19.16 誓い、再び
真新しい街道を、西から東へと一際目立つ馬車が進んでいる。ここはアマノ王国の東の端ゾルムスブルク伯爵領、街道は先日開通したばかりの新道だ。
空は雲一つ無い快晴だ。標高があり、しかも九月に入ったから風も涼しさを増したが、まだ気持ち良い時節である。そのためだろう、新街道には結構な数の馬車が行き交っている。
ゾルムスブルクは海の玄関イーゼンデック伯爵領の北だ。そしてイーゼンデックでは東域探検が始まり出来たばかりの造船所も大忙し、必然的に新街道も港町アマノスハーフェンに向けての荷が増える。
山から切り出した木材。鉱山近くの製錬所からの鉄や銅に鋼。それらは東のオスター大山脈から西に向かい、更に南への街道か川を使ってアマノスハーフェンへと運ばれる。
これらの輸送用の馬車は、頑丈だが素朴で飾りもない。牽き馬も、がっしりとしているが早駆けは苦手そうだ。もちろん馬車に屋根など付いていないし、御者台の後ろは満載された荷があるだけだ。
それに対し、西に向かう馬車の一行は随分と違う。
馬車は天蓋付きで大きな窓ガラスを左右に嵌めた、随分と高級な造りだ。牽いている馬達も負けず劣らずの名馬で、更に周囲には護衛までいる。
乗馬の護衛は前後に四騎ずつ、それぞれ長槍を携えている。しかも服装からするとアマノ王国の軍人、それも高位の者らしい。
御者達を合わせると十名の軍人は立派なマントを纏っている。最低でも隊長格なのは確実で、統率者である老武人など大隊長かもしれない。
「新しい役人さんか?」
「王都からの視察じゃないか? しかし女騎士が多いな」
近づいてくる一団を、西に向かう荷馬車の御者台から二人の男が眺めている。片方は人族、もう片方は熊の獣人だ。どちらも三十歳は超えているだろう。
荷馬車の乗り手達は、華やかな一行を見て驚いてはいるらしい。しかし彼らは高級馬車の一行を必要以上に恐れていないようだ。
アマノ王国では公職にある者を厳しく律している。特に権力を笠に無法を働くことを固く禁じ、国民にも問題行為は訴え出るようにと告げている。そして仮に高級馬車の乗り手が高官であっても、通行の邪魔をしなければ問題ない。
この辺りは道幅も広く、馬車が四台並んで通ることも可能だ。したがって荷馬車も片側を先刻同様に進んでいた。
「王都か……行ってみたいねぇ」
「俺は船に乗りたいなぁ。あの隊長さんは南方から来たんだろうな」
王都への憧れを口にした人族の男に、熊の獣人の男は一番立派な装いの老武人を見つつ答えた。
騎馬隊を率いる老武人は、猫の獣人であった。それに他の者も虎や獅子の獣人が多い。もちろん人族の騎士もいるのだが、半数以上は南方系の獣人族である。
「陛下のお側には南の獣人族も多いそうだ。お前は……もう三十過ぎだから無理か」
「まあな……でも子供達には挑戦させたい。陸軍と海軍、どちらも試験は受けさせてくれるからな」
人族の男に、熊の獣人の男は力強い声で応じた。そして声は風に乗ったのか、向かいから来る武人達の耳に届いたようだ。
「頑張って育てるのだぞ! 軍人に内政官、やる気があって優秀な者は大歓迎だ!」
隊長らしき老武人は槍を掲げながら男を激励した。何と彼は、シノブの親衛隊長であるエンリオ・イナーリオだ。
騎士達はシノブの親衛隊員だけではなく、シャルロットの護衛騎士マリエッタなどもいる。こちらもエンリオに続いて男に励ましの言葉を送っている。
「あ、ありがとうございます!」
「良かったな! ……軍人さん、お疲れ様です!」
喜ぶ熊の獣人の男の肩を、人族の男は励ますように叩いた。そして彼は、エンリオ達に笑顔で応え頭を下げる。
一方のエンリオ達も、目を細めつつ手を振り返していた。
