17.04 穏やかな街で 後編
大工の棟梁ハンスは、ベランジェを見つめている。彼は、ベランジェやシノブ達を完全に信じて良いか迷っているらしい。
ベランジェはメリエンヌ王国から来た商人と偽り、ハンスの前に現れた。彼やシノブ達は、アミィの作った魔道具で狼の獣人に姿を変えているから、それ自体は不自然ではない。
ベーリンゲン帝国の滅亡した後、異国の商人も旧帝国領に訪れるようになった。しかも領都ヴァイトシュタットは、元が帝都だけに人口も多い。そのためメリエンヌ王国の商人にも、ここを目指す者は多かった。
それに獣人を奴隷とした帝国とは違い、他の国には人族以外の商人も多い。そのためメリエンヌ王国の商人であれば、狼の獣人であっても不自然ではない。
しかしハンスは、ベランジェを少しばかり胡散臭く感じたらしい。
最初ベランジェは、館の主リンハルトに良薬を持ってきたと言った。リンハルトは体が弱く館から出ることも出来ないのだが、ベランジェは異国の薬を扱う自分達なら治せるかもしれないと申し出たのだ。
その一方でベランジェは、借金取りのインゴルフには自身のことを布商人だと告げた。そのためハンスは、何となく怪しく思ったのだろう。
──ちょっと行き当たりばったりだよね……例のご隠居を真似したかったんだろうけど──
──エチゴの布商人ベラエモンですからね……でも、布も薬も食べ物のように痛まないので、双方とも扱う交易商も多いですよ──
シノブとアミィは、こっそりと思念を交わす。
黙ったままのシャルロットやミュリエル、それにセレスティーヌにも、少しばかり呆れたような雰囲気が漂っている。ハンス達に判るほど露骨ではないが、シノブには彼女達の内心が手に取るように理解できた。
ハンスはベランジェに探るような視線を向けたままだ。彼は、大恩あるリンハルトにベランジェを会わせるべきか、悩んでいるようだ。
ベルトーネル子爵の次男リンハルトは幼いころから体が弱く、この別邸でずっと暮らしていたという。そのため彼は、両親や兄とは違い竜人にならずに済んだわけだ。
ベルトーネル子爵がリンハルトを世間から隠していたのは、彼が蒲柳の質だったからだ。かつての帝国では貴族の子供は十歳になると参内したが、それも出来ないリンハルトは処刑される可能性があった。そのため子爵はリンハルトを幼くして死んだとし、密かに街に用意した別邸に彼を匿った。
それ故ベランジェ達も、彼を発見できなかったのだ。
そのような経緯もあり、ハンスはリンハルトを余所者に会わせたくないのだろう。彼にとってリンハルトは自身と家族に住処を与えてくれた恩人だから、慎重になるのも当然である。
「……リンハルト様は体が丈夫ではない。だから、なるべく手短に頼む」
ハンスは、結局ベランジェをリンハルトに会わせることを選んだ。
ベランジェは、一時的だが借金取りのインゴルフを追い払った。そのためハンスは、ベランジェを信じることにしたのだろう。
インゴルフは、この別邸を抵当とした借用書を持っており、リンハルトに退去を迫った。ベルトーネル子爵は死んだから、このままでは借金の取り立てなど不可能だ。そのためインゴルフは、屋敷だけでも手に入れようと思ったようだ。
しかしベランジェは、借金を肩代わりしても良いと言う。おそらくリンハルトは、ここを追い出されたら命に関わるのだろう。ならばベランジェに縋るしかないとハンスが思っても、無理はない。
「付いてきてくれ。アンネとカールは庭掃除を続けろ。またインゴルフが来るかもしれないから、注意するんだぞ」
「はい!」
「任せてよ、父ちゃん!」
ハンスは娘のアンネと息子のカールに言い置くと、館に向かって歩き出す。そして彼に頷いた二人は、再び館の庭の掃除に戻っていった。
◆ ◆ ◆ ◆
