17.01 新たな命
アルマン王国での戦いは終わった。しかし、この日のシノブには、まだ驚くべきことがまだ残されていた。それは、義母であるカトリーヌの出産だ。
カトリーヌの出産予定日は五月の下旬だが、今日は5月11日である。とはいえ地球の定義によれば少し早いが正期産に含まれるし、充分ありえることだ。
しかし、まだ十九歳で男のシノブが出産に詳しいわけもない。それ故彼は、出産は一週間以上先だと思っていたのだ。
「シャルロット達は白の広間かな!?」
魔法の家から出るなり、シノブは声を発した。彼の後ろにはアミィとベルレアン伯爵コルネーユがいる。
ここはカトリーヌのいるベルレアン伯爵家の館である。シノブ達は領都セリュジエール、つまりメリエンヌ王国のベルレアン伯爵領へと魔法の家で転移したのだ。
「はい、サロンでお待ちです!」
シノブ達を出迎えたのは、人族の少女に変じたホリィであった。彼女が魔法の家を呼び寄せたのだ。
既に時刻は午後に入っている。戦いは朝方であったが、事後処理もあれば主だった者での会談もあった。そのため、すぐに引き上げるわけにもいかなかったのだ。
シノブはコルネーユだけでも先に帰還させようと考えた。しかしコルネーユは王太子テオドールと共に副将という重責を担う身で、戦場に集ったアマノ同盟軍では総大将である先代ベルレアン伯爵アンリに続く高位の将だ。
それ故コルネーユは職責を果たそうとシノブの勧めを断った。その結果、彼らの帰還は今まで延びたわけだ。
ちなみに、アンリは未だ戦場であったアルマン島にいる。彼は、総大将として各国の軍人の帰還が終わるまで帰らないと主張したのだ。
「そうか! さあアミィ、義父上!」
シノブは薔薇庭園から館へと駆け出した。そして彼の後をホリィが追っていく。
「シノブ様……」
「こう喜んでくれると私も嬉しいよ」
アミィとコルネーユは、興奮気味のシノブを微笑ましげな顔で眺めている。神の眷属で長い時間を生きているアミィは別格だが、カトリーヌの夫であるコルネーユも意外なまでに落ち着いていた。
コルネーユは第一夫人カトリーヌとの間にシャルロット、ブリジットの間にはミュリエルと二人の子を儲けている。もちろんカトリーヌや生まれてくる子は心配だろうが、第三子となると狼狽えるまでは至らないようだ。
「フライユ伯爵家は女性ばかりなので、楽しみにしていらっしゃったようです」
カトリーヌが宿しているのは男子である。周囲の耳目を気にしたのかアミィは明言を避けたが、それはコルネーユ達も知ることだ。
エウレア地方の医学では母体にいる子供の性別を知ることなど出来ないが、シノブは人間の魔力を種族や性別まで含め把握できる。そのため彼は生まれてくるのが己の義弟だと知り、早くからアミィやコルネーユ達にも伝えていた。
「それにシャルロット様のお子と同い年になりますし、ブリジット様とも……」
「そうか……兄弟のように育つと良いね」
アミィと共に歩みながら、コルネーユは深く頷いた。
この十一月には、シノブとシャルロットの子供が生まれる。そしてコルネーユと彼の第二夫人ブリジットの子も。この二人も男子だから、今日生まれる子を含め切磋琢磨しつつ仲良く育ってほしいと、フライユ伯爵家とベルレアン伯爵家の者は願っていた。
「二人とも、早く!」
シノブが再び声を掛けると、アミィとコルネーユは笑い声を立てた。
戦場では人とは思えぬ活躍をし敵手からは神とすら呼ばれたシノブが、ごく普通の若者のような振る舞いを見せる。そんな彼の様子を二人は面白く、そして好ましく感じたのだろう。
「行きましょう。まだ、時間は掛かりそうですが……」
「そうだね。このままではシノブに怒られそうだ」
苦笑気味のアミィとコルネーユも、シノブ達に続いて走り出す。そして期待に輝く表情の彼らは、豪壮かつ美麗な館へと駆け込んでいった。
