18.04 港の牛 後編
ビーレア村とは、港町アマノスハーフェンの西に位置する酪農が盛んな農村だ。麦や野菜も作ってはいるが、村人が食べる分で量は多くないという。どうやら、これは村の立地が大きく関係しているらしい。
村の北端はイーゼンデック伯爵領の領都ファレシュタットからアマノスハーフェンを結ぶ街道に接している。西がファレシュタット、東が出来たばかりの港町アマノスハーフェンだ。
この最近拡張された街道のすぐ南が村の中心で家々は北西の角辺り、農地は街道に沿って置かれている。この辺りは比較的低地で、しかも街道に並行して流れる大きな川の水を引けるからだ。
それに対し街道から少し南に離れると小高い丘ばかりで、上に水を運ぶのは困難である。
ビーレア村やアマノスハーフェンを含むイーゼンデックはアマノ王国で唯一海岸を持つ地だから、国内の全ての河川が集まっている。しかし村の南側は周囲に比べると高台で、丘の上には雨水による小川しかない。
幸い海から吹き込む湿った風や雨雲のお陰で一定の水は得られるし、東の港町から南に続く海岸は100m近い断崖の上とはいえ塩気も得られる。そのため牧草なら充分に育つし、塩分は牧畜に欠かせない。
それらの条件が重なり、ビーレア村は古くから酪農業を主力としたのだ。
もっとも帝国時代は、村の者が集落の方針を決めていたわけではない。
各地の産業は領主や内政官、つまり人族の支配者層が決め、奴隷である村人達は彼らの定めたものを職とする。これが数ヶ月前までの姿だ。
とはいえ領主達も自然に逆らったものを作れとは言わず、各地の村の産物は概ね理に適ったものであった。
「……昔からビーレア村で最上の肉牛は領主に献上されたそうだ」
シノブは愛馬リュミエールの背の上で、ビーレア村について語っていた。今、シノブ達は朝の街道をビーレア村に向かって進んでいる。
前日と同様にシノブは狼の獣人に変装しているが、身なりは上等なものに改めた。今日はビーレア村を訪れるため、一旦王都に帰って商人に扮したのだ。
シノブがメリエンヌ王国から来た若き商会主、アミィは妹だ。そしてシノブの親衛隊長エンリオは護衛の老武人、従者のミケリーノがその孫という配役である。なお、アミィ達三人も狼の獣人に姿を変えている。
ビーレア村は観光に訪れるような場ではないし、働き手も募集していない。そうなると前日に扮した地方から職を求めて来た家族では都合が悪い。それに話を聞くなら、産物を買い付けに来た商人の方が相手も身を入れてくれるだろう。
そして村までは少しばかり距離があるし、広い牧場を見物するなら乗馬の方が良い。そこで今日は馬達を王都から連れて来た。
早朝シノブ達は『白陽宮』に戻り、馬の準備をしてもらった。その間に四人は衣装を変え、シノブとアミィは多少の仕事も片付けた上で港町の近くに戻ったのだ。
そんなわけで、アミィ達も馬上の人である。アミィは彼女の乗馬であるフェイ、ミケリーノも王宮から連れて来た名馬に乗っている。そしてエンリオは何とシャルロットの愛馬アルジャンテに跨っていた。
これには少々理由がある。馬丁によると、アルジャンテは兄のリュミエールが馬房から出されるのを見て、自分も連れて行けと嘶いたそうだ。
当然エンリオは恐縮した。しかし今更戻す方が機嫌を損ねるという馬丁の言葉に、彼は躊躇いつつも国有数の名馬の乗り手となったのだ。
もっとも、どの馬も単なる商人や護衛には過ぎた代物だ。そこでアミィの作った魔道具で毛並みをありふれた茶色に変え、何とか誤魔化してはいる。
「だから酪農以外は最低限で許されたのですね……」
ミケリーノは悲しげな声音で呟いていた。猫の獣人であるミケリーノは、同じ獣人族が歩んだ苦難の道を想起しているらしく、整った顔に憂いを浮かべている。
「非道の領主も美味いものは美味いと思うのですな」
