17.25 新しき朝
華やかで、しかも数々の趣向が凝らされた建国式典は、盛況なうちに幕を閉じた。『白陽宮』は日が落ちても賑やかであったが、それも際限なく続くわけではない。灯りの魔道具があるといっても、この世界の夜は未だ夢の領域なのだ。
興奮冷めやらぬ人々は驚きと喜びを抱いたまま眠りに付き、新しい朝を迎える。そして新たな一日の始まりは、昨日披露された品の一つから告げられていた。
「シノブ、どうしたのですか?」
シャルロットは、小首を傾げてシノブを見つめる。腕を組んで歩いていた彼女の夫は、とあるものを耳にすると苦笑を浮かべたのだ。
ここは『白陽宮』の中でも王族達が住み暮らす場所、『小宮殿』の最奥である。二人が、そしてアミィやオルムル達がいるのは、シノブとシャルロットの居室なのだ。
広い室内には様々な調度が置かれている。豪壮な造りのホールクロックはメリエンヌ王国から贈られた品で、国一番の時計職人の最高傑作だ。
家具はデルフィナ共和国のエルフとヴォーリ連合国のドワーフが競うように拵えた。重厚でありながら細やかな彫刻の美しい木製の飾り棚に、金銀宝石も目に鮮やかなフレームのソファーなどが彼らの贈り物だ。
飾り棚の一つには、各国やこの国の各所から贈られた酒が所狭しと並んでいる。この棚はガラス戸で外部と仕切られ、更にエルフの調温調湿の魔道具が組み込まれている。そのため、品質を保ちつつ部屋の主の目を楽しませてくれる。
もちろん飾られているのは酒だけではない。別の棚には海運に長けたカンビーニ王国、ガルゴン王国、アルマン共和国が収集した奇品珍品が並べられ、更に壁にはアミィが作ったシャルロットや彼女自身の肖像に加え、アマノ同盟の各地を描いた名画が飾られている。
しかしシノブが顔を向けたのは、それらではない。彼が見つめている、あるいは耳を傾けているのは、部屋の隅に置かれた放送の魔道具であった。
「いや、これ本当に国歌になったんだな、って……」
シノブが耳にしたのは、放送の魔道具から流れるアマノ王国の国歌であった。新国家では、新たな朝の訪れを国歌で告げることになったのだ。
魔道具から響く曲は地球ならフルオーケストラと呼ぶべき構成で、それに相応しい多彩で重厚な調べである。しかし響く歌声には、希望溢れる未来を示し人々に活力を与えてくれる明るさも宿っている。
ちなみに録音技術は未完成だから、生放送である。奏でるのは宮廷楽団の若手で、歌うのも同じく若年の宮廷歌手だ。とはいえ宮殿に仕えるだけあって、どこに出しても恥ずかしくない演奏と歌唱である。
『新たなお日様こんにちは、今日も一日頑張ろう、ってことですよね! 良い歌です!』
岩竜の子オルムルは、随分と簡単に歌の意味するところを纏めた。
オルムルは高い知能を持つが生まれて一年にも満たない幼子だ。そのため彼女は、率直な感情表現を用いることが多いようだ。
『僕も好きです!』
こちらは同じく岩竜の子ファーヴだ。彼もオルムル同様に気に入ったらしい。
二頭は先日習得した発声の術を用いている。これまで竜や光翔虎は『アマノ式伝達法』で意思を伝えていたが、音声の方が誰でも理解できるし細やかな表現が可能だ。そのためシャルロットなど思念を理解できない者がいる場だと、オルムル達は声を用いるようになっていた。
『この国は新しい国ですし、エウレア地方で一番東にあるからピッタリだと思います!』
『そうですね~、何となく動き出したくなる歌です~!』
炎竜の子シュメイや光翔虎の子フェイニーにも好評なようだ。それに、海竜の子リタンや嵐竜の子ラーカも長い首を振って頷くような仕草をしている。どうやら、こちらも同意見らしい。
「そうだね……」
シノブは、何と言おうか迷った。この曲は、当初は新国歌として作られたわけではないのだ。