別邸の中は意外にも質素であり、装飾品も殆ど無かった。ここは身分を偽るリンハルトが隠棲している館だから、華美な装飾は避けたのだろうか。せいぜい、少しばかり羽振りの良い商人の屋敷といったくらいだ。
そのような殺風景ともいえる廊下を、ハンスの先導でシノブ達六人は進んでいく。
「……シーノさん、アルさんには?」
「インゴルフ達を追わせています」
側に寄り囁くベランジェに、シノブは同じような小声で答えた。シノブは館の外に潜んでいたアルバーノに通信筒で指示を出し、借金取りのインゴルフ達を追わせたのだ。
どうも、ベランジェはインゴルフの持つ借用書が本物か疑っているらしい。もっとも彼だけではなくハンス達も不信感を顕わにしていたから、ベランジェの偏見というわけでもなさそうだ。
そこでシノブは、アルバーノに調査を頼んだわけだ。
「繰り返すが、なるべく短くな。リンハルト様は、本当なら子供達に勉強を教えるどころではない。だが、お優しい方だから、ついつい熱心に教えてしまうようでな……」
ハンスは、抑えた声でベランジェへと注意をする。その様子からは、彼がリンハルトを非常に大切にしていることが窺える。
先日まで、ハンスは二十人を超える弟子を抱えていた。彼は腕利きの大工の棟梁で、しかも貴族が商売相手だから、稼ぎも充分にあったようだ。
しかし帝国が滅び、得意先は無くなった。そのため彼は自宅を売り払って得た金を弟子達に分け与え、しかもそれぞれの行く先の面倒まで見た。そんなハンスにリンハルトは感じ入り、この館に住むようにと提案したそうだ。
だが、ハンスがリンハルトに抱いている思いは、恩義だけではないようだ。彼の顔には、尊敬とも言える感情が浮かんでいる。
「どのようなことを教えているのですか?」
シノブは、子供達を集めて知識を授けているというリンハルトに、強い興味を覚えていた。メリエンヌ学園という学校を造ったシノブは、当然ながら教育を非常に重要視していたからだ。
「読み書きや計算……それに商売に関することだ。この辺りは商人が多いからな」
ハンスによると、リンハルトは基礎的な知識に加え商習慣や公法についても教えているらしい。
他国では基礎教育は神殿の役目だが、かつてのベーリンゲン帝国では親兄弟が教えたり知識人が開いた私塾に通ったりすることが多かった。これは、喜捨という名目で大金を奪う神官達を、街の者が嫌ったためだそうだ。
帝国が存在したころの神殿は、彼らが奉じる神への狂信的なまでの服従を要求した。そのため街の者は、神官達に子供を預ける気にはならなかったのだろう。
ともかく、リンハルトは私塾の主として生活しているらしい。彼は親に養われるだけではなく、自身で生活費を稼ごうとしたのだ。そのような努力をしてきたから、子爵達が世を去った後もリンハルトは何とかなったのだろう。
「そうですか……」
「立派な方だろう? もっと体が強ければ世に出られたのだろうが……」
シノブが感心すると、ハンスは得意げな表情になったが、途中から顔が曇る。彼は恩人であるリンハルトが、能力に相応しい場所で活躍できたらと思ったらしい。
「ですが、こうやって別邸で暮らしていたから生き残れたのでは?」
「そうだな。世の中は何が幸いするか判らぬものだ……あまり遅くなってもいかん。さあ、入るぞ」
シャルロットの言葉に、ハンスは苦笑しつつ頷いた。そして彼はシノブ達に背を向けると、扉を叩き室内に客人の来訪を告げた。
◆ ◆ ◆ ◆
部屋の中は、広くはないが趣味の良い調度の置かれた落ち着いた空間であった。しかし客用のソファーとテーブルがあるのみで人を集めて勉強させるには少々手狭だ。おそらく、リンハルトが日常を送るための居室なのだろう。
しかも、この部屋には大規模な魔道装置が埋め込まれていた。シノブの感知能力によれば、暖房や冷房の役目を果たすものらしい。おそらくリンハルトには、これらの魔道装置が常時ではないが必要で、おいそれと他所には移れないのだろう。
