16.36 命の渦 前編
シノブ達が異神達との戦いに入ったという情報は、遥か東のシャルロット達にも届いていた。アマノ号に乗艦しているメリエンヌ王国の王太子テオドールが、妹に通信筒で知らせたのだ。
「お兄様です! ……アデレシアさん、予定通りです! シノブ様は戦場から皆様を連れ出しましたわ!」
通信筒から紙片を取り出したセレスティーヌは、素早く目を走らせた。そして次の瞬間、彼女は顔を綻ばせ、華やかな声を上げる。すると室内にいた人々は彼女と同じく顔を輝かせ、安堵の声を漏らす。
ここは、シェロノワのフライユ伯爵家のサロンである。時刻は朝の七時を幾らか回ったところだ。
シェロノワは戦場であるアクフィルド平原から東に1300km以上離れているから、向こうは六時になって間もなく、つまりシノブ達が異空間に入った直後である。
「後は憑依を解くだけですね!」
「アデレシア様、後少しです」
ミュリエルとシャルロットも、アルマン王国の王女へと声を掛ける。
前日シノブは、どのように王族達を救出するかシャルロット達に伝えていた。そのため彼女達はセレスティーヌの僅かな言葉でも状況を理解している。
そして救出後の備えも整っていた。救出された王族は、魔法の家の転移でシェロノワに運ばれる。ここには治癒の魔道装置が多数存在するし、開発した治癒術士のルシールを始め扱いに熟練した者も多いからだ。
そのルシールは、助手のカロルと共にミュリエルの脇にいる。二人も、今日は研究どころではないと考えたのだろう。
「これでお父さま達は……」
それまで不安げな顔をしていたアデレシアだが、今は期待の滲む表情となっていた。
昨日助け出された兄夫婦に続き、親達や祖父も解放される。その思い故であろう、彼女の青い瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
「大丈夫。シノブ様は絶対助けてくださる」
「エディオラ姉さまの言う通りじゃ!」
アデレシアを励ましたのは、両隣に座るガルゴン王国の王女エディオラとカンビーニ王国の公女マリエッタだ。その隣のソファーには、エルフのメリーナやドワーフのティニヤとアウネもいる。
彼女達は、何れも肉親が戦いに赴いている。そこでシャルロットは、随時最新の情報が入るここに招いたのだ。
「アンナ、皆様に飲み物を。それに何か軽いものを……甘いものも良いですね」
「はい、大奥様!」
アルメルの命を受け、侍女のアンナやリゼットなどが動き出す。
今日は朝食も早々に済ませて集まったから、アルメルは摘めるものでもと考えたのだろう。それに随時入る戦場の知らせによる緊張を和らげるには、菓子や果物も良いと思ったのかもしれない。
「義姉さん、イヴァール兄さんは大丈夫よ」
「ええ。それにイヴァール殿にはガンド殿も付いています」
アウネは、夫を案ずるティニヤに声を掛けた。そしてメリーナも、アウネと同じく彼女を励ます。
前回の文には、イヴァールとカルロス、シルヴェリオの三人がアルマン王国の秘宝を操るジェリールに向かっていったことが記されていた。そのためティニヤは、不安に苛まれているのだ。
──父さま達ですから、何の心配も要りません!──
──そうですよ~! お父さま達は秘宝なんかに負けません~!──
憂いが晴れないティニヤに、岩竜ガンドの子オルムルと光翔虎バージの子フェイニーが呼びかける。実は、子竜やフェイニーもサロンに集っていたのだ。
オルムル達は猫くらいの大きさになってサロンの窓際で遊んでいたのだが、ティニヤの側にやってきた。どうやら、彼女を元気付けようと思ったらしい。
──私の父様も強いわよ!──
フェイニーに触発されたのか、既に成獣となったメイニーまで続く。ガンドはイヴァールを、バージはシルヴェリオを、そして彼女の父ダージはカルロスを乗せているのだ。
「ありがとうございます」
