17.06 シャンジーが消えた 前編
シノブはシャルロットやアミィと共に『白陽宮』の一室を訪れた。三人が赴いたのは、ベランジェの執務室だ。
ベランジェの執務室は、先日までの帝国の統治下では宰相が使った区画であった。謁見の間にも近いこの部屋は、広い上に内装も格別に立派である。
天井から下がる豪華な細工を施したシャンデリアは、どれも高品質の灯りの魔道具で煌々と輝いている。その光に照らされる調度も、国を動かす重鎮が使うに相応しい贅を尽くした品々である。
シノブ達が腰を下ろしたソファーも、狩るのが極めて困難な雪魔狼の革を張ったもので、フレームには繊細な銀細工だけではなく随所に宝石まで散りばめている。おそらく、一脚だけでも庶民なら家が建つのではなかろうか。
しかし、つい先日までアシャール公爵であったベランジェは、そのような国宝級の品も日常的に接している。そのため彼は普段と変わらぬ様子で腰掛け、シノブ達に旧帝国領の状況を話しつつ飲み食いを続ける有様であった。
「忙しいのですね……」
シノブは、ベランジェに同情の視線を向けた。どうやらベランジェは、食事を取る暇も無いほど忙しいようだ。シャルロットやアミィも心配そうな顔をしている。
ベランジェが食べているのは、アミィが魔法のカバンから出したものだ。クッキーにジュースといった間食程度だが、ベランジェは朝御飯を食べていないのか凄まじい勢いで口に運んでいる。
「それはね……んぐ、これは美味い……リンハルト達のお陰で内政官も補充できそうだし……これもイケる……彼の紹介してくれた者達に更にそこから……んがっぐ!」
説明と食事を交互に続けていたベランジェは、突然奇声を発した。どうやらクッキーが喉に詰まったようで、彼は慌ててジュースを飲み干しながら胸を叩く。
「ベランジェ様!?」
「伯父上……」
シノブの隣でアミィが腰を浮かし、シャルロットが呆れたような声を漏らす。
シャルロットは、少しばかり頬を染めていた。彼女にとってベランジェは母の兄だから、親族の恥ずかしいところをシノブ達に見られたと思ったのかもしれない。
「義伯父上、大丈夫ですか?」
「いや、アミィ君のお菓子は美味しいねぇ! うん、あまりに美味しすぎたから、ちょっと失敗したようだ!」
幸い、ベランジェに大事は無かった。彼は声を掛けたシノブに笑顔で応じる。
「まあ、そんなわけだから建国式典は来月頭で問題ないよ!
『白陽宮』での式典に、ヴァイトシュタットのパレード、それに晩餐会に舞踏会、他には何をやろうかな……いやぁ、考えるだけでワクワクしてくるね!」
「済みませんが、お願いします」
楽しげに語るベランジェに、シノブは深々と頭を下げた。そしてアミィやシャルロットもシノブに続く。
新たな王国の誕生は、6月1日と定められた。今日が5月21日だから、残り十日少々である。シノブとしては、もう少し時間が欲しいところであったが、これ以上延ばすのは難しいようだ。
その短期間で建国式典らしく整えるには、経験豊富で各種の国家行事に出席したベランジェに頼るしかなかった。何しろ筆頭公爵の先代である。普段の砕けた様子からは信じがたいが、その気になれば彼はメリエンヌ王国で最も仕来りに通じた男として振る舞うことが出来た。
「兄上達も煩いからね! 絶対間に合わせるとも!」
ベランジェの兄、つまりメリエンヌ王国の国王アルフォンス七世は、弟を連日のように催促していたらしい。アルフォンス七世が、ここ旧帝国領に来るわけではないが、彼の跡継ぎである王太子テオドールは通信筒を持っている。
それ故ベランジェは毎日、多いときには日に何度も兄からの文を読む羽目になったそうだ。
「まあ、兄上の気持ちも分かるがね」
ベランジェは、苦笑しつつ肩を竦めた。