つい先日、シノブは朝の訪れを告げる放送をどんなものにすべきかと宰相のベランジェから問われた。折角放送できるのだから活用したいと、ベランジェが言い出したのだ。そこでシノブは、長きに渡り早朝に放送されている歌を紹介した。
ただし忙しい時期でもあり、シノブは概要を語っただけで歌自体や旋律を教えたわけでもない。光り輝き希望に満ちた朝に相応しい活力の出る歌はどうか、と言っただけである。
しかしベランジェは、そこからどう膨らませたのか新たな日を喜び世の発展を願う名曲を作り上げた。彼は元公爵で、現在はアマノ王国の貴族筆頭の侯爵だ。その教養は大海のように深く幅広く、演奏どころか作曲も得意としていたのだ。
そしてベランジェが親しんできた曲や歌と言えばメリエンヌ王国の宮廷音楽である。それ故彼の作った曲は極めて高度に洗練されており、国歌に推されることになったわけである。
「私も好きですよ?」
頭を掻くシノブに、アミィが意味深な笑みを向けた。地球や日本の知識を持つ彼女は、当然ながら元の曲を知っている。そのため原曲との違いから発したシノブの戸惑いも、充分に理解しているのだろう。
「私も良い曲だと思います。それに、規則正しい生活は何よりも健康に良いですから」
夫と共にソファーに腰を下ろしたシャルロットは、アミィの淹れたお茶に手を伸ばしながら自身の感想を口にした。
王妃となったシャルロットだが、言動には軍人めいたものが滲むことがある。だが、彼女の言葉は事実でもあった。
放送はシノブ達の居室だけではなく宮殿の各所や外でも流されている。『白陽宮』で勤務する者達、軍本部を始めとする要所に詰める軍人達、そして昨日の放送が流された広場から街の者にも一日の始まりが音楽により伝えられていたのだ。
まだ放送が届くのは極めて限られた範囲だが、それでも王都アマノシュタットで暮らす人々に健康的な生活を促す助けとなっていると思われる。
「そうだね。でも、激しい運動はダメだよ。母上から授かった帯があるからといって、油断しないでね」
「はい。ですが、この子も私が体を動かすと機嫌が良いようなのです。……どうすべきでしょうか?」
シャルロットはシノブの忠告に頷きはした。しかし彼女は自身のお腹に手を当てると、困ったような顔をアミィに向けて問いかけた。
二月半ばに懐妊したと知ったシャルロットは、妊娠中期に入っている。そのため微かながら胎動を感じられるようになった彼女は、我が子がどんなときに動くかを把握しつつあった。
そしてシャルロットが宿した子は、母に似たのか運動を好むようだ。シノブやアミィが魔力波動で探ったところ、彼女の思い込みでもないらしい。
「まだ思うようにされて良いですよ! お母さんの気持ちは赤ちゃんに伝わりますから、なるべく楽しく過ごすのも大切です! それに、私も気を付けますから!」
アミィは、朗らかな口調でシャルロットに許可を与える。
確かに母親がストレスを感じたら胎児にも良くないだろう。アムテリアの腹帯もあればアミィが側に付いていてくれる。これらのサポートがあれば、気持ちにゆとりを持った方が良いのかもしれない。
「アミィが言うなら大丈夫だろうけど……ともかく無理はしないでね。俺の可愛い奥さんは良妻で将来は賢母になるだろうけど、それだけは心配だな」
「まあ……」
シャルロットは、自身を抱き寄せたシノブの言葉に頬を染めていた。恥じらいながらも喜びを顕わにする彼女からは先ほどの武人を思わせる凛々しさは霧散し、代わりに新たな一日を最愛の人と迎えた幸せが宿っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
運動には気を付けてと言ったシノブだが、ここ暫くのシャルロットは最低限の鍛錬しかしていない。
それらは女性の武人達で編み出されたもので、子を宿している間の体力維持や産後の早期復帰を目的にしたものだという。シノブの知っているもので最も近いのは太極拳、それも一般向けに改良された健康法に近いものである。