エンリオは苦々しげな口調であった。どうやら彼は、帝国時代の圧政を想像し憤慨したらしい。
昨日シノブ達は宿でビーレア村が誇る牛肉、現在はアマノ牛と名付けられ王室御用達となった名産品を味わった。
もちろん普通の宿に卸す肉は、王室が買い上げた極上品とは違う。しかし、サッと焼いたステーキは肉汁も溢れ蕩けるように柔らかく、四人はお代わりまでしてしまったくらいだ。
丹精篭めて育てたから、この味があるに違いない。だが、その背景には過去の為政者による抑圧や強制があった。それに思い至ったエンリオが複雑な気持ちになるのも無理はなかろう。
「これから幸せになってもらえば良い。そのために頑張ろう」
「はい! 過去を変えることは、誰にも出来ませんから!」
国を預かる者として、言葉だけで終わらせてはいけない。そんなシノブの決意を感じたのだろう、アミィが嬉しげな声で応じた。
過去を知るのは大切だ。人は過去からの思いを抱えて生きている。しかし過ぎたことに囚われてはいけない。これまでを知るのは、これからを創っていくためだから。
エンリオやミケリーノにも、シノブの心の内が伝わったのだろう。彼らの顔にも笑みが戻る。それどころかリュミエールを始めとする馬達まで、最前より誇らしげに首を上げ蹄の音も高く響かせていた。
シノブ達を後押しするように東から爽やかな風が吹いてくる。それはアマノスハーフェンの潮の香が乗った新たなる風だ。
アマノスハーフェンは、シノブが北西から南東に向けて造った長大な谷の先にある港町だ。左右は以前からの高さ100mにもなる絶壁で、そこから急角度に下った中央に真新しい港がある。
谷を切り開いたときに出た岩を元に港を囲む両腕のように長く背の高い防波堤が二重に築かれ、その中には同じく大型船が何隻も停泊できる立派な埠頭が何本も突き出している。
この港に隣接した場所に街があり、更に数km先の谷の入り口、北西の果てへと上り坂の立派な道が伸びていた。
そしてシノブ達がいる街道は、谷の入り口から西方の領都ファレシュタットに向かうものだ。そのため彼らは谷を昇ってきた海からの風を受けて進んでいるのだ。
長大な谷が通り道となるのだろう、かなり谷の入り口から離れたというのに、西への風は衰えることがない。そのためだろう街道の両脇の木々や草も、シノブ達の進む方向へと靡いていた。
「風すらシーノ様を応援してくれるようですな……」
「はい! そしてシーノ様の行く先には、沢山の笑顔が生まれます!」
今日のエンリオとミケリーノは護衛である。そのため二人はシノブに敬称を用いていた。
シノブとしては残念なことだが、エンリオ達は従者の方がありがたいらしい。演技とはいえ国王であるシノブに祖父や弟として親しげな言葉を掛けるのは、彼らにとって胃の痛いことのようだ。
それに従者であれば、王への賛辞を主へのものとして口に出来る。そのようなわけで、今日の二人は前日よりも肩から力が抜けているようだ。
港が出来ておよそ一ヶ月。領都と港町の間は急速に道が整備されている。しかし、この辺りはまだ舗装しているのは中央だけだ。馬車一台が通れるだけの石畳の両脇は、どちらも倍以上が未舗装なのだ。
だが、そんな田舎風の街道は周囲の光景に良く似合っている。シノブ達の左右には、広大な小麦畑が広がっていた。
南は少し行くと小高くなっており、そこから牧草地だが、北は何倍も遠くまで続いている。ちなみに南側の畑が、ビーレア村のものだ。
とはいえ、どちらも金色に輝く穂が揺れているのは同じだ。西からの風を受け黄金の波が大地を満たしているのだ。
そして収穫期を迎えた畑では、大勢の男女が働いている。多くは熊の獣人らしき老若男女の顔には、ミケリーノの言葉通り金色の大海原にも負けない輝きが宿っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
