17.05 卵の中
最近シャルロットは、武術の修行を控えめにしていた。
五月も後半に入り、シャルロットの懐妊が明らかになってから三ヶ月が過ぎている。彼女はアムテリアから授かった腹帯を着けているから運動しても問題ない。それに未だシャルロットの体型に大きな変化は無く、注意深い者が察する程度だ。しかし最近の彼女は、訓練を槍の型をなぞる程度に留めていた。
このように色々と制限される日常だが、シャルロットは上手く適応しているようであった。
シノブから見ても、シャルロットが不満に感じている様子は無い。活動的な彼女だが、周囲の期待に応え己に課した役目を果たしてきた責任感の強い女性でもある。
父や祖父が望むように継嗣として生き、将来の領主に相応しい行動を心がけてきたシャルロットだ。自身が為すべきことは何か、彼女は充分に理解しているのだろう。
そのようなわけで、今朝もシャルロットは最低限の型稽古を終えると側付きの指導を開始した。指導を受けるのはカンビーニ王国の公女マリエッタと彼女のお付きである三人の伯爵令嬢だ。
四人を鍛えるのはシャルロットにとって充実した一時らしく、輝くような笑顔である。
「……ジルンの魔力だ」
楽しげな妻の様子に微笑みを漏らしたシノブだが、東から接近する魔力に気が付き僅かに表情を変えた。彼が感じ取ったのは、物凄い速度で飛翔する炎竜ジルンの魔力である。
「随分と急いでいるみたいですね」
シノブから幾らか遅れ、アミィも呟く。それに、人族の姿になってオルムル達の相手をしていたミリィも空に顔を向けた。
アミィ達眷属の感知能力は、シノブに比べると精度や距離が随分と劣る。しかし、それでも竜や光翔虎よりは上であり、彼女達の反応はオルムル達より早かった。
シノブ達がいるのは、シェロノワのフライユ伯爵の館の庭だ。そこには早朝訓練に励む武人だけではなく炎竜イジェと光翔虎のメイニー、そして二頭が守り育てる六頭の子供達がいる。
合わせて八頭の竜や光翔虎は、何れも東の空を見つめている。そのため訓練をしていた者も異変が生じたと悟ったらしく、動きを止めていた。
「大丈夫、ジルンだ!」
シノブが声を発した直後、空の彼方にジルンの姿が現れた。そして彼は僅かな間に館に迫り、アムテリアから授かった腕輪の力で馬ほどの大きさになると、シノブの前に舞い降りた。
「ジルン、何かあったの?」
シャルロット達が見守る中、シノブはジルンに語り掛けた。
よほど急いでいたのか、ジルンは思念で呼びかけることすらしなかった。そしてシノブも、相手がジルンだと察したため問わずに待った。そのためシノブは、ジルンの用事が何か知らないままであった。
──卵だ! 子供が生まれるのだ!──
──凄いです!──
ジルンの言葉に歓喜したのは、炎竜の子シュメイである。猫ほどの大きさに変じた彼女は鳥に勝る速さで飛翔し、シノブとジルンの間に降り立った。
そして彼女に続いて他の子供達、岩竜のオルムルとファーヴ、そして海竜のリタンに嵐竜のラーカ、光翔虎のフェイニーもやってくる。
──それでだな、『光の使い』に頼みたいことがあるのだ!──
「何かな?」
慶事と知って顔を綻ばせたシノブに、ジルンは思念だけで語り始める。それは、他の者に聞かせるわけにはいかないことであった。
◆ ◆ ◆ ◆
「男の子と女の子、どちらでしょう?」
「どちらでも良いとは思うけど……ジルンやイジェは男の子を期待しているみたいだね」
食卓の向かい側に座ったシャルロットに、シノブは笑顔と共に答えた。
二人がいるのは、いつも朝食に使う館の広間ではない。彼らがいるのは、魔法の家のリビングであった。部屋の中にはシノブとシャルロット、それにキッチンではアミィとミリィが食事の準備をしている。