帝国時代、獣人族は奴隷であった。しかし今、彼らは人族と仲良く働いている。それは同じ獣人族であるエンリオ達にとって、強い喜びを感じさせる光景であったに違いない。
◆ ◆ ◆ ◆
エンリオ達が警護する馬車に乗っているのは、当然シノブ達であった。
馬車の中にはシノブとシャルロット、ミュリエルやセレスティーヌにアミィ、それにシャルロットに古くから付き従った二人アリエルとミレーユも乗っている。
シャルロットは出産二ヶ月前、アリエルとミレーユも身篭ってから三ヶ月だから、長時間の乗車は避けるべきだ。しかし彼女達が乗っているのは、アムテリアが授けた魔法の馬車である。
魔法の馬車の内部は、どんな悪路であろうが全く揺れない。アミィによると、魔法の馬車の内部は周囲と独立した空間らしく、そのため外部の振動が伝わらないようだ。
それに隠し扉を抜けると車体の何倍も空間があり、リビングやキッチン、複数の寝室が用意されているから、奥で横になることすら可能だ。その上リビングにある神々を描いた絵画で、王都の神像に転移も出来る。
そのため魔法の馬車は移動中でも、小宮殿で過ごすのと変わらない快適さを提供してくれる。
「シャルロット、あれが船になるんだろうね」
シノブはシャルロットの肩を抱きつつ囁き、同時に彼女の表情を窺う。
椅子は背もたれを大きく倒しているし充分に柔らかで、更に車内は申し分なく快適だ。しかしシノブは、それでも妻の体調が気に掛かる。
そうはいっても、大変だろう、大丈夫か、などと訊ねてばかりではシャルロットの負担になるに違いない。そのため最近のシノブは、重さを感じる言葉を避けつつ妻と接するようになっていた。特に今のシャルロットは、楽しげに外を眺めている。ならば日頃のことを忘れてもらうべきだろう。
何しろ、今日はシャルロットの希望での外出だ。
東域への探検船団も一昨日に出港したから時間も出来た。そこでシノブは妻を労ろうと望むものを訊ねた。するとシャルロットは、家族や親友の二人を誘って魔法の馬車で外出をしたいと言ったのだ。
シャルロットは厳しく己を律し、出歩けぬことへの不満など口にしない。しかし元々活動的な彼女だけに、王宮での日常に少々退屈していたのも事実だろう。
そして妻の願いを聞いたシノブは、先日できたばかりの街道を通ることにした。
ゾルムスブルクはシノブが預かる三伯爵領の一つで、お忍びは代官に話を通しておけば良い。それに、これから向かう東の山地にはシャルロットの興味を惹くものもある。そこで今回は町村の視察をせず、街道を眺めるのみで山へと向かっている。
「ええ、まだまだ多くの船が必要です。アルバーノ達も揃って口にしていました」
シャルロットは四日前のアルバーノとモカリーナの結婚式を思い出したようだ。彼女は、とても朗らかな笑みをシノブに向けた。
結婚式と続く余興はアマノスハーフェンに近い洋上で行われた。これは新郎新婦が海洋国家カンビーニ王国の出身で、同国の船乗りなどは船上での結婚式を伝統としていたからだ。
しかし披露宴からは王都アマノシュタットに戻ってとなった。賓客は多数の船に分乗したから、海上だけだと交流ができないからだ。
そのためシノブやアミィ達が王都に彼らを転移させた。そして王都での宴の後、アルバーノとモカリーナは飛行船で自領へと向かっていった。場所も大きく変え海と空の乗り物を使っての結婚式は、きっと長く語り継がれるだろう。
「東域への船団は順調でしょうか?」
「最初の王国まで四日くらいと伺っていますが~」
シャルロットに合わせたのか、アリエルとミレーユは東域航海を話題にした。阿吽の呼吸と言うべき二人の言葉は、シャルロットの側仕えであったときと全く変わらない。
アリエルがマティアス、ミレーユがシメオンと結婚して五ヶ月と少々が過ぎた。