──シノブ様、暴れ牛が来ます! 南側です!──
長閑な風景に目を細めていたシノブの脳裏に、ホリィの思念が響いた。
反射的に左側に振り向いたシノブが見たものは、丘の上から駆け下りてくる巨大な雄牛であった。そして僅かに遅れ、猛牛の雄叫びと漆黒の巨体が起こす地響きが辺りを満たす。
「う、牛が!」
「逃げろ!」
シノブ達に僅かに遅れ、南側の村人達も気が付いた。彼らは農具を放り出し、慌てて街道へと走り出す。
牧草地と畑の境界には、人の背を遥かに超える木の柵が設けられている。人の胴ほどもありそうな丸太を組み合わせた頑丈なものだ。
しかし暴れ狂う黒牛は並外れた巨体であった。肩の高さは大人の頭を超えるし、胴の長さだけでも巨馬であるリュミエールの鼻先から尾までありそうだ。しかも角が長い。頭を下げ気味にして前方に突き出した二本の角は、大人の腕に匹敵する長さだ。
村人達は、勢いを付けて坂を下る暴れ牛が柵を破ると思ったのだろう。確かに、そう思っても仕方ない巨大さであり速度であった。
「……あれがアマノ牛?」
「大物だな……どれだけ肉が取れるだろうか?」
ミケリーノとエンリオは呆然とした面持ちで呟いている。二人は昨日の夕食で舌鼓を打った美味が、あのような猛り狂う巨獣だとは思わなかったようだ。
──子供が逃げ遅れました! 畑の真ん中です!──
「本当だ! 畑に子供が!」
麦の穂に隠れているが、急降下するホリィの向かう先には子供がいた。シノブからは見えないが、魔力は確かに存在する。
「私も行きます!」
「ここは私が!」
アミィを留めるように、エンリオの声が響く。そして彼は、シノブやアミィの答えを待たずにアルジャンテから飛び降り、金の穂が揺れる畑へと駆け出した。
──ホリィ、エンリオの支援に回って!──
──判りました!──
エンリオなら、何とかしてくれる。そう思ったシノブはホリィに思念を送った。ホリィも同じ考えらしく、彼女は大きく翼を広げ速度を減じた。
親衛隊長にエンリオが着任した直後、腕前を見せてもらおうと思ったシノブは彼と共に魔獣の領域に赴いた。そこでエンリオは、体長4m近い雪魔狼を一刀の下に切り捨てた。アルバーノの父だけあって、彼も並の腕ではなかったのだ。
ホリィもエンリオの腕前をシノブから聞いた。そのため彼女も、安心して新任の親衛隊長に活躍の場を譲ったようだ。
「雄牛よ! 息子から教わった技を試させてもらうぞ!」
エンリオは、僅かな間に畑の向こう側まで達した。既に彼は丸太の柵すら越えている。
「息子ってアルバーノかな?」
「だとすると、シノブ様が教えた技かも……」
シノブとアミィは良く似た苦笑を浮かべていた。
以前シノブはアルバーノ達に武術らしきものを教えた。彼やアルノーなどが、シノブの故郷の武術はどんなものかと問うたからだ。
もっとも、この世界の強力な身体強化が使える武人達に教えるような技など、地球にいたころのシノブは修得していない。そこで彼は様々な創作物から説明しやすい架空の技を選び、アルバーノ達に故郷の技として伝えたのだ。
「あっ、お爺様が潜り込みました! ええっ!?」
ミケリーノが言う通り、エンリオは暴走する雄牛の下に一瞬にして入り込んでいた。そして彼は黒い巨体を下から担ぎ上げ、そのまま宙に跳び上がる。
まさか雄牛を殺すのでは、とシノブの脳裏に嫌な想像が浮かぶ。
シノブがアルバーノ達に教えた技は、逆さに担ぎ上げた後に落下の衝撃で関節を破壊するというものであった。エンリオは単に担いだだけだが、牛自体の重さが相当なものだから投げ落とすだけでも骨折くらいはするだろう。
もしそうなったら屠殺されるのは間違いない。もちろん肉牛だから、いつかは屠られるのだが、育てた牛飼いならともかく他者が軽々しく命を奪うべきではない。シノブは、そう思ったのだ。