ゆっくりと円を描くように体を動かしていく様は、一見簡単そうに見える。しかし、じれったいほどに緩やかな動作で、しかも時には片足のみで立ち体勢を変えていくのは、高度な身体能力とバランス感覚があってこそだ。
現にシャルロットと共に取り組んでいる女性のうち、マリエッタなど女騎士は舞踏に比す美しさと精妙さを宿した動きだが、アンナのような侍女は型を真似るだけで精一杯のようだ。
「アミィ」
「そうですね……シャルロット様、そのくらいで」
シノブが声を掛けるとアミィが動いた。彼女はシャルロットが無理をしないように見守っていたのだ。
実際のところシャルロットには、まだまだ余裕がありそうだ。しかしシノブとしては、程々のところで切り上げてほしいというのが偽らざる気持ちであった。
「ええ……アンナ、リゼット、行きましょう」
シャルロットは夫が渡したタオルで汗を拭くと、侍女達に声を掛けた。僅かな時間だが体を動かしたからだろう、彼女の笑顔は朝日に負けない輝きを放っている。
シャルロット達は、これから『小宮殿』の浴室に向かう。
『小宮殿』にもシノブが掘った温泉から湯を引いていた。シャルロットやミュリエル、そしてセレスティーヌはシェロノワの館の温泉を大層気に入っているから、『小宮殿』にも同様の設備を整えたのだ。
「はい! シャルロット様!」
「それではシノブ様、失礼します」
アミィはシャルロットの手を取り先導し、アンナ達はシノブに一礼して続いていく。
ここは『小宮殿』の中庭だから堅苦しいことは抜きにしており、アンナ達も陛下と呼んだりはしない。そうしてくれとシノブが頼んだからである。
「さてオルムル達は……」
シャルロットを見送ったシノブは庭の中央に振り向いた。そこには輪になって集っている五頭の子竜と一頭の光翔虎の子がいる。
実は、オルムル達もシャルロットを真似るように緩やかに体を動かしていたのだ。どうも、オルムル達はシャルロットの健康法が気に入ったらしい。鋭敏な感覚を持つ竜や光翔虎が興味を示すのだから、この健康法は充分な効果があるのだろう。
とはいえ幼児ほどに小さくなった竜と光翔虎の舞踊は微笑ましさが先に立ち、お遊戯をしているようにしか見えない。そのためシノブの顔は、大きく綻んでいる。
『ゆっくり右手を出して……』
『左足だけで立って……』
『両手を同時に押し出して……』
岩竜のオルムルとファーヴ、炎竜のシュメイは後ろ足で立つ二足歩行だから、人間の動作を真似るのもさほど難しくはない。もっとも体に比べ前足はかなり短いから、揃えた腕を突き出したり片手を手刀のように構えたりという動きは、どことなくユーモラスであった。
『虎形拳です~、ガオ~』
光翔虎のフェイニーは、後ろ足だけで立って模していた。どうも彼女は重力操作で体を浮かしているらしく、普段が四つ足だとは思えない器用な動きである。
『鰭を大きく振って……楽しいですね』
『円のように……波のように……』
一方、海竜リタンと嵐竜ラーカの動きは、もはや原型を留めていない。
首長竜のような外見のリタンが宙に浮いて鰭状の四肢を振り回している姿を見て、元の動きを想像する者は皆無だろう。ラーカも同様で、東洋の龍に似た長い体をくねらせたり巻いたりする様子は楽しそうだが、健康法と類似する点は殆どない。
しかし、それでもオルムル達が取り組むのには充分な理由があった。
『また魔力の動かし方が上手くなった気がします!』
『アミィさんのお陰ですね!』
オルムルとシュメイは満足そうな声を発し、動きを止めた。そして他の四頭も彼女達に倣う。
シュメイが触れたように、アミィは女性武人達が伝えてきた健康法に『アマノ式魔力操作法』を組み込んでいた。そのため改良された健康法は、更に魔力操作能力が向上しやすくなったという。
