17.03 穏やかな街で 中編
先代アシャール公爵ベランジェの提案で、シノブ達は領都ヴァイトシュタットの街に出た。二人に同行したのはアミィ、シャルロット、ミュリエル、セレスティーヌである。
ミュリエルとセレスティーヌは、ヴァイトシュタットに訪れたことは無い。ヴァイトシュタットは、先日までベーリンゲン帝国の帝都だったから、当然ではある。
帝都決戦やその後、シノブとアミィは何度かヴァイトシュタットに来たが、街を見物するような時間は無かった。しかも普段は神殿経由の移動だから、大神殿から宮殿へと向かうだけである。そしてシャルロットも、決戦後に宮殿へと足を運んだことがある程度だ。
ベランジェも、今回のように街の食堂に入ったことは無いという。
決戦後ベランジェは殆どの時間をヴァイトシュタットで過ごしている。しかし彼は宮殿での執務が忙しい上に、外出時も大勢の護衛に囲まれて目的の場所に移動するだけであった。
しかし今回一行は、アミィが作った変装用の魔道具で狼の獣人に姿を変えている。そのため彼らは、ごく普通の住民と同じように街の食堂に入っていた。
もちろん、彼らだけで来たわけではない。シノブの親衛隊長であるアルノーを始め、幾人もの護衛が同行している。人数こそ少ないが、アルノーと彼の妻のアデージュ、そしてマリエッタを含むカンビーニ王国出身の四人など、何れも腕自慢の武人達だ。
彼らはアルノーとアデージュが狼の獣人、マリエッタとフランチェーラ、シエラニアが虎の獣人、ロセレッタが獅子の獣人と種族は様々だ。しかし今の彼らは全員が人族の姿であった。北方に位置するヴァイトシュタットには今まで虎や獅子の獣人などおらず、目立つからである。
「しかし、そこまでシーノさんが子供好きだとは知りませんでした」
ベランジェが口にしたシーノというのは、シノブの偽名である。
旅の商人に扮したベランジェは、口調も普段とは変えている。これは、シノブやアミィが見せた映像の影響であった。
ベランジェは、とある諸国を漫遊する有名なご隠居を真似ているのだ。四十半ばの彼が杖を持っているのは、そのご隠居に倣ってのことである。
「まさか、毎日あちらに通っていたとは……」
ベランジェは、シノブが毎日セリュジエールに訪れていると知って驚いたのだ。
ベルレアン伯爵コルネーユの長男アヴニールが生まれてから、一週間弱。シノブは彼の下に一日も欠かさず赴いていた。
ベランジェの言う通りアヴニールがいるのはセリュジエールだが、シノブは自身で神殿の転移が出来る。そのため彼は一日の仕事を終えるとシャルロット達と共にセリュジエールに行き、義弟との一時を過ごしていたのだ。
「半年もすれば、ロッテも出産ですからね。今のうちから慣れておこうかと……」
シノブも、シャルロットを仮の名で呼ぶ。ベランジェによれば、シノブほどではないがシャルロットも有名だそうだ。そのためシノブは妻の本当の名を呼ぶのを避けたのだ。
ちなみにシノブの言葉は、半分以上言い訳である。彼は、生まれたばかりのアヴニールの顔を見るのが純粋に好きだったのだ。
「伯父上、悪いことではないと思いますが?」
「別に悪いとは言っていませんよ。義弟でもあるのだから、可愛がるのは当然です。それに、シーノさんが子煩悩な方が君にとっては喜ばしいでしょうし」
シノブを擁護するシャルロットに、ベランジェは何か含むところがあるような顔で応じる。
一方シャルロットは、頬を真っ赤に染めていた。やはり彼女は、赤子を可愛がるシノブの姿に、自分達の将来を重ねていたのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「しかし、平和なものですね……」
軽食を食べ終えたベランジェは、どこか不満げな声音で呟いた。