三頭の宣言に、ティニヤも安堵したようだ。彼女の顔には明るさが戻っている。
「……これは?」
笑顔となったティニヤに視線が集まる中、アルメルだけは他所を向いていた。彼女は、自身の通信筒を手に取っていたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「お婆さま、どこからでしょう?」
ミュリエルは、訝しげな顔で祖母に訊ねた。
戦場からの知らせは、後方支援の副将であるテオドールかベルレアン伯爵コルネーユから来る。したがって、今までもセレスティーヌかシャルロットに送られていたのだ。
「貴女の母からです。……シャルロット様、カトリーヌ様が産気づきました。娘が記した通りなら、まだ軽いようですが……」
手紙を読み終えたアルメルは、ミュリエルからシャルロットへと顔を向けた。アルメルに届いた知らせは、ベルレアン伯爵領の領都セリュジエールにいるブリジットが送ったものだったのだ。
カトリーヌの出産は五月下旬だと予想されていたが、今日は5月11日だ。したがって少々早いが、充分ありえる範囲であった。地球の定義では出産予定日の三週間前から二週間後までが正期産とされているし、この星でも大きな差はないからだ。
「母上が!?」
流石のシャルロットも、これには驚いたらしい。彼女はそれまでの落ち着いた様子から一変し、大きな声を上げていた。
「お爺さまとお父さまは戦場ですし……お婆さま?」
ミュリエルは、不安げな顔で祖母を見つめていた。
現在、ベルレアン伯爵家の者でセリュジエールにいるのはコルネーユの夫人達だけだ。ミュリエル達の大叔父である先代ビューレル子爵とその妻もセリュジエールにいるが、近しい者はそれだけである。
そんな状況では、カトリーヌも心細いのではないだろうか。ミュリエルは、そう思ったのだろう。
「私が行きます。シャルロット様、よろしいでしょうか?」
アルメルは、既に立ち上がっていた。彼女は、まずは自身がセリュジエールに赴き状況を確かめようと思ったのだろう。
「アルメル殿……お願いします」
シャルロットもソファーから離れていた。そして彼女は、暫しの間を置いた後、アルメルへと深く頭を下げた。
シャルロットの顔は僅かに翳っている。彼女も、出来れば母の下に駆けつけたいのだろう。
しかし、今のシャルロットはシノブから留守を預かる身だ。しかもエウレア地方の運命を左右する大戦である。
それに、カトリーヌは私事を優先することを嫌う。その彼女がベルレアン伯爵継嗣であるシャルロットに期待するのは、己を見舞うことではないだろう。
「お顔を上げてください。……ミュリエル、後は頼みましたよ」
アルメルは、シャルロットから隣に立つ孫へと顔を向ける。
ミュリエルは、次代のフライユ伯爵の母となる。彼女も、やはり私事で動くわけにはいかない。アルメルの短い言葉にはそんな思いが宿っているようだ。
「はい、お婆さま!」
ミュリエルもそれを充分承知しているのだろう。彼女は祖母の言葉に真摯な声音で応える。
「大奥様、私もお供します。装置はカロルや治療院の者に任せておけば大丈夫ですし、時間が掛かるようなら一旦戻りますわ。
カトリーヌ様には王都への留学の際にお世話になりましたから……」
ルシールは王都に長らく留学し、治癒魔術や関連する魔道具製造術を学んだ。そしてカトリーヌは先王の娘で王都には知己も多い。そのためカトリーヌは、彼女の留学を様々な面で支援していたのだ。
「ルシール先生、私も行きます!」
ルシールに続いて名乗りを上げたのは、侍女のアンナである。
アンナはシャルロットがヴァルゲン砦に赴任している間、カトリーヌ付きの侍女として働いていた。それに彼女はルシールから治癒魔術を学ぶ身でもある。
「ルシール、アンナ……ありがとう」
シャルロットの青い瞳には煌めく輝きが宿っていた。彼女は、二人の申し出をとても心強く、そして嬉しく思ったのだろう。
