18.26 それぞれの時間
入れ替えたばかりなのか真新しい畳の上に、背筋を伸ばして正座し文机に向かっている男性がいた。
服は草木染めらしき緑色の前合わせ。右手に持つのは細めの筆で、脇には随分と使い込んだらしき硯。まるで書道家のような衣装と道具に相応しく、若さの残る端正な顔には明哲というべき知性と品が宿っている。
しかし仮にシノブ達が男の姿を目にしたら、彼の衣服や表情よりも肌や耳に意識が向いたかもしれない。男の肌は机と同じような明るい茶色で、耳は笹の葉のように長かった。彼はエルフ、しかもヤマト王国の伊予の島にいる褐色のエルフだったのだ。
少し濃い小麦色といった肌と穂先のように先が尖った耳は、どこか日本を感じさせるヤマト王国の調度とは不釣り合いに感じる。しかし纏うのは作務衣のような服であり、正座や筆の運びも堂に入っている。そのためだろう、男は一流を極めた書家のような風格すら漂わせていた。
とはいえ書家は書家でも、若き天才という形容をすべきかもしれない。男は大よそ百歳、つまり他の種族なら三十歳を過ぎた程度だからである。
後ろで縛った長い黒髪は艶やかで、もちろん顔にも皺など存在しない。男盛りというには中性的な美貌だが、どこか人を従えるような威厳が力強さを補っている。
また部屋の内装も、男の雰囲気に相応しいものであった。
四方を囲う板壁には飾りなどない。しかし長い時間を磨き続けてきたのだろう、男の肌や文机よりも濃い色の木材は灯りの魔道具に照らされ光り輝いている。
どうやら男は、あまり物を置かない主義らしい。狭い部屋にある家具は背の低い箪笥と書棚、それに何かを入れているらしき甕だけだ。
もっとも文机を含め家具には、精緻な浮き彫りが金具などに施され、甕も濃緑の釉薬の下は細かな紋様で飾られている。おそらく、どれも随分と凝った品なのだろう。
部屋を満たすのはイグサの香りと静寂。そこに時折、鹿威しの妙音が響く。外は草木を好むエルフらしく、季節の花々が溢れ流水が涼を運ぶ風雅な庭園なのだ。
しかし静けさに浸り続けることは、男に許されていなかったらしい。まるで暴風のような来訪者が、雅な部屋に現れたのだ。
「名彦よ! 神託じゃ、神託を授かったのじゃ!」
跳ね返ってきそうなほどの勢いで襖を開け放ったのは、せいぜい七歳か八歳らしき少女のエルフであった。こちらも褐色の肌で黒い長髪と、男に似た容姿である。
それに対し、服は随分と異なる色彩だ。渋い緑の上下を着けた男に対し、こちらは上が白衣で下が緋袴、要するに巫女装束だ。
しかも落ち着いた男とは違い、少女は激しい興奮を隠そうともしていない。どこか似た容貌の二人だが、性別に年齢、雰囲気などに一致する点は存在しなかった。
「日巫女様、落ち着いてください。今、茶を用意します」
机に向かっている男には、僅かな動揺も存在しなかった。彼は今回のようなことに慣れているらしく、振り向きもしない。
男は既に筆を置いていた。駆け込んでくる足音か、あるいはヒミコが発する魔力波動でも感知したのか、彼は茶の準備を始めていたのだ。
文机の脇に置かれた甕は、飲料水を入れておくものだったようだ。男は手を伸ばして蓋を取ると柄杓で澄んだ水を汲み上げる。
「ナヒコは変わらぬのう……まあ、折角の持て成しじゃ」
駆け込んできた幼い容姿のエルフ、伊予の島の女王ヒミコは苦笑を浮かべていた。
とはいうものの、ヒミコは気を悪くしてはいないらしい。彼女は部屋の隅に置かれていた円座を一つ手に取ると中央近くに置き、その上に静かに座る。その様子からすると、ヒミコの方もナヒコという人物を熟知しているのは確かだろう。
「水など創水の術で出せば良かろうに……」
ヒミコは、悪戯っぽい笑みと共にナヒコの背に言葉を投げかけた。
エルフの大きな魔力があれば、創水の魔術で水を出して茶に使うことも充分可能だ。仮に水属性を持っていなくても、創水の魔道具を使っても良い。
もっとも、これも親しい者同士の触れ合いなのだろう。待たされているにも関わらず、ヒミコの顔は楽しげに綻んでいる。
「あれには風味がありません。ですが、無駄を省くのは大切なこと」
ナヒコは、文机の上に置かれた大きな碗に水を注ぐと、それを両手に取った。すると碗の中から湯気が立ち上る。どうやら彼は魔術で水を湯に変じさせたようだ。