アルフォンス七世は、理由も無くベランジェを催促しているわけではない。シノブはエウレア地方の全ての国が加盟するアマノ同盟の盟主であり、その彼が一伯爵でしかないというのは何とも歪な形である。そこでアルフォンス七世は、早期の建国を望んだわけだ。
なお、建国後もシノブはフライユ伯爵としてメリエンヌ王国の爵位を持つし、シャルロットも同じくベルレアン伯爵の継嗣であることに代わりはない。したがって、新王国が出来てもメリエンヌ王国内では別の上下関係があるのだが、それは極力触れないことにするようだ。
たとえばメリエンヌ王国での爵位で出席する場、王都メリエでの式典などは代理を送る。シャルロットについては簡単だ。彼女は伯爵継嗣だから、当代伯爵のコルネーユか先代のアンリが出れば問題ない。
◆ ◆ ◆ ◆
「話を戻すけど、王都のことは任せておいてくれたまえ。ところで、本当にヴァイトシュタットのままにするのかね? アマノシュタットで良いと思うけどねぇ……」
ベランジェは、王都となるこの地を、シノブに因む名称にしたいらしい。
ベーリンゲン帝国は、ここを帝都ベーリングラードと呼んでいた。しかし元々はヴァイトシュタットという名であり、シノブ達は本来の名に戻した。
しかしベランジェは、六百年以上前に使われた古名ではなく新たな国に相応しい名にしたいようだ。エウレア地方の王国では、王都は王家に由来する名か、王家の名そのものであった。そのため、ベランジェからすると、ヴァイトシュタットという名に違和感があるのだろう。
「……頻繁に名前を変えるのは良くないと思います。国の名はアマノ王国で良いですから、王都はこのままにしましょう」
残念そうなベランジェに、シノブは以前からの主張で応じた。実は、この件は二人の間で幾度か繰り返された話だった。
シノブは、自分が王となるのだから国の名に姓を冠するのは受け入れた。その辺は慣例に従うべきだと思ったからである。しかし、王都の名前くらい別のものにしたかった。全てにアマノと付けるのは、独裁者のようで嫌だったのだ。
それに、シノブは日本の姓であるアマノとドイツ風の言葉が一体となった名を何となく珍妙に感じていた。それも、彼が反対する理由の一つである。
「私もアマノシュタットの方が良いと思いますが……」
「そうだろう! 伝統に倣うのなら、その方が良いと思うよ!」
シャルロットが賛成に回ると、ベランジェの顔は輝きを取り戻した。
旧帝国領には、『シュタット』と付く都市が幾つか存在した。古文書や土地の言い伝えによれば『シュタット』は都市を表す言葉だというから、妥当な名ではある。そのためベランジェやシャルロットには、伝統に則った良い名に思えるらしい。
それに二人には、アマノが日本風の名だという先入観は無い。したがって、シノブのような違和感を抱くことはないのだろう。
「わかりました……アマノシュタットにしましょう」
「最初からシャルロットのいるときに話せば良かったかな!? でもシノブ君、国王になったら王妃の言葉を聞いてばかりじゃ駄目だよ! それじゃ威厳が保てないからね!」
シノブが了承すると、ベランジェは破顔した。しかし彼は途中から悪戯っぽい表情となり、シノブに忠告めいたことを言う。
シノブがアマノ王国の王にしてメリエンヌ王国のフライユ伯爵となるように、シャルロットも王妃で他国の伯爵継嗣となる。何とも複雑ではあるが、当面はこのようにするしかないようだ。
「肝に銘じます。ですが、正しい意見を受け入れるのは、悪いことではありません。シャルロットは聡明な女性ですし、文武に秀でていますから」
シノブは、惚気に聞こえるだろうと思いながら言葉を返した。
しかし、シノブは大袈裟なことを言っているつもりはない。領主となるべく育てられたシャルロットは、今後も大きな力となってくれる。シノブは、そう確信していたからだ。