二人は結婚とほぼ同時期からメリエンヌ学園や研究所の運営に力を注いでいった。そのため彼女達がシャルロットと過ごす時間は大幅に減ったが、こうやって集えば昔と変わらぬやり取りが始まる。
アリエルは副官めいた少し凛々しい表情で。ミレーユは釣り合いを取るかのような緩やかな口調で。シノブも変わらぬ二人に以前を思い出し、知らず知らずのうちに和やかな気持ちになる。
「順調だよ。一昨日と昨日でおよそ半分、このままなら明後日の夕方には最初の寄港地に着く」
シノブは、最初の目的地であるエレビア王国を思い浮かべつつ応じた。
エレビア王国とは先日シノブも潜入したキルーシ王国の西南にある国で、エウレア地方に最も近い。アマノスハーフェンからエレビア王国の西端まで大よそ800kmで、高速軍艦なら四日で到着する。
もちろん着いた時間によっては翌日の入港となるだろう。それでも後三日でエウレア地方と東域、向こうの者がアスレア地方と呼ぶ場所の邂逅が実現する。
事前のホリィ達の調査だと、現在のエレビア王国は平和な国らしい。
エレビア王国は、他国と直接は接していない。国土のエレビア半島はアマノ王国だと小さめの伯爵領くらいしかないが、半島の北は大砂漠で陸路での侵略は困難だ。
それに海を挟んで接しているのは、キルーシ王国とアゼルフ共和国のみだ。このうちアゼルフ共和国は海に出ないエルフだから、実質的に備える相手は一国である。
そのためエレビア王国は、アスレア地方の国でも別格に小さな国でありながら独立を保っているようだ。
したがって戦乱に巻き込まれることは無いだろうが、どう反応するかは読み難い。
こちらが望むのは寄港地だけだから、交易で利があると示せば簡単に交渉が纏まるかもしれない。しかしエレビア王国の者達が予想もしない西からの船団に脅威を感じたら、長期化する可能性はある。
「上手く行くと良いですわね……ですが、突然エウレア地方の船団が現れたら驚くどころでは済みませんわね。問題は、その辺りでしょうか?」
それまで窓の外を眺めていたセレスティーヌだが、顔をシノブ達に向け直す。
セレスティーヌはアマノ王国の外務卿代行だ。そして彼女の部下である外交官も船団には多数乗り込んでいる。そのため彼女はアスレア地方の国々との国交樹立に強く期待しているが、一方で案じてもいるようだ。
「寄港を認めてくだされば充分な対価は支払いますし、航海技術向上の支援もします。とはいえ反発する可能性が無いとは言えませんね」
商務卿代行を務めるだけあって、ミュリエルは十歳とは思えない大人びた口調で応じていた。
こちらも新たに内政官として加わったマイドーモ・マネッリなど、多くの部下を船団に送り込んでいる。したがって彼女自身も東域探検船団について詳細まで把握しているのだ。
今のエレビア王国に遠洋航海をする技術は無いようだ。北東のキルーシ王国との間はアマズーン湾という内海で、波も穏やかな上に海生魔獣もいない。しかも商人達が海岸沿いに船を進める程度だから、船の構造も簡単で、一枚帆と櫂というのも珍しくないという。
一方、南東のアゼルフ共和国は鎖国に近い状況だそうだ。アゼルフ共和国は森林が殆どを占めるアズル半島を国土としているが、エレビア王国からアズル半島を回り込んで東に進むには1500kmも半島沿いに進むことになる。しかも陸から少し離されると魔獣の海域だ。
このためエレビア王国では遠洋航海技術が育たなかったようだ。
「ミュリエル様、凄いです~!」
「本当に……」
ミレーユとアリエルは、ここのところミュリエルと語り合う機会が少なかった。それ故二人は、ますます磨かれた彼女の知性に大きく驚いたようだ。
◆ ◆ ◆ ◆
──皆、真面目だね──
女性達の会話を聞きながら、シノブは静かに微笑んでいた。観光だというのに政務のことを忘れない彼女達に感心しつつも、おかしく感じていたのだ。