「それでは行って参ります。シャルロット様、お気を楽に。ご承知と思いますが、出産は時間が掛かるものです。
ブリジットのときなど、丸一日以上かかりました。不謹慎ですが、戦に出る方が楽かもしれないと思いましたが……それでも時が来れば無事に赤子と会えるのです」
アルメルは、珍しく冗談めいた事を口にした。
もちろん出産は危険を伴うことであり、治癒術士がいても安心できるものではない。とはいえ、それは今のシャルロットに言うべきことではない。アルメルは、そう思ったのだろう。
そしてアルメルを含む三人は、落ち着いた笑みを浮かべつつサロンから歩み出て行った。そのためだろう、ソファーに戻るシャルロットの表情は、先刻までのものに戻っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「……シャルロット様でも驚かれることがあるのですね」
アデレシアは、意外そうな顔をしていた。彼女にとってシャルロットとは、普段は落ち着きに満ち火急のときは凛々しさを纏う、貴婦人の鑑にして戦乙女なのだろう。
「買い被りすぎです。戦場に出た夫を待つのは多少慣れましたが……落ち着いて見えるとしたら、そのためでしょう」
アデレシアの率直な賞賛のためだろう、シャルロットは、少しばかり頬を染めていた。
シャルロットは厳しい鍛錬と多くの経験により腕を上げ、精神的にも成長した。そのため彼女は、人前で心の揺れを見せることは少なくなった。とはいえ彼女も十八歳の若さである。外では身分や立場に相応しく振る舞っているものの、それは彼女の一面でしかない。
──シャルロットさんには、シノブさんがいますから!──
──そうですね! 『俺は絶対に帰ってくる。だから安心して待っていてくれ』というシノブさん、神さまみたいに力強かったです!──
──シャルロットさん、嬉しそうでした~!──
シャルロットの素顔を知るのは、夫や家族だけではなかった。オルムル、シュメイ、フェイニーが昨晩の一幕を披露する。
オルムル達はシノブの魔力を非常に好んでいる。とはいえシノブも日中は忙しいし、彼らも狩りや飛翔の練習がある。そこでオルムル達は主にシノブが休むときに魔力を得ているのだが、それ故シノブとシャルロットの寝室での出来事を知っているのだ。
当然ながら、ファーヴ、リタン、ラーカの三頭も居合わせているのだが、こちらは黙ったままだ。やはり、竜や光翔虎でも雌の方が女性の心理には共感するのだろうか。
「オルムル、シュメイ、フェイニー……」
シャルロットの顔は、ますます赤くなっていた。彼女はオルムル達に困惑気味の視線を向けているが、怒った様子は無い。
何しろ相手は一歳にもならない子供達だ。そのためシャルロットは、怒るに怒れないのかもしれない。
「……素敵です」
「シャルロット様、幸せそう」
「仲良きことは美しきかな、なのじゃ! 父上と母上も仲良しなのじゃ!」
幸い、招かれた者達が幻滅することは無かったようだ。アデレシア、エディオラ、マリエッタは、それぞれ温かなものを顔に浮かべている。
シャルロットと同じく夫を持つティニヤの顔には共感が宿り、アウネも憧憬の視線でシャルロットを見つめている。
「ここなら良いですけど……」
ミュリエルは、もう少しオルムル達に人間の風習を教えようと思ったのかもしれない。
サロンにいるのは女性ばかりで、しかも招いた者達はシャルロット達にとって友人のようなものだ。しかし、他所で同じようなことを言われたら困る。ミュリエルは、そう考えたのだろう。
「そうですわね……あっ!」
苦笑しつつ頷きかけたセレスティーヌだが、真顔となる。そして彼女は手にした小さな筒の蓋を開けた。
「……東軍が前進を止めないそうです! こちらも地上に軍を降ろすと書いてありますわ!」