◆ ◆ ◆ ◆
上には大きな天井画、その周囲や壁は白い化粧漆喰、そして床は緻密な寄木細工。それが白の広間、つまりベルレアン伯爵家の誇るサロンである。
その白の広間には、既にシャルロットやミュリエル、そしてセレスティーヌがいた。彼女達は戦の終了を知った直後、神殿の転移でセリュジエールに移動したのだ。
ちなみに、マリィとミリィはシェロノワでアルマン王国の王族達と共にいる。異神達に憑依された四人、特に国王ジェドラーズ五世は酷く衰弱していた。そのためマリィやミリィは、いざというときに魔封の杖や治癒の杖を使うためシェロノワに残っていた。
「結構時間が掛かるんだな……」
「シノブ……」
ソファーに腰掛けたシャルロットは、室内を行ったり来たりするシノブに笑いを隠せないらしい。彼女だけではなく、ミュリエルやセレスティーヌなども驚きと好感の混じった顔でシノブを見つめている。
なお、第二夫人のブリジットと、シェロノワから駆けつけた彼女の母アルメル、それにアミィやホリィの姿はサロンに無かった。四人は治癒術士のルシールや助手を務めるアンナと共に、カトリーヌの側にいる。
ここは二階で、分娩中のカトリーヌがいるのは三階の彼女の寝室である。それに館はしっかりした造りで壁も厚い。そのため、カトリーヌの様子をサロンから知ることは出来ない。
「シノブの妹……エミ殿は四歳下だったか。なら、当時のことは覚えていないかな?」
相変わらずコルネーユの表情は落ち着いたものだった。彼は、僅かに笑みを含んだ声音でシノブに問いかける。
「ええ……すみません」
シノブは、シャルロットの隣に座った。
生まれてくる子の父であるコルネーユならともかく、義兄でしかない自身が慌ててどうするのか。そう思ったシノブは、赤面しつつ頭を掻く。
「そんなことはないさ。シノブのお陰で皆も和んだようだからね」
コルネーユは、大袈裟な仕草で肩を竦めてみせる。冗談を装ってはいるが、彼の言葉は案外本心からなのかもしれない。コルネーユ自身も、シノブの心配する様で気が紛れたようでもあったからだ。
ちなみに、エウレア地方の貴族や王族に、男性が出産に立ち会う風習は存在しなかった。庶民でも親類や近所の女性の助けを得られる場合は、妊婦の側にいるのは女性や産婆、治癒術士のみだ。
そのようなわけだから、夫であるコルネーユもカトリーヌの側に近付くことは出来ず、娘達と一緒に待つだけである。
「でも、待ち遠しいのも確かですわ!」
「はい! 私もお姉さんになるのですから!」
シノブをフォローしようと思ったのだろうか、セレスティーヌとミュリエルは明るい声音で言葉を発した。
生まれてくる子は、セレスティーヌからすれば従兄弟、ミュリエルからすれば母違いの弟である。特にミュリエルは、前から贈り物とする赤ちゃん用の帽子や手袋を用意するなど、姉となる日を楽しみにしていた。
「ああ。帽子と手袋、ついに渡すことが出来るね」
「はい、楽しみです!」
シノブの言葉に、ミュリエルは更に顔を綻ばせた。ミュリエルは、側付きの一人フレーデリータから彼女の故郷に伝わる新生児を迎える際の風習を聞き、それに倣ったのだ。
フレーデリータは元メグレンブルク伯爵の娘で、当然ながら故郷は旧帝国のメグレンブルク伯爵領、今はメグレンブルク軍管区と呼ぶ地域だ。
そしてメグレンブルクには、親族が新生児に手編みの贈り物を用意するという習慣があった。帝国でも比較的標高の高いメグレンブルクは牧羊が盛んで、毛織物は必需品だ。そのためこのような風習が生まれたのだろう。
なお、メグレンブルクでは贈り物は出産前に用意すべきとされており、ミュリエルも早くから準備していた。とはいえ今は五月で冬は随分先だから、彼女は少し大きめに作ったようだ。