「それは良かった。で、今日はどこに行くの?」
シノブはオルムルの頭を撫でながら問いかけた。これからオルムル達は、いつもの如く狩りや飛翔の訓練に出かけるのだ。
『今日はリタンさんの島に行きます!』
『神像からだと、すぐですね!』
シノブを見上げたオルムルは、南の海にある海竜の島に行くと答えた。海竜の島はアマノシュタットからだと南南西に2000kmといったところだが、リタンが言うように宮殿の神像からだと一瞬だ。
『白陽宮』の庭には岩竜の長老ヴルムと番のリントが造った半球状の建物があり、その中の神像は転移が可能である。そしてシノブとアミィは『白陽宮』とシェロノワのフライユ伯爵家の館を行き来するようになった直後に、この神像から各地の竜や光翔虎の棲家に転移できるように願った。
もちろん使用できるのは一部の者達だけだ。具体的にはシノブと神の眷属であるアミィ達、そして竜や光翔虎である。
最年少のファーヴも生後三ヶ月半を過ぎ、磐船で運ぶ必要はなくなった。そのため子供達は、自身で神像まで飛翔し、何れかの棲家に転移して訓練をしている。
「そうか、気を付けて行くんだよ」
『はい!』
オルムルはシノブに返事をすると宙に舞い上がり、そして本来の大きさに戻った。もちろん、他の子供達も同じように中庭の空に上がっている。
誕生してから十ヶ月近いオルムルは全長3.6mにもなり、最も小さいファーヴですら2.2mを超えている。それに他の子も順調に成長しているから、中庭の上は一時的に日が陰る。
だが、それは僅かな間であった。オルムル達が一瞬にして飛び去ると、中庭には先ほどまでと同じ煌めく陽光が戻ったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「叔父上達は帰ったら南方大陸じゃな……」
マリエッタは、海竜の島と聞いて南方大陸への遠征を思い出したようだ。
各国から訪れた賓客達は、大半が本日中に自国に戻る。彼女の叔父であるカンビーニ王国の王太子シルヴェリオも、父王や姉などと国に帰るのだ。
特に彼らカンビーニ王国や西の隣国ガルゴン王国の者達は、急いで帰国するようだ。彼らは西海の戦で棚上げとなった南方への遠征を今度こそ実行しようと、意気込んでいたからだ。
「後で聞いてみよう。さあ、訓練だ」
シャルロットとアミィの双方がいない場合、マリエッタ達を指導するのはシノブである。
指導は一時期アルバーノやアルノー達が受け持つこともあったが、彼らも今や伯爵だ。アリエルやミレーユは、メリエンヌ学園の教師として忙しく、夜は夫の待つ公邸に戻るものの昼間は学園に詰めている。それに多くの学生の面倒を見る二人は、個人教師のようなことは出来ない。
そのためマリエッタは、当初の念願であったシノブからの指導を受けるようになったのだ。
「よろしくお願いします、なのじゃ!」
マリエッタは、虎の獣人特有の金の地に黒い縞の入った髪を大きく揺らしながら、頭を下げる。そして彼女の学友であり共にシャルロットの護衛騎士を務めるフランチェーラ、ロセレッタ、シエラニアも和した。
「今日は槍術にしておくか」
「シノブ様は、あっという間に妾より流星光翔槍が上手くなったのじゃ……でも、妾も負けないのじゃ!」
シノブとマリエッタは槍を構えて向かい合う。その脇ではフランチェーラとロセレッタが、反対側ではシエラニアが小宮殿護衛騎士隊に配属されたメリエンヌ王国出身の女騎士シヴリーヌと相対している。
アマノ王家の男性はシノブだけである。そのため小宮殿護衛騎士隊は女性のみで構成され、訓練の場に集まったのもシノブの側付きである少年達を別にすると、女騎士ばかりであった。
小宮殿護衛騎士隊の隊長は、やはりメリエンヌ王国から移籍したサディーユだ。そして副隊長も同国出身のデニエである。シヴリーヌを含む三人は、セレスティーヌと共にアマノ王国の人となったのだ。
