18.05 豊穣の山へ 前編
「イーゼンデックでの歓迎式典、大成功でしたわね! アマノスハーフェンでの観艦式にファレシュタットでの祝宴、そして双方の街でのパレード……とても素晴らしかったですわ!」
今朝のセレスティーヌは一段と嬉しげだ。『小宮殿』の『陽だまりの間』に現れた彼女の夢心地の表情は、華やかな美貌を彩る見事な金の巻き髪に劣らず輝いている。だが、それも無理はないだろう。
一昨日の6月25日の夕方遅く、アルマン共和国からの先遣艦隊は予定通りイーゼンデック伯爵領の港町アマノスハーフェンに到着した。彼らは距離にして4000km近く、二十日に及ぶ航海を無事に終えたのだ。
そして次の日の午前中、シノブ達はアルマン共和国艦隊の司令や士官と共にアマノ王国海軍の軍艦によるパレードを観閲した。更に午後はイーゼンデックの領都ファレシュタットに移動し、盛大な歓迎の宴で持て成した。
「司令を始め、目を丸くして驚いていらっしゃいましたわ! 立派な港と、その中を自在に進むアマノ王国の艦船……そして領都での祝宴に料理の数々……アマノ牛も大好評でしたわね!」
セレスティーヌは、昨日のことを順に思い浮かべているらしい。彼女もシノブやシャルロット、ミュリエルと共に先遣艦隊の司令や士官達を歓迎したのだ。
アルマン共和国から来た者達は、先んじて航路を確認するだけあり高位であった。艦隊司令がカティートン子爵で副官はショーネリン男爵、どちらも元軍人でシノブ達も知っている人物だ。
二人は戦を起こしたマクドロン親子と対立し『隷属の首飾り』を装着された。しかし彼らは軍使としてメリエンヌ王国の艦隊を訪れた際に、先代ベルレアン伯爵アンリやシメオン達に救い出された。その後、彼らは縮小された軍を辞して航路開発へと身を転じた。
そして高位の軍人だった彼らは、極めて短期間で形を整えた港やアマノ王国海軍に心底驚愕し、シノブやナタリオに惜しみない賛辞を送り続けたのだ。
それはセレスティーヌにとって至福の時間だったに違いない。何故なら彼女はアマノ王家の一員というだけではなく、外務卿代行として外交を預かっているからだ。
「ああ。ナタリオやアリーチェが頑張ってくれたからね」
シノブの脳裏には、イーゼンデック伯爵ナタリオと彼の婚約者アリーチェの達成感に溢れる笑顔が浮かんでいた。
シノブが港を造り魔法のカバンで軍艦を運んだとはいえ、それらが立派な港町や海軍となったのはナタリオ達の奮闘があってこそだ。港は運用できる知識や経験を持った者がいてこそ機能するし、軍艦も同じで熟練の船乗りがいなければ単なる飾り物である。
器を活かしたのはナタリオ達なのだ。実際に港に足を運んで働く者達を目にし、観艦式での一糸乱れぬ操艦を見たシノブは、改めてそれを実感していた。
「シノブ様は、もう少し御自身のことを誇っても良いと思いますわ!」
「でも、この方がシノブ様らしいですよ」
不満げなセレスティーヌに宥めるような口調で語りかけたのは、アミィであった。
朝食の場にいるのは、いつも通りシノブにアミィ、シャルロット、ミュリエル、セレスティーヌの五人だけだ。そのためセレスティーヌも甘えを含んだ要求をし、アミィも苦笑を隠さず応じていた。
それ故シノブやシャルロットも、微笑みを浮かべつつ二人のやり取りを見守っていた。しかし、そこに新たな話題を投じた者がいる。それは銀に近いアッシュブロンドと緑の瞳が印象的な少女、ミュリエルだ。
「シノブさま。南方大陸からのお招きは、このままだとナタリオさんやアリーチェさん、それにマルタンさんやカロルさんの結婚式と重なるのでは……」
ミュリエルが気にしているのは、カンビーニ王国とガルゴン王国が共同で南に送った探検船団だ。正確には、いつ彼らがシノブ達を南方大陸に招待するかである。
四日後の7月1日、ミュリエルが挙げた二組は王都アマノシュタットで合同結婚式を挙げる。半月と少々前に成人したアリーチェは、早くもナタリオの妻となるのだ。