そんな居室にいたのは、若い細身の男性とふくよかな中年の女性であった。男性は館の主リンハルト、女性はハンスの妻デリアである。デリアは、リンハルトの世話係なのだ。
リンハルトは、栗色の髪に灰色の瞳の落ち着いた風貌の青年であった。アルバーノから聞いた通りだと、彼は二十歳になったばかりだが、二つ三つは年上に感じる。
病が重いからだろう、リンハルトは車椅子に乗っていた。椅子の両脇には大きな車輪が付いており、背もたれの上部には押すための取っ手も付いている。
リンハルトは、色の薄い肌をしている。おそらく、外に出ることは少ないのだろう。自身の足で歩くのが困難なら、それも無理はない。
──アミィ、魔力が漏れているのかな?──
シノブはリンハルトを診察しながら、アミィに問いかけた。
リンハルトからは、普通の人に比べて随分と多くの魔力が放出されている。そのためシノブは彼の魔力量が極めて大きいのかと思ったが、外に出ている量が多いだけのようだ。
──そのようですね。魔力を上手く溜められない体質なのでしょう。体は漏れる分だけ食べ物から魔力を抽出し、余計に体力を消費するのだと思います──
アミィも診察をしながら思念を返す。彼女は確信しているらしく、シノブは思念から強い自信を感じた。
「それで、インゴルフは……」
ベランジェ達はインゴルフの持つ借用書について訊ねている。その間シノブとアミィは、リンハルトの診察をしているのだ。
シノブは大商人ベラエモンのお供を務める魔術師のシーノ、アミィは弟子のアニーとした。二人は回復魔術が得意だが、薬学も修めたことにしている。
最初ハンスやデリアは疑っているような顔をしていたが、すぐに二人は態度を改めた。アミィの出した魔法のお茶をリンハルトが飲むと、見る見るうちに彼の顔色が良くなったからだ。
──魔法のお茶で得た分も、もう外に出たみたいだね。これだと吸収するために体力を使った分、更に疲れてしまう──
シノブは、リンハルトに魔力を注ぎながらアミィに思念を送る。
直接魔力を与える場合は、消化器官からの吸収とは違い肉体の疲労はない。そのため彼は、魔力譲渡に切り替えたのだ。
──魔法のお茶は魔力を吸収しやすいですから、あまり疲れないと思います。
今まで使っていた薬も、高純度の魔力を含むものなのでしょう。それなら普通の食べ物とは違って疲労は少ない筈です──
アミィが言うように、魔法のお茶は魔力回復の薬草などに比べて別格の効果を誇っていた。魔法のお茶を出す水筒はアムテリアの授けたものだから、それも当然ではある。
──シノブ様、治癒の杖でも治せますが、神域の植物で作る薬でも快癒します──
アミィは、治癒の杖ではなく薬でリンハルトを治すという。
神域の植物は、森の女神アルフールが育てた特殊なものだ。その中には体力や魔力を回復させてくれるものもあるし、体質を改善するものもある。そして彼女によれば、半日あれば薬を用意できるらしい。
──判った。あの杖は、ちょっと特殊だからね。明日、薬を持ってくると答えるよ──
シノブも、出来れば杖の使用は避けたかった。あのような万能と言っても良い治療の魔道具は、エウレア地方には存在しないからだ。
「リンハルト様。これでしたら治療できます。ただ、薬の調合は明日までかかります。ですから、明日もう一度来ます」
シノブは、アミィに代わってリンハルトに診察結果を伝えた。アミィの外見は十歳くらいの少女だから、自身が伝えた方が納得させ易いと思ったのだ。
「ありがとうございます」
微笑みを浮かべたリンハルトは、シノブに向かって頭を下げた。
貴族出身ではあるが、ずっと市井で暮らしていたリンハルトは驕り高ぶることのない好青年であった。そういう性格だから、子供達に教えることが出来るのだろう。