確かに創水の魔術で得たものは純水だから味気ない。それに対し湯を沸かすのは単なる温度上昇であり、魔術でも構わないのだろう。
「合理的なところも相変わらずじゃ。とはいえ、そんなナヒコの淹れたお茶が一番美味いのじゃから……佐久良も上手くなってきたが、当分そなたには勝てまいよ」
ヒミコは懐かしげな顔となっていた。そして彼女は立ち上がろうとしたのか、僅かに腰を浮かす。もしかすると、ナヒコが茶を淹れるところを覗き込もうとでも考えたのか。
しかしヒミコは元通りに座り直した。焦って覗いたりしたらナヒコに叱られる。どうやら彼女は、そう判断したようだ。
「さて、準備が出来ました。お話を伺いましょう」
これまた机の上に置いていた急須にナヒコは湯を注ぎ、蓋を閉じる。ヒミコに気付いてから駆け込んでくるまでの間に、彼は茶葉の準備を済ませていたらしい。
そして彼は、お盆に急須と二つの大きな茶碗を乗せ、ヒミコへと向き直る。もちろん茶碗は茶器としてのものだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……というわけで、エウレアなる地からの訪れを広く知らしめようと思うのじゃ!」
ヒミコは自身の授かった神託について、ナヒコへと語り終えた。
遥か西のエウレアという土地から、大いなる幸を齎す者が、ここ伊予の島の王都ユノモリに来る。この朗報を臣下や民に伝えたい。ヒミコは強い興奮を顕わにしたまま、そう言い切った。
「ヒミコ様……」
対するナヒコは浮かない顔であった。どうやら、彼はヒミコとは違う考えを持っているようだ。
「な、なんじゃ? ダメかの?」
「はい。今のお話では、いつ来るか明らかではありません。
我らエルフの一生は長い……神託が一年後を示していたら? もしかすると三年後、五年後かもしれません。確かに良き知らせではありますが、時期も判らぬままでは……。
それに、エウレアとはどこでしょうか? 遥か西ならば大陸だとは思いますが、聞いたこともない地名です。我らに幸を、と言うのですから恐れる必要はないのでしょう。しかし、到来の時期も正体も判らぬままに公にするのは如何かと」
表情を変えたヒミコに、ナヒコは冷静な声音で淡々と語っていった。そして彼は手にしていた背の低い円筒形の陶磁器、楽茶碗のような黒い器を口元に寄せる。
ナヒコの言葉にも一理ある。今日明日に来るなら、あるいは多少先でも時期が特定できるなら公開する意味があるかもしれない。
しかしヒミコが授かった神託は、いつだとも示さなかった。神々が伝えなかったのか、ヒミコが受け取れなかったのか、どちらにしても何日、何ヶ月、何年先か判らない。これではナヒコが、どう公布すべきかと案ずるのも無理はなかろう。
「ふむ……では、内々のみかの?」
ヒミコも説明を受けて納得したらしい。問うた彼女は、そのままナヒコが淹れたお茶を飲む。
ちなみにヒミコも魔術で温めたから、お茶は冷めていない。一般にエルフは大きな魔力を持つし、使える属性も多い。ましてや彼女は女王で巫女の長だ。当然ながら、並のエルフとは違い多くの術を行使できるのだろう。
「それが良いでしょう。将軍である私を含め、政務を預かる重臣だけに伝えておく。後は各自の判断で信頼できる者達に……それらしき予兆を掴んだら、知らせてほしいですからね。
それに、ある程度の者に伝えれば自然と漏れます。正式に発表するなら曖昧なことは言えませんが、噂として広がるなら多少あやふやなところがあっても構いません」
ナヒコは僅かに笑いを零しながら語っていく。彼は自身のことを将軍と言ったが、将は将でも智将という言葉が適切かもしれない。
もっともヤマト王国の中で本格的な戦があったのは、随分と昔のことだ。したがって仮にナヒコが将であったとしても、剣を振るったり軍を動かしたりしたことは無いのかもしれない。
「確かに妾もサクラ達に伝えておる。あれらも口は固いが……慶事じゃからな」
お茶を飲み終えたヒミコは、黒い陶磁器を手前の盆に置く。少しばかりナヒコに寄せて置いているところからすると、彼女は更に一杯を、と言いたいようだ。
「お言葉通り、良きことですから大して経たぬうちに漏れるでしょう。それに謎を残しておいた方が、民も楽しめるというものです」