セレスティーヌの言葉に、一同の顔から笑みが消える。それにオルムル達、竜や光翔虎達の雰囲気も変わったようだ。
「ジェリールとウェズリードは、どうして戦い続けるのでしょう……彼らが戦いを止めてくれたら、兵士達は……」
アデレシアが、悲しげな声を漏らした。そして声こそ出さないものの、集った者達の顔に深い陰が宿る。
生まれてくる命があれば、散るかもしれない命もある。新たな命の訪れを知っただけに、女性達は戦場での出来事を一層理不尽に感じたようだ。
「戦いを避けることは出来ません。戦場だけではなく、私達は戦い続けているのです。命を繋ぐために、他の命を糧としているのですから……。
ですが、無用な争いを減らすことは出来る筈です。そのためにシノブ達は頑張っているのですから……信じて待ちましょう。それが戦う者の力になります」
シャルロットの声は、静まり返ったサロンの隅々まで響いた。そしてシャルロットは、神殿でするように胸元で手を合わせ、目を閉じた。
祈りを捧げるシャルロットに、他の者も続く。
命を宿し育てる女性達の、敬虔で真摯な祈りだ。きっと彼女達が案ずる者達に届くだろう。日々の絆や送り出す言葉を通じ、彼女達の思いは戦う者達の心に宿っているからだ。
「シノブ……」
シャルロットの口から、微かな囁きが零れた。それは、両脇のミュリエルやセレスティーヌにも聞こえないであろう小さな小さな呟きであった。
だが、シャルロットの思いは空間すら越えてシノブに届くであろう。もし聞いた者がいたら、そう思ったに違いない、夫への愛情と信頼の篭もった温かな響きであった。
◆ ◆ ◆ ◆
アクフィルド平原には、巨大な水の柱に空から挑む者達の姿があった。時刻は朝の六時過ぎ、やはりシノブが異空間で戦っている最中だ。
十本近い巨大な水柱から、家ほどもある水の塊が西に向かって放たれる。それは、中央の水柱の上にいるジェリールが操る超常の術による攻撃だ。
水塊は遥か向こうの崖の上にいる西軍を狙ったものだが、そこまで届くことは無い。何故なら一頭の竜と二頭の光翔虎が、水塊を撃ち落としたからだ。しかし彼らに乗った三人の顔には、撃墜の喜びではなく焦燥に似たものが目立っていた。
「徐々に力が増している!?」
「ええ、間違いありません!」
平原の空にイヴァールとカンビーニ王国の王太子シルヴェリオの悔しげな声が響いた。少し離れた場所では、声こそ出さないものの、ガルゴン王国の王太子カルロスも眉を顰めている。
彼らは、岩竜ガンドと光翔虎のバージとダージの背に乗っている。ジェリールが撃ち出す水塊に対抗するのが彼らの役目だ。
現在ジェリールの率いる東軍の実働部隊は五千五百、対する西軍は三千五百だ。しかもシノブ達は、西軍から異神が憑依した王族達を異空間に連れ去った。そのため、ジェリールの秘宝による攻撃を止めないことには、東軍が西軍を蹂躙するだろう。
そこで、イヴァール達がジェリールの攻撃を防いでいるわけだ。
もっとも、これまで活躍しているのは主に竜や光翔虎である。竜がブレスで、光翔虎が風を操って水塊を撃ち落としているのだ。
ガンド達はジェリールへの接近を試み、近づいた際にはイヴァール達も自身の得物で攻撃する。とはいえ今のところ水塊を処理するのに忙しく、イヴァール達が攻撃できるほど迫ったのは僅かである。
「死にたくないという兵士達の思いがジェリールの力を増しているのでしょう!」
おそらく、カルロスの言葉は正しいのだろう。東軍が前に進むにつれ、ジェリールの放つ水塊は強化されていくようだ。
王家の秘宝の一つ『覇海の宝冠』は、慕う者の心を装着者の力に変える。そのため戦場に出た兵士達の高ぶる感情が、秘宝を使うジェリールの魔力を押し上げているのだろう。
「ならば、どうする! 奴らに呼びかけても通じないぞ!」
イヴァールは、憤然とした表情で叫び返した。