もう一組のマルタンとカロルは、王家や大勢の高位貴族に囲まれての結婚に怖じ気づいたようだ。今でこそミュレ子爵マルタンと、その婚約者カロル令嬢だが、どちらも元は平民の出である。
そこでマルタン達は合同結婚式にしてほしいとシノブとナタリオに懇願した。二人は四月に行われたような合同結婚式、それも出来れば自分より上位の貴族と合わせての挙式を望んだのだ。
一方、南への探検船団は四日前に南方大陸への上陸を果たしたが、未だ適切な交渉相手に出会っていなかった。
探検船団の者達は小さな集落を発見したが、国家が送った探検団と語らったり交易をしたりするような規模ではなかったらしい。そのため彼らは更に大きな集落を教わり、そちらに移動したという。
「今の感じだと、南方行きは結婚式の後になるんじゃないかな? 昨日は最初より大きな集落に着いたけど、そこの長が近くを纏める実力者に使者を出したって」
シノブはミュリエルに微笑みを向けた。
ここ暫くのシノブは、こうやって朝食か朝議のときにミュリエルやセレスティーヌに南方探検船団のことを伝えていた。夜になると船団から一日のことが通信筒で寄せられるからだ。
探検船団には通信筒を持った者が二人いる。カンビーニ王国の王太子シルヴェリオとガルゴン王国の王太子カルロスだ。この二人からシノブに探検の様子が送られてくるのだ。
「シルヴェリオ殿からは使者の帰還が明日か明後日、そこから本格的な交渉になるとありました。そして一段落するのは月を跨ぐだろうと。シノブが出向くのは、その後でしょう」
シャルロットはミュリエルに顔を向けると、優しい笑みと共にシノブの言葉を補った。彼女の動きに合わせて緩やかに波打つプラチナブロンドが煌めく様に、シノブは見惚れてしまう。
シノブは同じ部屋で寝起きするシャルロットや、居室を挟んで反対側を寝室としているアミィには間を置かずに新たな情報を伝えている。しかしミュリエル達は、それぞれ別の区画で暮らしているから昨日の分までは知らないのだ。
なお、結婚式の日程はシルヴェリオ達も承知している。それに彼らは自分達で南方大陸交易の道筋を付け、その後シノブ達を招待しようと考えている。
しかし南方大陸には竜や光翔虎に匹敵する巨大な魔獣が棲んでいるという。そのためシノブは、緊急事態であれば駆けつけるつもりであった。
もっとも探検船団が着いた辺りには、そのような大魔獣は生息していないらしい。向こうからの知らせによれば、現地の者から魔獣の領域はもっと内陸だと教わったそうだ。
「だから、南方の人に会うのは来月だね」
シノブも南方への興味はある。
シルヴェリオ達が出会った南方大陸の住人は、黒い肌の人族と獣人族であった。しかも獣人族には獅子や虎に加え、エウレア地方では目にしない豹の獣人もいるそうだ。それに内陸部の奥深くには、更に別の種族もいるらしい。
また、植物や気候も随分違うようだ。探検団はエウレア地方に存在しない食べ物で持て成されたという。それらもシノブの心を惹きつけていたのだ。
「良かったです! 南方の人達とはお会いしたいですが、折角の結婚式ですから!」
ミュリエルの可愛らしい顔に笑みが宿る。
絵本で見た南方の黒い肌の人やエウレア地方には存在しない風物に、ミュリエルは強い興味を抱いていた。しかし一方で、彼女は親しいアリーチェや同じベルレアン伯爵領の出身であるカロルの結婚式を、とても大切に感じているようだ。
複数の妻を娶る高位の男性はともかく、殆どの女性にとって結婚は一生に一度だけの重大事だ。そのためミュリエルは、親しい女性達の晴れ舞台に国王であるシノブが欠席する事態になってはと案じたのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ様……唐突ですが、馬車での旅は如何でしょう?」