隊員にもメリエンヌ王国出身が多いが、貴族や騎士の出身だけではなくアルノーの妻アデージュの同僚、つまり傭兵出身の者もいる。なお残念ながら、この地で生まれた者は現時点では小宮殿護衛騎士隊に存在しない。これは旧帝国の騎士は男性が殆どで、女騎士は稀であったからだ。
ただしシャルロットの侍女には旧帝国の騎士の子がおり、彼女達は訓練に加わっている。今までメリエンヌ学園で学んでいた少女達である。
「もっと腰を入れて! 全力で突き出す!」
サディーユが指導しているのも、そういった娘達だ。彼女の前で模擬槍を操っているのは、元帝国男爵の娘ディートリントと同じく元騎士の娘ゲルダローゼである。どちらも身体強化が得意ということもあり、侍女兼護衛官として鍛えることになったのだ。
もっとも、まだ十二歳だから繰り出す槍も頼りない。そのためサディーユも、基本的なことしか教えていないようである。
「彼女達も大変だね。指導する方も、される方も」
「希望者は! 幾らでも……いるのじゃ!」
シノブには稽古をしながら訓練全体を見渡す余裕があったが、マリエッタはそうもいかないようだ。とはいえ一心にシノブを見つつも応える余裕があるだけ、マリエッタも大したものというべきであろうか。
なお、マリエッタの言うことは事実である。実際のところ、王宮勤めの見習いはどのような職であっても極めて倍率が高い。そのためディートリントやゲルダローゼも、サディーユの厳しい指導に不満を漏らすことなく訓練に励んでいた。
「やっ! ……えい!」
マリエッタはカンビーニ流槍術の『猛虎逆撃槍』でシノブの槍を巻き上げにかかり、それをシノブに躱されたとみるや、今度はベルレアン流槍術の『大跳槍』で下から跳ね上げようと試みる。
両流派は戦の神ポヴォールの授けた技に発している。そのため共通する点も多く併用も可能なようだ。
「惜しい」
しかしシノブは、シャルロットの得意技でもある『稲妻落とし』で彼女の槍を巻き込み封じる。『大跳槍』に『稲妻落とし』で合わせるのはベルレアン流の型にあるくらいで、二人の動きは申し合わせたかのようにすら見える自然さだ。
だが、真実は違う。マリエッタの奇襲をシノブが数段上の技量で抑えたから型稽古のように見えただけで、実際には両者の大きな力量差があってのことだ。
「むぅ……ならば!」
それを承知しているマリエッタは、動揺することなく飛び退る。そして彼女は『稲妻』による捨て身の攻撃を仕掛けてきた。
それは、防御を捨てた突きであった。基本である中段、心持ち低く構えてはいるが自然な体勢から、一挙動で全身の力を解放する。シャルロットも好む技だけに、彼女を慕い追いかけるマリエッタも極めようと励む王道の技である。
左前の半身から矢のように放たれた一撃は螺旋に空気を切り裂き、一瞬遅れて爆発するような轟音が響く。足から腰、そして上体から腕と伝える力はカンビーニ王家の稀なる素質と壮絶な修練により、模擬槍を音より速く突進させたのだ。
突いた槍の先端が音速を超えるのだから、操る腕なども同じだろう。そのため周囲の空気が大きく圧縮されたようだ。
僅か十二歳の彼女だから、槍の速度や技の切れはシャルロットほどではない。しかし小宮殿護衛騎士隊の女騎士達の多くを上回るのは間違いなかった。
「もう少しだね」
もはや訓練の域を超えているマリエッタの攻撃だが、受ける相手はシノブである。
シノブの突き出した模擬槍は、マリエッタの喉元で止まっていた。彼はマリエッタよりも速く動き相手の槍を擦り抜けたかと思うような身のこなしで避けると、同じ『稲妻』を放ったのだ。
しかもシノブは、二人の周囲を魔力障壁で包み周囲に被害が及ばぬようにしていた。マリエッタの槍は衝撃波を発生していたからである。
「ま、参ったのじゃ~。でも、次こそは!」