シノブ達は、ジルンと彼の番ニトラの棲家に双胴船型の磐船アマノ号で向かっているところだ。彼らがいる魔法の家は、アマノ号の上に乗っているのだ。
「それは当然です。男の子であれば、シュメイの番になるでしょうから」
「生まれてくれば判ることだけどね」
シノブはシャルロットに頷きつつも、僅かに苦笑を浮かべていた。つい先ほどの、興奮を顕わにしたジルンの様子を思い出したからだ。
ニトラは今朝早くに卵を産んだ。そしてジルンの頼みは、卵の中にいる彼の子供が雄か雌か知りたいというものであった。
そこでシノブは、彼の望みを叶えるべく出かけたわけだ。
「出来れば誰でも知りたいと思いますよ。シノブ以外には無理のようですが……」
シャルロットが言うように、シノブは魔力で男女の区別が可能であった。しかも、彼は竜の性別も判別できる。
「微妙な違いだからね」
公にはしていないが、シノブは母体の中にいる胎児の性別を知ることができた。それを知ったシュメイは母のイジェに伝え、更に他の親竜にも広まったのだ。
竜達は途轍もなく長命な代わりに、極めて出生率が低かった。彼らは千年近く生きるが、その間に二頭から三頭くらいしか子供を生まないらしい。これは、光翔虎も同じである。
竜や光翔虎も、他の生き物と同じく創世の際にアムテリアが創った。しかしアムテリアは、彼らを僅かしか創らなかった。彼女は、圧倒的な力を持つ彼らが地に満ちたら惑星の生態系が崩れると思ったのだろう。
「ご飯の支度が出来ました!」
「アマノ号の特別メニューです~。究極……至高……いえ神のメニューです~!」
アミィとミリィは、食卓に皿を並べていく。彼女達が用意したのは、パンにサラダ、そしてスープに果物という朝食らしい簡素な品である。
とはいえミリィの言う通り、これは極めて特別な品々であった。何故なら、料理に使ったのは神域で採れた野菜や果物だからだ。
「二人とも、ありがとう」
「さあ、一緒に食べましょう」
シノブはアミィ達に労りの言葉を掛け、シャルロットが食卓に誘う。そしてアミィとミリィが席に着くと、シノブ達は朝の食事を開始した。
「……ミュリエルやセレスティーヌがいないのは残念ですね」
シャルロットは、自分だけがシノブと共にいるのを申し訳なく感じたようだ。今日は、ミュリエルやセレスティーヌは同行していないのだ。
シノブ達四人と共に行動しているのは、船外の竜と光翔虎だけである。炎竜イジェとジルンが船を運び、他は飛翔の練習をしている。
「それがアルメル殿との約束だからね。シェロノワにいるときは、今までの倍の勉強をするって」
ミュリエル達が一緒ではない理由は、シノブの語った通りである。
シノブ達は、フライユ伯爵領のシェロノワと旧帝国領の中心であるヴァイトシュタットを定期的に行き来することになった。しかしアルメルはフライユ伯爵領の農務長官を務めており、離れるわけにはいかない。
そこでミュリエルとセレスティーヌは、シェロノワにいるときは従来の倍ほども学習に時間を割く。二人はアルメルから様々なことを教わっており、それらは今後も継続するのだ。
「次官達が育てば、アルメル殿をヴァイトシュタットに招くことも出来るけど……」
シノブは、アルメルの部下である農務次官の顔を思い浮かべた。
現在のフライユ伯爵領の内政官は、経験不足の者が多い。前フライユ伯爵クレメンを支えた者の多くは、彼の陰謀に関与していた。そのため多数が入れ替わったのだが、まだ着任から半年も経っていない。
彼らも良くやっているが、アルメルが引退するには多くの時間が必要だろう。
「アルメル殿は、シェロノワを離れないような気がします。あの地をミュリエルの子に渡すまで守り通すのが、アルメル殿の望みではないでしょうか?」
シャルロットは、アルメルが長官を退いてもシェロノワから動かないと言う。