しかしエンリオの次の一手に、シノブ達は笑顔になる。
「溜池か!」
「あれなら大丈夫ですね!」
巨大な水柱が生まれる中、シノブとアミィは笑みを交わしていた。
エンリオは牧場の片隅にあった大きな池に猛牛を放り投げたのだ。水柱からすると、池は相当な深さなのだろう。
そして僅かな間を置いて水面に浮かび上がってきた雄牛は、大きく首を振ると池の端へと向かっていく。おそらく水に落ちて頭が冷えたのだろう、雄牛は夢から覚めたような大人しさで水滴も眩しい草原へと戻っていったのだ。
やはりエンリオに任せて正解だったらしい。村人達や興奮を顕わにしたミケリーノの歓声が響く中、シノブは妙技を披露した老武人に大きな拍手を送っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
雄牛は蜂に刺されて驚いたようだ。耳の内側という敏感な場所を刺されたから狂奔したらしい。しかしアミィが治癒魔術を使ったから、雄牛は牛飼い達に牽かれ大人しく牧草地に戻っていった。
「本当にありがとう。しかし兄さん、やっぱり立派な商人だったんだなぁ。こんな腕利きを雇っているなんて……」
惚れ惚れした表情で語っているのは、アマノスハーフェンの公衆浴場で出会った中年の熊の獣人オイゲンだ。彼はリュミエールの脇を歩きつつ、その背に跨ったシノブを見上げている。
麦畑にいた逃げ遅れた子供は、オイゲンの娘だった。そしてオイゲンは、暴走した雄牛を追って丘の向こうから駆けてきたというわけだ。
「その場にいれば俺達だって留めるくらいは出来るが……駆け出しちまうとな」
「俺達は足が遅いからなぁ」
オイゲンに続いたのは、彼の息子で同じく熊の獣人のグスタフだ。オイゲンの家族は、全員が熊の獣人なのだ。
グスタフはミケリーノと同じで十二歳の少年だが、こちらも見習いの牛飼いとして働いている。そして彼も暴れ牛を追ってきたわけだ。
熊の獣人は大柄で怪力だが、走るのは速くない。もちろん充分な身体強化が出来る者なら地球人類より速く走れるが、それは牛の方も同じである。そして、あれだけ巨大な牛が他に劣るわけはない。
「本当に何と言って良いのやら……」
こちらはオイゲンの妻のリンデだ。牛が駆けてきた瞬間、彼女は刈った麦を置きに畑から出る最中だったそうだ。そのため、落穂拾いをしていた娘と離れてしまったという。
「何も無かったのだから、それで良いではないか。なあ、ヘルガよ」
「うん! お爺ちゃん、だ~い好き! ずっと一緒にいたいな!」
エンリオが声を掛けたのはオイゲンとリンデの娘、つまり逃げ遅れた少女ヘルガである。まだ七歳だが忙しい収穫期は立派な戦力で、ヘルガも同年輩の子供達と一緒に手伝いをしていたわけだ。
ヘルガは転んで足を挫いたが、そのくらいはシノブやアミィなら簡単に治せる。そのため今の彼女は、笑顔でエンリオの前に収まっていた。そう、ヘルガは両親や兄とは違い馬上にいるのだ。
暴れ牛を退治したエンリオから、ヘルガは離れようとしなかった。そしてエンリオも愛らしい少女が気に入ったのか、自身と一緒にアルジャンテに乗せた。
どうやらエンリオは、厳めしい外見に似合わず子供好きらしい。
「そうか……儂の孫娘も昔はそう言ってくれたぞ。だが、まさか国を飛び出し何年も会わぬことになるとは……」
ヘルガの髪を撫でるエンリオの呟きに、シノブは思わず表情を改めた。
エンリオの孫娘はソニアだけだ。そしてソニアは行方不明となったアルバーノを探すため、メリエンヌ王国に渡った。
ソニアはエンリオ達のためにアルバーノを探しに行った。しかし当時のエンリオはアルバーノを勘当していたから、彼女は真意を語らず国を出た。もちろん今のエンリオは彼女の行動が自分を思ったものだと知っているが、当時は嘆き悲しんだのだろう。
「お爺ちゃん、かわいそう……」