ナヒコは既に次の準備をしていた。彼は汲んだ水を先刻と同様に大きな碗に移し、魔術で温めている。それに急須の茶葉も入れ替え済みである。
「判った、いつも通り任せる。昔からナヒコの言葉に間違いはない。今度のことも、そなたの言う通りじゃろう」
「それが我らの仕事ですから。ヒミコ様に祭祀を司っていただき、将が島を守る……代々の慣わしです」
急須にお湯を注ぎながら、ナヒコは静かにヒミコへと応ずる。
視線を盆の上に向けていることもあり、ヒミコからだとナヒコの表情を窺えない。ただし、彼の言葉に挟まれた微かな間には、何らかの思いが滲んでいるようだ。
「そなたは……」
「幼き日、まだ私より背の高かった貴女様を見送ったとき、誓いました。貴女様が己を捧げた伊予の島を守る……それが自分の為すべきことだと」
絶句したヒミコに、相変わらず顔を伏せたナヒコは感情を抑えるような声音で語っていく。
既に湯は注ぎ終わり、急須には蓋もしている。そのため彼が俯く理由は存在しない筈だ。しかしナヒコは、顔を上げることが出来ないらしい。
「ナヒコ……昔のようにトヨと……トヨ姉さまと呼んでくれぬか?」
何かを恐れているかのように途切れさせつつも、ヒミコは言葉を紡いでいく。だが、それも無理はない。実は女王である彼女でも、今の言葉は禁忌に当たるものであった。
ヒミコというのは女王を継いだときに先代から譲られる名であり、代々の女王は生まれたときに授かった別の名を持つ。しかし彼女達は名を捨て、そしてナヒコが語ったように己を捨てて生きるのだ。
「幾ら従姉妹であろうとも、もうその名ではお呼びできません。貴女様は、五十二年前のあのときからヒミコ様なのです」
「そうじゃったな。美魔豊花は消えたのじゃ……ナヒコよ、もう茶は良い。済まぬな……」
顔を伏せたナヒコと対照的に、ヒミコは上を向いて立ち上がった。そして彼女は袖で顔を覆いつつ、足早に部屋を出て行った。
「……トヨ姉さま」
静けさを取り戻した部屋に、ナヒコの声が静かに広がっていく。そして彼の手前に置かれた急須に透明な雫が一つ落ちた。
女王であるヒミコと将軍であるナヒコ。その二人であっても、いや、その二人だからこそ動かせないものがある。ここ伊予の島のエルフ達には、遥か西のエウレア地方の同族とも異なる問題があるようだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「褐色の肌のエルフねぇ……」
アマノ王国の宰相ベランジェは、華麗な絵画が描かれた天井を見上げている。もっとも彼は、天井画を鑑賞しているわけではない。単に見上げた先が天井というだけだ。
ここはアマノ王国の中枢の一つ、閣議の間だ。王都アマノシュタットの中央に位置する『白陽宮』の『大宮殿』でも、極めて限られた者達しか入れない場所である。
集っている面々は、いつもの朝議と同じでシノブを始めとするアマノ王家の者達、それに閣僚や彼らの副官だ。
王家からはシノブにシャルロット、ミュリエル、セレスティーヌ、そしてシノブの側近中の側近であるアミィ。そして閣僚はベランジェの他に内務卿シメオンと軍務卿のマティアス、そして財務卿代行シャルルと農務卿代行ベルナルドだ。更に宮殿を纏める侍従長のジェルヴェも同席している。
ミュリエルが商務卿代行でセレスティーヌが外務卿代行だから閣僚も随分と少ないが、当分は現在の体制が続くようだ。
「シノブ君! 今度こそは私を連れて行ってほしいものだね! 準備は万全だよ!」
ベランジェは天井からシノブへと顔を向けると、自身の胸を平手で打つ。どうやら彼は、シノブにアピールしたいことがあるらしい。
「それで浴衣ですか……涼しくはないのですか?」
「丹前を着ているから大丈夫だよ! 準備はタンゼン……いや万全さ!」
苦笑するシノブに、ベランジェは両手を広げてみせた。
確かにベランジェは、浴衣の上に格子柄の丹前を着込んでいた。七月も一週間近く過ぎたがアマノシュタットは冷涼な土地だから、さほど気温は高くない。そのため素肌に浴衣を着ただけでは、風邪を引くかもしれない。
「伯父上、その格好で館から来たのですか?」
「まさか! 執務室で着替えたよ!」
眉を顰めたシャルロットに、ベランジェは驚いたように目を見開きつつ応じた。彼はシノブにヤマト王国の服を着こなしているのを見せるために、わざわざ衣装を変えてきたようだ。