聡明な彼のことだから、ドラマのように街に出たから必ず事件が起きると思ってはいないだろう。とはいえ彼は、もしかすると何かがあると期待していたようだ。
「宰相様が有能だからでは?」
苦笑しながら答えたのは、ベランジェの向かいに腰掛けたシノブである。アミィやシャルロット、それにミュリエルやセレスティーヌも笑いを隠さない。
宰相というのは、ベランジェのことだ。
彼は東方守護副将軍だが、この地に来てからのベランジェは軍を動かすことなど殆ど無かった。一応、正式な役職は軍管区の総督だが、ベランジェは常々シノブの代わりに統治しているだけと言っていた。そのためヴァイトシュタットの者達は、彼を宰相と呼んでいるらしい。
もっともシノブが旧帝国領の国王となったとき、ベランジェは宰相へと就任する。したがって、名称が先行しているだけではある。
「確かに宰相のベランジェ様は有能な方です。ですが……」
「何が有能なものか!」
ベランジェが少しばかり得意げな顔で答えたとき、隣のテーブルから怒りに満ちた男の声が響いた。
怒声を発したのは、アルノー達のいる側と反対のテーブルで食事をしていた人族の男だ。容貌は四十過ぎといったところで、がっしりした体格からすると肉体労働者のようにも見える。
男の髪の色は黒で、瞳は濃い茶色である。このような容姿の持ち主は、旧帝国の人族だと多数を占めるほどではないが一定数はいる。
「どうなさいましたかな?」
「どうもこうもあるか! あいつらのせいで、俺の仕事は無くなったんだ!」
ベランジェの問いに、男は不機嫌そうな顔で応じた。
それを聞いたシノブは、少々意外に感じる。彼は、現在のヴァイトシュタットは好景気だと聞いていたからだ。
ベランジェは、旧帝国領の各地に新たな街道を造ったり、メリエンヌ王国を始めとする他国との交易を推し進めたりと、多くの仕事を創出している。ここヴァイトシュタットでも、地下にあった異神を祭る神殿や通路の埋め戻しなど民間に出している仕事も多く、街も随分と潤っているらしい。
それを示すように、この食堂にも大勢の客が入っており、殆どの者が活気に満ちた表情であった。ベランジェ達は以前からの住民に配慮しているから、健康な者であれば幾らでも仕事はあるのだ。
「失礼ですが、お仕事は何を?」
シノブは、ベランジェを睨み付けたままの男に問いかけた。
新たな体制になって解雇されたのなら、軍人であろうか。最初シノブの脳裏に浮かんだのは、それであった。しかし男には、武術の経験など無さそうである。
貴族や騎士など支配階級のようには見えないから、軍人だとしても小隊長か平の隊員だろう。しかし職業軍人であれば、それらしい目配りや身のこなしをするものだ。自身も武術を修め軍人達と接する機会の多いシノブは、それらを判断できるようになっていた。
それに対し、目の前の男に専門的な訓練を受けた様子は無い。彼は力こそありそうだが、纏う空気は街の力自慢といったところである。
「……大工だよ」
「それなら仕事はありそうなものですが?」
男の答えに、ベランジェは怪訝な顔となった。
帝都決戦では、街には殆ど被害が出なかった。そのため建て替えが増えることは無かったが、かといって建築や改築が減ったわけではない。それらを把握していたベランジェは、男の答えに疑問を感じたようだ。
「俺のお得意様は、貴族だったんだよ。だが、貴族は死んだか隠居だろ。だから、建て替えどころか修繕の口すら無くなったんだ」
「普通の街の住宅では、駄目なのですか?」
苦々しげな男に問いかけたのは、小首を傾げたシャルロットだ。アミィ達も、怪訝そうな顔をしている。
貴族相手の仕事が減少しても、街には他に幾らでも大工の需要はあるのでは。シャルロット達は、そう思ったらしい。