もっとも、どのような会話であれシャルロットが楽しんでくれたら、それで良い。そこでシノブはアミィに思念を送るのみに留める。
──シノブ様のご家族とご友人方ですから──
アミィは穏やかな思念を返してきた。
和気藹々としたシャルロット達の姿を、アミィも目を細めて見守っていた。しかし彼女の思念は、シノブと同じで少しばかり苦笑気味であった。
──エレビア王国には初代皇帝も行っていないみたいだし、その意味では心配は無いね──
──はい。あるとすれば、キルーシ王家との関係くらいでしょうか?──
アミィもシノブに賛成のようだ。しかし彼女は別の問題を挙げた。
エレビア王家は、現在のキルーシ王国に相当する地からエレビア半島に渡った一族だという。正確にはエレビア王家が渡った後に、半島の名を自身の家名に変えたそうだ。
現在キルーシ王国がある場所には、かつてヴァルーシ王国という国が存在した。この最後の王の王太子がエレビア王家、そして次男がキルーシ王家の祖となった。
既に五百年以上も昔のことで、現在の形となったのも百五十年前ほどだ。そのため敵対してはいないが、双方共に僅かな隔意があるとも言われている。
したがって東域探検船団がエレビア王国と国交樹立したら、次はキルーシ王国との関係作りに苦労するのかもしれない。
──その次は鎖国気味のアゼルフ共和国か。ヤマト王国までの航海は大変だね──
シノブは、エウレア地方とヤマト王国の間を思い浮かべる。
ヤマト王国からだとエウレア地方の東端は西に8000kmほどらしい。そしてアスレア地方の東の端でも5000km以上あるという。
一方、アゼルフ共和国の存在するアズル半島は西南に大きく張り出している。そのため迂回しても、大して東に進めない。
二日前、ヤマト王国の王太子健琉からドワーフの住む地、日本での東北地方に当たる陸奥という場所に旅立ったという知らせがあった。タケルは自分達の旅立ちを、東域探検船団の出港と合わせたのだ。
それだけタケルは、シノブ達が西から訪れる日を心待ちにしているのだろう。しかし、この調子だと転移を使わずにヤマト王国を訪問できるのは、かなり先のことになるようだ。
──アゼルフ共和国の東端からでも、残り7000kmはあります──
アミィにはスマホから得た位置把握能力があるから、7000kmという数字も信用できる。
要するに、この三つの国と国交を樹立しても1000kmしか東に進んでいない。先々を思ったシノブは、苦笑せざるを得なかった。
「シノブ、済みません」
「ど、どうしたの? それに、こっちこそ放っていて済まなかった!」
シャルロットの唐突な謝罪に、シノブは思わず驚きの声を上げてしまった。
妻を他所に思念のやり取りをしていた自分の方が問題ではないか。そう思ったシノブは逆に謝り返してしまう。
「せっかく外に連れてきていただいたのに、東域航海のことばかり……気を悪くされたのでは?」
「そんなことないさ。話題がなんであれ、君が楽しんでくれたら良いんだよ。それに、船に触れたのは俺が先だから」
僅かに曇ったシャルロットの顔に、シノブは優しく手を添えた。そしてシノブは、残る腕で自身の妻を掻き抱く。
シノブはシャルロットの日常を思う。
母なる女神から授かった腹帯で体調の不安が無く、宿した子の健康も保証されている。とはいえ普段通りに暮らせないシャルロットが、どれほど不自由を感じていることか。だが、そんな毎日でも彼女は出来る限り政務を手伝い、自分を支えてくれている。
シノブは妻に改めて感謝し、一層の愛情を注がねばと誓う。
「相変わらず熱いですね~」
「余計なことを言わない! それに貴女のところも、似たようなものと聞きましたが?」
冷やかし気味のミレーユをアリエルが小突き、更に追い討ちらしき言葉を口にする。するとミレーユは、真っ赤になって口を噤んでしまう。