「シーノ様、アニー様、どうかリンハルト様をお願いします!」
「アニー様、子供扱いして済みませんでした!」
デリアとハンスもシノブとアミィに深く頭を垂れる。特に最初アミィを子供と侮ったハンスは、背中が見えるくらいの最敬礼であった。
「ご隠居、借用書の件は良いのですか?」
「ええ、その件は充分ですよ」
シノブの問いに、ベランジェは自信満々な様子で答えた。彼は当たり障りのないことを訊ねているだけであったが、それでも充分な勝算を得たらしい。
「……リンハルト様、一つお聞きして良いでしょうか?」
「何なりと。このような素晴らしい治療をしていただいたのです、どんなことでも聞いてください」
リンハルトは、かなり血色の良くなった顔でシノブに頷いた。部屋に入ったときは、疲労が激しいように見えた彼であったが、今の彼の顔は病人のものとは思えない。
「どうして子供達に教育をしようと思われたのですか?」
「子供は好きですから。それに、外出できない私に選択肢は多くありません。
いつまでも父の庇護があるとも限りませんし……もっとも、こんなに早く亡くなるとは思っていませんでしたが……」
途中までは笑顔であったリンハルトだが、最後は悲しげな顔となっていた。
シノブにはベルトーネル子爵がどんな人物だか知る由もない。しかしリンハルトにとっては、良い父親だったに違いない。
「父は商務卿の下で働いていました。ですから私も体が治ったときには父の手助けをと思い、商業について多少学んでいたのです」
「この車椅子も、リンハルト様に教えていただいて夫が作ったのです」
リンハルトに続いて口を開いたのは、デリアであった。
身の回りの世話を任せているせいか、リンハルトはハンス達と随分親しいようだ。そのためデリアも、あまり遠慮をした様子はない。
「確かに、あまり見ませんね」
シノブの後ろで呟いたのは、セレスティーヌであった。
車椅子は、メリエンヌ王国など他国にも存在する。ただし、それらを使うのは王族や上級貴族だけで、しかも体が不自由になった極めて高齢の者達だけであった。そのためシノブは、この世界に来てから車椅子を見たことがなかった。
それはヴァイトシュタットでも同じらしく、ハンスやデリアは頷き、リンハルトも何か感心したような表情になっている。
「シーノとアニーは優秀な治癒術士です。必ず良くなりますよ。そうなれば、リンハルト様の知識を活かす場も広がるでしょう」
「はい! もう少しです!」
シャルロットとミュリエルは、リンハルトを励ました。子供達に教育を施す彼を、二人も応援したくなったようだ。
「そうですね。この国も随分と良い方向に向かっているようですが、出来れば私も役に立ちたいものです」
語り終えたリンハルトは、シノブ達に微笑んだ。将来への強い期待のためだろう、彼の顔は子供のように輝いていた。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブ達が宮殿に戻ると、アルバーノが待ち構えていた。潜入調査は成功したようで、彼の顔は明るい。
「借用書は偽造です。自宅に戻ったインゴルフが、手下に自慢していました」
「やはり……しかし義伯父上、どうして判ったのですか?」
シノブは、アルバーノからベランジェへと顔を向けた。シャルロット達も、シノブと同じくベランジェの答えを待つ。
「簡単なことだよ。ベルトーネル子爵の館から、借用書など発見されなかった。彼の使用人も、そんなことは言わなかったと調書に残っている」
ベランジェは僅かに得意げな表情となり、シノブ達へ説明を始める。
従来の貴族達で生き残った者達は、ベランジェ達による厳重な取り調べを受けた。これから彼らをどう扱うか、決めなくてはならないからだ。