「シャルロットも用意したのだね?」
「ええ……何とか恥ずかしくないものが出来ました」
父の言葉に、シャルロットは頬を染めつつ頷いた。
ミュリエルが贈り物を用意するのに、シャルロットが何もしないわけがない。妹が編み物を始めた理由を知った彼女は、自身も可愛らしい帽子やマフラーを編んだのだ。
「嬉しいよ。ありがとう」
コルネーユは、感慨深げな表情となっていた。
シャルロットは男以上に武芸に励み、女性らしいことから遠ざかっていた。それは、彼女がベルレアン伯爵家の継嗣だからであった。
今までコルネーユに男子は無く、長子で武に極めて高い適性を持つシャルロットが、跡取りとして軍務に邁進するのは当たり前のことだ。それにコルネーユや彼の父アンリも、彼女が軍人として才能を発揮し、継嗣に相応しい人物となることを大いに期待していた。
しかし彼らも、本心ではシャルロットに娘らしいことをさせたかったのだろう。娘を見つめるコルネーユの優しい顔は、そう語っているかのようであった。
「しかし、懐かしいな。シノブやアミィと出会い、白の広間に招いたのは……そうだ、ちょうど九ヶ月前だったね」
コルネーユが語ったように、彼がシノブとアミィに出会ったのは九ヶ月前のことであった。
シノブ達がシャルロットとアリエル、そしてミレーユを助けた日は、創世暦1000年8月11日だ。そして、その日のうちにシノブ達はセリュジエールに入り、ここでコルネーユからカトリーヌとブリジット、そしてミュリエルを紹介された。
「そうでした! 本当に懐かしいです……」
「ええ……あの日シノブと出会ったから、今があるのですね……」
ミュリエルも、そのときのことを思い出したようだ。それに、シャルロットも街道での出会いを思い出したらしく、大きな感動を宿した顔を夫に向けている。
「あの時は驚いたよ。色々な意味でね。シャルロットの命が狙われたこともそうだが、シノブの武技や治癒の腕を聞いたり、アミィの幻影魔術を見せてもらったり……それに、シャルロットの娘らしいところを見たのもね。
……シノブ、あのときの君は気が付かなかっただろうが、この子がヴァルゲン砦に戻るときの残念そうな顔、実に新鮮だったよ」
コルネーユの言葉に、シャルロットは赤面と共に俯いた。
あの日のシャルロットは、シノブとアミィを父に預けて自身はアリエルとミレーユ、そしてアンリと共に砦へと引き返した。彼女が砦から離れたのは暗殺を企んだ者の策で、コルネーユの命令と偽ったものであった。そのため砦の司令官である彼女は、任地に戻ることを選んだのだ。
そしてコルネーユの執務室を辞するとき、確かにシャルロットは去り難そうであった。それに彼女は、いずれ自分達が戻ってくるまで逗留するようにと、シノブ達に言い置いて旅立った。
もしかすると、そのときシャルロットは既に自分に特別なものを感じていたのだろうか。シノブの脳裏に、そんな思いが浮かんでくる。
「シャルロット……」
何と答えるべきか迷ったシノブは、妻の手をしっかりと握り返すだけに留めた。シノブは、ここでどのようなことを口にしようと、コルネーユに冷やかされるだけだと思ったのだ。
「シノブ……」
顔を上げたシャルロットは、潤んだ瞳でシノブを見つめる。
彼女の豊かで長いプラチナブロンドは、深い湖水のような青い瞳に宿った雫は、そして控えめながらも貴婦人らしさを主張する青いドレスは、大きな窓から差し込む光を受けて煌めいていた。
しかしシャルロットを輝かせるのは、夫への深い信頼と側にいる喜びだ。彼女の幸せそうな表情は、そう思わざるを得ない満ち足りたものであった。
「継嗣に据えた私の言えることではないが、あの男勝りの娘がこうなるとはね……シノブ、ありがとう」
最初コルネーユは、からかうような口調であった。だが彼の声音は、途中からしみじみとしたものへと変わる。