南方に関する話が一段落したと思ったのだろう、アミィが口を開く。
アミィは、この話を切り出すタイミングを計っていたらしい。彼女は薄紫色の瞳を輝かせ、傍目にも明らかなほど浮き浮きした様子でシノブの返答を待っている。
「馬車? 旅は楽しいし勉強になるけど、昨日まで出かけていたからね……」
シノブが口にした通り、ここ数日の彼は外出がちであった。まずはアマノスハーフェンに一泊二日のお忍び旅行。その翌日、つまり一昨日は『白陽宮』で過ごしたものの、昨日は再びイーゼンデックでアルマン共和国の船団を歓迎した。
シノブには通信筒もあれば神殿や魔法の家での転移もある。そのため彼は微行の間も政務に携わっているし、昨日の歓迎式典は国王としての公務である。したがって遊んでいたわけではないが、暫くは王都で仕事に励むべきだとシノブは考えていた。
「シノブ、旅では多くの成果が得られました。
新たな地を知り、そこに集まる人々の暮らしを見て、生じた問題を解決した。人々の笑顔を増し、賓客を持て成し、次の一歩を後押しした……この国の統治者として、実に素晴らしいことです」
「シャルお姉さまの仰る通りですわ! シノブ様、イーゼンデックの皆様が抱いた感動や喜び、他の地にも届けてくださいませ!」
シャルロットやセレスティーヌは、シノブに更なる視察をと勧める。どうやら二人はイーゼンデックでの一件で、シノブの訪問が民の生活の向上に繋がり国益にもなると実感したようだ。
「あの……シノブさま、ご都合次第ですがバーレンベルクを訪れていただけないでしょうか?」
「どうしてかな?」
ミュリエルの控えめな提案にシノブは疑問を覚えた。
バーレンベルク伯爵領はイヴァールが治める地だ。バーレンベルクの北方に聳えるノード山脈には鉱山が多く、ドワーフであるイヴァールの力が大きく活きるとシノブは考え、彼をバーレンベルク伯爵に任じたのだ。
実際にイヴァールは故国であるヴォーリ連合国から大勢の同族を招き、彼らは鉱夫や鍛冶師として早くも活躍している。しかも折り良く西のゴドヴィング伯爵領やメグレンブルク伯爵領と結ぶバーレンメグ街道も開通し、商人達も多く訪れ賑わっている。
このように順風満帆な土地だから、シノブは視察を急ぐ必要性を感じなかったのだ。
「東部の北の三伯爵領には鉱山があるし、鉱脈も眠っていると思います。
今はドワーフさん達もそちらまで手が回らないようですが、バーレンベルクを視察すれば解決策が見つかるかもしれません」
成功している地だからこそ見るべきだと、ミュリエルは思ったようだ。
ミュリエルが言う通り、東部の北に存在するゾットループ、エッテルディン、ゾルムスブルクの三領は鉱山もあるし鉱脈が埋もれている可能性も高い。もちろん帝国時代にもある程度は開発されているが、シノブ達にはアムテリアが授けてくれた地脈調査の神具『フジ』がある。
そのため良い鉱脈を見つけるだけなら容易だが、これまた彼女が指摘したように人手が足りなかった。ドワーフ達も、同族が治めている上に自国とも近いバーレンベルクを中心に移住したからだ。
現在のところ王領とその西側、つまりバーレンベルク、ゴドヴィング、メグレンブルクの北部にドワーフ達は集中している。例外はイーゼンデックだが、こちらは海に面した地に住むブラヴァ族で、しかも彼らは隷属を解いてくれたシノブに恩を感じて移り住んだから、他とは事情が異なる。
「確かにね。ゾットループから東は旧来の鉱山しかないし、そっちにはドワーフの優れた技術が入っていない。新規開発を別にしても、現在の鉱山の労働環境改善だって必要だ」
シノブはミュリエルの提案に大きな意義を見出した。まずはエウレア地方で最先端と言うべきバーレンベルクの鉱山を確かめ、そこで知った事柄を東の三領に活かす。それらは喫緊で取り組むべきことだとシノブは感じたのだ。