バアル神の支配を解かれた者のうち、成人の貴族は大半が記憶を失っていた。そのため聞き取りで得られる情報は少ない。そこでベランジェ達は、生死を問わず全ての貴族の館に監察官を派遣した。
また、ベランジェ達は貴族達の行状や借金の有無なども調べ上げたという。彼らの処遇の参考にするためである。
ちなみに全く問題が無いとされた者は少数であった。そしてベルトーネル子爵は、その少数に属していたからベランジェも良く覚えていたそうだ。
「借用書は互いに一部ずつ持ちますし、割印を押しますから。インゴルフは帝国崩壊の混乱で失われたと言い張るつもりのようですが……。
それと、あの館の世話をしたのはインゴルフでした。だから彼はリンハルトが子爵の次男だと知っていたわけです」
「まあ、そんなところだろうね。リンハルト達も、インゴルフが不正をしていると察しているのだろう。しかし彼らが訴えるには、正体を明かさないといけない。
おそらくリンハルト達は、子爵の次男だと告げたら何らかの罰を受けると思ったのだろうね。普通の状態ならともかく、あれでは強制労働となったら命を落としかねない。
インゴルフも、それを知っているから強気に出ているのではないかね?」
ベランジェは、アルバーノの言葉を補足する。
リンハルトは、公式には幼いうちに死亡したことになっている。そのため、彼は公の場に出た場合に、どのように扱われるか不安に思ったのかもしれない。
たとえば子爵の子供だと認められた場合、他と同様に厳しい取り調べをされる。逆に、帝国滅亡に乗じて貴族になろうとした詐欺師と誤解される。リンハルト達は新たな統治者に伝手が無いから、最悪の場合を恐れ躊躇ったのでは。ベランジェは、そう思ったようだ。
「インゴルフは叩けば幾らでも埃が出るでしょう。であれば、早急に捕縛すべきだと思いますが……伯父上は、そうなさらないのでしょう?」
シャルロットは、笑みを浮かべつつ伯父であるベランジェに顔を向けた。彼女は、ベランジェが同意しないと思っているようだ。
エウレア地方では、監察官の権限は極めて広範である。領主が認めれば、民どころか貴族の館でも踏み込んで捜査することが出来る。したがってシャルロットが言うように、インゴルフの商会に踏み込んで取り押さえるのが最も早い。
「そのとおり! 折角だから明日インゴルフの前で私達の正体を伝えよう! 暴れるか、逃げるか、そのまま大人しくなるか……できれば、派手に暴れてくれんかねぇ」
本音を漏らすベランジェに、集った者達は大笑いした。
そうと決まれば、後はリンハルトのための薬を用意するだけだ。シノブ達は一旦シェロノワへと戻り、更にアミィは神域へと赴いた。
◆ ◆ ◆ ◆
一夜明けて、再びリンハルトの館である。館の庭にシノブとアミィ、ベランジェ、そして大工のハンスと彼の家族、更に車椅子に乗ったリンハルトと二人の使用人がいる。
彼らだけなら和やかであったかもしれないが、館を差し押さえに来たインゴルフ達がいるから、爽やかな朝に似合わない緊迫した雰囲気が漂っている。
インゴルフは用心したのか昨日の倍ほど、およそ二十人の手下を連れている。そのためだろう、ハンス達の顔は緊張で強張っていた。
ちなみに、今日はシャルロット達を連れてきていない。荒事が起きると判っているのに懐妊中のシャルロットを連れてくるのは、愚の骨頂だ。武技を学んでいないミュリエルやセレスティーヌも同じである。
シノブはアルノーやアルバーノ達も呼んだが、彼らは敷地の外で待機している。なるべく少人数で当たりたいとベランジェが主張したのだ。おそらく、その方が自身の見た映像に忠実だからだろう。
「控えおろう! こちらにおわす御方をどなたと心得る! 畏れ多くも東方守護副将軍ベランジェ・ド・ルクレール様にあらせられるぞ!」
