16.37 命の渦 後編
双胴船型の磐船アマノ号は、朝日が照らすアクフィルド平原を北から南に抜けていく。
高空を進むアマノ号は、地上からの攻撃を受けることはない。そのためアマノ号の射撃兵は、落ち着いて大型弩砲や弓を操っている。
「東西両軍の大型弩砲、北から中央まで沈黙しました!」
アマノ号からは無数の矢が放たれるが、それらは大型弩砲のみに向かっている。そのため東西の兵で命を落とす者は極めて少なかった。
観測兵の声に大きな喜びが宿っていたのは、それもあってだろう。
「これは参りました!」
ソティオスは、隣のエリュアール伯爵デュスタールの妙技に感嘆の声を上げた。
彼ら弓兵は、弦や巻き上げ機など大型弩砲の急所を狙っている。大型弩砲の巨矢とは違い、それらを狙わないと効果が無いからだ。
したがって、よほどの腕が無ければ矢継ぎ早に破壊することは出来ない。しかしデュスタールは、エルフの弓兵で一番のソティオスより多くの成果を上げていた。
「ミレーユ殿のところに日参しまして!」
デュスタールは、嬉しげな声音で応じた。
シャルロットやソティオスとの弓比べの後、デュスタールは改めて修行に励んだ。名高い戦乙女やエルフの達人が相手でも、弓を表芸とする家の当主が後塵を拝するわけにはいかない。彼は、そう思ったのだろう。
そこでデュスタールは、弓比べを制したシャルロットの下で修行しなおそうとした。しかしシャルロットはミレーユの方が上と答えたのだ。
「ほう……流石は」
ソティオスの顔には、強い敬意が浮かんでいた。
デュスタールは伯爵で、しかもミレーユより十歳以上も年長だ。その彼が謙虚に学ぼうとする姿を、ソティオスは好ましく感じたのだろう。
「彼らしいですね……」
「先代も気持ちの良い男でした。あいつも病に倒れなければ……」
甲板中央で、メリエンヌ王国の王太子テオドールと、先代ベルレアン伯爵アンリが呟いた。
アンリの声音は寂しさを顕わにしていた。彼は、同年代で自分と同じく武人肌の先代エリュアール伯爵と極めて親しかったのだ。
「父上、東軍の騎士は未だ戦意が高いようです」
ベルレアン伯爵コルネーユは、父のアンリへと顔を向ける。
東西両軍の矢戦は、アマノ号からの攻撃で終わろうとしている。しかしコルネーユが指摘したように、東軍の騎士は戦いを止める様子は無い。彼らはアマノ同盟軍の兵と激突する直前であった。
「戦場で散るのは名誉なことだ。戦死しても、国が続くなら子や孫の将来は保障される。それに新たな国になるにしても、誉れ高い家系は相応に遇される」
アンリは、東軍の騎士達へと視線を向ける。
東軍の騎士隊は、西軍への突撃を断念していた。西軍は崖の上で、そこに行くには一本道の街道を進むしかない。しかし西軍とぶつかっている間に後ろからアマノ同盟軍が来たら、挟み撃ちである。
そのため彼らは、平原でアマノ同盟軍と戦うことを選んだのだろう。
一方、後方の歩兵は上空から見ても明らかなほど表情が暗い。
生まれながらの支配階級である貴族や軍人として育てられた騎士階級とは違い、歩兵の大半は平民である。そのため殆どの歩兵達は、自身の命を優先しているのだろう。
「奴らはジェリールの子飼いなのだろう。己の命で贖って、家を残すしかない……そういうことだ」
アンリは、重々しい声で続けていく。アンリ自身、伯爵家を守るために生きてきた。そのため彼は、アルマン王国の騎士達の思いを手に取るように察しているのだろう。
「……死なせてやれ。それに一当たりしなければ、ドワーフ達やガルゴン王国にも蟠りが残るだろう」
「ですが未来ある若者達が……ここは有無を言わさず彼を倒すべきでは?」
コルネーユは、黙りこんだアンリから東軍の中央へと視線を向けていた。そこには、ウェズリードが率いる本隊がいる。
地上のアマノ同盟軍は、ウェズリードから遠い。おそらく東軍の騎士を壊滅させない限り、彼の下に到達することは出来ないだろう。