「大工の世界にも縄張りがあってな。お嬢ちゃん達は余所者だから知らないだろうが、ここでは街の大工と貴族向けの大工は、仲が良くないんだ」
男は、シノブ達がヴァイトシュタットの生まれではないと察していた。
シノブ達は狼の獣人に姿を変え、商人風の上等な服を身に着けている。しかし帝国では獣人達は奴隷であり、彼らが解放されてから二ヶ月少々しか経っていない。その短期間で商人として成功するなど、普通ならまず無理であろう。
そのため男は、シノブ達をメリエンヌ王国など他国から来た商人と思ったようだ。
「何しろ、殆どの貴族は街の者なんてどうでも良いと思っていたからな。そんな奴らの仕事を請ける俺達も、好かれてはいないのさ。
だが、俺が受け継いだ客は貴族ばかりだった。もっとも貴族向けは、どこも似たようなものだが……」
男の話を聞いたシノブは、何となくだが状況を理解した。
ベーリンゲン帝国は民に重税を課し、更に神殿は喜捨という名目で強制的な搾取をしていた。そのため、街の者で貴族を良く言う者は少ない。そうなると、貴族から仕事を貰う者達も肩身が狭いだろう。彼らは自然と、貴族専属の大工となったに違いない。
貴族達の多くは、帝都決戦のときに竜人と化し命を落とした。それに生き残った者も大半は子供で、その多くはメリエンヌ学園の学生となった。したがって彼らが住んでいた屋敷も放置され、大工の手を入れるようなことは無い筈だ。
ベランジェを始めとする新たな為政者達も、まずは仕事が優先で自身の住居を趣味に合うようにする余裕までは無い。それに改築するにしても、彼らは自身が好むようにするだろうし、その場合は故国から招いた大工を使うに違いない。
「詰まらない愚痴を聞かせたな……すまん」
男は、話しているうちに怒りが覚めたらしい。恥ずかしげな顔となった彼は、席を立つ。そして勘定を済ませた男は、静かな足取りで店を出て行く。
外食が出来るのだから、完全に困窮しているわけではないのだろう。とはいえ、どこか寂しげな男の姿から、シノブは目が離せなかった。
「シーノさん、アルさんに……」
「判りました」
ベランジェから囁きを受け、シノブは懐から通信筒を取り出す。そして彼は、姿を隠して随伴しているアルバーノに、紙片で指示を伝えた。
シノブの感知している通りなら、アルバーノは店のすぐ外にいる筈だ。そして彼なら大工の行き先を掴むなど、容易いことである。
◆ ◆ ◆ ◆
食事を終えたシノブ達は、再び街の視察に戻った。そして一通り周った彼らが宮殿に戻って幾らもしないうちに、アルバーノも帰ってきた。
「あの男の名は、ハンス・ホルツケン。貴族相手の大工の棟梁です。もっとも、今は弟子達の殆どを手放したようですが」
アルバーノは、シノブ達に調べたことを語りだした。ソファーに腰を下ろしたシノブ達は、いずれも興味深げな顔で彼の話に聞き入っている。
ハンスは、彼自身が口にした通り貴族の屋敷の建築や改修を主な仕事とする大工であった。先祖代々の棟梁で、家族は両親に妻、それに子供が二人で上が娘、下が息子である。
「腕は良く、弟子にも慕われていたそうです。弟子を手放したのも、仕事が激減して彼らを養えなくなったからのようですね。他の棟梁に頭を下げて、弟子を引き取ってもらったとか」
「引き取れるような羽振りの良い棟梁が、他にいたの?」
シノブは、思わずアルバーノに問い返した。
ハンスの話の通りなら、貴族を相手としていた大工は一様に厳しい筈である。それなのに他の弟子を受け入れる景気の良い棟梁がいることを、シノブは不思議に思ったのだ。
「相手は一般向けの棟梁でして……大工仲間では結構噂になったようですよ。貴族相手の高慢ちきが、格下に見ていた一般向けに平身低頭したなんて、と。