「ふむ……まあ、シャルロットならアマノ王国の人々も認めてくれるだろう。良い国王と王妃を得て、宰相としては嬉しい限りだね! それに、セレスティーヌやミュリエル君も続くだろうし!」
「義伯父上……」
ベランジェの言葉に、シノブは顔を赤くした。妻であるシャルロットのことはともかく、他の二人について話題にされるのは、シノブにとって気恥ずかしいことであった。
しかし、ミュリエルは正式な婚約者である。それに、セレスティーヌもアマノ王国の建国と共に婚約者として発表することになっていた。流石にシノブも、いつまでも彼女を中途半端なままにしておけないと思ったのだ。
「ところで、セレスティーヌには?」
「ええ、つい先日……」
興味津々なベランジェに、シノブは真っ赤な顔で答えた。その様子を、アミィとシャルロットは微笑ましげな顔で見つめている。
◆ ◆ ◆ ◆
数日前の夜のことだ。フライユ伯爵家の館に戻ったシノブは、セレスティーヌとミュリエルを自身とシャルロットの居室に呼び出した。
部屋の中には、シノブと呼ばれた二人以外に、アミィとシャルロットがいるだけだ。
「セレスティーヌ……俺の婚約者になってくれないか?」
シノブは、自身の顔が熱を持っていると感じていた。仮に鏡に映したら、夕日のように赤く染まっている。シノブは、そう思いつつセレスティーヌを真っ直ぐに見つめる。
シャルロットによれば、既婚者が新たな婚約者を得るときは妻を同席させるという。また、婚約者についても同じらしい。そのためシノブはセレスティーヌと一対一ではなく、シャルロット達が見つめる中で告白めいたことをしているのだ。
一夫多妻といっても、それは夫が好き放題に出来ることを意味しない。妻となった女性達が仲良く暮らすのは、親密でなければ不可能だ。
そのため、先に妻や婚約者となった者の同意を得ずに結婚する例は殆ど無いという。もちろん、そう理想通りに行く場合だけでもないだろう。家同士や夫の都合で決まることもある筈だ。
とはいえ、家の中で多数を占めるのは女性である。自身の妻達に父の妻達。それに、子供が生まれたら娘達。魔力の多い貴族は女性が生まれることが多いから、家の中で男性は父と自分だけということも珍しくないのだ。
そうなると、当主といえども女性の意見を無視することは出来ない。おそらく、それらがこのような習慣を作り出した理由であろう。
「シノブ様……本当ですの?」
セレスティーヌは、青い瞳に大粒の涙を浮かべてシノブを見つめている。そして彼女は、目の前に立つシノブに一歩二歩と進んでいく。
「待たせて済まなかったね。建国に合わせるようなのも、どうかと思ったけど……」
シノブにとって、セレスティーヌはミュリエルと同じで守りたい存在である。その思いは男女の愛というよりは家族の愛に近いもので、シャルロットへの感情とは明らかに異なる。しかしシノブにとって二人は、単なる妹のような存在でもなくなっていた。
ミュリエルは婚約者だから、将来のことを考えるのは当然だ。それにセレスティーヌも、周囲はミュリエルと同じように扱うし、彼女自身や王家はシノブに嫁ぐことを望んでいる。そのためシノブも、徐々に二人を将来共に生きる者達として見るようになっていたのだ。
しかし、未だ気持ちが充分に育っていないのも確かである。しかも、この時期に婚約者にすると告げるのは、建国に際し形を整える意味も多分に含まれている。そのためシノブは、セレスティーヌに済まなく感じていた。
「いえ、嬉しいですわ!」
セレスティーヌはシノブの言葉を遮ると、彼の胸の中に飛び込んだ。シノブも彼女の肩に手を回し、優しく抱く。
「セレスティーヌ、良かったですね」
「おめでとうございます!」