ここのところ、シノブはヤマト王国についてのことをベランジェ達にも語っていた。
彼の国には三頭の光翔虎が滞在しており、その一頭であるシャンジーには通信筒も持たせている。それに王子の健琉も同じく通信筒を所持している。
そして現在ヤマト王国の都には、伊予の島から来たエルフの使者が滞在している。そうなればシャンジーやタケルが、シノブに新たな話題を届けるのは必然であった。
そのためシノブは、知りえたことを朝議で紹介していた。これはベランジェが、ヤマト王国の文化を妙に気に入ってしまったためだ。
「ベランジェ殿は、向こうに旅されるのですか? 例の隠居がどうこう、とか……」
「ああ、あれは良かったねぇ……それに、アフレア大陸への訪問では置いていかれたからね! 今度こそは同行したいものだよ!」
シメオンの問いに、ベランジェは悪戯っぽい笑顔と共に答えた。
以前シノブは、ベランジェに日本の文化について多少紹介した。かなり前のことだが、シノブは自身のことを武士という階級の末裔だと語った。そのためベランジェは、武士とは何かが気になったらしい。
そこでシノブは、とある有名な時代劇を題材にした。
アミィは、シノブが持っていたスマホのデータを引き継いでいる。その中には、シノブが録画してスマホに移したテレビ番組も含まれていた。そのため彼は、諸国を漫遊するご隠居の話をベランジェに見せた。
もちろんシノブも時代劇と現実の違いは理解している。しかし彼が持っていた映像データの中で、武士などが登場するものは他に無かったのだ。
「叔父様は、温泉に行きたいのではありませんこと?」
セレスティーヌが言うように、ベランジェは大の温泉好きである。彼は仕事を終えると『白陽宮』に造られた温泉に入ってから帰ることも多いようだ。
「タケル達が行く伊予の島の王都は、ユノモリっていうくらいだからね」
「治めているのはエルフの女王ヒミコでしたな。当代の在位は既に五十年を超えているとか?」
シノブがユノモリに触れると、マティアスが僅かに身を乗り出しつつ問い掛けた。
どうやらマティアスは、エルフの統治体制に興味があるらしい。エウレア地方のエルフ達は王制を敷いていないし、他の国にも女王はいない。そのため彼は、尚更関心を示したのかもしれない。
「あまり姿を現さないみたいだけどね。しかし代替わりくらいは、大王家や他の王家に伝えるそうだ」
シノブはシャンジーやタケルの手紙に記されていたことを思い出しつつ答えた。
当代のヒミコは百歳を超えているようだ。タケルによれば、代々のヒミコは大よそ五十歳くらいで即位するというし、長寿なエルフにとって百歳は他の種族の三十歳少々に相当する。したがって、当代の女王も働き盛りなのだろうとシノブは想像していた。
ちなみに女王の在位は百年から百五十年くらいのようだ。
仮に五十歳で即位し百五十年で退位すると二百歳となるが、平均寿命が二百五十歳ほどのエルフにとって、二百歳は老境の入り口のようなものだ。それにエウレア地方のエルフにも、同年代の族長はいる。
「百年以上も国を率いるのですか……」
溜め息を吐いたのは、シメオンの祖父で財務卿代行のシャルルだ。
この中だとシャルルは最年長だが、それでも六十五歳である。彼は自身の生の倍にもなる統治期間に、同情めいた感慨を抱いたらしい。
「私もそう思います。将軍が助けてくれるそうですが……」
「ほう、向こうは軍政なのですか?」
ミュリエルの言葉に、農務卿代行ベルナルドが目を見開いた。
ベルナルドはミュリエルの大伯父、つまり彼女の祖母アルメルの兄だ。しかし今のミュリエルはアマノ王家の姫だから、彼は地位に相応しい態度を心がけているようである。
「将軍といっても軍人としての意味は薄れていると思います。非常時は軍を率いるのでしょうが、ヤマト王国で戦が起きたのは遥か昔のことのようですから」
シノブも将軍と聞いたとき、ベルナルドと同じことを一瞬だけ想起した。
しかしタケル達からの文からすると、武官の称号だけが残ったようなものらしい。要するに幕府の将軍、それも初代などではなく安定期に入った室町幕府や江戸幕府の将軍のようなものでは、とシノブは思ったのだ。
「だったら私が行っても大丈夫だね! いやあ、これは楽しくなってきたなあ!」