「シメオン殿は、ミレーユさんのために浴場を改装なさったとか? それにマティアスもアリエルさんのために書庫を増設されたと聞きましたわ」
「お二人も熱いですね!」
セレスティーヌとミュリエルは、先日ミリィが仕入れてきた話を持ち出した。どうやら二人は、真っ赤になったシャルロットに救いの手を差し伸べようと思ったらしい。
そしてセレスティーヌ達の思惑通り、今度はアリエルとミレーユが顔を赤くし俯いた。まさか改築が理由も含めて知られているなど、アリエル達も思わなかったのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「その辺にしておこうよ。ほら、外は花が綺麗だよ。白に紫に黄色……色々あるね」
シノブが指差した先には、花畑が広がっていた。
街道の脇、小川を挟んだ向こう側は牧草地のようだ。山地だけあって傾斜は大きいようだが、そのため馬車の中からでも見やすかった。
そして斜めに広がる緑の絨毯の脇には、シノブが言った通りに様々な色の花がある。実は、これらの花は薬草であった。
これらは薬草といっても魔法植物ではなく、生薬のような薬効成分を多く含んだものだ。多くは葉や根が、一部は花自体が薬として用いられるという。
「綺麗ですね……昔を思い出します」
「はい! デグベルトさんに教えてもらって良かったです!」
シャルロットの呟きに、ミュリエルが大きく頷きつつ応じた。
デグベルトとは、ゾルムスブルク伯爵領の代官である。彼によれば、これらの薬草は元々単なる野草だった。しかし帝国時代に効能が明らかになり生産が奨励されたという。もちろん今でも薬として使われているが、アマノ王国になってからは観賞用としても販売されるようになった。
そしてシャルロットは、この地のことをデグベルトが献上した花で知った。
これらの花は同じような気候のベルレアン伯爵領の北部、つまりシャルロットが司令官として務めたヴァルゲン砦の付近にも咲いていたそうだ。そのため彼女は、この地に大きな興味を示したのだ。
「ヴァルゲン砦を思い出しますね」
「リーズと駆けましたね~」
アリエルとミレーユもシャルロットと同じ思いを抱いたようだ。
シャルロットを含む三人は、三年近くをヴァルゲン砦で過ごした。砦にいる間には何度も野山を愛馬で巡っただろうし、時には草花を愛でもしただろう。
当時のシャルロットは、司令官として砦を纏めるべく女性らしさを見せないようにしていた。だが、鎧を身に着け剣や槍を手にしても、美しいものに惹かれる心は変わらぬままだ。むしろ、普段は表に出せない分、秘めた思いは普通の女性より強かったのだろう。
「シノブ様、あの牧場にお邪魔するのですか?」
「いや。俺達が行けば、大騒ぎになるからね。実は、この先に自然の群生地があるんだ。ホリィ達が東域探索のときに見つけたんだよ」
問うたセレスティーヌに、シノブは大きな笑みと共に行き先を明かした。
ホリィ達は、行く手に聳えるオスター大山脈を越えて東域へと赴いた。金鵄族である彼女達は、人間が踏破不可能な高山であろうと関係ない。そのため誰も知らない群生地を空から発見できたのだ。
「では、途中からはまた転移ですね?」
「そうだよ。この先に人通りが少ない脇道があるから、そこまで行ったら再び魔法の家で転移する。向こうではミリィが待っているよ」
シノブはミュリエルに頷いてみせる。
現在の魔法の家は、扉から入ると手前の半分が大きな石畳の間である。外からだと敷地面積10m四方の小さな家にしか見えないが、内部は大よそ六倍くらいに拡張されているのだ。
そのため石畳の間には十頭の馬を含めて一行の全てを収容できる。流石に魔法の馬車は扉を潜らないが、こちらはカードに戻せば良いだけだ。