アルメルはミュリエルの祖母で、二代前のフライユ伯爵の妻である。そして彼女は、夫の思い出が残るフライユ伯爵領を、非常に愛していた。そのためシャルロットは、アルメルが引退してもシェロノワで住み暮らすと思ったのだろう。
「旧帝国領の農業についても相談したかったけど……」
アルメルは農務卿を務めるジョスラン侯爵家の出身だけあり、農政には非常に詳しかった。そのためシノブは、旧帝国領についても意見を聞いてみたかったのだ。
「リンハルトさんが紹介してくれた人もいますから、向こうの人に任せてみるのも良いと思います」
「あまり余所者が口を出すのは良くないかも、です~」
アミィとミリィは、遠回りでも旧帝国領の人々の手で新国家を築くべきだと言いたいらしい。彼女達の声には、先を急ぐシノブを案ずるような雰囲気も感じられる。
一昨日、アミィの作った薬で健康な体となったリンハルトは、内政官として働くこととなった。といっても、すぐではない。彼は病み上がりだし、自身が開いていた私塾を任せる人も探さなくてはならないからだ。
しかしリンハルトは、在野で有望な者をシノブやベランジェに紹介してくれた。それは民を案じ庇ったが故に野に下った者の子弟である。
彼らの親や祖父は騎士階級や従士階級だったが、上官や同僚に疎まれ失脚した。多くは私塾を開くなどしており、その筋でリンハルトは彼らを知ることになったそうだ。
野に下った者達は、メリエンヌ王国が統治するようになっても様子を見ていたらしい。不当な理由で職を追われた彼らは、二ヶ月やそこらでは警戒を解くことはなかったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……そうかもしれないね。焦らず、じっくりとやっていこう。東のこともあるし」
二人の言いたいことを理解したシノブは、まずは自分達と元から住んでいる人達で、と思い直した。
メリエンヌ王国など他国から来た者が口出しをしてばかりというのは、シノブの望むところではない。それでは、他所から来た者達が元からの民を支配した、かつてのベーリンゲン帝国と同じだろう。シノブは、そう思ったのだ。
ベーリンゲン帝国を興した初代皇帝は、遥か東の地から来たという。彼や配下は、エウレア地方の東から来たらしいが、それ以上は明らかになっていない。
エウレア地方の東端、つまり旧帝国領の東の端はオスター大山脈という高山帯で、そこから向こうには陸路では行き来できない。そしてベーリンゲン帝国は海に出ることがない国であった。東南には海に面した地も僅かにあったが、断崖絶壁で降りるのは難しく船舶技術が発達しなかったからだ。
そのため、これまでシノブ達は旧帝国領の東がどうなっているか知らないままであった。
「ホリィとマリィはどうしていますか?」
シャルロットは、ミリィと同じ金鵄族の二人について問うた。実は、ホリィ達はオスター大山脈の東を調べに行ったのだ。
西海の問題は片付き、アルマン共和国が誕生した。そのためホリィ達は、彼の地から戻り、暫しの休みを取った。そして今、彼女達はミリィを含めた三人で交代しながら、東域の調査を行っている。
「今のところ定時連絡しかないよ。オスター大山脈のすぐ東は、砂漠や荒れ地だそうだ。僅かな人が住んでいるけど、帝国を興した者との関連は不明だって」
シノブには、日に一度ホリィ達からの連絡が来る。
オスター大山脈まではシェロノワからだと1600kmほど、ヴァイトシュタットからでもその半分はある。そのため彼女達との連絡には通信筒を用いているが、今までは現地の様子が記されているだけだ。
ホリィ達によれば、オスター大山脈の東の麓や近くに住む者は、遊牧民族のような暮らしをしているそうだ。彼らは国というほどの纏まりを持たず、一族ごとの集団で移動しながら生活しているという。