ドワーフ達を隷属させ武器を造らせたこと。同じく隷属させた王太子ロドリアムと彼の妻ポーレンスを使って王家の秘宝を得たこと。それらを始めとするジェリールの非道を、三人は東軍の兵士達に伝えた。
しかし兵士達の心は揺らがなかったようだ。戦の興奮に呑まれた兵士達には、生き残るために必要なこと以外、耳に入らないのだろう。
「この様子だと無理でしょうね……」
シルヴェリオも、兵士達の説得は諦めたようだ。
王都アルマックの人々を動かすのも、簡単ではなかった。隷属させられたドワーフ達や王太子夫妻の言葉があり、更に『隷属の首飾り』を示して、ようやく王都の人々は真実を受け入れ始めた。
そのことから考えると、彼ら三人の言葉だけで兵士達の心を動かすのは難しいだろう。
──我らが水塊を防ぐ。だから、前に詰めろ──
──水塊に対抗しながらでも、戦況を伝えることは出来ます──
イヴァール達に届いたのは、光翔虎のフォージとリーフの咆哮による伝達だ。彼らは姿消しの術を使ったままだが、どうやら近くにいるようだ。
彼らに加えパーフとシューフの四頭の光翔虎は、東西両軍の状況を戦場の北で待機しているアマノ同盟軍に知らせていた。しかし、異神達はシノブが連れ去ったため、手が空いたのだろう。
「頼む!」
「行きましょう!」
「ええ!」
イヴァール、シルヴェリオ、カルロスが叫ぶと同時に、彼らを乗せたガンドにバージ、ダージは物凄い勢いで前方に飛び出した。
向かうは、ジェリールがいる中央の水柱だ。当初より高さを遥かに増したそれは、天に挑もうとする覇王が立てた建造物のような威容すら感じられる。
しかしイヴァール達の顔に動揺はなく、それどころか喜びすら感じているようだ。これで、攻撃に専念できる。そんな声すら聞こえてきそうな楽しげな表情のまま、彼らは空高く聳える水の塔に迫っていった。
◆ ◆ ◆ ◆
同じころ、ジェリールの息子ウェズリードは、自軍を西へと動かしていた。彼は、平原の端の西軍に正攻法で当たることにしたようだ。
西軍が陣を構える崖の上に行く道は、西へと向かう街道一本だけである。そのため、通常なら直進するのは愚策だが、兵は東軍の方が圧倒的に多い。
それに、西軍は動きが鈍いようだ。彼らは、王族達の人を超えた力を頼りにしていたらしい。しかし王族達は行方不明となり、彼らを当てにすることは出来なくなった。
そもそも西軍は国王を旗印とした軍で、彼らの目指すところは国王による統治だ。しかし担ぐ神輿はシノブにより異空間に連れ去られた。これでは西軍が混乱するのも当然だろう。
西軍が反撃に出ないことから、ウェズリード達は敵の動揺を察したようで攻勢に出る。彼らはシノブが国王と第一王妃を連れ去ったのを見ているから、王達が消えた今こそ攻め時だと睨んだに違いない。
そして読みは当たったらしく、東軍は思いのほか容易に距離を詰めていく。しかし彼らは、新たな敵の登場に困惑することとなる。
「な、何だ!?」
「北か!?」
戦場に響き渡ったのは、何頭もの竜の咆哮であった。場所は東軍の側面、北に4kmほどの空域だ。
そこには鉄で覆われた巨大な五隻の船、先代ベルレアン伯爵アンリが率いるアマノ同盟軍の磐船が浮かんでいる。
「大陸の軍か!」
ウェズリードも、北へと顔を向けていた。彼は竜の叫びに動じた自身の乗馬を静めつつ、遠方の磐船を見上げている。
シノブ達が竜の運ぶ船で移動することは、アルマン島の者達の耳にも入っている。そのためウェズリードは、突然出現した軍が何者か迷うことは無かったようだ。
「ウェズリード様、どうされますか!?」
ウェズリードと並んで馬を進めていた軍人が、どう対応するかを問うた。
このカレッドロンという男は、更に隣のギャリパートと同様にジェリールが息子の補佐役として付けた腹心中の腹心である。どちらもウェズリードより十歳くらいは年上、つまり三十代前半のようだ。
「このまま西軍に当たる! 奴らは西の味方をするだろう、ならばその前に叩くしかない! 全軍、全速前進!」