そこでシノブはシャルロットにゾルムスブルクの風物を見せてから、ミリィに魔法の家の呼び寄せをしてもらおうと考えたのだ。
「そろそろ脇道の入り口です!」
「どんなところか楽しみですね」
弾むアミィの声音に、シャルロットも大輪の華が綻ぶような笑みと共に応じた。
やはりシャルロットは宮殿で王妃らしくしているより、こうやって外にいる方が輝くようだ。シノブは、そんなことを考える。
宮殿でのシャルロットは立派に王妃として務めている。それは彼女が望んでのことでもあり、どの国の王妃よりも王妃らしいとシノブも思う。
だが、シャルロットの魂が志向するのは別の道なのだ。それ故シノブは心に刻む。王と王妃、好き勝手は許されない自分達だが、出来るだけ彼女の願いを叶えていこうと。
◆ ◆ ◆ ◆
「これは……野薔薇ですか?」
強く驚いたのだろう、シャルロットは大きく目を見開いている。
魔法の家を出たシノブ達を迎えたのは、色取り取りの花を咲かせた野草達だけではなかった。手前には自然の花畑だが、奥には人の背くらいの野薔薇の木が密生していた。しかも野薔薇の木は、赤やピンクに黄色と様々な花を競うように咲かせている。
魔法の家が置かれているのは盆地の中心だ。四方は極めて険しい山で囲まれており、遠方がどうなっているのかは判らない。しかし気温は先ほどよりも明らかに低いから、かなり標高が高い場所だと判る。
「ああ。手前が牧場の花の原種だ。青紫はリンドウ……白いのは野菊の一種らしいよ。黄色いのはサクラソウだ。そして奥は野薔薇……セリュジエールの館の庭園みたいだよね」
シノブが似ていると言ったのは、ベルレアン伯爵家の庭園だ。シノブとアミィがセリュジエールに滞在したとき、魔法の家が置かれた場所である。
ベルレアン伯爵家の庭園は、先代伯爵アンリが妻のマリーズ、四年前に没したシャルロットとミュリエルの祖母のために作った場所だ。そのためアンリだけではなく、ベルレアン伯爵家の者達は庭園を非常に大切にしていた。
当然、セリュジエールの庭園は野薔薇や野草ではなく、園芸用の品種が植えられている。しかし大まかな配置といい、野薔薇の木の育ち具合といい、どこか共通しているとシノブも感じていた。
「東域に渡るとき見つけたのです~。綺麗だから、一度は見ていただこうと~」
シノブが語り終えると、自慢げな顔のミリィが進み出た。とはいえ、彼女が誇るのも無理はない。
既にシノブは、この場所を訪れていた。そのときシノブも、これが自然に出来た場所かと驚愕したのだ。
ちなみにホリィ達によれば、他より強い魔力があるが神域ではないそうだ。つまり、草花の生育に適した土地というだけである。
「ええ……本当に……」
「誰も手入れしていないのですか!?」
言葉を失い立ち尽くしたシャルロットに代わり、ミュリエルが驚嘆の叫びを上げる。
ミュリエルもシャルロットと同じくセリュジエールの薔薇庭園を愛していた。父のコルネーユが魔法の家を庭園に置いて良いと言ったとき、彼女は大喜びしたものである。
そんなミュリエルだけあって、薔薇庭園の維持が大変だと良く知っているのだろう。
「コルネーユ様達にもお見せしたいですね~」
「そうね……きっと喜ばれるわ」
ミレーユとアリエルも、ベルレアン伯爵領で長く過ごしただけあって感慨深げだ。
まずはシャルロットをとシノブは思った。しかし、これだけ喜んでもらえるなら次回は義父達にも声を掛けよう。それにミュリエルの祖母アルメルにも。そのときを想像したシノブの顔は、自然と綻ぶ。
「綺麗ですわね……でも、薔薇庭園とは違って中に入れないのが残念ですわ」
セレスティーヌも、シノブ達と行動するようになってからベルレアン伯爵家の館に何度も訪れている。そして多くの場合、かつてと同じく魔法の家を呼び出すのは薔薇庭園の中央だ。そのため彼女もベルレアン伯爵家の庭園を良く知っていた。