「いや、孫は儂の大切なものを探しに行ってくれたのだ。そして見事に見つけて戻ってきた。だから、今の儂は幸せだよ」
案じ顔で見上げたヘルガに、エンリオは深い笑みと共に応えた。
エンリオの表情は言葉通りに幸福が滲むものであった。そのためシノブ達の顔も、彼と同じように綻んでいた。
◆ ◆ ◆ ◆
「やはり……」
アミィは厩舎の周辺を歩きながら時折立ち止まり、頭上の耳をピクピクと動かしている。そして彼女は予想通りと言いたげな呟きを漏らすと、更に場所を変えて同じことを繰り返す。
「シーノさん、本当に乳牛が?」
「たぶんね。乳の出が悪くなったのは、この一ヶ月くらいだから……」
見上げるグスタフに、シノブは頷き返す。
ビーレア村では肉牛の他に乳牛も育てているが、一ヶ月ほど前から乳の量が減ったという。それをとある原因によるのではと思ったシノブは、実際に調べに来たわけだ。
当初シノブは、商いの種を探しに来た商人として牧場を見学しつつ調べようとした。しかしシノブ達は暴れ牛の一件でオイゲン達の信頼を得た。そこでシノブは、故郷で同じような例を知っているから調査しようと彼らに申し出たのだ。
一方、エンリオやミケリーノは近隣の村を周っている。二人の役目は、同様の異変が起きていないかの聞き取りだ。
そしてホリィは、ある場所に向かっていた。シノブとアミィの想像通りなら、この件は二人で充分に解決できる。とはいえ、勝手に実施するわけにはいかない事情があったのだ。
「シーノ兄さんの想像通り、牛が敏感な高さの音です。おそらく谷からの風で流れてくるのでしょうが、街道に近いこの辺りは特に強く響くのだと思います」
シノブ達の下に戻ってきたアミィは、自信ありげな口調で報告する。
アミィは耳の良い狐の獣人族でも特に聴覚に優れている。彼女は神の眷属だから、魔力にしろ身体能力にしろ桁違いだ。
しかもアミィは、シノブのスマホから得た能力がある。その中には音の記録や再生、解析もあり、特定の波長が強いかどうかも彼女には判断できるのだ。
「俺には聞こえないけど……」
「いや、確かに牛は高めの音に良く反応する。ところで肉牛は関係ないのか? アマノ牛の出来が悪いと陛下が悲しまれるだろう」
半信半疑のグスタフとは違い、オイゲンには思い当たることがあったようだ。おそらく、牛飼いとしての長い経験で得た知識に違いない。
「先ほど周ってきた感じだと、肉牛の厩舎の辺りは大丈夫みたいですね。それと肉牛は、風が陸に向かって吹く昼間は南にいますから」
アミィが言うように、肉牛は街道から少し離れた場所で暮らしている。どうも遠くの牧草地まで行かせた方が、肉質が良くなるらしい。そのため東側の海に近い辺りや数kmもある牧場の南端まで連れて行くそうだ。
「しかし谷からの風を、どうにか出来るのかい? 陛下ならともかく……」
「それに陛下が造ってくださった港が原因だって言っても……。今の領主様は優しい方だから、怒ったりはしないと思うけど……」
オイゲンとグスタフは新たな国王や領主、つまりシノブやナタリオを随分と高く買っているようだ。
ビーレア村の人々からすれば、新国王は自分達が育てた牛を最高品質と賞して王室御用達と認定してくれた恩人だ。それに新たな領主が派遣した役人は、この村の産業を細かに調べ御用達の推薦をしたり売り方を考えてくれたりと、懇切丁寧に世話してくれた。
そして国王や領主が力を入れている港のお陰で肉やミルクの売り先も増えた。そのため二人は、大恩ある彼らが造り育てている場を悪く言いたくはないのだろう。
「心配いらないよ。実は俺が……」
シノブは真実を打ち明けようとしたが、途中で口を噤んだ。それは、ある知らせが彼に届いたからだ。
──シノブ様、アミィ。ナタリオさんとアリーチェさんを魔法の家にお連れしました!──
「ご説明は、揃ってからの方が良いと思います。では、あちらで呼び出しますね」