ベランジェは、安全な場所と聞いて満面の笑みを浮かべていた。彼は戦場に出たこともあるし、剣の腕も恥ずかしくない域に達している。しかし彼は、危険なら外遊に反対する者が出ると考えたようである。
──これじゃ、向こうに行く可能性があるとは言えないな──
──アルフール様からの神託ですか……行く理由も説明しにくいですしね──
苦笑を浮かべたシノブとアミィは、密かに思念を交わしていた。
エルフの守護者である森の女神アルフールは、ヒミコに神託を与えたそうだ。エウレア地方から伊予の島の王都ユノモリに訪れる者がいる。そして訪れた者が伊予の島のエルフ達に大いなる幸を齎す。それがアルフールの神託らしい。
アルフールはヒミコに神託を授けたことを、神々の御紋を通してシノブに語った。どうも彼女はシノブを伊予の島へと向かわせたいらしい。
しかし、アルフールは時期や契機となることについてはシノブに教えなかった。そのためシノブは、朝議では状況の紹介に留めたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
そして二日後の創世暦1001年7月8日の朝。ヤマト王国の都から、タケル達の一行が伊予の島に旅立つ。
使節団を率いるのは王太子となったタケルで、副使は彼の叔母で巫女の長でもある大和斎だ。そして客分として筑紫の島の王熊祖威佐雄も一行に加わる。
なお、一行にはタケルの兄で王子としての地位を剥奪された多利彦もいる。もっともタリヒコは縛されたままで、旅も罪人護送用の駕籠に押し込められてという有様だ。彼は筑紫の島でクマソ王家の監督下に置かれ、獣人を迫害した罪を償うのだから、無理もないことではある。
ちなみにタリヒコの処罰については都中に布告がされており、知らぬ者はいない。しかし晴れの旅に相応しくないということで、タケル達が集う大内裏の大極殿からタリヒコは遠ざけられていた。
その代わりというわけではないが、大極殿に現れたのは巫女服を着た二人の狐の獣人の少女であった。もちろんタケルの思い人である穂積立花と、彼女の又従姉妹である穂積泉葉だ。
「タチハナ、イズハ……もしかして君達も?」
タケルは驚きの表情でタチハナ達に問いかけた。どうやら彼は、二人が同行するとは今の今まで知らなかったらしい。
「は、はい……ヤマト姫様に推薦していただきました」
「わ、私もです」
タチハナとイズハは、畏まった様子でタケルに答えた。大極殿は国王や重臣達が政務を執る場だから、二人が改まるのも仕方が無いことではある。
「タチハナは筑紫の島に渡ってからのこともあります。それにイズハは白刃や山女が同行するのですから」
ヤマト姫ことイツキ姫が、余所行きの表情と声で続く。
もっともイツキ姫の目は笑っていた。彼女は、一番効果的な場面でタチハナ達が随行者となることを明かしたかったのだろう。
「そうでしたね……」
タケルは納得の表情となっていた。
イツキ姫が口にした二人は、イズハの祖父母だ。イズハの両親は、タリヒコが関与した事件で命を落とした。そのため今のイズハの保護者は、シロバ達である。
もっともイズハは巫女となる修行を開始したから、イツキ姫が長である神祇官で暮らし始めた。そのためシロバ達が旅に出ても問題ないかもしれない。
しかしイツキ姫やタチハナがいなければイズハも寂しいだろう。そのためイツキ姫は彼女も同行者に加えたようだ。
「タチハナを伴っても構いませんね?」
イツキ姫はタケルから隣に立つ熊の獣人、つまり筑紫の島の王クマソ・イサオに顔を向けた。
タチハナは非公式だがタケルの婚約者となっていた。そしてイサオは自身の娘である刃矢女をタケルに嫁がせようとしている。
そのためイツキ姫は、イサオがどういう反応を示すか知りたく思ったのかもしれない。
「もちろんですとも。儂の願いはハヤメをタケル殿の妃の一人にすること。タチハナ殿にはハヤメと親しくなってほしいですからな」
イサオは鷹揚な仕草で頷いた。確かに彼の言葉に嘘はないだろう。
タケルはタチハナを愛している。他種族を娶ったことがない人族の大王家で、初めて獣人族と結婚しようとするほどに。しかも父王の前で彼女への愛を堂々と宣言するくらいに、である。
それに対し、ハヤメは未だタケルと会ったこともない。そこでイサオは娘をタチハナと親密な仲にしたいと思ったのだろう。