もっとも、ハンスは頑固な職人ですが、高慢ではなかったようです。腕が良いから、それを自慢することはあったそうですが、まあ常識的な範囲です」
アルバーノは、ハンスの仕事振りや評判まで調べ上げていた。それによると、ハンスは貴族相手の棟梁でも、上位に入る腕の持ち主らしい。
ちなみにハンスがあの食堂に訪れたのは、かつての弟子のその後を確かめに行った帰りだそうだ。そういったことからすると、よほど情に厚い人物なのだろう。
「他の貴族向けの棟梁は、どうしているのですか?」
「色々ですね。同じく弟子を手放した者もいます。ハンスのように手厚く世話したかどうかは知りませんが。副業として大商人なども顧客にしていた者は、そちらに転向したようです。もっとも、ハンスと同じく貴族向けに拘る者達も少なからずいるそうですが……」
アルバーノは、ミュリエルの問いに幾つかの例を挙げつつ答えた。
一般向けの棟梁達も、弟子を受け入れるくらいはしているらしい。もちろん全員ではないだろうが、それでも多くは新たな職を得たという。
しかしハンスのような棟梁達ともなると、少々違うようだ。彼らは己の継いできた技に誇りを抱いており、そう簡単に他の道に進もうとはしなかったからだ。
「このように複雑な寄せ木細工の床など、貴族の邸宅くらいでしょうし……建築自体も規模が違います。それだけのものを造る技は、並の屋敷だと充分に活かせないのでしょうね」
自身が立つ床に視線を向けたアルバーノは、僅かに苦笑していた。現実的なところのある彼は、そんなことを言っていないで早く新たな道を見つけたら、と思っているのかもしれない。
「伝統を守りたいというのは判りますわ。……シノブ様、叔父様。何とかなりませんの?」
セレスティーヌは、シノブとベランジェに顔を向けた。彼女は期待の表情でシノブ達を見つめている。
「一番良いのは、貴族向けの邸宅に住む者を増やすことなんだろうけど。今は空き家が多いんだろうし」
「宮殿も主不在のままだからねぇ」
シノブが呟くと、悪戯っぽい表情のベランジェが続く。ベランジェの思わぬ攻撃に、シノブは苦笑いを浮かべるしかなかった。
現在、ヴァイトシュタットを動かす者達で家族と共に定住しているのは、ベランジェなど極めて僅かであった。ベランジェは妻達も呼び寄せているが、他は独身であったり家族を置いての単身であったりだ。
当然ながら、そうなると館に手を入れることもないし、それどころか宮殿の騎士棟のような共用の住居を選ぶ者すらいた。
そして君主になる予定のシノブも、こちらに住んでいない。これではハンスが暇を持て余すのも無理はなかろう。
「シノブ様、早くお引っ越ししないといけませんね」
「シェロノワと行き来するにしても、こちらを使うようになれば少しは手を加えるでしょうから……」
アミィとシャルロットは、ヴァイトシュタットも早く生活の拠点としなくては、と感じたようだ。
なお、当面シノブ達はフライユ伯爵領の領都シェロノワとヴァイトシュタットの双方を行き来しつつ暮らす。シノブが新国家の君主にしてメリエンヌ王国の伯爵という二つの顔を持つからだ。
「そうだね。宮殿に手を入れるかどうかは別として、こちらに住まないことには始まらない。それと、他の人達にもヴァイトシュタットに腰を据えるようにしてもらわないと……」
シノブは、シャルロット達に頷き返した。
街に出る前に、シノブは自分達が住むことになる小宮殿を見たが、そのままで充分だと感じていた。しかし実際に住んでみれば、また違う思いを抱くかもしれない。
そしてベランジェを支える者達も、仮住まいから長く住むための家に移れば多少は改修もするだろう。そうなれば、ハンス達の仕事も増えるに違いない。
◆ ◆ ◆ ◆
「閣下。ハンスの家を探っていたら、興味深い人物を見つけました」