シャルロットとミュリエルが、シノブの両脇からセレスティーヌを祝福する。これもシノブには違和感があるが、通例では先に妻や婚約者となった者が祝いの言葉を掛けるのだという。
ミュリエルが婚約者となったときも、シャルロットは彼女に言葉を掛けていた。あのときはフライユ伯爵家の継承問題もあったから祝いというより励ましの言葉であったが、前者の意味もあったのだ。
「セレスティーヌ様、これを……」
「アミィさん……ありがとうございます……」
アミィがハンカチを差し出すと、セレスティーヌはシノブの胸に顔を伏せたまま、それを受け取った。おそらくセレスティーヌの顔は嬉し涙に濡れているのだろう、彼女は下を向いたままハンカチを顔に当てる。
「セレスティーヌ様、簡単ですがお祝いの品を作りました! チョコレートもありますよ。シノブ様が持ち帰った品に、ファリオスさんの試作品もあります!」
魔法のカバンから取り出したものを、アミィはテーブルに並べていく。それは彼女やミュリエルが作ったお菓子に、シノブの両親が彼に持たせたお土産の品、そしてメリエンヌ学園の研究所でエルフのファリオスが作った試作の品である。
「セレスティーヌ、ここにいる皆で一緒に頑張っていこう。これからずっと一緒に暮らし、そして皆で俺達の形を造るんだ」
「はい、シノブ様! 頑張って立派な奥方になりますわ!」
シノブの言いたいことを、セレスティーヌは察したようだ。涙を拭き終えた彼女は、満面の笑みとそれに相応しい華やかな声でシノブに答えた。
この世界の愛や家族の形は、日本とは違う。そもそも、生き方が違うのだ。魔術があり、戦いがあり、人を脅かす魔獣が跋扈し、そして神々が息づく世界である。この地の人と交わるなら、日本での生き方を貫くことは不可能だ。
まだ、この世界に完全に馴染んだわけではない。しかし、この世界で得たものを大切にしたいという気持ちは、シノブを迷いから解き放つまでに育っていた。
これからずっと彼女達と共に生きよう。そして彼女達を笑顔で満たそう。そう誓いながらシノブは自分を慕う女性達と共に歩んでいった。
◆ ◆ ◆ ◆
そのようなこともあり、セレスティーヌとミュリエルは、今まで以上に勉強に励んでいる。
来月の建国式典で二人はアマノ王国の国王シノブの婚約者として、つまり将来の王妃として発表される。彼女達は、その地位に相応しくあろうと邁進しているのだ。
「いやあ、安心したよ! あの娘も私の姪だからね! それに、私が後押ししたようなものだし! これでも責任を感じていたんだよ! ……それでテオドールや兄上には?」
ベランジェは、喜びと安堵を顕わにしていた。
昨年末に帝国侵攻の知らせを受けたとき、彼はシノブにセレスティーヌの下に赴き出立を告げるようにと促した。どうやら彼は、そのときからシノブとセレスティーヌの仲を取り持とうとしていたようだ。
もちろん、それはメリエンヌ王家とシノブの縁を作ることが目的だったのだろう。シャルロットも先王の孫だが、外孫である。そのため王家は、シノブにセレスティーヌを娶らそうとしていた。たぶん、ベランジェも兄王の意向を受けて支援に回ったに違いない。
「お伝えしました。式典のこともありますから……」
「そうか! なら、これで懸案は東のことだけだね!」
シノブの答えを聞いたベランジェは、満足したように頷いた。
新国家の準備は忙しいが、それらは建国宣言をすれば一山越える。その後は、体制が整うにつれて楽になるだろう。エウレア地方の国々は何れも平穏であり、当分戦いなど起こりそうも無い。現時点で不確定要素が残るのはエウレア地方の東、俗に東域と呼ばれる地域のことくらいだ。
この星の陸地は、大まかに言えば地球と似たような配置らしい。そしてエウレア地方は、地球で言うところの西欧に相当する地域であった。もっとも、エウレア地方の地図や周囲の状況を聞く限り、似てはいる、という程度である。