しかしアマノ号からであれば、敵本隊に矢を射掛けることも出来る。そして将を失えば、戦も早く終わるかもしれない。
「うむ。あの男は兵の犠牲など何とも思っていないようだ。シノブは嫌うかもしれんが、もう良い頃合だ」
アンリは、そう言うと息子に背を向け船内へと姿を消した。彼は、自身の手でウェズリードを討つつもりらしい。
アマノ同盟の目的の一つは、ジェリール達をアルマン王国の者達が納得できる形で制することであった。その意味では、無謀な戦いを続けるウェズリードは充分に愚かさを露呈した。アンリは、そう思ったのかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆
各国の精鋭達、炎竜ゴルン、ジルン、ザーフが運ぶ三隻の輸送艦から降りた彼らは、東軍の騎士達と激突した。
アンリが語ったように、東軍の騎士は武人としての名誉ある死を選んだようだ。彼らは無謀とも思える突撃を掛けてきたのだ。
東軍の騎士のうち、西軍に突撃したのは四大隊の合計千二百人だ。それに対し、アマノ同盟軍は各国の騎士が六百名ほど、ドワーフの戦士達が二百名近く、そして四百名ほどの歩兵だ。
兵数は同じなら互角かというと、実は各国からの選りすぐりであるアマノ同盟軍が圧倒的に強かった。東軍の騎士達は、彼らの前に空しく散っていく。
「メリエンヌ王国騎士隊、突撃! ドワーフ隊はその後方に!」
「ガルゴン王国騎士隊は右側面、カンビーニ王国騎士隊は左側面を! 歩兵隊は二つに別れて両騎士隊の後ろだ!」
後方で指揮をしているのはオベール公爵の嫡男オディロンで、補佐するのはエチエンヌ侯爵の嫡男シーラスである。
オディロンは、三公爵家で最も軍務に力を注ぐオベール公爵家の跡取りだ。父と同じ巨体に相応しい武技を修め、更に戦術戦略を学んだ将である。
シーラスは、先年末のベーリンゲン帝国との戦いにも加わり活躍した経験豊富な軍人である。近年は大規模な戦といえば帝国との戦いくらいで、それを経験した彼はメリエンヌ王国の若手将官では貴重な存在だ。
「ベルレアン流槍術に敵は無い!」
「我が槍の錆となれ!」
先陣で声を張り上げたのは、アリエルの父エミールとミレーユの兄エルヴェであった。
長大な槍を突き出す彼らは、どちらも伝家の鎧で身を包み巨大な軍馬に跨った勇ましい姿である。二人の側には、ベルレアン伯爵領の領都守護隊司令マレシャルなどシノブの知る者も多い。
一丸となった騎士達は、見事に敵の中央を突破した。メリエンヌ王国が長年の帝国との戦で磨いた技は、呆気なく敵陣を突き破ったのだ。
「メリエンヌ王国に遅れるな!」
右のカンビーニ王国の騎士隊を率いるのは、マリエッタの父アルストーネ準公爵ティアーノである。副将は王太子の親衛隊長ナザティスタで、隊の中にはアルバーノの兄であるジャンニーノやトマーゾ、甥のロマニーノなどイナーリオ一族もいる。
ティアーノとナザティスタは虎の獣人でイナーリオ一族は猫の獣人と、カンビーニ王国の騎士隊は獣人が多い。そして力自慢の獣人達は、メリエンヌ王国よりも更に長い槍を用いている。そのため東軍の騎士達は、為す術も無く吹き飛ばされていく。
「こうやって並ぶのも久しぶりですな!」
「本当に!」
左のガルゴン王国騎士の先頭にいるのは、ブルゴセーテ公爵家とビトリティス公爵家の双方の先代だ。
先代ブルゴセーテ公爵ナルシトスは、参戦するために爵位を譲っただけあって、この機会を逃すことはなかった。そして先代ビトリティス公爵サラベリノは『隷属の首飾り』でジェリール・マクドロンに操られた恥を雪ぐべく、従軍を志願したのだ。
二人が率いるのは、主に西方の侯爵家や伯爵家の先代や嫡男だ。彼らもサラベリノと同様に名誉挽回しようと参戦したわけだ。
ちなみにシノブと親しいナタリオ、駐メリエンヌ王国大使リカルドの息子も加わっている。ナタリオ自身が志願したこともあるが、ガルゴン王国では王太子や国王の前で活躍した彼である。そのため両先代公爵も、彼には一目置いているらしい。