コルネーユの瞳には、いつの間にか娘と同じ輝きが浮かんでいた。
シャルロットは長子で、他に子はミュリエルしかいなかった。そのためコルネーユやアンリは、シャルロットを男同様に武人として鍛え、跡取りとしての技能を仕込んだ。
しかし彼らも、シャルロットに娘らしい幸せを、と思ってはいたのだろう。シノブが来てからのコルネーユは、シノブを意識していくシャルロットを微笑ましそうに見守っていた。そして彼は、事あるごとに二人を接近させようとした。
シノブがセリュジエールに現れたとき、彼の訪れを最も喜んだのはコルネーユであったのかもしれない。彼はシノブをシャルロットの夫として迎えることで、娘の負担を軽減し本来あるべき姿に戻そうと考え、そのために様々な手を尽くしたのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ様、皆さん! 赤ちゃんが生まれました! 母子双方、健康そのものです!」
静かな、そして深い感慨に満ちた広間に、息せき切って駆け込んできたアミィの喜びの声が響いた。そして彼女の言葉を聞いた者達は、弾かれたようにソファーから立ち上がる。
「おお!」
「伯爵、可愛い男の子ですよ!」
喜びの叫びを上げるコルネーユに、アミィは笑いかけた。
侍女達を除き、この部屋にいる者は生まれてくる子供が男だと知っている。しかし、ここで性別を言わないのも不自然だろう。何しろコルネーユにとっては初の男子であり、普通の貴族なら男子の誕生を待ち望むものだからだ。
「さあ、伯爵! それに皆さんも! カトリーヌ様達がお待ちです!」
既に分娩後の後始末などは終わっているようだ。アミィは、カトリーヌの下に向かうようにと告げた。
「そうだった!」
アミィに促され、コルネーユは足早に部屋から出て行った。もちろん、シノブ達も彼に続いていく。
エウレア地方の貴族達、それも上級貴族ともなれば家に専属の治癒術士を置いている。中には、妻や子の全員に治癒術士を配する者もいるくらいだ。
当然、出産ともなれば治癒術士達は総力を挙げて母子を支える。そのため分娩後の回復は、地球に比べても極めて早いらしい。何しろ治癒術士は、刀傷なども一瞬にして塞ぐ術や体力を補う術を使うのだ。
もちろん治癒術士も万能ではないし、高度な設備を整えた現代日本の医療が優れているものも多い。とはいえ外から判断できることに関しては、魔術で体に直接働きかける治癒術士の方が勝るようだ。そのため上級貴族達の場合だと、床払いも早く産褥期も極めて短いという。
「お爺様もお喜びになるでしょうね……夜にはお帰りになるのでしょうか?」
シャルロットは自身の手を取り歩む夫に、祖父アンリのことを訊ねた。
アンリはアルマン島で事後処理を行っているが、動向は彼自身や共にいる王太子テオドールが通信筒でシノブに送る。そのためシャルロットも、あらましは把握していた。
「ああ、大丈夫みたいだ。それに、忙しくても一度迎えに行くよ。……そうだ、思念で伝えておこう」
妻へと微笑みかけたシノブは、岩竜の長老ヴルムや炎竜の長老アジドに思念を送った。
先ほどアンリは、二頭が運ぶアマノ号に乗っていると伝えてきた。したがって、ヴルム達がアンリに孫の誕生を教えてくれるだろう。
「お爺さまは、武術を教える日を楽しみにしていると思います。でも、弟はメリエンヌ学園に入学するでしょうし……」
「それなんだけどね、先代様も学校経営に携わってくださるって。前からお願いしていたけど、副校長になってもらうよ」
小首を傾げるミュリエルに、シノブは今後の予定を教える。
フライユ伯爵領の北の高地に開設した学校、通称メリエンヌ学園は各国から多くの教師を招いていた。中でもメリエンヌ王国は別格に多く、校長は先代シュラール公爵リュクペールで理事として運営に加わるアリエルやミレーユもメリエンヌ王国の貴族である。