黒髪に濃い色の瞳の彼らは、今は亡き皇帝などに似ている。しかし彼らは奴隷など使っていないし、信仰しているのはアムテリアとその従属神であった。移動生活だから神殿は持っていないが、住居とする天幕の中にはアムテリア達を象った小さな像が飾られているそうだ。
「それに、東から来たといっても、山脈のすぐ向こうとも限らない。皇帝達の先祖は転移装置で来たらしいから、もっと東かもしれないね」
最初シノブは、オスター大山脈のすぐ東がベーリンゲン帝国を興した者達の故郷だと思っていた。しかし彼は、それは違うかもしれないと思うようになっていた。
アルマン島に渡った帝国人は転移装置を設置し、同国人を招いた。そこは旧帝都から2000km以上も西であり、初代皇帝の故郷も同じくらい遠方だという可能性はある。その場合、彼らが来たのはオスター大山脈より1000km以上東かもしれない。
それに真東から来たとも限らないから、対象範囲は非常に広大だ。しかもベーリンゲン帝国の建国は六百五十年も昔だから、多少の偵察で当時のことが掴める保証はない。
「もっと東ですか……ヤマト王国の人達はどうなのでしょう? あちらの人も黒い髪に濃い色の瞳だと伺いましたが」
シャルロットは、遥か東の地ということから、ヤマト王国を思い出したようだ。確かに、ヤマト王国の人々は髪と瞳の色という点では条件を満たす者が多い。
「う~ん。髪と瞳以外はあまり似ていないかな。タケル達は小柄だし、顔立ちも違うからね。もっとも、初代皇帝から今までで変わった可能性もあるけど……」
「そうですね。あくまでも現在の、という条件付きですが、顔や背丈はこちらの人の方が似ていると思います。シノブ様が指摘したように、世代が進むに連れて血が混じってエウレア地方の人に近づいたのかもしれませんが……」
シノブがヤマト王国の人々との違いを上げると、アミィも同意した。
六百年以上も昔のことだから、背や顔は混血が進んで変化したというのも充分ありえる。しかし皇帝家や閣僚を務めた侯爵家の名は東欧やロシアを思わせるものだったから、彼らがヤマト王国の出身である可能性は低い。
神々は、この惑星を地球に似せて創り上げ、文化や名称にも該当する地域のものを取り入れた。したがって帝国を興した者の出身地から極東を除外しても良いだろうと、シノブは考えていた。
「タケルさんは、そろそろ都に着くのですよね~。ヤマトの都、行ってみたいです~。チョコレートの代わりにお饅頭はいかがでしょう~?」
ミリィが黙って話を聞いていたのは、彼女の関心が食べ物に向かっていたためらしい。
チョコレートの製造は、現在メリエンヌ学園の研究所で進めている。担当しているエルフのファリオスによれば、もう一息で完成するそうだ。今のところ材料となるカカオが神域のものしかないので、広く売り出すことは出来ないが、シノブ達のおやつにするくらいなら近日中に可能となるであろう。
「後二日で都だったか……シャンジーは順調に旅をしていると言っていたし……」
シノブは、光翔虎のシャンジーから送られてきた文の内容を思い出す。シャンジーによれば明後日、つまり5月22日に彼らはヤマト王国の都に到着する筈である。
「都には、タケルさんを追い出したお兄さんがいるんですよね……」
アミィは、少し不安そうな顔をしていた。
タケルこと大和健琉はヤマト王国の第二王子だ。そして多利彦という第一王子が彼の兄である。
このタリヒコという男は他種族との融和を主張するタケルを嫌い、都から追い出した。しかも彼は筑紫の島の王との仲を取り持てと弟に命じたが、これは達成不可能と睨んでのことだ。