ウェズリードは、迷うことなく言葉を返した。正確には、それしか選択肢が無いと言うべきか。
今までジェリールやウェズリードを非難していた大陸の諸国が、今更味方をする筈はない。であれば西軍の加勢だと考えて動くべきだろう。
そして空飛ぶ船に抗する術など自分達には存在しないから、混戦に持ち込むしかない。ウェズリードは、そう考えたのではないだろうか。
もはや、西からの攻撃を警戒しつつ進んでいる場合ではない。それを兵士達も悟ったのだろう、東軍は今までに倍する速度で進みだした。
「カレッドロン、まだか!?」
ウェズリードは、焦燥の滲む声音でカレッドロンに問いかけた。
「あと100mほど前進してください! そこなら崖の上まで充分届きます!」
カレッドロンは、ウェズリードより落ち着いているようだ。彼は、西軍との距離を正確に把握しているらしい。
東軍の先頭は、崖から1kmを切るところまで迫っていた。射撃における主力兵器は大型弩砲で、これらは1kmほどの飛距離を誇る。しかし相手は崖の上だから、もう少し前進するというのは正しい判断である。
ちなみに彼らは東軍の中央近くに位置している。先を進むのは槍を携えた騎兵で、そのすぐ後ろに大型弩砲を運ぶ牽き馬が続いている。その後ろが歩兵達だが、ウェズリード達がいるのは歩兵の直前である。
「この辺で良いでしょう!」
「全軍停止! 観測塔準備急げ! 騎士隊は第一から第四まで突撃、第五と第六は射撃隊を守護しろ!」
カレッドロンの進言を受け、ウェズリードが命令を発した。
東軍の攻撃が届くということは、西軍も攻撃できるということだ。現に、西から大型弩砲の矢が飛来し始める。どうやら、西軍も戦意を取り戻したらしい。
騎士隊は崖を登る道から突入するしかない。そこは街道とその周囲を切り崩しただけの一本道で、まともに当たっても矢衾の餌食になるだけだろう。
とはいえ、座していても空から現れた第三の敵にやられるだけだ。そこでウェズリードは、一か八かの賭けに出ることにしたようだ。
「射撃隊、斉射準備! 距離870、右4度から左3度まで、高さ11、急げ!」
観測塔とは、射撃隊に指示を出すためのものだ。彼らは崖の下だから、観測塔で敵陣の様子を掴んで攻撃の精度を上げるのだ。
どうやら観測塔の指揮官は、西軍が崖の少し後方に並べている大型弩砲に一撃を加えようと考えたらしい。観測塔から降ってきたのは、距離や高さは別にして横は幅を持たせた情報であった。
「斉射準備完了!」
「大型弩砲、斉射!」
よほど練度が高いのか、射撃隊は僅かな間に準備を終えていた。射撃隊の指揮官が手を振り下ろすと大量の矢が西へと飛んでいく。
◆ ◆ ◆ ◆
「矢戦を始めたか……」
「介入するしかありませんね」
不機嫌そうなアンリに応じたのは、息子のコルネーユだ。彼の顔にも、残念そうな曇りが浮かんでいる。
彼らは、既に戦場から1km半しか離れていない空域まで迫っていた。しかし、両軍とも攻撃の手を緩める様子は無い。
東軍はアマノ同盟軍を敵だと確信しているのだろう、決死の突撃を開始した。そして東軍が攻めてくる以上、西軍も応戦しないわけにはいかない。相手を減らさないことには、自軍が壊滅するからだ。
こうなると、どちらかが倒れるか退くまで戦いは終わらないだろう。
これが彼ら自身の意思で戦っているのなら、まだ救いがある。アルマン王国の人々が納得ずくで争っているのなら、単なる国内問題として放置すべきかもしれない。
しかし後ろ暗い手段で政権を奪取したジェリール達に騙された東軍に、旗印が異神に憑依された王族達と知らずに集まった西軍だ。操る者達はともかく罪も無い兵士達が戦場に散っていくのは、アンリやコルネーユではなくとも遣る瀬無い思いに駆られるだろう。
「アマノ号は前進、両軍に矢戦を挑む! 狙うは大型弩砲だ! 主砲発射準備! 弓兵隊も準備しろ!