マリエッタは、屈託の無い笑みを浮かべている。日々の修行が自身を高め一日ごとに強くなっているという実感が、彼女を微笑ませるのだろう。
そしてマリエッタは宣言通りに再び槍を構え距離を取り、シノブに正対する。シノブは忙しいし、マリエッタもシャルロット達の護衛を務めなくてはならない。時間は無駄に出来ないのだ。
朝の充実した一時はシノブを、マリエッタを、そして二人の周囲にいる者達を一層輝かせている。そしてシノブ達の活力に満ちた声は、中庭から『小宮殿』全域に響き、更に外へと広がっていった。
◆ ◆ ◆ ◆
エウレア地方の王族や貴族が朝から宴席を設けることは少ないらしい。昼は午餐会、夜は晩餐会と宴が催されるが、シノブも朝餐会というものに出たことはない。これは三度三度宴会をするのは不健康だというのもあるが、朝は身内で集まり一日の相談を、という意味もあるようだ。
フライユ伯爵領にいたときのシノブは、家令のジェルヴェや家臣の中でも特に近しい者、シメオンやマティアス、アリエルやミレーユなどと朝食を共にするのが常であった。しかし、国王は一伯爵と同じようにはいかない。
フライユ伯爵のとき、シノブに付けられた貴族は子爵のシメオンとマティアスだけであった。しかしアマノ王国では国内の貴族の全てがシノブの家臣である。まさかその全員を朝食に集める、あるいは順繰りに呼ぶわけにもいくまい。
それにアリエルやミレーユも嫁ぎ、今や侯爵夫人である。朝から主の下に集まって食事をするような身分でもない、というわけだ。
そこでシノブは、特別なことが無い限り朝食は家族のみで取ることにした。それぞれの従者や侍女も増えたことだし、全員を集めたら大仰な場と化してしまう。かといって、やはり一部のみを贔屓するのも問題だ、というのが建前である。
実際には朝食を家族だけで気軽に食べたいというシノブの意向によるものだが、それくらいは国王の好みとして通させてもらった。そのため『小宮殿』では、朝食時は王家と側付き達の二つに分かれることになったのだ。
今、シノブ達は『小宮殿』の『陽だまりの間』にいる。この部屋は、さほど広くもなく内装も他に比べて簡素であったが、逆にシノブとしては落ち着ける場であった。そこで彼は、ここをアマノ王家が内々で集まるための部屋としていた。
「昨日の晩餐や舞踏会も素敵でしたが、こういうのも良いですわね!」
満面の笑みを浮かべたのはセレスティーヌだ。生まれながらの王族の彼女でも、極めて近しい人のみの場には特別な安らぎを感じるようだ。
「はい! シノブさまにアミィさん、そしてシャルロットお姉さまにセレスティーヌお姉さま……私達だけの場所ですね!」
こちらはミュリエルだ。彼女も同じく心からの喜びを顕わにしている。
ここ暫く将来の王妃として厳しい教育を受けている二人は、家族だけの一時を貴重なものと感じたようだ。それに他の目が無いからだろう、ミュリエルも家族としての新たな名でセレスティーヌを呼んでいた。
ちなみにミュリエルの祖母アルメルは、ベルレアン伯爵家などと同様に幾つかある迎賓館に滞在している。彼女は、アマノ同盟の全てが集った場で特別扱いを受けるのを望まなかったのだ。
「そう思ってくれると嬉しいよ。でも、二人とも昨晩は大活躍だったじゃないか」
シノブは昨夜の晩餐や舞踏会を思い出していた。ミュリエルとセレスティーヌは王妃教育の成果を存分に発揮し、他国の王妃や王太子妃にも負けない貴婦人振りを示したのだ。
中でも舞踏会での二人は他を圧して輝いていた。シャルロットは子を宿したこともあり、最初に軽く踊っただけで後は歓談する側に回っていた。それを補おうとしたのもあるのだろう、ミュリエルとセレスティーヌはシノブと共にアマノ王国を代表する踊り手になっていた。
「二人とも随分と技量が上がりましたね。どちらも身ごなしが以前と別人のようでした」
シャルロットは目を細めて妹と従姉妹を褒め称えた。