エウレア地方の東は陸続きで、地球で言う東欧からユーラシア大陸の東へと繋がっている。しかしオスター大山脈という高山帯が東西を完全に分け、人の行き来は無く詳細も不明である。
北には岩竜や炎竜の故郷の島があるが、そこは人が住むことの出来ない極寒の地である。なお、この島は地球には存在しないもののようだ。
アフリカ大陸に相当する南方大陸とは、辛うじて人の行き来がある。しかしエウレア地方と南方大陸の間は広大な海が広がっており、地球のヨーロッパとアフリカのように近くはない。
そして西の大海の先には南北アメリカ大陸に相当する地がある筈だが、現在のところエウレア地方に知る者はいない。
つまりベランジェの言うように、近々に接触する可能性があり距離も近い地と言えば、東域だけである。
もっとも、これまでの歴史で東域から来たのは六百五十年も前にベーリンゲン帝国を興した者達だけだ。しかも彼らは、バアル神が授けた知識で造った転移装置を使って移動したらしい。したがって、現在のところ東域から誰かが来る可能性は、極めて低かった。
そのためだろう、ベランジェも懸案とは言いながらも、あまり気にしていないようである。
「ホリィ達の調べでは、こちらに来そうな者もいないようです。もっともオスター大山脈の近くには、ですが……」
「今日はマリィとミリィが行っていますが、昨日までと同じで変わったことは無いそうです」
シノブとアミィは、ホリィ達が調べたことをベランジェに伝えた。
ホリィ、マリィ、ミリィの三人は、東域の調査を始めていた。彼女達は交代で休みを取りながら、オスター大山脈の東を調べているのだ。
最近は人間の姿で過ごすことが多いホリィ達だが、その正体は金鵄族、つまり鷹の姿の眷属である。彼女達は普通に飛んでも時速400kmは出せるし全力で飛べば時速1000kmにも達する。それに東域との行き来は、魔法の家での転移を使えば一瞬である。
したがってホリィ達は僅か三日ほどで、オスター大山脈から500km以内の大半を周っていた。
もちろん空から調べたり時折地上に降りたりするだけで、どのような国があるか充分に把握したわけではない。しかし短期間かつ急ぎ足での調査でも、様々なことが掴めていた。
「オスター大山脈の麓に近い辺りは羊飼い達。そして砂漠の中は僅かに存在する水場に集落があるだけ。その向こうには国があるけど、こちらに来るほどの余裕は無さそう……か」
「ええ。山脈越えが出来るような者達はいません。南の海沿いの地には船もあるようですが、オスター大山脈の南から東にかけて、かなり大きな魔獣の海域があるそうです。ホリィ達は、通常の船では西に航海できないと言っていました」
腕組みをして考え込むベランジェに、シノブは陸路や海路での移動が難しいことを話す。
オスター大山脈を越えることが出来ないのは、シノブ達も早くから知っていた。それらは、旧帝国領の東方では有名であったからだ。一方、海についてはホリィ達が偵察をするまで不明なままであった。
旧帝国領の南東、現在はイーゼンデック軍管区と呼ばれる地域は、南側の一部が海に面している。しかし、海岸は全て切り立った崖であり、低いところでも海面から100m近くある。
こうなると海に降りることも難しく、帝国では船舶技術は発達しなかった。そのため、海上がどうなっているかも明らかになっていなかった。
「う~ん。イーゼンデックに港を造る計画、どうするかね?」
ベランジェが言うように、イーゼンデックに港を整備する計画があった。東域に陸路で行くことは出来ないから、海路で渡ることを考えていたのだ。
旧帝国領は、エウレア地方でも最も東に位置するし、現在のところ他国に行くにはメリエンヌ王国への陸路しか存在しない。したがって、手っ取り早く新国家を発展させるには、更なる交易先を確保するのが一番である。