アルバーノには、まだ報告すべき事項があったようだ。シノブ達が住居に関しての話を終えると、彼は再び口を開いた。
「どのような人?」
「実は、ハンスと彼の家族は、とある貴族の別宅に住み込んでいまして。何でも彼は弟子を手放すときに、それなりの金を彼らに持たせたそうです。
ハンスは弟子に渡す金を捻出するために自宅を売り払い、それを意気に感じた貴族が彼を自身の館に招いたとか」
シノブが問うと、アルバーノは意外なことを語りだした。
ハンスが戻っていったのは、ベルトーネルという子爵の所有する館であった。もっとも子爵夫妻や先代達、それに嫡男は帝都決戦の際に竜人となり命を落とし、生き残っているのは現在別邸に住んでいる次男のリンハルトだけだ。
ハンスには二十人以上の弟子がいたが、彼らは半分程度が一般向けの棟梁の下に移り、残りは故郷に戻っていった。そしてハンスは彼ら全員に充分な慰労金を渡したのだが、そのために長年住んだ家を売却した。
一方ベルトーネル子爵家はハンスの顧客で、彼の窮状を知ったリンハルトは、館にハンス一家を住まわせたのだ。
「リンハルトは二十歳になったばかりの若者ですが、体が弱く外出せずに暮らしていたそうです。そのため邪神に操られることが無かったのですね」
アルバーノは、そう締めくくった。
帝国の神であったバアル神は、人々に一種の洗脳を施していた。洗脳をするためには相手を宮殿や大神殿に招く必要があり、しかも強固に縛るには年に数度は招かなくてはならない。そのためリンハルトは、影響が無かったようだ。
「ベルトーネル子爵家ね……てっきり全員が異形に変じたと思っていたよ。それに、次男がいたとは知らなかった」
「帝国は弱者に冷たい国でしたからね。だから、子爵は息子が処刑されると予想したのでしょう。
……リンハルトのいた別宅ですが、周囲の者は裕福な商人の持ち物だと思っているようです。たぶん、子爵が体の弱い次男を匿うために購入したのだと」
ぼやくベランジェに、アルバーノはリンハルトが今まで行方知れずであった事情を説明する。
おそらく、アルバーノの推測は正しいのだろう。皇帝は、一定年齢に達した貴族の子供に参内を義務付けていた。そして、リンハルトは幼いころから体が弱かったらしい。そのため子爵は、息子を死んだ者として匿ったのではないだろうか。
「そうか……一度、会ってみたいな」
シノブは、自身の目でリンハルトを確かめようと考えた。
旧帝国領を統治する内政官は、足りているとは言いがたい。元々の支配階層はバアル神の支配を解かれた代わりに記憶の多くを失っていた。中には元メグレンブルク伯爵のエックヌートのように、再び仕事を教えれば思い出す者もいるのだが、それは一部であった。
それに積極的に民を迫害した人物も多く、彼らを表舞台に出すのは難しい。そのため生き残った帝国の貴族達で、新たな国の政務に関われる者は僅かであった。
ならば民間から募れば良いかというと、今まで行政に加わったことの無い者達だ。希望者はメリエンヌ学園で学んでもらってはいるが、戦力となるのは相当先のことだと思われる。
リンハルトは世に出るつもりなど無いのかもしれない。しかし健康上の理由で断念したのであれば、そしてシノブの魔術で回復させることが出来れば、即戦力となる可能性はある。
貴族の子弟なら充分な教育を受けている可能性は高い。それに困窮したハンスに手を差し伸べるのだから慈しみに満ちた者だと思われる。ならば会っておいて損は無いだろうと、シノブは思ったのだ。
「そうしよう! いやぁ、面白くなってきたね! 市井に隠れた賢者を発見し、改革を進める。らしくなってきたじゃないか!」
ベランジェは、実に楽しげな笑みを浮かべている。シノブが見せたドラマのせいだろう、彼は街にお忍びで赴き世に貢献するような展開を望んでいるらしい。