そしてリュクペールは、文に向いた自分を補佐する相手として、アンリを望んでいた。武名を国内外に轟かせるアンリは軍人志望者の教育に持ってこいだし、リュクペールとは同年代で彼からすると相談しやすいという点もあるようだ。
「学園もますます充実しますわね」
セレスティーヌは、メリエンヌ学園の順調な様子が嬉しいようだ。
彼女は昨年末に十五歳となり成人したから学園で学ぶことはない。しかし彼女は、折に触れてシャルロット達と学園に訪問している。
学園にはガルゴン王国の王女エディオラが研究所に勤め、アルマン王国の王女アデレシアやセレスティーヌの年下の友人も学生として通っているからだ。そのためセレスティーヌは、学園に強い親しみを抱いているらしい。
「各国から研修に来る人も増えるみたいだ。同じような学校を自国にも作れないかって」
シノブが言うように、他国でも同じような学校を作ろうという動きがあった。といっても、メリエンヌ学園ほど大規模なものではない。
メリエンヌ学園の校舎は、アムテリアがシノブに授けた魔法の学校だ。したがって、同じような設備を用意するのは不可能だろう。
そのため各国が学ぼうとしているのは、教育方法などのようだ。もっとも、まだ出来立ての学校だから、将来自国に活かすために教員として働き、共に模索している状況である。
「さあ、どうぞ!」
そんなことを話している間に、一行はカトリーヌの居室へと辿り着いた。扉の前に立ったアミィは、コルネーユやシノブ達に入室を促す。
◆ ◆ ◆ ◆
居室の中には、ベッドに似た寝椅子が置かれていた。普段置かれているソファーは脇に寄せられ、代わりにカトリーヌが横たわる寝椅子が中央に、そしてすぐ横には小さなベビーベッドがある。もちろんベビーベッドにいるのは、生まれたばかりの赤子だ。
室内にいるのはカトリーヌと赤子だけではない。母子の周囲には治癒術士達やルシール、ホリィ、そしてコルネーユの第二夫人ブリジットや彼女の母アルメルもいる。もちろん、ルシールと共に来たアンナも、先日までの同僚であるベルレアン伯爵家の侍女達と共に、その後方に控えていた。
「あなた……」
カトリーヌの顔には満足げであった。それは、男子出産という大任を果たしたためであろう。
意外にも、カトリーヌに出産の疲れは見られない。
伯爵家の治癒術士達はシノブから見ても優秀だし、ルシールは王都メリエで長年学び新たな治癒装置も開発する才女だ。それに、神の眷属であるアミィやホリィも合流した。
彼らの高度な治癒魔術のためだろう、シノブから見てもカトリーヌは普段と殆ど変わらないようである。
「カトリーヌ、ありがとう」
妻の手を取ったコルネーユは、短いが情感の篭もった言葉を掛けた。その平静な様子は、カトリーヌの懐妊や宿った子が男子と知ったときの歓喜とは全く異なっている。
コルネーユにとっては待望の男子である。しかし彼は、娘であるシャルロットやミュリエルの前で、手放しに喜ぶ姿を見せるのはどうかと思ったのかもしれない。あるいは、アルメルやセレスティーヌなどに遠慮したのであろうか。
「あなた、この子に名前を」
カトリーヌは、コルネーユの内心を察しているのだろう。彼女は、控えめな喜びしか示さない夫に機嫌を悪くした様子は無い。
その代わりカトリーヌは横の赤子に顔を向け、命名するよう夫を促した。
シノブの義弟は、大人しく眠っていた。そのためシノブ達も、そっと近づいて覗き込むだけに留める。ぷっくりとした赤子は時折口元を動かすだけだが、その様子がとても愛らしい。
「……この子はアヴニール。アヴニール・ド・セリュジエだ」