なお、こちらもカンビーニ王国同様に獣人が多い。その重量感ある突撃は、右翼と同様に敵を蹂躙する。
「お前達に恨みは無いが!」
「同胞を騙した罪は重い!」
他とは違う長毛の騎獣の上で吼えているのは双子のドワーフ、イルッカとマルッカであった。
二人だけではなく、ドワーフ馬に跨った戦士達は何れも戦意が高かった。多数の船を沈められたガルゴン王国もそうだが、ドワーフも同族が隷属させられたことを忘れていなかったのだ。
ドワーフ達は、メリエンヌ王国の騎士が拵えた血臭漂う道を更に広げていく。彼らは既に崩れた騎士達を、いとも容易く巨大な戦斧で刈り取っていた。
「俺達も負けていられないぞ!」
「ああ、閣下に恥をかかせるわけにはいかない!」
こちらはシノブの家臣の獣人達、狐の獣人クラウスと狼の獣人ディルクであった。彼らは、歩兵にも関わらず馬に劣らぬ速度で駆けている。
帝国の戦闘奴隷であった獣人達の一部は、解放後も並外れた力を維持している。そしてクラウス達は、アルノーやアルバーノほどではないが常人を遥かに超える力を得ているのだ。
ドワーフ達と同様に、彼らも乱れた敵に致命傷を与えていた。東軍の騎士は、飛び掛かる獣人達の餌食となっていく。
「戦場で散るなら本望だ……息子や娘と会えぬのは寂しいが」
「ああ。生き残っても我らは刑場行きだ……ならば、ここで散った方が家族のためだ」
襲い来る敵に倒されながらも、東軍の騎士達の顔は穏やかであった。おそらく、彼らにとって納得できる死に場所を得たからだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「あそこが本陣です! ジールトン伯爵の旌旗があります!」
ベイリアル公爵ジェイラスは、輸送艦の最後の一隻、岩竜ヘッグが運ぶ磐船から地上の一角を指差した。
ここは西軍の陣地の至近である。西軍の陣は崖の上だが、宙を進む磐船には関係ない。そのため彼らは、極めて短い時間で目的地に迫っていた。
「判りました! このまま降下を!」
──任せろ──
上を見上げるマティアスに、ヘッグは思念と咆哮で応じた。そしてヘッグの答えと同時に、ベイリアル公爵やマティアスは船内に駆け込んでいく。彼らは地上に降り、西軍を指揮するジールトン伯爵ラルレンスと接触するのだ。
異神達が側にいたため近付くことが出来なかったが、今なら問題ない。
磐船が地上に迫っても、地上からの攻撃は殆ど無い。既に大型弩砲はアマノ号の攻撃で破壊されているし、そもそも真上を狙うようには造られていない。
ならば弓はというと、これは最初に数本放たれただけであった。磐船は鉄甲で覆われているから、並の矢では刺さらないからだ。
「行くぞ!」
輸送艦が着陸すると同時に後部のハッチが開き、そこから騎馬の一隊が飛び出していく。馬を操るのはベイリアル公爵やマティアス、それにアルノー・ラヴランやジェレミー・ラシュレーなどだ。
「ラルレンス殿! 私だ、ジェイラスだ! 軍を退いてくれ! ジェドラーズやメリザベス達は無事だ!」
ベイリアル公爵は、ジールトン伯爵へと大声で呼びかけた。
磐船は、伯爵達のすぐ近くに降りている。そのため公爵達は、幾らもしないうちに接触を果たす。
「やはり、貴方達が陛下を!?」
ジールトン伯爵の顔には、怒りが浮かんでいた。自軍が奉じる国王や王族達が突然姿を消したのだから、それも当然だろう。
シノブは、西軍の陣地から先王ロバーティン三世と第二王妃マーテリンを連れ去るときに理由を伝えはした。しかしそれは東軍の陣中で国王ジェドラーズ五世と第一王妃メリザベスを捕らえたときと同様に、王族達が人ならぬ者に操られていることを告げただけである。
そのためか、ジールトン伯爵はシノブが語ったことを信じてはいないようだ。
「ジェドラーズ達を動かしているのは、ベーリンゲン帝国に潜んでいた邪神だ! 王家だからといって、あのような術を使えるわけがなかろう!