「義伯父上……ご期待のように進むとは限りませんが……ともかく、行ってみましょうか」
シノブは苦笑を浮かべたまま、ソファーから立ち上がった。
まだ夕方であり、話をするくらいの時間はある。そのため彼らは再び変装し、街へと出て行った。
◆ ◆ ◆ ◆
ベルトーネル子爵の別邸は、大通りからかなり奥に入った静かな場所にあった。外周区でも中央に近い一帯で、表通りの喧騒が嘘のようである。
しかし、そこでシノブ達を待っていたのは、予想外の拒絶であった。
「帰れ! お前達のような者をリンハルト様に会わせるわけにはいかん!」
「そうです! 病弱なリンハルト様を騙そうとするなんて! ここはリンハルト様と子供達の場所なの!」
怒りの表情でシノブ達に叫んだのは、大工の棟梁ハンスと十代後半の娘であった。ちなみにアルバーノによると、娘はアンネという名でハンスの長子だそうだ。
シノブ達は、まずは正体を隠してリンハルトに会おうとした。
邪な考えを持つ者なら、新たな統治者達に取り入ろうとするかもしれない。そこで、先刻と同じく狼の獣人に姿を変え、ただの商人として面会を望んだのだ。
とはいえ単なる商人が会いに来たといっても、素気無く追い返されるだろう。それ故自分達は薬を扱う商人で病に臥せるリンハルトに良薬を持ってきた、ということにしたのだが、それが彼らの逆鱗に触れたようだ。もしかすると、同じようなことを言う者が過去に現れたのだろうか。
「困りましたね……」
「ええ……」
ベランジェとシノブは、顔を見合わせ囁き合った。彼らの顔には、強い困惑が浮かんでいる。
リンハルトの素顔を知りたいから正体は打ち明けたくないが、このままでは追い払われてしまうだろう。シノブは、どうするべきかと思い悩む。
「何をゴチャゴチャ言っているんだ!」
こちらはハンスの次子で長男のカールだ。
カールは十歳を少々過ぎたばかりの子供だが、長い柄の庭箒を槍のように構えシノブ達を睨む姿は、中々堂に入っている。それに大工となるべく修行をしているのだろう、歳の割に筋肉質な体だ。
どうもハンスと家族達は単に居候になっているのではなく、館の使用人として働いているらしい。
門を開けてもらおうとシノブが声を上げると、庭掃除をしていたらしいアンネとカールが現れ用件を聞きに来た。そしてハンスも館の手入れでもしていたのだろう、子供達が呼ぶと庭の一角から駆けてきたのだ。
「私達は、本当に良いお薬を持っているのですよ。それにリンハルト様はとても良いお方だとか。そのような方ならただでお譲りしても良いのです」
アミィは、お金を取らないと言えば耳を傾けてくれるのでは、と思ったらしい。怪しい商売を持ちかけてきたのなら、まさか無料とは言わないだろう。彼女は、そう思ったのではないだろうか。
「タダより高いものはないってね! なあ、父ちゃん!」
「ああ、そうだ! 最初は無料だと言って、効果が出たら法外な値を吹っかけるのだろう!? だいたい、こんな子供が売り込む薬など、到底信じられん!」
ハンスとカールは、ますます憤る。おそらく彼らが胡散臭く思ったのは、アミィが十歳くらいの少女にしか見えないからだろう。
それを察したのか、アミィが失敗したと言いたげな顔になる。
◆ ◆ ◆ ◆
どうすべきかと悩んだシノブだが、事態は再び思わぬ方向に動く。館の前庭で押し問答をする一同の前に、第三の一団が現れたのだ。
シノブやハンス達の前に現れたのは、商人らしき老人が一人に、やたらと体格の良い男が十名ほどであった。彼らは、シノブ達を無視してハンスに歩み寄る。
「ハンスよ。そろそろ出て行く準備は出来たか?」
商人らしき老人が、ハンスに酷薄そうな笑みと共に訊ねかけた。どうやら、彼は館を差し押さえに来たらしい。とすると、リンハルトは大きな借金でも抱えているのだろうか。