アミィは厩舎の脇の空き地に駆けていった。彼女の向かった先は地面が平らで剥き出しだから、魔法の家の呼び寄せに最適だと思ったのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「まさか陛下が……しかも、王妃様やお姫様まで……」
「ウチの乳牛を案じて来てくださったんだって? なんて慈悲深いお方だ……」
シノブの周囲では村人達の感嘆が絶えない。ここは、ビーレア村の集会場だ。村長の一家やオイゲン達、そして近隣の村の代表者までいる。
「陛下、乳牛も落ち着いてくれました!」
「それは良かった。急造の吸音壁だけど効果があってホッとしたよ」
嬉しげなオイゲンに、シノブも同じくらいの笑顔で答えた。そしてシノブの側ではアミィに加え、シャルロットやミュリエル、セレスティーヌが微笑んでいる。
あれからシノブは、呼び寄せたナタリオとアリーチェに事態を説明した。二人は乳牛の不調自体は知っていた。この地の役人達は優秀で、村からの声をナタリオ達に届けていたのだ。
もっともナタリオ達は、海から吹く風に乗った音が原因だと気が付いていなかった。海からの音は可聴域に入っているが、人が気になるほどではなかったのだ。
「あれだけの谷の全てを囲んだの……ですか?」
「お兄ちゃん、谷を造ったのは陛下だよ? 陛下は何でも出来るの!」
驚きを滲ませた熊の獣人の少年グスタフに、妹のヘルガが満面の笑みで応じる。
グスタフが言ったように、シノブは吸音をする穴を開けた壁で谷を囲んだ。また谷の出口には、風を一方向に集めないような工夫も施した。そして音響に関する計算はアミィがしてくれたから、急ごしらえにも関わらず充分な効果を発揮した。
将来、谷に植えた木々が育てば吸音壁は不要になるだろう。しかし植林したばかりの苗木では音を遮ってくれないから、魔術で対処したわけだ。
「良かった良かった! ナタリオ君、これで安心して結婚できるね!」
笑顔と共にナタリオの肩を叩いたのは、宰相のベランジェだ。
既に夕方も遅いから多くは政務を終えている。そこでシノブはベランジェ達も呼んだのだ。
「は……はい!」
「あ、ありがとうございます!」
ナタリオとアリーチェは、揃って頬を染めていた。
二人は七月の頭に結婚する。港も機能するようになったし、アルマン共和国からの先遣艦隊も明日には到着する。先遣隊は二日ほど停泊したら後続を迎えに折り返すから、送り出したらナタリオ達も一段落だ。そのため彼らは、後続が到着して忙しくなる前に式を挙げることにしたようだ。
ちなみに当人達や親族以外で二人の結婚を最も喜んだのは、おそらくマルタン・ミュレと彼の婚約者カロルだろう。二人は他の貴族と合同結婚式にして注目を避けたいと言っていたからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「お待たせしました! アマノ牛でございます!」
「昔ながらのステーキに加え、アミィ様から教わった料理も拵えました!」
オイゲンの妻リンデを先頭に、熊の獣人の女性達が集会場に入ってきた。彼女達が運んできたのは、軽く焼いたステーキに、薄く切った生肉と鍋、それに衣を付けた黄金色の品などだ。
女性達は持ってきた鍋の半分に水を張り、湯沸かしの魔道具の上に乗せていく。そしてもう半分は油を引いて、同じように魔道具の上に乗せる。要するに、しゃぶしゃぶとすき焼きの準備である。
もちろん肉だけではなく、野菜類も充分に用意している。村で採れた野菜から、しゃぶしゃぶやすき焼きに合いそうなものをアミィが選んだのだ。
そして衣を付けたのは、牛カツであった。カツや唐揚げ、フライに相当するものは王族や貴族の料理として存在はしていたが、農村などでは稀らしい。とはいえ村の女性達も知らないわけではないので、こちらはアミィが助言しなくても良かったようだ。