それに、貴公は妹の変化を不思議に思わなかったのか!?」
「む……」
ベイリアル公爵の言葉に、ジールトン伯爵は激しく動揺していた。彼も、人の域を遥かに超えた術を使う国王達に、不審を感じてはいたのだろう。
それにメリザベスはジールトン伯爵の妹だ。他はともかく、彼は妹には違和感を覚えていたのだろう。伯爵の表情には明らかな迷いが宿っていた。
「ほ、本当か?」
「確かに、あのような術を使う者など……」
伯爵の家臣や他の貴族も程度の差はあれ疑問を感じていたらしい。彼らは、互いに顔を見合わせつつ囁きあっている。
「心配無用だ。ジェドラーズ達はシノブ殿が元に戻してくださる」
馬から飛び降りたベイリアル公爵は、同じく下馬したマティアス達と共に進んでくる。アルノーやジェレミーは周囲を警戒しているが、もはや彼らを攻撃しようとする者はいなかった。
「メリエンヌ王国のフライユ伯爵か……帝国の呪いを解いたとか?」
ジールトン伯爵が素直に信じたのは、シノブ達がベーリンゲン帝国で成したことを知っていたからのようだ。帝都決戦から、既に二ヶ月以上が過ぎた。そこでの出来事や、帝国の人々が彼らの神から解き放たれたことは、アルマン王国でも情報通の者なら知っていたのだ。
「その通りです。私はフライユ伯爵付きの子爵マティアス・ド・フォルジェと申します。我が主は、必ずや邪神から貴国の王達を救い出すでしょう」
マティアスは、力強く頷いてみせる。すると、西軍の将官達の顔が大きく綻んだ。
何しろ、担ぐべき旗頭が消えたのだ。本来なら、西軍は進軍なり捜索なり早期に決断すべきである。
しかし東軍に比べ少数の彼らは、地形的に有利なこの場から動けば壊滅しかねない。そのため彼らは、動くに動けないままだったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……我々にどうしろと? ジェイラス殿が王として立つのを支持しろとでも?」
ジールトン伯爵は、国王の復権を優先し、彼らに生じた変化から目を瞑っていたのだろう。そのため彼は、異神の憑依という話をすんなり受け入れたようだ。
しかし伯爵は、ベイリアル公爵がアルマン王国をどうするかについて、大きな懸念を抱いたままらしい。
「そう喧嘩腰にならなくても良いだろう?