「な、何を! お前が持つ証文なんか、本物かどうか判ったものじゃない!」
「そうだ! 因業爺のインゴルフの噂は、子供でも知ってらあ!」
ハンスとカールは、インゴルフと呼ばれた老人に叫び返す。彼らの声は、シノブ達を相手にしていたときに倍する大きさで、インゴルフという老人を嫌っていることが明らかであった。
「嘘なものか。何度も言う通り、これはベルトーネル子爵が書いた借用書だ。しかし子爵は死に、収入も途絶えた」
アルバーノによれば、リンハルトは正体を隠していた筈だ。しかしインゴルフは、彼が子爵の血縁だと知っているらしい。
「こうなっては幾ら待っても返済の見込みは立たない。ならば利子が膨らむ前に取り立てた方が、リンハルト殿の……」
「ここはリンハルト様と、リンハルト様の下で学ぶ子供達の場所です!」
得意げな表情のインゴルフの言葉を遮ったのは、ハンスの娘アンネである。
どうやらリンハルトは、近くの子供を集めて教師のようなことをしているらしい。今は子供を見かけないが、日暮れ前だから既に帰ったのだろう。
実際シノブが感じている魔力も、館の中からは六人分だけだ。ちなみにアルバーノによれば、館に住むのはここにいるハンスと二人の子供以外に、主のリンハルトとハンスの妻と両親、それに元からいる二人の召使いだけだという。
「インゴルフさん、一日だけ待っていただけないでしょうか?」
「何だお前は?」
突然話しかけたベランジェに、インゴルフは不審げな様子を隠さなかった。
ベランジェは商人らしい服装で、しかも布地は上等なものだ。そのため大商人と見られても不思議ではない。しかし、ベランジェを含むシノブ達一行は、全員が狼の獣人に変装している。帝国が治めていたとき獣人は奴隷であったから、裕福な獣人に馴染みがないのだろう。
「私は、ベラエモンという者です。メリエンヌ王国のエチゴの町から来た布を扱う商人ですよ」
シノブは、ベランジェの言葉に苦笑を隠せなかった。彼は例のご隠居を意識しているのだろうが、不思議な道具を出す未来の猫型ロボットに名前が似ていたからだ。
「そのベラエモンがなんだというのだ? リンハルト殿の代わりに借金を返すとでも言うのか?」
「ええ。貴方の持つ証文が正当な物であれば、倍でも払いましょう。抵当はこの館で、利子が館の半分ほどですか……そのくらい、軽いものですよ」
インゴルフは無理だと思っていたのだろう。彼はベランジェの答えを聞いて、目を丸くしていた。
しかし、それは一瞬のことであった。インゴルフは素早く表情を改め、それまでとは違う友好的な笑みを浮かべる。
「よろしい、待ちましょう! ……おい、お前達、行くぞ!」
インゴルフは、連れてきた男達と共に去っていく。彼は、誰であろうが借金を払ってくれるものがいれば、構わないようだ。
「楽しくなってきましたね。ではハンスさん、改めてお願いがあるのですが……」
「な、何だ?」
微笑みかけたベランジェに、ハンスは警戒しながらも先刻よりは少し柔らかな口調で答えた。彼も、一時的とはいえ借金取りを追い払ってくれたベランジェを、冷たくあしらうことは出来ないと思ったのだろう。
「いえ、簡単なことですよ。リンハルト様に会わせていただきたい、それだけです。どうやら、この一件には、何か深いわけがあるようです。私は、それを明らかにし、正しい者の笑顔が見たいだけですよ」
そういうと、ベランジェは、得意満面といった様子で高笑いを始めた。そんな彼の様子をシノブ達は苦笑しつつ、ハンス達は懸念と頼もしさが入り混じった顔で見つめていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年5月27日17時の更新となります。