しかしタケルは、筑紫の島の王である熊祖武流を味方に付け、見事に難題を成し遂げた。したがって普通に考えれば使命を果たしたタケルの帰還に何の問題も無いが、追放を願ったタリヒコがどう思うか。アミィでなくとも、案じて当然であろう。
「シャンジーが付いているから命の危険は無いだろうけど……」
シノブは、シャンジーならタケルを守り通すだろうと考えていた。
シャンジーを出し抜いてタケルを害することは出来ない筈だ。シャンジーは、姿を消して潜み竜とも互角に戦う光翔虎である。まだ百歳程度と成獣の半分の若さだが、並の人間なら幾らいても相手にはならない。
不安があるとすれば毒殺などの搦め手だが、タケルや彼の家臣もタリヒコを充分に警戒しているし神獣として敬われるシャンジーが牽制になる。シノブは、そう思っていた。
──『光の使い』よ! そろそろ着くぞ!──
シノブが呟いた直後、彼の脳裏にジルンの思念が響いた。彼の思念は、シェロノワに来たときと同じでとても嬉しげである。竜や光翔虎の子供が生まれるのは、数百年に一度だ。そのため、彼が浮かれるのも無理はないだろう。
「さあ、外に出ようか。アミィ、ミリィ、後を頼むよ」
「済みませんが、先に行きます」
シノブが立ち上がると、シャルロットも続く。既に、食事は終わっていた。アミィとミリィが後片付けをする中、二人はリビングから歩み出ていった。
◆ ◆ ◆ ◆
炎竜ジルンとニトラの棲家は、旧皇帝直轄領の北のノード山脈に新たに造ったものだ。そのため、まだ転移の神像は存在しない。
そこでシノブ達は一番近い都市アルデニッツに神殿の転移で移動し、そこからアマノ号に乗った。普段アマノ号は、魔法のカバンに仕舞っている。そのため、必要な場所に移動した後に取り出し、乗ることが可能なのだ。
したがってシェロノワから800km以上離れた地だが、移動に掛かったのは神殿への移動も含めて一時間にも満たない。
ジルン達がノード山脈に棲家を造ったのは、この辺りに比較的活発な火山が存在するからだ。
ゴルンとイジェが造りシュメイが生まれた棲家は150kmほど東だが、そこも含めノード山脈には火山が多い。もっとも、今のところ噴火をするほどの山は存在せず、せいぜい噴気が上がる程度である。
どうして炎竜がこのような場所を好むかと言うと、彼らが地下のマグマから火属性の魔力を得ているからだ。子供達は食べた魔獣から魔力を吸収するが、成竜になれば自然の魔力だけで生きていける。そのため彼らは、子供に与える魔獣が多く、かつ自身が好む魔力に満ちた場所を棲家とするのだ。
──お忙しいところ、済みません──
洞窟の奥深くで蹲っていたニトラは、ゆっくりと頭を下げた。彼女は、急に呼び出したことに恐縮しているようだ。
彼女は、本来の巨体のままで伏せていた。おそらく、体の下に置いた卵を温めているのだろう。
「帝国やアルマン王国のことでは、お世話になったからね。これくらいは当然だよ」
シノブは、ニトラに微笑みと共に答えた。
ベーリンゲン帝国を短期間で攻略できたのは、空から兵を運び戦いを支援してくれた竜達がいるからだ。そして、アルマン王国との戦いでも、彼らは大いに力となってくれた。
その彼らの願いなら、仮に無理難題でも何とかして叶えたいし、今回のように簡単なことであれば幾らでも頼ってほしいと、シノブは思っていた。
「それで、卵はどこに?」
──こちらです──
ニトラが体をずらすと、彼女の腹の下から真紅の卵が現れた。ニトラ達、炎竜の肌と良く似た真っ赤な卵である。
卵の大きさは、直径20cm少々だ。全長20mもの竜の巨体からすれば非常に小さいが、生まれたての幼竜は体を伸ばして尻尾の先まで含めても30cmほどだというから、妥当な大きさではあった。
──卵です! 新しい卵です!──
──私達の新しい仲間ですね!──