「それでは……『全ての命を造りし大神アムテリア様に感謝を』」
席に着いたシノブが祈りの言葉を口にすると、皆が続く。そしてシノブ達は、ビーレア村自慢の料理を味わっていく。
「これは絶品だね! 建国式典で食べたものに匹敵するよ!」
「そうですね。柔らかで、それでいて溢れんばかりの旨味が凝縮されて……」
ステーキを一切れ味わったベランジェに、同じ選択をしたシメオンが肯定する。普段は大袈裟な表現をしないシメオンが褒め称えるのだから、稀なる味なのは間違いないだろう。
「シノブ、これは?」
シャルロットが選んだのは、しゃぶしゃぶであった。彼女は箸で華やかな赤の肉を摘み上げている。
シノブが箸を使うため、アマノ王家では和食風のものを食べるときには箸を用いるようになっていた。それどころかベランジェやシメオン、それにナタリオやアリーチェまで箸を使える。
従者もシノブと共に食事をすることが多いから、ミケリーノも同様だ。ちなみにエンリオは、隣の孫から箸の扱いを教わっている。
「お湯に潜らせて、タレに浸すんだ。煮すぎない方が美味しいよ。野菜は程よく煮てからが良いね」
シノブは実際にやってみせ、二人の前に置かれた鍋に具を入れていく。
今日の国王陛下は鍋奉行に変身するらしい。お白州での裁きは南の町では無かったから、せめて食の奉行ということだろう。
「これもタレに入れるのですか?」
セレスティーヌは、すき焼きの鍋から肉を取るとアミィへと訊ねた。セレスティーヌとミュリエルは、アミィと同じ鍋を囲んでいたのだ。
「こちらは生卵を溶いたのに浸けるのですが……こちらのタレでも良いですよ」
アミィが示したのは梅肉ソースであった。エウレア地方には日本と同じ梅は存在しないらしいが、彼女は神域でアルフールが育てたものから梅肉ソースを拵えていたのだ。
ちなみに梅肉ソース以外のタレや砂糖、衣のための油なども、アミィが用意したものだ。時間を掛ければタレの多くはビーレア村でも作ることが出来るだろうが、この短時間で用意することは無理である。それに砂糖や質の良い油は貴重だから、アミィは魔法のカバンから必要な量を取り出したのだ。
「さっぱりしたタレですね。この鍋は濃い味付けだから、ちょうど良いです……」
ミュリエルは梅肉ソースを選んでいた。やはり生卵は抵抗感があったのだろう。彼女だけではなくセレスティーヌもアミィが作ったソースの入った器に牛肉を浸している。
「カツも故国のものとは味付けが違う……オイゲン、これらの料理も広めたいな。港の名物になるだろう」
ナタリオはアミィの示した料理を自領に普及させたいようだ。彼の隣ではアリーチェが、側のホリィやマリィ、ミリィに調味料や製法などを熱心に訊ねている。
「ははあっ!」
領主の言葉に一斉に答えた村人達。彼らは真剣な表情で料理を味わっていた。オイゲン達は村の名産品に更なる可能性を見出したのだ。
「エンリオさんが捕まえた巨大牛も、このくらい美味しいのでしょうか~? 食べ比べてみたいですね~」
「ミリィ様。あの雄牛は献上品となる予定ですので、少し先ですが御賞味いただけます。ただ、もう少々育てて更に熟成させますので……」
ミリィの呟きに答えたのは、給仕をしていたオイゲンの妻リンデであった。あの巨大な黒毛牛は先々王家に献上される一頭だったのだ。
「なるほど~! 暴れ牛~、じっくり待てばアマノ牛~、ギュッと旨味が詰まってきます~」
ミリィは、何やら短歌らしきものを詠んだ。
シノブやアミィ、そしてホリィやマリィは声を立てて笑い出す。そして次の瞬間、朗らかな笑い声は集会場に集まった全ての者に広がっていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年8月5日17時の更新となります。