「優先度は高くありませんが、将来に備えて準備はしておきたいですね。
それにカンビーニ王国は、南方への航海以外にデルフィナ共和国への海路も検討しています。更にイーゼンデックに足を延ばしてもらえば、新王国の東もエウレア地方の他国と交易できますから」
シノブは、エウレア地方の中の交易だけでも、それなりの効果があると考えていた。
それに、港を造るのは大半がシノブの担当であった。何しろイーゼンデックの海岸は100mもの高さの崖だ。かつての帝国は海に降りるための道を造ってはいたが、それは人が二人並べる程度の狭いもので、下には造船をするような場所も存在しない。
そのため、シノブが土魔術で下まで降りる広い道や港を造ることになっていたのだ。
「ふむ……シノブ君が良いのならやってみようか。君の魔術で切り開くだけだから、民に負担を掛けるわけでもないし」
「そうですね。それにシノブの好きな魚介類も獲れるでしょうから」
ベランジェに相槌を打ったのは、シャルロットであった。彼女は、笑いを含んだ顔をシノブに向けている。
「まあね。それは期待しているよ。でも、イーゼンデックの人に漁業を教えるのは大変だろうから、随分先の話じゃないかな?」
確かにシノブは、漁業の発展も望んでいた。
しかし、今まで海に出たことも無い人達が漁を覚えるには、途轍もない時間が掛かるだろう。したがって、港を造ったからといって産業として定着するのは何年、場合によっては何十年も先ではないだろうかと、シノブは考えていた。
「イーゼンデックをカンビーニ王国かガルゴン王国から来た人に任せては如何でしょう? あの二国の人達なら、港や漁に詳しいでしょうから……そうなると、アルバーノさんかナタリオさんですか?」
アミィは、海洋王国の二国を挙げた。
新王国で伯爵になる者には、カンビーニ王国出身のアルバーノとガルゴン王国出身のナタリオがいる。この二人であれば海への理解もあるだろうし、故国の伝手を使って漁師や船乗りを招くことも出来るだろう。
アルバーノの兄達や甥は王や王太子の側近くで働いているし、ナタリオは大使を務めるバルセロ子爵の息子である。その彼らなら、故郷から必要な人材を募るのも容易な筈だ。
「そうだね……あっ、通信筒だ」
シノブがアミィに答えたとき、彼の通信筒が振動した。そこでシノブは懐から通信筒を取り出し、蓋を開ける。
◆ ◆ ◆ ◆
「……珍しいな、タケルだ」
シノブは思わず言葉を漏らす。通信筒から出した紙片に記されていたのは、ヤマト王国の第二王子である大和健琉の名であった。彼と共にいる光翔虎のシャンジーが連絡を受け持っているため、タケルが通信筒を使うことは今までに殆ど無かった。
「ほう! 遥か東の地の王子かね! 会ってみたいものだねぇ!」
ベランジェは強い興味を抱いたのだろう、子供のように瞳を輝かせた。シノブはベランジェにヤマト王国やタケルの話をしてはいるが、当然ながら彼がタケルに会ったことはない。何しろヤマト王国は、ここヴァイトシュタットから9000km以上は離れているのだ。
「確か、明日あたり都に着く筈でしたね?」
シャルロットは、目的地に到着する直前だから連絡を寄越したと思ったのだろうか。彼女は落ち着いた表情でシノブに問いかけた。
ちなみに、ヴァイトシュタットとヤマトの時差は7時間強である。したがって、向こうでは18時といったところだ。おそらく、タケル達は一日の旅を終える直前ではないだろうか。
「ああ……何だって!? シャンジーが攫われた!?」
シノブは、続きを読んで表情を変えた。
タケルが記した内容によれば、今日の目的地である町に入る直前に、シャンジーが何者かに連れ去られたらしい。