輸送艦、ヘッグ艦は崖の上に! ベイリアル公爵を守りつつ西軍本陣と接触せよ! 残りはこのまま降下だ! 東軍を抑える!」
アンリの命は、竜達の思念を介して他の艦にも伝えられた。そのため僅かな間を置いたのみで、全艦が動き出す。
「右船体の主砲は西軍、左は東軍を狙え!」
「了解!」
コルネーユが叫ぶと、双胴船型のアマノ号の両船体の巨大な大型弩砲が旋回を始めた。操るのは、これらを製造したドワーフ達とメリエンヌ王国の射撃兵だ。
アマノ号の主砲、つまり三連装大型弩砲の射程は長い。それに上空からの攻撃だから、敵の矢を受けることなく両軍の大型弩砲を潰すことが可能だろう。
そして岩竜ヘッグが運ぶ輸送艦は、西に移動していく。彼らはベイリアル公爵を西軍の司令官ジールトン伯爵と接触させ、アマノ同盟軍との協調を呼びかける。国王達を旗印としていたジールトン伯爵達なら、彼らを救おうとしているシノブ達との協力する可能性は高い。
残りの炎竜ゴルン、ジルン、ザーフが運ぶ輸送艦は平原に着陸した。しかも、これらの船は宙で後部のハッチを開いている。そのため乗っていた騎兵や歩兵が着陸と同時に飛び出していく。
騎兵はメリエンヌ王国、カンビーニ王国、ガルゴン王国の三国の騎士に、それにドワーフ馬に乗ったドワーフの戦士達までいる。
「意外ですね」
三連装大型弩砲の矢が飛び始めたころ、コルネーユがアンリに語りかけた。彼は、父に意味ありげな微笑みを向けている。
それに、隣にいる王太子テオドールも、僅かに興味深げな表情となっていた。
「何がだ?」
アンリは、前を見つめたまま静かに応じる。どうも、彼は息子の意図を察しているらしく、髭に隠れた口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「父上なら、後は任せた、と言って飛び出していくかと思ったのですよ」
コルネーユの言葉に、テオドールや近くにいた者達が笑みを零した。どうやら、彼らもコルネーユと同じ事を考えていたようだ。
「どうせなら一番良いところで、と思っただけだ。この艦には、降下用の設備もあるからな。馬まで一緒に降ろせんのは残念だが、儂なら馬より速く走れるだろう」
アンリの答えは、本気かどうか量りかねるものであった。何故なら彼は、からかうような笑みを浮かべていたからだ。
「そんなことだと思っていました。まあ、そういう場面が来ないことを祈りますが……」
父の言葉に、コルネーユは肩を竦めつつ応じた。彼の仕草は、普段同様に落ち着いたものであった。そのためだろう、周囲の者達は大きな笑い声を立てていた。
コルネーユは知らない。自身の子供が、生まれようとしていることを。しかし彼なら知っていても、同じように平静な様子で戦いに挑むだろう。
もちろん、コルネーユが非情というわけではない。むしろ彼は、情愛深い父親であり領主であった。だが、それ故彼は冷静な指揮官であることを心がけるのだろう。
それは、子供達に明るい未来を届けるために。我が子に家臣の子、そして領民の子を守り育てるために。戦場に出た彼らの親兄弟を一人でも多く生き残らせるために。戦地でも周囲の心を和らげるコルネーユの姿には、守るために戦うという大いなる矛盾を乗り越えた男の強さが宿っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年5月15日17時の更新となります。