タケルの妃の公的な序列がどうなろうと、彼の愛情が向くのはタチハナに違いない。そうであれば、タチハナと敵対するのは悪手である。このようにイサオは睨んだのだと思われる。
「し、しかしホヅミ家の者達は大勢加わりましたね。霧刃も私の近習として随伴しますし」
タケルは話を逸らそうとしたらしい。頬を染めた若き王子は、タチハナの兄の名を挙げた。
まだ若手の武人だがキリハは相当の腕の持ち主だし、タケルは獣人族の地位向上を願っている。そのためキリハは、獣人族から初めてタケルの側仕えとなったのだ。
そういうわけで、今回の旅にホヅミの一族から五人もの同行者が出ることになった。おそらく人族と獣人族の双方を合わせても、同姓だとホヅミが一番多いと思われる。
「良いことですよ。伊予の島にも少数ですが獣人族がいると聞いています。そうでしたね、火野気殿?」
イツキ姫が向いた先には、褐色の肌を持つエルフの中年男性がいた。他の種族なら四十代といった容貌のエルフの男は、ヤマト王国の大王威利彦と並んでタケル達に向かっていた。
「はい、我々の島には狸の獣人がおります。多くは非力な私達の代わりに、武人として活躍しています。とてもありがたいことだと神々に感謝しておりますよ」
ヒノキという名のエルフは、伊予の島から来た使者の代表である。そのためだろう、彼は柔和な笑顔で自分達の島にいる獣人達を褒め称えた。
何しろ獣人族の王であるイサオが側にいる。それにタケルは獣人族の妻を得るらしい。こうなれば仮に獣人族を嫌っていても貶すことなど出来はしない。
もっともヒノキに獣人族を嫌悪している様子はない。外交官である彼が内心どう思っているかは定かではないが、表面上は親しき友のことを語っているように感じる。
「ほう……ところでヒノキ殿、そちらではエルフと獣人族が結ばれることはあるのかな?」
イサオは褐色のエルフへと訊ねかける。先ほどまで人族と獣人族の婚姻について語っていたせいか、それとも婉曲的に伊予の島での獣人族の扱いを知ろうとしたのか、イサオはヒノキに探るような視線を向けていた。
「いえ、そのような話は聞いたことがありません。違う時を生きる者達が家族となるのは、とても大変なことではないでしょうか? 我が友にも、同じ時間の流れを過ごせぬことに悩む者がおりますよ」
ヒノキは、誰か具体的な対象を思い浮かべたらしい。単に一般論を述べたにしては少しばかり重さを含んだ声音で、イサオへと答えた。
「どのような方でしょう?」
「……書が好きな男ですよ。我らが島を愛し殉じる者がいる。そして彼も支えようとしている……違う時を生きつつも。美しくも悲しい話です」
王子であるタケルが問うたからか、ヒノキは暈しつつも言葉を紡いでいく。しかし彼は、何かに耐えかねたかのように押し黙る。
「ですが、本当に好きになってしまえば関係ないのでは? 同じ種族でも、完全に同じ時を過ごすことは出来ないのです。たとえ先立たれると判っていても、私なら……」
タケルは僅かに視線をタチハナへと向けた。すると、そこには瞳を潤ませた少女の笑顔があった。
種族の壁を越えて愛し合う二人は、寿命ではないが大きな決断をしたのだろう。もしかすると誰にも祝福されず、他の全てを捨てて落ち延びる。そんな未来がタケルの頭を掠めたことがあるかもしれない。
「とても力強いお言葉、正に次の大王に相応しいですな。しかし、少し心配になりましたぞ」
「……イサオ殿?」
イサオは感慨深げだが、僅かにからかうような言葉を発した。対するタケルは、イサオの意図が理解できなかったらしく怪訝そうな顔となる。
「寿命の差を恐れぬということは、エルフの姫君を娶るおつもりかと愚考しましてな。我が娘には試練となるかと……」
「そ、そういう意味では!」
タケルは真っ赤な顔でイサオの言葉を否定する。そして若き王子の姿が面白かったのだろう、二人の周囲に笑声が広がっていく。
旅立ちの朝は、楽しげな笑い声で始まった。きっと旅の途中や着いた先も同じだろう。彼らの朗らかな笑顔は、訪れる地での幸せを強く予感させるものであった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年9月18日17時の更新となります。