国を建てたのは、ジェリールに対抗するためだ。それに、私は王にならない。私は、シノブ殿やアマノ同盟の方々の助けがなければジェリールに歯向かうことも出来なかった、平凡な領主だよ。
ジェドラーズは隠居だろうが、ロドリアムを当主とすれば良い。まだ若いが、そこは私達で支えよう。ともかく、私は皆と共に国を動かしたい。各伯爵や、更に多くの者と力を合わせて」
ベイリアル公爵は、自分の目指すところを笑顔で語っていく。
王家も、そして公爵家も他の地方領主と同じく伯爵家とする。そして彼らの互選で国を率いる者を決める。任期には制限を設け、特定の者が統治し続けることを避ける。公爵の構想は、そのようなものであった。
「先々は議会を設けようと思う。貴族だけではなく、出来れば民の声も聞きたい。シノブ殿の故郷には、貴族と民の二つの議会があったそうだ。すぐには出来なくとも、いつかはな……」
ベイリアル公爵の案の元となったのは、地球の議会政治であった。それはシノブが旧帝国領に導入しようと思っていたものだ。
シノブは旧帝国の新たな統治体制を練るシメオンに、地球の歴史における議会制を幾つか伝えた。そしてベイリアル公国の建国に携わったシメオンが、公爵に教えたのだ。
「それで良いのですか?」
ジールトン伯爵の顔からは険が取れていた。彼は、ベイリアル公爵が本心から国の将来を考えていると悟ったようだ。
「良いとも。一人で全てを背負うより、皆で背負った方が楽だ。
それに大陸の諸国は、既に実現している。アマノ同盟という形でな。各国の上に更に大きな纏まりがあり、そこでは皆で集まり良き道を探る。先ほど語ったものと同じだろう?」
ベイリアル公爵は、諸国の統治者が集うアマノ同盟も、各地方の領主が協力して国を運営するのと同じだと考えているようだ。確かに、このままアマノ同盟が発展したら一種の連合王国となるかもしれない。
「私達も新たな国に加わりましょう。……まずは軍を下げれば良いのですか?」
「お願いします。ジェリール達は、我々アマノ同盟軍が抑えます。
向こうはロドリアム殿下を隷属の魔道具で操って秘宝を得た、正義無き男に扇動された軍です。そしてジェドラーズ五世陛下も邪神に支配されていただけで、戦いを望んではいないでしょう。もはや、東西で争う理由はありません」
マティアスは、西軍の後退をジールトン伯爵に要請した。彼の顔には、意味の無い戦いで兵を散らす事に対する憤りが感じられる。
「わかりました。では、早速……」
ジールトン伯爵は大きく頷くと、家臣や共に進軍してきた貴族達に向き直る。そして彼らは、西軍を撤退させるべく動き出した。
ベイリアル公爵やマティアス達の顔には、深い喜びがある。これで西軍からは、これ以上無意味な死者を出さなくて済む。多くの命を無意味な戦いから救った彼らは、空を照らす朝日に勝るくらいに輝いていた。
◆ ◆ ◆ ◆
アマノ号から放たれた矢は、大型弩砲のみを狙ってはいた。しかし巨矢で飛び散る破片や流れ矢により、僅かながら近くの兵に被害が出ていた。
「まさか……大型弩砲の……破片で……」
「しっかりしろ! 生き残って隊長になるんだろ!」
飛び散った破片をまともに食らった兵士を、僚友らしき男が抱きかかえている。おそらく、もう助からないのだろう。側に立つ別の兵士は、首を振っている。
「一方的にやりやがって!」
「こちらの攻撃が届かないからって……な、なんだ!?」
悔しげな顔で見上げる東軍の兵士達は、空を往く双胴船から飛び出す何かを目にした。横に長い三角形のものが二つ、高空を移動する船から飛び出したのだ。
「あれは!?」
「人がぶら下がっているぞ!」
兵士達が見たものに一番近いのは、ハンググライダーだろう。もっとも、そのようなものはエウレア地方に存在しないから、彼らは驚くばかりである。
「撃て! あれは敵だ!」
士官の命を受けて弓兵が矢を放つが、ハンググライダーには当たらなかった。操縦者が、長槍を使って矢を払ったからだ。
「飛び降りた!」
地上に降りる前に、ハンググライダーの操縦者は離れた。