もちろん東部からもバーレンベルクなどに学びに行っているが、内政官達だけに任せておくべきことではない。そもそもゾットループなどの三領は国王が伯爵を兼務している。つまりシノブ自身が領主であり、自らも動くべきである。
実際にゾットループ以東の鉱山には問題が多く、一旦閉山にしたところも多かった。帝国時代の鉱夫は奴隷とされた獣人族であった。したがって安全性を無視して採掘を優先した鉱山も稀ではない。
メリエンヌ王国が軍管区としてからは充分に安全が確保できる場所だけ採掘し、他は将来ドワーフ達が調べるまで閉鎖している。そして調査には時間や人手が必要だから、アマノ王国となってからも状況は殆ど変わっていない。
「あの木人が使えれば良いのですが……」
「今のところ私やホリィ達、後はエルフの巫女さんだけですね……シノブ様も少し練習すれば出来ると思いますが。ただ、鉱夫とするほどの数を確保できるか……」
シャルロットの呟きに、アミィが苦笑いを浮かべつつ応じた。ヤマト王国で発見した木人は、シャルロット達や閣僚など一部の者に見せたのだ。
人の三倍はある木人の強力は、確かに土木作業に向いているかもしれない。しかし魂を乗り移らせて操縦するだけに、動かせる者は限られていた。
メリエンヌ学園の研究所にはエルフのファリオスやメリーナなどがいるし、メリーナは森の女神アルフールの依り代となった優秀な巫女だ。
実際にメリーナは木人を動かせたし、そのときの木人は充分な力を発揮した。しかしアミィが言う通り、人足とするには数が足りない。そこで現在は、メリーナを中心に将来に備えて研究を進めているだけだ。
「確かにあれなら落盤も怖くないけど……ともかく鉱山の視察は必要だね。南の伯爵領は農業の推進で良いだろうけど、北は限界がある。もし西部に受け入れる余地があれば、当面は出稼ぎしてもらっても良いな。その辺り、三領の伯爵としても確かめてくるよ」
シノブも兼務する三領については報告を受けているし、気には掛けていた。それに可能であれば、近いうちにイヴァールと共にゾットループからゾルムスブルクまでを周ってみようとも思っていた。
それらもバーレンベルクに行ったらイヴァールと相談してみよう。シノブは建国式典以来に会う友人の顔を思い浮かべつつ、頬を緩ませていた。
「ええ、そうしてください。
……ところでアミィ、馬車の旅を勧めるのはどうしてですか? 鉱山と行き来する隊商の様子も確かめた方が良いのは確かですが」
シャルロットは楽しげな表情となった夫に優しく頷いた。そして次に彼女は、アミィへと顔を向ける。
鉱山だけを開発しても不充分というのは、シャルロットにとって常識以前のことだ。何しろ彼女はヴォーリ連合国との国境に位置するヴァルゲン砦の司令官だったから、鉱山に通う者達や精錬された金属を運ぶ隊商を良く知っている。
しかしアミィは馬車の旅自体を勧めているようである。彼女は鉱山やバーレンベルクが話題に挙がる前に、馬車で旅してはと口にしたからだ。
「実は、先ほどアムテリア様から馬車を授かりまして!」
アミィは頭上の狐耳をピンと立て、これ以上ないほどの笑顔と共にシャルロットに応える。彼女の瞳は『陽だまりの間』に差し込む陽光さながらに輝き、頬は『小宮殿』の庭に咲く薔薇のように赤く染まっている。おそらく背後では尻尾が大きく揺れていることだろう。
「そうか……なら、今日は馬車の旅だね」
「はい! シノブ様、とっても凄い馬車なんですよ!」
ようやくアミィの真意を察したシノブは、彼女に劣らぬほどに顔を綻ばせた。そしてアミィは、シノブ達に女神からの贈り物について語り出す。
そしてシャルロット、ミュリエル、セレスティーヌの三人は、新たな旅へと向かう主従を空に昇り往く朝日と同じくらい温かな表情で見守っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「これは……全く揺れませんね……」