コルネーユは、我が子を静かに抱き上げた。念のためだろう、ブリジットやアルメルが側に付いてはいるが、堂に入った抱き方だ。二人の子供を育てただけはあり、首の下に片手を入れて支える様子は充分確かなものである。
「未来……良い名ですね」
カトリーヌは、夫と我が子を見上げながら嬉しげに顔を綻ばせた。
最高神アムテリアや彼女を支える従属神は、この世界の共通言語を日本語とした。神々は、言葉が通じないことによる争いを嫌ったらしい。しかし神々は、その一方で各地に元とした文化に応じた人名や地名を授けていた。
もっとも今となっては、それらの由来を知る者は僅かのようだ。シノブも名の由来を聞いたことなど、殆ど無い。
とはいえ、王族や貴族など一部の知識階級には、多少だが伝わっているらしい。例を挙げると、セレスティーヌは自身の名が聖人が伝えた言葉に由来すると語った。どうやら、コルネーユやカトリーヌも、そういった知識を持っていたようだ。
「今日、遥か西の地では多くの命が散った。しかし、こうやって生まれ来る命もある。ここだけではなく我が国の、そして各国のあちこちで。
私は、この子に豊かな未来を齎す者になってほしい。己を生んでくれた母を尊び、家族を愛し、友を信じ、民を慈しみ……そういった者に」
コルネーユは静かな声で言葉を紡ぐ。彼の声音と静謐な表情は、まるで自分自身にも言い聞かせているような、強い意志が感じられる。
もしかすると、義父の頭にはウェズリードのことがあるのかもしれない。シノブは彼の言葉を聞きながら、そう考えた。
母を死に追いやり、父や弟を策謀の道具として扱い、偽りの仮面で家臣や民を騙した男。その末期が、コルネーユの頭から離れないのかもしれない。
ウェズリードの父ジェリールは、息子達を育てそこなったと語った。未来を意味するという名には、同じ轍を踏まないという、コルネーユの意思が宿っている。シノブは、そう思ったのだ。
「そうですね。この子に、そしてこの子と共に歩む者に明るい未来を」
「メレーヌ様!」
居室に澄んだ声音が響くと、続いて治癒術士か侍女の誰かが叫んだ。声を上げたものは、訪れたのが先王の第二妃メレーヌ、つまりカトリーヌの母だと思ったらしい。
生まれた子はシャルロットと同じくメレーヌの孫だから、彼女が来ても不思議ではない。
つい先日までとは違い、主要都市には神殿の転移がある。そのため転移可能な都市同士であれば、大神殿を含む中央区の移動の方が、都市の外に出るよりも遥かに距離が短い。
しかし訪れた者は、メレーヌではなかった。少なくともシノブにはそうは見えない。唐突に出現したのは彼が母と呼ぶ女神、この惑星の最高神アムテリアであったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
おそらく治癒術士や侍女達には、アムテリアはメレーヌとしてしか映っていないのだろう。彼らは跪き頭を垂れたものの、その姿からは王族への敬意以上のものは感じられない。
彼女の真の姿を目にしているのは自分達だけのようだ。シノブは、そう悟った。
自分とアミィにホリィ、そしてシャルロット達シェロノワで共に暮らす家族。更にコルネーユと二人の妻。女神が出現したと理解した者は、そこまでらしい。
シノブとシャルロットの結婚式のときも、アムテリアは他者の姿を借りて顕現した。そのときも、彼女はシノブや近しい者だけには真の姿で、それ以外の者には借りた姿で見えるようにした。そのことはシャルロット達も覚えているから、驚きは少ないようだ。
「アムテリア様……」
「お祝いに来てくださったんだね」
シャルロットとシノブは、静かに囁き合った。
二人は、そしてシェロノワから来た者は、治癒術士や侍女のように跪礼はしないで僅かに頭を下げるのみに留めていた。シノブもそうだが、神域に行った者達はアムテリアが過度に敬われることを望まないと知っているからである。