かなりの身体強化が出来るらしく、二人の操縦者は20m近い高さから飛び降りたのにも関わらず見事に着地する。なお、彼らが降り立ったのは東軍の中央、つまりウェズリード達のいる一帯だ。
「お前は!?」
「知らぬだろうが……『雷槍伯』アンリだ!」
名乗りを上げたのは、先代ベルレアン伯爵アンリだ。もっとも相手の兵士はアンリの槍を受けて昏倒したから、彼の言葉が聞こえたかどうかは定かではない。
アンリが身に着けているのは簡素な軍服のみで、手に持っているのも愛用の長槍だけだ。おそらく、ハンググライダーに乗るため可能な限り軽装にしたのだろう。
「フライユ伯爵領軍、大隊長……アルバーノ・イナーリオ」
もう一人は、アルバーノであった。こちらも服はアンリと同様だが、先ほどまで持っていた槍は捨てている。代わりに彼が持っているのは、二本の小剣であった。どうやら、今日の彼は双剣で戦うらしい。
「あの二人を倒せ!」
僅かに離れた場所から、ウェズリードが大声で兵士達に命じた。突然敵が至近に現れたためか、彼の顔には緊張が宿っている。
「武人らしく自分で戦わんか!」
憤然たる表情のアンリは、ウェズリードに大喝を浴びせた。そして次の瞬間、彼はウェズリードに向けて怒涛の突進を開始する。
◆ ◆ ◆ ◆
「うわっ!」
「速い!」
アンリの進む先では、重い甲冑に身を包んだ騎士達が軍馬ごと宙を舞っている。
騎士達の目には、矢のように駆け愛槍を振るう老将の姿は映っていないらしい。彼らは誰一人として手出し出来ないまま、吹き飛ばされていた。
「カレッドロン、ギャリパート! 退却する!」
ウェズリードは、素早く馬を返し走らせた。側にいた二人の騎士カレッドロンとギャリパートは、彼の様子に唖然としていたが、僅かに遅れて追っていく。
「ウェズリード様、兵を捨てて逃げるのですか!?」
「そもそも、どこに!?」
軍馬を疾走させながら、カレッドロンとギャリパートはウェズリードに叫ぶ。この二人はジェリールが息子にと付けた腹心であり、当然ながらジェリールに忠誠を捧げた股肱の臣だ。
その彼らにとって、主家の跡継ぎが自身の軍を捨てて逃走するなど耐え難いことなのだろう。双方の顔には、強い失望が浮かんでいる。
「あんな化け物には勝てん! それに上空も制圧されたのだ! 退くしかないだろう!」
「やはり貴方は……貴方はジェリール様が言った通り、自分のことしか考えていない!」
ウェズリードの返答に、カレッドロンは怒りの声を上げた。それに隣で馬を走らせるギャリパートの表情も、見下げ果てたと言わんばかりに歪んでいる。
「父上が!?」
「ナディリア様の一件は、貴方が仕組んだことだと! ジェリール様と国王を疎遠にし、いずれ王権を奪取するための謀略だと! ジェリール様のお言葉とはいえ、半信半疑だったが!」
問い返したウェズリードに、カレッドロンが声を荒げる。怒りのあまりだろう、カレッドロンの顔は真っ赤に染まっている。
ナディリアとはジェリールの妻でウェズリードの母だ。彼女は優秀な治癒術士だったが、毒に侵されたジェドラーズ五世陛下を助けた際に命を落とした。
王族付きの治癒術士は他にもいたのだが、ナディリア以外は国王と共に毒に倒れた。そのため、治癒により魔力を失った彼女を救う者がいなかったのだ。
「ジェリール様は王族を支配した後、彼らに当時のことを訊ねた! それに、王家の秘宝は人の感情も教えてくれるそうだ!」
ギャリパートも同僚に続く。彼らは、ジェリールから様々なことを聞いたようだ。
二人の言葉からすると、ジェリールは『隷属の首飾り』で支配した王族達に、妻の死や前後について問うたらしい。
もっとも王族達も多少の疑問は抱いていたかもしれないが、真相は知らなかったに違いない。もし彼らがウェズリードの仕業と確信していたら、今まで放置する筈がないからだ。
しかし、ジェリールには信奉する者から魔力を得る『覇海の宝冠』がある。つまり彼は、ウェズリードが己を慕っているかどうか判別できる。それにギャリパートの語った通りなら、『覇海の宝冠』は相手の感情も使用者に伝えるようだ。
要するにジェリールは、王族から得た情報や宝冠の力を上手く用い、息子の内心を探ったのだろう。そして真実を知ったジェリールは、息子の副官として付けた彼らにも教え、監視役としたわけだ。