セリュジエールの薔薇庭園は、多くの庭園と同様に幾何学的に木々が植えられており、その間を自由に散策できる。
それに対し、ここでは木々の間に入ることは出来ない。分け入るには一部を伐採するしかないだろうが、それでは興醒めである。
そもそも木々で隠れている場所に立派な花は付かない筈だ。つまり通路を拵えても、木々の枝や幹が見えるだけである。
「これだけ見事な野薔薇、手を入れたくはありませんな」
「そうじゃのう……馬上からなら多少は見やすいじゃろうが……」
エンリオやマリエッタなど、護衛を務めた騎士達も残念そうな呟きを漏らしている。彼らも華麗な薔薇や可憐な草花に見惚れていたのだ。
「それなんだけどね……ああ、来たよ! 皆、ここだ!」
空を見上げたシノブに釣られ、シャルロット達も上を向く。
青空には小さな点が幾つも存在した。しかも見る見るうちに大きくなってくる。それは岩竜の子オルムルを始めとする竜や光翔虎の子供達だ。
例によって海竜の子リタンと幼竜フェルンは腕輪で小さくなってオルムルの上だ。そして他の子供達は自力で飛んでいる。
──シノブさん、お待たせしました!──
──ちょっと離れたところだけど良い狩場がありましたよ~!──
オルムルに続き、光翔虎の子フェイニーが満足げな思念を飛ばしてくる。どうやら子供達は、狩りを楽しんでいたらしい。
そして二頭はシノブ達の前に舞い降りた。続いて嵐竜の子ラーカ、炎竜の子シュメイ、岩竜の子ファーヴも地に降り立つ。
「オルムル達に乗せてもらって空から見物します!」
アミィの言葉に、大きな歓声が沸き起こる。やはり誰もが、もっと近くから見たいと思っていたようだ。
「さあ、シャルロット」
「ありがとうございます」
シノブはシャルロットを横抱きにすると、オルムルの背に跨った。もちろん他の者達も、シノブ達と同様に騎乗していく。
「綺麗だね」
「ええ……」
シノブとシャルロットの視線は、眼下の色取り取りの薔薇に釘付けだ。
オルムルは、歩くのと変わらぬ速度で低空を飛んでいく。竜や光翔虎の飛翔は重力操作によるものだから、静止すら可能である。そのためシノブ達は、無数の薔薇が織り成す絨毯の上を心行くまで堪能した。
「君も綺麗だ。この薔薇と同じくらいに……いや、それ以上に」
「シノブ……」
シノブの囁きに、シャルロットは下で咲く赤薔薇のように頬を染めた。そして彼女は、嬉しげな顔をシノブの胸に押し当てる。
「シャルロット。あの薔薇庭園で誓ったよね……『君の側に一生いる。俺の居場所は君のところだ』って。覚えているかい?」
「忘れるわけがありません」
応えるシャルロットの声は大きく揺れていた。彼女もシノブと同じく、セリュジエールの薔薇庭園で永遠の愛を誓った日を思い出していたのだろう。
「もう一度誓うよ。君の側に一生いる。俺の居場所は君のところだ……もちろん一日中一緒にいることは出来ないけど、それでも心は君と一緒だ。君と、そして俺達の子供とね」
「はい。それぞれ持って生まれた役目がありますし、出産を代わっていただくわけにもいきません。ですが心は一緒……それに出産を終えたら、私もまた貴方の行くところに」
そして二人は、あの日のように一つになった。いや、まだ見ぬ愛し子も含めた三人が。
天からの日差し、地に咲き誇る薔薇、そよぐ風。そして囲む仲間達。何れもシノブ達を祝福してくれる。あの日から幾十倍、幾百倍となった絆をシノブは感じつつ、最も身近で最も守るべき者達を抱きしめていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年11月5日17時の更新となります。