それはコルネーユ達も同じらしい。彼らも顔には緊張を宿してはいるものの、シノブ達同様に軽い立礼に留めている。
「畏まることはないのですよ。……コルネーユ?」
「は、はい! お前達、席を外しなさい。カトリーヌとアヴニールの双方とも健康だ。それにシノブやアミィ達がいれば、問題ない」
コルネーユが命ずると、治癒術士や侍女達は室外へと退去していった。
ルシールやアンナを含む彼らは、突然の先王妃の出現に全く疑問を抱いていないらしい。母子の様子次第だが、出産後には重臣や親族である子爵達が祝いに訪れる。したがって転移がある今、他領から祝いの客が来ても不思議ではないと思ったのだろうか。
「コルネーユ、私にもアヴニールを抱かせてください」
「はっ!」
コルネーユは緊張を顕わにしたまま応えると、ゆっくりと我が子を差し出した。おそらくコルネーユの声で目覚めたのだろう、アヴニールはアムテリアの腕の中で泣き始める。
「あらあら……アヴニール、アヴちゃん、驚きましたね~、お父さんの声、大きかったですね~」
アムテリアがあやすと、アヴニールは大人しくなった。それにアムテリアの腕の中の赤子は、微かに微笑んでいるように見える。
女神と彼女の腕の中の赤子。双方が微笑む様子は、シノブ達の顔を知らず知らずのうちに綻ばせていた。
「この子は輝かしい未来を作るでしょう。シャルロットの子やブリジットの子、そして続く子供達と共に。
……ですが、それはあなた達が立派に育て上げた先に訪れる未来です。あなた達なら、きっと明るい未来を掴むと思いますが、そのことは忘れないように」
「肝に銘じます」
コルネーユは、アムテリアへと静かに答えた。彼だけではなく、シノブやシャルロット達も、真摯な表情で女神に頷き返す。
──シノブ。貴方が倒した神霊達は、上位の神に引き渡しました。先に渡した神霊と同じく、無に帰るでしょう──
どういうわけだか、アムテリアはシノブに思念で語りかける。この惑星の者達は世界全体を統べる上位の神を知らないから、そのためであろうか。
いつかは、神々の世界について広く知られるときが来るのかもしれない。だが、それまでは軽々しく伝えるべきことではないのだろう。シノブは、そんなことを考えた。
「人の世は人が動かし明日へと歩む。神が人に宿り操るなど、あってはならぬことです。
命が生まれるのも消えるのも世の摂理であり、生き物同士が争うのも世の理です。しかし神が己を保つため、その中に入るなら……それは、もはや神ではありません。
……シノブ。貴方達の努力で、命と未来を歪めようとした存在は消滅しました。ありがとう」
「母上……」
アムテリアの言葉を聞いたシノブは、無意識のうちに前に歩み出る。シノブはシャルロットの手を取ったままだから、彼女も共に進んでいく。
「さあ、貴方が勝ち取ったものを抱きなさい。貴方が導き守るべき新たな命を」
「はい」
シノブはシャルロットから手を離し、アムテリアからアヴニールを受け取った。まだ、とても小さく触れただけで壊れてしまいそうな赤子を、シノブは恐る恐る抱く。
彼の横ではシャルロットが弟へと微笑み、その小さな手に触れている。反対側ではミュリエルが姉同様に顔を寄せ、更に彼女の後ろからはセレスティーヌも覗き込んでいた。
「アミィ、ホリィ、これからもシノブを頼みます」
「はい」
「お任せください」
アムテリアはアミィやホリィと共に、寄り添い微笑むシノブ達を見つめていた。そして二人の決意の滲む答えを聞いた母なる女神は満足そうな笑みを浮かべると、天上の麗姿を何処かへと消し去った。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年5月23日17時の更新となります。