歓喜の思念を発したのは、シノブの両隣から覗き込んでいたオルムルとシュメイである。
──ついに僕に続く子が!──
今まで最年少であったファーヴは、末っ子を脱出できるのが非常に嬉しいらしい。彼は、シノブの上を忙しなく飛び回っている。
──ファーヴ、良かったですね!──
ファーヴを祝福しているのは、同じく雄のリタンである。彼は雄同士ということもあり、ファーヴと仲が良かったのだ。
──赤い卵なんですね!──
嵐竜のラーカは、卵の色が気になるようだ。竜の卵は、親の体色と同じらしい。嵐竜は緑色だから、彼の卵は緑色なのだろう。
──竜は卵で生まれるんですね~──
こちらは子供達の中で唯一胎生である、光翔虎のフェイニーだ。彼女は、姉貴分のメイニーの頭から飛び降りると、シノブの隣まで進み出た。
──『光の使い』よ……どうだ?──
「雄だね……間違いない。君に似た魔力波動だ」
期待の思念と共に上から覗き込むジルンに、シノブは卵に宿った命の性別を伝えた。シノブが感じ取ったのは、雄の魔力波動だったのだ。
まだ非常に小さいが、人間の胎児に比べると遥かに大きな魔力だ。そのためシノブは、卵の中にいるのが雄だと確信できた。
──おお! 我が子は雄か!──
ジルンは喜びの思念を発し、身を擡げると高らかな咆哮で喜びを表す。胸を張り首を高く上げた姿は威厳に満ちてはいるが、どこか微笑ましさを感じさせるものであった。
──イジェさん、シュメイさん、立派に育てますからよろしくお願いします──
イジェ達に呼びかけたニトラは、慎重に体を動かし再び卵の上に戻る。随分と気が早いが、彼女は生まれてくる子供のパートナーをシュメイと決めたらしい。
竜の数は少ないし、番のいない炎竜は生まれて四ヶ月少々のシュメイだけだから、順当に行けばそうなるだろう。
──こちらこそお願いします──
──まずはお友達からですね! ミリィさんから教わりました!──
厳粛な様子で頭を下げるイジェとは違い、娘のシュメイは無邪気といっても良い思念を放っていた。
竜が成体となるまでには二百年必要だ。生まれて一年にも満たないシュメイからすれば、気の遠くなるほど先のことだろう。
──番か……フェイジーさん、元気にしているかしら?──
感傷的な思念を漏らしたのはメイニーである。彼女は、フェイニーの兄フェイジーが気になるらしい。
フェイジーは既に三百歳となった立派な成獣で、光翔虎の雄の仕来り通り修行の旅に出ている。そのため彼は、ここ百年はエウレア地方に戻っていないという。
メイニーからすればフェイジーは年齢的に釣り合う相手、それに修行の旅も終わる頃合だ。いつ戻るのかと思うのも自然なことだろう。
──フェイジー兄さんなら、元気ですよ~。会ったことはありませんけど~──
フェイニーは、対照的に暢気な思念を発している。生後半年を越えたばかりの彼女は、兄の存在を両親から教えられてはいるものの対面したことはない。そのためだろう、彼女の思念は肉親のこととは思えないほど、あっさりとしたものだった。
「ジルン、ニトラ、頑張って育ててね」
役目を果たしたシノブは、帰ろうとする。
卵が孵るのは、一ヶ月以上も先のことだ。それまでここに張り付いているわけにはいかないし、やるべきことも沢山ある。そのためシノブは、転移の神像を造って帰ろうと思ったのだ。
しかし結果的には、シノブ達の帰還は少々先となった。何故なら彼は、ジルンからあることを聞いたからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「ふ~、良い温泉だ……」
白く濁ったお湯に浸かったシノブは、満足げな溜め息を漏らした。