リンハルトの館の庭で啖呵を切ったのは、シノブである。インゴルフは、結局罪を認めなかった。そのためシノブは、現在ヴァイトシュタットを実質的に統治するベランジェの名で彼らを捕らえることにしたのだ。
ヴァイトシュタットの者達もベランジェがシノブの代理だとは知っている。しかしシノブは、普段いない自分が唐突に現れるより、ここにずっと詰めているベランジェの方が適任とし、彼を立てることにしたのだ。
それにシノブは、折角だからベランジェに例のご隠居の気分を味わってほしかった。シノブは自分に代わり旧帝国領を統治してくれるベランジェを労うべきだと思い、彼の望む通りにしたわけだ。
「な、何だと!? 馬鹿な!?」
「獣人が人族になったぞ!?」
インゴルフや、彼を取り巻く屈強な男達は口々に叫ぶ。
ベランジェは変装の魔道具を取ったから、人族の姿に戻っている。対するインゴルフ達はそんな道具を知らないから、目の前で起きたことが信じられないようだ。
ベランジェとインゴルフのやり取りを見ていたハンス達も、同様に呆然としている。
「に、偽者だ! お前達やってしまえ!」
「シーノさん、アニーさん、懲らしめてあげなさい!」
ベランジェは両脇のシノブとアミィに命じ、自身も杖を構えた。この杖は鉄芯入りだから、並の剣なら充分に対抗可能である。
「うわっ!」
「こ、こいつら、強い!」
シノブとアミィは小剣を抜き、剣の平でインゴルフの手下達を打ち据える。そして二人が動くと手下達は面白いように倒れていく。
インゴルフの手下達も小剣や大剣でシノブ達に襲い掛かるが、彼らの武器は空を切るばかりだ。
「す、擦り抜けた!? うおっ!」
「なんでこんな子供に! があっ!」
シノブやアミィからすれば、彼らの剣など止まっているようなものだ。正に一寸の見切りというべき至近で躱しているから、手下達からすれば剣が当たったように感じるのだろう。
驚愕の表情を浮かべた手下達は、直後にシノブ達の反撃を受け呆気なく崩れ落ちる。
手下達は、端的に言えば街のごろつきである。そのためシノブとアミィは、身体強化も使わずに僅かな時間で全てを倒していた。
「どこに行くのかな?」
シノブは、逃げ出そうとしていたインゴルフの前に回りこむ。もう、残るは主のインゴルフだけだ。
「こ、こんな……うわっ!」
インゴルフは、蒼白な顔で呟き後退る。しかし彼は、一歩退いたところで倒れ伏した。
「シーノさん、アニーさん、私にも出番を残しておいてください」
後ろからインゴルフに一撃を加えたのは、ベランジェであった。鉄の芯が入った杖を脳天に受けたインゴルフは、気絶している。
何とも呆気ない結末だが、所詮はただの老人と街の無頼だ。シノブ達が本気を出すまでも無く、荒事は僅かな時間で終幕となった。
◆ ◆ ◆ ◆
「あの……宰相様?」
声を発したハンスは、跪いていた。彼は恐る恐るといった様子で、ベランジェの顔を見上げている。
それにハンスの家族やリンハルトの使用人達も同様で、何れもハンス同様に畏まっている。例外はリンハルトだけだが、彼は病のため車椅子から降りることが出来ないのだろう。
「正式には宰相ではないのだが……それで通っているみたいだね。で、何かな?」
「その……食堂では大変失礼なことを!」
苦笑いをするベランジェに、ハンスは更に居住まいを改め平伏した。彼はシノブ達と食堂で出会ったときに、宰相ことベランジェを非難した。そのため、叱責されると思ったのであろうか。
「気にしなくて良いのだよ。このような悪党を見逃すなど、まだまだ精進が足りないのは事実だ。さあ、立って!」
ベランジェが声を掛けると、ハンス達は立ち上がった。
ハンスは決まり悪げな顔のままだ。娘のアンネや息子のカールも、父の後ろで俯いている。二人は昨日シノブ達を追い払おうとしたのを思い出したらしい。