晩餐の場では彼女も歓談の中心となり、それを賓客達は大いに楽しんだ。何しろ一時はアマノ同盟の盟主代理となったシャルロットである。各国の統治者も彼女には一目も二目も置いているし、普通に話しているだけで人を惹き付ける品格と魅力が今のシャルロットには備わっているようだ。
王女として身に付けた社交術と王宮で磨いた華やかさのセレスティーヌに、十歳にしてフライユ伯爵領の経営に大きく関わるミュリエルという才女でも、現時点ではシャルロットに敵わないのは仕方がないことである。
「シャルお姉さまの代理としては未熟ですが……」
「お姉さまに少しでも近づけたなら、とても嬉しいです!」
珍しく謙遜するセレスティーヌに、素直に喜びを表すミュリエルと対照的だが、どちらもシャルロットの賞賛に顔を輝かせている。
会話ならともかく、今のシャルロットはダンスで主役となることは出来ない。それもあって、二人は熱心に舞踏の練習をしたようだ。
「やっぱり魔力操作法のお陰かな? ミュリエルは治癒魔術が上手くなったし、身体強化も更に上達したようだね。
セレスティーヌは、攻撃魔術の威力が増したよね。普段使うことはないだろうけど……」
前半は純粋な笑顔で語ったシノブだが、後半は苦笑いと言うべき表情になっていた。
ミュリエルの治癒魔術は既に実用レベルに到達した。実地での経験は不足しているが、魔力や術の精度では練達の治癒術士でも太刀打ち出来ない。それに身体強化も高度な域に達し、シャルロットやアミィが手ほどきをしたこともあって護身としては充分な技量となった。
それに対し、セレスティーヌは王家の者に相応しい大魔力を持ってはいるが、身体強化や治癒魔術の適性はないらしい。彼女は日常に使う魔術の他は地水火風の四属性による攻撃魔術が使えるのだが、それらを王女としての日常で活かすことはありえない。
ただ、それでも魔力操作に熟達した分、基礎身体強化と呼ばれる無意識の身体操作能力が向上したのだろう。セレスティーヌのダンスは、王女としての修練で体得した洗練に更なる磨きがかかったようである。
「ありがとうございます!」
「嬉しいですわ!」
ミュリエルはともかく、セレスティーヌへの言葉は賞賛としては微妙なものであった。しかし、どちらも同じくらい喜んでくれたらしい。やはり愛する男性からの言葉は、格別に感じるのだろう。
「シノブ様、また踊ってくださいませ! シノブ様と踊る時を励みに頑張ると、一層上達するように思うのです!」
「いつでも良いよ。今からだってね」
頬を紅潮させてのセレスティーヌの申し出に、シノブは席から立つと手を差し伸べつつ答えた。
既に朝食は終えているし、賓客達の見送りまでには少々間がある。ホールクロックを見たシノブは、彼女の願いを叶えるくらいの時間は充分にあると判断したのだ。
「わ、私もお願いします!」
「もちろん。その後はシャルロットとアミィもね」
意気込むミュリエルに、シノブは慈しみの滲む表情で頷き返した。そして彼は、遠慮しつつも隠し切れない羨望を浮かべた二人にも顔を向け全員と踊ると約した。
時間は限られている。そこで早速シノブはセレスティーヌの手を引き体を寄せる。すると、どこからともなく伴奏が響いてくる。これは放送の魔道具ではなく、アミィの魔術によるものだ。
これが新たな自分達の日常だ。セレスティーヌと踊るシノブの心に、そんな思いが浮かんでくる。
新国家の朝は、今までと違うことも多数ある。しかし変わらぬ安らぎと喜びも存在し、それらは日に日に増している。シノブは差し込む陽光と己に向けられた笑顔から力を貰いながら、新たな国の王として迎えた初めての朝を胸の内に刻んでいた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年7月10日17時の更新となります。