「ど、どうなっているのでしょうか!?」
驚愕の表情を顕わにしているのは、交易商のファブリ・ボドワンとモカリーナ・マネッリである。二人は、アムテリアが授けてくれた馬車に乗っているのだ。
猫の獣人であるモカリーナは頭上の猫耳を真っ直ぐに立て、忙しげに左右を見回したり足元を確かめるように俯いたりしている。それに彼女の尻尾は、長椅子の柔らかな座面の上で内心の驚きを表すように大きく揺れていた。
人族の中年男性ボドワンは耳を立てることは出来ないし、動かす尻尾も無い。しかし彼も目を丸くし、車内の随所を眺めたり本当に動いているのか確認するように外に顔を向けたりと落ち着かない。
「この馬車は特別製だからね」
驚く二人にシノブは苦笑を隠せなかった。それは彼の両脇に座る少女達、アミィとマリィも同じである。
馬車の中は、かなり広い。長椅子が四つあり、前方の二つが後ろ向き、後方の残り二つは前向きに据えられている。これはエウレア地方の高級馬車に一般的な形式だ。
普通は中央の向かい合わせの二脚に主や客が座る。今は前側にボドワンとモカリーナ、そして後ろ側がシノブ達三人だ。
外側の残り二脚は従者達の場所だ。今は大半が空席で、最後尾の一脚にシャルロット付きの侍女リゼットとシノブ付きの従者レナンが座っている。この二人はボドワンの娘と息子だから、シノブが今回の旅の供としたのだ。
「変装の道具と同じですわね」
マリィはシノブの頭上に視線を向けた。そこには丸みを帯びた耳と、金の地に黒の縞が入った髪がある。
今回シノブとアミィ、マリィの三人は南方に多い虎の獣人に変装した。彼らは自分達をモカリーナの伝手で来た商人としたのだ。そして後ろの二人、レナンとリゼットは猫の獣人だ。二人は父親と同じで人族だが、どちらも小柄で細身だから違和感はない。
もちろん、これらはボドワンやモカリーナは承知している。シノブは二人のところを訪れた際に、正体を告げていたからだ。
なお、慣れた狼の獣人に変装しなかったのは、イヴァールが治めるバーレンベルクだからである。
ここにはドワーフ達やフライユ伯爵領からの者が多いから、狼の獣人ではシノブ達だと察するかもしれない。しかも、これから向かう鉱山ではイヴァールが陣頭指揮をしているという。そうなると、ますますフライユでのことを知る者がいる可能性は高い。
「そ、そうですか……あの魔法の家のような?」
「ええ、魔法の馬車です。あ、もちろん内緒ですよ?」
何やら納得したようなボドワンに、アミィが笑顔と共に頷いた。
ボドワンは、シノブが岩竜ガンドやヨルム、そしてオルムルと友誼を交わした記念すべき旅も知っている。そしてボドワンは魔法の家に入ったこともあるし、モカリーナも彼と同じくカンビーニ王国への訪問に同行した仲だ。そのため、どちらもこの馬車が稀なる秘宝だと悟ったようだ。
「これもカードになるのですか!?」
「はい。お二人にはお教えしますが、後ろの壁には隠し扉があって、その向こうには部屋があります。魔法の家と同じで、外見の何倍も広いんですよ」
興味津々のモカリーナに、アミィは少しばかり自慢げな様子で魔法の馬車の概要を説明する。全く振動が感じられない車体は驚くべきものだが、この馬車にとっては単なる一機能でしかなかったのだ。
アミィの言う通り、魔法の馬車には隠し部屋がある。後方の壁は車内と車外の仕切りだが、実際には隠し扉を開けると更に馬車数台くらいの空間が存在する。そこには簡単なキッチンと居室、更に二つの寝室があるのだ。
そして居室の一角にはアムテリアと六柱の従属神を描いた絵画が掛かっている。この絵は何と転移が可能であり、車内から王都アマノシュタットへの帰還すら出来た。
更に車体は幻影で偽装できる。本来の外装は内部と同じく王家の馬車に相応しい豪奢なものだが、今は裕福な商人が使う程度に変えている。