ハンスの妻のデリアや彼の両親達、それに二人の使用人はさほどでもない。とはいえ彼らも居心地悪そうな表情だ。
「昨日のことは気にしないで! それより、リンハルト君の治療をしよう! アニー君、頼むよ!」
「はい! あの、これを飲んでください……美味しくないと思いますが……」
ベランジェに呼ばれたアミィは、魔法のカバンから大きなビンとコップを取り出した。そして彼女は、コップの中に何ともいえない色の液体を注いでいく。
それを見ているシノブは、微かに眉を顰めていた。実は彼も少しだけ飲んでみたのだが、それは途轍もなく酷い味だったのだ。
確かに体力や魔力は回復するし、健康なシノブですら更に快調になったと思うほどである。しかし、二度と飲みたくないと思う味でもあった。表現するのは難しいが、味覚が壊れるかと思うような刺激と共に、野菜を無作為に選び搾り出した汁のような複雑かつ残念な味がしたのだ。
シノブが味を思い出しているうちに、リンハルトはアミィからコップを受け取った。
リンハルトは、アミィの口調や済まなそうな顔から何かを感じたようだ。しかし彼は健康になるためと諦めたのか、静かにコップの中身を飲んでいく。
「……!?」
リンハルトが何とも言いがたい声を上げたため、ハンス達の表情が変わる。しかしリンハルトは、そのままコップの中身を飲み干した。
──アミィ、あれって何で出来ているの?──
──あの、例の茄子と、それからイチゴと……とにかく色々です──
アミィは、シノブに薬の原料を説明した。どうやら彼女は、アルフールが創った魔力を多く含む茄子『マーホーナス』や、体力回復の効果があるイチゴ『ツヨイチゴ』などを使ったらしい。
シノブは、笑いを堪えるのに苦労した。自分の飲んだものが茄子とイチゴの絞り汁だと聞いたら、リンハルトはどんな顔をするだろうか。シノブは、その光景を想像したのだ。
「確かに、凄い味でした」
「口直しに、お茶をどうぞ」
微妙な顔となったリンハルトに、アミィは魔法のお茶を入れた別のコップを渡した。彼女も、酷い味だとは承知していたのだ。
「これは大変助かります……陛下、感謝の言葉もありません」
ようやくすっきりした表情となったリンハルトは、車椅子から立ち上がるとシノブに向かって進んだ。そして彼は跪き、深々と頭を下げる。
「陛下も早いのですが……どうして?」
ハンス達が喜びと驚きの声を上げる中、シノブはリンハルトに問いかけた。彼は、一体どの時点でリンハルトが正体を察したのか知りたかったのだ。
「ベランジェ様と一緒に現れるのですから、並のお方ではないでしょう。それに、ここまで強い少女など、そうはいない筈です。
そして、陛下の第一の従者は狐の獣人の少女と伺っています。種族は違いますが、人族のベランジェ様が狼の獣人に姿を変えていたのですから。
その他にも、昨日同行されていた女性は車椅子を知っていました。となると、単なる武人を連れてきたということもないでしょう」
シノブの問いかけに、リンハルトは理路整然と説明した。そして彼の言葉を聞いたシノブとアミィは、それぞれ変装の魔道具を外す。
ここまで察しているのに、惚けても意味があるまい。それに、元々シノブはリンハルトの能力や心を知りたかったのだ。彼は頭も切れるようだし、民にも優しい。ならば、一緒にこの国を良くしようと誘うべきだろう。
「実はリンハルト殿……」
シノブは喜びを感じつつ、健康を取り戻した青年へと語り掛けた。リンハルトなら、きっとシノブ達の思いを理解してくれるに違いない。そんな思いが周囲に伝わったのか、彼の言葉を聞く者は一様に笑顔となっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年5月29日17時の更新となります。