シャンジーは、普通の虎くらいの大きさで街道を進んでいたという。光翔虎の彼は本来20m近い巨体だが、昼間は小さくなってタケル達と共に移動するのが常であった。とはいえ、小さくなったからといって人間が敵う相手ではない。
「……突然シャンジーが宙に浮かび上がり、『フェイジーの兄貴』って叫んで消えたそうだ」
紙片を見つめていたシノブは、顔を上げた。
タケルは、宙に浮かんだシャンジーが消え去る直前に発した言葉を記していた。シャンジーは『アマノ式伝達法』で人間に意思を伝えることが出来る。そのためタケルは、シャンジーの残した言葉を理解できたわけだ。
「フェイジーとは、シャンジーの従兄弟でフェイニーの兄でしたね? 確か三百歳くらいの?」
「はい、ここ百年はエウレア地方に戻っていないとか。でも、シャンジーさんが生まれた直後まではいたそうです」
アミィがシャルロットに答えたように、シャンジーは自身の従兄弟のフェイジーと会っていた。既に百年近くも昔のことだが、竜や光翔虎は生まれた直後から高い知能を誇るし小さな頃のことを忘れない。
おそらくシャンジーは、フェイジーのことを覚えていたのだろう。あるいは、フェイジーの方から思念で呼びかけたのか。
いずれにせよフェイジーは『アマノ式伝達法』を知らない筈で、意思伝達には思念を用いるしかない。したがってタケルが理解できないのも無理はなかった。
「従兄弟とはいえ、突然連れ去るとは物騒なことだ……どうするかね?」
ベランジェは、シノブがどう答えるか分かっているのだろう。彼は穏やかな笑みと共に問いかける。
「行きます。シャンジーを残したのは私ですから」
「フェイニーやメイニーさんにも声を掛けましょう!」
シノブが宣言と共に立ち上がると、アミィがシェロノワにいる二頭の光翔虎の名を挙げた。
フェイニーはフェイジーの妹で、シャンジーの従姉妹でもある。それに、メイニーはシャンジーを弟分として面倒を見ているし、年長のフェイジーを異性として意識しているようでもある。彼女達を誘うのは、当然だろう。
「行って来たまえ。いや『陛下、行ってらっしゃいませ』と言うべきかな」
「私的な場では今まで通りでお願いします。せめて、王位に就くまでは。これからは私的な場も少なくなるのでしょうし」
冗談めいた物言いのベランジェに、シノブは笑顔で応じた。
王になる以上、今後は人前で気楽な会話など出来なくなるかもしれない。だからこそ、公的な場所以外では可能な限り元のままにしてほしいとシノブは思っていた。
「では、今までと同じにさせてもらうよ。ともかく、早く行きたまえ! お土産は向こうの名物で良いから。お酒に食べ物……私も暇が出来たら行ってみたいねぇ。本場でご隠居として漫遊するのも楽しそうだ!」
やはり、ベランジェはご隠居の芝居がお気に召したらしい。
もっとも、彼は隠居して先代となったのは新国家を築くためだし、今日も食べる間も惜しんで働いていた。もしかすると、人より働くから遊びを余計に楽しむのかもしれない。
「はい! では、失礼します!」
シノブとシャルロット、そしてアミィは、ベランジェの執務室を足早に出て行った。部屋の中に残ったのは三人が来る前と同じで、ベランジェと侍従達だけである。
「聞いたかね、国王が『失礼します』だよ。彼なら王となっても驕ることなどないだろうね……」
感嘆が滲むベランジェの言葉に、侍従達は静かに頭を下げた。
普通の王が下手に出れば、家臣は侮るだろう。しかし、シノブは竜と戦い大軍に匹敵し神を倒す男である。そのシノブが王を目前としても変わらぬ様子を、彼らは好感を持って受け止めたようだ。ベランジェだけではなく侍従達の顔にも、何か眩しいものを見たような微笑みが宿っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年6月2日17時の更新となります。