カードになるから持ち運びも容易だし、転移が出来るのも非常に助かる。おそらくアムテリアは、各地を周ることが増えるであろうシノブのために、この馬車を用意したのだろう。
「そんなわけですから、内密にお願いしますわ。もっとも、誰かに言っても信じてもらえないかもしれませんが……」
マリィは悪戯っぽい笑みを浮かべている。確かに彼女が言う通り、そこらで言い触らしても正気を疑われる可能性は高い。
「はい! 当然秘密にいたします!」
「大神アムテリア様に誓います!」
ボドワンとモカリーナは、シノブ達に向かって深々と頭を下げた。
シノブに近しい者達は既に彼やアミィ達のことを神々と何らかの関係があると察しているし、ボドワンやモカリーナも同じである。したがってモカリーナの神に誓ってというのは言葉の通りの意味だろうし、口には出さないもののボドワンも神々への畏れを顕わにしていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「ボドワン、今回はバーレンメグ街道を通ってきたのだったね?」
馬車については一段落したと感じたシノブは、交易のことに話を移す。
シノブ達がいるのは、イヴァールの領地であるバーレンベルク伯爵領の西側の都市ライムゼナッハだ。今はノード山脈に向かうべく、北への街道に繋がる大通りを進んでいる最中である。
ミュリエルがボドワン達の予定を知っていたから、シノブ達は大して時間を掛けずに彼らの合同隊商に合流できた。先行したマリィが、昼前のライムゼナッハでボドワン商会とマネッリ商会の馬車を発見したのだ。
「はい、シノブ様……シノリーノ殿の通ってきたことになっている領都シュタルゼンの逆、メグレンブルク伯爵領からの経路です」
ボドワンは、シノブの偽名や通過したことにした都市を口にした。
シノブは、ボドワン達とは別の経路で来たカンビーニ王国の商会主ということにした。交易商アノーマ商会のシノリーノが、今回のシノブの姿である。ちなみにアミィとマリィは、シノリーノの妹のアーミアとマーリアだ。
シーノとアニーでは、この隊商にも知っている者がいるかもしれない。そこで名前も少しだけ変えてみたわけだ。
「シェロノワを出発してから二週間、順調な旅でした。バーレンメグ街道に入ってからはドワーフの護衛も付けたので被害も無く済みました」
モカリーナの言うように、二人の商会を中心にした合同隊商がシェロノワを発ったのは6月13日であった。
シェロノワからライムゼナッハまでは、およそ600kmである。この世界の馬は身体強化ができるから隊商が使う荷馬車も一日およそ50kmは進める。とはいえ途中の都市に留まることもあるから、山がちな土地で二週間なら、かなり優秀な方だろう。
「魔獣は多いのですか?」
「二回だけでした。若い大爪熊が一頭ずつですし、ヴォーリ連合国に比べれば楽なものです」
ボドワンは言葉通り大したことではないと思っているのだろう。彼は問うたアミィに笑顔で答えた。
人の住む地に降りてきた魔獣は、彼らの領域で縄張り争いに負けたものが殆どだ。したがって、よほど大規模な発生や領域内で大異変でも起きない限り、単独で現れる場合が多い。そして今回も同様で、ドワーフ達が投げた戦斧で瞬く間に退治されたそうだ。
「そういえば、バーレンベルクからメグレンブルクにも竜が棲家を造ったな……」
シノブは竜達の棲家の配置を思い出す。
王領の北に炎竜ジルンとニトラ。先日フェルンが誕生したばかりの場所だ。そして王領の西のバーレンベルクに同じく炎竜のザーフとファーク、ゴドヴィングに炎竜の長老アジドとハーシャ、メグレンブルクに岩竜の長老ヴルムとリントである。
このうち若いザーフ達は産卵も考え狩場を設置するようだが、長老達は高山の上に棲家を造っただけだ。流石に八百歳を超えた竜達は、次世代を産み育てることはないらしい。
