバーシュとキルーシ王家の関係はどうだったのかね?」
シノブはエレビア王国とキルーシ王国の交渉にも触れたが、ベランジェの興味は惹かなかったようだ。もっとも彼だけではなく、他も両国の国境確定はどうでも良いらしい。彼らが先ほどのように声を上げることはなかった。
「それがですね……当家の歴史に興味があるなら別の場で、と言われてしまったそうで。どうも、それを口実にリョマノフと個別に会う場を設けたいようですが……」
確かに、国交について語る場で大昔の商人の話をする必要はないとシノブも思う。しかしリョマノフの食い付きが良かったから交渉材料に取っておくなど、何らかの思惑がありそうだ。
「シノブ君、流石にそれは放っておいたら可哀想だよ! ……で、当然何か手を打ったんだろうね?」
「ええ。こちらもアスレア地方の歴史には興味があるから聞きたい、と同席を願うつもりです。で、そこに私も姿を変えて加わってみようかと」
期待を滲ませるベランジェに、シノブは大きく頷き返した。
相手はアマノ同盟との関係作りを期待しているようだから、断ることはないだろう。そして話題は単なる昔話だから、それで何かが縛られるほど重いものでもない。
そして、どうせ話を聞くならキルーシ王国にあった地下遺跡を見た者が出向いた方が良い。遺跡を見た者でしか気付けないこと、質問できないことがあるかもしれないからだ。
「そうしたまえ! だけどシノブ君、一つだけ気を付けるんだね」
「何でしょう?」
ベランジェの思わせぶりな言葉に、シノブは首を傾げてしまう。ナタリオの補佐役辺りで紛れ込むつもりだから、アマノ同盟として注意すべきことはないとシノブは思っていたのだ。
「そのヴァサーナ君を惚れさせないようにってことだよ!」
ベランジェの言葉に、集った者は一人を除いて大きな笑い声を立てた。もちろん例外の一人とは、シノブである。
「重々気を付けます」
色々言いたいことはあるシノブだが、素直に注意すると答えた。世の中には、あり得ないと思っていても明確に宣言した方が良いこともあるからだ。
実際、良いことはあった。シノブの周囲に集う女性達の顔は、先刻よりも大きく綻んでいたのだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年12月23日17時の更新となります。
異聞録の第二十九話を公開しました。シリーズ化しているので、目次のリンクからでも辿れます。