「今更……で、どうする?」
ウェズリードは、静かな声で問い返した。彼の顔には酷薄な笑みが浮かんでいる。その様子からすると、彼が母を死に追いやったのは間違いないのだろう。
「ナディリア様の仇を取る! お前などジェリール様とナディリア様の子ではない!」
カレッドロンは、叫ぶと同時にウェズリードに斬りかかる。それに、ギャリパートもだ。どうやら彼らは、一緒に逃げるために追ってきたわけではないらしい。
「炎よ!」
何と、ウェズリードは魔術で応じた。彼は両隣の騎士達を、軍馬ごと火達磨にしたのだ。
ジェリールやウェズリードには王家の血が流れており、彼らの魔力は国を代表する魔術師に匹敵する。そのためカレッドロン達は抵抗することも出来ず、烈火に包まれたまま崩れ落ちた。
「これで……」
ウェズリードは、邪魔者はいなくなった、とでも言おうとしたのだろうか。
しかし彼の言葉は途切れたままで終わる。何故なら乗馬が、血飛沫を上げて転倒したからだ。
「な、何!? ……うぎゃあっ!?」
起き上がろうとしたウェズリードは、突然絶叫を上げた。だが、それも無理はない。彼の両手両足から、血が噴水のように吹き出している。
「実体を見せずに忍び寄るのは、光翔虎の真骨頂だそうです。ですが、私もアミィ様のお力で同じようなことが出来ましてね」
姿を現したのは、両手に血塗られた小剣を持ったアルバーノであった。彼はアミィが造った魔道具で姿を消し、ウェズリード達を追っていたのだ。
ウェズリードからの応えは無い。そもそも四肢の激痛に悶え苦しむ彼が、アルバーノの言葉を理解しているかどうかも怪しかった。
これでは精神集中が必要な魔術を使うどころではない。おそらく、アルバーノがウェズリードの四肢を貫いたのは、そのためだろう。
「母殺しでは、秘宝を手に出来ないのも当然ですな。そんな罪深い男には、相応しい結末を……」
「があっ! ぎゃあっ!」
アルバーノは、普段の優男めいた彼とはまるで異なる鬼のような形相で両手の剣を振るう。そして彼が剣を動かす度に、ウェズリードが悲鳴を上げていく。
その鬼気迫る様子からか、あるいはウェズリードの所業が明らかになったからか、周囲の兵も距離を置いていた。しかし、ただ一人近付いてきた者がいる。それは、先代ベルレアン伯爵アンリであった。
「儂を囮にするとは……」
言葉通りの理由か、それともウェズリードの大罪のためか。アンリの顔は、僅かに顰められていた。
「こんな男、先代様の名が汚れます」
静かに答えたアルバーノは、アンリへと振り向いた。
既に絶叫は止んでいた。幾度と無く振るったアルバーノの剣は、ウェズリードの周囲まで真っ赤に染めていた。その様子は、体の血が全て流れ出たと思うほどである。
「ふむ……これからも頼むぞ。シノブは甘いところがあるからな」
「もったいないお言葉」
アンリへの返答は、饒舌なアルバーノにしては短かった。だが、彼の思いは痛いほど伝わってくる。
シノブは人の融和を目指している。しかし、優しさが通じない相手もいる。そんな相手に非情の剣を振るうのが自分の役目だ。静かに立つアルバーノの姿は、そんな彼の固い決意を示しているかのようであった。
「少しは救えたか……」
「多くの兵が、彼らの帰りを待つ者が、これから生まれてくる者が救われました」
先刻とは違い、アルバーノはアンリに多くの言葉を返した。
アルバーノは、隷属により二十年もの間を望まぬ戦場に縛り付けられた。そのためだろう、彼の声音からは深い実感と熱く激しい思いが感じられた。
「行くぞ」
「はい」
アンリとアルバーノは、地上に降りたアマノ同盟軍と合流するようだ。彼らは、疾風のような速さで走っていく。
戦いの場で長く過ごした彼らは、避けえぬことがあると熟知しているようだ。そして今、彼らは出来うる限りのことをした。そのためだろう、二人の顔に後悔など存在しなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年5月17日17時の更新となります。