ここは、ジルンが教えてくれた温泉である。シノブが入っているのは直径10mほどの乳白色の濁り湯だ。しかも周囲には、大小様々な湯溜りが存在する。小さなものは人一人が入れる程度、大きなものは成竜が入れるようなものすらある。
ジルンがシノブに伝えたのは、この温泉のことであった。彼はシノブが温泉を好むと知っていたから、お礼にここを教えたのだ。
「本当に良いですね……アマテール村の『ガンドの湯』を思い出します」
「あちらが『ガンドの湯』なら、ここは『ジルンの湯』ですね!」
シノブに応じたのは、シャルロットとアミィである。湯着を纏った二人は、湯溜りの端で腰まで浸している。
竜が棲家を造る山奥だから、元々が人間の近づけない場所だ。しかも今はジルン達が造った結界があるから、尚更である。
とはいえ慎み深いシャルロットは湯着を用いることを選んだし、シノブも半ズボンのような湯着を着けている。アミィ達もいるから当然の選択だ。
「皆さん~、本当はお風呂で泳いではいけません~。でも、ここは私達だけだから泳いでも良いです~」
こちらは、楽しそうに平泳ぎをするミリィである。
彼女もシャルロットやアミィと同じく、ゆったりとしたワンピースのようなものを身に着けてはいる。しかしお湯を吸ったためだろう、片方の肩紐はずり落ちていた。
──泳ぐのも楽しいです!──
──はい、オルムルお姉さま!──
オルムルとシュメイは、ミリィの両脇で泳いでいた。この温泉の深さは人の腰までもないから、二頭は猫ほどの大きさになっている。
──温かいのも良いですね~──
海竜のリタンは、湯の中に潜ったままだ。潜水も得意な彼らしい選択である。
──リタンさんは、やっぱり水の中が好きなんですね!──
──こういう温かい水なら入っても良いですね──
ファーヴとラーカも泳いでいる。ちなみに、海竜以外の竜は泳ぎに重力操作を使っている。そのため彼らは、体を殆ど動かすことなく湯の上を進んでいた。
──お風呂は苦手です~──
──そうね。光翔虎にお風呂は不要だと思うわ。汚れは魔力で飛ばせば良いのよ──
フェイニーとメイニーは、少し離れたところで見守っていた。猫科の性質を持つ彼女達は、水に浸かるのは苦手らしい。
そんな二頭を炎竜のイジェが遠方から眺めているが、こちらは何も言葉を発しない。
イジェは元の大きさで入れる別の温泉を独り占めしているのだが、そこは沸騰する高温の湯であった。しかし炎竜にとっては心地良いのだろう、目を細めた彼女は時折喉を鳴らしている。
「こうやって、ゆっくりするのも良いですね」
「ああ……皆には悪いけど……」
嬉しげなシャルロットの言葉に、シノブは温泉に来て良かったと思った。
多忙ではあるが、妻を労る機会を逃したくない。そう考えたシノブは、暫し温泉で寛ぐことにしたのだ。
もちろん彼自身も温泉に行ってみたいと思ってはいた。しかし戦争などで最近シャルロットの側を離れることが多かったから、その埋め合わせをしたかったのだ。
「たまには休暇を楽しむのも大切です! 上に立つ人に余裕が無いと、皆が息詰まってしまいます!」
「そうですよ~、シノブ様も泳ぎましょ~」
アミィとミリィが、シノブに笑い掛ける。二人とも、忙しいシノブを案じていたようだ。
「よし! たまには泳ぐか!」
シノブはミリィの誘いに乗ることにした。遊ぶときは遊び、その分働く。そうやってメリハリを付けていくべきであろう。
泳ぎだしたシノブの周囲に、オルムル達が集まっていく。竜と共に温泉を楽しむシノブを、シャルロットとアミィが笑顔で見守り、ミリィはシノブ達の後に続いている。
シノブの顔も、輝くような笑顔となる。そしてシノブ達は、秘境の温泉での心も体も温まる時間を存分に楽しんだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年5月31日17時の更新となります。