それはともかく、彼らは麓に魔獣が降りないように目を光らせてもいる。そのため人の住む地に迷い込む魔獣が減ったのだろう。
「こちらに来るまでの間も、竜の皆様が山の上を舞う姿を何度も目にしました……ありがたいことです」
「新人の御者が驚いて道を外れそうになったことはありましたけど……あっ、シノブ様! 後ろが!」
しみじみと語るボドワンと対照的に、モカリーナは少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。しかし彼女は、唐突に叫び声を上げた。
◆ ◆ ◆ ◆
モカリーナが見つめているのは、シノブの背後の壁である。彼の後ろの壁が扉のように開いたのだ。しかも扉が開く直前に馬車の窓のカーテンが自動的に閉まり、室内に灯りが点っている。
仮に車内を覗く者がいたら、外と隔てるだけの壁から人が現れたら訝しく思うだろう。カーテンが閉まったのは、その対策に違いない。
「シノブ様~、申し訳ありません~。見ていただきたい書類がありまして~」
扉を開いて現れたのは、ミリィであった。今日の彼女は人族の少女の姿である。
ミリィは何枚かの紙を手にしていた。おそらく、それが彼女の言うシノブに目を通してほしい書類なのだろう。
「それじゃ王宮に……」
「いえ~、奥の部屋で大丈夫です~」
もしかすると署名でも必要なのだろうか。立ち上がったシノブに対し、ミリィは隠し部屋に来てほしいと答えた。
「アミィ、お使いのご褒美ください~」
「もう……」
ミリィが要求しているのは魔法のカバンに入っているチョコレートだろう。そう察したらしきアミィが、苦笑しながら席を立つ。
「それじゃボドワン、モカリーナ。しばらく失礼するよ」
シノブはボドワン達に断りを入れ、後ろへと向かっていく。そして彼はアミィとミリィを連れ、扉の中に姿を消した。
「これは便利ですね! この馬車があれば、本店で面倒ごとが起こってもすぐに対応できます!」
モカリーナは、感動と羨望が滲む声を漏らす。
もっともモカリーナも、このような特別な馬車が世間に広まるとは思ってはいないだろう。しかし彼女は、そのような便利な世の中とそこでの商売を想像したらしく、遠くを見つめるような顔となる。
「確かに商売には役立ちますが、旅先から呼び戻されるのはどうでしょう?」
一方のボドワンは、少しばかり戸惑いを感じているようだった。彼は利点と同時に忙しさが増すことにも気が付いたらしい。おそらく、実際にシノブが王宮の仕事で呼ばれる様子を見たのが大きいに違いない。
「……父さんが使うことはないだろうけど」
「そうね。シノブ様だからよね」
今まで黙したままであったレナンとリゼットが、マリィの後ろで囁き合う。確かに女神の贈った馬車を使うのは、シノブくらいだろう。
「人が転移する馬車は無理でしょうけど、魔力無線を乗せた馬車なら商人の皆様が使う日も来るでしょう」
マリィが言う魔力無線とは、現在はそれ自体が馬車を丸ごと必要とするような巨大な装置だ。しかし、いずれは商人でも携帯できる大きさになるに違いない。
「そうですな……そうなれば……」
「待ち遠しいですね! 私なら……」
マリィの指摘にボドワンは大きな唸り声を上げた。そしてモカリーナも期待の滲む声で応じる。さほど遠いことではないと感じたのだろう、二人は来るべき日にどう対応するか真剣に考えているようだ。
そんな商人達に、マリィは少女の外見に似合わぬ慈しみに満ちた顔を向けていた。
神から授かった道具ではなく、人の作り出した道具で発展していく。それは眷属である彼女にとって素晴らしいことなのだろう。
北に向かう馬車の中に、商人達が語る未来図が広がっていく。そしてマリィは、明日へと進んでいく者達を太陽のように温かな笑みで優しく見守っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年8月7日17時の更新となります。




